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聖霊の注ぎ出し

NO. 201

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1858年6月20日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった」。――使10:44


 聖書は神の《啓示》の書である。異教徒がめくら滅法に探し求めた神、また、理性が暗闇で手探りしている神は、ここ、天来の著者によって書かれた頁の中で、平明に私たちに啓示されている。そのため、人として知りうる限り多くのことを《神格》について理解したいと望む人は、ここでそれを学ぶことができる。少なくとも、故意に無知になろうとしたり、故意に強情になろうとしたりしない限りそうである。《三位一体》の教理は、特に聖書で教えられている。確かにその言葉そのものは出てこないが、《唯一の神》の神聖な三位格は何度となく、しきりに言及されている。そして、聖書は、私たちがみなキリスト教信仰のこの偉大な真理を受け入れ、信じるように、この上もなく入念な書き方をしている。御父は神であり、御子は神であり、御霊は神であり、それでいながら神は三人いるのではなく、ただおひとりなのである。そのおひとりおひとりは、まことの神よりのまことの神であるが、ひとりにして三つであり、かつ、三つにましてひとりなるお方こそ私たちの礼拝するエホバなのである。創造のみわざにおいて、聖書がいかに入念にこのことを私たちに請け合っているかにあなたは注目するであろう。そこでは、この神聖な三位格のすべてがご自分の分担を果たしておられる。「初めに、エホバが天と地を創造した」*[創1:1]。そして、別の箇所では神はこう云われたと告げられている。「われわれは……人を造ろう」*[創1:26]。――ひとりの位格ではなく、三者すべてが互いに相談しながら人類を造っておられる。私たちの知るところ、御父は土台を据え、天の蒼穹を支える堅い光の梁を固定された。だが、それと等しく確実なこととして私たちが知るところ、永遠のロゴスなるイエス・キリストは、初めに御父とともにおられ、「造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」[ヨハ1:2-3]。さらに、それと等しく確実なこととして、聖霊は《創造》に関与しておられた。というのも、こう告げられているからである。「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」[創1:2]。そして御霊は、その鳩のような翼をもって抱きかかえていたこの混沌の卵から、この素晴らしいもの、麗しい一円の世界をもたらされた。また、同じように《神格》の三位格が《救い》という問題にも関わっておられた証拠がある。私たちの知るところ、父なる神はその御子をお与えになった。膨大な証拠によれば、父なる神は世界の基の置かれる前からご自分の民を選ばれた。御父は救いの計画を編み出し、常にご自分の民の救いに対して惜しみなく、自ら進んで、また、快く同意を与えてこられた。救いにおいて御子が果たされた分担という点について云えば、これは万人に明白である。私たち人間のため、また、私たちの救いのため、御子は天から降って来られた。定命のからだに受肉された。十字架にかかり、死んで、葬られた。よみに下られた。神の右の座に着き、そこでも私たちのためにとりなしておられる[ロマ8:34]。聖霊についても、同等に確かな証拠がある。神の御霊は回心において働かれる。というのも、至る所で私たちは聖霊によって生まれたと云われているからである。常に宣言されるところ、人は上から生まれるのでない限り、神の国を見ることはできない。その一方で、キリスト教のあらゆる美徳と恵みは御霊の実と述べられている。なぜなら聖霊は、イエス・キリストがあらかじめその偉大な贖いにおいて私たちのため成し遂げられたことを、私たちの中で最初から最後まで行ない、実行なさるからである。それは父なる神が、救いを予定するその大いなる計画において私たちのために立案しておられたことでもある。

