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贖い主の祈り

NO. 188

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1858年4月18日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです」。――ヨハ17:24


 古の大祭司は、至聖所に入るとき、手に持った火皿の上で香を焚き、それを自分の前で揺らしながら、その甘やかな芳香で空気を香らせ、その濃い雲で贖いのふたを覆うようにした。彼についてはこのように書かれている。「主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持ってはいる。その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである」[レビ16:12-13]。私たちの主イエス・キリストもそれと同じである。主も、ご自分の血を携えて、ただ一度だけ幕の内側に入り、罪のための贖いをしようとされたときには、まず大きな叫び声と祈りとをささげられた。ヨハネの福音書17章には、いわばこの《救い主》の大神官としての香炉から立ち上る煙が記されている。主は、これからご自分が身代わりに死のうとしている者たちのために祈られた。また、彼らにご自分の血を振りかける前に、ご自分の願いで彼らを聖められた。それゆえ、この祈りは聖書の中で《主の》祈りとして際立っている。――私たちの主イエス・キリストの特別の、また独特の祈りである。そして、「もしも」、と古の一神学者が云い表わしているように、「ある聖書箇所を別の箇所よりも好むことが正当だとしたら、私たちはこう云ってよかろう。確かにすべては黄金だが、これは黄金の中にはめこまれた真珠である。確かにすべては天空のようだが、これは太陽や星々のようである、と」。あるいは、もしも聖書の中に、他の部分にまさって信仰者にとって尊い部分があるとしたら、それは彼の《主人》が十字架にかけられたみからだという裂かれた幕を通って入られる前の最後の祈りを含むこの箇所に違いない。見れば何と甘やかなことであろう。この主の祈りの中心要素は主ご自身ではなく、主の民なのである! 確かに主はご自分のために祈られた。――「父よ、わたしを栄光で輝かせてください!」*[ヨハ17:5] だが、主がご自分のためにささげた祈りは1つしかなかったのに、主の民のための祈りはいくつもあった。絶え間なく主は彼らのために祈られた。――「彼らを聖め別ってください!」[17節] 「彼らを守ってください!」*[15節] 「彼らを一つにしてください!」*[11節] それから主は、ご自分の願いのしめくくりにこう云われた。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」。メランヒトンはいみじくもこう云った。天においても地においても、この祈りほど気高く、聖く、実り豊かで、情愛のこもった声は決して聞かれたことがない、と。

 私たちが第一に注意したいのは、この祈りの祈り方である。第二に、この祈りによって恩恵をこうむる人々である。そして第三に、ささげられた偉大な請願の数々である。――この最後の項目が私たちの講話の主たる部分となるであろう。

 I. 第一に、《この祈りの祈り方》に注意するがいい。――それは異様である。これは、「父よ。わたしは望みます」<英欽定訳>、である。さて、私はこの「望みます」という表現には、単なる願い以上のものがあると考えざるをえない。主イエスが、「わたしは望みます」、と云われたとき、ことによると、主が1つの要求を突きつけたと云っては適切でないかもしれないが、それでも私たちはこう云って良いと思われる。すなわち、主は権威をもって訴え、当然ご自分のものであると知っていたことを求められたのだ、と。主の発された、「わたしは望みます」、ということばは、《全能者》の口からこれまで出て来たことのある、いかなる厳命にも劣らない強大なものであった。「父よ。わたしは望みます」。イエス・キリストが神に向かって、「わたしは望みます」、と云われるのは異例のことである。知っての通り、山々が生まれる前から[詩90:2]、キリストについてはこう云われていた。「巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はあなたのみこころを行なうことを喜びとします」[詩40:7-8 <英欽定訳>]。また、主が地上におられたとき、主は決してご自分のみこころに言及したことはない。それは主が明確に宣言しておられた。「わたしが来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです」*[ヨハ6:38]。確かに、人々に向かって話をする際には、主が「わたしはこう望む」と云われるのを聞くことはある。主は、「わたしの心だ。きよくなれ」[マタ8:3]、と云われたからである。だが、ご自分の御父に対する祈りにおいては、主はあらん限りの謙遜さをもって祈られた。

   「吐息と呻き もて主ささげぬ、
    その卑(つつま)しき 願いを地上(した)にて」。

それゆえ、「わたしは望みます」、は規則に対する例外のように思われる。だが、私たちが思い出さなくてはならないのは、キリストがいま例外的な状況にあったということである。主は今やご自分の働きの最後に達していた。主はこう云うことがおできになった。「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げ……ました」[ヨハ17:4]。それゆえ主は、ご自分がいと高き所に上るときのことを予期して、ご自分のみわざが成し遂げられることを悟り、ご自分のみこころを再び取り戻しては、こう仰せになるのである。「父よ。わたしは望みます」*、と。

