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人間の責任

NO. 194

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1858年5月16日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません」。――ヨハ15:22


 ユダヤ人の格別な罪、すなわち、何にもまして彼らの以前のもろもろの不義をはなはだしいものとした罪は、メシヤとしてのイエス・キリストを彼らが拒絶したことであった。主のことは数々の預言書で非常に平易に描写されていたし、主を待ち望んでいた人々、例えばシメオンやアンナは、幼子の状態の主であってさえ、一目見るなり主を見たことを喜び、神がご自分の救いを送られたことを理解した。しかし、イエス・キリストが、あの悪い世代の期待に答えなかったがために、また、主が華麗な栄光を装いも、権力を身にまといもせずにやって来たがために、また、主が君主としての外的な装飾物も国王としての栄誉も帯びておられなかったがために、彼らは主に対して自分の目を閉ざした。主は「砂漠の地から出る根」であられ、「さげすまれ、彼らも彼を尊ばなかった」*[イザ53:2-3]。また彼らの罪は、それだけでは済まなかった。主のメシヤ性を否定するだけでは満足せず、彼らは主に対してこの上もなく激しい憤りを燃やした。主を一生の間狩り立て、主の血を欲した。その悪鬼のごとき悪意が、十字架の根元に腰を下ろし、十字架にかけられた自分たちのメシヤの断末魔の苦しみと、いまわの苦悶を眺めて満たされるまで満足しなかった。十字架の上には、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」[ヨハ19:19]という言葉が書かれていたにもかかわらず、彼らは自分たちの王、神の永遠の御子を知らなかった。そして、主を悟らなかったがために、彼らは主を十字架にかけた。「もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」[Iコリ2:8]。

 さて、ユダヤ人のこの罪は、異邦人によって毎日繰り返されている。かつてユダヤ人が行なったことを、多くの人々は毎日行なっているのである。今この場にいて、私の声を聞いているあなたがたの中の多くの人々は、メシヤを忘れているではないだろうか? あなたは主を否定するほどの手間暇もかけない。あなたは、キリスト教国と呼ばれる所で立ち上がり、主の御名を冒涜することによって自分の品位を落とそうとはしない。ことによると、あなたは主に関する正しい教理を奉じているかもしれない。主をマリヤの子であるだけでなく、神の御子であると信じているかもしれない。だがそれでもあなたは、主の数々の主張を無視し、主に何の誉れも与えず、自分の信頼をかけるにふさわしいお方として受け入れはしない。主はあなたの《贖い主》ではない。あなたは主の再臨を待ち望んでおらず、主の血によって救われることも期待していない。否、それよりも悪い。あなたがたはこの日、主を十字架にかけている。というのも、あなたがたは知らないだろうか? 自分からキリストの福音を放棄する人々は、主をもう一度十字架にかけ[ヘブ6:6]、主の傷口を大きく開かせているのである。みことばが宣べ伝えられるのを聞いたにもかかわらず、それを退けるたびに、また、警告を受けたにもかかわらず、あなたの良心の声を押し殺すたびに、また、震えおののかされたにもかかわらず、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」[使24:25]、と云うたびに、実質的にあなたは槌と釘を握り、再びあの御手を刺し貫き、あの脇腹から血を流れ出させているのである。また、他のしかたによってもあなたは主を傷つけている。主の肢体を通してである。あなたがたが主に仕える教役者を蔑んだり、主のしもべたちの前につまずきの石を置いたりするたびに、あるいは、悪い模範によって主の福音を妨げたり、辛辣な言葉によって求道者を真理の道から脇にそらしたりするたびに、あなたはユダヤ人に呪いをもたらした大きな不義を犯しているのである。その呪いによって彼らは地上をさまよう運命に陥り、それは再臨の時まで続く。その時やって来られるお方は、ユダヤ人によってさえユダヤ人の王であると認められるであろう。このお方、すなわち、メシヤを、いまユダヤ人と異邦人の双方は、切なる期待とともに待ち受けている。かつては苦しみを受けるために来られたが、二度目は支配するためにやって来られる《君主》である。

 さて私は今朝、あなたとユダヤ人との間にある平行関係を努めて示すことにしたいと思う。決まり文句によってではなく、神が私を助けてくださるにつれて、心に思い浮かぶままにそうしよう。あなたの良心に訴え、あなたにこう感じさせよう。すなわち、キリストを拒絶することにおいて、あなたがたは同じ罪を犯し、同じ運命を招き寄せているのだ、と。私たちがまず第一に注意したいのは、伝道活動がいかに素晴らしいものであるかである。というのも、キリストはやって来て、人々に語りかけておられるからである。「もしわたしが来て彼らに話さなかったら」。私たちが第二に注意したいのは、キリストの使信を拒絶することによって引き起こされる罪のはなはだしさである。「もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう」。第三に、みことばの宣教によって引き起こされる、あらゆる云い訳の死である。「今では、その罪について弁解の余地はありません」。それから最後のこととして、手短に、だが非常に厳粛に告知したいのは、このように《救い主》を拒絶する人々、また、主を蔑むことによって自分たちの咎を増し加えている人々の、恐ろしいほどはなはだしく重くされた破滅である。

