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異教徒の叫び

NO. 189

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1858年4月25日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。』と懇願するのであった」。――使16:9


  これは疑いもなく、使徒を導くために神から特別に送られた幻であった。というのも次の節を見ると、彼らはこの幻によって、神が彼らを招いてマケドニヤで福音を宣べさせるものと確信したと書かれているからである。だがしかし、この幻は自然的な原因によっても容易に説明がつくであろう。人は通常、最も自分の心にかかっていることを夢に見るものである。守銭奴が、その不安な眠りの中に、手持ちの黄金を数えているわが身の姿を映じさせるとしても、誰が驚くであろう? 母親の見る夢が、しばしば自分の可愛い幼子であることに不思議があるだろうか? 妻が、嵐の夜に床に就く前に最後に考えていたのが海路にある夫に関することだったとしたら、彼女がしばしば難船のことを夢に見るとしても、誰がそれに驚くだろうか? 塹壕の中にいる兵士が戦闘について夢を見るとしても、あなたは不思議がるまい。こういうわけで、自分の《主人》の御国の進展のことで魂を一杯にしていた使徒パウロが、神によって開かれようとしていた新しい働きの場に関する幻を夜に見たことに驚くことはできないであろう。あなたも思い出すであろうように、使徒はこの時、特別の状況にあった。彼は最初フルギヤやガラテヤで福音を宣べ伝えようと努力した。そして、「ムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、御霊がそれをお許しにならなかった」[使16:7 <英欽定訳>]。使徒は古のアブラハムのようであった。彼は、どこに行くのかを知らないで出て行った[ヘブ11:8]。彼は、ある特定の通り道を辿ることになっており、そこから右や左にそれようとするときには、御霊が直接彼を妨げられた。そして、ついに彼は、強いられるままにトロアスの海港へとやって来た。そこで彼は、自分の旅に倦み疲れ、寝椅子に身を投げ出し、その夜の最中に1つの幻を見たのである。言葉の訛りや服装からマケドニヤ人だと分かるひとりの人が彼に云った。「こちらへ来て、私たちを助けてください」。時に神は、眠っている人々に向かって、起きているときには悟ることのできなかった秘密をお告げになることがある。聞くところある説教者は、土曜の晩に疲れ切っていたため何も講話について考えられなかったが、夜中にその講話の最初から最後までを夢に見て、翌朝、講壇に立ってそれを説教したという。ならば、使徒パウロが、神がどの旅路を採るようお望みであるかについて、長い時間、頭を働かせて疲れ切った一日の後で、神の御霊の特別の導きによって、高き所からの幻を受け、結局は眠っている間にどこへ行くべきかを教えられたことのどこに不思議があるだろうか。

 さて今、愛する方々。私たちはこのように本日の講話を始めたが、この聖句の本格的な論議に移る前に、もう1つ述べておくべきことがある。本日の聖句には、神の主権の何という実例が示されていることか! 賢い者であれば、救いのみわざの至るところに主権を見てとることができるが、ここでは、いかにそれが明確に浮かび上がっていることであろう。ビテニヤは福音を聞いてはならない。使徒はそちらに行き、そこで福音を宣べ伝えたいと思う。だが神は、今のところはビテニヤが福音化されることを望んではおられないように思われる。使徒はアジヤにとどまって、その津々浦々まで福音を宣べ伝えたいと願う。だが彼は絶対にそれを禁じられる。そして、欧州に渡って、そこで福音を宣言するようにとの命令が下されるのである。これが主権ではないだろうか? なぜ神はビテニヤで扉を閉ざし、ピリピで扉を開かれたのか! ピリピの方が価値があったり、ビテニヤの方が福音の必要が少なかったからだろうか? 決してそうではない。いついかなる時であれ、神が福音をお送りになる場合、それは神のあわれみから出たことであった。そして神が使徒たちの中で最も卓越した者をピリピに遣わしたとき、誰に神を責められようか? 神は、ご自分のものをご自分の思うようにする権利をお持ちである[マタ20:15]。しかし、これだけは全く確実であると思って良い。すなわち、神の主権は横暴な意志がでたらめに振るわれたのではない。その主権は、最高の知恵によって導かれていた。神はすべてのものをみこころに従って支配しておられる一方で、明確にこう告げておられるからである。すなわち神は、すべてをみこころによりご計画のままに[エペ1:11]行なっており、神のみこころは決して盲目的で硬直したものではなく、何の理由もない望みではなく、何が最も賢いことか、また、何がご自分のご栄光とご自分の被造物の益を押し進めるかに関する、ご自身の感覚に常に従っているのである。しかしながら、私たちはなおもこう述べなくてはならない。神の主権は、恵みに豊かな光彩を投げかけるものである。それは、恵みが主権的で無代価のものであることを思い出すときにそうなる。おゝ、あなたがた、英国民族よ! 主をほめたたえるがいい。主は福音をあなたがたに送っておられる。そこには知恵がある一方で、主権もあることを思い出すがいい。「主は、どんな国々にも、このようには、なさらなかった。ハレルヤ」*[詩147:20]。みこころであれば、また、そうしようとお決めになったていたとしたら、福音はこの日、アフリカの中心部で生き生きと盛んになっており、あなたは今の瞬間、福音のことばを持たず、先祖たちのように野蛮人として暮らし、あなたの手を血で染めていたであろう。この大いなる恐るべき《主権者》、天でと同じように地上でもみこころのままに支配されるお方に栄光がとこしえにあるように。

 さて今から本日の聖句に目を向けよう。「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。』と懇願するのであった」。第一に私たちが注目したいのは、いかなる人々に対しても与えうる最上の助けは福音を宣べ伝えることだということである。「こちらに来て、私たちを助けてください」。すなわち、私たちに宣教してください。第二に注意したいのは、たとい夜に何の幻や夢を見ることがなくとも、地上の国々は生ける神の教会に向かって呼ばわり、私たちに向かって、「こちらに来て、私たちを助けてください」、と云っているということである。それから第三に、しめくくりとして厳粛にこう問いかけたいと思う。主を愛するあなたは、宣べ伝えられた福音という助けを、今あなたに求めている人々に対して、何と云うだろうか?

