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斥候たち

NO. 197

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1858年6月6日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。『私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ』」。――民13:32

 「すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。『私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった』」。――民14:6-7


 イスラエル人は、その不信仰によってカナンに斥候を遣わすことになった。神は彼らに、それは良い地であると告げ、彼らの敵を追い出すと約束しておられた。それゆえ彼らは、約束の相続地を所有すべく、満腔の信頼をもって前進しているべきであった。だが、そうする代わりに十二人の族長を遣わし、その地を探らせた。そして、「あゝ、弱き人の性よ」、彼らのうち十人は不信仰であり、たったふたりしか主に対して真実ではなかった。この物語を読み返し、この偽りの使信の悪影響と、真実な斥候たちの聖なる大胆さに注目するがいい。

 さて、私はこれを1つのたとえとしなくてはならない。カナンの地は、キリスト教信仰の象徴である。カナンが一度でも天国の象徴として語られたことがあったとは私は思わない。というのも、天国には何のカナン人もおらず、アナク人も、追い払うべき何の巨人も、何の城壁のある町も、何の鉄の戦車を持つ王もいないに違いないからである。しかしながらカナンは、キリスト教信仰の非常に見事な象徴である。このイスラエル人たちは今朝、人類の大多数を表わすものとしなくてはならない。人類の大多数は、キリスト教信仰がいかなるものかを決して自分で試そうとしない。私たちの聖典を探ることも、私たちの信仰を味わったり試したりすることもない。むしろ、これが彼らの行なうことである。すなわち、キリスト教信仰を告白する人々を、かの地に入った斥候たちと考え、私たちの人格と私たちのふるまいとを、私たちが彼らに持ち帰る使信とみなすのである。不敬虔な人は、決して聖書を読んで、キリスト教の信仰が聖く、美しいものかどうかを突きとめようなどとはしない。しかり。彼は生きた聖書を読む。――キリストの教会を読む。――そして、もし教会に裏表があると、聖書を断罪するのである。聖書を信ずると告白する人々のもろもろの罪について、聖書に何の責任がなくとも関係ない。むろん不敬虔な人々は、わざわざ悔い改めや信仰によって、キリストの愛を試したりしない。主イエスと契約を結んだりしない。さもなければ、たちまちそれが乳と蜜の流れる良い地であることを発見するであろう。むしろ、そうする代わりに彼らは、突っ立ってこう云うのである。「さあ、このキリスト者たちがそれについてどう判断するか見ようではないか。彼らはそれを幸いなものと思っているだろうか? それは彼らが困難に遭うとき、彼らの助けとなっているだろうか? 彼らが試練の渦中にあるとき、彼らを慰めているだろうか?」 そして、もし彼らが私たちの報告を陰鬱なもの、あるいは、不浄なものと思うとしたら、彼らは背を向けて、こう云う。「これは良い地ではない。私たちはそれに入りはすまい。その困難は大きく、楽しみなどほとんどないからだ」。

 愛する兄弟たち。このたとえをできる限り単純に云い表わすために私は、この場にいるあらゆるキリスト者の方々を、キリスト教信仰という良い地に入って来た斥候ということにしよう。そして、自分のふるまいと生き方によって、この良い地を悪く云いふらすか、良く云うかしている者としよう。私たちは、この世にキリスト教信仰の不平を云わせて蔑ませるか、この世に敬虔さに対する聖なる恐れを吹き込み、その一部にでもあずかりたいとの切望を起こさせるかのいずれかなのである。

 しかし、私は警戒の言葉によって始めよう。第一のこととして注意したいのは、この世の人々は、他の人の云うことだけを頼りにしているからといって、自分の愚かさを弁解することはできない、ということである。それから第二に努めて説明したいのは、宿営の中にいる悪しき報告者たち、悪い斥候たちのことである。そして、結論として行ないたいのは、なぜキリスト者である者たちが、カレブとヨシュアのように行動し、その地のことを良く云うべきかという、いくつかの重い理由を銘記させることである。

 I. では第一のこととして、《不敬虔な世は普通、キリスト教信仰を自分で取り調べる代わりに他の人々の説明に頼る》し、確かにそれは非常に自然なことであると認めざるをえないが、にもかかわらず、それを理由にして、《自分の不敬虔さの弁解をすることはできない》

 世俗的な人はキリスト者を眺めて、そのキリスト教信仰が喜ばしいものかどうかを見てとろうとする。「これによって」、と彼は云う。「キリスト教信仰に人を喜ばせるものがあるかどうかが分かるというものだ。もしその信仰告白者が喜ばしい顔つきをしているとしたら、それを良いものだと信ずることにしよう」。しかし、聞けよ、方々! あなたには、これをそのように試すいかなる権利があるというのだろうか? 神は、私たちが神を試す前でさえ、真実なお方とみなされるべきではないだろうか? また、神は自らこう宣言しておられないだろうか? 「幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」[詩32:2]。聖書そのものが、敬虔は今のいのちと未来のいのちのために有益であると宣言していないだろうか?[Iテモ4:8]――そこには2つの世の祝福がある。空の下にあるこの世の祝福と、星々を越えた所にある上つ世の祝福である。もしあなたが聖書を手に取ってそれを読むとしたら、聖書からこう知らされるではないだろうか? キリスト者は至る所で喜ぶように命ぜられており、それはキリスト者にふさわしいことだからだ、と。「正しい者たち。主にあって、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ」*[詩32:11]。「いつも喜んでいなさい」[Iテサ5:16]。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」[ピリ4:4]。覚えておくがいい。あなたは、キリスト教信仰の喜ばしさを、あなた自身の経験以下のいかなる試験に付す権利もない。というのも、あなたは、神のむき出しのことばに立って神を信ずべきだからである。あなたは、それが真実であると見てとれるようになるまで拱手傍観しているべきではない。あなたの義務、それはあなたの《造り主》が、キリスト教信仰の道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である[箴3:17]と宣言されるとき、それを信ずることである。

