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特定救済

NO. 181

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1858年2月28日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」。――マタ20:28


 私が最初にこの講壇を占め、この建物で説教しなくてはならなくなったとき、私が前にしていた会衆は、いわば、みことばを聞こうとして、この町のありとあらゆる町通りから集まって来た、膨大な数の烏合の衆といった様相を呈していた。それは単に、ひとりの伝道者が、福音を一度も聞いたことのない大勢の人々に向かって説教しているにすぎなかった。だが、神の恵みによって、この上もなくほむべき変化が生じた。そして今や私の会衆は、烏合の衆の寄り集まりどころか、ロンドン全市のいかなる教役者の会衆にも負けないくらい決まった顔ぶれの人々となっている。私はこの講壇から私の友人たちの顔立ちを認めることができる。彼らは、この何箇月もの間、できる限り同じ場所を占めてきた。そして、私の特権であり喜びでもあることに、この場所に集っている人々のうち、非常に大きな割合の人々――確実に四分の三は越える人々――は、好奇心からここにふらふらとやって来た人ではなく、私の話を定期的に、また、欠かさず聞きに来ていると分かっているのである。では、私のあり方もまた変わってきたことに気づいてほしいと思う。以前は一個の伝道者であったが、今や私の務めは、あなたがたの牧師となることである。あなたがたは、かつては私の話を聞きに集まってきた、てんでばらばらな集団だったが、今や私たちは愛の絆で結びつけられている。合同していることによって、私たちは互いに愛し合い、敬い合うようになっており、今やあなたは私の牧場の羊、私の群れの一員となっている。そして、私は今この場所でも、私が晩に労している会堂においてと同じく、牧師としての立場を取る特権を得ている。それでは、会衆と教職の双方が今や変わってしまったからには、教えそのものがある程度の変化をこうむることも、あらゆる人の考えに思い浮かぶに違いない。これまでの私は、福音の単純な諸真理からあなたがたに語りかけることを常としてきた。この場所では、めったに神の深み[Iコリ2:10]を探ろうとはしなかった。私の夜の会衆にはふさわしいと思った聖句も、午前中のこの場所で論ずる主題とすべきではなかった。自分の教会では何度も折にふれ扱ってきたような、数多くの高踏的で奥義に属する教理を、ここで、あえて持ち出しはしなかった。それは、あなたがたのことを、みことばを聞きに気軽に集まってきた人々の集団だとみなしていたからである。しかし今、状況が変わった以上、教えもまた変わるであろう。私は今や自分の話を単に信仰という教理や、信仰者のバプテスマといった教えだけに限定しはすまい。私は問題の表面でとどまるのではなく、神に導かれるままに、私たちがいたく大切にしている、キリスト教信仰の基盤に存する事がらに、敢然と足を踏み入れるであろう。私はあなたの前で、神の《神聖な主権》の教理を説教することを恥じはしないであろう。私は、《選び》の教理を、何ら腹蔵なしに、全くあけっぴろげに説教することをためらいはしないであろう。私は、聖徒の最終的堅忍という偉大な真理を提起することを恐れはしないであろう。私は、かの疑う余地なき聖書教理、神の選民の有効召命を差し控えないであろう。私は、神の御助けによって、私の群れとなったあなたがたには、何も隠し立てしないように努めるであろう。あなたがたの中の多くの人々が今や「主がいつくしみ深い方であることを味わっている」[Iペテ2:3]のを見ている以上、私は努めて、恵みの諸教理の全体系をくまなく扱うようにしよう。それは聖徒たちが、彼らの最も聖い信仰の上[ユダ20]に建て上げられ、築き上げられるためである。

