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ご自分の教会の建設者として栄光を帰されるキリスト

NO. 191

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1858年5月2日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び……る」。――ゼカ6:13


「耳あらば 万(よろず)のものに 音楽(しらべ)あり。
この世は天空(あめ)の こだまなるらん」。

 天は常に歌っている。神の御座の前で、御使いたちと贖われた聖徒たちは、神の御名を賞揚している。そして、この世界も歌っている。時には、鳴り轟く雷鳴や、叩きつける大滝の泡立つさざなみ、唸るように鳴く牛たちの大音声によって、また、多くの場合、この広大な被造世界から流れ出る、静かで、厳粛な調和によって歌っている。その沈黙において、それが神を喜ばせるときにそうである。その頭を宙に持ち上げている山嶺は、静寂の中で豊かな歌をほとばしらせている。それは、時にはその顔を霧の翼で覆い、別の時にはその雪白の額を露わにし、神の陽光を反射させている。また、自分を煌めかせている光、自分しか目にできない喜ばしい光をありがたく神に感謝しながら、その華麗さを身をまとっては、下界の、笑いさざめいている低地を見下ろしている。天と地が節回しを合わせている調べは同じである。天で彼らは歌っている。「主は高く上げられよ。主の御名はとこしえほめたたえられよ」、と。地も同じように歌っている。「主よ、あなたは、みわざにおいて大いなるかな! あなたにご栄光がありますように」。それゆえ、もし教会が、生ける神の神殿が、歌に欠けているとしたら、それは奇妙な変則と思われるであろうし、私たちはそのような変則が存在していないことについて神をほめたたえるものである。というのも、「彼らは聖所で昼も夜も、神を賛美している」*[黙7:15]からである。そして、星々をちりばめた諸天が絶えることなく神をたたえているのと同じくらい真実なこととして、地の星々、すなわち、主イエス・キリストの諸教会もまた、それぞれが常にその賛美を歌を神に歌っているのである。きょう、この建物の中では、何千人もの声が神の御名を叫んでおり、きょうの太陽が沈むときには、それは別の国に昇り、そこでもキリスト者たちの心が目覚めさせられ、私たちが賛美をし終えるときに賛美し始めるであろう。そして明日、私たちが一週間の勤めに出るときには、起床時に神を賛美し、就寝時に神を賛美するであろう。また、この甘やかな思想で自分を慰めるであろう。すなわち、賛美の輪がここで暗闇によって覆われるときも、この国の日の入りとともに日の出を迎える国においては、別の黄金の輪が陽光の中で燦然と輝いているのだ、と。

 そして、教会の音楽の節回しが、いかに天と地のそれと調べを合わされているか注意してみるがいい。――「大いなる神、あなたはほめたたえられるべき方」。これは、地上の贖われた者すべてが異口同音にささげる歌ではないだろうか? 私たちが歌うとき、これが私たちのホサナとハレルヤの唯一の主題ではないだろうか?――「生きておられる方、御座にすわる方に、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように」。さて本日の聖句は、その歌の一旋律である。願わくは、神が私を助けてそれを理解させ、また、あなたにもそれを理解させてくださるように。「彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び……る」。私たちはみな、主イエス・キリストがここで暗示されていることを知っている。というのも、文脈はこうだからである。――「見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝」。――この称号は、常にメシヤなるナザレのイエスにあてはめられている。「彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある」。

 さて、私たちが今朝注意したいのは、まず第一に、神殿、すなわち、キリストの《教会》である。私たちが次に注意したいのは、その建設者である。――「彼は」、すなわち、イエスは、「主の神殿を建て……る」。その後、私たちはしばし立ち止まり、主の栄光を賞賛したい。――「彼は尊厳を帯び……る」。それから、私たちは聖霊のいつくしみ深い御手の下で、この主題の実際的な適用をいくつか語りたいと思う。

 I. 第一の点は、《神殿》である。この神殿は神の教会である。そして、ここでは、まずこう述べることから始めさせてほしい。すなわち、私が「神の教会」という言葉を用いるとき、それは、それが時として理解されているのとは非常に異なる意味で用いているのである。多くの英国国教会の人々は普通、この「教会」という言葉を、特に主教や、大執事や、教区牧師や、副牧師、その他にあてはめる。こうした人々が教会であると云われており、どこかの会衆の牧師になる青年は、「教会に入る」と云われる。さて、私の信ずるところ、この言葉をそのように用いるのは聖書的ではない。私は、いかなる人に対しても決して、一瞬たりとも、福音の教役者たちが教会を構成しているなどと認めはしない。もし軍隊について語るとしたら、兵士たち全員がそれを構成しているのである。時として、士官たちこそまず第一の者として語ることができるかもしれないが、それでも兵卒たちは、最上位の将官と同じくらい軍隊の一部である。神の教会もそれと変わらない。全キリスト者が教会を構成している。いかなるキリスト者たちであれ、神の定めた儀式を受けるため、また、自分たちが神の真理とみなすものを説教するための交わりという聖なる絆においてともに集まっているとしたら、それは1つの教会である。こうした教会の全体が寄り集まった1つのもの、すなわち、世界中に散らばったキリストを信ずる真の信仰者たち全員が、《1つの真の普遍的で使徒的な教会》を構成しているのである。その教会は、岩の上に建てられており、ハデスの門もそれには打ち勝てない[マタ16:18]。それゆえ、私が教会について語るときには常に、カンタベリー大主教だの、ロンドン大主教だの、他の二十人の高位聖職者たちだの、教役者たちの全集団だのを意味しているとあなたは想像するだろうか? 否。また、私が教会について語るときには、バプテスト派やその他の教派の執事や、長老や、牧師たちのことを意味しているのではない。――私が意味しているのは、主イエス・キリストを真摯に、また真実に愛しているすべての人々である。というのも、こうした人々こそ、唯一の普遍的教会をなしており、この教会は、自らの内側に霊的な交わりを有しているのである。必ずしも外的なしるしにおいてそうでなくとも、内的な恵みにおいては常にそうである。地の基が置かれる前から神の選民であった教会、キリストにより、その尊い血で贖われ、その御霊によって召された教会、その恵みによって保たれ、最後には集め入れられ、天に名前の登録された長子たちの教会[ヘブ12:23]をなすべき教会である。

