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日曜学校教師――管理人

NO. 192

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1858年5月4日、火曜日夜
説教者:C・H・スポルジョン師
於ブルームズベリ会堂
《日曜学校連盟のための説教》


「会計の報告を出しなさい」。――ルカ16:2


 私たちは、これまで生きてきた中で何度となく、私たちがみな、《全能の神》に仕える管理人であると聞いてきた。私たちはこのことを、自分のキリスト教信仰の厳粛な真理として主張する。富者は、自分の富をいかに利用するかについて責任がある。才能のある人は、自分の才能によってどれだけの利益を得たかを神に報告しなくてはならない。私たちひとりひとりは、自分の時間と機会に応じて、《全能の神》の前で、自分の会計報告を出さなくてはならない。しかし、私の愛する兄弟姉妹。私たちの責任は、他の人々よりもずっと深く、大きい。私たちには、キリスト教信仰を告白するすべての人々が負うべき通常の責任があり、自分の持てるすべてのものについて神に報告を出すことになる。だが、それに加えて、あなたや私には、私たちの公の立場に伴う特別の責任がある。――あなたがたには、自分が受け持つ学級の教師としての、また、私たちの中の他の者らには、大会衆の前で神に仕える説教者としての責任がある。天来の恵みがなくては誰ひとり、最後になって、「よくやった。良い忠実なしもべだ」[マタ25:21]、と云って受け入れられるようなしかたで、、神から与えられたものすべてを用いることはできない。だが、たといそうできたとしても、それでも、同胞である不滅の魂たちに神のことばを教える者として私たちが負っている責任の恐ろしい重さを完全に支えることは、やはり完全に不可能なままであろう。私たちの首には2つのくびきがかかっている。主権の恵みは、それらを軽く、また負いやすくすることができるが、それを抜きにすれば、それらは私たちの肩を傷つけるであろう。それら自体、私たちが負うには重すぎるからである。一般的な責任はソロモンの鞭のようだが、公の立場から発する特別の責任は、おろそかにされた場合、レハブアムの蠍のようになり、その小指は、その父の腰よりも太い[I列12:10-11]。わざわいなるかな、人々に警告を発さない見張り人は、わざわいなるかな、真理を教えない教役者は。わざわいなるかな、与えられた信頼に不忠実な《日曜学校》教師は。どうか私が説教している間、私のために祈ってほしい。この場に今いる全員に何らかの善をもたらすことを私が語れるようにと。そして私は、神があなたがたの祈りに答えて、あなたがたのために祝福となる言葉と思いを私に与えてくださるように努めるであろう。

 さて、第一に私が示したいのは、私たちがいかなる意味で管理者であるかということであり、それから考察したいのは、私たちがいかなる種類の報告を出さなくてはならないかということである。そして最後に注意したいのは、私たちが自分の会計を計算する《べき》清算の日と、自分の決算報告を提出し《なくてはならない》清算の日についてである。

 I. では第一に、《管理人――それは何者だろうか?》

 第一のこととして、管理人は、しもべである。彼は、しもべたちの中でも最上位の者のひとりであるが、それでもしもべにすぎない。ことによると、彼は農場の管理人であって、田園部の農夫のように、その営みのすべてに目を配っているかもしれない。彼は、自分の主人の地所で馬車を乗り回し、多くの召使いに指図している。それでも彼はしもべにすぎず、権威の下にある、ただの管理人でしかない。ことによると彼は、どこかの紳士の家の執事かもしれない。この紳士は、彼を使って自分の所帯のすべてを管理させ、自分は煩わしい雑務にかかずらわずに済むようにしているのである。それが彼は、その立場においては自分も一個の主人ではあるが、それでもしもべである。自分の上に立つひとりの主人がいるからである。いくら誇ろうとしても、誇るべきものはほとんどない。彼が人生において保持している唯一の身分は、しもべの身分だからである。さて、教役者は、また、《日曜学校》教師は、特にしもべとしての身分にある。何と、私たちは誰ひとり自分を自分の主人としてはいない。私たちは、自分の好きなように行なえる独立自営の紳士ではない。私たちの受け持っている学級は、私たち自身の農場ではない。自分なりのしかたで耕しても良いし、そうしたければ怠けても良いし、そこからいかなる収穫を産み出すも、全然産み出さないのも、私たち自身の裁量に任されているというわけではない。しかり。私たちはしもべ以上の何者でもない。そして私たちは、天におられる私たちの《主人》のために働くべきなのである。ある教役者が、あるいは、ある教師が気取った様子をし、この世でひとかどの人物であるかのように、また、好き勝手にふるまえるかのようにしているのは、何と奇妙な光景ではないだろうか? いかにして彼は、自分の払っている犠牲についてなど語れるのだろうか? 彼は自分の主人の財産を使っているにすぎないではないか。いかにして彼は、自分がどれほどの時間を費やしているか自慢などできるのだろうか? 彼の時間は彼のものではないではないか。それはみな彼の《主人》のものである。彼はしもべであって、それゆえ、彼が何をしようと、彼は単に自分がもらっている豊かな給料分の義務を果たしているにすぎない。彼には誇ったり、他人に威張ったりする理由は何もない。というのも彼は、たとい彼らの間で彼がいかに力を持っていようと、自分自身しもべであって、それ以上でもそれ以下でもないからである。私たちひとりひとりは、これ以後は努めて、「私はしもべにすぎません」、と思い起こすことにしよう。たといある教師が、校長によって自分の気に入らない学級に入れられたとしても、彼女は自分がしもべであることを思い起こすであろう。彼女は自分の家の召使いたちが立ち上がって、われわれは食器洗いなどしません、食卓での給仕だけをします、などと云うことを許さない。彼らはしもべであって、命じられたことをしなくてはならない。ならば私たちは、もし自分をしもべと感じているとしたら、云われたことをキリストのゆえに行なうことに反対はしないはずである。私たちは、自分の召使いたちが夜私たちのもとにやって来ては、私たちから、「きょうは良く働いたね」、などと云われることを期待しようとは思わない。彼らが年がら年中褒められることを期待するだろうなどとは想像しない。彼らはしもべであり、その俸給をもらえば、それが彼らの働きに対する賛辞である。彼らも、自分には自分の受け取る金額に見合うだけの価値があるのだと判断するであろう。さもなければ、私たちが彼らを雇い続けるはずがない。そのように、あなたもイエスのために働くときには、自分がしもべにすぎないことを思い起こすがいい。ある人々が求めてやまないような励ましを年中期待してはならない。もしあなたがあなたの牧師から、他の教師たちから、あなたの友人から励ましを受けたとしたら、感謝するがいい。だが、たといそれが得られなくとも、それにもかかわらず自分の働きを続けるがいい。あなたはしもべであり、自分の報酬を受け取るとき――それも、当然支払うべきものでなくて、恵みとして受け取るとき[ロマ4:4]――、そのときあなたは、あなたに呈されうる最高の賛辞を得ているのである。それがあなたの主の喝采であり、あなたを所有し、あなたが仕えたいと願っているお方の永遠の満悦なのである。