 私は今朝、《贖い》の教理から始める。「主は、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えた」*。

 《贖い》の教理は、信仰の体系の中でも最も重要な教理の1つである。この点における間違いは、必然的に、私たちの信仰内容の全体系を通じての間違いに至るであろう。

 さて、あなたも気づいている通り、世には異なる《贖い》の理論がいくつかある。いかなるキリスト者も、キリストは贖うために死なれたと考えている。だが、必ずしもすべてのキリスト者が同じ贖いを教えているわけではない。違っているのは、贖罪の性質についてであり、贖いの狙いについてである。例えば、アルミニウス主義者の考えによると、キリストは、死なれたとき、いかなる特定の人を救うつもりもなく死なれたのだという。そして、彼らの教えるところ、キリストの死は、それ自体では、疑いもなく、生きとし生けるいかなる人の救いも確保しはしない。彼らの信ずるところ、キリストはすべての人々の救いを可能にするために死なれたのである。裏を返せば、何か他のことを行なうことによって、どんな人でも、その気になりさえすれば、永遠のいのちに到達できるのである。従って彼らはこう主張せざるをえない。すなわち、もし人の意志が譲ろうとしないとしたら、また、自発的に恵みに屈そうとしないとしたら、キリストの贖罪は無効になるのだ、と。彼らの主張するところ、キリストの死には、いかなる特定性も特異性もない。彼らによると、キリストが死なれたのは、天国に上ったペテロのためであったのと同じくらい、いま地獄にいるユダのためでもあったのである。彼らの信ずるところ、いま永遠の炎に入っている者たちのためにも、いま《いと高き方》の御座の前に立っている者たちのためになされたのと同じくらい真の、また、現実の贖いがあったのである。さて私たちは、決してそのようなことを信じはしない。私たちはこう主張する。キリストが死なれたとき、キリストには1つの目的があったのであり、その目的は絶対確実に、また疑問の余地なく成し遂げられるのだ、と。私たちはキリストの死の狙いを、その効果によって測る。もし誰かが私たちに、「キリストはご自分の死によって何を行なおうと狙っておられたのですか?」、と尋ねるとしたら、私たちはそう問うた人に別の問いをすることによって答えよう。――「キリストは、ご自分の死によって何を行なっただろうか? あるいは、何を行なうことになるだろうか?」 というのも、私たちの宣言するところ、キリストの愛の効果の際限は、その狙いの際限だからである。私たちは、《全能の神》の意図が挫折させられることがありえるとか、贖罪のように大いなることの狙いが、いかなるしかたであれ、果たされ損なうことがありえるなどと考えることによって、自分の理性に反することはできない。私たちは主張するが――私たちは、自分の信ずることを口にするのを恐れはしない――、キリストがこの世に来られたのは、「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」[黙7:9]を救う意図をもってであった。そして、私たちの信ずるところ、このことの結果として、その身代わりとして主が死なれたあらゆる人は、何の疑いの影もなく、罪からきよめられ、血によって洗われて、御父の御座の前に立つに違いない。私たちが信じないのは、キリストがある人々のために何らかの有効な贖罪をなされたのに、その者たちが永遠に罪に定められてしまうということである。私たちがあえて考えようなどともしないのは、決して救われることがありえないと神が予知しておられたような者たちを救おうという意図をもってキリストの血が流されたということ、また、ある人が説明するように、キリストが救おうとして死なれた人々の一部が、キリストの死なれたときすでに地獄にいたなどということである。

 私はこのように、私たちの贖いの理論を述べ、信仰を告白する教会の中にある二大党派の間に存在する種々の違いを示唆してきた。さて私がこれから努めて示したいのは、キリスト・イエスの贖いの偉大さである。そして、そうすることによって私が希望しているのは、神の御霊によって、贖いというこの偉大な体系のすべてを引き出し、私たちがそれを、よしんば全員が受け入れることはできなくとも、全員が理解できるようになることである。というのも、この場にいる一部の人々が、私の主張する事がらに異論を唱えようと手ぐすね引いているかもしれないことは念頭に置いておかなくてはならないからである。だが、それが私にとって何でもないことをあなたは思い出すであろう。私はいついかなるときも、自分が真実であると思うことを教えるし、いかなる人の発言からも何の支障も受けることはない。あなたは、あなた自身の場所では、それと同じことをする、同様の自由がある。あなた自身の集会においては、あなた自身の種々の見解を自由に説教することができる。私が、私の見解を完全に、また、何のためらいもなしに説教する権利を当然のこととして要求するのと同じである。