 さて今、この教会は神の神殿と呼ばれており、キリストはその建設者と云われている。なぜ教会は神殿と呼ばれるのだろうか? ごく手短に答えよう。神殿とは、神が特別にお住まいになる場所だったからである。確かに神は、完全には、手で造った宮、人間が建てた、ソロモンがシオンの山の上に積み上げた神殿にはお住みにならなかった。だが、やはり確かなこととして、《無限に威光あるお方》は、特別の意味において、そこにご自分の仮庵、ご自分の住まいを設けられた。ケルビムの広げた翼の間に、シェキーナーの燦然たる光が輝いていた。それは、イスラエルの神エホバの特別の臨在の予型であり、現われであり、証拠である。確かに神はあらゆる所におられる。天国の天辺から地獄の最深淵に至るまで神は見いだされる。だが、特に神はその神殿の中に住まわれた。それで、御民が祈るとき、彼らは、ダニエルがそうしていたように、その目を神殿の方に向けるよう命ぜられた。ダニエルは、彼の窓をエルサレムに向けて開けては、祈りをささげていたのである[ダニ6:10]。さて、そうしたものが教会である。むろんあなたが神を見いだしたければ、神はあらゆる山の峰におられ、あらゆる谷間におられる。神は被造世界の至る所におられる。だが、特別な神の現われを有したければ、もしあなたが《いと高き方》の幕屋がある特別の場所が何か、神威の奥の間が何かを知りたければ、あなたは真の信仰者たちの教会を見いだす所へ行かなくてはならない。というのも、ここにこそ神はやむことなく住まわれるからである。――へりくだった、悔いた心、神のみことばに震える人の心の中に住まわれるからである。

 また、神殿は、最も明確な現われの場であった。神を何にもまして見たいと願う者は、神の神殿の中で神を見てとらなくてはならなかった。繰り返すが、神はいずこにおいても発見できた。もしあなたがカルメル山の頂上に立ち、あらゆる船舶の浮かぶ、また、神がそこで遊ばせるために造られた大いなるレビヤタンのいる大海に向かうとしても、そこでも神は、その大いなる力によって発見されるであろう。もしあなたが同じ山に目を向け、エスドラエロンの低地を眺めるとしても、神はあらゆる草葉のうちに、また、流れのそばで草をはむあらゆる羊のうちに見てとることができた。神は至る所で発見できた。だが、もしあなたが神を見たければ、バシャンの上でも、ヘルモンの上でも、タボルの上でもなく、シオンの山の上においてこそ主なる神はご自分を特別に現わすことを愛された。教会もそれと同じである。神は教会のただ中にあって、その助け手であられ、その力であられ、その教師、その導き手、その解放者、その聖め主であられることが見られるはずである。聖餐式において――パンを裂き、葡萄酒を注ぐことにおいて――、聖なるバプテスマにおいて――信仰者を主イエス・キリストにつくようにすることにおいて――、みことばの説教において、イエスによる大いなる救いの宣言において、十字架を掲げ上げることにおいて、その上で死なれたお方を高く上げることにおいて、《契約》の宣教において、神の恵みの宣言において、――ここにおいてこそ神は見られ、ここにおいてこそ神の御名は、この広大な世界のどこにもまして輝かしい文字と明確な筆致で記されている。こういうわけで、神の教会は、その神殿と云われるのである。おゝ、キリスト者である人たち。あなたがたはこのことを知っている。というのも、神はあなたがたの中に住み、あなたがたとともに歩んでおられるからである。あなたは神の中に住み、神はあなたがたの中に住まわれる。――「主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる」[詩25:14]。あなたには、神とともに歩む幸いな特権がある。神は、世に対してはしないようなしかたで、ご自身をあなたがたに現わしておられる。神はあなたをご自分の奥の間に連れ込んでくださる。ご自分の愛を現わしてくださる。ソロモンの雅歌は、他ならぬあなたがたの庭においてのみ歌われる。それは広大なこの世の歌ではなく、その奥の間の十四行詩、葡萄酒の家の歌、祝宴の音楽である。あなたはこれを理解できる。キリストとの親密な近づきにされているからである。あなたは、自分の頭を主の胸にもたせかけることを許され、主の心をのぞき込むことを教えられ、そこにある、あなたへの永遠の愛の思いを見させられている。あなたは生ける神の神殿であることがいかなることかをよく知っている。私たちがあなたに告げうることよりもよく知っている。

