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現在におけるキリスト教信仰

NO. 196

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1858年5月30日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです」。――Iヨハ3:2


 本日の聖句は短いものだが、私は今朝、この聖句全体から説教しようとは思わない。「今」という言葉は、私にとってこの聖句の中で最も目立つ部分であり、今朝はこの言葉を目立たさせてみたいと思う。「愛する者たち。私たちは、すでに神の子どもです」。

 驚愕すべきは、距離というものが、いかにしばしば不愉快なものの鋭利な刃先を鈍らせるかということである。戦争は、いついかなるときであれ、何にもまして恐ろしい災難である。殺戮されたからだや、殺された人々について考えるだけで、常に心は引き裂かれるに違いない。だが、そうしたことが遠くから聞こえてくるがゆえに、それらの恐怖に本当にひたれる英国人はほとんどいない。もし私たちが、この島を取り巻く海淵で大砲が轟々と響くのを耳にするとしたら、また、もし私たちが自宅の扉に虐殺や流血の跡を見てとるとしたら、そのとき私たちは、ずっと骨身にしみて戦争が何を意味するかを認めるはずである。しかし、遠方にあるために恐怖は取り去られ、それゆえ、私たちは戦争についてあまりにも軽々しく語り、それについて読むときでさえ、十分な痛みと結びついた関心を寄せない。戦争と同じことが、死についても云える。死は恐ろしいことである。いかに勇敢な人も、死の前ではやはり恐れざるをえない。というのも、いかなる大往生を遂げる時でさえ、死ぬのは厳粛なことだからである。それゆえ、人は死という考えを一切遠ざけるという便法を採用する。死は非常に身近にあるかもしれないが、人はそれが遠くにあるものと思い描く。するとそこには、遠方の戦争のような効果が生み出され、その恐怖は忘れられ、私たちはそれについてさほど厳粛なものを感じずに話すようになる。真のキリスト教信仰についても同じである。人々は、いやでもキリスト教信仰には真理があると信じざるをえない。それを否定する無鉄砲な者もいないわけではないが、この文明の進んだ国にいるほとんどの者は、《敬虔》には力があると認めるほかなくなっている。ならば、世俗の人は何をするだろうか? 同じ便法を実践するのである。キリスト教信仰を遠ざけるのである。彼は、それが遠くにあると信じると、その不快さが減るのを知っている。こういうわけで、未回心の世間のただ中には、1つの観念が生じてきた。キリスト教信仰は、人生が終わる寸前で成し遂げられるべきものだという観念である。そして、不敬虔な人が少しでも良心を刺されたときには、通常こう祈るのである。「おゝ、私も最後には救われますように!」 いま救われたい、という切羽詰まった思いではない。キリスト教信仰は、彼の食指が動くものではなく、それゆえ、自分の永遠の幸福を確実なものとするためにはそれが欠かせないと信じてはいても、「最後には自分もそれを得たい」、と云うことにしておくのである。

 ということは、現在におけるキリスト教信仰は、世俗の人の欲するキリスト教信仰ではないのである。彼は、永遠について語るものなら許せる。臨終の床を扱うものなら許せる。罪の中で費やされた人生を振り返らせて、もっともらしく悔い改めさせるものなら許せる。だが、聖潔の中で費やすべき、これから先の人生を見越させることができるようなものは許せない。しかしながら、私たちは現世の物事については――自分にとって最も甘やかな事がらについては――それとは全く違うしかたでふるまっている。なぜなら、それらは身近にあればあるほど甘やかになるからである。果たして、実家を焦がれ求めている子どもの中で、帰省の時が近くなればなるほど、休暇がより甘やかに思われるのを感じなかった者があるだろうか?

 果たして、いったん富を欲しがるようになった人の中で、願う目的が間近になればなるほど、自分は金持ちだと実感する喜びが増すのを感じなかった人がいるだろうか? そして、私たちの中のすべての者らは、何か良いものが遠くにあると考えているときには、それと自分との間の時間を縮めてみようとするのが常ではないだろうか? 私たちは、のろのろ進むその時間をせき立てようとする。そうした時間を叱りつけ、《時》に2つの翼があればよいのに、そうすればそれはすみやかに飛び去って、待望の時をもたらしてくれるのに、と思う。キリスト者が天国について語るときも常に、自分とその幸いな国との距離を縮めようとする。彼は云う。――

   「今しばしの 日輪(ひ)巡り経なば、
    美(うま)しカナンの 地にぞ至らん」。

彼と至福の間には多くの年月があるかもしれない。だがそれでも彼はこう云いがちである。

   「みち険しくとも 長くは続かじ」。

このように私たちはみな、自分と自分の望むものとの距離を縮めることを喜ぶものなのである。さて、この規則をそのままキリスト教信仰にあてはめてみよう。キリスト教信仰を愛する者らは、現在に関わることを愛している。救いを本当に求めているキリスト者は、「私は、今すでに神の子どもです」、と云えるようになるまで決して幸せになれない。世俗の人は救いを嫌っているがために、それを遠のける。だが、キリスト者は救いを愛しているがために、救いの最も美しい特質は、救いがが現在存在しており、現在、自分の心の中でそれが享受されているということなのである。「今」という言葉は、罪人にとって警告であり、恐怖であるが、キリスト者にとっては最大の楽しみ、喜びである。「こういうわけで」、――そして、何にもまして甘美な鈴が鳴り響く。――「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」[ロマ8:1]。罪人にとって、これと同じ観念は、何にもまして暗澹たることである。「信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」[ヨハ3:18]。