 I. では第一のこととして、今朝私たちが云わなくてはならないのは、それも、真実のこととして云わなくてはならないのは、《この福音の宣教において、私たちの主イエス・キリストは人の良心のもとにやって来られ、救い主は私たちを通して語りかけておられる》ということである。古のイスラエルがモーセを蔑んで、彼に対して不平を云ったとき、彼は柔和にこう云った。「あなたがたは私たちにつぶやいたのではない、イスラエルの主なる神につぶやいたのだ」。そして、まことに教役者は、聖書の裏づけをもって同じことを云えるであろう。私たちを蔑む者は、私たちを蔑むのではなく、私たちを遣わしたお方を蔑むのである。この使信を拒絶する者は、私たちが云うことを拒絶するのではなく、永遠の神の使信を拒絶するのである。教役者は人にすぎない。祭司的な権力など何も持ち合わせていない。だが彼は、人類のその他の人々の中から召された者であり、聖霊を授けられて、同胞の者たちに語るべき者なのである。そして、彼が天から送られた力によって真理を宣べ伝えているとき、神は彼をご自分の使節と呼ぶことによってご自分のものであると認め、彼をシオンの城壁に立つ見張り人という高く、責任ある立場につけられる。また、すべての人々に用心するようお命じになる。忠実な使信が、忠実に語られたとき、それを蔑み、踏みにじるのは、神への反逆になり、《いと高き方》への罪と不義になるのである。私が人として云うかもしれないことについては、それを私が云ったということは大した意味を持たない。だが、もし私が主の使節として語っているとしたら、その使信を軽んじないように用心するがいい。天から下達された神のことばをこそ、私たちは聖霊の力によって宣べ伝え、それを信ずるよう熱心にあなたに訴えているのである。そして、覚えておくがいい。それを遠のけるとしたら、あなたは自分の魂を危険にさらすのである。というのも、語っているのは私たちではなく、私たちにおいて語っておられる、私たちの神なる主の御霊だからである。このことはいかなる厳粛さを福音の伝道活動に帯びさせることか! おゝ、あなたがた、人の子らよ。伝道活動は人々が語っているのではない、人々を通して神が語っておられるのである。真に召され、遣わされた神のしもべたちはみな、自分の考え出した使信を語っているのではない。むしろ、彼らはそれを最初に《主人》から聞いて、それを人々に語っているのである。また、彼らは自分たちの目の前にあるこの厳粛な言葉を常に見つめているのである。――「自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります」[Iテモ4:16]。また、彼らは自分たちの背後に、このすさまじい脅かしを聞いているのである。――「もしあなたが彼らに警告を与えず、彼らが滅びるなら、わたしは彼の血の責任をあなたに問う」*[エゼ3:18参照]。おゝ! あなたがたがこの日、自分の前に、この預言者の言葉が火文字で記されているのを見ることができれば、どんなに良いことか。――「地よ、地よ、地よ。主のことばを聞け」[エレ22:29]。というのも、私たちの伝道活動が真実なものであり、過誤によって汚されていない限り、それは神のことばだからである。また、そこには、あたかも神ご自身が、慎ましいみことばの伝道活動によって語るのではなく、シナイの山頂からお語りになるのと同じくらい、あなたの信仰を要求する権利があるのである。

 そして今、この教理の前で少し立ち止まり、この厳粛な問いを自らに発してみよう。私たちはみな、恵みの手段をないがしろにするという点で、神に対してはなはだしい罪を犯してこなかっただろうか? いかにしばしばあなたは、神ご自身が語っておられるときに、神の家に近づかなかったことだろうか? もしイスラエルが、あの神聖な日に、かの山の頂から神のことばを聞くよう招集されたとき、それを聞きに行く代わりに、荒野をぶらぶらしていたとしたら、いかなる破滅をこうむっただろうか? だがしかし、あなたはそれと同じことをしてきたのである。あなたは自分自身の楽しみを追い求め、誘惑という海精の歌に耳を傾けてきた。だが、《いと高き方》の御声には耳を閉ざしてきた。神がご自分の家で自ら語っておられたとき、あなたがたは曲がった道にそれ、あなたの神、主の御声を顧みなかった。また、あなたがたが神の家にやって来たときも、そこには、いかにしばしば無頓着な目、不注意な耳があったことか! あなたがたは、聞いてもまるで聞いていないかのようだった。あなたの耳は刺し貫かれたが、心の中の隠れた人はつんぼだった。私たちがいかに賢くあなたを魅せても、あなたは私たちに耳を傾けることも、顧みることもしなかった。神ご自身が、時にはあなたの良心の中でお語りになり、あなたはそれを聞いてきた。あなたは通路に立ちながら、膝をがくがく鳴らしていた。あなたは会衆席に座っていて、どこかの強力なボアネルゲが雷鳴のように言葉を発している間、それが御使いの声によるかのように語られるのを聞いてきた。――「あなたはあなたの神に会う備えをせよ。――あなたがたの現状をよく考えよ。――あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない」[アモ4:12; ハガ1:5; II列20:1]。だがしかし、神の家から外に出ると、自分がどのような者であったかを忘れてしまった[ヤコ1:24]。あなたは御霊を消してきた。恵みの御霊に対して侮辱を加えてきた。あなたの良心の葛藤を自分から遠く押しのけてきた。あなたの心の中で産声をあげ始めた祈りの幼子を絞め殺してきた。まさに表に出つつあった、新しく生まれた願いを溺死させてきた。あらゆる良いもの、神聖なものを自分から遠のけてきた。あなたは自分の道に舞い戻り、再び罪の山々、不義の谷間をさまよった。あゝ! 愛する方々。では、一瞬でも考えてみるがいい。これらすべてにおいて、あなたは神を蔑んできたのである。私は確信しているが、もし聖霊が今朝、この1つの厳粛な真理をあなたの良心に適用しさえしたら、この《音楽堂》は嘆きの家と化し、この場所は一個のボキム[士2:5]となるであろう。哀哭の場となるであろう。おゝ、神を蔑んできたこと、《人の子》の足を踏みつけてきたこと、その十字架の前を知らぬ顔で通り過ぎてきたこと、主の愛の求愛と、主の恵みの警告とを拒絶してきたこと! いかに厳粛なことか! あなたはこれまでこのことを考えたことがあるだろうか? あなたは、それをただの人を蔑むことにすぎないと考えていた。あなたがたは今それが神を蔑むことであると考えるだろうか? キリストがあなたに語っておられたからである。あゝ! 神が私の証人であるが、しばしばキリストはこの目によって泣かれ、この唇によってあなたに語ってこられた。私はあなたの魂をかちとることのほか、何も求めてこなかった。時には手荒な言葉であなたを十字架のもとに追いやろうと努めてきた。また別のときには、涙声であなたを泣かせて私の《贖い主》のもとへ行かせようとした。そして確かに私は、そのとき自分で語ったのではなく、イエスが私を通して語っておられたのである。そして、あなたがたが聞いては泣き、それから外へ出て行って忘れ果てた限りにおいて、キリストがあなたに語られたことを覚えておくがいい。主こそ、こう云われたお方である。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]。主こそ、こう云われたお方である。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」[マタ11:28]。主こそあなたに警告したお方であって、もしあなたがこの大いなる救いをないがしろにしたとしたら、あなたは滅びなくてはならず、その警告を押しやり、その招きを拒絶してきたことにおいて、あなたは私たちを蔑んできたのではなく、私たちの《主人》を蔑んできたのである。そして、あなたがたが悔い改めない限り、あなたは災いである。というのも、天から語るお方の御声を蔑んできたことは恐ろしいことだからである。