 I. では第一に、《いかなる人々に対しても与えうる最大の助けは福音を宣べ伝えることである》。そして、こう云うとき私は、弁明の必要もない真理を口にしているのである。福音は助けである。ある特定のしかたのみならず、あらゆる意味で助けである。福音を有していない人々は、助けを最大に必要とする立場にある。だが福音を伝えるとき、あなたはあらゆることをその中に含んで伝えるのである。福音の重畳たる起伏の中には、神の豊かな知恵[エペ3:10]が眠っており、人の子らに対する神の豊かないつくしみもある。見よ。地の諸国民はこの日、今なお暴君たちの奴隷となっている。――多くの国々は今なお専制的な王朝の支配下にある。それらは人々を足で蹂躙し、陶製の水差しででもあるかのように国王の鉄の意志で粉々に砕いている。いかにすれば、こうした国々に自由を打ち立てられるだろうか? 銃剣の切っ先が、今なお奴隷であるこうした諸国民に自由をもたらすだろうか? 決して決してそうはならない。鉄は私たちの枷を造り、それを鋲締めするが、決してそれらをゆるめはしない。人類の自由を切り出すためには、鋼鉄よりも強力なものが必要である。愛が、《福音》の愛が、自由の土台でなくてはならず、自由平等博愛――世界の家宝たる3つの偉大な言葉――を完全に知らせ、悟らせたければ、イエスのみことばを宣べ伝えることでそうしなくてはならない。福音の宣教は、専制君主にとって恐怖である。もし、何がこの国を自由にしているのかと問うとしたら、あらゆる率直な人は云わざるをえないであろう。それは開かれた福音と、みことばの自由な説教である、と。グラスゴーの標語は、「みことばの宣教によりグラスゴーを栄えさせん」、である。福音は、自由そのものの紋章付き外衣である。自由は神のみことばの宣教によって繁栄する。プロテスタント主義を見いだされる所ではいずこでも、自由が見いだされることは確実であり、プロテスタント主義が背後にされる所ではいずこでも、くびきが感じられ、抑圧された人々の呻きが聞こえ始めるに違いない。むろん、プロテスタント主義があらゆる所で完璧な自由を生み出しているわけでないことは事実である。なぜなら、それは自らに対して忠実でないからである。場所によっては、今なお奴隷が鞭を感じていながら、その主人はキリスト者であると自称している。だが、これは私たちのキリスト教信仰の正当な効果ではなく、むしろ、地獄そのものが最初に発明し、人々の深い堕落がなければ決して神の太陽の前に立つことが許されなかったような迷妄の影響なのである。しかり。あなたがた、自分の王座に着いている暴君たち。人手によらずに山から切り出される1つの小さな石が、やがてあなたがたを打ち砕くであろう[ダニ2:45]! おゝ、暴政という大きな像よ。頭は黄金、足は粘土をしたものよ。お前はやがてぐらつくことになる。というのも、これがお前を粉々に打ち砕くからである。その打ち砕くお方は私たちの前に現われており、私たちのかしらなる王であられる。誰がこのお方の大能に逆らうことができようか? キリストが人々を自由になさる強力な原理に何が持ちこたえるだろうか?

 さらに、兄弟たち。地の諸国民がいかに陰鬱な迷信の下に横たわっているかを見てとり、眺めてみるがいい。ことによると、この世には国王によるよこしまな統治よりも悪いものがあるかもしれない。それは、聖職者によるよこしまな惑わしである。願わくは神が私たちを2つの事から救い出してくださるように。――暴虐な国王たちから、また、ありとあらゆる種類の祭司たちからである。いかなる種類の祭司も悪いものだが、迷信に携わる祭司たちは最悪である。おゝ、地のいかに多くの国民が、呪わしい祭司たちの支配によって、その知性を損なわされ、その望みをしなびさせられ、その進歩を取り除かれ、その全歴史の栄光を低められ、その状態を貧しいものとさせられていることか。人々は、そうした祭司たちの選ぶものだけを信ずるように強制されている。彼が法衣を着ているからといって、また、悪辣さの念入りな手ほどきを受けて奥義に達しているからといって、彼は人々の良心を支配する主人たるべきなのである。彼の前に、良心と心は額ずくべきなのである。彼がどこへ行こうと、彼の言葉は法となるべきであり、彼の意志は天国の門を開いたり閉じたりするのである。というのも、彼は天国とハデスの鍵束をその帯にぶらさげていると触れ込んでいるからである。いかにすれば私たちは、人心を奪うこうした迷信から人々を解放できるだろうか? ただ、福音の宣教によってのみである。あなたは政府によってすら人々を自由にすることはできない。共和政体を与えることによってさえ、人々に完全な自由を与えることはできない。というのも、その共和政体は、聖職者のよこしまな惑わしが温存されている限り堕落せざるをえないからである。自由と聖職者の惑わしとは、神と悪魔ほどにも一致していられず、片方が倒れるまでもう片方は立つことができないからである。