 しかし、それでも管理人は、しもべではありながらも、誉れあるしもべである。家中の他のしもべたちが彼に向かって、あんたもしもべではないか、などと云っても何にもならない。彼はそれを我慢しないであろう。そのことは彼も知っているし、感じている。彼はしもべとして活動し、活動したいと願っている。だが、それと同時に彼は、誉れを受けているしもべなのである。さて、教師という職務によってキリストに仕えている人々は、誉れを受けている男女である。私は、ふたりの人の間で非常に見苦しい議論が交わされているのを聞いたことを思い出す。果たして教役者は《日曜学校》教師よりもまさっているかどうかという議論である。それは私に、誰が一番偉いかと論じ合っていたあの弟子たちのことを思い出させた。何と、もし正しい感じ方をしているとしたら、私たちはみな、「最も小さい者」[Iコリ15:9]である。そして、確かに私たちひとりひとりは、神が私たちに与えておられる自分の役職を高く上げなくてはならないが、それでも、聖書のどこを探しても、説教者の職務の方が教師の職務よりも誉れあるものだなどと信ずべき根拠となるものを私は全く見いださない。私にはこう思われる。あらゆる《日曜学校》教師には、私と同じくらい自分の名前の後に「師」とつけるべき権利がある。あるいは、その責任を果たしているとしたら、確かに彼らは「殿」である。彼は自分の会衆を教え、自分の学級に向かって説教している。私は大人数に向かって説教し、彼は少人数に向かって説教している。それでも彼は、同じ働きをしているのである。私は確かに、息子フェリックスが宣教師の働きをやめて大使になったときにこう云ったケアリ氏の気持ちに同感する。「大馬鹿のフェリックスは大使になったよ」。つまり、彼はいったんは宣教師として大人物だったが、その後で、比較的取るに足りない職務を引き受けたということである。私もそれと同じことを、仕事が忙しくなってきて務まらないからといって《日曜学校》を辞める教師について云うことができると思う。その人は、馬鹿もきわまることに富んだ商人になろうとしているのである。もし他にすることがありすぎることに気づいたからというのだ、教えることをやめるというのであれば、それまでよりも劣ったことをしようとする大馬鹿者である。ただ1つの例外として、もしその人が自分自身の家族に注意を払うために教師を辞め、その家庭を自分の《日曜学校》の学級とするという場合には、何もそこには馬鹿なことがない。その人は以前と同じ立場にあるのである。私は云うが、教師となっている人々、火の中の燃えさしのように魂を取り出そうと求めている人々は、誉れある人々と考えられるべきである。彼らに任務をお与えになったお方には遠く及ばないが、それでも、ある甘やかな意味において、そのお方の同輩へと引き上げられている。主は彼らをご自分の兄弟、ご自分の友と呼ばれるからである。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」[ヨハ15:15]。

 ここで、もう1つだけ考えたい。管理人とは、その立場に非常な責任を伴うしもべでもある。責任を負っているという感覚は、正しい人にとっては常に重みあることと思われる。何の責任も含まれていないことを行なうのは、非常に微々たることである。こういうわけで私たちは、世間一般においても、重い責任を全く含んでいないような労働が低賃金であることを見いだすのである。しかし、非常に大きな責任がゆだねられている務めは、それに応じて給料が高くなる。さて《日曜学校》教師の働きは、この世で最も重い責任が伴うものの1つである。神がいかに大きな信頼をあなたや私にかけておられるか思うと、私は愕然とさせられることがある。あなたは放蕩息子の話を覚えているであろう。私たちひとりひとりは、あの息子とよく似ている。罪の中を長い間さまよった後で、イエスのもとに帰ってきた。時として私はこう思う。思慮深い父親であれば、あの放蕩息子が自分の家に立ち戻ったとき、彼を心から迎え入れ、胸に抱きしめ、自分の富の一部にあずからせることはできても、責任を伴う問題に彼をあずからせるまでには、かなり長い時間をおくだろう、と。次の定期市が立つ日、この老紳士はこう云うであろう。「さて、ジョンや。わしは心の底からお前を愛しておるが、知っての通り、お前は一度家出をした者だ。放蕩三昧の生活をしてきた者だ。市場にはお前の兄をやらねばならん。お前にはわしの財布を預けられん。お前のことは愛しておる。完全に赦しておる。だが、それとは別に、まだわしはお前を信頼できんのだ」。なぜ神は私たちにそう仰せにならないのだろうか? そうする代わりに、神はあわれな放蕩息子たちをご自分の胸に抱きしめ、ご自分の最も尊い宝石類を私たちにゆだねてくださるのである。私たちに不滅の魂をゆだねてくださるのである。神は、ご自分の失われた羊を探す手段となることを私たちに許し、それから、その子羊たちが集められた後で彼らを養うことを私たちに許してくださる。神は放蕩息子を最も重要な地位につけ、彼に信頼を置かれる。では、私の兄弟姉妹。これほどふさわしくない者らに信頼をかけるほどに神がいつくしみ深くあられるのを見ていながら、私たちは神を欺いて良いだろうか? おゝ、否、私たちは管理人として熱心に働こうではないか。私たちにゆだねられている地所のあらゆる部分が、私たちの《主人》が来られたときには素晴らしい状態になっているようにしようではないか。御座の前で監査が行われ、神が総計なさる、かの大いなる日には、私たちの会計報告が、その一点一画に至るまで厳正なものであるようにしようではないか。私たちの職務は、非常に非常に厳粛なものである。ある人々はこれをつまらぬものと考える。ある人々はこれを非常に気軽に引き受ける。浮ついた若者が日曜学校に入りたい気を起こすが、日曜学校といくら関わっても大して真面目にはならない。そうした者は私たちの中から去らせるがいい。私たちが欲しているのはただ真面目な者たちだけである。自分がしていることを厳粛に秤にかけ、生死に関わる問題としてこの働きに乗り出す者たち、半端な時間にしか関わらない、どうでもよいこととしではなく、すさまじく厳粛なこととしてこの働きに入る者たちである。この務めは、聖霊なる神の豊かな支えと助けがない限り、御使いといえども果たすことができない。こうして私は、この「管理人」という言葉で表現されている観念について、ごく単純に述べようとしてきた。私たちはしもべであり、高い誉れを受け、非常に責任の重い、また、多くをゆだねられている者である。