 さて、この聖霊のみわざにこそ、私は今朝、あなたの注意を特に向けたいと思う。私が、なぜそうするかという理由にも言及する方が良いかもしれない。それはこういうわけである。私たちは、ある遠い国の良い知らせについて絶えず清新な確証を受けている。それは、すでに神の多くの民の心を喜ばせてきた知らせである。米合衆国には、確かに大いなる覚醒が起こっている。正気を保っている生者のうち、それを否定できる者はいない。そこには、擬似的な興奮が幾分混じり合っているかもしれない。だが善が、永続的な善が成し遂げられてきたことは、理性を有するいかなる者にも否定できない。昨年の12月以来、二十五万人の人々が――すなわち、百万人の四分の一が――新生したと告白し、自分たちの信仰の告白を行ない、神の教会の様々に異なる部分に加入してきた。この働きは、今なお進展しつつある。むしろ、以前にまして急速な調子で進みつつある。そして、私がこの働きを純粋なものと信じる理由はこのことである。――キリストの聖なる《福音》の敵たちは、このことについて、この上もなく激怒している。悪魔が何かを怒鳴りつけているとき、そこには何らかの善があるものと確信して良い。悪魔は私たちが知っているような一部の犬とは似ていない。彼は、吠えるべきものがない限り決して吠えはしない。悪魔が怒号するとき、彼は自分の王国が危殆に瀕していることを恐れているのだと確信して良い。さて、米国におけるこの大いなる働きは、如実に御霊の注ぎ出しによって引き起こされている。というのも、いかなる単一の教役者も、この働きの主導者ではないからである。福音の教役者たちの全員がこのことにおいて協力してはいるが、彼らの中の誰かひとりが頭立っているということはない。神ご自身がご自分の万軍の指導者であられる。これは祈りへの希求によって始まった。神の民が祈り始めた。祈祷会への出席者が以前よりも多くなった。そして、かつては決して祈りのために取り分けられたこともないような時間に集会を持つことが提案された。こうした集会にも多くの出席者が集まった。そして今、フィラデルフィアの町では、週日の間は毎日正午に、三千人の人々がある場所で祈り合うため常に集まっている姿が見られるのである。実業人たちが、その勤務と働きのただ中で、機会を見つけてはそこに走り込んできて、一言祈りをささげては、自分の職務に帰っていくのである。そのように、すべての州を通じて、祈祷会が、人数的に大きいものも小さいものも催されているのである。そして、そこには本物の祈りがある。全く数えることもできないほどの罪人たちが祈祷会で立ち上がっては、自分のために祈ってくれるように神の民に要請してきた。このようにして、自分にキリストを求める願いがあることを世に対して公にしているのである。彼らのための祈りがなされる。そして教会が見てきたところ、神はまことに祈りをかなえてこられた。私の見いだすところ、ユニテリアン派の教役者たちは、しばらくの間これに何の注意も払わなかった。セオドア・パーカーは歯を剥いて唸り、口をきわめてこれを非難しているが、明らかに途方に暮れている。彼はこの神秘を理解できず、これに関しては、いわゆる豚に真珠の言葉通りにふるまっている。教会が眠り込んでおり、ごく僅かなことしかしていない間、このソッツィーニ主義者は自分の講壇に立っては、福音的キリスト教信仰と思われるものを何であれ鼻で笑う余裕があった。だが、1つの覚醒が起こっている今や、彼は眠りから覚めたばかりの者のように見える。彼は何かを見ているが、それが何かは分からない。キリスト教信仰の力は、まさにユニテリアン主義者を常に戸惑わせるだろうものである。というのも、彼はそれについてほとんど何も知らないからである。形ばかりのキリスト教信仰については彼はさほど目を白黒させはしない。ある程度まで自分でもそれを裏書きできるからである。だが、福音の超自然主義――神秘――奇蹟――力――宣教に伴う御霊の現われ[Iコリ2:4]は、こうした人々が悟りえないものであって、彼らは目を丸くして不思議がり、それから激怒に満たされるが、それでもこう告白せざるをえない。すなわち、そこには自分たちに理解できない何かがある、自分たちの哲学をはるかに越えた精神的現象がある、――自分たちのあらゆる科学をもってしても到達できず、自分たちのあらゆる理性をもってしても理解できないものがある、と。

 さて、もし私たちがこの国でも同じような効果をもたらしたければ、私たちが求めなくてはならない唯一のことは、聖霊の注ぎ出しである。そして私は思った。ことによると今朝、聖霊のみわざについて説教している途中に、この聖句が成就するかもしれない、と。――「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ」[Iサム2:30]。私の真摯な願いは、今朝、聖霊を知ることであり、もし御霊がそのお返しにご自分の教会を尊んでくださるとしたら、このお方に栄光が永遠にあらんことを。

 「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった」。第一のこととして、私が努めて解説したいのは、御霊の働きの方法である。。第二に、もし人々が回心する姿を見たければ、聖霊の影響力が絶対に必要だということである。それから第三のこととして私が示唆したいのは、天来の恵みの下にあって、私たちが、わが国の諸教会の上にも同じように御霊を降らせていただくための手段と方法のいくつかである。

 I. 第一のこととして、私が努めて説明したいのは、《聖霊の働きの方法》である。しかし、誤解のないように、あらかじめ云わせてほしい。私たちは御霊がなさることは説明できるが、どのようになさるかは、誰も知ったかぶりしてはならない。聖霊のみわざは、キリスト教の信仰の中でも格別な神秘である。他のほぼすべてのことは平明だが、これは測り知れない奥義であり続けるに違いなく、それを私たちが詮索するのは間違いであろう。風がどこで生まれるか誰が知ろう? 「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」[ヨハ3:8]。聖書では、自然界にあるいくつかの大きな秘密が、御霊の隠れた働きに並行するものとして言及されている。子どもたちの出産は、並行する驚異として例にあげられている。というのも、私たちはその神秘を知っていないからである。それゆえ、キリスト・イエスにある新生と新しい創造という、はるかに大きな秘密と、隠された神秘とを私たちが理解できる期待など、いかに乏しく寡少なものとすべきだろうか? しかし、誰もこのことにつまづかないようにするがいい。というのも、それらは自然界における神秘だからである。この世で最高の賢者であれば、自然界には自分がもぐり込むことのできない深みがあり、自分が舞い上がることのできない高みがあるとあなたに告げるであろう。被造世界の固い結び目を解きほぐしたふりをする人は間違いを犯している。彼は、自分の粗雑な無知によってその結び目を断ち切ったかもしれない。だが、その愚かな推測によって、その結び目そのものは、人の解明する力を越えたものとして残らざるをえない。神がその秘密を説明されるまではそうである。世にはなおも、人々が知ろうとしても知ることのできない驚嘆すべき事がらが多々ある。彼らは、ことによると、その多くを発見してきたかもしれない。だが、御霊がどのようにお働きになるかは、誰にも分からない。しかし今、私は聖霊が何を行なわれるかを説明したいと思う。それがいかにして行なわれるかを告げることができなくとも関係ない。私は、回心における聖霊のみわざを二重のものとして受けとっている。まずそれは、人がすでに有している種々の力を呼び覚ますことである。二番目に、それは、人が決して有したことのなかった種々の力を植えつけることである。