 II. さて今、私たちは第二の点に注意しなくてはならない。すなわち、《福音を拒絶することによって、人の罪ははなはだ重くなる》、ということである。さて、誤解しないでほしい。私は、神の家に行き、罪の感覚に満たされて、ついにはほとんど絶望に駆られてしまった人々のことを聞いたことがある。というのも、サタンが彼らを誘惑して神の家を捨てさせてしまったからである。サタンは云う。「お前が行けば行くほど、お前は自分の断罪を増し加えているのだ」。さて、私はこれが間違いであると信じている。私たちは、神の家に行くことによって自分の断罪を増し加えはしない。行くのをやめることによって、いや増し加える方がずっとありがちなことである。というのも、神の家に行くのをやめるのは、二重にキリストを拒絶することになるからである。あなたは、内なる霊だけでなく、外側の精神によってもキリストを拒絶するのである。あなたは、ベテスダの池に横たわることさえないがしろにしている。あなたはその池に横たわっていながら、中に入ることができない人よりも悪い。あなたはそこに横たわっていない。それゆえ、神のことばを聞くことをないがしろにすることによって、実際あなたは恐ろしい破滅を身に招いている。だが、もしあなたが真摯に祝福を求めつつ神の家に行くとしたら、たといあなたが慰めを得ないとしても、――たといあなたが恵みの手段のうちに恵みを見いださないとしても、もし敬虔にそれを求めつつそこへ行くとしたら、あなたの断罪はそれによって増し加わりはしない。あなたの罪は、単に福音を聞くことによってはなはだしく重くはならない。むしろ、それを聞いたとき、故意に、また、よこしまな思いによって拒絶することによってそうなる。福音の音を耳にする人、また、それを聞いた後で、呵々大笑してそれに背を向けるか、それを何度も何度も聞き、目に見えて感銘を受けた後で、この邪悪な人生の心遣いや快楽が入り込むにまかせて、その種子を窒息させる者――このような者こそ、恐ろしいしかたで自分の咎を増し加えているのである。

 さて今、私たちは、その人がなぜ咎をはなはだしく重くするかについて、2つのしかたで注意しよう。まず第一のこととして、その人が全く新しい罪、それまで一度も犯したことのない罪を得ているからであり、それに加えて、他のあらゆる自分の罪をはなはだしく重くしているからである。ここにホッテントット族の土人を、あるいは、カムチャツカの土着民を、または、みことばを一度も聞いたことのない野蛮人を連れて来るがいい。その人は、咎の目録の中にあるあらゆる罪を有しているかもしれないが、1つの罪だけは犯していない。その罪を犯していないことを私は確信している。その人は、福音が宣べ伝えられたときに、それを拒絶する罪を犯したことはない。しかし、あなたが福音を聞くとき、1つの新しい罪を犯す機会を得るのである。そして、もしあなたがそれを拒絶したとしたら、あなたは、自分の首にぶらさがっている他の一切の不義に加えて、新しい不義を1つつけ加えたのである。私はしばしば、真理を踏み外した一部の人々から叱責されてきた。なぜなら、人々がキリストの福音を拒絶するとしたら、それは彼らの中にある罪である、という教理を私が説教したからである。私はいかなる罵詈讒謗を浴びても嬉しく思う。私の確信するところ、そのように説教することには神のことばの裏づけがあり、いかなる人も人々の魂に対して忠実であり、かつ彼の血の責任から逃れたければ、この死活に関わる主題について、頻繁に、かつ《厳粛に》証言していなくてはならないと信ずる。「その方、すなわち真理の御霊が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」*[ヨハ16:8-9]。「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した」[ヨハ3:19]。「信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」[ヨハ3:18]。「もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです」[ヨハ15:24]。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ」[マタ11:21-22]。「もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません」[ヨハ15:22]。「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう」[ヘブ2:1-3]。「だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。私たちは、『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。』、また、『主がその民をさばかれる。』と言われる方を知っています。生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです」[ヘブ10:28-31]。見ての通り、私が引用してきたのは、いくつかの聖書箇所であり、もしこれらが意味していることが、不信仰は罪であり、まさに他のすべてにまさって人々の魂を罪に定める罪であるということでないとしたら、これらには全く何の意味もない。だが、これらは、完全に神のことばの中にある通りの言葉なのである。さて、姦淫や殺人や盗みや嘘――これらはみな人を罪に定める、きわめて大きな罪である。だが、悔い改めるとき、これらはキリストの血によってみなきよめられることができる。しかし、キリストを拒絶するなら、人は何の望みもないまでに滅ぼされてしまう。殺人者も、盗人も、酔いどれも、まだ天国に入ることができる。自分のもろもろの罪を悔い改めて、キリストの十字架をつかむならばそうである。だが、こうした罪をかかえている人が主イエス・キリストを信じないとしたら、必然的に失われるのである。