 さて、よく聞くがいい。このような祈りは、私たちの口においては完全にふさわしくないものである。私たちは決して、「父よ。わたしは望みます」、と祈るべきではない。私たちは、自分の願いに言及すべきだが、自分の意志は神の意志の下に沈むべきである。私たちは、自分が願望すべきではあっても、意志することは神のものであると感じるべきである。しかし、もう一度云うが、《救い主》がこれほどの権威をもって請願しておられるのを見いだすとは、何と喜ばしいことであろう。というのも、これは主の祈りに確実性の刻印を押しているからである。主は、この章でお求めになったことを何であれ、疑いもなく獲得される。別の折々に、すなわち、主が《仲保者》として謙遜に訴えたときに、主はご自分のとりなしにおいて卓越した首尾をおさめられた。では、今や主がご自分の偉大な御力をお取りになり、権威をもって、「父よ。わたしは望みます」、と叫ばれるとき、それはいかにいやまさってかなえられることであろう。私は、この祈りの語り出しを愛する。これはその成就のほむべき保証であり、それを確実なものとしているため、いま私たちはキリストの祈りを、確実に成就されるはずの約束とみなして良い。

 II. ここまでは、この祈りの祈り方についてであった。さて今、私たちは《主がいかなる者たちのために祈られたかに注意しよう》。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」。これは万人のための祈りではなかった。この祈りに含まれていたのは、人類のある特定の種別と部分――「御父が主に下さったもの」と称されていた人々――であった。さて、私たちが信ずるように教えられているのは、父なる神は、世の基の置かれる前から、その御子イエス・キリストに、誰にも数えきれぬほどの数の人々[黙7:9]を与えておられたということである。それは、主の死の報いとなるべきであった人々、主のいのちの激しい苦しみ[イザ53:11]によって獲得された人々、主の受難の功績と主の復活の力とによって、過つことなく永遠の栄光へと導き入れられるべき人々である。こうした人々が、ここでは言及されているのである。時として聖書の中で彼らは選ばれた者と呼ばれている。なぜなら、御父が彼らをキリストに与えたとき、御父は彼らを人々の中から選ばれたからである。別の折には、愛されている者と呼ばれている。なぜなら、古から神は彼らを愛しておられたからである。彼らは召されたイスラエルである。というのも、古のイスラエルのように、彼らは選ばれた民、王である種族だからである。彼らは、神のものである民[詩94:14]と呼ばれる。というのも、彼らは特に神の心にとって愛しい者たちだからである。そして、人が自分のもの、自分の相続財産を気遣うように、主は特に彼らのことを気遣ってくださる。

 誤解してはならない。キリストがここで祈っておられる人々は、父なる神がご自分の無代価の愛と主権的なみこころによって永遠のいのちに定められた人々、また、そのご計画が実現するために、《仲保者》なるキリストの御手に与えられた人々なのである。キリストによって彼らは贖われ、聖められ、完成させられ、キリストによって永遠の栄光を与えられる。こうした人々が、こうした人々だけが、私たちの《救い主》の祈りの対象なのである。私がこの教理を弁護する必要はない。これは聖書的である。それが私の唯一の弁論である。不公平だの不正だのといった、いかなる俗悪な非難についても、私が神を正当化する必要はない。そうした非難を神に負わせるほどよこしまな者がいるとしたら、自分で自分の《造り主》を相手にその決着をつけるがいい。形造られた者が、それほど傲慢になれるとしたら、形造った者に対してこう云うがいい。「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」、と。私は神の弁護人ではない。神は何の擁護者も必要とされない。「人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。……陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか」[ロマ9:20-21]。議論する代わりに、私たちは誰がこの人々であるかを尋ねてみよう。私たちはこの人々に属しているだろうか? おゝ! 今あらゆる心は厳粛にこう問うがいい。「私は、父なる神がキリストに与えてくださった、この幸いな群衆に含まれているだろうか?」 愛する方々。私はあなたの名前を聞いただけでは、そうかどうか告げることができない。だが、あなたの性格を教えてもらえれば、明確にあなたに告げることができる。――いや、むしろ、あなたには何の必要もないであろう。聖霊があなたの心の中で、あなたがその数に入ってるかどうかを証しされるだろうからである。この問いに答えるがいい。――あなたは自分自身をキリストに与えているだろうか? あなたは、主ご自身の無代価の愛の押し迫る力に導かれて、自発的に自分自身を主に明け渡しているだろうか? あなたは、こう云ったことがあるだろうか? 「おゝ、主よ。これまでは、他の主人たちが私の上に支配権を振るってきました。ですが、いま私は彼らを退けます。私は自分をあなたに引き渡します。