 新生という大いなるみわざにおいて、聖霊はまず第一に、種々の精神的力を呼び覚ます。というのも、覚えておくべきことに、聖霊は決して誰にも、新しい精神的な力は何もお与えにならないからである。例えば、理性を取り上げてみるがいい。――聖霊は人々に理性をお与えにはならない。彼らは回心前にも理性を有しているからである。聖霊が行なわれるのは、私たちの理性に、正しい道理を教えることである。――私たちの理性を正しい軌道に据えてから、それに善悪の識別という大切な目的を果たさせるようにするのである。聖霊は人に意志を与えはしない。というのも、前から人には意志があるからである。だが御霊は、サタンに隷属していたその意志を自由にし、神に仕えさせてくださる。聖霊はいかなる人にも思考力だの、信じる能力だのを与えはしない。――というのも、人は、精神的行為に関わる限り、信ずる力も、考える力も持ち合わせているからである。だが御霊は、すでにそこにある信仰心に正しいものを信ずる傾向を与え、思考力に正しいしかたで考える性質をお与えになる。そのようにして私たちが、変則的な考えをする代わりに、神が私たちに望まれる通りの考え方をし始めるようにし、私たちの精神が神の啓示された真理の歩みに沿って歩みたいと願うようにするのである。今朝、この場には、政治的な事がらに関しては透徹した知性のある人がいるかもしれない。――だが、その人の知性は霊的な事がらに関しては暗くなっている[エペ4:18]。――その人は、キリストのご人格に何の美しさも見てとらない。――聖潔の道に何の望ましいものも見てとらない。――その人は悪を選び、善を捨てる。さて、聖霊はこの人に新しい知性を与えはしない。だが、その人の古い知性をきよめて、その人が異なる物事を識別し、「はかない罪の楽しみ」を受け[ヘブ11:25]て、「重い永遠の栄光」[IIコリ4:17]をみすみす失うのはつまらないことだと識別させるようにする。また、この場には、キリスト教信仰に対してひどい敵対心をいだいていて、神のもとに来ることも、神のみこころを行なうこともしようとしない人もいるかもしれない。私たちには、その人を説得して、思い替えさせて神に立ち返らせることができない。聖霊はその人の中に新しい意志を作るのではなく、その古い意志を変えて、悪を行ないたいと思う代わりに、正しいことを行ないたいと望ませるであろう。――キリストによって救っていただきたいと思わせるであろう。――御霊はその人が「御力の日に喜んで仕える」*[詩110:3]ようになさるであろう。覚えておくがいい。人間の中にあるいかなる力といえども、聖霊が引き上げることのできないほど堕落したものはない。ある人がいかに汚れ果てているとしても、一瞬にして、御霊の奇蹟的な力によって、その人のあらゆる精神機能はきよめられ、浄化されうる。無思慮な理性は正しく判断できるようにされ、頑固でかたくなな意志は神の戒めの道を喜んで走るようにされることがありえる。悪しき、また、堕落した情愛は、一瞬のうちに神に立ち返らされ、悪徳の汚れを帯びた種々の古い欲望は、天的な憧憬によって取って代わられるであろう。

 精神に及ばされる御霊のみわざは、その再建であり、その再成形である。御霊は、新しい材料を精神に持って来はしない。――御霊が新しい構造物を据えるのは人間の別の部分においてである。――むしろ御霊は、堕落して失調した精神を、その適正なかたちにされるのである。御霊は、倒れていた幾多の柱を建て直し、地に崩れ落ちていた宮殿を建て上げなさる。これが、人の精神に対して聖霊が行なわれる第一のみわざである。