 II. そして今、《会計の報告》である。――「会計の報告を出しなさい」。手短に、管理人として会計の報告を出すということについて考えてみよう。

 最初に注意したいのは、私たちが神の御前で、管理人としての会計報告を提出するとき、その報告は、私たちがひとりひとり、個人的に出さなくてはならない、ということである。この場にいる間、私たちは全体として語る。だが、神の御前に出るとき、私たちは個人として語ることになる。人々が「私たちの《日曜学校》」について自慢しているのをよく聞く。多くの人々は、きわめてよこしまなことに、一年に一度も見に来ることのない《日曜学校》を「私たちの学校」と呼んでいる。彼らは、「私たちの日曜学校は順調に発展してほしいですよ」、と云いながら、半ペニーも寄付せず、その教師たちに一言も励ましの言葉をかけない。微笑みかけることすらしない。生徒数も分かっていない。それでも彼らは、これを自分たちの日曜学校と呼ぶのである。彼らは盗人である。自分に属してもいないものを自分のものとしている! よろしい。だが私たちも、私たちなりのしかたで、同じ間違いを犯している。伝道活動として、私たちはしばしば「団体」の行ないについて語り、「教派」によってなされた何らかの素晴らしい働きについて語る。さて、思い起こそうではないか。私たちが神の御前に出るとき、神が私たちを教派として審くことは全くない。日曜学校ごとに、あるいは、教会ごとに私たちを取り扱うようなことはない。むしろ、この報告はひとりひとりが、自分で提出しなくてはならない。それで、嬰児科学級を担当しているあなたは、あなた個人の報告を提出しなくてはならない。ほんの数日前、あなたは上級科のやり方にけちをつけては、わが身を振り返れと云われたばかりである。良心があなたにそう云ったはずである。しかし、最後になってあなたが神の御前に立たなくてはならない時、あなたは上級科については何の報告もせず、あなたにゆだねられた嬰児科についての報告をするであろう。そして、そこの姉妹。あなたは七年か八年、教師をしている。――あなたが提出しなくてはならないのは、あなた自身についての報告である。最近、六、七人の子どもたちをキリストに導く手段となったからといって、あなたがさんざん自慢している別の学級の他の教師についての報告ではない。覚えておくがいい。その六人があなたの会計報告に繰り込まれて、年末決算が見栄えの良い数字になることはない。むしろ、あなたの務めの最後には、あなたの大きな空白があり、そこにはあなたの怠慢や、あなたのだらしなさや、学級内でのあなたの不注意さゆえの暗いしるしが残り続けるであろう。その勤勉な教師の成功という明るい面は何の助けにもならない。あなたがたは、各人が、個人的に裁かれなくてはならない。連れ立ってではなく、ひとりひとりとして。このことによって、この働きは空恐ろしいものとなる。人は、ただひとりとして眺められることになるのである。私の知っている人々の中には、講壇に立つということに耐えられない人々がいた。これほど多くの目が自分に注がれるという事実が、ぞっとするほど恐ろしく思われたのである。だが、私たちが立ち上がって、すべてを探る神の目によって自分の心を読み上げられるのを聞かなくてはならないとき、また、私たちがいま担っているこの職務における経歴のすべてが白日の下にさらけだされるとき、そして、繰り返して云うが、他の人々の成功という云い訳も効かず、他の教師たちの勤勉さを借りてきて自分の務めに下駄を履かせることもできないとき、それはいかなることになるだろうか? さあ、管理人殿。あなたの会計報告はどうなるだろうか? その人の報告ではない。あの人の報告でもない。あなたの報告である。「主よ。私は《日曜学校》の会計簿の報告書を持ってきました」。「否。それではない。あなた自身の学級の報告書は?」 「よろしい。ご主人様。私は過去二十五年の学級の報告書を持ってきました。ご覧ください。どれほど大勢の者が回心したかを」。「否。それではない。あなた自身の学級で、あなたがその教師だったときの報告書だ」。「よろしい。私が誰それと一緒に教師をしていた時期の学級報告書を持ってきました」。「否。それではない。あなたがひとりきりでその教師をしていた間の学級報告書だ。あなたが自分の教えたことをいかに教えたか、あなたがいかに祈ったか、あなたがいかに熱心に働いたか、いかに勤勉に研究したか、そして、あなたがキリストのために何をしようと求めたかを示す報告書だ」。その義務のある面であなたを手伝ってくれた他の教師のつけ足しではなく、あなた自身の個人的な報告だけを神の御前に持ち出さなくてはならない。「あなたの会計の報告を出しなさい」 <英欽定訳>。このような光に照らされたとき、あなたがたの中のある人々は、最後の、かの大いなる日に、いかなる報告を提出することになるだろうか? ここでしばし言葉を切り、あなたがたの記憶に命じよう。それは、いかなる種類の報告になるだろうか? この場にいる大多数の人々は、その心の中で慎ましくこう云えることと思う。「私はほんの少ししか行なってきませんでした。ですが、それを真摯に、また祈り深く行ないました。願わくは神がそれを、イエス・キリストによって受け入れてくださいますように!」 しかし、残念ながら、他のある人々は、もし自分の良心に対して誠実だとしたら、こう云うことになるのではないかと思う。「私はほんの少ししか行なってきませんでした。そして、その少しを無頓着に行ないました。祈りもなく行ないました。聖霊の助けもなしに行ないました」、と。では、私の兄弟姉妹。私はあなたがその後にこう云い足すものと希望したい。「おゝ、私の神よ。私をお赦しください。そして、この良き時からは、私を助けて、この天来の務めに勤勉な者、霊に燃え、主に仕える者としてください」、と。そして、願わくは神がその祈りにおいてあなたを祝福してくださるように! 何の決意もしてはならない。むしろ、祈りをささげるがいい。その方がはるかにまさっている。そして、願わくはあなたの祈りが、神の御住まいなる天で聞き届けられるように。