 しかし、福音の宣教は、信仰者がみな祭司であり王であると教える。私たちの中のすべての者を君主や王侯といった高位に着ける。私たちの中のすべての者を教皇や祭司たちと同じ水準に置く。――これこそ、やがて人々を自由にする福音であり、これを説教すること、それだけが、世界を肉体の隷属と、それより格段に呪わしい魂の奴隷状態から解放する最大かつ最高の希望なのである。

 しかし、愛する方々。地上にある一部の国民は、いまだに救いの甘美さを一度も味わったことがない。近年発見された広大な領域では、いまだに人々が卑しめられ、品位を落とさせられている。ホッテントット族の小屋はまだ邸宅へと開花してはいないし、ニュージーランド人の槍はまだ鎌に変えられていない。世の多くの場所では、生きる喜びと、社会的な慰めと、私たちの存在の楽しみのすべてがまだ全く知られざるものである。さて、福音はその諸手にあふれるほどの祝福をかかえている。それは、どこに赴こうと、天的で、豊かな、黄金の祝福の数々を有している。――またそれは、地上的な、麗しい、銀の祝福も有している。それらは両方とも尊いものであり、私たちは、福音が何にもまして人を来世に備えて祝福するために定められていると信ずるものだが、その一方で、なおも、世俗主義者その人でさえ、賢明であるとしたら福音の進展に何がしかの興味をいだくに違いない。というのも、福音は今の世にある人々にとってさえ1つの祝福だからである。偉大な文明開化者とは十字架である。他の何物も野蛮人を文明人にすることはできない。十字架と、そこにかけられたキリストの幻だけがそうできる。幸いなことよ、平和を伝える人々の足は。というのも、神との平和という良い知らせを彼らがもたらすとき、彼らは人々への善なるみこころという良い知らせをももたらすからである。――すなわち、永遠に存在する者としての人々に対する善意のみならず、地上に生きる者としての人々に対する善意をも伝えるからである。私の愛する兄弟姉妹。もしあなたが世界を、可能な限り最大の意味で祝福したければ、また、物質的にも、霊的にも、永遠にも祝福したければ、また、もしあなたが人々のからだをも魂をも祝福したければ、また、もし人々をその子どもたちにおいても、その家々においても祝福したければ、また、もし彼らをその食物や飲物においても、人生の必要物のすべてにおいても祝福したければ、これらすべてを行なう1つの単純な手段は、ただ私たちの主イエス・キリストの福音を宣言することである。そして、完全に宣教され、完全に受け入れられたその福音は、今の私が立ち止まってあなたの記憶に思い出させる必要もないほどの事例――おびただしい数の、また、最近の事例――において、結局のところ、救いのみならず文明をも得させる神の力であることが実証されてきたのである。

 ここで私は、福音が人にとって最上の助けとなるもう1つの点についても言及しておかなくてはならない。私たちがきょう思い起こさなくてはならないのは、地上にあるいくつかの地域では、いまだに地面が血で赤く染まっているということである。私たちの地球には、いまだにアケルダマ[使1:19]――血糊の地所――という名をつけざるをえない悲しい部分がある。いくつかの場所では馬蹄に血のはねがあがり、人々の屍が鴉や野犬の餌となっている。バラクラヴァ*1の丘々は、いまだにほとんど緑をなしていない。また、私たち自身の殺された姉妹たちや兄弟たちのむくろが眠る土地は、まだ記念碑で覆われていない。戦争は、あらゆる地域で破壊の猛威を振るってきた。この近代においてさえ、戦争の犬たちはいまだに口輪をかけられていない。おゝ! 戦争に終止符を打つため私たちは何をすれば良いだろうか? 軍神マルスよ。お前をプロメーテウスのように岩に縛りつけるべき鎖はどこにあるのか? 残虐なモレクよ。いかにすれば私たちはお前を永遠に幽閉できるだろうか? いかにすれば私たちは永遠にお前を束縛できるだろうか? 見よ。ここに大いなる鎖がある。いつの日か、かの大蛇を縛ることになる鎖である。それは血で赤く染まった愛の環をつないだものである。十字架につけられたイエス・キリストの福音が、これから戦争の進軍喇叭を黙らせ、戦いの弓をへし折ることになる。

 私たちは幸いである。全く果報者である。私たちの有する福音によって人々はこうなるのである。

   「無用(あだ)なる兜 たなに晒して
    戦いのこと もはや学ばず」。

ならば、それを地の最果てまで広めようではないか。というのも、いま引用したばかりの聖句を繰り返せば、福音はその赴く所いずこにおいても、諸手に祝福をかかえているからである。永遠においてのみならず、地上的にも、人類をそれは祝福するからである。そして、それが極限まで広まるとき、また、居住可能な全地が福音で覆われるとき、そのとき、私たちの惑星を包み込んでいる霧は消え失せ、生まれたばかりの暁の星のようにこの地球は、その姉妹の星々と並んで、その栄光を完全に現わして明るく輝くであろう。また、御使いたちは再び歌うであろう。そして神ご自身がその判決を繰り返されるであろう。――「すべては非常に良い」、と[創1:31参照]。