 これに加えて、聖霊は人々に、彼らが決して以前は有してなかった種々の力をお与えになる。聖書によれば、私の信ずるところ、人は三重のしかたで構成されている。人にはからだがある。聖霊によって、そのからだは主の宮とされる。人には精神がある。聖霊によって、その精神は宮の中の祭壇のようにされる。しかし、人は、生まれながらにはそれ以上の何者でもない。人は単なるからだと魂にすぎない。御霊がおいでになるとき、御霊は人に三番目の高貴な原理、いわゆる霊を吹き込まれる。使徒は、人として人を、「霊、たましい、からだ」[Iテサ5:23]、と述べている。さて、もしあなたが、あらゆる精神的な著述家を徹底して調べれば、あなたは彼らがみな、たった2つの部分しかないと断言していることに気づくであろう。――からだと、精神である。そして、彼らは全く正しい。彼らが扱っているのは、新生していない人だからである。だが、新生した人のうちには、三番目の原理がある。それは死んだ動物的な物質よりも精神の方がすぐれているのと同じくらい、単なる精神よりもずっとすぐれた原理である。この原理によってこそ、人は愛をもって信ずる。あるいは、むしろ、この原理に突き動かされてこそ、精神は、その行為を行なわされる。この原理こそ、精神に作用しては、精神がからだを利用するのと同じように精神を利用するのである。歩きたいと欲してから私が両足を動かすとき、その足を強正しているのは私の精神である。そして、そのように私の《霊》は、私が祈りたいと欲するとき、私の精神を強制して、祈りの思想を考えさせ、また、もし私が賛美したいと欲するとしたら、私の魂をも強制して、賛美の思想を考えさせ、自らを神へと持ち上げさせる。魂のないからだが死んだものであるように、《霊》のない魂も死んでいる。そして、御霊の1つの働きは、死んだ魂を生かすために、それに燃える《霊》を吹き込むことなのである。こう書かれている通りである。「最初の人アダムは生きた魂となったが、第二のアダムは、生かす御霊となりました」*[Iコリ15:45]。――また、「私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです」[Iコリ15:49]。すなわち、私たちは、もし回心したければ、自分の内側に、生かす霊を持たなくてはならず、それは聖霊なる神によって私たちの中に入れられるのである。もう一度云うが、霊には精神が決して有していない種々の力がある。それには、キリストと交わる力がある。これは、ある程度までは精神の行為だが、御霊を持たない人がそれを成し遂げるというのは、歩行という観念を示唆する魂の欠けた人が歩くという行為を成し遂げることがあるようなものである。御霊が交わりという思想を示唆し、それに精神が従い、それを実行するのである。否。思うに、霊は時として精神を全く放っておくことがある。そのとき私たちは、地上のあらゆることを忘れ、考えることも、論じることも、識別することも、比較考量することも、意志することもほとんどやめてしまう。私たちの魂は、民の高貴な人の車[雅6:12]のようで、あれよあれよという間に、すみやかに前へと引かれていく。私たちはイエスの御胸にもたれ、天来の狂詩曲において、また、天界の恍惚感のうちに、ほむべき者の国の果実を楽しみ、約束の国に入る前からエシュコル[民13:23]の房を摘み取るのである。

 私は、こうした2つの点をあなたの前に明確にしてきたことと思う。御霊のみわざは、まず、すでに人が所有しているが、眠っていて、失調している種々の力を覚醒することからなっており、次のこととして、人が以前は持っていなかった種々の力を人に入れることからなっている。そして、このことを、いかに素朴な精神にとっても単純なものとするために、かりに人がある機械のようなものだと考えさせてほしい。その中枢機構は全く狂っており、それぞれの歯は噛み合っておらず、歯車は規則正しく回っておらず、連接棒は動作しようとせず、秩序は失せている。さて、御霊の最初のみわざは、正しい心棒を正しい歯車に嵌め込み、その後で歯車と歯車を組み合わせ、各々が作動し合うようにすることである。しかし、それがみわざのすべてではない。次のことは、火と蒸気を注入して、こうした物事が仕事を始めるようにすることである。御霊は、新しい歯車を持ち込みはしない。古い歯車を調整し、それから全体を動かすことのできる原動力を注ぎ込まれるのである。最初に御霊は私たちの種々の精神力を適正な秩序と状態にし、それから生きた活力ある霊を入れて、こうしたすべてが聖なる意志と神の律法に従って動くようにするのである。

 しかし、よく聞くがいい。これが聖霊の行なわれるすべてではない。というのも、もし御霊がこうしたことを行ない、それから私たちを離れて行かれるとしたら、私たちの中の誰も天国に行くことはないからである。たといあなたがたの中の誰かが、城壁越しに御使いの歌を聴けるほど天国に近くにいるとしても、――たといあなたが真珠の門の内側をほとんど眺められるほどであったとしても、聖霊が最後の一歩であなたを助けてくださらなかったとしたら、あなたは決してそこに入れないであろう。そのみわざのすべては、御霊の天来の働きを通してなされる。こういうわけで、御霊こそその中枢機構を動かし続け、私たちの原罪ゆえに自然と発生する汚れを取り除いてくださるお方なのである。こうした汚れが、この機械の中に落ち込めば、その調子を狂わせてしまう。御霊はそれを取り除き、この機械が常に損傷することなく動き続け、最後には人を汚れの場所からほむべき者の国へと除き去ってくださる。そのとき人は、その《造り主》の鋳型から出て来たときのように完璧な被造物となっているであろう。

 そして、私はこの点から離れる前に、こう云わなくてはならない。私が言及してきたことの前半部分すべては、瞬間的になされる。人が神に回心させられるとき、それは一瞬のうちになされる。新生は瞬間的なみわざである。神への回心、新生の実は、私たちの生涯すべてを占めるが、新生そのものは瞬時にもたらされる。ある人は神を憎んでいる。聖霊はその人に神を愛させる。ある人はキリストに反抗し、その福音を憎み、それを理解することも、受け入れようともしない。聖霊がやって来ると、その人の暗くなった知性に光を入れ、目隠しされたその人の意志から鎖を外し、その人の良心に自由を与え、その人の死んだ魂にいのちを与えてくださる。それで良心の声が聞こえ、その人はキリスト・イエスにあって新しく造られた者となる。そして、こうしたすべては、よく聞くがいい。聖霊なる神の瞬間的で超自然的な影響力によってなされるのである。御霊は、人々の子らの間で思い通りにお働きになるりのである。