 また、再び注意したいのは、この会計報告は、個人的なものであると同時に、正確なものでなくてはならない、ということである。あなたは、自分の報告書を神の御前に提示するとき、その総計だけでなく、あらゆる細目を提示することになるであろう。あなたが自分の会計の報告を出すとき、それはこのようなものとなるであろう。あなたには、これこれの人数の子どもたちがいた。あなたはこの子に何と云ったか。この子に、あの子に、また別の子に何と云ったか? いかにしばしばあなたは、あの癇癪持ちの子どものために祈ったか。あの云うことをきかない強情な子のために祈ったか。あの短気だが心根の優しい子のために祈ったか。あのむっつりした子のために祈ったか。あのわがままで、不道徳で、町通りのあらゆる悪徳を習い覚えては、他の子たちを汚染させているように見えた子のために祈ったか? いかにあなたは、あらゆる子の回心のために労したか? そして、その報告書をより具体的にするものとして、それはこのように続くであろう。――あなたは、それぞれの子のために安息日ごとに何をしたか? あなたは、ある子が悪い言葉を口にしたのを聞いた。あなたはそれを叱っただろうか? あなたは別の子が小さな子をいじめているのを目にした。あなたは、弱い子を彼の手から救い出し、彼を叱って、両方の子に互いに愛し合うことを教えただろうか? あなたは、ひとりひとりの子の愚かさに目を配り、それぞれの子の気質を理解するように努めて、あなたの講話や、それぞれの子に対するあなたの祈りをふさわしいものとするようにしただろうか? あなたは子どもたちひとりひとりの回心のために産みの苦しみをしただろうか? 神との祈りにおいて苦悶したしただろうか? それから、彼らへの勧告において、彼らがキリストと和解させられるよう懇願することにおいて苦悶しただろうか? 私の信ずるところ、その報告はこれよりもさらにいやまして細密なものとなるであろう。神が私たちのわざと行為と同じく、私たちの心と感情と愛情を試されるときにはそうであろう。私のあわれな表現のしかたでは、私が明らかにしたいと願っている真理を曇らせてしまうが、それにもかかわらず、これはそうしたものとなる。特別の正確な報告書が提出されることになる。そしてそのとき、あらゆる機会についての報告が出される。ひとりひとりの子どものことばかりでなく、ひとりひとりの子に対して善を施すためのあらゆる機会について報告が出される。あなたはあの日の午後、その子が、弟が家で死んで横たわっていたため、特に厳粛な心持ちをしていたときを利用しただろうか? あなたは、愛する母を失ったがため、摂理がその子の小さな心を傷つけていたとき、矢を深々と突き立てようと努めただろうか? あなたは、喜ばしいことであれ、それとは逆のことであれ、日曜学校の中で起こったあらゆる出来事を利用しようとしただろうか? 神はあなたに機会を与えたし、最後にはそれで何をしたかあなたにお尋ねになるであろう。私たちは、私たちの中の多くの者らは、残念な報告しかできないであろう。というのも、私たちは自分がなすべきであった多くのことをないがしろにしてきたからである。そして、この普遍的な告白が、教師としての私たちの告白とならざるをえないであろう。「われらは、なすべからざることをなし来たり、なすべきことをなさざるままにせし者」。