   『余(ほか)の隠れ家 我れにはあらじ、
    悩めるわが魂(たま) 汝れにぞかけん』。

そして、私に他の隠れ家が何もないのと同じく、私に他の主はありません。私の値打ちなどこれっぽっちもなく、私はこのような者ではありますが、私は自分の持てるもののすべて、自分のあり方のすべてをあなたにささげます。確かに私には、あなたがお買い取りになるような価値は全く何もありませんが、あなたが私を買い取ってくださったからには、あなたが私を所有してください。主よ。私は自分を完全にあなたに明け渡します」。よろしい。魂よ。もしあなたがこのことをしたとしたら、もしあなたが自分をキリストにささげているとしたら、それはあの、すべての世が造られる前の太古に、エホバがその御子に与えたものの結果にほかならない。さらにまた、あなたはきょう、自分がキリストのものであると感じることができるだろうか? たとい、いつ主があなたを捜し求め、いつあなたをご自分のもとに引き寄せたかを覚えていないとしても、それでも、あなたは花嫁とともに、「私は、私の愛する方のもの」[雅6:3]、と云えるだろうか? あなたは今、あなたの魂の奥底からこう云えるだろうか? 天では、あなたのほかに、誰を持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私は誰をも望みません!、と[詩73:25]。もしそうだとしたら、選びのことで思い悩んではならない。あなたを悩ますようなことは選びには何1つない。信じる者は選ばれている。いまキリストに与えられている者は、世の基の置かれる前からキリストに与えられていたのである。あなたは、神の聖定について議論する必要はない。むしろ、腰を落ち着けて、この岩から蜜を引き出し[申32:13]、この堅い岩から葡萄酒を引き出すがいい。おゝ、この教理は、その恩恵に全く関わりのない者にとっては硬く強固な教理だが、ひとたび人がそれにあずかる資格を得るや、荒野にあったあの岩のようになり、清新な水を流れ出させ、おびただしい数の人々がそれを飲んでは、二度と渇くことがないのである。いみじくも英国国教会は、この教理について、「敬虔な人々にとって、甘やかで、喜ばしく、言葉に尽くすことのできない慰めに満ちている」、と述べている。そして、これは、タルペーイアの岩*1のように、そこから多くの悪人たちが増上慢のうちに落ちては粉々になってきたものであるとはいえ、ピスガの巌のように、その崇高な頂からは天国の尖頂がはるか彼方に見えるのである。もう一度云うが、落胆してはならない。気落ちしてはならない。もしあなたが今キリストに身をささげているとしたら、あなたは主が天上でとりなしておられる幸いな人々の数に入っているのであり、あなたはかの栄光に富む群れへと集められ、キリストのいる所でキリストと一緒になり、キリストの栄光を目の当たりにすることになるのである。

 III. 私は非常に手短にここまでの2つの点を通り過ぎてきた。なぜなら、この第三の点、すなわち、《救い主がささげておられる請願》について詳しく語りたいからである。

 私の理解が正しければ、キリストはその祈りによって3つのことを願っておられる。――それは、《天国》の最も大きな喜びと、《天国》の最も甘やかな務めと、《天国》の最も高貴な特権とに関わっている。

 1. 主が祈っておられる最初の大きな事がらは、天国の最も大きな喜びである。――「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」。注目すれば分かるが、この文章のあらゆる言葉は、どれ1つとして欠かせないものである。主は、こうは云っておられない。――「あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所におらせてください」。むしろ、「わたしのいる所にわたしといっしょに」、と云っておられる。また、主は、彼らが単に主と一緒にいるようにというのではなく、主と一緒に主のおられる所にいるように祈っておられる。そして、よく聞くがいい! 主は、ご自分の民が天国にいることを願うというのではなく、天国でご自分と一緒にいることを願うと云われたのである。なぜなら、それが天国を天国とするものだからである。キリストとともにいること、それこそ天国の真髄にほかならない。キリストのいない天国など、がらんどうの場所でしかなくなるであろう。その幸いを失い、弦のない立琴となるであろう。それでは、どこに音楽があるだろうか?――水のない海、タンタロス*2の池である。それで主は、私たちがキリストとともにいるようにと祈られたのである。――それこそ私たちの交わりである。主がおられる所に主とともにいることである。――それこそ私たちの立場である。あたかも主は私たちにこう告げようとしておられるかに思われる。天国とは、あり方と、ありかの双方なのだ、と。――キリストとともにいて、キリストがおられる所にいるということなのだ、と。