 II. このように聖霊のみわざの方法について詳しく語った後で、私はいま第二の点に目を向けることにしたい。《回心のためには、御霊のみわざが絶対に必要である》。本日の聖句では、こう告げられている。「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった」。愛する方々。聖霊はまずペテロに下った。さもなければ、彼の話を聞いていた人々に下ったはずがなかった。魂に救われてほしければ、まず説教者自身が、御霊の影響の下にある必要がある。私が常に自分の祈りとしていること、それは私が礼拝式のいかに取るに足らない、いかに重要さの小さな部分においても御霊に導かれることである。というのも、一個の魂の救いが賛美歌の朗読にかかっているか、聖書のある一章の選択にかかっているかは、誰にも分からないからである。私たちの教会に最近ふたりの人が加わったが、その告白するところ、彼らが回心したのは、単に私がこの賛美歌の歌詞を朗読したことによってであったという。

   「わが魂を 愛するイエスよ」。

彼らは、その賛美歌の他の何も覚えていなかったが、この言葉がその思いにきわめて深い印象を残したため、それをその後何日間も繰り返して口にせずにはいられなかった。それから、この考えが生じた。「私はイエスを愛しているだろうか?」 イエスが自分たちの魂を愛しておられるのに、自分たちがイエスを愛さないのは、何と云い知れない忘恩であることか。そう彼らは思ったのである。さて私の信ずるところ、聖霊が私を導いてその賛美歌を朗読させてくださったのである。そして、多くの人々は、説教者が口にした、はっとさせられるような云い回しによって回心させられてきた。しかし、なぜその説教者はそのような云い回しを口にしたのだろうか? ただ聖霊によってそう導かれたにすぎない。このことは確信しておくがいい。愛する方々。説教の中で何らかの部分が自分の心にとって祝福されたものとなるとき、教役者がそれを語ったのは、彼がそう云うように自分の《主人》から命令を受けたためなのである。私がきょう語っている説教は、金曜日にも語って、そのとき大いに用いられた説教かもしれない。だが、今はそれによっていかなる善も生じないかもしれない。なぜなら、それがきょうは聖霊のお伝えになる説教ではないことがありえるからである。しかし、もしも私が、語る主題を選ぶ際に心から真摯に神の導きを求め、また、そのみことばの説教において神が私の上にとどまっておられるとしたら、恐れることは何もない。それは、あなたの間近な必要にうってつけのものとなる。必ずや聖霊は、あなたの説教者たちの上にとどまられる。たとい人が、この世で最高の賢者たちの学識のすべてを有し、デモステネスやキケロのごとき人々の雄弁を有しているとしても、みことばがあなたにとって祝福されたものとなるためには、何よりもまず神の御霊が主題の選択において、また、それを論ずることにおいて教役者の精神を導かなくてはならない。

 しかし、たといペテロその人が御霊の御手の下にあったとしても、私たちの話を聞く者たちの上に神の御霊が下らなかったとしたら、何にもならないであろう。そして、私がいま努めて示したいと思うのは、人々の回心においては御霊のみわざが絶対に必要だということである。

 そのみわざがいかなる種類のものかを思い出すがいい。そうすれば、他のいかなる手段も全くの論外であることが見てとれるであろう。人々が物理的手段によって回心することがありえないことは火を見るよりも明らかである。ローマ教会は、軍隊を手段として人々を回心させることができると考えた。それでローマ教会は諸国を侵略し、戦争と流血をちらつかせては、悔い改めとカトリック信仰を受け入れることとを迫った。しかしながら、それはごく僅かな効果しか上げず、人々は自分たちの信仰を捨てるくらいなら喜んで死のうとした。それゆえ、ローマ教会は、あのようにご立派な事を試みたのである。――火刑柱に、拷問台に、斧に、剣に、炎といった事がらによって、人々を回心させようと希望したのである。さて、あなたは、鶴嘴で自分の時計を巻こうとした人の話を聞いたことがあるであろう。だがその人でさえ、物質を通して精神に触れようと考えた人にくらべれば、英知のきわみを有している。あなたが発明しようと志すいかなる機械類も、精神に触れることはできない。まずは御使いの翼を藤蔓でくくったり、鉄鎖で智天使を束縛したりできるかどうか考えてみるがいい。その後で、物理的手段によって人々の精神に干渉することを考えることである。何と、そうした事がらは何にもならない。効き目がない。いまだかつて、いかなる国王のいかなる軍隊も、あるいは、いかなる鎧をまとった戦士たちが、いかなる弾薬をもって攻め立てようと、決して人の精神に触れることはできなかった。人の精神とは、物理的手段によっては到達できない難攻不落の城塞なのである。