 しかし、それでも、愛する方々。福音がもたらす最大の助けは、魂に対する助けである。あゝ、キリスト者である人たち。あなたがたは、それがいかなる意味か知っている。あなたの兄弟たち、姉妹たちは、この日、目隠しされたままさまよっており、行く所を知ってはいない。だが、あなたがたは知っている。聖書が告げるところ、彼らはその大儀な道を下って暗黒の絶望という深淵に向かいつつあるからである! おゝ、あなたの心はその盲目の目が開かれることを願わないだろうか? 誤り導かれている者たちが天国への通り道へと向かわされることを願わないだろうか? あなたの憐憫は、この炎の中から燃えさしをひったくりたいと願わないだろうか? あなたは、いかにすれば不徳義漢を廉潔な人に、また、廉潔な人をイエス・キリストにある義人にすることができるか知ろうと切望してはいないだろうか? あなたは神に選ばれた人々が集められるのを見たいとも、彼らが洗われ、聖められ、完全にされるのを見たいとも全く思っていないだろうか? 覚えておくがいい。そのことはなされるはずであり、そのことがなされるはずであるからには、あなたがたは確実に福音を遠く、また、広く送り出さなくてはならない。というのも、それ以外のいかなる手段によっても、神の選民は故郷へと集められることができないからである。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるだろうか? 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるだろうか?[ロマ10:14-15] 福音はあらゆる国土に行き渡らなくてはならない。そして、選民が故郷に集められ、メシヤの王国が到来するようにしなくてはならない。おゝ! あなたがた、人々の魂を愛している人たち。あなたにとって、地獄の洞窟が人々で満ちつつあるというのは、空恐ろしい考えではないだろうか。あの広い道[マタ7:13]が、それを歩む数多くの人々によってひしめいているのを見るのは、あなたにとって陰鬱なことではないだろうか。あなたが切望し、願っているのは、あの狭い道[マタ7:14]に、ずっと多くの巡礼がいるようになることである。ならば、私は切に願う。手に入る限りの、ありとあらゆる手段を尽くして、イエスの福音の宣教を助けてほしい。というのも、それこそ地上が呼び求めている助けであり、あなたが地上に与えなくてはならない助けだからである。さあ、こちらへ来て、私たちを助けてほしい。キリストの聖なる福音を宣べ伝えることによってそうしてほしい。このように、私は最初の項目を語り終えた。願わくは主が第二の項目でも私たちを助けてくださるように。

 II. 第二の点は、その夜の幻の中にはなかったが、《地上の諸国民は日々、また刻々に、「こちらへ来て、私たちを助けてください」、と云っている》、ということである。あなたは、最大の雄弁とは沈黙であることを知らないだろうか? 正しい考えをした人の心を動かすには、雄弁家の熱弁など必要ない。沈黙せる、無言のみじめさの姿こそ、優しい心をした人にとって最高の雄弁である。確かに私も告白せざるをえないが、地の諸国民は声に出してあなたの助けを求めてはいない。否、それより悪いことに、もしあなたが彼らに福音の助けを送っても、彼らの多くはそれを拒絶するであろう。あなたの宣教師たちは殺されてきた。――偽りの神々の祭壇は彼らの血で染められてきた。だが、それでも私は厳粛に繰り返したい。血の諸国民は沈黙のうちにも叫んでいるのである。「こちらへ来て、私たちを助けてください」、と。もし私がこう云うとしたらどうだろうか? 町通りにいるある人が病気になり、失神して、死にかけている場合、たといその人が私に向かって一言も語らなくとも、また、たといその人が私に向かって助けてくれと懇願しなくとも、その人の沈黙の弱さは、言葉の一切の力を越えて強大である、と。左様。そして、もし私が目にしているその人が狂人のように思われ、私の助けをはねつけ、私を押しやるとしたら、また、もし私がその人は本物の狂人だと確信し、まさにそれゆえにこそ私の助けを必要としているのだと確信しているとしたら、私は自分の慈悲を無理にでもその人に押しつけるであろう。喜んでその人に私の助けと援助を与えるであろう。あなたも同じようにするであろう。地の諸国民は、罪の中で死んでいる。いかにして彼らがあなたに叫ぶことができようか? しかし、あなたは彼らの悲惨を見てとるべきである。そして、この、哀切きわまりない、血を流す地上の傷の語る言葉を耳にすべきである。確かに地は狂っている。そして、唯一の救済を遠のけている。しかし、私たちにとってそれが何だろうか? 私たちは、いやがる人々にも私たちの親切を押しつけるべきである。なぜなら、彼らがいやがっているのは、彼らの病の狂気から生じていると信じているからである。強盗たちに殴られて倒れた人を抱きかかえようではないか。橄欖油と葡萄酒を注ごうではないか。たといその人が失神しているために感謝してそれを受け取らなくとも、また、たといその人が傷口に自分の手を当てて塗り薬をひきむしり、膏薬をはずすとしても、それにもかかわらず、私たちはもう一度その人に包帯をしてやり、その人を私たちの家畜に乗せて、宿屋に連れて行こうではないか。たといその人がまだ私たちに感謝の言葉を云えなくとも、宿代を払ってやろうではないか。そうすれば、やがて来たるべき日には、その傷は癒され、燃えるような熱は下がり、頭脳は冷静になり、理性は回復するであろう。そして、その人は私たちの足元にひれ伏し、かつてははねつけた手に口づけするであろう。いまだ生まれざる世代が、自分たちの父祖たちの拒絶した福音を送った人々をほめたたえることになるであろう。