 キリスト・イエスは、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与え」た。そして、この贖いの代価によってキリストは、私たちのために1つの偉大な贖いを作り出された。私はこの贖いを5つのしかたで測ることによって、その偉大さを示してみたいと思う。まず第一に、その偉大さが分かるのは、私たち自身の咎の極悪さからである。第二に主の贖いの偉大さを測るべき物差しは、天来の正義の厳格さである。第三に測るべき物差しは、主が支払われた代価、主が忍ばれた激痛によってである。それから、それを賛美するために注目したいのは、主が実際に作り出された解放である。そしてしめくくりに注目したいのは、この贖いがなされた対象である非常に多くの人々である。彼らのことが、本日の聖句では「多くの人」と述べられている。

 I. まず第一に、私たちがキリストの贖いを決して小さなものでないと見てとるのは、最初にそれを、《私たち自身の罪》によって測る場合である。私の兄弟たち。しばしの間、あなたがたの掘り出された穴[イザ51:1]を眺め、あなたがたが切り取られた石切場を眺めてみるがいい。あなたがた、洗われ、きよめられ、聖なる者とされた人たち。一瞬の間、立ち止まり、以前のあなたの無知な状態を振りかえってみるがいい。あなたがふけっていたもろもろの罪を、また、あなたがひた走っていたもろもろの罪悪を、また、あなたが生きるのを常としていた、絶えざる神への反逆を振り返ってみるがいい。1つの罪で魂を永遠に滅ぼすことができるのである。ほんの一個の罪の中に、いかに無限の悪がまどろんでいるか把握することは人知の及ぶところではない。《天》の威光に対する1つのそむきの罪の中には、まさに無限の咎が表わされているのである。ならば、もしあなたや私が一度しか罪を犯したことがなかったとしても、無限の価値を有する贖罪以外の何物も、その罪を洗い流し、その償いを行なうことはできなかったに違いない。しかし、あなたや私が罪を犯したのは一度だけだっただろうか? 否。私の兄弟たち。私たちの不義は私たちの髪の毛の数よりも多い。それらは私たちをはるかにしのいでいる。海辺の砂粒を数えるか、その集合体が海洋をなしている水滴を数えた方が、私たちの人生を際立たせている種々のそむきの罪を数えるよりもましである。私たちの子ども時代に戻ってみるがいい。いかにたやすく私たちは罪を犯し始めたことか! いかに私たちは両親に逆らい、また、その頃でさえ私たちの口を嘘の巣窟としていたことか! 子ども時代の私たちは、いかなる気ままさ、強情さに満ちていたことか! 片意地を張り、軽薄な私たちは、わがままを通すことを好み、敬虔な両親が私たちに施すあらゆる抑制を突き破るのが常だった。青年期に達しても、私たちが落ち着くことはなかった。私たちは――私たちの中の多くの者らは――、罪の舞踏のただ中へとしゃにむに突進していった。私たちは不義の頭株となった。単に自分で罪を犯すばかりか、他の者らに罪を犯す手ほどきさえした。そして、あなたの成年時代について云えば、あなたがた、すでに人生の最盛期に入っている人たち。あなたがたは外見上はずっと落ち着いたように見える。あなたがたはそれなりに、青年時代の無軌道さからまぬかれているかもしれない。だが、人としてはどれだけ改善されたか! 神の主権的な恵みが私たちを更新しない限り、私たちは今も最初の頃の自分から全く進歩していない。そして、その働きがなされた後でさえ、私たちにはなおも悔い改めるべきもろもろの罪がある。というのも、私たちはみな、ちりの中に口を横たえ、頭に灰をかぶって、「汚れている! 汚れている!」、と叫んでいるからである。そして、おゝ! あなたがた、自分の杖に力なげによりかかり、自分の老年の支えにしている人たち。あなたの衣服には、まだもろもろの罪がしがみついていないだろうか? あなたの人生は、あなたの頭の冠となっている、雪のように白い髪と同じくらい純白だろうか? あなたは今なお、そむきの罪が自分の衣のすそをべったりと汚し、そのしみのなさを損なっていると感じていないだろうか? いかにしばしばあなたは今もどぶに沈み込み、自分でも自分の着物にぞっとするほど厭わしい者であることか! あなたの目を、神によっていのち長らえてきた六十年、七十年、八十年に向けてみるがいい。そして、あなたがたは一瞬でも、自分の無数のそむきの罪を数えられるとか、自分が犯してきた種々の罪悪の重さを算定することが可能であるなどと考えられるだろうか? おゝ、お前たち、《天》の星たち! 天文学者たちは、お前の距離を測定し、お前の高さを告げることができるかもしれない。だが、おゝ、お前たち、人類の罪たち! お前たちはあらゆる考えを凌駕している。おゝ、お前たち、いや高い山たち! 暴風雨の家であり、嵐の生まれる場所たち! 人はお前の山頂に登り、お前の雪の上に立って感嘆するかもしれない。だが、お前たち、罪の山たち! お前たちは、私たちの思いを越えて聳え立っている。お前たち、もろもろのそむきの罪という深い裂け目たち! お前たちは、私たちの想像力があえて飛び込める深さを越えている。あなたは私が人間性を中傷していると非難するだろうか? それは、あなたが分かっていないためである。もし神が一度でもあなたに、あなた自身の心を明らかに示されたことがあったとしたら、あなたは私の証人となり、誇張どころか私のつたない言葉では私たちの悪の絶望的なはなはだしさを描写していないと云うであろう。おゝ! もし私たちがひとり残らず、きょう、自分の心をのぞき込んだとしたら、――もし私たちの目が内側に向けさせられ、私たちの石のような心に不義が金剛石の尖り[エレ17:1]で彫られているのを見たとしたら、そのときには私たちは、教役者に向かってこう云うはずである。いかにあなたが咎のはなはだしさを真に迫って描き出してきたとしても、それを本物以上に毒々しく描くことは絶対にできません、と。ならば、愛する方々。キリストの贖いの代価はいかに大きなものであったことか。キリストは私たちをこうした一切の罪から救われたのである! イエスが身代わりとして死なれた人々は、彼らの罪がいかに大きなものであろうと、信ずるときに、そのあらゆるそむきの罪から義と認められるのである。たとい彼らが、サタンの示唆することのできる、また、人間性に成し遂げることのできるありとあらゆる悪徳と情欲にふけってきたとしても、それでも、いったん信ずるならば、そのすべての咎は洗い流されるのである。年を追うごとに、それらはどす黒さを増して行き、ついには彼らの罪が極悪そのものとなっているかもしれない。だが、信仰を有する一瞬のうちに、また、キリストを信頼するその勝利に満ちた一瞬のうちに、この偉大な贖いは積年の咎を取り除くのである。否、それ以上である。たとい、世界が造られてからこのかた、あるいは、時間が始まってからこのかた、人間たちがこれまで思いにおいて、言葉において、行ないにおいて行なってきた一切の罪がひとりの人の頭上に結集したとしても、――この偉大な贖いの、すべてを満ち足らす力は、このすべての罪を取り去り、その罪人を吹きだまりの雪よりも白くするのである。