 また、あなたは、キリストを信ずる信仰の聖さをキリストの民の聖さで試そうと云う。私は答える。あなたには、この件をそのような試験に付すいかなる権利もない、と。あなたが用いるにふさわしい試験は、それを自分で試すことである。――「主のすばらしさを味わえ」*[詩34:8]。味わい、見てとることによって、あなたは主の素晴らしさを証明するであろうし、同じ方法によって主の福音の聖さも証明しなくてはならない。あなたの務めは、十字架につけられたキリストを自分で求めることであり、いかに恵みが腐敗を抑え、心を聖める力を有するかについて、他の人の云うことを受け入れることではない。あなたの務めは、自分でその谷に入り、その葡萄を摘み取ることである。自分でその丘々に上り、その住民たちを見ることである。神があなたに聖書を与えておられる限り、神はそれをあなたが読むことを意図しており、人々を読むことを意図してはおられない。そこには神の聖霊がおられる。あなたは他の人々との会話によって生ずる感情で満足しているべきではない。真のキリスト教信仰を知るには、あなた自身の心の中で働く御霊を有するしかない。それは、キリスト教信仰の力がいかなるものかを、あなたが自分で知るためである。あなたには、キリスト教信仰をそれ以外の、あるいは、その外部にある何物から判断する権利も全くない。そして、自分でそれを試してみる前からあなたがそれを蔑むとしたら、あなたは現世ではあからさまに愚か者となり、来世ではあからさまに咎人となるであろう。だがしかし、これはほとんどの人がしていることである。普通、ある人が聖書を罵っているのを聞く場合、その人は一度も聖書を読んだことがないのだと結論して良い。また、ある人がキリスト教信仰の悪口を云っているのを聞くとき、その人はキリスト教信仰がいかなるものか全く知らないのだと確信して良い。真のキリスト教信仰は、いったん心を手に入れると、決して人に異議を唱えさせない。キリストを少しでも知る人は、キリストを自分の最高の友と呼ぶ。私たちは、この世の数々の楽しみを蔑んできた多くの人を見いだしてきたが、いったんキリスト教信仰を享受した後で、それを嫌悪して、あるいは愛想を尽かして背を向けた人をひとりも見いだしたことがない。しかり。話をお聞きの方々。覚えておくがいい。もしあなたが、自分のキリスト教信仰を他の人々から受け取り、信仰告白者たちの実例によってキリスト教信仰を放棄するように導かれるとしたら、それにもかかわらず、あなたの血の責任について咎を負うのはあなたである。というのも神は、あなたを人々の人格という不確かな海図には放置しておられないからである。神はあなたに、ご自分のみことばを与えておられる。これは格段に確かな言葉と証しであって、それをあなたは重んずるがいい。

 最後の審判の日に、あなたがこう云っても無駄であろう。「これこれの人には裏表がありました。それで私はキリスト教信仰を蔑んだのです」。そのとき、あなたの云い訳のむなしさは暴かれるであろう。というのも、あなたはこう告白せざるをえないからである。すなわち、他の点では、あなたは他の人の意見を鵜呑みにはしていなかった。仕事において、この世の関心事において、あなたは十分に自立した考え方をしていた。あなたの政治的な意見において、あなたは他の人を信じはしなかった。それゆえ、あなたについて、結局はこう云われるであろう。あなたは、仕事においても、政治においても、また、そうした類のどの事がらにおいても、他人の実例に逆らっても自分自身の行きたいように行くことのできる独立独歩の精神をしていた。あなたがそうしたことを選び取ってきたからには、あなたには、信仰告白者たちの裏表のある生き方に逆らって立ち、自分で事を探るに足るだけの強靱な精神があったに違いない。たといキリストの教会すべてに裏表があったとしても、地上に聖書がある限り、最後の審判の日には、あなたには何の弁解もないであろう。というのも、キリストには裏表がなく、あなたはキリストに従う者らに従うよう求められてはいないからである。――あなたはキリストご自身に従うように求められているのである。ならばあなたは、キリストの性格に傷を見いだし、キリストのふるまいに過ちを見いだすまでは、キリストに従う者らの裏表ある生き方を引き合いに出してキリストを面責する権利を全く有しておらず、キリストの弟子たちがキリストを見捨てて逃げていったからといって、キリストに背を向ける何の権利もいないのである。しもべが立つのも倒れるのも、その《主人》の心次第である[ロマ14:4]。彼らには負わなくてはならない自分自身の重荷があり、あなたもあなたの重荷を負わなくてはならない。「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷がある」[ガラ6:5]、と聖書は云う。「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて申し開きをことになるからです」*[IIコリ5:10]。あなたは、他人の罪の責任を問われはしないが、あなた自身のもろもろの罪の責任を問われるであろう。そして、たとい他人がその罪によってキリストの恥辱となっているとしても、それでも、もしあなたがこの悪い世代のただ中にあってキリストに全く従っていないとしたら、あなたには何の云い訳もないであろう。

 II. そこで、警告として、また危険を未然に防ぐものとして、私はいま《悪い斥候たち》を持ち出したいと思う。私は、この聖句で言及されている者たちだけが、良い地を悪く云いふらした唯一の斥候たちであればどんなによかったかと思う。彼らを殺した疫病[民14:37]が、彼らと同じ穴の狢の残りすべてを殺していたとしたら、それは非常なあわれみとなったことであろう。だが、悲しいかな! 残念ながら、この血統は決して絶滅せず、世界が存続する限り、かの地について悪く云いふらす信仰告白者たちは、必ず何人かいるのではないかと思う。