 さて今、兄弟姉妹。この物云えぬ人々のために訴えさせてほしい。きょうのこの場には、「こちらへ来て、私たちを助けてください」、と云うマケドニヤ人はひとりもいない。だが、私を異教徒たちの代弁者として、熱誠を込めてあなたに訴えさせてほしい。あちらへ行き、彼らを助けてほしい、と。ここで、私はひとりの異教徒として今朝この場に立っているものとしよう。そして私は、あたかも自分が福音を聞いたことがないかのようにあなたに語りかけよう。「あなたがた、英国のキリスト者たち! あなたがた、きわめて恵まれている人たち。イエスの御名を知っており、御霊の力を経験している人たち。福音を私たちに宣べ伝えてください。私たちもあなたがたと同じような人間なのですから。私たちの肌の色が、あなたがたほど白くないからといって何でしょうか? それでも神は私たちの心を同じように形作られたのです。おゝ、云わないでください。私たちがいなごで身を養い、蛇を食べているからといって、あなたがたの親類縁者ではない、と! 『人にはいる物は人を汚しません』*[マタ15:11]。確かに、私たちの国王や君主たちは、あなたがたの間の乞食にしか互するにふさわしくないでしょう。ですが、おゝ! 神はひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせたのです[使17:26]。そして、私たちは、きょう、自分の掘っ立て小屋や丸木小屋から出て来て、あなたに向かってこう云うのです。『私たちは人間です。――あなたの兄弟です。――実際、弟たちです。――兄さんたち。私たちにも二倍の財産の分け前があるわけではありません。私たちの父祖たちは、放蕩三昧の暮らしによって身代を使い尽くしてしまったのですから。ですが、なぜ父が酸いぶどうを食べたからといって、子どもの歯が浮く[エレ31:29]べきなのでしょうか? なぜ人の子は永遠にカナンの呪い[創9:25]を帯びていなくてはならないのでしょうか? おゝ、私たちに福音を宣べ伝えてください! 私たちは人間です。母なるエバは、あなたがたの母であると同じく私たちの母でもあります。アダムも、その腰から私たちが生じた父です。そして、私たちが人間であるがゆえに、同じ人としての情によってあなたがたは私たちの言葉に耳を傾けざるをえないはずです。私たちは、『こちらへ来て、私たちを助けてください』、と云っているのです。それに、私たちには別の論拠もあります。私たちには告げられています。『この救いのことばは、あなたがたに送られているのです』[使13:26 <英欽定訳>]、と。あなたがたに対してではありません。兄さんたち。私たち、福音を聞いたことがなく、それを知っていない者に対して送られているのです。そして、あなたはその宝をあなたの国土の中に有しており、私たちの信ずるところ、あなたにそれが与えられているのは、その一握りを気前よく私たちに与えてくれるためなのです。私たちは知っています。古のユダヤには契約と、神のことばと、福音とがあり、来たるべき世代のために保管されていました。そして、私たちの信ずるところ、あなたがた、英国の人たちが福音を有しているのは、あなたがた自身のためではなく、私たちのためなのです。私たちは、あなたがたの《主人》が何と云われたか聞きました。『あなたがたは、世界の光です』[マタ5:14]。英国の光ではなく、あなたがた自身のための光ではなく、世界の光である、と。おゝ! あなたがたの燃える松明を私たちの暗い林間の湿原に差し入れてください。こちらへ来て、あなたの光を私たちの偶像礼拝に満ちた神殿の暗い霧に射し込ませてください。私たちの迷信のこうもりを、また、私たちの無知のふくろうを、あなたがたの福音の日光の前で飛び去らせてください。あなたが福音を受けたのはあなたがたのためではなく、私たちのためです。おゝ! それを私たちに与えてください。福音を私たちに宣べ伝えてください。というのも、それは私たちのために作られているのですから。しかし、私たちには別の論拠があります。兄弟たち。私たちの悲惨さを見てください!」

 私のあわれな兄弟たちの代弁者としてきょうの私は、あなたの前に立っている。そして私はあなたに、このあわれなヒンドゥー教徒が自らに課している数々の苦悶のことを思い出させる。――偶像礼拝に基づいた統治の恐怖である。私はあなたに、ベチュアナ人や叢林地土人の苦悩と、欠乏と、貧困と、裸と、悲惨を告げよう。そして、それらのゆえにこう語り、こう云おう。「キリスト者よ。あなたには、彼らの災厄を軽減する手段がある。彼らに福音を送ることによってそうできる。あなたはそれをしようとしないだろうか?」 密林と獅子の国土に住む人々を見るがいい。そこに彼らはいる。かの蛇は、彼らをぐるぐる巻きにし、彼ら自身の原始林の中にいる、獲物を締め殺す大蛇のように、その国民を押しつぶしては、強い男の肋骨も折り砕き、女たちの心を蝋のように溶かしている。だが、あなたの手には、この蛇の頭を切り裂くことのできる剣があるのである。あなたの《主人》はその頭をご自分の踵で挫かれた。あなたも同じことを行なわなくてはならない。おゝ! 来てください、来てください。あなたがた、十字架の宣教師たち。あなたがた、イエスに仕える教役者たち。来て、私たちをこの猛毒の大海蛇から解放してください! 私たちを私たちの恐ろしい破滅から救ってください! 私たちの悲惨はあなたの援助を呼び起こすはずです。確かに、私たちはあなたがたに優しい言葉遣いで語ることはできません。ですが、かつては私たちの中にも何人かの詩人たちが歩んでいたことがあり、パラダイスで輝いていた光の幾ばくかがまだ私たちの暗黒を黄金色に光らせていたこともあったのです。そして、私たちはそうした微光の何がしかを大切にしてきたのです。そして、義の太陽がこれから私たちの上に上るだろうことを希望しているのです。おゝ! 来てください。この霧を吹き払ってください。来て、私たちの夜を追い散らし、私たちにあの聖なる、気高い、永遠の昼を見せてください。《義の太陽》[マラ4:2]に続く福音の娘であるあの昼を。