 さて今、話をお聞きの方々。しばしの間、これが――あなたの他の一切の罪に加えるこの罪が――いかにすさまじい罪であるかを考えてもらえないだろうか? すべてがこの罪――キリストを拒絶する罪――の腹中に横たわっている。そこには殺人がある。というのも、絞首台の上にいる男が赦免を拒絶するとしたら、彼は自分で自分を殺すのではないだろうか? ここには高慢がある。というのも、あなたがキリストを拒絶するのは、あなたの高慢な心があなたを脇へそらしているからである。ここには反逆がある。というのも、私たちは、キリストを拒絶するとき神に反逆しているからである。ここには大逆の罪がある。というのも、あなたは王を拒絶しているからである。あなたはこのお方を――冠を戴いた地上の王を――自分からはるか彼方へ遠ざける。それゆえ、あなたは、ありとあらゆる咎の中でも最も重い咎を負うのである。おゝ! 考えても見るがいい。主イエスが天から下ってこられたことを。――ほんの一瞬でも考えてみるがいい。主が木の上にかけられたことを。――主がそこで極度の苦悶のうちに死なれたことを。また、その十字架からこの日、主があなたを見下ろして、こう云っておられることを。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」[マタ11:28]。あなたが、それでも主に背を向けていることを。――これは、最も無慈悲な一刺しである。あなたのために自分のいのちをささげてくださったお方に背を向けるほど獣じみたこと、悪魔じみたことがあるだろうか? おゝ、あなたがたに知恵があり、これを悟り、自分の終わりをわきまえる[申32:29]としたらどんなに良いことか!

 しかしまた、私たちは、単に咎の目録に1つの新しい罪を追加するだけでなく、他の一切の咎をはなはだしく重くするのである。あなたがた、福音を有している人たち。あなたは、他の人々のように安っぽく罪を犯すことはできない。光を受けていない無知な人々が罪を犯すとき、彼らの良心は彼らを刺すことがない。また、光を受けている者の罪の中にあるような咎は、無知な者の罪の中にはない。あなたは以前、盗みをしていただろうか? それは十分に悪いことである。だが、福音を聞いた上で盗人であり続けるとしたら、あなたは極悪の盗人である。あなたは福音を聞く前に嘘をついていただろうか? 偽り者の相続分は、火の池の中である。だが、それを聞いた後の偽り者は、あたかもトフェテ[イザ30:33]の火が七倍もの熱さにあおり立てられるかのように思われる。知らずに罪を犯す者には、ほんの少しは弁解の余地がある。だが、光と知識に逆らって罪を犯す者は、増上慢に罪を犯すのであって、律法の下では、こうしたことのためにはいかなる贖罪もなかった。というのも、増上慢な罪は法的な贖罪の極みを越えているからである。とはいえ、神はほむべきかな。キリストは、こうした者らさえ贖ってくださった。それで信ずる者は、その咎にもかかわらず救われるのである。おゝ! 私は切に願う。不信仰の罪が他のあらゆる罪を黒く染めることを思い起こすがいい。それはヤロブアムのようである。彼は自分で罪を犯し、かつ、イスラエルに罪を犯させたと云われている[I列14:16]。そのように、不信仰は自ら罪を犯すだけでなく、他のあらゆる罪に導くのであみる。不信仰は、あなたが《いと高き方》への反逆のために用いる斧を、犂刀を、剣を研ぐやすりである。あなたのもろもろの罪をよりはなはだしく罪深くするのは、キリストへの不信仰をあなたが深める場合である。キリストについてより良く知り、かつ、キリストを拒絶することをより長く続ける場合である。これは神の真理である。だが渋々と、また、私たちの霊において多くの呻きとともに語られるべき真理である。おゝ、このような使信をあなたに伝えなくてはならないとは。あなたにと私は云う。というのも、もし天の下に本日の聖句があてはまる人々が誰かいるとしたら、それはあなたがただからである。疑いもなく、他にもあなたと等しく忠実で真剣な伝道活動の下に座っている人々はいるに違いないが、かの大いなる日に神があなたと私との間を審かれる通り、私は自分の力の限りを尽くしてあなたの魂に忠実であった。この講壇で私は決して、難解な言葉によっても、専門用語によっても、私自身の知恵をほめたたえようとはして来なかった。私はあなたに平易に語りかけてきた。また、私の知る限り、一言たりとも、あなたがたひとりひとりが理解できないような言葉がこの口から発されたことはなかった。あなたは単純な福音を受けてきた。私はここに立って冷淡にあなたに語りはしなかった。私は、向こうにある階段の所に行って、「主の宣告が私の上にある」、と云えるであろう。というのも、私の心はここにやって来るとき重く、私の魂は私のうちで熱かったからである。そして、私が力弱く説教したとき、私の言葉は荒削りで、その言葉遣いは適切なものにはほど遠かったかもしれないが、が欠けていたことは決してなかった。この魂の全体があなたに語ってきた。そして、もし天と地をくまなく探せば、あなたを《救い主》のものにできる言葉遣いを見いだせるとしたら、私はそうしていたであろう。私はあなたを叱責することを避けなかった。決して遠回しな云い方はしなかった。この時代に向かっては、そのもろもろの不義を、また、あなたに向かっては、あなたのもろもろの罪を語ってきた。人々の肉的な好みに合わせて、聖書を物柔らかにしてはこなかった。私は、神が罪に定めると云われたところでは、罪に定めると云ってきた。――耳障り良く、「とがめる」などとは云わなかった。遠回しに云うことも、真理を覆ったり、押し隠したりしようと努めることもせず、神の御前におけるあらゆる人の良心に対するかのように、私は福音を熱心に、力をもって勧めようと努力してきた。平易で、歯に衣着せない、真剣で、誠実な伝道活動によってそうしてきた。私は栄光に富む恵みの諸教理を隠しておこうとはしなかった。たといそれを説教することによって、十字架の敵どもが私を無律法主義者だと呼ぼうとかまわなかった。また、私は人の厳粛な責任を説教することを恐れなかった。それで別の手合が私をアルミニウス主義者だと中傷したが関係なかった。そして、こう云う際に私はそれを誇ってそうしているのではなく、あなたが福音を拒絶する場合にあなたを叱責するためにそうしているのである。というのも、あなたは他のいかなる人々にもまさる罪を犯しているからである。キリストを投げ捨てることにおいて、神の二倍分の御怒りがあなたにふりかかるであろう。このようにして罪は、キリストを拒絶することによってはなはだしく重くなるのである。