 今朝私は、神の御名において、努めて人々に訴えかけ、現在キリスト教信仰を有することがいかに重要であるかを示したいと思う。私は全く確信しているが、キリスト教信仰を現在のものと考えることは、表立ってなされることがあまりにもまれである。私が人交わりによって確信するところ、今の人々は、キリスト教信仰が将来のものだと信じている。ことによると、そう希望しているというだけかもしれない。確かに、根底にあるのは、人々がキリスト教信仰を愛していないということである。だからこそ彼らは、信仰を自分からはるか彼方に遠ざけておきたがるのである。

 手始めに私が示したいのは、キリスト教信仰がなぜ現在におけるものでなくてはならないか、という理由である。それは、現在が未来と、そしてその先にあるものと、非常に密接なつながりを有しているからである。――聖書が私たちに告げるところ、現世は種蒔きの時期であり、未来は刈り取りである。「肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」[ガラ6:8]。聖書はしばしば私たちにこのような言葉で語っている。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」[詩126:5]。聖書の中で常に想定されているように、現世は、もしこうした表現を使うことが許されれば、来たるべき世を発生させつつあるのである。さながら種が植物を発生させるように、この現在の生も永遠の未来を発生させているのである。実際、私たちも知る通り、天国と地獄は、結局のところ、私たちの現在の人格が発展したものにすぎない。というのも、地獄とはこのことでなくて何であろう。「汚れた者はますます汚れを行ないなさい。聖くない者はいよいよ聖くなくないものとされなさい」*[黙22:11]。私たちは知っているだろうか? あらゆる罪の腹中には、断罪がまどろんでいることを。これは、ぞっとさせられる真理ではないだろうか。永遠の苦悶の胚芽は、あらゆる邪悪な願い、あらゆる汚れた考え、あらゆる不潔な行為の中で眠っており、地獄とは、それまで休止していて、静まりかえっていた溶岩の噴出でしかないのである。その山は、山頂部に至るまで麗しい青草で覆われていた。だが死がやって来て、その溶岩に姿を現わせと命ずるや、人間性の永遠の存在という急坂を、永遠の悲惨という燃える火焔と灼熱の溶岩がどろどろと下って行くのである。それでも、それは以前からそこにあった。罪は地獄であり、神への反逆は悲惨の前奏曲にすぎないからである。天国もそれと同じである。私も、天国が当然支払われるべき報酬[ロマ4:4]ではなく、恵みから出た報酬であると知っている。だが、それでもキリスト者の身の裡には、あらかじめ天国をわがものとするものがあるのである。キリストは何と云われただろうか? 「わたしはわたしの羊に永遠のいのちを与えます」*[ヨハ10:28]。主は、やがて与えるでしょう、とは云わず、彼らに与えます、と云われた。「彼らがわたしを信ずるや否や、わたしは彼らに永遠のいのちを与えます」。また、「信じる者は、永遠のいのちを持っており、決して審かれることがありません」、と。キリスト者は自分の内側に楽園の苗床を有しており、しかるべき時が来ると、正しい者のために種のように蒔かれている光[詩97:11]と、黒土の下に埋められている楽しみとが突然に現われ、彼らは収穫を刈り取るのである。ならば、キリスト教信仰は、私たちが現在有していなくてはならないものであることは明らかではないだろうか? キリスト教信仰が現在も重要であることは、あからさまに啓示されていないだろうか? というのも、もし現世が未来の種を蒔く時だとしたら、いかにして私は地上で蒔いたものとは別の収穫を来世で刈り取ることを期待できるだろうか? いま救われていないとしたら、いかにしてやがて救われると思えるだろうか? 地上における私自身の魂に手付け金が現われ始めていないとしたら、いかにして天国が私の永遠の相続分であることを希望できるだろうか? 

 しかしさらに、聖書の中で、現世は常に、来世のための備えであると云われている。「イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ」[アモ4:12]。「用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた」[マタ25:10]。現世には、来世のための用意をするという部分がある。聖書の比喩を用いれば、私たちは、自分が永遠に着ることになる婚礼の礼服を地上で着なくてはならない。この人生は、王の宮廷の控えの間のようなものであり、私たちは自分の足から靴を脱がなくてはならない。自分の服を洗い、《小羊》の婚宴[黙19:9]に入る用意をしなくてはならない。とかくすると聖書の中では、この思想が、まるで陽光で記されたかのように平明に浮き出ている。現世は終わりの始まりである。――そして、未来のための備えの場である。かりに今のあなたが全くキリスト教信仰を有していないとしよう。今が永遠に代わるとき、あなたはいかなる者として立つことになるだろうか? 日も年もなくなるとき、もしそれまでのあなたが神もなく、キリストから離れて人生のすべてを費やしてきたとしたら、あなたはどうなるだろうか? あなたは死んだ後で急いで白い衣に滑り込もうと期待しているのだろうか? 悲しいかな! あなたは、自分の屍衣をまとわりつかせてはいるだろうが、あの婚礼の式服を着ることはできない。あなたは、あのヨルダン川で身を洗い、自分をきよめようと思っているのだろうか? 悲しいかな! あなたがたは自分の墓で腐敗を生み出すことはあるだろうが、そこに聖潔を見いだすことはない。あなたがたは世を去った後で罪を赦されると当て込んでいるだろうか?