 おゝ! 誰がこの《救い主》の、すべてを満ち足らす豊かさを測れるだろうか? 最初に、罪がいかなる高さか告げるがいい。それから、ノアの洪水が地の山々の頂を上回った[創7:19-20]のと同じように、キリストの贖いという大水が私たちのもろもろの罪という山々の頂を上回ることを思い出すがいい。天の宮廷にきょう立っている人々の中のある者らは、かつては人殺しであった。盗人であった。酔いどれであった。女郎買いであった。冒涜者であった。迫害者であった。だが彼らは洗われており、――聖なる者とされている[Iコリ6:11]。彼らに尋ねてみるがいい。あなたがたの衣の輝きはどこからやって来たのか、彼らのきよさはどこで成し遂げられたのか、と。すると彼らは異口同音に告げるであろう。自分たちは、この衣を《小羊》の血で洗って白くしたのです、と[黙7:14]。おゝ、あなたがた、悩める良心たち! おゝ、あなたがた、疲れた人、重荷を負っている人たち! おゝ、あなたがた、罪ゆえに呻いている人たち! 今あなたに対して宣告されているこの偉大な贖罪は、あなたの必要をことごとく満ち足らわせるものであり、たといあなたの無数の罪が天空を飾る星々をしのいでいるとしても、ここにはそれらすべてのためになされた贖罪がある。――ここにある川は、それらすべてにみなぎりあふれ、それらを永遠にあなたのもとから押し流してしまう。