 そして、さらに覚えておくがいい。その報告は、私たちが行なったあらゆることについて正確なものとなるであろう。私たちは、単に日曜学校でいかに話をしたかについて吟味されるだけではない。私たちには、そのことについて格別な賜物があったかもしれない。また、それを上手に行なったかもしれない。それは、「あなたは、どのようにあなた自身の学級に話をしたか?」、となるであろう。だがそれだけでなく、「あなたはどのようにその学科を研究したか?」、となるであろう。もしあなたに何の時間もなかったとしたら、できなかったことがあなたに求められることはないであろう。だが、もしあなたに多くの余暇があったとしたら、あなたはそれをどのように費やしただろうか? それはあなたの子どもたちのため、あなたの《主人》のためになることのため、あなたの弓から放つ磨きぬかれた矢を見つけるため、神の祝福によって力を与えられ、その矢を心に深々と突き立てられるようにするための時間だっただろうか? また、あなたは自分の密室で何をしていただろうか? あなたはそこで冷たく無頓着だっただろうか? あなたの子どもたちのことは忘れられていただろうか? それとも、あなたは彼らをあなたの心に乗せ、あなたの腕に抱き、涙と叫びとともに彼らをキリストにゆだねただろうか? あゝ、《日曜学校》教師たち。あなたの密室は、いつの日か開け放たれるであろう。そして、あなたの隠れた部屋の中身は白日の下にさらされるであろう。おゝ、あなたがた、くもの巣の張った密室によって不利な証言をされる人たち。おゝ、あなたがた、あなたの声がそこで聞かれなかったがために、壁の梁によって不利な説明をされる人たち。あなたの膝の重みを一度も感じたことがないがために、床そのものによって不利な証言をされる人たち。いかにしてあなたは、この心探る試験に耐えるのだろうか? いかにしてあなたは、この燃える日に耐え抜けるだろうか? そのとき神は、受け持ちの子たちを教える働きとの関係において、あなたが行なったあらゆることについて、行なうべきであったのに行なわなかったあらゆることについて、あなたを試すのである。その報告は、個人的であるばかりか、正確で厳密なものとならなくてはならない。私はこれ以上、そのことについて詳しく語りはすまい。あなた自身の良心と識別力が、それを家で詳しく語ることができるであろう。

 さて、もう一度覚えておくがいい。この会計報告は、完全なものでなくてはならないであろう。あなたは、いかなるものも省略することを許されない。いかなることを追加することも許されない。ことによると、あなたがたの中のある人々は、明日、あるいは次の安息日から始めることにして、過去は抹殺したいと思うかもしれない。否。《日曜学校》教師たち。神は云われる。「あなたの会計の報告を出しなさい」。あなたは、あなたが最初に教師となった日から始めなくてはならない。あゝ、私の神よ。みことばを宣べ伝えていると告白している者の中のいかに多くが、自分たちの伝道活動の年月の多くを忘却のもとに葬ってくださるように乞い願うだろう! あゝ、私たちの中のある者らは自分の膝をついて、こう云うのではないだろうか? 「主よ。私の勤勉な年月の報告を出させて下さい。私の怠慢な年月のものは出させないでください」。しかし、私たちは、自分の任職の時から始めなくてはならない。そして私たちの死の時に終わらなくてはならない。また、あなたは、あなたが自分の学級で腰を下ろした最初の時間から始め、いのちが尽きるその時までを報告し続けなくてはならない。それ以前で終わってはならない。これは、あなたの、あなたがたの中のある人々の報告に、非常に厳粛な様相を帯びさせないだろうか? あなたは常に、「私は、明日にはもっと良くなるだろう」、と云っている。それで昨日が拭い去られるだろうか? 「私は、将来はもっと勤勉になるに違いない」。それで、過去の年々に離れ去っていった、失われた機会が償えるだろうか? 否。もしあなたがのらくらし、だらだら過ごしてきたとしたら、いかに懸命にきょう走ったとしても、昨日のらくら過ごした埋め合わせにはならないことに気づくであろう。一部の人々は、多くの年月を罪の中で費やした後で、やがてキリストのために二倍にも勤勉になったが、常に彼らは、自分はその日に一日分の働きをしたにすぎないと感じ、いなごが食いつくした年々、もう二度と取り返しのつかない年々について嘆いてきた。おゝ! 飛び去っていく一瞬一瞬を捕えるがいい。《日曜学校》教師たち。やって来る一日一日を用いるがいい。その報告書の前半の出来の悪さを、結論部の輝かしい特質によって埋め合わせようなどと云っていてはならない。そのようなことはできない。あなたは、あらゆる一日について、あらゆる年について、それぞれ個別に報告を出さなくてはならない。そして、あなたが自分の損失を償うために何をしようと、それでもその損失はその帳簿の中に残り続け、《主人》は最後にこう仰せになるであろう。「これは、どうしてここに生じたのか?」 そして、もしあなたがキリスト・イエスを信じているとしたら、それらはみな《主権の》恵みによって覆われるとはいえ、それでもあなたは、だからといってそれより多くの汚点が残ることを願いはしないであろう。キリストがあなたを洗ってくださったからといって、あなたは自分を不潔な者にしようとは願わない。主があなたを贖ってくださったからといって、罪を犯したたいとは思わない。しかり。私の兄弟姉妹。《日曜学校》教師としてふさわしい生き方をするがいい。あたかも、あなたの義務をいかに厳密に果たすかに、あなた自身の救いがかかっているかのように生きるがいい。だがしかし、思い起こすがいい。あなたの救いはそれにかかっておらず、あなたがあの永遠の契約に個人的にあずかっているかに、また、主イエス・キリストのすべてに打ち勝つ血潮にかかっているのである。キリストこそ、イスラエルの岩、贖い主[詩19:14]にほかならない。

 III. さて今、他にも多くのことを云えるが、あなたを飽き飽きさせてはいけないと思うので、あなたがた全員にこう注意したい。すなわち、自分の会計の報告を出した《方が良い》のはいつであるかに注意し、それから、あなたがその会計を出さ《ざるをえない》のはいつであるかに注意したいと思う。