 III. さて今、第三のこととして、《キリストの福音の宣教は、それを聞いて拒絶した人々からあらゆる弁解を取り去ってしまう》。「今では、その罪について何の隠れ蓑もありません」 <英欽定訳>。蓑は、すべてを見ておられる目が見通すときには、非常に粗末な罪の覆いである。神の御怒りが吹き荒れるかの大いなる日には、蓑など非常に貧弱な隠れ家である。だがそれでも、人は常に隠れ蓑を好む。寒い雨の日、私たちは人々が自分の外套をしっかりかき寄せている姿を見る。そして、何の隠れ場や避難所がないとしても、自分の着ているものに多少は慰めを感じる。あなたもそれと同じである。あなたは、できるものなら自分の罪の弁解をかき集めるであろう。そして、良心に刺されるとき、あなたはその傷を弁解で癒そうとするのである。そして、最後の審判の日においてさえ、蓑などみじめな覆いでしかないにもかかわらず、何もないよりはましであろう。「しかし今では、その罪について何の隠れ蓑もありません」。旅人はその覆いなしに雨の中に置かれる。かつては自分を守ってくれたその着物なしで嵐にさらされる。「今では、その罪について何の隠れ蓑もありません」。――露わにされ、見破られ、仮面をはぎとられたあなたがたは、弁解の余地のない者として、自分の不義に対する何の隠れ蓑もなしに残される。さて今、福音の宣教が忠実になされたとき、それがいかにあらゆる罪の隠れ蓑を取り去るかに注意させてほしい。

 第一のこととして、ある人が立ち上がってこう云うかもしれない。「私は、これこれの不義を犯したとき、悪いことをしているのだとは知りませんでした」。さて、それはあなたには云えない。神はその律法によって何が悪いことかを厳粛に告げておられる。そこに十戒が立っている。そして、そこに私たちの《主人》の解説が立っている。そこで主は、そうした戒めを詳しく述べて、古の「姦淫してはならない」という律法は、好色な目で見ることや悪い目という一切の罪を禁じていたとも仰せになった。もしセポイ[印度人兵]が不義を犯すとしたら、そこには1つ隠れ蓑がある。疑いもなく、彼の良心は彼に自分が悪いことをしていると告げるに違いない。だが、彼の有する聖典は彼が正しいことをしていると告げているのである。それゆえ、彼にはその隠れ蓑がある。もし回教徒が情欲の行ないを犯すとしたら、疑いもなく彼の良心は彼を刺すに違いないが、彼の聖典は彼に自由を与えている。しかし、あなたは自分の聖書を信じると告白しており、それを自宅に持っており、その聖書の説教者たちがこの国の町通りという町通りにいるのである。それゆえ、あなたが罪を犯すとき、あなたは、自分の面前の壁に律法の宣言があるにもかかわらず、罪を犯しているのである。――あなたは、よく知っている律法、天からやって来た、そして、あなたのもとにやって来た律法をわざと破るのである。

 さらに、あなたはこう云うかもしれない。「私が罪を犯したとき、私はその罰がどれほど大きいか知りませんでした」。このことについても、福音によって、あなたには何の弁解も残されていない。というのも、イエス・キリストはあなたにこう云われたではないだろうか。また、毎日こう仰せになっていないだろうか? 主を持たない者らは外の暗闇に放り出されて、そこで泣いたり歯ぎしりしたりすることになる、と。主はこう仰せにならなかっただろうか。「この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです」[マタ25:46]。主ご自身が、悪人は消えない火で焼かれると宣言しておられないだろうか? 彼らのうじが尽きることなく、火が消えることがない場所のことをあなたに語られなかっただろうか?[マコ9:48] また、福音の教役者たちも、あなたにそう告げることを避けはしなかった。あなたは罪を犯した。それによって失われると知りながらそうした。あなたは毒杯をあおった。それが無害だと思っていたのではなく、その杯の一滴一滴が断罪を煮えたぎらせていると知っていたが、しかし、その杯を手にとっては、最後の一滴まで飲み干した。あなたは、百も承知の上で自分自身の魂を滅ぼした。あなたは愚か者が足枷に向かい、牛がほふり場に引かれ[箴7:22]、子羊が肉屋の短刀を舐めるように滅びへ向かった。ならば、この点でもあなたには何の弁解もない。