 しかし今、この悪い斥候たちを持ち出させてほしい。覚えておくがいい。この斥候たちは、彼らが語っていることによってではなく、彼らが行なっていることによって審かれるべきである。というのも、世俗の者らにとって言葉など何でもない。――行為こそすべてだからである。私たちが、自分のキリスト教信仰についてもたらす報告は、講壇による報告ではなく、私たちが自分の口で発する報告でもなく、私たちの日常性格による報告である。私たちが自分の家の中で、また、日々職場で語っている報告である。

 よろしい。最初に私が呈示する人物は、この地のことを悪く云いふらしており、あなたはたちまち彼がそうしているのを見てとるであろう。というのも、彼は鈍重で、重苦しい精神をしているからである。もし彼が説教するとしたら、次の聖句を取り上げる。――「私たちが神の国を相続するには、多くの苦しみを経なければならない」*[使14:22]。どういうわけか彼は、神の民に言及するときには、決まって彼らを、試みに遭っている神の子らとしか呼ばない。主にある喜びについて云えば、彼はそれを疑惑の目で見る。「主よ。こはいかに 惨めな土地ぞ!」、こそ彼にとって詩歌の粋である。彼はこれを年中歌っていられるであろう。彼は常に霧のただよう谷間にいる。決して山上に登って、現世の数々の嵐を越えた所に立つことはない。彼はキリスト教信仰を告白する前から陰気くさかった。――だが、それ以来、輪をかけて陰気くさくなった。自宅にいる彼を見るがいい。子どもたちに向かって、父親の宗教をどう思うか聞いてみるがいい。彼らは、父親が何にかぶれても良いから、キリスト教信仰だけはやめてほしいと思っている。「父は、ぼくたちが笑うのを許さないんです」、と彼らは云う。「父は日曜には鎧戸を下ろし、安息日には、ぼくらをできる限り暗く、みじめにしようとするんです」。彼は、安息日を七日のうち最大の奴隷的束縛の日とすることこそ、厳格な安息日厳守主義者としての義務だと思っている。彼の妻に、キリスト教信仰についてどう思うか聞いてみるがいい。彼女は云うであろう。「そうしたことは、あんまし良く分かりません。ですが、主人がもう少し陽気であってくれれば良いのにと思います」。「そうですね。ですが、ご主人のキリスト教信仰がご主人をみじめにしているというのは確かでしょうか?」 「はっきりとは分かりません」、と彼女は云う。「ですが、私の知る限り、主人が一番みじめになるのは、普通は主人が一番宗教的になっている時なのです」。彼の祈りを聞くがいい。膝まずいて、自分の数々の試練と苦難とを長々と列挙する。だが、彼は決してその最後にこう云いはしない。「私たちに味方する者らは、私たちに逆らうすべての者らよりも多い」。彼は日頃涙の谷[詩84:6]におり、泣いてばかりいるため、それを泉のわく所とせんばかりである。彼は決して行ってこう云うことがない。「彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます」[詩84:7]。しかり。これは物語の暗黒の部分にすぎない。もしあなたがこの兄弟の完璧な姿を見たければ、若い回心者に対して話をしている時の彼を見なくてはならない。この若者は、《救い主》を見いだしたために楽しみと喜びに満ちている。また、巣立ったばかりのひな鳥のように、陽光の中を嬉しがって飛び回り、自分の信仰の喜びの中で陽気にさえずっている。「あゝ!」、とこの老キリスト者は云う。「あの黒い雄牛はまだあなたの爪先を踏みつけていないのだ。あなたは、夢にも思っていないほどの苦難に遭うであろう」。あの昔の臆病者氏は私の友人だが、あなたはこれまで、彼が旅の途中で出会った基督者に云った言葉を聞いたことはないだろうか? 私が同じことを教えよう。「獅子だ。獅子だ! 獅子だ!」、と彼は叫ぶ。「あの獅子たちは鎖につながれていますよ」。「巨人だ! 巨人だ! 巨人だ!」、と彼は絶叫する。彼は決してこうは云わない。「主は子羊をふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」*[イザ40:11]。彼は常に、物事の陰鬱な方を眺め、その地を悪く云いふらす。そして、あなたは知っているだろうか? こうした人々の中のある者らは、自分の報告を誇るあまり、小さく凝り固まってしまい、ことのほか憂鬱そうな顔つきをした説教者、悲哀に満ちた用語のすべてを字引で学んできた説教者、古のパリサイ人のように断食していることが人に見えるような[マタ6:16]説教者の話しか聞こうとしない。さて、私はためらうことなく云うが、こうした人々は悪い斥候である。私たちは、キリスト教信仰に患難が伴うという大いなる事実を決して覆い隠してはならない。また、キリスト者は、他の誰とも変わらずに、この世では苦難を期待しなくてはならない。人は、火花が上に飛ぶように、生まれると苦しみに遭うからである[ヨブ5:7]。だが、キリスト教信仰が人々を惨めにするというのは、神が真実であるのと同じくらい偽りである。神が良いお方であられるのと同じくらい確かに、神を信ずる信仰は良いものであり、神がすべてのものにいつくしみ深くあられるように、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にある[詩145:9]。キリスト教信仰は、そうしたあわれみが遊ぶ大気であり、神の恵みが泳ぐ海である。おゝ、来るがいい。あなたがた、陰鬱な信仰告白者たち。その嵐雲を取り去り、少しは虹であなたの眉宇を飾るがいい。さあ今、あなたの頭に油を塗り、あなたの顔を洗って、あなたが断食していることが、人には見られないようにするがいい[マタ6:17-18]。その立琴を柳の木々[詩137:2]から取り上げるがいい。それを奏でてみて、あなたの不慣れな指先がそれを旋律で生き生きと鳴らせないか試してみるがいい。そして、もしあなたがそうしようとせず、そうすることもできないのであれば、私に1つ証しをさせてほしい。私は、キリストを信ずる信仰についてこう云える。たとい私が犬のように死ななくてはならず、不滅のいのちの希望を何も有していなかったとしても、もし幸いな人生を送りたければ、私は心を尽くして私の神に仕えるであろう。イエスに従い、その足跡にならうであろう。というのも、あのソロモンの言葉にまさって真実な言葉はなかったからである。「その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である」[箴3:17]。この地は乳と蜜が流れる地である。その地には、ひとりでは持ち運べないほど重い葡萄の房が生っている。そこにある果実の滋味豊かさは、御使いの唇でさえ一度もこれほど芳醇な葡萄酒で甘くされたことがなかったほどである。地上には非常に大きな喜びがあり、パラダイスの神々しい美食や甘美な葡萄酒でさえ、地上における主の祝宴で見いだされる満足の甘やかさを、ほとんどしのげないのである。