 あなたも知る通り、「精算日が短ければ友情は長続きする」という格言があり、これは非常に真実な格言である。人は、常に自分の良心と友好関係にありたければ、それと小刻みに清算していなくてはならない。毎晩、包み隠さず詳細に罪の告白を行なうこと、これは古の清教徒たちの良い規則であった。一週間の罪の告白を土曜の夜、あるいは安息日の朝まで延ばさずに、むしろ、その日の失敗や、不完全さや、過ちを思い起こすことである。そうすれば、私たちは、ある日の失敗から、いかにすれば翌日の勝利を成し遂げることができるかを学ぶことができ、自分のもろもろの罪から毎日自分を洗うことによって、自分の衣のきよさと白さを保つことができるのである。兄弟姉妹。同じようにするがいい。精算日を短くするがいい。また、あらゆる安息日の夜に、あるいは、そうしたければ他のいかなる時であれ、安息日にあなたがしたことの清算をするがいい。私がこう云うのは、あなたが何か自分を義とするような、お前もよくやったな、という祝いの言葉によって励まされるためではない。なぜなら、もしあなたが自分の清算を正しく行なうとしたら、あなたは決してひとり得々とするようなことを多くは見いださず、むしろ常に、なすべきであったこととくらべると、自分の義務を不手際におこなったことを嘆くべき種を見いだすだろうからである。安息日が終わり、神の家に行ってあなたの学級を二度教えることが終わった後で、ひとりしずかに静まって、自分がどんな点で失敗したか、努めて思い起こしてみるがいい。ことによると、あなたは、性急に短気なところを見せたかもしれない。ある男の子が少し反抗的だったとき、あまりにも厳しく云いすぎたかもしれない。ことによると、あなたは、あまりにも穏やかすぎたかもしれない。あなたは罪が犯されるのを見た。それを叱責すべきだった。だが、そうしなかった。もしあなたが自分で自分の失敗を見いだしたとしたら、それは治療が半分は終わったようなものである。次の安息日に、あなたはそれを努めて正しくするようにできるであろう。

 それから、《摂理》がそれをあなたの道の上に置く時がある。それは、清算するための素晴らしい時期となるであろう。例えば、ある男の子が、あるいは、女の子が日曜学校を去るとき、そこにはあなたが自分に向かってこう考えるべき絶好の機会が供されている。「よろしい。私はベッツィをどう扱っただろうか? ジョンにどう接しただろうか? 私はウィリアムに、将来の生活において彼に役立つような教えをしただろうか? 誘惑の最中にあって誠実を保たせ、差し迫る危険にさらされたときに義を守れるような教えをしただろうか? 私は、あの女の子にどう教えただろうか? 彼女が世の中に出て行くとき、自分の義務を悟れるようにあの子を教えただろうか? 私は自分の力を尽くして、彼女を十字架の根元に導こうと努めただろうか?」 あなたがその子に関して発することのできる厳粛な問いは数多くある。そして、後年あなたが、成長した彼らの誰かれに出会うとき、あなたは自分の良心に向かって、自分の管理人としての会計報告を出すべき非常に適当な時期を見いだすであろう。果たしてあなたが、その人が子どもだったとき本当に、あなたが願えていたほどのことを行なったかどうかを見てとることによってそうなるであろう。

 それから、会計の報告を計算すべき1つの特別な時期は、ある子どもが死ぬときである。あゝ! 私たちが教えてきた子どもの臨終の床の回りには、いかなる思いの大群が群がることであろう。その両親に次いで、私は《日曜学校》の教師こそ、死に行くものの最も関心を寄せることと思う。あなたは思い起こすであろう。「ここに横たわっている枯れかけた花は、私の手が水を注いだのだ。いま永遠の門口を越えようとしている不滅の魂は、私が教えたのだ。おゝ、神よ。私はこの死に行く子どもに真理を教えてきたでしょうか。それとも、彼を欺いてきたでしょうか! 私は彼を忠実に扱ってきたでしょうか? 自分の滅びについて告げてきたでしょうか? 彼の前に、いかに彼がアダムにあって堕落したか、また自分自身において堕落しているかを示してきたでしょうか? キリストの大いなる贖いについて告げてきたでしょうか? 新生と聖霊のみわざの必要を彼に示してきたでしょうか? それとも、私は聖書の歴史的な部分に関する話や、道徳的な小話で彼を面白がらせ、律法の中ではるかに重要なもの[マタ23:23]を押し隠してきたでしょうか? 私は彼の死に行く手に自分の手を乗せて、沈黙の中で自分の心を天に掲げてこう云えるでしょうか? 『おゝ、神よ。あなたは私が彼の血に責任がないことをご存知です』、と」。あゝ! それは教役者をしばしば苦しめることである。――自分の会衆の誰かが死につつあることを思い出すとき、そうである。私は時として、私の会衆の中の不敬虔な者らの誰かの臨終の床の傍らに立つことがある。それは多くの涙に満ちた思いを私にもたらす。私は、自分がそうあるべきほど真剣だっただろうか? 私はこの人に向かってこう叫んだだろうか? 「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい![創19:17] 私は彼のために祈っただろうか? 泣いただろうか? その罪について告げただろうか? 単純に、平明に、大胆にキリストを彼に宣べ伝えただろうか? 厳粛であるべきときに、軽口を叩いた時はなかっただろうか? 私が間違って口にした何かが、彼の良心の袖付けにとって枕となり、彼を安楽にさせてしまった時期はないだろうか? 私は地獄に向かう彼の通り道に障害物を置く代わりに、その道をなだらかにしてこなかっただろうか? それとも、その通り道に鎖を張り、彼らをそこから追い出し、《救い主》を求めるようにさせてきただろうか? あゝ! 確かに私たちは、救いはみな恵みから出ていると知ってはいる。だが、この場にいるあらゆる人々に云うが、魂の血の責任から自由になりたければ人々に勤勉に警告し、忠実に宣べ伝えていなくはならない。というのも、キリストがご自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する[イザ53:11]と私に告げているこの同じ聖書が、もし彼らに警告しなければ、彼らが滅びる場合の血の責任は私の頭上に帰される、と私に告げているからである。