 そしてもう一言。「神殿」という言葉がなぜ教会の描写として用いられているかを語りたければ、間違いなくこのことを述べなくてはならない。教会が神殿に似ているのは、――礼拝の場としてである。神によって決された1つの律法によると、いかなるいけにえを神にささげる場合も、エルサレムにある神殿で、その唯一の祭壇の上においてささげられなくてはならなった。そして、その律法は今日に至るまで存続している。キリストの教会によらない限り、いかに受け入れられる礼拝式をも、その主にささげることはできない。キリストを信ずる者たちだけが、神に受け入れられる歌と祈りと賛美をささげることができる。心の中でキリストから離れているあなたがいかなる儀式に出席しようと、あなたはその儀式を裏切り、悪用しているのである。――それによって神に誉れを帰していないのである。ふたりの人が、祈るために宮に上ったとする。ひとりは信仰者で、もうひとりは不信者である。不信者の方は雄弁の才と、立て板に水の流暢な話しぶりを有している。だが彼の祈りは神にとって忌み嫌うべきものである。一方、真の信仰者がいかに訥々とした話しぶりであっても、御座の上に座しておられるお方は微笑みとともにそれを受け入れてくださる。ふたりの人が《主人》の聖餐卓のもとに行くとする。――ひとりは、この儀式をその外的なしるしによって愛し、迷信的にそれを敬っているが、キリストを知ってはいない。もうひとりはイエスを信ずる信仰者で、いかにしてその肉を食べ、その血を飲むべきか、いかにすればこの天来の儀式にふさわしくあずかることができるかを知っている。神は一方の人によっては誉れを帰され、もう一方の人によってこの儀式は汚される。ふたりの人が聖なるバプテスマを受けるとする。ひとりは《主人》を愛し、その御名を信じ、主に信頼している。その人はバプテスマを受けて、キリストに誉れを帰す。もうひとりの人がやって来る。ことによると、物心もついていない幼児かもしれない。信仰を持つことのできない者、あるいは、信仰を持ってもいない人である。その人は神の誉れを汚し、この儀式の誉れを汚す。教会の一員でもなく、それゆえ、私たちの神なる主に祈りや賛美のいけにえをささげる何の権利もないにもかかわらず、この儀式に触れようなどとすることによってそうする。この世には、ただ1つの祭壇しかない。――それはキリストである。また、ただ一団の祭司たちしかいない。神の教会である。この世から選ばれて、神の祭壇で仕えるべく白い衣を着せられた人々である。そして、それ以外のいかなる人が神を礼拝しているふりをしようと、その人は正しく神を礼拝してはいない。その人のささげ物は、カインのそれのようである。神はその人のささげ物に目を留められない。というのも、信仰がなくては神に喜ばれることができないからである[ヘブ11:6]。私たちは、その行為をいかなる身分の人が行なおうと気にはかけない。信じていない限り、神から喜ばれることはありえず、そのいけにえが受け入れられることもない。

 このようにして私は、なぜ教会が神殿と云われているかという理由を述べてきた。かつてはただ1つの神殿しかなかったように、教会もただ1つしかない。その1つの教会が、神の聖なる場所である。神が住まい、神が礼拝を受け入れ、賛美の歌が毎日口にされ、たちこめる祈りの香が絶えず主の鼻の前に立ち上っては受け入れられている場所である。

 II. さて、本日の聖句で第二に考えたいのは、興味深い主題である。「彼は主の神殿を建て……る」。《キリストは教会の唯一の建設者である》。さて、私はキリストが教会をお建てになることと、最初の神殿の建設者としてのソロモンとの間に1つの平行関係を設けたいと思う。ソロモンが神殿を建てたとき、彼が行なった最初のことは、自分が建てる神殿のひな型について指示を得ることだった。ソロモンはこの上もない知恵に富んでいたが、私は彼自らが設計者になったとは思わない。荒野でモーセに古の幕屋の型を示した主は、疑いもなく神殿のひな型をソロモンに示された。それで、その神殿の柱も、屋根も、床もみな神によって定められ、そのあらゆるものは天で決定された。さて、キリスト・イエスはこの点で決してソロモンではない。違う点がある。すなわち、万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神[ロマ9:5]である主は、自ら設計者であった。キリストはご自分の教会の設計を行なわれた。あなたや私は、その教会の建設について非常に数多くの設計を行なってきた。長老派は、きわめて厳密な設計を行なう。彼はあらゆる角に長老を置き、長老会が大きな基礎となる。――真理の柱、また土台となる。そして彼は、そうすることにおいてある程度まで正しい。監督派も自分の神殿を建てる。彼は玄関の側柱に主教を立て、司祭によって門を閉めさせることにする。彼は、山でクランマー[1489-1556。カンタベリー大主教]に示された型に従って、すべてのものを建てるであろう。クランマーがその山にいたなどということがあったとしたらだが。そして、私たちの中にいる、より厳格な規律と、より簡素な様式を有する者らは、キリストの教会を常に会衆派の規則に沿って建てる。あらゆる会衆は別個に独立したものであり、自らの主教や、執事たちや、長老たちによって統括される。しかし、よく聞くがいい。キリストは、教会政治について私たちが主張する点に注意を払いはしない。というのも、キリストの教会の1つの部分は監督派であり、英国国教会の一主教がそれを整えたかのように見えるが、別の部分は長老派であり、別の部分はバプテスト派であり、さらに別の部分は会衆派である。だがしかし、これらすべての建築様式は、かの《大設計者》によって、どのようにしてか1つに融合されて、かの美しい構造物をなしているのである。その構造物はこう呼ばれている。「キリストの神殿、生ける神の教会、真理の真理の柱また土台[Iテモ3:15]」、と。キリスト自らが設計者でなくてはならない。主は、真理の個々の異なる点を異なるしかたで持ち出されるであろう。何と、私の信ずるところ、個々に異なる教派が送り出されているのは、個々に異なる真理を明らかにするためである。私たちの兄弟たちの中には、少し高踏的すぎる人々がいる。彼らは主権的な恵みという、あの壮大な昔ながらの諸真理を他のどの人々よりも明らかにしている。その一方で、ある人々は少し低踏的すぎる。彼らは人間の責任という偉大な、また真実の諸教理を非常な明確さをもって明らかにしている。それで、ただ一形式のキリスト教しか存在していないとしたら、どちらかがないがしろにされかねなかった2つの真理が、両方とも明らかにされており、両方ともまばゆいばかりに輝かされているのは、神の民の異なる教派のためなのである。両者はともに神によって選ばれ、神にとって尊いものなのである。