   「いかな恩赦令(ゆるし)も 下ることなし
    我らが急ぐ 冷えし墓には。
    ただ暗闇(やみ)と、死と、永き絶望、
    永久(とわ)に沈黙(しずけ)く かの地を統(おさ)めん」。

あるいは、あなたがたは、墓の間際に近づいたとき、それが備えの時になると思っているだろうか? 騙されてはならない。聖書の中には最後の瞬間になって救われた人の例が1つしか記されていない[ルカ23:43]。思い出すがいい。たったの一例である。そして私たちは、そうした例が再び起こったかどうか、あるいは、これから一度でも起こるかどうか信ずべき何の理由もない。臨終の床の上で救われた人々はいるかもしれない。だが、そうした人々がいたかどうか確かなことは何も分からない。そうしたことも起こりえたが、私たちの中の誰にもそれは分からない。悲しいかな! 数々の事実はそれに反している。というのも、最上の判断材料を有している人々――長いこと人間の病院を見回ってきた人々――が私たちに保証するところ、自分が死にかけていると思って悔い改めの誓いをした人々は、ほとんど何の例外もなく、「犬が自分の吐いた物に戻り、豚が身を洗って、またどろの中にころがる」*[IIペテ2:22]ように、後戻りしていったからである。おゝ、しかり。「きょう、もし御声を聞くならば……心をかたくなにしてはならない」[ヘブ3:15]。というのも、きょうは明日死ぬ者にとって備えの時だからである。――きょうは、永遠の未来のために用意する時なのである。

 ここでもう1つのことを思い巡らすよう促したい。私たちはいかにして救われるだろうか? 聖書全体を通じて私たちは、私たちが信仰によって救われると告げられている。例外はただ1つ、私たちが望みによって救われる、と云われている箇所[ロマ8:24]のみである。さて、注意するがいい。もし私たちが信仰によって救われるとしたら、いかに確実にキリスト教信仰が現在のものでなくてはならないことか。なぜなら、信仰も希望も来世では生きられないからである。「だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう」[ロマ8:24]。影の知られない世が現実に来たとき、希望は存在できない。あるものを現に見ているとき、いかに信仰を発揮できるだろうか? というのも、ある人が信仰によって悟るものとは、感覚によって知覚しないものだからである。確かに私たちは、「見ることは信ずること」、と云いはするが、確かに見ることと信ずることは両極端にある。信ずることは、私たちが見ていないものを確信することであり、それを見るときまで信仰によって信頼しつつ待つことである。だが、見ることは感覚的なことであり、信仰とは正反対である。さて、もし私が信仰によって救われるべきだとしたら、私は信仰を行使できる状態、すなわち、この世で救われなくてはならない。またもし私が望みによって救われるべきだとしたら、私は望みが存在しえないあの世で望みによって救われることはできない。私は地上で救われなくてはならない。地上こそ、希望が自らを生かす大気を呼吸できる唯一の場所だからである。天国の大気は、まぶしすぎ、純粋すぎ、天的すぎ、暖かすぎ、御使いたちの歌声で甘やかすぎるため、信仰や希望には住めないのである。彼らは、ヨルダン川のこちら側の岸辺で私たちを置いて行く。ならば、もし私たちがこれらによって救われるとしたら、事は必然的にこうなると私は思う。――また、あなたがたの中の誰しも、こう推論せざるをえないであろう。――私たちはいま救われなくてはならない。信仰と希望は未来の物事ではないからである。おゝ、もしもこうした言葉の後で、私たちがこう云えるとしたら、何と嬉しいことであろう。「しかり。その通りです。それで間違いありません。そして私たちはそのことを喜んでいます。というのも、『私たちは、今すでに神の子ども』だからです」、と。

 第二のこととして、すでに手短に現在と未来との関わりを示したように、別の例を用いて、現在における救いの重要性を示させてほしい。救いは現在の種々の祝福をもたらすものである。あなたが聖書を読むとき、――そして、悲しいかな、近頃は、しかるべきしかたで聖書を読もうとする者がほとんどおらず、聖書以外の読み物ばかり読まれているが、――あなたが聖書を読むとき、あなたはこの事実に打たれるであろう。あらゆる祝福は現在時制で語られているのである。あなたは使徒がその書簡の1つでいかに語っているか覚えているであろう。「救われた者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」*[Iコリ1:24]。彼は、救われるはずの者とは云わず、救われた者と云う。また私たちは、義認が現在の祝福であることも知っている。――「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」[ロマ8:1]。子とされることは現在の祝福である。というのも、「私たちは、すでに神の子どもです」、と云われているからである。そして、私たちは聖化も現在の祝福であると知っている。使徒が語りかけている相手は、「召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々」[Iコリ1:2]だからである。新しい契約のあらゆる祝福は現在時制で語られている。なぜならそれらは、天国における永遠の栄光を除き、みな地上で享受されているからである。私はこのことを知っている。いつの日か私は、もし私がキリストを信ずる信仰者だとしたら、きょうの私よりも聖化されることを。――聖別という意味ではそうでなくとも、きよめという意味ではそうされることを。――だが、それと同時に、私が確実に知っていることがある。すなわち、私が神の御座の右で、永遠に輝く灯火の間に立つとき、また、この指が力強く黄金の弦を奏でるようになるとき、また、この声が不滅の歌で満たされるとき、私は決して今の私よりも、いやまさって神の子どもになるのではない。そして、あの白い衣を私がまとい、冠を戴かされるときも、私は現在の瞬間以上に義と認められるのではない。というのも、次のことは聖書の教理だからである。