 洗いざらい話そうと思えば、私はこれらの点について非常に詳しく語ることもできるが、今はいくつかの思想の原材料だけを提案するにとどめよう。それは、午後あなたがたが瞑想する種になるであろう。さて、しばし私たちは、地上で私たちの達しうる境地との対照において、この祈りがいかに甘やかなものかを考えてみよう。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」。あゝ! 兄弟姉妹。私たちは多少はキリストとともにいることがいかなることかを知っている。少しは幸いな瞬間がある。この倦み疲れる人生の引き続く戦闘の喧噪の間に、ふと甘美な小休止が、何らかの心地よい時が訪れることがある。それは、安楽椅子のように、私たちを休ませてくれる。そうした折に私たちの《主人》は私たちのもとに来られ、私たち自身が知らないうちに、私たちは民の高貴な人の車に乗せられている[雅6:12]。確かに私たちは、パウロのように第三の天にまで引き上げられ、人間には語ることを許されていない言葉を聞いたことはない[IIコリ12:2-4]。だが、時として私たちは、第三の天が私たちのもとに降りてきたと思うことがあった。時として私は自分の内側でこう云った。「よろしい。たといこれが天国でないとしても、これは天国に続く次の間である」、と。そして私たちは、自分があの天の都の郊外に住んでいるかのように思った。あなたは、バニヤンがベウラの地と呼んだ土地にいた。あまりにも天国の近くにいたため、御使いたちが実際その川を飛びわたって来ては、丘々の花壇で生えている甘やかな一房の没薬や乳香の包みをあなたにもたらしてくれるほどであった。あなたは、それを胸に押し当てては、花嫁とともにこう云った。「私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです」[雅1:13]。というのも、私は主の愛に陶然となり、主の喜びに満たされるからである。主はご自分を私に近寄せ、その御顔の覆いをはずし、その愛のすべてを明らかに示された。しかし、愛する方々。これは私たちの天国の前味を与えてくれはするものの、それにもかかわらず、私たちは、地上における私たちの状態を天上で栄化された状態とは完全に対照的なものとして用いることができるであろう。というのも、地上で私たちが私たちの《主人》のお目にかかるとき、それは遠くからでしかないからである。時として私たちは主とともにいると思うが、それでも私たちは、いかに主に近づいたときにも、自分たちの間に大きな淵があると感じざるをえない。あなたも知っての通り、私たちは自分の頭を主のみ胸にもたせ、主の足元に座ることについて語るが、悲しいかな! それは結局、私たちが天上で享受する現実にくらべれば、非常に比喩的なものであることに気づく。私たちは主の御顔を見たことがあるし、時として主のお心をのぞき込み、主がいつくしみ深いお方であることを味わったことがあると考えるが、それでも私たちの間にはいくつもの長い夜がある。私たちは花嫁とともに何度も何度も叫んできた。「ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、私が外であなたに出会い、あなたに口づけしても、だれも私をさげすまないでしょうに。私はあなたを導き、私を育てた私の母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁をあなたに飲ませてあげましょう」[雅8:1-2]。私たちは主とともにいたが、それでも主は屋上の間におられ、私たちは階下にいた。私たちは主とともにいたが、いかに主に近づいたときであれ、主から遠ざかっていると感じた。

 また、キリストのいかに甘やかな訪れでさえ、それはいかに短いことか! キリストはやって来ては、まるで御使いのように去って行かれる。主の訪れは、私たちの中のほとんどの者にとって、数少なく、長い間隔をおいてなされ、また、おゝ! 非常に短い。――悲しいかな、至福となるには短すぎる。一瞬、私たちの目は主を見て、言葉に尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びに踊る[Iペテ1:8]。だが、やはり少し経つと私たちは主を見なくなり、私たちの愛するお方は私たちから身を引き離して行かれる。かもしかや、若い鹿のように[雅2:17]、主は隔ての山の向こうへと飛び跳ねて行かれる。主は香料の地へ戻って行かれ、もはや百合の花の間で群れを飼ってはおられない。

   「もし今日、神の われらを祝し、
    罪赦さるを 感じさすとも、
    明日はわれらを悩まさせ、
    内なる疾病(やまい) 感じさすらむ」。

だが、おゝ、これはいかに甘やかな見通しであろう。その時、私たちは主を遠くからではなく、顔と顔を合わせて見るのである。この「顔と顔を合わせて」、という題名の説教もある。また、その時、私たちが主を見ているのはほんの短時間ではない。むしろ、

   「百万歳(とせ)もて この眸は見張らん、
    救いの主の 麗しきをば。
    無窮の代々に われらあがめん、
    わが主の愛の 妙なる不思議を」。

おゝ、折に触れ主を見ることが甘やかだとしたら、そのほむべき御顔を永久に見つめて、一片の雲たりとも合間に挟まず、決して目を引き離して労苦と災厄の世を見なくてはならないようなことがない時の、いかに甘やかなことであろう! ほむべき日々よ! いつお前たちはやって来るのだろうか? その時、キリストとの私たちの交わりは親密で途切れないものとなる!

 そして、さらに云わせてほしい。私たちがキリストを一瞥するときには、多くの物事が邪魔をしに踏み込んでくる。私たちは黙想の時を持ち、実際にイエスに近づく時もあるが、悲しいかな! いかにこの世は私たちの最も静かな瞬間にも踏み込み、妨害することか。――商店や、畑や、子どもや、妻や、頭や、ことによると、心そのものが、これらすべてが、私たちとイエスとの間に割り込んで来る。キリストは静けさを愛する。騒々しい市場の中で私たちの魂に語りかけることはせず、こう云われる。「わが愛する者。さあ、葡萄畑へおいで。村へお入り。そこでわたしは、わたしの愛をあなたに示そう」。しかし、私たちがその村を行くと、見よ、そこにはペリシテ人がいる。カナン人がその土地に侵入している。私たちがイエス以外のあらゆる考えから自由になりたいときに、漂泊の遊牧民のような思念の数々がわらわらと私たちのもとに押し寄せ、私たちの宝物を取り去り、私たちの天幕をだいなしにする。私たちは、そのいけにえをほふったアブラハムのようである。私たちは切り分けた肉を焼くばかりにして広げるが、私たちの神のために、神だけのために私たちが守りたいと願っているいけにえを貪り食らおうとして猛禽がやって来るのである[創15:11]。私たちはアブラハムがしたようにしなくてはならない。「猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラハムはそれらを追い払った」*[創15:11]。しかし、天国には何の中断もないであろう。いかなる泣きはらした目も、私たちの視野を一瞬中断させることはなく、いかなる地上的な喜びも、いかなる官能の喜びも、私たちの旋律に不調和を作り出しはしない。そこには耕すべき何の畑もなく、紡ぐべき何の衣もなく、疲れ切った何の肢体もなく、何の暗い苦悩もなく、何の燃えるような渇きもなく、何の痛みの苦痛もなく、何の死別の涙もない。私たちがせざるをえないこと、考えざるをえないことは、ただ永遠に《義の太陽》[マラ4:2]を見つめること以外に何もない。そのときこの目は見えなくなることがありえず、この心は決して倦み疲れることはない。また、あの御腕の中に永遠に横たわること、永劫にわたってその御胸に抱きしめられていること、主の常に忠実なお心の鼓動を感じていること、主の愛を飲むこと、永遠に主の恩顧に満足させられ、そのいつくしみに満たされていること以外に何もない! おゝ! もしも死ぬことがそのような数々の喜びを得ることでしかないとしたら、――死は益である[ピリ1:21]。それは勝利に呑まれるのである[Iコリ15:54]。