 また、人は道徳的な議論によって回心させることもできない。「よろしい」、とある人は云うであろう。「それはできると思いますよ。もし教役者が真剣に説教するとしたら、人々を説得して回心させることでしょう」。あゝ! 愛する方々。あなたにもっと分別があれば、そうは云わなかったであろう。かつてはメランヒトンもそう考えたが、知っての通りそれを試した後で彼はこう云った。「老いたアダムは、若いメランヒトンには手強すぎる」。いかなる説教者も、自分の駆使する議論で人を回心させることができると考えるとしたら、同じことに気づくであろう。いかなる論理をもってすればクシュ人を説得してその皮膚の色を変えさせことができるだろうか? いかなる論議をもってすれば豹に自分の斑点を捨てさせることができるだろうか? 悪を行ないつけた人に善を行なうことを学ばせることも、それと全く同じである。しかし、もしクシュ人の皮膚が変わるとしたら、それは超自然的な過程によるに違いない。豹の斑点が取り除かれるとしたら、豹を造られたお方がそうしなくてはならない。人の心もそれと全く同じである。もし罪が ab extra[外部から]の、外的なものだったとしたら、私たちも人にそれを変えさせることできたであろう。例えば、あなたは人が酔っ払ったり、悪態をついたりすることをやめさせることができるであろう。これらはその人の性質の一部ではないからである。――その人は、そうした悪徳を、もとからあった自分の堕落性にくっつけていたのである。しかし、心にある隠れた悪はいかなる道徳的な説得をも越えている。あえて云えば、人は自ら縊死するだけの理屈は有しているであろうが、確かにいかなる議論も、人に自分の罪をくびり殺させ、自分を義とする思いをくびり殺させ、自ら十字架の足元に来させてへりくだらせることはないであろう。というのも、キリストを信ずる信仰は、人のあらゆる性向に、あまりにも逆行しているため、それに近づくことは流れに逆らって泳ぐようなものなのである。人の意志と人の願望という流れは、イエス・キリストを信ずる信仰とは正反対だからである。もしあなたがその証拠を欲するというなら、指一本動かすだけで手に入る。この場内にいる何千人もの人々は、それを証明するために立ち上がるであろう。というのも、彼らは云うだろうからである。「私は、自分の経験によって、それを知りました。私は、誰にも負けないほどキリスト教信仰を憎んでいました。キリストを憎み、その民を蔑んでいました。それで、今この日に至るまで、いかにして私が今の私になったのかは、ただ神のみわざという以外に考えられません」。私は、キリストの教会に加入したいという意向をもってやって来たある人の頬に涙が流れ落ちるのを見たことがある。彼は云った。「先生。私は、自分がどうしてきょうここにいるのか不思議でなりません。もし誰かが一年前に、私がいま考えているようなことを私が考え、いま感じているようなことを感じるようになるだろうと告げたなら、私はその人を、やくたいもない、うすら馬鹿と云ったことでしょう。私は絶対に、あんな勿体ぶったお題目を唱えるメソジストのひとりにはなるものかと云っていたものです。私は、自分の日曜を楽しみのために費やすのを好んでいましたし、なぜ神の家に閉じこもって誰かの話を聞かなくてはならないか全く分かりませんでした。祈りをささげるだと? とんでもない、祈ったりするものか。全世界をつかさどる最善の摂理は優しい二本の腕であり、私の持っているものの面倒を見てくれるよ。そう私は云っていました。もし誰かが私にキリスト教信仰のことを告げると、何と、私は相手の面前で扉をぴしゃりと閉め、さっさと出て行けと云うのでした。ですが、そのとき私が愛していた物事を今の私は憎んでおり、そのとき憎んでいたものを今は愛しているのです私の中で生み出された変化がいかに徹底的なものであるかは、何をもってしようと、何と云おうと、決して云い尽くせません。これは神のみわざであったに違いありません。私が作り出したはずがありません。それは確信しています。私よりも偉大な誰かでなければ、このように私の心を変えることができたはずがありません」。この2つのことは、私たちが自然を越えた何かを必要としている証拠だと思う。物理的手段がそれを行なうものでない以上、また、単なる道徳的な説得が決してそれを成し遂げない以上、そこには聖霊の絶対的な必要があるに違いない。

 しかしまた、ほんの少しでも、そのみわざがいかなるものであるかを考えるとしたら、たちどころにあなたは、神ならざる何者もこれを成し遂げることはできないと分かるであろう。聖書では、回心のことをしばしば新しい創造と語る。もしあなたが自分自身を創造することについて語るとしたら、私はまず、あなたが一匹の蝿を創造すべきではないかと感じざるをえない。ぶよを創造するがいい。砂の一粒でも創造してみるがいい。それを創造した後でなら、新しい心を創造することについて語っても良い。その両方とも不可能である。創造は神のみわざだからである。しかしそれでも、たといあなたがちりの一粒でも創造できたとしても、あるいは、1つの世界すら創造できたとしても、それは半分も大きな奇蹟ではないであろう。というのも、あなたはまず、自分で自分を創造したものを探さなくてはならないからである。そのようなものがありえるだろうか? かりにあなたが全く実在していなかったとしたら、いかにしてあなたはあなた自身を創造できただろうか? 無が何かを生み出すことはできない。さて、いかにして人は自分自身を再創造できるだろうか? 人は自分自身を新しい状態に創造することができない。そうした状態において、まず何らかの実在を有していない限り、また、まだ存在していないものである限りはできない。