 しかしながら、私がいま見送ったばかりのこのあわれな人は、憐れまれて良いかもしれない。次の者はそうではない。というのも、彼はまさに悪漢だからである。彼を見るがいい! 彼は、実に柔和な顔つきで、キリスト教信仰を大っぴらに云い立てながらやって来る。いかに彼が賛美歌を朗々と歌うことか! 彼が立って祈るときには、いかに霊的な調子の声で祈ることか。彼の声には肉的なものが全くない! 彼はキリスト者の人々の間で、偉大な指導者である。彼は長々と説教することができる。種々の教理を何時間もかけて詳細に分析することができる。私たちの神学すべてにおいて、彼が理解していない形而上学的な点は1つもない。彼は、

   「髪の毛一筋 あやまたず
    西と北西に 分割(わ)けうべし」。

彼の理解力は、彼自身の意見によると無限である。また、彼は得々として自分の敬虔さを自慢する。会堂で、あるいは、他の場所で、良い心持ちをしている際の彼を見ると、誰しも、「あの人は何と素晴らしく良い人なのでしょう!」、と云う。だが、彼を職場まで追いかけてみよう。彼は悪態をつきはしないが、嘘をつくであろう。純然たる盗みはしないが、ごまかしをするであろう。面と向かって人を呪いはしないが、それよりも悪いことをする。――相手の陰で悪口を言うであろう。よく気をつけて見るがいい! 彼は、町通りで酔いどれを見つけることがあると、相手を叱責し、かさにかかって酩酊の罪について語って聞かせるが、彼自身、二階の寝床まで千鳥足で向かわないことはめったにないのである。単に、おとなしいしかたでしかそうしないため、誰もそれを見ることはなく、彼は社会の非常に評判の良い一員である。あなたはそうした人々を知らないだろうか? 知らないでいてほしいと思うが、私は彼らに出会ってきた。こうした手合は、いまだにおびただしく生存している。堂々たる信仰告白を行ないながら、その生き方は、地獄が天国に対抗するのと同じくらい力強く自らの告白に反対しているのである。さて、この世はこうした人々を見るとき、キリスト教信仰について何と云うだろうか? 彼らはたちまち云うであろう。「よろしい。もしこれがキリスト教信仰だというなら、こんなものには関わらないに越したことはない」。実業人は云うであろう。「確かに私は誰それのように行なうことはできないだろう。あのように堂々と賛美歌を歌ったりはできないだろう。だが、私は彼のような現金出納帳をつけることはできないだろう」。私たちは次のように云う多くの人々を知っている。「私は誰それのように長く祈ることはできないだろう。それに、彼のように不正直なしかたで請求書を作成することもできないだろう」。私たちは、キリスト教信仰の告白を行なっている人々よりも、実業人として、また職業人として、はるかに正直なこの世の人々と出会ったことがある。その一方で私たちは、この上もなく勇壮な信仰告白を行なっていながら、ありとあらゆる種類の悪にふけっている人々を知っている。そのようにして、かの地を悪く云いふらし、そうすることで他の人々の魂を滅ぼしている人の運命は、ぞっとするほど恐ろしいものになるであろう。しかし、おゝ! 話をお聞きの方々。私は切に願う。もしあなたがたの中の誰かがそうした信仰告白者たちを見てきたとしたら、きょう、古のヨシュアやカレブのように、義人を立ち上がらせてほしい。あなたの前で《教会》を立たせ、その衣を引き裂かせてほしい。教会は、そうした人々の嘘っぱちの、中傷に満ちた報告を信じないよう、あなたに懇願するであろう。というのも、真のキリスト教信仰は聖なるものだからである。キリストが聖であるように、キリストの民も聖でありたいと願っている。そして、救いをもたらす神の恵みは、きよく、平和に満ちている。それは人々のうちに、聖く、評判の良いものを生み出す。神をほめたたえ、人間の性質を栄光に富ませるものを生み出す。しかし、そのことについて、あなたに告げる必要はほとんどないであろう。あなた自身の回りで、あなたは偽善者たちに出会う一方で、疑いようもない人々と出会ってきた。しかり。時としてあなたは、あなたの悪い仲間の中にさえ、御使いのような人を見ることがあった。あなたは、不忠実な者らの間にいた忠義者アブディエルが進み出て、自分は自分の神に対する反逆者にはならないと云ったときに、サタンが感じたように感じてきた。