 さて、これがこの贖罪の第一の物差し――私たちの咎の大きさである。

 II. さて、第二に私たちがこの偉大な贖罪を測らなくてはならない物差しは、《天来の正義の厳格さ》である。「神は愛」であり、常に愛に満ちておられる。だが私の次の命題は、その主張に全く抵触するものではない。神は厳格に正しくあられる。人類に対するそのお取り扱いにおいて、変わることなく峻厳であられる。聖書の神は、どこかの人々が想像するような神ではない。罪を大したこととは考えず、いかなる罰も要求せずに罪を見逃すようなお方ではない。神は、ある人々の想像とは全く違う。彼らは、私たちのもろもろのそむきの罪がごくちっぽけなもので、ちょっとした過ちでしかないと考え、それで、天の神はそれらを目こぼしし、赦された者として自分たちを死なせてくださるのだと想像する。だが、否。イスラエルの神エホバはご自身についてこう宣言された。「あなたの神、主は、ねたむ神」*[出20:5]。これは、神ご自身の宣言である。「わたしは、罰すべき者は必ず罰する」*[出34:7]。「罪を犯した者は、その者が死ぬ」[エゼ18:4]。愛する方々。神をこのようにみなすことを学ぶがいい。その正義においては、あたかも愛に満ちてなどいないかのように峻厳なお方であり、しかし、あたかも峻厳でないかのように愛に満ちておられるお方であるとみなすがいい。神の愛は、神の正義を減少させはしない。神の正義は、これっぽっちも神の愛と争いはしない。この2つは、キリストの贖罪において甘やかに結び合わされている。しかし、よく聞くがいい。私たちが贖罪の満ち満ちた豊かさを理解したければ、まず神の途轍もない正義という聖書的真理を把握することが絶対に必要である。これまで口にされたことのある、いかなる悪い言葉についても、これまで心にいだかれたことのある、いかなる悪い考えについても、これまでなされたことのある、いかなる悪い行為についても、必ずや神は何者かを罰さずにはおかないであろう。神はその償いをあなたに、さもなければ、キリストにお求めになる。もしあなたがキリスト通して持ち出すべき何の贖罪も有していないとしたら、あなたは永遠にその負債を――決してあなたに払い切れない負債を――払いながら、永遠の悲惨の中で横たわっていなくてはならない。というのも、これは神が神があるのと同じくらい確実なことだが、神は、たった1つの罪も罰さないでおくくらいなら、あるいは、ひとかけらの反逆も復讐せずにおくくらいなら、ご自分の《神格》を失った方がましだと思われるからである。あなたは、この神のご性格を冷たく、厳格で、峻厳だと云うかもしれない。あなたがそれについて何と云おうと、私にはしようがない。それにもかかわらず、これは真実である。そのようなお方が聖書の神なのである。そして、神が愛であることは真実であると私たちは繰り返しはするものの、神が愛であることに劣らないくらい真実のことは、神が正義に満ちておられるということである。というのも、あらゆる良いものは神のうちで出会っては、完璧に至らされているからである。そこにおいて愛は究極の愛情深さに達し、正義は神のうちにある曲げられない厳格さに達している。神は、そのご人格のうちに何の屈曲も歪みも有しておられない。いかなる属性も、他の属性の影を薄くするほど優位に立つことはない。愛は完全に支配し、正義も、神の愛より狭く制限されるということは決してない。おゝ! ならば、愛する方々。考えてもみるがいい。いかにキリストの代償が偉大なものであることかを。それは、神の民のあらゆる罪について神を満足させたのである。人の罪のために、神は永遠の刑罰を要求される。そして、地獄を用意しておられる。悔悟しないままで死ぬ者らを投げ込むための地獄である。おゝ! 私の兄弟たち。あなたがたに、この贖罪の偉大さが考えられるだろうか? それは、神がキリストの上にぶちまけなかったとしたら、私たちの上にぶちまけられていたはずのあらゆる苦悶の身代わりだったのである。見よ! 見よ! かの霊たちの世界から私たちを隔てる薄暗がりを厳粛な目で貫き通して見よ、かの悲惨の住まいを。それを人は地獄と呼ぶ! あなたがたは、その光景に耐えられない。思い出すがいい。その場所にいる霊たちは、天来の正義に対して自分の負債を永遠に払っているのである。だが、彼らの一部はこの四千年もの間その火焔の中でうだらされているというのに、その負債の履行には、始めたときと同様に全く近づいておらず、一万年の一万倍が転げ去った時も、彼らが自分たちの咎のための償いを神に対してなしていないことは、今までそうしていないことと全く同じであろう。では今あなたは、自分の《救い主》の仲保がいかに偉大なものであるか理解できるだろうか? 主はあなたの負債を支払い、それをただ一度で支払われ、そうすることで、今やキリストの民には、一銭たりとも神への負債は残っていないのである。残っているのは、愛の負債しかない。正義に対して信仰者は何の負い目もない。彼は元々は非常に多くのものを負っており、それを支払うには永遠でさえ十分に長くはないほどである。だが、一瞬でキリストはそのすべてを支払われた。それで信ずる人は、イエスが行なわれたことを通して、全くあらゆる咎から清められ、あらゆる刑罰から自由にされるのである。では、考えてもみるがいい。主がこれらすべてをなされたとしたら、その贖罪がいかに偉大なものであるかを。