 それからまた、この創造のみわざは、復活のようであると云われている。「私たちは死者の中から生かされた者です」*[ロマ6:13]。さて、墓の中にいる死者は自らをよみがえらせることができるだろうか。自分は魂を回心させることができると思う教役者たちは、行って死体を復活させてみるがいい。行って、共同墓地の1つに立ち、墓をあばき、その墓穴を大きく開くよう命ずるがいい。そして、かつてそこに葬られた人々が目を覚ますように道を開けてやるがいい。彼がいくら説教しても無駄であろう。しかし、たとい彼にそうすることができたとしても、それは奇蹟ではない。奇蹟とは、死者が自らを生き返らせることである。生命のない屍が自分の胸の中に再びいのちの火花を灯すことである。もしこのみわざが復活であり、創造だとしたら、これは人力を越えたことに違いないと思われないだろうか? このことを人の中にもたらすものは、ほかならぬ神ご自身でなくてはならない。

 また、もう1つだけ考えて、この点をしめくくることにしたい。愛する方々。たとい人に自分を救うことが可能であったとしても、人がいかにそれを毛嫌いしているかを思い起こしてほしい。もし私たちが自分の話を聞いている人々全員をその気にさせることができたとしたら、戦いは完了するであろう。「よろしい」、とある人は云うであろう。「もし私が救われる気になるとしたら、私は救われることができるではないだろうか?」 確かにそうである。だが難しいのは、私たちが人々をその気にさせられないということなのである。それゆえ、彼らの意志を強制する何かがなくてはならないことが分かる。彼らを御力の日に喜んで仕えさせる*[詩110:3]ためには、彼らの持ち合わせていない何らかの影響力が彼らの上に及ぼされなくてはならない。そして、これこそキリスト教信仰の栄光なのである。キリスト教信仰はその腹中に、自らを伝播させる力を有している。私たちは、まずあなたにその気になってくれと頼みはしない。私たちはやって来て、あなたのこの知らせを告げる。そして、私たちは信ずるのである。私たちとともに働かれる神の御霊があなたをその気にさせてくださるであろう、と。もしキリスト教信仰の進展が、人類の自発的な同意にかかっていたとしたら、それは一吋たりとも決して進みはしないであろう。だが、キリスト教信仰の内側には全能の影響力があって、人々に強いてそれを信じさせるがゆえに、それは勝利をおさめるのであり、おさめざるをえず、ついには「栄光(さかえ)の海のごと 岸から岸へと広まる」のである。

 III. さて、しめくくりとして、次のことについて1つか2つ考えを提唱したいと思う。《聖霊に降っていただくためには何をしなくてはならないだろうか》。これは確実なことだが、愛する方々。もし聖霊がお望みになれば、この場所にいるあらゆる老若男女がいま回心するであろう。もし神が、万物の《主権的な審き主》が、今ご自分の御霊を遣わしてくださるとしたら、この百万都市の全住民がただちに生ける神へと立ち返らされることができよう。何の媒介的手段も、何の説教者も、何の書物も、他の何もなしに、神は人々を回心させる御力を有しておられる。私たちの知っているある人々は、自分の仕事をしていてキリスト教のことなど全く考えもしていなたかったときに、ある考えがその心に注入され、その考えが多産な母となって一千もの瞑想が生み出され、そうした瞑想を通して彼らはキリストへと導かれてきた。教役者の助けを借りなくとも、聖霊はこのように働いてこられたし、今日も御霊は制約を受けてはおられない。ある人々は、大きな不信心をかかえ、キリストの十字架に頑強に反抗しているかもしれない。だが、彼らの同意を求めることなく、聖霊はこの強い人を引き倒し、この屈強な人をひれ伏させることがおできになる。というのも、《全能の神》について語るとき、このお方にとって難しすぎることは何1つないからである。しかし、愛する方々。神は媒介的手段に大きな誉れを授けてこられた。神は、望めばそれなしに働くこともできたが、そうはなさらなかった。しかしながら、私があなたに示したい第一の考えとはこのことである。すなわち、もしあなたが、わが国のただ中で聖霊に力を発揮していただきたければ、まず第一に御霊に目を向けなくてはならず、媒介的手段に目を向けてはならない。イエス・キリストが説教されたとき、主の下で回心した者はほんの僅かしかいなかった。その理由は、聖霊がおびただしく注がれてはいなかったからである。主はご自分では聖霊を無限に有しておられた[ヨハ3:34]。だが、他の者らの上には、聖霊はまだ注がれていなかった。イエス・キリストは云われた。彼らは、「それよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが聖霊を遣わすために、父のもとに行くからです」*[ヨハ14:12]。また、思い起こすがいい。キリストの伝道活動の下で回心したごく僅かな者たちは、キリストによって回心させられたのではなく、キリストの上にそのときとどまっておられた聖霊によって回心したのである。ナザレのイエスは、聖霊の油注ぎを受けていた。さて、もしもイエス・キリストが――私たちの信仰の偉大な創始者が――聖霊の油注ぎを受ける必要があったとしたら、いかにいやまして私たちの教役者たちはその必要があることだろうか? また、もし神が常に器であるご自分の御子と、作用因である聖霊との区別をつけようとしておられるとしたら、いかにいやまして私たちは、あわれでちっぽけな人間たちと聖霊との間の区別をつけることに注意深くなくてはならないことだろうか? あなたは二度と、「何人もの人々が、誰それによって回心させられたのだ」などと云ってはならない。そうではない。もし回心させられたとしたら、彼らは人によって回心させられたのではない。媒介的手段は用いられるべきだが、その誉れは御霊に与えられるべきである。もはや人に迷信的な畏敬を注いではならない。もはや神があなたの計画や、あなたの種々の機関に縛られていると考えてはならない。市内伝道師たちがこれだけいれば、これこれの善が施されるだろうと想像してはならない。「これだけの多くの説教者がいて、これだけ多くの説教があったので、これだけ多くの魂を救われたのだ」、と云ってはならない。「これだけ多くの聖書があり、これだけ多くの小冊子があったので、これだけ多くの善が施されたのだ」、と云ってはならない。そうではない。こうしたものは利用するがいい。だが、覚えておかなくてはならないのは、それに正比例して祝福がやって来るのではない、ということである。むしろ、大きな聖霊の働きがあるときにこそ、多くの魂が取り入れられるのである。