   「罪人は 十字架につける 御神をば
    信じて頼る その瞬間(とき)に
    たちまち受くなり その赦し
    全き救い 御血(ち)によりて」。

しかし、そうした事がらを自分が所有しているのだと確信することもまた、現在における祝福である。どういうことか例証するため、私自身に起こったある状況のことをお話ししよう。ある婦人が思い乱れた様子で私を訪問してきた。彼女の問題はこういうことであった。――彼女は、かつて神に回心したものと思っていた。また、大きな思いの平安を享受し、しばらくの間は非常に喜びに満ちていた。自分が赦され、愛する方において受け入れられたものと信じていたからである。ごく当然ながら彼女は、信仰的な指導を求めて、その教区の聖職者を訪問した。彼女にとって不幸なことに、彼は盲人の手引であった。というのも、彼女が自分の喜びを彼に告げ始めると、彼は彼女を制止してこう云ったからである。「善良な婦人よ。それはみな増上慢です」。「いいえ、先生」、と彼女は云った。「そうではありませんわ。私の望みは、イエスのほか何にもかかっておりません。私はイエスにだけ頼っていますわ」。「それは確かに正しいことです」、と彼は云った。「ですが、あなたには、自分が救われたことを知っていると云えるような権威は何もありませんぞ。自分がすでに罪赦されていると信ずるような権威は何もありませんぞ」。そして彼は彼女に向かって云った。自分は、いかなるキリスト者であれ、ごく僅かな卓越した聖徒たちを除き、このことを確信することはできない信じています。望みをいだくことはできるが、それがすべてです。信頼することはできるが、決して確信することはできないでしょう、と。あゝ! 思うに彼は、神の国への道において、ほんの二、三歩しか進んでいないのである。たとい彼がキリストのうちにあるとしても、彼女にそのようなことを告げるからには、彼はキリストにある非常に小さな幼児でしかなかったのである。というのも、私たちの中で何年か主イエスを着ている者らであれば、過つことのない確信というものがあることを確実に知っているからである。増上慢というものがあることは私たちも知っているが、その両者の間には、あらゆるキリスト者が容易に見分けることのできる区別がある。《増上慢》はこう云う。「私は神の子どもだ。だから好き勝手に生きて良いのだ。私は自分が救われていることを知っている。それゆえ、現在キリストとの交わりを求める必要などないのだ」。しかし、《確信》は云う。「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信している」[IIテモ1:12]。そして《確信》は柔和にその頭を垂れて、こう云う。「私をささえてください。そうすれば私は救われましょう[詩119:117]。私を守ってください。そうすれば私は守られましょう。私を引き寄せてください。そうすれば私はあなたのあとから急いでまいりましょう[雅1:4]」。おゝ! 話をお聞きの愛する方々。今日の偽りを決して信じてはならない。――人は自分が神の子どもであると知ることなどできないという偽りを信じてはならない。というのも、もしあなたがそのようなことを云うとしたら、私たちは一千もの証言であなたに反駁できるからである。私たちは、貧者が、卑しい者が、目に一丁字もない者が、自分はキリストの恩恵にあずかっているのだと信頼している姿を見てきた。確かに彼らが疑うのを見たこともある。彼らが心でキリストを見ることができないと呻くのを聞いたこともある。しかり。神の民のいかに大きな者も震えて、こう云わざるをえなかった時があることは承知している。――

   「こは わが切に知らんと欲し、
    しばしば不安をかき立てしこと。――
    われ主を愛すか さにあらざるか、
    われ主のものなるか、さにあらざるか」。

しかしそれでも、神の民は確信することができる。彼らは、内なる御霊の証しによって、自分が神から生まれたことを知ることができる。というのも、使徒はこう云ってはいないだろうか? 「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです」[Iヨハ3:14]。「私たちが神から生まれたことは、御霊が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」*[ロマ8:16]。私は、いま以上に多くのキリスト者たちが完全な確信を享受しながら生きていてほしいと思う。信仰の乳が凝固して、その表面から完全な確信という厚い乳脂を、神の子どもたちにとっての脂肪と髄としてすくい取ることができるとしたら、何と尊いことであろう。人は、自分がキリスト・イエスにおいて受け入れられていることを、今の人生において、疑いの影もないほど知ることができるのである。

 それでも私はこう考えたい気がする。世俗的な人が何にもまして現在におけるキリスト教信仰に反対するのは、その種々の義務を好まないがためなのだ、と。ほとんどの人々は、キリスト教信仰が数々の責務を必要としないとしたら、キリスト教信仰に非常に心引かれるであろう。多くの道楽者たちは、自分の何本かの葡萄酒の瓶を奪われないとしたら、ごくごく敬虔な人になろうとするであろう。多くのふしだらな人々は、福音があらゆる不潔さ、あらゆる好色な物事を禁じていさえしなければ、宮に上って祈ることにも、ヤコブの神のために気前よく寄付することにも全く反対しないであろう。多くの商人たちは、古い人を脱ぎ捨てる必要がなく、自分のもろもろの罪とキリストとを一挙両得していられるとしたら、主イエス・キリストを着ようとするであろう。――おゝ、いかに熱心にそう望むことであろう。実際、非常に多くの人々は、そうした生き方を好むあまり、それを試そうとしたほどである。私たちの知っているある人々は、あの、イエス・キリストは神であると信じたが、他のあらゆる奇妙な神々も同じように礼拝すべきであると考えていたローマ皇帝のようである。彼らは、キリスト教信仰は非常に良いものだが、罪もまた非常に良いものであると考えるため、この2つを並び立たせ、彼らの生き方はヤヌスのように双面になる。彼らは会堂では最も端正なキリスト者に見えるが、市場にいるときの彼らを見ると、どう見ても正真正銘の偽善者である。人々がキリスト教信仰を一途に見つめようとしないのは、それが放縦さを断ち切り、種々の義務を要求するからである。そして、私が思うに、これは、キリスト教信仰が現在におけるものである証拠である。なぜなら、キリスト教信仰の義務は来世では実践できないがゆえに、地上で実践されなくてはならないのである。