 また私たちはこの、主のいる所に主とともにいるという甘やかな思想から目を背けず、こう肝に銘ずるまでにならなくてはならない。すなわち、確かに私たちはしばしば地上でもイエスに近づくことがあるが、私たちが主を有するのはせいぜい、泉を一なめすることでしかない。時として私たちはエリムの泉と七十本のなつめやしの木のもとに着くが[出15:27]、そのなつやめしの木の下に腰を下ろすとき、それが砂漠の中の一片の肥沃地にすぎないと感じる。明日になれば、焼き焦がす空の下を、燃える砂を踏みしめて行かざるをえない。ある日、私たちは腰を下ろして甘く爽やかな泉から飲んでいるが、翌日には、ひびわれた唇をしてマラの泉[出15:23]の前に立ち、こう叫んでいる。「あゝ、あゝ! これは苦い。ここから飲むことはできない」。しかし、おゝ、天国では私たちは、聖なるラザフォードが云ったことを行なう。その井戸の先端を私たちの唇につけ、決して枯渇することがありえないその井戸からいくらでも飲み続け、自分の魂を満杯にするのである。あゝ、左様。有限な者が無限をつかめる分だけ、信仰者はイエスを受けることになる。私たちはそのとき、瞬く間だけ主を見ては見失うのではなく、常に主を見ているのである。私たちが食べることになるのは、小さな丸い、コエンドロの種のようなマナ[出16:31]ではない。私たちが身を養うマナは、食物の山々であり丘々であり、そこには楽しみの川があり、陶酔させられる喜びの大海がある。おゝ、天国について推し量れるすべてをもってしても、それがいかに大きく、いかに深く、いかに高く、いかに広いか見当をつけるのは非常に難しい。イスラエルがエシュコルから持ってきた、あの一本の麗しい枝[民13:23]の果実を食べたとき、彼らはカナンのたわわな実りがいかなるものかを推し量った。また、その蜜を食べたときには、その甘やかさを推し量った。しかし、請け合っても良いが、その全軍のうちのただひとりも、その土地がいかなる豊穣さと甘美さで満ちていたか、その小川そのものにいかに蜜が流れているか、その岩そのものにいかに脂肪が満ちているかを思い描くことはできなかったであろう。私たちの中にいる、いかに私たちの《主人》のそば近く生きてきた者といえども、イエスがおられる所でイエスとともにいるとはいかなることかを、ほんのかすかにしか推し量ることはできないのである。

 さて、イエスとともにいることについて、私のつたない描写をより正確なものにしたければ、こうしさえすれば良い。――もしあなたがキリストを信じる信仰を有しているとしたら、ただこの事実についてよく考えてみることである。すなわち、もうほんの数箇月もしたら、あなたは、この世で最も賢い定命の者が告げることのできることよりも多くを知ることになるであろう。もうほんの幾度か太陽が巡り来れば、あなたや私は天国にいるであろう。おゝ、時よ。進むがいい! お前の最も迅速な翼をもって飛ぶがいい! もうほんの数年もすれば、私は主の御顔を見ることになる。おゝ、話をお聞きの方々。あなたは云えるだろうか? 「私は御顔を見ることになる」、と。さあ、あなたがた、白髪をした、人生の目標点に近づきつつある人たち。あなたは自信をもって云えるだろうか? 「私は知っている。私を贖う方は生きておられることを」*[ヨブ19:25]、と。そう云えるとしたら、それはあなたの魂を喜びで満たすであろう。私は、そう思うたびに感動して涙ぐまずにはいられない。この頭がやがて冠を戴くのだ、このあわれな指が立琴をつま弾き永遠の歌を奏でるのだ、このあわれな唇、今は贖いの恵みの驚異をかすかにしか告げていない唇が智天使や熾天使に唱和し、彼らと旋律を競い合うのだと考えること。これは本当とは思えないほど素晴らしくないだろうか? それは時として、その思想の偉大さそのものによって私たちの信仰を圧倒するように思われないだろうか? しかし、それがいかに真実であり、私たちが受けとめるには大きすぎることではあっても、神がそれをお与えになれないほど大きくはない。私たちは、主がおられる所で主とともにいることになっている。しかり。ヨハネよ。あなたはかつて自分の頭をあなたの《救い主》の御胸にもたせかけたことがあり、私はしばしばあなたをうらやましく思ってきたが、私はそのうちにあなたの立場を占めることになるのだ。しかり。マリヤよ。あなたは、マルタがそのもてなしで頭を悩ませている間も、自分の《主人》の足元に座る甘やかな喜びを有していた。私もまた、この世によって大いに悩まされている。だが、私は墓の中にマルタの煩いを置いて行き、座っては、あなたの《主人》の御声を聞くことになるのだ。しかり。おゝ、花嫁よ。あなたは愛する者に口づけされることを求めた[雅1:2]。そして、あなたが求めたものを、あわれな人類はまだ見ていない。だが、あなたがたの中でも最もあわれで、卑しく、目に一丁字もないが、イエスを信頼している人たち。あなたはやがてあなたの口をあなたの《救い主》の唇につけることになる。ユダのようにではなく、真心から、「先生。お元気で」[マタ26:49]と云いながら、主に口づけすることになる。そしてそのとき、ほの暗い星が太陽の中で姿を失ってしまうように、主の愛という光の箭に包まれたあなたも、陶酔による甘やかな忘却の中に沈むであろう。それこそ、贖われた者の喜びについて私たちが示すことのできる最上の描写である。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」。これこそ、天国の最も甘やかな喜びである。――キリストとともにいることである。