 そして今、キリスト者である人たち。あなたがたの中のひとりとしての私に語らせてほしい。兄弟たち。あなたや私は兵士である。十字架の兵士である。そして、今のこの時、世界は激突へ向けて突進しつつある。戦闘は激しさを増しつつあり、私たちは戦士なのである! 戦闘に尻込みする臆病者は恥を知るがいい。喇叭はきょう鳴り響いている。マホメットはそのまどろみから目覚めている。回教徒は血まみれの手で、私たちの民族を根絶しようとしてきた。ヒンドゥー教徒もまた、あの柔和な目をしたヒンドゥー教徒も、彼の地の虎のように目を光らせ、その口を血生臭くさせている。この戦闘は荒れ狂っている。そこだけではない。教皇制も目を覚ましては、強大な力をもって、この海原の宝石、大洋に浮かぶ一の島を取り戻そうとしている。不信心もまたうごめきつつある。その手下どもはそこここを飛び回っている。何もかもが覚醒しているが、神の教会だけは例外である。おゝ! あなたがた、兄弟たち。目を覚ますがいい。戦いが最高潮に達した今こそ目を覚ますがいい。今は、私たちが死に物狂いで勇猛を振るい、熱心のきわみを尽くすべき時である。思い起こすがいい。あなたが膝まずいて、「われらの父よ」、と云うたびに、もしあなたがその御国が来たること、その御心の天になるごとく地でもなされることを求めていないとしたら、結局あなたは嘘の祈りをささげているのである。あなたは、自分で手に入れようともしないものを祈り求めている。あなたは、「御国を来たらせたまえ」、と云うことによって神を侮辱している。それは、私がどこかのあわれな死にかけている乞食に向かって、「暖かになり、十分に食べなさい」[ヤコ2:16]、と云ってから、彼に必要なものを与えず、その苦悩を取り除こうともしない場合と同じくらいひどい嘲りである。

 また、思い起こすがいい。いやしくもあなたがキリスト者であるとしたら――その言葉の正しい意味でそうだとしたら――、あなたがたひとりひとりは、改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回ろうとしないでいるはずがない。あなたの内側には、伝播の精神があるに違いない。他の人々をキリストのものにしたいという願いがあるに違いない。さもなければ、キリスト教の純粋な血液はあなたの血管のうちにないのである。この世の中にある何にもましてキリスト教は――もしそれが真実なものだとしたら――、多産きわまりないものである。古の回教は猛烈な勢いで広まったが、キリスト教が有していた勢いには及ばなかった。イエスの宗教はからし種のように始まった。あの屋上の間にいた数人の者たちから始まった。だが半世紀も経たないうちに、天の下のあらゆる国で福音は宣べ伝えられていた。そして、もし私たちの心に正しい種類のキリスト教があったとするなら、――この退廃的な時代のなまぬるいまがい物のようではなく、熱く燃えるものがあったとしたら、――私たちのキリスト教信仰はもう半世紀も経たないうちに勝利を得るであろう。もし神の御霊が私たちに真の勤勉さを与えてくださるとしたら、もう半世紀のうちに、教役者の足によって踏みしめられていない地域は1つとしてなくなり、福音化されていない町や都市は1つもなくなるであろう。私は自分が根拠もなしに語っているのではないことを知っている。いま私は絶対的に確信している。私が云っていることは、ありのままの事実なのである。もしあなたが、あの四百人と半世紀の間になされた進展との間にある比率を計算し、それから単に三、四百万人の――私の希望ではその程度はいるものと思うが――世界中の真のキリスト者の数にそれを掛け合わせてみるなら、私は云うが、こう信ずることは小さな事である。すなわち、彼らは、もしも自分たちの信仰告白に対して忠実であるとしたら、《天来の》祝福の下にあって、半世紀も経たないうちに、世界に知られたあらゆる居住可能な地域へと福音を伝えることであろう。しかしながら、私たちがそうすることを心配する必要はない。私たちが何らかの狂信に走る恐れは全くない。それは、この時代が決して犯す見込みのない罪である。私たちは現状のまま進み続け、これまでも常にそうであった通りに正統的で、冷たいままであろう。いかなる熱狂主義も私たちを襲うことはないであろう。私たちは、この現代に、巨大な狂信が非常に大きく、予想外に発展するのを見ることはないであろう。驚いたり不安になってはならない。兄弟姉妹。私の説教している、狂信のように思われることはみな、この時代に害を及ぼしはしないであろう。あなたがたは自分の望むことを行なうであろう。人がいかに賢明に説教したとしても、この耳しいの毒蛇[詩58:4]に耳を傾けさせることはないであろう。今日の教会は、何か無茶なことを行なうためには、あまりにも耳しいている。私たちは、ほんの小さな事を行ない、それを素晴らしい成果だと考える。私たちひとりひとりは、旧新両約聖書を支那に送るのに4ペンスを献金することがある。すると私たちは、続く五十年の間そのことを語り続けるであろう! 私たちは、ひとりかふたりの宣教師を印度に派遣する(そして、その必要にくらべれば、彼らはひとりかふたりではないだろうか?)。それは偉大なことである。バプテスト派が全体で年間二万ポンドも工面するというの立派なことだが、その一方で、同じ教派に属する人々の中には、ひとりでそれとほぼ同額を同じ期間内に集めることができる者らがいるのである。私たちが全員がかりで、その程度しか集められないことこそ驚嘆すべきである。しかし、知っての通り、むろん私は無分別な青二才である。――たぶん、いつまで経ってもそうあり続けるであろう。――それで、あえてこう示唆したいと思う。一部の人々は、あまりにも金持ち過ぎて、天国に行くことはできない、と。もちろん、もしも私が今朝、次のように云うとしたら、それは非常に不愉快なことであろう。すなわち、金持ちのまま死ぬことは非常に恐ろしいことである、と。また、ある人々はあまりにも富を持ちすぎているので、彼らが神の愛を受けているという確かで確実な希望は何1つ持つことができない、と。というのも、もし彼らがもっと神の愛を有しているとしたら、あれほど堅く自分の金銭を握りしめようとはしないだろうからである。彼らは云うはずであろう。「人々が罪に定められつつあるというのに、私の金銭など何であろう? 人々が死につつあるというのに、私の黄金など何であろう? さあ、なくなってしまうがいい! 私に必要なだけのものは神が私に与えてくださる。私が老後に入り用とするだけのもの、また、私の家族が私から要求して良いだけのものを、私は持っていよう。だが、それ以上のものを持っているとしたら、その上には枯れ病と呪いが降りかかるであろう。私の金銀は腐食するであろう。というのも、私は人々の魂の血の咎を負うべきであり、そのとき、断罪が私に臨むからである。私は彼らに対して宣教することのできる教役者を送れる金銭を有していたのに、それを与えなかったのだから」。