 さて、キリスト教信仰の種々の義務とは何だろうか? 第一のこととして、ここにはその積極的な義務がある。人が人と人との間で行なうべき義務、この悪い世代にあって、慎み深く、正しく、廉直に歩むことである。ある人々がいかに軽々しく道徳について、あるいは、道徳に反して語っていようと、何の道徳もないところには決して真のキリスト教信仰はない。私は、あなたの正統信仰のことなど聞きたくはない。私のところに来て、あなたの個人的な祈りや密室における敬神の念などについて話さないでほしい。もしあなたの生活が悪ければ、あなたは徹底して悪者なのである。良い木は良い実のほか何も実らせることができず、腐った木は腐った実を実らせるものである。そこに疑問の余地はない。あなたの生活、それがあなたそのものである。――というのも、心に満ちていることを口が話す[マタ12:34]のと同じく、心に満ちている生き方を人は送るからである。このように強烈な意見にあなたが不賛成を唱え、「最上の聖徒も誤りやすい存在だ」、と云っても無駄である。私も、最上の人々でさえ罪を犯すことは承知しているが、彼らは喜んで罪を犯すのではない。もし彼らが公然と罪を犯すとしたら、それは例外にすぎないであろう。彼らの生き方は、《天来の》恵みの力の下で、聖なるもの、きよいもの、廉直なものとなるであろう。私が思うに、悪魔は無律法主義を好み、ローマカトリック教徒にこう云っていると思う。「説教し続けるがいい。司祭よ。俺様は、お前が説教することなど気に病みはしない。というのも、お前は俺様の領土に入ってくるからだ。お前は人々に、彼らが罪の中で生きていても、1シリングで赦罪を獲得できると告げている! 何とご立派な教理だ!」 そして、彼はその司祭の背中を軽く叩いてやり、自分にできる限りの援助を与える。それから、ひとりの無律法主義者の教役者が講壇に立つ。悪魔は云う。「あゝ、いくらこいつがローマの教皇を激しく非難しようと、こいつらふたりは俺様のお気に入りだ。どちらが上とも云えないくらいにな」。では、いかにこの人物は説教することか! 彼は信仰のみによる義認を説教し始める。だが、自分の議論をほんの一歩進めすぎる。というのも、彼らは良いわざを激しく非難し始め、聖なる生き方を義務と考える人々を律法主義者呼ばわりし、作り笑いと微笑みを浮かべながら、いかに卓越したふるまいも、人が真理を信じており自分の会堂に通っている限りは全く重要ではないとほのめかすからである。「あゝ」、と悪魔は云う。「どんどん説教するがいい。無律法主義と教皇制。この2つは俺様の大好物だ。というのも、こいつらは、勿体ぶった偽善的な魂にとって最も洗練された山師のふたりだからだ」。もう一度、私は云う。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」[ガラ6:7]。私たちは、自分の行ないによって義と認められはしないが、それでも自分の行ないによって裁かれ、自分の行ないによって罪に定められるのである。そう聖書は語っており、これを私たちは受け入れなくてはならない。それゆえ、キリスト教信仰は現在におけるものでなくてはならない。私たちは、来たるべき世においては、正しく、慎み深く歩むことについて語る必要はない。――

   「彼(か)の地にて すべてはきよく
    さやかな喜び 愛に満ちん」。

天国では、商人と顧客の間で、債務者と債権者の間で、父親と子どもの間で、夫と妻の間で果たすべき義務など何もないであろう。というのも、あらゆる人間関係は過ぎ去るからである。キリスト教信仰は、今の人生のためのものであるに違いない。その種々の義務は、地上で実践されるのでない限り、実践することはできない。

 しかし、こうした事がらに加えて、他の種々の義務もキリスト者にゆだねられている。正直で慎み深くあることはあらゆる人の義務ではあるが、キリスト者には別の基準の掟がある。キリスト者の義務は自分の敵を愛すること[マタ5:44]、すべての人との平和を保つこと[ヘブ12:14]、自分が赦されたいと望むようなしかたで赦すこと[マタ6:14]、悪い者に手向かわず[マタ5:39]、片方の頬を打たれたときには、他の頬をも向けること[ルカ6:29]、求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにすること[マタ5:42]である。――キリスト者は、高貴なことを計画する高貴な人である[イザ32:8]。《主人》の子どもたちが病んでいるときには彼らを訪ねることがキリスト者の義務である。それで、最後には彼に対してこう云われるのである。「あなたがたは、わたしが病気をしたとき、わたしが裸のとき、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねて、わたしの入り用を満たしてくれた」*[マタ25:36]。さて、もしキリスト教信仰が現世のためのものでないとしたら、私はあなたに問うが、いかにその種々の義務を果たすことが可能だろうか? 天国には私たちが慰めたり訪問したりすることのできる貧者はひとりもおらず、私たちが愛想良く赦すことのできる敵はひとりもおらず、私たちが忍耐をもって耐えることのできる危害が加えられることも、不正が忍ばされることもない。キリスト教信仰は、何よりも真っ先に、現世のためのものであったに違いない。今、私たちが神の子どもたちとなるためのものであったに違いない。というのも、もう一度繰り返して云うが、キリスト教信仰の種々の義務の大半は、天国では実践できないからである。それゆえ、キリスト教信仰は現在におけるものでなくてはならない。