「恥じて悪魔は佇(たたず)みて、いかに善に威あるか感じぬ」。

それゆえ、私は切に願う。偽善者、また聖ならざる人が云いふらす悪い話を信じてはならない。

 しかし、かの地を悪く云いふらしている第三の種別の信仰告白者たちがいる。そしてこれは、残念ながら、ある程度まで私たち全員に関わり、私たちがみな、この点で罪ありと申し立てなくてはならないことではないかと思う。キリスト者である人は、一様にキリストの律法に従って歩もうと努力しはするものの、それでも、自分のからだの中に異なった律法があって、それが自分の心の律法に対して戦いをいどんでいるのを見いだす[ロマ7:23]。そして、その結果、時としてその人の証しがちぐはぐなものとなることがある。時として、この証しは、「《福音》は聖い」、というものである。というのも、彼自らが聖いからである。しかし、悲しいかな。いかに最上の人々であれ、時としてその証しが信仰とは矛盾したものとなることがある。あなたが怒っているキリスト者を見るとき、――そして、そうした場面はまま見られるが、――また、高慢なキリスト者に出会うとき(そうしたものも知られてきたが)、また、キリスト者が過ちにとらわれている現場を見つけたとき(これも時としてあることではあるが)、その場合、その人の証しはちぐはぐなものとなる。そのときの彼は、他の時には自分の行為によって宣言していたものと矛盾したことをしているのである。

 そして、繰り返して云うが、残念ながらここでは、私たちの中のすべての者が咎ありと申し立てなくてはならないのではないかと思う。私たちは時として、私たちの行動によって、私たちの生き方全般の証言とは食い違うように思われることを言葉にしてしまうことがあった。おゝ! 兄弟姉妹。私たちの中にあなたが見るあらゆることを信じてはならない。そして、もし、キリスト者である人がついつい性急で、誤った表現に陥るのを目にすることがあったとしても、それを私たちのキリスト教信仰のせいにしてはならない。それは私たちの、あわれな堕落した人間性のためとするがいい。もし時として私たちが過ちにとらわれているのをあなたが見つけることがあるとしたら――そうした場合があまり多くないことを望むが――、私たちの悪口を云うがいい。だが、私たちの《主人》の悪口を云ってはならない。私たちについては好きなことを云うがいい。だが、私たちは切に願う。それを私たちのキリスト教信仰になすりつけることはしないでほしい。というのも、聖徒たちはいまだに罪人であり、最も聖なる人々であれ、なおもこう云わなくてはならないからである。「私たちの罪をお赦しください。私たちも、私たちに罪を犯した人たちを赦しました」*[マタ6:12]。しかし、私たちは本当に願う。罪の狂気が私たちを惑わしているとき、私たちの狂気ゆえの脈絡のないふるまいを信ずるのではなく、私たちの生き方全般による証しを顧慮してほしい。そしてそれは、あなたもキリストの《福音》と首尾一貫したものであると見いだすものと思いたい。私は悪口雑言を云われても耐えられようが、《主人》の悪口が云われるのを聞きたくはない。私の有する何らかの過ちが、私のキリスト教信仰によって引き起こされたのだと誰かに云われるくらいなら、私は自分がキリスト者などでは全くないのだと信じられたいと思う。しかり。キリストは聖い。福音はきよく、傷がない。もしいつであれ私たちがこの証しとちぐはぐに見えるとしたら、私たちを信じてはならない。私は切に願う。むしろ、事をあなた自身で調べてほしい。というのも、実際この地は良い地であり、乳と蜜が流れているからである。

 III. このように私は、悪く云いふらしている悪い斥候たちを持ち出してきたが、いま、神はほむべきかな、私たちには何人か《良い斥候たち》もいるのである。しかし、私たちは彼らに語らせよう。さあ、ヨシュアとカレブよ。私たちにはあなたがたの証言が必要である。あなたがたは死んでいなくなったが、あなたがたはあなたがたの後に子どもたちを残している。また彼らは、あなたがたがあの悪い報告を嘆いたのと同じように嘆き悲しみ、自分の衣を裂いている。だが、彼らは大胆に、自分の通ってきた地がこの上もなく良い地であるという立場を守るのである。

 私がこれまで会ったことのある最上の斥候のひとりは、とある老キリスト者である。私は彼が立ち上がって、キリスト教信仰について考えるところを告げるのを聞いたことがある。彼は盲目の老人で、すでに二十年も太陽の光を見ていなかった。彼の白髪はその額から垂れ下がり、その肩の上にかかっていた。彼は聖餐台の席から立ち上がり、このように私たちに語ってくれた。――「兄弟姉妹。私はじきにみなさんのもとから取り去られるでしょう。もう何箇月もしたら、私は足を床の中に入れ、私の先祖たちとともに眠るでしょう。私には学者のような舌はなく、雄弁家のような精神もありませんが、いなくなる前に1つだけ、私の神について公の証言をしておきたいのです。五十と六年の間、私は神に仕えてきましたが、私は一度として神が不真実であったことを見いだしたことはありません。私にはこう云えます。『まことに、私たちのいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私たちを追って来た。神が約束された良いことはみな、1つもたがわなかった』、と[詩23:6; I列8:56参照]」。そして、そこにその老人は立っていた。自分の墓によろめき入ろうとしており、自然的には天の光を奪われていたが、しかし、より良い意味では、天の光がその魂に燦々と射し込んでいた。そして彼は、私たちを眺めることはできなかったが、それでも向き直って、こう云うかのように思われた。「お若い方々。年若いうちに神に信頼しなさい。というのも、私は早いうちから神を求めたことを後悔したことがないからです。私が悲しむ唯一のことは、私の人生のかくも多くの年月が無駄に失われてしまったことなのです」。若い信仰者の信仰を何にもまして強めるものと思われるのは、体中に戦傷を帯びた老練なキリスト者から、自分の《主人》に仕えることは幸いな奉仕であるという証言を聞くことである。そして、もし誰か他の主人に仕えることができたとしても、自分はそうはしない、主への奉仕こそ快く、その報酬は永遠の喜びなのだから、と聞かされることである。