 私はここで立ち止まり、別の言葉を発さなくてはならない。時として聖霊なる神は、人々に対して、彼らの良心の中で正義の厳格さをお示しになることがある。きよう、この場にいるひとりの人は、罪意識でまさに心臓まで切り裂かれている。彼は一度は自由人であった。自由思想家であった。何者の奴隷でもなかった。だが今や、主の矢が彼の心の中に突き刺さり[詩38:2]、彼はエジプトでの奴隷状態よりも悪い奴隷状態に陥ってしまった。黒人奴隷は、北極星に導かれるままに、残酷な主人のもとから逃げ出して、自由になれる別の国に行き着けるかもしれない。だが、この人は、たといこの広大な世界中をさまよっても、咎から逃がれられないと感じている。いかに多くの手枷、足枷をはめられている者も、その束縛を解き、自分を自由にするやすりを見いだせるかもしれない。だが、この人はあなたに云う。自分は祈りや、涙や、良い行ないを試しましたが、自分の手首から枷をはずすことはできませんでした。自分はなおも失われた罪人であると感じており、自分が何をしようと、解放は不可能と思われます、と。地下牢の中にいる虜囚は時として、からだにおいては自由でなくとも、思想においては自由になる。その地下牢の壁を通して、彼の霊は跳躍し、星々へと飛んで行き、いかなる人の奴隷でもない鷲のように自由になる。しかし、この人はその思想において奴隷であり、全く何の明るい思想も、全く何の幸福な思想も考えられない。彼の魂は絶望している。焼きごてが彼の霊に突き入れられ、彼は激しく苦しんでいる。虜囚は時として、眠りの中では自分の奴隷状態を忘れることがある。だがこの人は眠ることができない。夜には地獄の夢を見、昼には地獄を肌に感ずるような気がする。彼は、自分の心の中に火炎の燃える炉をかかえており、何をしようとそれを消すことができない。彼は堅信礼を受けており、バプテスマを受けており、聖礼典にあずかり、教会に出席するか、会堂をしばしば訪れ、あらゆる典礼法規を尊重し、あらゆる教会法規に従うが、それでもその火は燃えている。彼は自分の金銭を貧者に与える。自分のからだを焼かれるために引き渡すことにもやぶさかではない。飢えた人を養う。病人を訪問する。裸の人に着る物を与える。だが、それでもその火は燃えており、彼が何をしようと、それを消せない。おゝ、あなたがた、労苦と災厄のうちにある子どもたち。あなたがそれを感じているということは、神の正義があなたを一心に追求しているということであり、あなたがそれを感じているということは幸いである。というのも、今、あなたに向かって私はこの、ほむべき神の栄光ある福音を宣べ伝えるからである。あなたは、イエス・キリストが身代わりとなって死なれた人である。あなたのために、主は厳格な正義を満足されたのである。そして今、あなたが良心の平安を獲得するためにしなくてはならないのは、ただ、あなたを追跡するあなたの敵に向かってこう云うことだけである。「あれを見よ! キリストは私に代わって死なれたのだ。私の良い行ないはお前を止めないであろう。私の涙はお前をなだめないであろう。あれを見よ! あそこに十字架が立っている。あそこに血を流す神が吊り下げられている! この方の断末魔の声を聞くがいい! この方が死ぬのを見るがいい! お前は今や満足しているだろうか?」 そして、このことをし終えたとき、あなたは人のすべての考えにまさる神の平安を有し、それはあなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれるであろう[ピリ4:7]。そして、そのとき、あなたは主の贖罪の偉大さが分かるであろう。