 私は、過誤のうちにある誰かを支持するようなことは決して云うつもりはない。それにもかかわらず、神の民は、過誤の中にあってさえ、尊い民なのである。彼らが土製の水差し、陶器師の手すさびのように見えるときでさえ、それでも彼らは純金に匹敵する。こう確信しているがいい。主には、ご自分の教会の分裂によってさえ果たすことのできる深い意図がおありなのである。私たちはキリストの理由に干渉することも、その建築様式を妨げることもしてはならない。この神殿内のあらゆる石は、そこに置かれるべくしてイエス・キリストが定められたのである。いかにつまらない、目につかない石も、主によってそこに置かれたのである。一枚の杉材も、一片の磨き上げられた尖塔も、かの永遠の恵みの契約において予見されていなかったもの、事前に決められていなかったものはない。その契約とは、《全能の設計者》なるキリストが、ご自分の誉れとなるべきこの神殿の建築のために作成された偉大な設計図である。そこでキリストは唯一の《設計者》であり、その尊厳を帯びることになる。主がその建物を設計されたからである。

 さて、あなたも思い出す通り、ソロモンがその神殿の建設作業に着手したとき、彼は自分の目的のために山が備えられているのを見出した。モリヤの山である。その頂上には十分な広さがなかったため、彼はそこを拡張し、全地の喜び[詩48:2]となる麗しい神殿を建てる空間を作らなくてはならなかった。だがイエス・キリストがご自分の神殿を建てるために来られたとき、それを建てるべき山は何も見いだされなかった。主は私たちの性質の中に何の山も見ず、ご自分の山を見いださなくてはならなかった。そして、主がご自分の神殿をお建てになった山は、主ご自身の変わらない愛情という山であり、主ご自身の強い愛、主ご自身の全能の恵みと無謬の真実さという山であった。これこそ教会が建てられている山をなすものであり、この山の上に土台は掘られ、その溝の中に数々の巨石が据えられ、それらを堅固に立たせる誓いと約束と血が注がれた。大地が揺れ動き、被造世界全体が朽ち果てても、それらは立ち続けるのである。

 それから、ソロモンが自分の山を用意し、土台を築いた後で、次に問題となったのは、手近に全く材木がないということであった。しかしながら、レバノンには見事な樹木が生えていた。ただし、彼のしもべたちには、それを切り倒すに十分な技術がなかった。それゆえ、彼はツロの王ヒラムとそのしもべたちに使者を送り、レバノンの樹木を切り倒させなくてはならなかった。その木材は、ひな型に従って形作られた後で、筏に組んで、エルサレムに最も近い海港ヨッパへと送られ、そこで、短い距離の陸路を経て神殿建設現場へと持って来られた。石切場の石についても同じことをしなくてはならなかった。というのも、この建物のため必要とされた個々に異なる石は、ヒラムのしもべたちによって石切場から切り出されなくてはならなかったからである。ソロモンの民の何人かも手伝いはしたが、彼らの技術は劣っていたため、ずっと骨の折れる、粗雑な仕事の方に回された。ソロモンの神殿建設の記述を読むと、この建物の什器類を作ることについても、同じ事実が起こっていることに気づくであろう。ヒラムがそれらを鋳て、ソロモンは黄金を見いだしたと云われている。そして、各種の鋳型が大平原に設けられ、ソロモンは、ヒラムを自分の細工師の長また監督として、そこで数々の器を鋳造したのである。