 しかし、あなたがたの中のある人々はこう云うかもしれない。「あゝ、私は福音を聞きました。それは確かです。また、私は自分が悪いことをしていることも知っていました。ですが、私は、救われるために何をしなくてはならないか知らなかったのです」。あなたがたの中に、このような弁解を云い張れる人が誰かいるだろうか? あなたは、それほどの図々しさを持ち合わせてはいないと思う。「信ぜよ、さらば生きる」、は毎日あなたに宣べ伝えられている。あなたがたの中の多くの人々は、この十年、二十年、三十年、四十年、五十年の間、福音を聞いてきた。そして、「福音がどんなものか私は知りませんでした」、などとは云わないであろう。あなたがたの中の多くの人々は、物心ついた時から福音に耳を傾けてきた。イエスの御名は、子守歌の静けさと混じり合っていた。あなたは母の乳とともに聖なる福音を飲んできた。だがしかし、それらすべてを蔑み、一度もキリストを求めはしなかったのである。「知は力」、と人は云う。悲しいかな! 知識は、用いられないとき、神の御怒りとなる。《怒り》である。知っていながら、自分でも間違いだと知っていることを行なう者への、極限までの《怒り》である。

 誰かがこう云っているのが聞こえるような気がする。「よろしい。私は福音が宣べ伝えられるのを聞きました。ですが、一度もよい模範を示されたことがありませんでした」。あなたがたの中のある人々はそう云うかもしれない。そして、それは部分的には正しいであろう。だが、あなたがたの中の他の人々については、それは偽りの弁解であろうと云えよう。あゝ! 方々。あなたは裏表のあるキリスト者たちについて語ることを非常に好んでいる。あなたはこう云ってきた。「彼らは、きちんとした生き方をしてないではないか」。そして、悲しいかな、あなたが云ったことには、あまりにも多くの真実が含まれている。しかし、あなたはひとりのキリスト者を知っていた。そして、その性格を賞賛せざるをえなかった。あなたは彼女を覚えていないだろうか? あなたを産んでくれた母上である。それこそ、今日に至るまで常にあなたにとって1つの困難であった。あなたは福音をあっさり拒絶することもできただろうが、あなたの母上の模範があなたの前に立ちはだかり、あなたはそれに打ち勝てなかった。あなたは、幼少時の薄ぼんやりとした記憶の中で覚えていないだろうか? いかに、あなたが朝、あなたの小さな目を開けたとき、母上の愛に満ちた顔があなたを見下ろしていたかを。そして、あなたは母上がその目に涙をためながら、こう云うのを聞いた。「神がこの子を祝福してくだささり、《贖い主》をほむべき方とお呼びしますように!」 あなたはいかにあなたの父上がしばしばあなたを叱ったかを覚えている。母上はめったに叱ることなく、むしろ、しばしば愛の口調で語った。思い起こすがいい。母上があなたを連れて行った小さな二階部屋のことを。そこで母上はあなたをだきしめ、あなたを神にささげては、主があなたを子どものうちからお救いくださるよう祈られた。思い出すがいい。母上があなたに送った手紙のことを。親元を離れて独り立ちしたとき、母上があなたの名を書いてくれた本のことを。そして、あなたが浮かれ騒ぎに興じ始め、不敬虔な人々とつき合い出したと聞いて母上が手紙を寄こした際の悲しみのことを。思い起こすがいい。最後にあなたが彼女のもとを去ったときに、母上がぎゅっとあなたの手を握ったときの悲しげな顔つきを。思い出すがいい。いかに母上があなたにこう云ったかを。「お前はしらが頭の私を、悲しみながら墓に下らせることになるんだよ。お前が悪い人たちの道を歩いてるとしたら」。よろしい。あなたは、母上の云ったことが勿体ぶったお題目ではないことを知っている。そこには真実味がこもっていた。あなたは教役者のことは笑い飛ばせるかもしれない。連中のたわごとだと云えるかもしれない。だが、母上のことをあざ笑うことはできないであろう。母上はキリスト者であった。そこには何の間違いもなかった。いかにしばしば母上はあなたの怒りっぽい短気さを忍び、あなたの荒々しいふるまいに耐えてきたことか。というのも、母上は甘やかな魂の人で、ほとんど地上に置いておくには優しすぎたからである。――そして、あなたはこのことを思い起こす。あなたは母上の死に目に会えなかった。間に合うように行けなかった。だが母上は、死にかけていながら、その友人たちに云ったのである。「心残りは1つだけ。それさえなければ、幸せに死んでいけるのにね。――見たかったねえ。一目でもあの子たちが真理のうちを歩いている姿を」。さて、このような模範があるとき、あなたのよこしまさについては、何の隠れ蓑もないと思う。そして、もしあなたがその後でも不義を犯すとしたら、あなたの災いの重さは何と恐るべきものとなるであろう!