 III. 第三のこととして、私たちがキリストの《贖い》の偉大さを測る物差しは、《主が支払われた代価》である。

 私たちの《救い主》の激痛がいかに大きなものであったかを、私たちが知ることはできないが、それでも、それをある程度まで瞥見すれば、主が私たちのために払われた代価の偉大さについて、多少の観念は供されるであろう。おゝ、イエスよ。あなたの苦悶を誰が述べれば良いだろうか?

   「来よ、すべての泉よ。
    とどまれよ。わが首(こうべ)と目とに。来よ、雲よ、雨よ!
    われの嘆きは すべてを要せり、
    自然の生める 湿れるものを。すべての水脈(みず)よ。
    川吸い上げて わが目を満たせ。
    泣き疲れし目 乾き切り
    さらに水路(ながれ)と 給水(おぎない)なくば
    わが身にかない よく支ええじ」。

おゝ、イエスよ! あなたは、生まれたときから苦しむ者、悲しみの人、嘆きを知るお方でした。あなたの数々の苦しみは、あなたの上に途切れることなき雨として降り注ぎ、ついに、あの恐るべき暗黒の時に至りました。そのときには、雨ではなく、悲嘆の雲と、急流と、大瀑布とによって、あなたの苦悶があなたに叩きつけられました。向こうにいるお方を見るがいい! 霜と冷気の夜だというのに、このお方は外に出ておられる。夜である。だが、このお方は眠らない。むしろ、祈っておられる。聞けよ、その呻きを! このお方のように祈りの格闘をした人がいただろうか? 行って、その御顔を見るがいい! そこに見てとれるほどの苦しみが、定命の者の顔に描かれたことがあるだろうか? このお方自身のことばを聞くがいい。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」[マタ26:38]。この方は立ち上がられる。裏切り者たちに捕えられ、引きずって行かれる。このお方が今まさに苦悶と組み打ちしていた場所に入っていこう。おゝ、神よ! そして、私たちが見ているこれは何だろうか? 地面を汚しているこれは何だろうか? 血である! どこからやって来たのだろうか? 主は、その陰鬱な格闘を通して新たににじみ出た傷を何か受けたのだろうか? あゝ! 否。「汗が血のしずくのように地に落ちた」[ルカ22:44]。おゝ、苦悶たちよ。私たちがお前たちに与える呼び名では云い尽くせない苦悶たちよ! 《救い主》の御からだに対してこのような働きを行ない、その全身から血の汗を振り絞らせることができたとは、お前たちは一体いかなるものだったのだろうか? これは始まりである。悲劇の幕開きである。悲しみに沈みつつこの方について行くがいい。悲しめる教会よ。その極致を目撃するがいい。主は町通りの中を急がされた。主はまず1つの法廷へ、次に別の法廷へ立たされ、ユダヤ人の議会の前に放り込まれ、断罪される。ヘロデから嘲笑される。ピラトの裁判を受ける。主への宣告が申し渡される。――「十字架につけろ!」 そして今、悲劇はその最高潮に達する。主の背中がむき出しにされる。主は、背の低いローマ式の支柱にくくりつけられる。血まみれの鞭が主の背中に畦溝を作る。そして、一筋の血の流れにより、主の背中は赤く染まる。――深紅の衣が主を悲惨の皇帝と宣告する。主は、番兵小屋に連れ込まれる。主は目隠しされ、彼らは主を殴り、「言い当ててみろ。今たたいたのはだれか」[ルカ22:64]、と云う。主の御顔につばを吐きかける。茨の冠を編んで、主のこめかみに無理矢理かぶらせる。紫の衣で主を着飾らせる。お辞儀をしては、主を嘲弄する。ただ黙って主は座っている。一言もお答えにならない。「ののしられても、ののしり返さず」[Iペテ2:23]、ご自分が仕えているお方にお任せになった。そして今、彼らは主に手をかけ、さんざんに嘲り、野次りながら、その場所から主を引っ立てては、町通りを追い立てていく。引き続いた絶食によってやつれ果て、霊の苦悶によって苦悩させられた主は、ご自分の十字架の下でよろよろと歩く。エルサレムの娘たち! 主はあなたがたの町通りで気絶される。彼らは主を引き起こす。主の十字架を別の男に背負わせて、主を追い立てる。ことによると、何度も槍で突き刺すことによってかもしれない。とうとう主は破滅の山に達する。乱暴な兵隊たちが主をつかみ、仰向けに投げ倒す。横木が主の下に置かれ、必要な長さだけ両腕が引き伸ばされる。釘が掴まれ、四つの槌が一瞬にして四本の釘を主のからだの最も繊細な部分に打ち込む。そして、そこに主は、ご自分の処刑の場所に横たわり、ご自分の十字架の上で死のうとしている。それはまだなされていない。その十字架は乱暴な兵隊たちによって持ち上げられる。そこに、軸穴が用意されている。それはその場所へ叩き込まれる。彼らはそこを土で埋め、そこにそれは立つ。