 あゝ! だがここでソロモンはキリストの予型となることができない。キリストは神殿をご自分でお建てになる。そこには主が飢えられたレバノンの杉が生えているが、それは建築のための備えができていない。それらは切り倒されも、形作られも、杉の厚板にされても、パラダイスにおける主の宮を芳しい香で満たす美しいものにされてもいない。否。イエス・キリストはそれらを罪の確信という斧で切り倒さなくてはならない。ご自分の律法という大鋸で切断しなくてはならない。ご自分の聖なる福音によって、鉋をかけ、磨きをかけなくてはならない。そしてそれらは、主が主の家の柱としてふさわしいものに仕上げた後で、天国への海路を引っ張って行かれなくてはならない。その後で、それらは永遠に主の宮に据えられるのである。いかなるヒラムも必要ない。斧は主の御手の中にあり、鉋もまた主の御手の中にある。主はそのわざに熟達しておられる。主は地上で大工ではなかっただろうか? そして、霊的に主は、ご自分の教会にとって永遠に大工であられる。この神殿の石についてさえ同じである。私たちは石切場のごつごつした石のようである。私たちの掘り出された穴、私たちの切り出された岩を見るがいい[イザ51:1]。しかし、私たちをその岩から切り出したのは、ほかならぬキリストの御手なのである。主は、その穴の石からアブラハムの子孫を起こされた[マタ3:9]。主ご自身の槌こそ、その岩を粉々に砕いたものであり、主ご自身の力ある御腕こそ、その槌を振るっては、私たちの罪という岩の中から私たちを砕き取られたものである。私たちひとりひとりが磨かれて、この神殿にとって備えをされつつあるとはいえ、その研磨作業をしているのはキリストのほかにいない。種々の患難が私たちを聖くするのは、それがキリストによって、その小槌として、また、その鑿として用いられるときだけである。私たちの喜びや私たちの努力は、イエスの御手から離れては、私たちを天国にふさわしいものにすることはできない。この方が私たちの心を正しく成形し、私たちを、光の中にある、聖徒の相続分[コロ1:12]にあずかるために整えてくださるのである。

 このようにしてあなたは、イエス・キリストがここでソロモンを凌駕していることに注意するであろう。主は原材料のすべてを供しておられるからである。主はそれらをご自分で切り出される。主はそれらを最初に粗ごしらえし、それから、その後で人生を通じて彼らを磨き上げ、ついには彼らを神の山に運送するにふさわしくしてくださる。その山の上で主の神殿は建てられるのである。私は、あのレバノンの木々が筏となった姿は、何と巧みな比喩かと考えてきた。板材へと切り刻まれ、神殿の柱として固定される準備が整った材木の筏である。――何と見事な死の象徴であろう! 私たちも全くそれと同じではないだろうか。ここで私たちは育ち、ついには切り倒されて、神殿の柱となるべく整えられる。死の川を越えて、愛に満ちた御手により輸送され、エルサレムの港に持って来られる。そこに私たちは無事に陸揚げされ、もはや先に進むことは永遠になく、私たちの主の神殿の中で永久に柱としてとどまることになる。さて、あなたも知る通り、こうした筏はツロ人によって浮かべられた。だが、死の川を越えて私たちを浮かばせるのは決して異国人でも外国人でもない。尋常ならざることに、イエス・キリストは常にご自分の民について、彼らの死をご自分おひとりのせいにするような表現を用いておられる。あなたは、黙示録にあるこの表現を思い起こすであろう。――「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから」[黙14:15]。しかし主が、圧搾される悪人を象徴する葡萄の房ではなく、敬虔な人々を象徴する麦を刈り入れ始めるときには、こう云われている。「御座に乗っておられる方が、地にかまを入れた」*[黙14:16]。主は、それをご自分の御使いたちにまかせることをず、ご自分で行なわれた。こうした板材を持って来ること、こうした石材を移動させることも同じである。私は云うが、ツロやシドンのいかなる王もこのようなことはしない。死の死にして地獄(よみ)の破壊者(ほろび)であられるイエス・キリストご自身がこの川を下る私たちの水先案内人となり、無事にカナンの岸辺に上陸させてくださるのである。「彼は主の神殿を建て……る」。

 よろしい。こうした原材が持って来られた後で、ソロモンは何万もの労務者を雇って、それらをしかるべき場所に組み立てさせなくてはならなかった。知っての通り、ソロモンの神殿には何の槌音も聞こえなかった[I列6:7]。石は石切場で準備され、形作られ、すべて、はめ込むべき正確な場所を石工に分からせるようなかたちにしるしをつけられていたからである。どの板材も角材も、正しい場所に持って来られ、それらを組み合わされる留め金もみな用意されていたため、釘が打ち込まれることすらなかった。すべては前もって整えられていた。私たちもそれと同じである。私たちが天国に着いたとき、そこで私たちを聖めることは何もないであろう。私たちを患難で真っ直ぐにすることは何もないであろう。私たちを杖でならすこと、私たちを形作ることは何もないであろう。私たちは地上でふさわしい者とされなくてはならない。そして、主の御名はほむべきかな。それをみなキリストは前もって行なってくださる。私たちがそこに着いたとき、御使いたちがこの教会員をある場所へ、別の教会員を別の場所へとはめ込む必要などない。石切場から石を切り取り、それを準備されたキリストが、ご自分でこの民をパラダイスにおけるその相続の地へと置いてくださる。というのも、主ご自分こう云われたからである。「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」[ヨハ14:2-3]。キリストは、ご自分が案内係となり、ご自分の民をご自分へと迎え入れ、ご自分が天国の門に立って、ご自分の民を受け入れ、祝福された者の国で、彼らに割り当てられた地に彼らを置いてくださる。