 しかし、あなたがたの中の他の人々は、自分にそんな母親はいなかったと云うかもしれない。あなたが最初に入った学校は町通りであり、あなたの最初の模範になったのは、悪態をつく父親だった。だが、愛する方々。思い起こすがいい。ひとりの完璧な模範がいることを。――キリストである。そしてあなたは、キリストを見たことはなくとも、キリストについて読んだことはある。イエス・キリスト、かのナザレの人は、完璧な人であった。この方のうちには、いかなる罪もなく、その口には何の偽りもなかった。そして、たといあなたが、キリスト者の値打ちのようなものをどこにも見たことがなかったとしたも、それでも、キリストのうちにはそれが見られる。そして、このような弁解をしようともくろむときには、自分が嘘をもくろもうとしていることを思い出すがいい。というのも、キリストの模範、キリストのみわざは、キリストのことばと同じくらい、あなたの罪に弁解の余地を残さないからである。

 あゝ、そして私は、もう1つの弁解が云い立てられるのが聞こえるように思う。すなわち、「よろしい。私には確かに多くの利点がありました。ですが、それは私に感じられるほど、私の良心に深く突き入れられなかったのです」。さて、この場にそうしたことが云える人はごく少ししかいないはずである。あなたがたの中のある人々は云うであろう。「云えますとも。私は教役者の話を聞きましたが、彼は一度も私に感銘を与えたことがないのです」。あゝ、青年男女よ。また、今朝ここにいるあなたがた、すべての人たち。私は最後の審判の日、あなたに反する証人とならなくてはならない。それは真実ではない。というのも、今でさえ、あなたの良心は感じさせられているからである。今しも私は、悔い改めの涙が静かに流れるのを見なかっただろうか?――それは悔い改めの涙だと私は信じている。――しかり。あなたは必ずしも常に福音に無感動だったわけではない。あなたは今では年老いており、あなたの心を動かすには相当のことが必要だが、常にそうだったわけではない。あなたも若い頃には、容易に強い感銘を受けるものであった。思い出すがいい。あなたの若い日の罪は、あなたがなおも福音を拒絶し続けるとしたら、あなたの骨を腐らせるであろう。あなたの老いた心はかたくなになってしまったが、それでもあなたに弁解の余地はない。あなたはかつては感じていた。左様。そして、今でさえ感じざるをえない。私も知るように、あなたがたの中のある人々は、自分の数々の不義を思うとき、自分の座席から飛び上がらんばかりになるはずである。そしてあなたは、あなたがたの中のある人々は、今にもこう誓おうとしている。この日、自分は神を求めよう。そして自分が真っ先にすることは、自分の私室に上り、戸を閉めて神を求めることだ、と。あゝ、だが私はひとりの人の話を覚えている。彼は教役者に向かって、これほど多くの人々が涙にくれているのを見るとは何と驚嘆すべきことでしょう、と云った。「いいえ」、と教役者は答えた。「それよりもずっと驚嘆すべきことをお聞かせしましょう。それは、これほど多くの人々が、一歩会堂の外に出たとたんに、自分たちがなぜ泣いていたかをきれいに忘れてしまうことですよ」。そして、あなたもそうしたことを行なうであろう。それでもあなたは、自分がそうするときには思い起こすであろう。自分は神の御霊によって争われなかったわけではないのだ、と。あなたは思い出すであろう。神が今朝、いわばあなたの道を手燭で照らされ、あなたの道に溝を掘り、道しるべを立てて、こう云われたことを。「警戒せよ! 用心し、用心し、用心せよ! あなたがしゃにむに突進しつつあるのは、不義の道なのだ!」 そして、私は今朝あなたの前に立ち、神の御名によって、こう云ってきた。「止まれ、止まれ、止まれ。主の御告げ。あなたがたの現状をよく考えよ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか?」 そして、今、もしあなたがたがこのことを自分から遠ざけようとするなら、それはしかたがない。もしあなたがこうした火花を踏み消そうというなら、もしあなたがたがこの最初の燃えるたいまつを消そうというなら、それはしかたがない! あなた自身の頭上に、あなたの血の責任は帰される。あなた自身に、あなたのもろもろの不義の責任はある。

 IV. しかし今、私にはもう1つしなくてはならないことがある。そして、それはすさまじい務めである。というのも、私はいわば、《死刑宣告のための黒帽子をかぶり、断罪の判決を宣告する》からである。キリストを拒絶しながら生き、また死んでいった者たちには、最も戦慄すべき運命が待ち受けている。彼らは全くの破滅によって滅びる。刑罰には程度の差がある。だが、最高の罰はキリストを拒絶する者に与えられる。おそらくあなたも、この箇所に注意したことはあるであろう。すなわち、嘘をつく者や、不品行の者や、酔いどれが、ある特定の人々と同じ目に遭うという箇所である。――その人々とは誰だと思うだろうか?――不信仰の者である![ルカ12:46 <英欽定訳>] あたかも、地獄がまず第一に不信者のために造られたかのように、――あたかもあの穴が掘られたのが、不品行な者のためでも、悪態をつく者のためでも、酔いどれのためでもなく、キリストを蔑む者らのためであるかのようである。なぜなら、それは特一級の罪、枢要の悪徳であり、人々はそのことのために罪に定められるからである。他のもろもろの不義はぞろぞろと人々の後に従うが、この不義は彼らに先立って審きに向かう。一瞬の間、時が過ぎ去って、最後の審判の日が来たものと想像してみるがいい。私たちはみな、生きた者も死んだ者もともに集められている。喇叭の音がこの上もなく大きく、また長く鳴り響く。私たちはみなはっとして、何か驚愕すべき事が起こるのを待ち受ける。取引所は営業を停止して静まりかえり、商店からは商売人の姿が消え失せている。人だかりのする町通りには立錐の余地もなく人かひしめいている。すべての人がじっと立っている。彼らは、最後の大いなる取引の行なわれる日が来たと感じている。今こそ自分たちの会計報告に永遠に決着をつけなくてはならないと感じている。厳粛な静寂が大気を満たしている。何の音もしない。すべてが、すべてが静寂に満ちている。たちまち厳粛な威風をした大きな白い雲が、滑るように天空に現われ、そのとき、――聞けよ! 二重の叫喚が地を驚かせる。その雲の上には、《人の子》のような方が座している。すべての目が上を見上げ、ついにそこには、異口同音の叫びがあがる。――「あの方だ! あの方だ!」 そして、その後で、一方からはこのような叫びが聞こえる。「ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ! ようこそ、ようこそ、ようこそ、神の御子よ」。しかし、それと混じった重低音の響きがある。この方を迫害し、この方を拒絶してきた者らの泣き声と呻き声である。聞くがいい! 私にはこの十四行詩を仔細に吟味できると思う。個々の口から発されている言葉を聞き分けることができると思う。死を告げる鐘のように鳴っている、それぞれの言葉を。彼らは何と云っているだろうか? 彼らは云っている。「岩よ、私たちをかくまってくれ。山々よ、私たちの上に倒れかかってくれ。御座にある方の御顔から、私たちをかくまってくれ」*[黙6:16]。さてあなたは、岩に向かって、「かくまってくれ」、と云う人々の数に入ることになるだろうか?