 しかし今、教師たち。あなたが自分の会計の報告を出さなくてはならない折について告げさせてほしい。そうしたければ、あなたはこうした時期をずっと先延ばしにしておけるであろう。あなたは、いくらでも無頓着に生きることができる。だが、もしあなたの中にひとかけらでも心があるとしたら、自分が病気になり、自分の学級に行けなくなったとき、会計報告を出さざるをえないであろう。もしあなたの良心があり、しかるべきものだったとしたら――ある人々の良心はそうしたものではなく、死んで無感覚になっているが――、もしあなたの良心が覚醒されたものだとしたら、あなたが自分の働きから締め出されたとき、あなたは自分がいかにそれをしてかきたか考え始めるであろう。あなたは、かの聖なる人ラザフォードの書簡集を読むはずである。もしこれまでにひとりでも福音を甘やかに、かつ天来の油注ぎをもって宣べ伝えた人がいたとしたら、それは彼に違いないと思う。だがしかし、彼がアバディーンに幽閉され、自分の大いに愛する群れのもとに行くことができなかったとき、彼はこう云い始めた。「あゝ、もし主が私を出て行かせて再び説教させてくださるとしたら、私は決して、私がそうなりがちだったような退屈な怠け者にはなるまい。私は涙を眼にためて説教するであろう。信徒たちが慰められ、罪人たちが会衆させられるように」。ことによると、あなたが自分の寝室で病の床に伏しているとき、小さなジェーンがお見舞いにやって来て、「早く良くなってね、先生」、と云うかもしれない。あるいは、ウィリアムが、あるいは、トマスが日曜の午後になると決まって見舞いに訪ねてきては、召使いを通してあなたによろしくと、また先生に早く良くなって、また教えてほしいと云ってくれるかもしれない。そのときこそ、あなたが確かに自分の会計報告を計算するときであることを私は知っている。あなたは云うであろう。「あゝ、私の学級に戻ったときには、私はこれまでしてきたような教え方はもうすまい。私は自分の学科をもっと研究するであろう。もっと祈るであろう。今までそうしがちであったようには、彼らに対して激したり、性急だったりすまい。私は彼らの行儀の悪さを我慢するであろう。あゝ、もし私の《主人》が私に、ヒゼキヤの場合のように、もう十五年の働きの年数を与え、私のより多くの恵みを与えてくださるとしたら、私は必死により良くなろうとするであろう」。あなたは、病気になるとき、確実に自分の会計報告を計算するであろう。

 しかし、たといあなたがその時そうしないとしても、私はあなたがそうせざるをえなくなるときを告げよう。それは、あなたが死ぬことになった時である。臨終の床についた不忠実な説教者にならなくてはならないとは、何とすさまじいことであろう。(おゝ、私がそのようなことから救われるように!) 人生が終わりに際して寝床につくこと、大きな数々の機会と、大会衆があったのに、何か別のことに夢中になりすぎて、私たちの主イエス・キリストの完全で、無代価の福音を宣べ伝えるのをないがしろにしてしまっていること! 思うに私が自分の床について死を迎えているとき、私はその部屋の中に数々の恐ろしいもの、陰惨なものを見るであろう。ある者がやって来ては私を睨みつけて云うであろう。「あゝ! お前も死ぬところなんだな。思い出すがいい。いかにしばしば私はあの桟敷席の前面に座って、お前の話に耳を傾けてきたことか。だが、お前は一度も私に向かって、必ず来る御怒りから逃れよと告げはしなかった。お前は私に理解できないことばかり話していた。だが、福音の単純な事がらをお前は一度も私に話したことがなく、私は疑いとおののきの中で死んだのだ。そして今、お前は私のいる地獄に来ようとしている。お前の不忠実さのために私が受け継いだ地獄にな」。また、私たちが老いて、死を間近にした年代になった:には、私たちは、自分の講壇の回りで育っていった幾多の世代を見て、彼ら全員のことを思うであろう。私たちは、自分が青二才として説教をし始めた時のことを思う。そのとき群がった青年たちを思い起こす。それから成人たちを、それから世を去った白髪の人々を。そして、彼らが陰鬱な行進をしてやって来るにつれて、彼らはひとりひとり、新鮮な呪いを私たちの良心に残して行くであろう。なぜなら、私たちは不忠実だったからである。自分の同胞たちを殺してきた男、血に飢えた戦争の犬どもを人類に向かって解き放ってきたどこかの陰惨な暴君の死の床は、恐ろしいものに違いない。兵士や、兵士の寡婦や、殺された平和の人が彼の前に立ち上がり、荒廃した国々の煙が彼の眼前に吹いてくれるように思われ、彼の目を痛ませ、血走らせる。人々の血が彼の良心に、大きな赤い棺衣のようにへばりついているとき、また、血塗られた殺人、薄気味悪い侍従が真紅の帷を彼の寝床の回りに巡らすとき、また、殺人者がその陰鬱な運命を受け継がなくてはならない最後の場所へと近づき始めるとき、それは実に恐ろしい時に違いない。しかし、思うに魂を殺してきたことは、それよりもさらにすさまじいことに違いない。――パンの代わりに毒を子どもたちに配り、彼らが正しい食物を求めたときに石を与えてきたこと、イエスのうちにある真理を彼らに教えてしかるべきであったときに、彼らに過誤を教えてきたこと、あるいは、真剣さが必要だったときに、気のない無関心さで彼らに語ってきたこと。おゝ、自分の責任に対して不忠実だったあなたがそこに横たわっているとき、いかにあなたの子どもたちはあなたを呪うように思われることか。しかり。あなたは、そのときには自分の会計報告を計算しなくてはならない。そして、あなたに云わせてほしい。確かにあなたの希望はすべてイエスに据えられていなくてはならず、また、それはあなたの生死の慰めでなくてはならないが、それでもあなたが死ぬことになったとき、自分は魂をキリストのものとすることに成功してきたのだ、と思い起こせるのは、甘美きわまりないことであろう。あゝ! 若くして病に伏した教師に向かって、ある小さな少女のことを思い出させるとき、それは彼女の肺病質の頬に多少の生気をもたらすであろう。その少女は、彼女が病に倒れる一年前に、彼女の手に口づけして、こう云ったのである。「さようなら。先生。また天国で会いましょうね。覚えているでしょう、先生。十字架の上にかかったイエス様の話をしてくれたのを。そしていつか日曜の午後に、私を家に送ってきてくださってから、私をだきしめて、膝まずき、神様が祝福してくださるようお祈りしてくださったわね。おゝ、先生。あれで私はイエス様に導かれたのよ」。しかり。教師よ。あなたが床に伏して、青ざめて、肺を病んでいるとき、あなたは、自分を永遠の住まいに迎え入れてくださる《救い主》のかたわらに、ひとりの小さな者がいることを思い起こすであろう。――あなたよりも先にそこへ云った若い魂である。あなたを手段として、罪深い世のよこしまさと奴隷状態から解放された者である。幸いなことよ。こうした者らと大勢、天国で会える希望を有している教師は。このような思いはしばしば私を励ますものである。この世が好き勝手に何と云おうと関係ない。私は、自分が死んだときには、あの人は私に福音を語ってくれた人です、と云って後々まで私のことを考えてくれる多くの魂がいることを知っている。イエスへと導かれた多くの酔いどれがおり、改心させられた多くの遊女がいる。そして、教師にとって、こう考えることは同じであるに違いない。彼が自分の翼を打ち鳴らして、この下界の地上の谷間から天国へと舞い上がるとき、彼を出迎えに1つの輝かしい霊が下って来るのを目にするであろう。そして彼は、その《霊》がこう云うのを聞くであろう。――