 疑いもなく、あなたはソロモン神殿の物語を何度も読んだことがあり、彼がこの神殿全体に黄金をかぶせたことに注目したことがあるであろう[I列6:21-22]。彼はこの物質の多くを供したが、父ダビデも彼に大量の蓄えを残していた。さて、イエスは私たちを天国に建てるとき、私たち全員に黄金をかぶせてくださる。天国に行った私たちが、今日の私たちと同じような者であると想像してはならない。しかり。愛する方々。もしもあの杉が、柱にされた後の自分を見ることができたとしたら、自分でも自分が分からなかったであろう。もしあなたが、自分がいかなる者とされるかを見ることができたとしたら、あなたは云うであろう。「私たちがいかに偉大な者とされるに違いないか、その『後の状態はまだ明らかにされていません』[Iヨハ3:2]」。また、むき出しのまま、何の飾りも施されていない杉の柱は一本もなかった。――そのままでさえ麗しく、美しくはあったが――それらは金箔をかぶせられた。私たちもそれと同じになる。「卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、……血肉のからだで蒔かれ」、純金で覆われた「御霊に属するからだによみがえらされるのです」[Iコリ15:43-44]。もはやかつてあった姿ではなく、尊く、輝かしく、栄光に富んだ姿となるのである。

 そして、この神殿の中には、私たちの理解するところ、祭司たちがからだを洗う大きな青銅の海と、他にもいくつか、いけにえにされる子羊や雄牛を洗う青銅の洗盤があった。天国には、大いなる洗盤がある。その中で私たちの魂のすべては洗われている。「彼らは……その衣を小羊の血で洗って、白くした」[黙7:14]からである。さてキリストご自分が、この聖なる海を用意しておられる。主はそれをご自分の血管から流れた血潮で満たされた。私たちの祈りや賛美について云えば、それらが洗われる大いなる洗盤もまたキリストによって満たされた。それで私たちによる祈りや賛美はきよく、私たちは私たちの主イエス・キリストを通して神に受け入れられるいけにえをささげるのである。この項目から離れる前にもう一度云うが、教会という大神殿の中のいかなる部分も、キリストによって造られなかったものはない。地上の教会の中には、キリストが全く関わりをお持ちにならなかったものが大量にあるが、主の真の教会の中、特に主の栄化された教会の中には、主によってそこに置かれなかったものは何もない。それゆえ、私たちは、最後の項目におけるこの結論に、ここで達して良いであろう。主はすべての栄光を帯びることになる。というのも、主おひとりがその建設者だからである。

 III. さて、キリストを試し、《キリストに栄光を帰す》ことは、何と甘やかなことであろう。私は今朝、私の《主人》をほめたたえることになる主題を語ることができて、非常に幸いである。しかし、私たちがいかにキリストをほめたたえたいと思っても、私たちのあわれで、役立たずの舌が語るのを拒否するとは悲しいことではないだろうか。おゝ、もしあなたが私の《主人》の栄光を知りたければ、自分でそれを見なくてはならない。というのも、主をいかによく知り、主をいかに愛している者たちでさえ、シェバの女王のように、その半分もあなたに告げることはできないからである。主の栄光の半分も告げられることは決してない。しばらく立ち止まるがいい。そして、あなたに向かって二言三言、愛情のこもった言葉を語りかけさせてほしい。おゝ、あなたがた、主の聖徒たち。あなたの《主人》はあなたを整えてこられ、いつかあなたをその神殿の中に立ててくださる。語り、云うがいい。「主はすべての栄光をお受けになる」、と。まず最初に注意したいのは、主がお受けになる栄光は、重みのある栄光となるということである。ギル博士は云う。「この表現では、この栄光が重みのあるものだと暗示されている。というのも、これは、主が尊厳を負う、と述べているからである」。「彼の上に」、と別の表現は云う。「父の家のすべての栄光がかけられる」[イザ22:24]。また、別の箇所では、義人のために用意されている、「測り知れない、重い栄光」*[IIコリ4:17]があると告げられている。ならば、キリストに与えられる栄光の重みはいかに大きなものであろう。おゝ、キリストに与えられる栄光が、地上におられたときのような、粗末な程度のものであると考えてはならない。天国の歌々は、私たちの歌よりも高貴な旋律である。贖われた者たちの心は、私たちにできるよりも、ずっと崇高な敬意を表することができる。キリストの壮麗さを、国王たちの勢威によって判断しようとしてはならない。地上の勇者たちに払われる畏敬によって判断してはならない。主の尊厳は、この時空のいかなる栄光をもはるかに越えた尊厳である。主に授けられる誉れは、太陽の輝きのようであり、地上の誉れなど薄れ行く星のまたたきにすぎない。主の前で、今まさにこの日、支配と権威[エペ3:10]はひれ伏している。万の万倍もの熾天使が主の足元で仕えている。「主のいくさ車は幾千万と数知れず、幾千もの御使いたちである」*[詩68:17]。そして、こうした御使いたちはみな、主の手招きや命令を待っているのである。そして、主の贖われた民について云えば、いかに彼らは主をほめたたえることだろうか? 決して止むことなく、決して変わることなく、決して倦むことなく、彼らはその叫びを高く、さらに高く、さらに高く、それよりも大きく、なおも大きくあげて、その旋律が掲げられる。そして、常にそれは同じなのである。「死んだが、生きておられ、いつまでも生きておられるお方に、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように」。