 さて今、もう1つのことを考えよう。もし私たちが御霊を得たければ、愛する方々。私たちはひとりひとりが御霊に誉れを与えようとしなくてはならない。一部の会堂に入ると、聖霊のおられることなど決して知ることができない。マグダラのマリヤは昔こう云った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです」[ヨハ20:13]。そして、キリスト者もしばしばそう云って良い。というのも、主については集会の終わりに至るまで一言も語られず、最後の祝祷がないとしたら、唯一の神に三位格があることなどまるで分からないからである。わが国の諸教会が聖霊に誉れを帰すまで、私たちは決して御霊が私たちのただ中であふれるほどに現われることを見ないはずである。教役者たちは、説教する前には常に、自分が聖霊を頼みとしていることを告白するがいい。自分の原稿など焼き捨てて、聖霊により頼むがいい。たとい御霊が彼を助けにやって来ないとしても、それでも動揺することなく、信徒たちは帰宅して祈るがいい。御霊が次の日曜日には彼を助けてくださるよう祈るがいい。

 またあなたは、あなたのあらゆる機関を用いることにおいても、常に御霊に誉れを与えているだろうか? 私たちはしばしば、キリスト教的な諸集会を祈りもなしに始める。それは絶対に間違っている。私たちは御霊に誉れを与えなくてはならない。御霊を第一に置くまで、私たちは決して自分たちが戴くことになる冠を造ることはない。御霊は数々の勝利を得られるが、その誉れを得られるであろう。だがもし私たちが御霊にその誉れを与えないとしたら、御霊は決して私たちに特権も成功もお与えにならないであろう。そして、何にもまして良いことに、もしあなたが聖霊を得たければ、私たちは御霊を求めて熱心に祈るために集まろう。覚えておくがいい。聖霊は、教会としての私たちが御霊を求めるまで、私たちのもとにやって来ることはない。「わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう」[エゼ36:37]。私たちは、来たる一週間のあいだ、キリスト教信仰の復興を懇願するために、いくつか特別祈祷集会を開こうと計画している。金曜日の朝、私はブリクストン区のトリニティ会堂で最初の祈祷集会を開いた。そして、7時には、二百五十人もの人がともに集まったと思う。それは心嬉しい光景であった。その時間のあいだ、九人の兄弟が次々に祈った。そして、確かにそこには祈りの霊があったと思う。その場にいた何名かの人々は、自分の名前を送って寄こし、自分たちのために特に嘆願をささげてほしいと頼んできた。そして、疑いもなく、そうした祈りはかなえられるであろう。パーク街では、月曜の朝、8時から9時の間に祈祷会が開かれる。そして、今週の残りの間、7時から8時の間に祈祷会が持たれるであろう。月曜の晩に、私たちは通常の祈祷会を7時に開く。そのときには、大人数が出席するものと私は期待している。私は、同労教役者であるバプティスト・ノエルが朝夕の祈祷会を始めたことに気づいた。また、人々は同じことをノリッジその他の大都市で始めており、そこには、何の強制もしていないのに、人々が喜んでやって来ているのである。私は確かに、二百五十人もの人々が、朝のあれほど早い時間に祈りのために集まるとは期待していなかった。それは良いしるしであると信ずる。主は祈りを彼らの心に入れてくださったのであり、それゆえ、彼らは喜んでやって来たのである。「こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしが……あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」[マラ3:10]。集まって祈ろうではないか。そして、もし神が私たちの祈りをかなえられないとしたら、それは神がご自分の約束を破られた最初の時となるであろう。さあ、聖所に上ろう。主の家でともに集まろう。そして厳粛な嘆願をささげよう。もう一度云うが、もし主がすべての民の目の前でご自分の御腕を現わさないとしたら、それは主の以前の行動のすべてと逆行することになるであろう。そのすべての約束と逆行し、ご自分と矛盾したこととなるであろう。私たちは神をためしてみさえすれば良い。そうすれば、結果は確かである。もし私たちが、その御霊により頼みつつ、祈りのために集まりさえしたら、主が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れるであろう[詩67:7]。おゝ、主よ。あなたに敵対する者のため、立ち上がってください。御手をふところから出してください。おゝ、私たちの神なる主よ。キリストのゆえに。アーメン。

  
 

聖霊の注ぎ出し[了]
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