 苦しむ者の証言を聞くがいい。あの、たおやかで、透き通るように美しく、華奢な姿をした人を見るがいい。その明るい青い目と、消耗性の紅潮の差した頬は、からだを衰えさせる肺病の炎を示している。彼女は、露で一杯になった百合の花のように、ぐったりとうなだれて横たわり、ざんばらに広がった亜麻色の髪の毛は、不健康な汗で濡れていた。私が彼女を見舞ったとき、彼女の目は落ちくぼみ、ほとんど寝床から身を起こすこともできなかった。その体は生きることに倦んでいた。だが私には、彼女が全く満足しているのが見えた。彼女は自分の聖書を枕の下から取り出すと、こう読み上げた。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえてくださいます」*[詩23:4-5]。私は腰を下ろして、彼女に話をし、こう云った。「よろしい。あなたは、この悲しい場所にこの何箇月もの間いらっしゃいましたね。今あなたは信仰があなたを元気づけているのが分かりますか?」 「おゝ、先生」、と彼女は云った。「それがなかったら私に何ができたでしょう? 私はこの寝床を離れることはできません。ですが、これは私にとって、キリストが祝宴を広げてくださる喜びの寝椅子でした。主は私の病の床で私をささえてくださり、その左の腕は私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださいました[詩41:3; 雅8:3]。私の悲しみの中で喜びを与え、私が静かに、ひるむことなく死に直面する覚悟を与えてくださいました」。こうした事例は、《主人》について証言するものである。あの白髪の聖徒と同じように、これはこの良い地を良く云うことである。

 しかし、私たちは、病床や白髪を唯一の証人とみなす必要はない。私たちはひとりのキリスト者の商人を知っている。彼は現世の関心事で一杯になっている。だがしかし、常に来たるべき世に対して備える時間も見いだしている。彼は町にいる誰にも負けないくらい多くの仕事をかかえているが、決して家庭礼拝を怠らない。そして、ことによると、あなたは彼が――ある場合にそうであったように――治安判事の職を務めている姿を見るかもしれない。だがしかし、祝宴の日でさえ彼はその席を立ち、やはり自宅での家庭礼拝を守ろうとするのである。彼は仕事の上では、小売商たちを喜んで助けようとする人物として知られている。彼は他の人々と同じように確実な担保を好んでいるが、時には後進の人を助けるために危険を冒すことがある。あなたが彼のもとに行くと、あなたは彼が抜け目のない実業家であることに気づく。彼はうまうまと騙されるような人物ではない。だが、それと同時に、あなたを騙そうとするような人物でもないことに気づく。あなたは彼を信頼できる。いかなる取引であれ、彼の関わっている請求書に目を通す必要はない。そこには何の誤りもない。あるいは、何か誤りがあるとしても、それは明白な間違いであって、即座に、この上もなく大きな遺憾の念とともに過ちが認められる。というのも、彼は自分の取引において廉直だからである。彼の境遇にも、不幸な危機が訪れたことがあった。だが多くの会社が倒産し、破産が木の葉のようにありふれたものとなったときも、彼は他の人々のように浮き足だったり、取り乱すことはなかった。というのも、彼のよりどころは彼の神であり、彼の信頼はヤコブの神にあったからである。彼にも多少は心配事があったが、それよりも多くの信仰があり、繁栄が彼に戻って来たとき、彼は自分の財産の一部を主にささげた。派手なしかたで、誰それが年間百ポンドを某協会に寄付したと喧伝されるようにではなく、彼は五百ポンドを寄付し、誰にもそれを知らせなかった。人々は取引所で、また市場で彼について噂した。「もし誰かがキリスト者だしたら、彼こそその人だよ」。彼らは、彼を見たときこう云った。「キリスト教信仰にも一理あるようだ。私たちはずっと彼を見てきたが、一度も彼が踏み外したり、道をそれるのを見たことがない。私たちの見る彼は、常に同じ廉直な性格をしており、自分の神を恐れ、いかなる人をも恐れない」。このような人は、この地について良い報告をもたらしているのである。私はここで日曜が来るたびに話をし、平日には毎日他の場所で話をしているが、あなたができるほど力強く説教することはできない。あなたは自分の数々の行動によって、世に向かって説教しているのである。あゝ! そして私は召使いの人々ほど巧みに説教することはできない。彼らはその聖い行動により、試練と困難のただ中にあっても、心の中で恵みに何が行なえるかを示す機会を有しているのである。こうした人々は、かの地について良い報告をもたらす良い斥候たちである。