 やはりまた注意すべきことに、この栄光は、分割されざる栄光である。天国におけるキリストの教会においては、キリストのほか何者にも栄光は帰されない。地上で誉れを与えられている者には、その誉れを自分と分かち持つ誰かがいる。その務めにおいて、自分とともに労する、自分の目下の誰かがいる。だが、キリストにそのような者はひとりもいない。主には栄光が帰され、その栄光はみな主の栄光である。おゝ、あなたがた、神の子どもたち。あなたが天国に着いたとき、あなたはあなたの《主人》のほかに誰を賛美するだろうか? カルヴァン主義者たち。きょうのあなたはジャン・カルヴァンを愛している。だが天国で、あなたは彼をたたえるだろうか? ルーテル派の方々。きょうのあなたは、かの断固たる宗教改革者の記憶を愛している。だが天国で、あなたはルターへの賛歌を歌うだろうか? ウェスレーに従う人たち。あなたは、かの伝道者に対する畏敬の念をいだいている。だがあなたは、天国でジョン・ウェスレーに対する旋律を有するだろうか? 否、否、否! 一切の名前と、人々の誉れの一切とを捨てて、その旋律は分割されざる、また、きしむことのない斉唱によって上がることであろう。「私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ってくださった方に栄光が、とこしえにあるように」*[黙1:5-6]。

 しかし、また、主はすべての栄光をお持ちになる。考えられる限りのすべて、願いうる限りのすべて、想像できる限りのすべてが主のもとにやって来る。きょう、あなたは主を賛美するが、あなたに願えるほどではない。天国において、あなたは主を、あなたの願いの頂点に達するほど賛美する。きょう、あなたは主がほめたたえられているのを目にするが、万物が主に従わせられているのを見てはいない。天国では、万物が主の支配を認める。そこでは、すべてが膝をかがめ、すべての口が、イエスは主であると告白する。主はすべての栄光をお持ちになる。

 しかし、この点のしめくくりとして、この栄光はとどまることのない栄光である。これは、主が一切の尊厳を帯びると云う。この支配はいつ枯渇するだろうか? いつこの約束は、成就しきったあげくに、着古した服のように打ち捨てられることになるだろうか? そのようなことは決してない。

   「いのちと、思いと、この存在(み)が続き、
    不滅(とわ)のありさま 保(も)たん限りは」、

私たちは、決してキリストを賛美することをやめない。私たちは、私たちの《主人》に関する限り、私たちが天国に至ったときいかに感ずるかほとんど推測できると思う。私が思うに、もし私が主のほむべき御顔を喜びとともに眺める特権を一度でも与えられるとしたら、私が欲する唯一のことは、主の御座に近づくことを許され、自分の有するなけなしの誉れを主の足元に投げ出し、それからそこでいつまでも、主の愛という比類ない光彩と、主の御力の驚異とを賞賛することであろう。かりに、そこに誰かが入ってきて、贖われた者たちにこう云ったとしよう。「あなたがたの歌をちょっと中断するがいい! 見よ、あなたがたは、この六千年もの間、キリストを賛美し続けている。あなたがたの中の多くの人々は、休みなしに、この何世紀もの間、キリストを賛美してきた! 一瞬、あなたの歌をやめるがいい。立ち止まって、しばしの間でも、他の誰かにあなたの歌をささげるがいい」。おゝ、あなたに思い描けるだろうか? 贖われた者たちの無数の目が、いかなる蔑みをこめて、この誘惑者をにらみつけることか。「主を賛美することをやめるだと! 否、決してやめるものか。時間はやんでもよい。そのようなものはもはやなくなるからだ。世界はやんでもよい。その回転は止まらざるをえないからだ。宇宙はその循環をやめ、その世界を動かすことをやめてもよい。だが私たちは、私たちの歌をやめはしない。――決して、決して!」――そして、こう云われるであろう。「ハレルヤ。ハレルヤ。ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた」* [黙19:6]。主は、すべての栄光を有し、主はそれを永遠にお持ちになる。主の御名はとこしえに続き、その名は日の照るかぎり、いや増す[詩72:17]。それゆえ彼らは、主を永久永遠に賛美するのである。

 IV. さて、しめくくりとして、《本日の聖句の実際的な適用を1つ》行ないたい。兄弟姉妹。私たちはきょうキリストの上に建てられているだろうか? 私たちはこう云えるだろうか? 自分たちは、主の神殿の一部であると希望している。主の手のわざが自分たちの上で表わされたことがあり、自分たちはキリストによってともに建てられている、と。そうだとしたら、一言、勧告の言葉を聞くがいい。私たちは常に主に誉れを帰そうではないか。おゝ! 思うに、かの神殿の梁となった杉材の一本一本、黄金の平板の一枚一枚、また、石の一個一個は、エホバの賛美となるこの構造物の一部となるべく上げられたとき、光栄に感じたであろう。そして、もしあの杉材が、あの大理石が、エホバの臨在のしるしとして天から火が下ったあの日[II歴7:1]に音声を発することができたとしたら、かの石は、杉材は、黄金は、銀は、青銅は、みな歌をほとばしり出させて、こう云ったであろう。「神よ。私たちはあなたをほめたたえます。あなたは黄金を黄金以上のものと、杉材を杉材以上のものとされたからです。あなたは私たちをあなたの住まう神殿として聖別してくださいました」。そして今、あなたも同じことを行ないたくはないだろうか? おゝ、私の兄弟姉妹! 神はあなたに高い誉れを与えて、キリストの神殿の一部にしてくださった。あなたは、自分がいかなる者であったかを思い、いかなる者となるはずだったかを思うとき、また、いかに自分が復讐の暗い地下牢の中に永遠にとどまる石となるはずだったか、暗い暗黒の石として、大食らいの、ぬらぬらしたものが永遠にうようよ巣くう場所にいるはずだったか、また、いかに恥辱を受け、見捨てられ、闇の暗黒の中に投げ捨てられていたはずだったかを思うとき、――こうしたことを思うとき、また、あなたがエホバの神殿の石――生ける石――となっていることを思い出すとき、おゝ、あなたがたは主を賛美すると云わざるをえなないであろう。というのも、神がうちに住んでおられる限り、人は人以上のものとなっているからである。エルサレムの娘たち、喜ぶがいい! あなたの人間性は高くあげられ、神はあなたを聖霊の宮としておられるからである。――神はあなたのうちに住んでおられ、あなたは神のうちに住んでいる。この場所から出て行き、神にほめ歌を歌うがいい。行って、神に誉れを帰すがいい。そして、おしの世界があなたに向かって、自分の口になってほしいと欲している間、行って山に代わり、丘に代わり、湖に代わり、川に代わり、樫に代わり、昆虫に代わって語るがいい。万物に代わって語るがいい。というのも、あなたは、全世界の礼拝の座である神殿のようになるべきだからである。あなたは、祭司のようになり、全被造世界のいえにえをささげる者となるべきである。