 話をお聞きのまだ悔悟していない方々。ひとときの間、かりにあなたがこの世を去ったものとしよう。また、あなたが悔悟しないまま死んだとしよう。そして、あなたがあの泣いて、呻き、歯ぎしりしている人々の間にいるものとしよう。おゝ! そのときのあなたの恐怖はいかなるものとなるだろうか? 蒼白になった頬も、がくがく打ち鳴らされる膝も、あなたの心の慄然たる恐怖とくらべれば無である。そのときあなたは、葡萄酒にはよらずに酔いしれることになる。また、驚愕のあまり酩酊し、千鳥足で歩くことになる。そして、地に倒れ伏しては、恐怖と狼狽のため塵の中を転げ回る。というのも、そこに主は来られ、そこに主はおられ、燃えるような、炎を発する目で睨みつけておられるからである。そして今や大いなる分割の時がやって来る。1つの声が聞こえる。「わたしの民を四方から集めよ。わたしの心の喜ぶわたしの選びの民を」。彼らは集められると御座の右に立たされる。そして今、主はこう云われる。「毒麦を集めて、焼くために束にせよ」*[マタ13:30]。そこであなたは集められ、御座の左側に、束に巻かれて立たされる。まさに火をつけるだけで良い薪束となっている。それを燃やすためのたいまつはどこにあるだろうか? 毒麦は焼かれなくてはならない。その炎はどこにあるだろうか? その火焔は、主の口から発される。そして、それはこのようなことばからなっている。――「のろわれた者ども。離れ去って、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火、地獄にはいれ」[マタ25:41]。あなたは愚図愚図しているだろうか? 「離れ去れ!」 あなたは祝福を求めるだろうか? 「お前たちは、呪われている」。私は、呪詛をもってあなたを呪う。あなたがたは逃れようとするだろうか? それは永遠の火なのである。あなたがたは立ち止まって、哀訴するだろうか? 否。「わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、あなたがたは顧みなかった。それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときにあざけり、あなたがたを恐怖が襲うとき、笑おう*[箴1:24、26]。「離れ去れ。もう一度云う。永遠に離れ去れ!」 そして、あなたはいなくなる。そのとき、あなたはどう考えるだろうか? 何と、こうである。「おゝ! 私は生まれなければよかった! おゝ! 福音が宣べ伝えられるのを聞かなければ良かった! そうすれば、それを拒絶する罪を決して犯さなかったものを!」 これが、あなたの良心を食い荒らすうじ虫の群れとなるであろう。――「私は、賢い道を知っていたのに、賢く行なわなかったのだ」。――風を蒔いた私は、つむじ風を刈り取って当然だ[ホセ8:7]。私は制止されたが、止まらなかった。私は求愛されたが、招きを断った。いま私には分かる。私はわれとわが身を殺したのだ。おゝ! いかに致命的な思いのすべてをも越えた思いよ。私は失われた、失われた、失われたのだ! そして、これが恐怖の恐怖なのだ。私は自分自身を呪って失わせた。私はキリストの福音を自分から遠のけた。私は私を滅ぼしてしまった。

 このように、あなたはなるだろうか? 話をお聞きの方々。これがあなたの将来だろうか? どうかそうならないように! おゝ、願わくは聖霊が今あなたを無理矢理にもイエスのもとに来させてくださるように。というのも、私は知っているからである。あなたは屈伏するには邪悪すぎるため、主の方で来てくださらなくてはならない、と。しかし、私にはあなたについて希望がある。私は、あなたがこう云っているように思う。「私は救われるためには何をしなくてはなりませんか?」 救いの道をあなたに告げさせてほしい。それから暇を乞おう。もしあなたが救われたければ、「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。というのも、聖書はこう云っているからである。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます!」[マコ16:16] そこに主はかかっている。十字架の上で死にかけておられる! 主を仰ぎ見て、生きるがいい。

   「神に賭(まか)せよ またく汝が身を
    他(た)のもの頼る 心よとく去れ
    イエスのみなるぞ
    よわき罪人 救うるは」。

たといあなたがよこしまで、不潔で、堕落した、腐敗した者であろうと、それでもあなたはキリストのもとへ招かれている。悪魔に見捨てられた者をもキリストは受け入れてくださる。――この世のくずが、金くそが、かすが、廃物が、汚物が、いまキリストのもとへと招かれているのである。いま主のもとに行くがいい。そしてあわれみを得るがいい。しかし、もしあなたがたが自分の心をかたくなにするとしたら、

   「主は復讐(むくい)着て
    御手を掲げて 誓い給う
    約束(みこと)の安息(やすき) 蔑まば
    そこにいかなる割り当てもなし、と」。

  
 

人間の責任[了]

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