 また、私の姉妹たち。あなたに一言云わせてほしい。あなたも良い報告をもたらすことはできる。病者訪問協会に身を入れるために家庭をないがしろにしたりしないことによって、そうできる。むろん病者訪問協会には身を入れるがいい。そうした協会ゆえに神は感謝すべきかな。それらは現代における最良の制度の1つだからである。しかし、私の知っているある人々が、より大きな善を施す道は、自分の服をゴシゴシ洗い、召使いたちが茶道具の洗い物をするのを監督することであって、家から家へと病人を訪問して歩くことではなかった。というのも、この人たちの家は滅茶苦茶になっており、その家庭は混乱の極みにあったからである。それは、妻が、愚かな女のように、外で善を施そうとして、家庭内のあらゆることを引きずり倒していたからであった。私たちの知っている、真のあわれみの姉妹たちの多くは、まことに女の中でも祝福された者たちで、神は彼女たちをあふれるほどに祝福しておられる。私たちの知ってる他の婦人たちは、病人を訪問しに出かけることはめったにないが、自分の家にいて家庭をちゃんと整えている。私たちの知っているある夫は、敬虔な妻によって回心させられた。私は、ひとりの男性の場合について聞いたことを思い出すが、彼にはこの上もなく素晴らしい気立ての妻がいた。彼は、世俗的な、浮ついた男であったにもかかわらず、自分の浮薄な仲間たちの間で、自分にはこの世で一番の妻がいると自慢するのが常であった。彼は云った。「あいつを怒らせることは絶対できないんだよ。俺が夜遅く帰るとするだろ、さんざんいい気分になってさ。でも、あいつはいつも優しく出迎えてくれるんだ。あいつを見るたびに恥ずかしくなるよ。あいつのきよらかさに叱られた気になるんだな。お前らがどんなふうに試したとしても、あいつが最高の女だってことは分かるだろうさ」。「よしきた」、と彼らは云った。「じゃあ今晩は、俺たち全員がお前んちで晩飯を食おうじゃないか」。彼らはそうした。大挙してやって来た。彼女は家の中に何もないことは気振りにも見せなかった。実はほとんど何もなかったのだが、彼女と彼女の下女とは、あらん限りの力を尽くしてこの難事に取り組み、十二時を回っていたにもかかわらず、たちまち夕食ができた。そして彼女はまさに公爵夫人のような優雅さで彼らに応対し、彼らが自分の友人たちであるかのように、また、最も好都合な時間に訪ねてきたかのように彼らを見て喜んでいるように見えた。そこで彼らは、自分たちがやって来た理由を告げ始め、一体どうやって彼女がそれほど忍耐強くこれに耐えられたのか尋ねた。彼女は云った。「神は私に夫を下さいました。私が回心したのは結婚した後になってからでしたが、回心してからというもの、私がまず第一に努めてきたのは、イエス様を知るように夫を導くことでした。そして私は確実に分かっていました」、と彼女は云った。「あの人がそうなるように導かれるには、親切にするしかないと」。彼女の夫は、この言葉によって、一同が帰っていった後で、自分がいかに彼女にひどい仕打ちをしてきたかを告白した。彼は心にじんと来るものを感じたのである。次の安息日に、彼は彼女とともに神の家へ行き、ふたりは、心を尽くして主イエス・キリストにあって喜ぶ幸せな夫婦となった。彼女は良い斥候であり、かの地について良い報告をもたらしたのである。疑いもなく、世の中にいる多くの婦人たちは、地上で一度も名前が知られなくとも、最後には主人からこのように賞賛されることであろう。「この女は、自分にできることをしたのです」[マコ14:8]。そしてあなたも、キリストのために自分にできることをしたときには、――聖く、忍耐強く、穏やかな柔和さによってそうしたときには、――良い斥候となるのである。かの地について良い報告をもたらしたのである。

 そして、あなたがた、召使いたち。あなたも同じことができる。キリスト教信仰を有する女中は、どこにおいても最高の召使いであるべきである。キリスト教信仰を有する靴磨きは、他の誰よりも上手に靴を磨くべきである。もしもキリスト教信仰を有する者が食卓刀の手入れをし始めるとしたら、その刃をなまらせないようにすべきである。あなたも知る通り、米国における黒人たちの敬虔さは非常なものがあり、キリスト教信仰を有する黒人はそうでない者より数ドル以上も値が張り、常によく売れるのである。そのように主人たちはキリスト教信仰を有する者を所有したがるのである。なぜなら、彼らは反抗することがなく、むしろ柔和に、また忍耐強く従う者らであり、自分が奴隷であることを覚えればその立場をいかに憎むとしても、それでもすべての人の上に立つお方を自分たちの主人とみなして、「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく……真心から従い」[コロ3:22]、神に仕えようと努めるからである。

 IV. さて今、私が全力を傾けて、この場にいる、信仰を告白するキリスト者全員に強調したいのは、《キリスト教信仰について一様に良い証しをもたらすべき大きな必要性》である。兄弟たち。私はこう確信しているが、もしキリストがきょう、この場におられるとしたら、私たちの中のある者らは、キリストを愛するあまりに、キリストが打たれるくらいなら、むしろ、打つ者に向かって自分の頬を向けようとするはずである。ナポレオンの将校たちのひとりは、彼を愛するあまり、大砲の砲弾が皇帝を打ち倒しそうになったとき、身を挺して彼をかばい、自分の主人の代わりに犠牲となって死んだという。おゝ、キリスト者よ。あなたも同じことをするだろうと思う。もしキリストがこの場におられるとしたら、あなたは主と侮辱との間に、しかり、主と死との間に身を投げ出すであろう。よろしい。ならば、確実にあなたは勝手気ままにキリストを危険にさらそうとは思わないであろう。だが覚えておくがいい。あなたの用いるあらゆる不用心な言葉、あらゆるちぐはぐな行為は、キリストに汚名を着せるのである。知っての通り、この世はあなたを非難しはしない。――彼らは、そのすべてをあなたの《主人》のせいにする。もしあなたが明日うっかり間違いをすれば、彼らは、「あれが何野太郎兵衛の人間性なのだ」、とは云わないであろう。彼らは云うであろう。「あれが何野太郎兵衛の信ずるキリスト教信仰なのだ」、と。彼らにももっと分別はあるはずだが、必ずや彼らはそう云うであろう。彼らは確実にあらゆる過ちをキリストの責任にするであろう。さて、もしあなたがその非を自分で引き受けることができるとしたら、あなたはそれを男らしく忍んで良い。だが、キリストにその責めを負わせてはならない。――主の紋章入りの盾を汚させてはならない。――主の旗印を泥足で踏みにじらせてはならない。