 2. そして今、次の祈りはこうである。「あなたがわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです」*。これは、天国の最も甘やかな務めである。疑いもなく天国には、まさに始まったばかりの大きな喜びを増幅するであろう多くの喜びがあるに違いない。世を去った友人たちとの再会、使徒たちや預言者たち、祭司たち、殉教者たちと交わることは、贖われた者の喜びを間違いなくより大きなものとするだろうと私は感じる。しかし、それでも彼らの喜びに最も大きな光を与えてくれる太陽は、彼らがイエス・キリストとともにいて、その御顔を仰いでいるという事実であろう。そして今、天国には他の種々の務めもあるかもしれないが、この聖句で言及されているものこそ、主たる務めである。「わたしの栄光を、彼らが見る」ことである。おゝ、私に御使いの唇があれば、――《智天使》の唇があれば、――キリスト者がその《主人》、イエス・キリストのご栄光を目の当たりにするときに目にする大いなる光景の数々を一瞬でも描き出せるものを! 1つ走馬灯のように、あなたの眼前に、あなたが死後見るであろう、大いなる栄光の光景の数々を繰り広げてみよう。魂は、このからだを離れた瞬間に、キリストの栄光を眺める。キリストのご人格の栄光こそ、私たちの注意を最初に捕えるものであろう。キリストはその御座の上に座しておられ、私たちの目はまずその御姿の栄光に捕えられるであろう。ことによると、私たちは驚愕の念に打たれるかもしれない。これが人のようではないほど損なわれていた顔だち[イザ52:14]だろうか? これがかつては無骨な鉄の釘で裂かれた手だろうか? これが、かつては茨の冠をかぶっていた頭だろうか? おゝ、いかに私たちの賛嘆は高く高く高く上って、最高潮へと達することであろう。私たちの見ているお方は、かつては――

「仇の前にて 卑しめられて/倦みも、疲れも、悲哀も知れる」

お方であったが、今や《王の王》、《主の主》であられるのである。何と! この炎を放っている両眼が、かつてはエルサレムを見下ろして涙されたその目だろうか? 光の履き物を履いたこの御足が、かつては石のように硬い聖地の地面によって裂けていた足だろうか? このお方が、傷つけられ、ご自分の墓までかついで行かれたお方だろうか? しかり。このお方がそうである。そして、これは私たちの思念を吸い上げてしまう。――キリストの神格と人性。万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神[ロマ9:5]でありながら、しかし私たちの骨の骨、肉の肉なる人であられる、不思議な運命。そして、一瞬にしてこのことを悟ったとき、疑いもなく次に私たちが見てとる栄光は、主の即位の栄光であろう。おゝ、いかにキリスト者は自分の《主人》の御座の足元で立ち止まり、上を見上げることであろう。そして、もし天国に涙がありえるとしたら、それは、王位に着いたこのお方を仰ぎ見て豊かな歓喜の涙が頬に流れる時であろう。「おゝ」、と彼は云う。「私はしばしば地上で歌ってきた。冠ささげよ! 冠ささげよ! 冠ささげよ! 《王の王》、《主の主》に、と」。今や私は主を見ている。あの栄光に富む光の丘の上に、私の魂はあえて上ることができない。見よ。そこに主は座しておられる! 耐えがたい光によって影を作るその衣の裾が見える。何百万もの御使いたちが主の周囲で膝をかがめている。贖われた者たちは御座の前で歓喜に満ちてひれ伏している。あゝ! 私たちは数瞬もあれこれ考えることなく自分の頭から冠を取り、その厳粛な壮麗さを増し加えるためにできることを行なうであろう。自分の冠を主の足元に投げ出しては、この永遠の歌に声を合わせるであろう。「私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ってくださった方に栄光が、とこしえにあるように」*[黙1:5-6]。あなたは、この《救い主》の荘厳さを想像できるだろうか? 王座や君主、支配や権威がみな、いかにこのお方の手招きや命令を待ち受けているか思い描けるだろうか? あなたがたには見当もつかないであろう。宇宙という王冠がいかにこのお方の額に似合っているか、あるいは、すべての世という紫の王服がいかにその両肩を覆っているかを。だが、このことは確実である。このお方は天国の天辺から地獄の最深淵に至るまで《主の主》であられる。――最果ての東方から、最遠隔の西方に至るまで、万物の主人であられる。すべての被造物の歌は、このお方を中心としている。この方こそ賛美の大貯水池であられる。すべての川は海へ流れ込み、すべてのハレルヤはこのお方へとやって来る。このお方は万物の主であられるからである。おゝ、これが天国である。――これが私の望む天国のすべてである。私の《主人》が高く上げられるのを見ること。というのも、このことは、倦み疲れたときの私の力をしばしば奮い起こさせ、気弱になるとき私の勇気をしばしば強固にしてきたからである。「主は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめるためです」*[ピリ2:9-10]。