 しかし、まもなく結論とするが、私の信ずるところ、さらに多くの人々が今日のためのキリスト教信仰を好まず、それを最後になってから自分のものにしたがるのは、この理由のためである。すなわち、彼らはキリスト教信仰が幸いなものだとは思っていないのである。彼らはそれが人をみじめにすると信じている。彼らは、浮かない顔をした人々に出会ってきた。嵐の日に生まれ、一生の間ずっと心の中の暴風とともに生きてきた人々、太陽の光を一閃たりとも受けたことがなく、その眉宇に一度も快い虹がかかったことのない人々を見てきた。多くの若い人々にはこうした観念がしみついている。彼らは、確かにキリスト教信仰は人をふさぎ込ませ、現世においてずっと陰気にさせるものに違いないと考える。事実、時として彼らが会堂に入り、聖徒たちが歌っているのを聞くと、――そして、これは何と甘美な賛美歌であることよ、――真理における悲しい甘やかさである!――

   「主よ。こはいかに 惨めな土地ぞ」。

その後で彼らは外に出て来て云うのである。「もはや間違いない。われわれは何の関わりも持つまい」。キリスト教信仰のことを、極度の吐き気を催させる薬とみなして彼らは、――たといそれを飲まなくてはならないとしても、――それを最後まで引き延ばそうとする。そして、「主よ。私をあわれんでください」、との願いとともにそれを嚥下しては、その苦味がほとんど口中に広がらないうちに、天国におけるその甘やかさを享受し始めることを期待するのである。何たる間違いであろう! キリスト教信仰には、現在におけるその楽しみがある。私はきょう、この会衆の面前で、また《全能の神》の御前で厳粛に確言するが、たとい私が犬のように死ななくてはならず、埋葬されてそれっきりになるとしても、もし人が送りうる限りの最も幸福な人生を選べるとしたら、「私はキリスト者になりたい」、と云うであろう。というのも、たとい一部の人が云うようにそれが迷妄であるとしても、それは私たちがひねり出した中で最も華麗な迷妄の1つだからである。もし誰かがキリスト教の信仰が迷妄であることを証明できるとしたら、次に彼がすべきことは首をつることであろう。なぜなら、その場合、生きるに値するものは何もなくなるからである。彼は座り込んで、自分がこれほど美しい構造物を廃墟にし、これほど心地よい夢を打ち破ってしまったことを思って泣いて良い。