 さて、もう一度云うが、誰かが分別も忘れて気前よくなる恐れは全くない。あなたは、この場にいる誰かが今朝、一千ポンドもささげるのではないかなどと不安になる必要はない。私たちはそうしようという意向のある人々に対しては、大いに便宜をはかるであろう。もし誰かがそのように途方もない寛大さの衝動に圧倒されるとしたら、私たちはそれを記録にも記憶にもとどめるであろう。しかし、残念ながら今は、バルナバのような人々が全くいないのではないかと思う。バルナバは自分の全財産を持ってきて、それを教会会計に入れた。「愛する方よ。そんなことはしないでください。そんなに軽率なことをしないでください」。あゝ! 彼はそうはしないであろう。あなたが彼にそうした助言をする必要はない。しかし、もう一度云うが、もしキリスト教が真に私たちの心の中にあるとしたら、また、もし私たちが自分で告白している通りの者であるとしたら、いま私たちが出会い、人々の鑑とも模範とも持ち上げるような気前の良さを有する人々は、何の驚きでもなくなるであろう。というのも、そうした人々は、木々に木の葉があるのと同じくらいおびただしくなるからである。私はいかなる人に対しても無一文になれと要求しはしない。だが、自分がキリスト者であると告白しているあらゆる人に対してこう要求する。その人は、応分のものをささげるべきであって、神の御国の進展のためにささげる額が、自分の召使いと同じであることに満足していてはならない、と。私たちはこう云わなくてはならない。豊かな人は豊かにささげなくてはならない、と。やもめのレプタが尊いものであることは私たちも知っているが、やもめのレプタは私たちにとっては巨大な損失であった。おゝ、あのやもめのレプタは、イエス・キリストに何千何万ポンドもの損失を被らせてきた。それ自体としては非常に良いものである。だが、年間何千ポンドも収入のある者が、やもめのレプタをささげているのである。人は、自分には当てはまらないことを、いかによこしまに適用することであろう。しかり。私たちは、自分の分に応じて私たちの神に仕えなくてはならない。