 それから信仰者は、もうしばらく待たなくてはならない。そして、そのとき、その人はなおも輝かしいものを見るであろう。もう数年もすれば、その人は後の日の栄光を見てとるであろう。預言によって告げられているところ、この世界はキリストの領土になるはずである。現在は、偶像礼拝、流血、残虐、情欲が支配している。しかし、来たるべき時には、このアウゲイアース王の牛舎*3は一度限り永遠にきよめられ、このアケルダマ[血の地所、使1:19]の巨大な屠殺場は生ける神の宮となるであろう。私たちの信ずるところ、その時代にキリストは、厳粛な壮麗さとともに天から下り、この地上を統治なさるであろう。私たちは聖書を読んで、それを文字通りに信ずる限り、その光栄の時代がやって来ると信じないではいられない。そのとき、キリストはその父ダビデの王位に着き、その長老たちの間で輝かしく統治される[イザ24:23]。しかし、おゝ、もしそうだとしたら、あなたや私はそれを目にするであろう。もし私たちが、自らの信頼をキリストに置いている、あの幸いな人々の数に属しているとしたらそうである。この目は、主が後の日に地上に立つとき、その壮麗な現われを見るであろう。「わが目は主を見ん、余の目にあらず」。私はこう思うとほとんど泣けてくる。地上におられたキリストが十字架にかけられた姿を見る機会を私は逸してしまった。実際、十二使徒は非常に大きな恩顧を受けたと思う。だが、やがて地上で私たちの《救い主》を見るとき、また、私たちが私たちのかしらのようになるとき、私たちは、あらゆる欠乏が重い永遠の栄光[IIコリ4:17]で埋め合わされるものと考える。地の中央から極地に至るまで、この世の和声はみな主への賛美にささげられ、この耳はそれを聞くであろう。また、すべての国々がその叫びに加わり、この舌もまた、その叫びに加わるであろう。幸いなことよ、そのような望みをいだき、《救い主》の栄光を眺めることになる人々は。

 そして、それから、しばらくの小休止がある。一千年がその黄金の一巡りを終えると、審きがやって来るであろう。キリストは、喇叭の音とすさまじい威厳をもって天からお降りになる。――御使いたちは、主の護衛をなし、左右で主を取り巻いている。主のいくさ車は幾千万と数知れず、主がその中におられる[詩68:17]。全天は驚異で覆われる。偉観という偉観、奇蹟という奇蹟が木々の葉のようにおびただしく、大量に現われる。地は《全能者》の喇叭にぐらつく。諸天の支柱という支柱は、永遠の光輝の重みの下で酔っぱらいのようによろめき揺れる。――天国は天空に姿を現わし、一方の地上ではすべての人間が集められる。海はその死者を出す[黙20:13]。死地は、その居住者たちを埋葬地から、墓場から、戦場から出てこさせ、人々が何千何万も突如として現われる。そして、すべての目、ことに彼を十字架にかけた者たちが、彼を見る[黙1:7]。そして、不信仰の世が彼のゆえに泣き、嘆き悲しむ一方で、信仰者たちは前へ進み出て、歌と合唱交響曲をもって自分たちの主と出会う。そのとき彼らは空中に一挙に引き上げられ、主と一緒になる[Iテサ4:17]。そして、主が、「さあ、祝福された人たち」*[マタ25:34]、と仰せになった後で、彼らは主の座に着き、イスラエルの十二の部族を審く[マタ19:28]。彼らは、その恐ろしい審判の補佐役として席に着き、最後に主が、「のろわれた者ども。離れて行け」*[マタ25:41]、と仰せになり、その左手が雷鳴の扉を開き、火の炎を放たれるとき、アーメン、と叫ぶ。そして、地が消え失せ、人々がその定められていた破滅に沈んでいくとき、自分たちの《主人》の勝利を喜び眺めては、何度も、何度も、何度も勝利の叫び声をあげる。――「ハレルヤ。主なる神は万物に対して勝利を収められた」。