 それから、別に考えるべきことがある。あなたは覚えておかなくてはならない。もしあなたが間違ったことをするとしたら、この世は確実にあなたに注意を払うであろう。この世は2つの袋をかかえている。背中に背負った袋には、あらゆるキリスト者の美徳を入れる。――前にかかえた袋には、私たちのあらゆる過ちと罪を入れる。彼らは聖なる人々の美徳など決して眺めようとは考えない。殉教者たちのあらゆる勇気、信仰告白者たちのあらゆる忠実さ、また、聖徒たちのあらゆる聖潔は、彼らにとっては何ほどのものでもない。だが、私たちのもろもろの不義は常に彼らの前にある。思い起こすがいい。キリスト者としてのあなたがどこにいようと、この世の目はあなたに注がれているということを。悪い時代は、百の眼を持つ巨人アルゴスのように、いずこにおいてもあなたの後を追い、注目している。たとい教会に見る目がなくとも、この世はそうではない。「教会のように熟睡している」、という格言は人口に膾炙しており、また、非常に真実な云い回しである。というのも、ほとんどの教会は眠りこけているからである。だが、「この世のように熟睡している」、と誰かが云うとしたら、それは大きな偽りとなるであろう。というのも、この世は決して眠らないからである。眠りは教会の専売特許である。また、このことも覚えておくがいい。この世は常に、キリスト者たちの欠点を見るための拡大鏡をかけている。もし信仰を告白していない誰かがうっかり過ちを犯すとしたら、おゝ! それは大したことではない。――何も聞こえてはこない。だが、ある教役者がそうしたとしよう。キリスト教の信仰告白者がそうしたとしよう。すると拡大鏡が登場する。他の誰かがそうしても何でもないが、私たちがそうすると大罪になる。この世には2つの道徳規範がある。そして、それがあることは非常に正しい。もし私たちが神の子どもたちであると告白しているとしたら、また、神の恵みを心に有していると告白しているとしたら、この世が他の人々以上のことを私たちに期待するのは、園丁が、温床や、硝子の覆いの下にある植物の方に、戸外の冷たい霜の上にある植物よりもすみやかに成育するのを期待するのと同じくらい間違ってはいない。もし私たちがより多くの特権、より多くの修養が有しており、より大きな告白をしているとしたら、私たちはそれらに応じた生き方をすべきであり、この世は私たちがそうすることを期待する点できわめて正しい。

 話を終える前に、もう1つ考えるべきことをあなたに提示しなくてはならない。思い起こすがいい。もしあなたが自分のキリスト教信仰について良い証しをもたらさないと、悪い証しは非常に多くの良い証しを打ち負かしてしまうのである。ある教会内の全聖徒が、たったひとりを除いてキリストに忠実であるとしても、だからといってこの世は教会を尊ばないであろう。だが、その教会の信仰告白者がひとり道を踏み外して罪を犯すとしたら、そのことが何日も人の噂となり続けるであろう。自然界でも全く同じである。一年の間の日々を取り上げて見るがいい。太陽は上って私たちを照らすが、私たちはそれを気にもとめない。万事は以前と同じように続いていく。夜になると星々が甘く微笑み、昼と夜とは静かに経巡っていく。だが、そこへ、ある日がやって来る。雷鳴と稲妻の日、地震や嵐の日である。すると、それは私たちの歴史の巻物に、かくかくの時に、しかじかの尋常ならざる日が生起したと記される。なぜ良い日のことは注目されないのか? しかし、そうしたものである。この世は悪にしか注意しない。国中を渡り歩くと、何百もの美しい河川に目がとまるであろう。牧草地を縫う、緑柱玉が織り込まれた銀色の流れのようである。だが、それが優しく海へと流れていく水音を誰が聞くだろうか? しかし、そこに1つの切り立った岩があり、そこに滝が叩きつけていると、半哩離れていてもその音が聞こえるであろう。あなたは、あの長大かつ広大なセントローレンス川について何も聞かない。私たちが耳にするのはただ、ナイアガラ大瀑布のことだけである。そのようにキリスト者も、人生の道行きを堅実に、人目につくことも噂されることもなく流れているかもしれない。だが、もしその人が堕落すると、確実にその人について耳にすることになる。それゆえ、用心するがいい。あなたの《主人》がやって来られる。用心するがいい。敵は今しも間近にいる。おゝ、願わくは聖霊が、あなたを全く聖めてくださり、あなたがあらゆる良いわざに富む者となり、神の栄光を現わすことができるように!

 神を恐れていないあなたについて云えば、覚えておくがいい。たといキリスト者たちが罪を犯すとしても、それはあなたの云い訳にはならない。かりにあなたの取引相手があなたにこう云ったとしよう。「私はあなたを騙したよ。だが、私は正直だなどという告白は一言もしていなかったからね」。あなたは彼に向かって、お前は根っからのごろつきだと云うであろう。あるいは、ある男が判事の前に連行されて来て、こう云ったとしよう。「あっしを牢屋に入れる必要はありませんぜ。あっしは自分でも盗人だっていう告白しかしてこなかったんすから。あっしは他人様の部屋に押し入らねえとか、他人様の食器かごに手をつけねえとか云ったことは一度だってありゃしねえです!」 判事は云うであろう。「お前は正直に語っておるな。だが、お前は、お前自身の告白により、とんでもないごろつきだ。そこで本官はお前を終身流刑に処すことにし、絶対に仮釈放が許可されないようにしてやろう」。最後の審判の日になったときのあなたが、自分は今まで一度だって天国に行きたいとか、地獄から逃れたいとか、罪を離れてキリストに信頼したとか告白したことがありませんでした、などと云っても何の役にも立たないであろう。もしあなたが神に仕えるという告白を一度もしないとしたら、あなたは確信して良いが、神はあなたのことはさっさと片づけてしまわれるであろう。何の信仰告白もしてこなかっただと。おゝ、では何の審問も必要ない。離れ去れ! お前はわたしを愛すると告白しなかったのだ。ならば今、お前はわたしの栄光をひとかけらも持つことはない。呪われた者よ。離れ去って、永遠の火の中に入れ、と。願わくは主が、私たちをそれから解放してくださるように。イエスのゆえに。

  
 

斥候たち[了]

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