 III. さて、私はしめくくりとして、あなたに非常に鋭い質問をあからさまに発したいと思う。《この、「こちらに来て、私たちを助けてください」、という異教徒の叫びに対する答えとして、あなたはどうしようというのか?》 この会衆全体の中に誰か、健全な教理を愛しており、説教する能力があり、他国に行って福音を宣べ伝える心を持っている人はいないだろうか? なぜなら、もしそうした人がいるとしたら、また、もしその人に年間十ポンドをささげようという人が他に十人もいるとしたら、私にはその人をすぐにも送り出せるきっかけがあることになるからである。ナタール港には二十人のバプテスト派信徒がおり、この二十人のバプテスト派信徒は、単に自分たちに説教してくれるだけでなく、周囲の蛮族に福音を宣教してくれる教役者を求めている。彼らは、もし私たちの方でお膳立てをして、宣教師をひとり彼らのもとに派遣してくれるとしたら、その人のために百ポンドを集める用意があるという。その人が第二のリヴィングストン、ことによると、第二のモファットにならないと誰に分かろう? おゝ、そのような人を、このような会衆の中から送り出すことができるとしたら、どんなに良いことか! 今朝のこの場には、行って異教国で福音を喜んで宣べ伝えようと志願する青年がひとりもいないのだろうか? 私は告白するが、自分自身について考えるとき、私は自分は外地へ行くことができないと分かっている。私の召しは内地にある。だがしかし、私は時に考えることがある。こうした国々が全く福音を有していないというのに、内地で説教しているとは、何と怠惰で、ぬくぬくとした生活を送っていることか、と。ある人々は、一週間に2つか3つの説教をすることを、驚くほどの困難辛苦であると考えているが、私は十三か十四の説教をすることも恐ろしいほどに小さなことだと思う。そして、時としてこう思うことがある。「おゝ、もし私がどこかに行き、そこに何らかの労苦と、耐え忍ぶべき艱苦があるとしたら! 内地では何もなされることはない。内地では自分の願えるほどには苦しむことも、働くことも、殉教の冠をかちとることも、大戦闘に勝利を得ることもできない」、と。しかし。青年よ。私はもう一度云う。もしあなたに大志があるなら、――もしあなたがキリストに仕える大志を有しているとしたら、あなたは、自分の大志の高さに導かれて、「私は福音を異教徒の間で宣べ伝えたい」、と云うはずであろう。私は、神によって心を触れられた人々が――少なくとも何人かは――ここにやって来てほしいと希望している。何と! 私は今朝、およそ八千人の人々に向かって話をしているというのに、その八千人全体の中で、ただのひとりも、「ここに、私がおります。私を遣わしてください」[イザ6:8]、と云える人がいないなどということがありえるだろうか? それは奇妙ではないだろうか? そうした人がいないということも、非常にありうべきことであろう。だがしかし、私はどこかにそうした人がいると喜んで希望したいと思う。自分の心の板にこう書き記すであろう人がいる、と。「私は家へ帰って祈ることにしよう。家に帰ってよく考えてみよう。そして、もし神が私に福音を宣べ伝える力を与えておられるとしたら、もし神の摂理において何か開かれた扉があるとしたら、ここに私はいる。私は外国で福音を伝える者となろう」。

 そして今、福音を宣教できないあなたがたは何を決意するだろうか? 何と! あなたがたの中のある人々は、立ち上がって福音を宣べ伝えるよりは、ただじっと座ったままでいる方がずっとましである。あなたが外国に行って福音を宣べ伝えても何にもならない。なぜなら、誰もあなたの話に耳を傾けないだろうからである。私がしばしば驚嘆させられるのは、ある人々が説教者になる能力を何も有していないのに、自分は説教者として召されていると考えることである。そうした人々に私が云うように、「もし神が誰かを飛ぶことに召しているとしたら、彼らに翼を与えられるであろう。また、もし神が彼らを説教者として召しているとしたら、彼らに説教する能力を与えられるであろう」。だが、もしある人に説教する能力がないとしたら、私はその人が召されていないと確信する。よろしい。あなたは何をしようとするだろうか? ある人は云うであろう。「私は宣教を支援するために熱心に祈ります。私は神に叫び求めます。大きな結果がもたらされるようにと」。そうするがいい。そして、あなたは、あなたの祈りに対して私たちから無上の感謝を受けるであろう。しかし、そうするときに、あなたはあまり大したことをしたわけではない。というのも、思い起こすがいい。それは、あのカトリックの司祭が乞食のためにしたことだからである。その司祭は、乞食に向かって、私はお前にソヴリン金貨も、半クラウン銀貨も、一銭も与えてやれないと云った。「神父様」、と乞食は云った。「あっしのために祈ってはいただけやすか?」 「いいとも」、と司祭は云った。「膝まずきなさい」。「いいえ、そうじゃありやせん」、と乞食は云った。「もしあなた様の祈りに一銭でも値打ちがあったとしたら、あなた様はあっしにそれを与えてはくださらなかったでしょうから」。そして、もしもあなたが、私は祈りますと云いながら、その働きのために、何かもっと実質のある助けを与えようとしないとしたら、私たちはあなたの祈りをありがたくは思うものの、こう云って良いであろう。「あなたは、一銭でも値打ちのあるものだとしたら、そうした祈りを与えはしないであろう」、と。もしあなたが他の何もキリストに与えるものがないとしたら、あなたがたは、「イエスよ。私はあなたに私の祈りをささげます」、と云うことを恥じる必要はない。だが、もしあなたが自分の財産において祝福されているとしたら、あなたは主の前で嘘をつくことになるであろう。主に向かって、どうか御国を進展させてくださいと求めながらも、あなたの資力をその支援のためにささげないとしたら、そうである。

 さて、ひとりひとりの者は、自分の力に応じて、この大いなる働きを助けるがいい。そして、何にもまして、私たちはみな自分の活動の場において福音の説教者となるようにしよう。

   「まわりの者に 告げよかし
    われらの知れる 救世主(きみ)のことをば」。

 献金がなされる前に、ほんの一言云わせてほしい。悲しいかな! この場にいるあなたがたの中のある人々は、いまアフリカにいるのと変わらないほどの異教徒である。あなたに対して、私は福音を宣言しよう。それで話を終えることにする。――「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。信じない者は罪に定められます。主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」*[マコ16:16; 使16:31]。

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(訳注)

*1 バラクラヴァ。クリミアのセヴァストポリの南東にある村、黒海に臨む海港、クリミア戦争の古戦場 (1854)。テニソンの詩 ‘Charge of the Light Brigade' で有名な英軍騎兵隊の突撃があった。[本文に戻る]

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異教徒の叫び[了]
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