 そして、その光景の完成として、《救い主》が最後にいと高き所に上られ、その数々の勝利が完成し、死自身が殺されると、主は、天国の輝かしい街路を凱旋して回ろうとする強大な征服者のように、地獄と死をご自分の戦車の車輪に縛りつけて引きずられる。あなたや私は、主の供回りの者として、主の御座に向かって勝利者への叫びをあげる。御使いたちがその輝く翼を打ち鳴らして、「《仲保者》のみわざはなれり」、と叫ぶ間、あなたや私は、

   「いかな者にも まさる大音声(こえ)もて
    あまつ御国の 邸宅(やかた)響かせ
    主権(たか)き恵みを 叫び歌わん」。

私たちは主のご栄光を目にする。もしそれを正しく思い描けるものなら、あなたの望むだけの光輝と荘厳さを想像してみるがいい。あたは、それを見ることであろう。

 あなたは、この世の国王や女王が馬車で通る道へと、人々が駆け出して行くのを目にするであろう。いかに彼らは自分たちの屋根の上に上っては、戦争から帰還してきたどこかの勇士を見ようとすることか。あゝ! 何とつまらぬことか! たとい黄金の冠を戴いていようと、ただの血肉を見ることが何であろう。しかし、おゝ! 天の最高の誉れを引き具して、真珠の門の内側にお入りになる神の御子を見ることはどうであろう。そのとき広大な宇宙は鳴りどよめくのである。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた」[黙19:6]。

 3. 私はしめくくりに最後の点に注意しなくてはならない。それはこうである。私たちの《救い主》の祈りには、天国の最も大きな特権もまた含まれている。よく聞くがいい。私たちは単にキリストとともにいて、そのご栄光を目にすることになるだけでなく、キリストのようになり、キリストとともに栄光を与えられるのである。主は輝かしいだろうか? あなたもそうなるのである。主は王位についておられるだろうか? あなたもそうなるのである。主は王冠を戴いているだろうか? あなたもそうなるのである。主は祭司だろうか? あなたも、受け入れられるいけにえを永遠にささげる祭司となり、王となるのである。よく聞くがいい。キリストの有するすべてのものに、信仰者はあずかるのである。これは私には、すべての総和であり、何にもまさる絶頂と思われる。――キリストとともに統治し、その凱旋の戦車に乗り、そのお喜びにあずかり、キリストとともに誉れを与えられ、キリストにあって受け入れられ、キリストとともに栄光を与えられる。これこそ天国である。天国そのものである。

 さて今、この場にいるあなたがたの中に、これが自分の受けるものであるという望みを少しでもいだいている人々はどれだけいるだろうか? クリュソストモスの言葉は至言である。「地獄の苦痛は地獄の最大の部分ではない。天国の喪失こそ、地獄で最も重い災厄である」。キリストを目にし、キリストとともにいることを失い、その数々のご栄光を目にすることを失うこと、これこそ失われた者たちの断罪の最も大きな部分に違いない。

 おゝ、あなたがた、この輝かしい望みを得ていない人たち。どうしてあなたは生きてなどいられるのだろうか? あなたは陰惨な世をくぐり抜け、さらに陰惨な永遠へと向かいつつある。私は切に願う。立ち止まってほしい。しばし考えるがいい。このあわれな地上のために天国を失う価値があるどうかを。何と! 永遠の栄光を質に入れても、この世の楽しみを数瞬味わうという憐れなはした金がほしいというのか。否。どうか立ち止まってほしい。その取引を受け入れる前によくよく秤にかけてほしい。あなたは、たとい全世界を得ても、あなたの魂を損じたら、また、このような天国を失うとしたら、何の得があろう[マコ8:36]。

 しかし、あなたがた、望みを有している人たちには、私は切に願う。それを堅く握り、それに養われて生き、それを喜んでほしい。――

   「妙なるのぞみ
    試練(まが)にも堪えて
    汝が魂(たま)きよめん、官能(にく)と罪より、
    主キリストの きよきがごとく」。

今、あなたの《主人》のそば近くに生き、あなたの証拠を輝かせるがいい。そうすればあなたは、かの大水を渡ることになるとき、顔と顔を合わせて主を見るであろう。それがいかなるものか告げることができるのは、それを毎時楽しんでいる者たちのほかにいない。

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(訳注)

*1 タルペーイアの岩。古代ローマのカピトリウムの丘の岩で, ここから国事犯は突き落とされた。[本文に戻る]

*2 ギリシヤ神話のタンタロスはゼウスの子で、神々の秘密を漏らしたため、あごまで地獄の水につけられ渇して飲もうとすると水は退き、飢えて木の実を採ろうとすると枝がはね退き、飢渇に苦しめられた。[本文に戻る]

*3 ギリシヤ神話のアウゲイアース王の牛舎。三千頭の牛を飼いながら、三十年間一度も掃除をしなかったが、ヘラクレスがアルペイオス川の水を引いて一日で清掃したという。[本文に戻る]

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贖い主の祈り[了]
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