 最後の最後に、あなたがたの中の別の人々に語りかけさせてほしい。悲しいかな! 話をお聞きの方々。この場には、イスラエルに何の割り当て分もなく、ヤコブに何の相属地も有していない多くの人々がいる。この霊的神殿の石となっておらず、神のエルサレムの建設で全く用いられることのない人々が、どのくらいいるだろうか。1つのことだけ尋ねさせてほしい。キリストの《教会》の乗船者名簿から省かれることは、きょうは些細なことと思えるかもしれない。――だが、キリストがご自分の民をお召しになるとき、それは些細なことと思われるだろうか? 最後になって、あなたがたがみな主の大きな白い御座[黙20:11]の回りに集められ、数々の書物が開かれるとき、おゝ! 名前また名前が読み上げられるとき、その緊迫感はいかに恐ろしいものであろう! 最後の名前がやって来たとき、あなたの緊迫感はいかに恐るべきものであろう。あなたの名前は含まれていなかったのである! 私たちの賛美歌の次の節は、しばしば私に非常に厳粛な感銘を与えてきた。

   「われ今 愛せり、御民(たみ)と集うを、
    汝が恵みある 足元(みもと)に伏すを、
    御民に比せば 卑しき者(み)なるも。
    されど、耐えんや、かの刺す思いに――
    いかにせむ、もし 汝が召さるとき
    わが名の全く 省かれるれば?」

罪人よ、これを思い描くがいい! その名簿が読み上げられ、あなたの名前は言及されないのである。さあ、いまキリスト教信仰を笑い物にするがいい! 今、キリストをあざけるがいい。今、御使いたちは審きのために人々を集めている。今、かの喇叭の音はこの上もなく大きく、長い。今、諸天は炎で赤く染まっている。地獄の大いなる炉はその境を越えて飛び上がり、あなたをその火焔で包み込もうとしている。今、キリスト教信仰を蔑むがいい! あゝ! 否。私にはあなたが見える。今、あなたのかたくなな膝はかがめられている。今、あなたの大胆な額は初めて熱い汗で覆われ震えている。今、かつてはあざけりで満ちていたあなたの目は涙で満ちている。あなたは、かつては蔑んでいたお方をすがるように見る。そして、自分の罪のために泣いている。おゝ、罪人よ。そのときにはもう手遅れであろう。エルサレムに着いてからは、いかなる石が切られることもない。あなたが落ちたところに、あなたはとどまる。審きによってあなたが行き着かされたところに、永遠はあなたを放置する。審きが来るとき、もはや時間はない。そして、もはや時間がないとき、変化は不可能である! 永遠の中には、何の変化も、何の解放も、何の無罪放免令状への署名もない。ひとたび失われれば、永遠に失われてしまう。ひとたび罪に定められれば、未来永劫に罪に定められる。あなたは、こうしたことを選んで、キリストを蔑もうというのだろうか? それとも、キリストを得て、天国を得ようとするだろうか? 私は、私の仕えているお方、また、生きている人と死んだ人とをさばかれる[IIテモ4:1]お方、また、すべての心を探られるお方によって、おごそかに命ずる。あなたが仕えようと思うものを、きょう選ぶがよい[ヨシ24:15]。もし罪が最善であるなら、罪に仕えて、その報酬を刈り取るがいい。もしあなたが地獄にあなたの寝床を設けることができるとしたら、もしあなたが永遠に燃やされることを我慢できるというなら、自分に正直になって、自分の勤めを行なっている間、その報酬に目を留めているがいい。しかし、もしあなたが天国を得たいと思うなら、もしキリストによって栄化される多くの者の中に入りたいなら、主イエス・キリストを信ずるがいい。今、きょう、信ずるがいい。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」[ヘブ3:15]。「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている」[詩2:12]。方々。兄弟たち。信じて生きるがいい。イエスの足元に身を投げ出し、主にあなたの信頼を置くがいい。

   「汝(な)が行為(わざ)と道 嘆きて棄てて
    逃れ来よ、この 堅固(かた)き助けへ」。

あなたの持てるものすべてを投げ捨てて、この方のもとへ来るがいい。この方によって、いま救われるがいい。永遠に救われるがいい。おゝ、主よ。私の弱く、しかし真剣な訴えを祝福し給え。キリストのゆえに。アーメン。

  
 

ご自分の教会の建設者として栄光を帰されるキリスト[了]
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