   「姉妹の霊よ、去れよかし」。

そして、彼がその目を開くとき、彼は見るであろう。彼が祝福を受け、その回心の手段とされた者の唇からその歌が出てきたことを。幸いなことよ、パラダイスの門で、自分の霊の息子や娘たちによって出迎えられる者は。また、あなたの《主人》の歓迎の傍らに、主があなたの永遠の栄冠の宝石としてあなたにお与えになった者らの歓迎を有することになる者は。

 さて、しめくくりである。私たちはみな、最後の審判の日に神に会計の報告を出さなくてはならない。それこそ、死をこれほど恐るべきものとしていることである。おゝ、《死》よ。もしお前がすべてだとしたら、お前などちょっとした痛みにすぎず、すべては終わる! しかし、《死》の後に、審きがある。これこそ、不敬虔な人々に対する竜の毒牙である。最後の大いなる日がやって来る。数々の書物が開かれる[黙20:12]。――男も、女も、子どもたちも集められる。多くの者がやって来ては、ある者らは右に、ある者らは左に立って、すでに宣告を聞かされている。教師よ、次はあなたの番である! いかなる報告をあなたは行なうだろうか? 第一のこととして、あなたは自分自身キリストのうちにあるだろうか? それとも、あなたは他人に向かって、自分が知ってもいなかったことを教えてきたのだろうか? この場にそのような人がいるだろうか? 疑いもなく、いるであろう。というのも、悲しいかな! 私たちの日曜学校には、そうした者が大勢いるからである。おゝ、愛する方々。《主人》がその書物を開き、あなたにこうお尋ねになるとき、あなたは何と云うだろうか? 「何事か。おまえがわたしのおきてを語るとは」*[詩50:16]。あなたは主を見上げて、こう云うだろうか? 「主よ。私たちはあなたの日曜学校で教えました。また、あなたは私たちの大通りで、食べたり飲んだりなさいました」。もしあなたがそう云うとしたら、主は云われるであろう。「まことに、わたしはあなたがたを全然知らない。呪われた者。わたしから離れて行け」*[マタ7:23]。それから、あなたは、あなたの日曜学校に関して何と云わなくてはならないだろうか? ――というのも、確かに私たちの最後の状態は実際、私たちがキリストの恩恵にあずかっているかどうかに従って決着が着くが、あなたは、証拠としてのあなたの行ないによって裁かれるからである。聖書が常に云うところ、私たちは私たちの行ないによって裁かれるのである。よろしい。ならば、その書物が開かれる。あなたはあなた自身の名前が読み上げられるのを聞き、この短い宣告を聞く。――「あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」[マタ25:21]。おゝ、天国の天国! では、これが数人の子どもたちを教えるという些細な苦労の報酬なのだろうか? おゝ、ご主人様。あなたは、私たちのもたらす二粒、三粒の塵のために黄金の延べ棒を下さいます。――私たちの奉仕のかけらに大して、王冠と王国で報いてくださいます! しかし、主は他の者らに向き直り、あなたに向かってこう云われる。「おまえたちが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」*[マタ25:41-45]。については、この2つのどちらが云われるだろうか? あなたについては、この2つのどちらが云われるだろうか? おゝ! 神の御前であるかのように、また、生きている人と死んだ人との《審き主》なるお方によって、私はおごそかに命じる。いまこの方をここへ運びつつある戦車の車輪の迅速さにかけて、また、かの決して破棄されることのない宣告にかけて、あなた自身をさばくがいい。というのも、そうするとき、あなたがたは審かれないからである。あなたの管理人としての会計報告をあなたの良心に向かって、また、あなたの神に向かって出すがいい。あなたのもろもろの罪を告白し、神の助けを求めるがいい。そして、今この時から、神の聖霊によって、神の働きに新しく取りかかり始めるがいい。そのようにしてあなたがたは、あなたの《贖い主》の義の衣を着、その血で洗われた者として、神の御顔の前に立つであろう。自分の行ないを誇りはしないが、あなたはこの方にあって受け入れられた者として立てるであろう。あなたの行ないは、あなたが数々の労苦から立ち上がるとき、あなたについて行くであろう[黙14:13]。そして、あなたは主にあって死ぬ幸いな者の数に入るであろう。

  
 

日曜学校教師――管理人[了]

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