 あゝ! 愛する方々。キリスト教信仰には、現在における種々の楽しみがある。語るがいい。あなたがた、それを知っている人たち。というのも、あなたがたには語ることができるからである。だが、あなたがたはそのすべてを詳しく語ることはできない。おゝ! あなたがたは、この地上が良いもの、大したものと呼ぶ種々の喜びゆえに、自分のキリスト教信仰を放棄したいと思うだろうか? 云うがいい。もしあなたの不道徳な人生に幕を引けるとしたら、たといこの世のあらゆる王国と引き替えにしようと云われても、キリスト教信仰を放棄したいと思うだろうか? おゝ、あなたがた、貧困の子ら。これは暗闇の中におけるあなたに対するともしびを有していないだろうか? これは、あなたの艱難の暗い影を通してあなたを照らしてくれたではなかっただろうか? おゝ! あなたがた、たこだらけの手をした労苦の子ら。これはあなたの安息、あなたに甘やかな休息を与えてくれたものではなかっただろうか? 神の数々の証言は、あなたの旅の家であなたの歌となってこなかっただろうか?[詩119:54] おゝ! あなたがた、悲しみの娘たち。あなたがた、人生のほとんどの時期を床の上で過ごしている人たち。――そして、あなたにとってあなたの寝椅子は苦痛を与える拷問台である。――キリスト教信仰はあなたにとって甘美な鎮静剤ではなかっただろうか? からだの節々がきりきりと痛むとき、あなたがたは、そうした時でさえ、自分の寝床の上で主を賛美できたではないだろうか? きょう、あなたの寝椅子の上から語るがいい。あなたがた、肺病を病む人たち。たとい蒼白な頬をしていようと、この日、あなたの苦悶の床の中で語るがいい。あなたがた、数え切れない病に悩まされている人たち。また、自分のいまわの家へと近づきつつある人たち。キリスト教信仰は病室にあって、あるいは、苦痛と苦悶の床の上で、持つに値するものでないだろうか? 「あゝ!」、と彼らは心から云う。「私たちは床の上でも神を賛美できます。火の中にあっても神を称賛できます」。また、あなたがた、実業に携わる人たち。あなた自身のことも語るがいい! あなたは苦しい葛藤をくぐり抜ける人生を送っている。時としてあなたは極度の窮地に追い込まれ、あなたの商売の存続は風前の灯火のように思われる。では、あなたのキリスト教信仰は、あなたの種々の困難の中であなたにとって1つの喜びではなかっただろうか? それはあなたの思いを鎮めてくれなかっただろうか? あなたが世俗の事がらについて気をもみ、悩んでいたとき、あなたは自分の部屋に入り、戸を閉ざして、あなたの御父に自分の思い悩みをすべて打ち明けることが喜ばしいことであることに気づかなかっただろうか? そして、おゝ、あなたがた、富める人たち。あなたもこの《主人》を愛してきたとしたら、同じ証言ができないだろうか? 《救い主》がおられなければ、あなたの富のすべてはあなたにとって何だっただろうか? あなたはこう云えないだろうか? キリスト教信仰こそは、自分の金を黄金色に光らせ、自分の銀をより明るく輝かせてきたものである、と。というのも、あなたの有するすべてのものは、この考えによって甘やかなものとされてきたからである。すなわち、あなたはこうしたすべてを有するとともに、キリストをも有しているのである! このことを否定できるような神の子どもがこれまでいただろうか? 私たちは、多くの不信心者たちが、死の間際になって自分の不信心について嘆き悲しんだという話なら、いくらでも聞いてきた。だが、その逆を行くようなキリスト者の話を一度でも聞いたことがあっただろうか? あなたは、自分の臨終の床の上で、聖潔の人生を振り返って悲しんだという人のことなど一度でも聞いたことがあるだろうか? 私たちは放蕩者が、その数々の不義によってからだを荒廃させ、死体へとしなびていくのを見たことがある。自分が道を踏み外した日のことを彼が嘆き悲しむのを聞いたことがある。私たちは、あわれな堕落した罪の娘が病気にむしばまれているのを見、悲鳴をあげるのを耳にしたことがある。自分が正道をそれたことで、惨めにわが身を呪うのを聞いたことがある。彼女が足を踏み入れたのは、陽気な通り道と呼ばれるものだったが、実は地獄への通り道だったのである。私たちはまた、自分の金袋を握りしめてきた守銭奴を見たこともある。見ると彼は、その臨終の床の上で自分を呪っていた。死の間際になると、彼の金は、いくら胸板の上に載せてもその痛みを鎮めることも、喜びをもたらすこともできないというのである。だが、決して決して私たちは、自分のキリスト教について悔やんだキリスト者を知らない。私たちは、生きているのが不思議なほど病んでいるキリスト者たちを見てきた。――彼らは驚異の目をみはるほど貧しかった。私たちは彼らが疑いの念に満ちているのを見て、彼らの不信仰を憐れむほどであった。だが、私たちは決して彼らが、そうしたときでさえ、「キリストになど身をささげなければ良かった」、と云うのを一度も聞いたことはない。しかり。死に握りしめられ、心もからだも消え入らんばかりになりつつも、私たちは彼らがこの宝を自分の胸に抱き寄せて、これがなおも自分のいのち、自分の喜び、自分のすべてであると感じているのを見てきた。おゝ! もしあなたがたが幸せになりたければ、もしあなたがたが救われたければ、もしあなたがたが自分の通り道に陽光を降り注ぎ、刺草を掘り出し、いばらを鈍らせたければ、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」[マタ6:33]。幸福を第一に求めてはならない。キリストを第一に求めるがいい。そうすれば、幸福は後からやって来るであろう。主を第一に求めるがいい。そうすれば、主がこの人生において有益なすべてのものをあなたに供し、それに加えて、来たるべき生において栄光に富むすべてのものを授けてくださるであろう。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです」。

 この講話をしめくくる前に、残念ながら、あなたがたの中の非常に多くの人々はこう云うのではないかと思う。「よろしい。私はキリスト教信仰になど全く関心はない。それは私には全く無用のものだ」。しかり。愛する方々。そして、おそらく、あなたはキリスト教信仰にずっと関心を持たないまま、手遅れになる時を迎えるであろう。ことによると、あなたはこうした考えを押しのけながら、来たるべき日を迎えるかもしれない。そのとき、こうした考えがどっとあなたに押し寄せ、もはやあなたは先延ばしすることができなくなるであろう。そして、あなたはまさに真剣にキリストを求め始めるであろう。だが、そのとき主はあなたに向かって云うであろう。「モアブが高き所にもうでて身を疲れさせても、祈るためにわたしの聖所にはいって行っても、わたしは彼に聞かない。――主の御告げ――」*[イザ16:12]。いま、「努力して狭い門からはいりなさい」。なぜなら、「はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから」[ルカ13:24]。恐れていようではないか。福音を耳に宣べ伝えられていながら、それをないがしろにし、遠のけたまま最後の時になり、自分に何も望みがないことに気づき、《救い主》を求める時間がないことにならないように。

 私は、今朝の説教がどこで有益なものになるか知っている。それは、キリストを求めている人々の場合であろう。エジンバラの通りでほんの数箇月前まで説教をしていた老フロックハートは、ひどく蔑まれながらも、非常に敬虔な人であったが、常々こう云っている。「私が説教し始めるときには、律法を説教することによって始める。そして、それからその後で福音を持ち出す。というのも」、と彼は云った。「それは縫い物をしている婦人に似ているからだ。――彼女は糸だけでは縫い物ができない。まず鋭い針を突き刺し、その後で糸を引くのである。そのように主は私たちに対しても行なわれる。主は罪の確信という鋭い針、律法という針を私たちに心の中に送り込み、私たちに心を突き刺し、その後でそれを通して慰めという長い絹糸を引かれるのである」。おゝ! 私が願うのは、あなたがたの中のある人々が、きょう心を刺されることである。覚えておくがいい。この本の中には雷鳴がある。それらは今は眠っているが、やがて目を覚ますであろう。この聖書の中には、ぞっとするほど恐ろしい呪いもある。それらは今はまどろんでいるが、いずれ覚醒することになる。では、それらが折り重ねられた頁の間から躍り上がり、あの七つの封印が破られるとき、あなたはどこに逃げるというのだろうか? あの最後の大いなる怒りの日に、どこに身を隠すというのだろうか? ならば、もしあなたがたが心を突き刺されているとしたら、私は今あなたに福音を宣べ伝えよう。「きょう、もし御声を聞くならば……心をかたくなにしてはならない」[ヘブ3:15]。この日、十字架にかかっているお方を仰ぎ見るがいい。この日、信じて生きるがいい。

 そして、今、反逆する罪人たちがいかなるしかたで神に和解させられるかの例証として、ある兵士の人生から、1つの興味深い逸話を物語ることにしよう。それは、あなたの思いに恵みを降り注ぐ神の威光と、その恵みを受け取ることにおける罪人の心へりくだらされる経験とを描き出し、この厳粛な問いに私たちが答えることを助けてくれるであろう。――「救われるためには、何をしなければなりませんか?」 私の著者は云う。印度で任務を果たしていた、とある連隊に属する彼自身と彼の戦友たちは、ほぼ六箇月の間、給金を受け取っておらず、兵員の間では、連隊長がその金を着服しているのではないかとの強い疑いが広まっていた。彼は賭博狂で、十中八九、彼らの給金を賭け事ですってしまったのだと彼らは思った。彼らは事を正そうと決意した。それで、兵卒たち全員は(下士官たちを除き)、ある特定の朝に、行進の間、号令の言葉に従わない申し合わせをした。その日がやって来て、彼らはそのたくらみを実行に移した。連隊が招集された。各人は個々に集団をなしてはそれぞれの士官に率いられて練兵場に向かい、解放縦隊になった。連隊長は正面にある持ち場に立つと、号令の言葉を発した。しかしながら、兵卒たちは誰ひとり従おうとしなかった。これは連隊の行動であったために、連隊長は非常な沈着さをもって、十人ごとにひとりが営倉に禁固されるように命令した。このことは、いかなる抵抗の気配も見せずになされた。その後で、兵卒全員は銃剣を付け、武器をかつぎあげると、行進して去って行き、――楽団は楽器を鳴らし、太鼓が鳴らしていた――ほぼ一哩離れた将軍の邸宅へと歩き通した。そこに彼らは停止すると、その家屋に対して、この上もなく整然としたしかたで一列に並んだ。十個中隊ごとにひとりの者が進み出ては、かの大佐に対する訴状を提出した。このように自分たちの目的を果たすと、彼らは行進して戻り、解散した。だが、次になされたのは囚人たちの釈放であり、このことを彼らは、衛兵から全く手向かわれずに行なうことができた。このようなふるまいから、いかなる罪の軽減を私たちは思い描けるとしても、軍法からすると、それは深刻な犯罪であった。兵卒の義務は従うことである。兵は自分で考えてはならず、上官たちの手にある道具とならなくてはならない。自分に告げられた通りに行なうべきであり、不平を云うべきではない。このことの後でまもなく、この兵卒たちにとって驚いたことに、将軍がセポイ[印度人兵]の大軍を伴って近づいてくるのが見えた。歩兵も騎兵ももろともに、また野戦砲を前面に押し立てていた。連隊は出て行き、整列しては彼を丁重に出迎えた。しかし、そうさせることが将軍の出向いてきた理由ではなかった。彼らは嵐が起ころうとしているのを見て、戦闘準備を行なった。両軍の戦列が形成され、互いに向き合うと、将軍は馬に乗って歩を進めて、云った。「第二十四連隊は、私の指揮に従え」。彼らは従った。そこで彼は云った。「立て銃!」 それから――「手に銃!」――そして最後に、彼らにとって最も不名誉なことに、「置け銃!」 このように武装解除した後で、彼は麾下の黒騎馬隊に命じて、彼らに突撃させ、彼らを自分たちの武器の元から追いやった。それから最後に彼は、この不満兵たちに命令を下した。自分の装具をはぎ取り、それを地に置き、自分の兵営へと戻れ、と。このように彼は、彼らを武装解除し、名誉を奪った後で、彼らを赦してやった。

 さて今、この事件は、神が罪人たちを扱うしかたを、適切に表わすものではないだろうか? 主イエス・キリストの福音に従えば、神は、ご自分に反乱している私たちに対して、講話と和解の条件を提示される。神は、「武器を地に置き、お前たちの罪を放棄し、自分で自分を義とする思いを投げ捨てよ」、と云われる。神は私たちを武装解除し、私たちの名誉を奪い、私たちの美しい装いをみなはぎ取り、その後で、「今、わたしはお前を赦そう」、と仰せになるのである。もしこの場に誰か、すでに自分の反逆の武器を投げ出している人、また、美々しい装飾が恥辱で汚されている人がいるなら、その人は、神があなたを赦してくださることを信ずるがいい。神は、自分で自分を赦せない人々をもお赦しになる。私たちの救いの偉大な《指揮官》[ヘブ2:10 <英欽定訳>]は、ご自分が屈辱を与えた者たちに赦罪をお与えになる。主はあなたをご自分の意志に服従させようとされる。そしてそれは、最初は専断的にあなたを自分の居場所から追い払い、あなたに刑罰をもたらすかのように思われるであろうが、すぐさまあなたは、主の主権的な意志が恵み深いものであること、また、主がいつくしみを喜ばれる[ミカ7:18]ことに気づくであろう。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。というのも、みことばはこう云っているからである。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。

  
 

現在におけるキリスト教信仰[了]

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