 しかし、《救い主》の手足を見るがいい。何とそれが震えていることか! あの軸穴に十字架が叩き込まれたことにより、主の骨はみな外れてしまう! いかに主が涙されることか! いかに吐息をつかれることか! いかに啜り泣かれることか! 否。それ以上である。聞けよ。いかに主が最後には苦悶の中で絶叫していることか。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」[マタ27:46] おゝ、太陽よ。お前が目を閉ざし、これほど残酷な所業をもはや眺めようとしなかったのも不思議はない! おゝ、岩々よ! お前たちが溶けて、心を同情で引き裂いたのも無理はない。お前たちの《創造主》が死なれたのだ! このお方が受けたような苦しみを受けた人はひとりもいない。死そのものでさえ気が和らぎ、墓の中にいた者たちの多くがよみがえって、都に入った[マタ27:52-53]。しかしながら、これは外側だけにすぎない。嘘ではない。兄弟たち。その内側ははるかにむごかった。私たちの《救い主》がそのからだにおいて苦しまれたことなど、その魂において耐え忍ばれたことにくらべれば無に等しかった。主が内側で耐え忍ばれたことをあなたは推測することもできないし、私もあなたが推測するのを助けることはできない。一瞬だけこう考えてみるがいい。――私がこれまでしばしば用いてきた言葉を繰り返すとしたらだが――ある人が地獄に陥ったとしよう。――その人の永遠の苦悶のすべてが一時間に凝縮されることがありえたとしよう。また、それに救われた者たちの数を掛けることができたとしてみよう。彼らの数は、いかなる人にも数えることができないほど膨大である[黙7:9]。さて、あなたは、神の民が全員、永遠に刑罰を受けることになっていたとしたら、彼らの苦しみの総計が、いかに途方もないものとなっていたか考えられるだろうか? そして、思い起こすがいい。キリストは、ご自分の贖われた者たち全員の地獄すべてに匹敵するものを苦しまなくてはならなかったのである。この思想を、何よりも巧みに表現するには、しばしば繰り返されたこの言葉を用いるしかない。それは、あたかも地獄が主の杯の中に入れられ、主がそれをつかみ、「愛のきわみの一飲みにて 主は断罪を飲み干」されたかのように思われた。それで、地獄のあらゆる激痛と悲惨のうち、主の民が耐え忍ばなくてはならないものは何も残らなかったのである。私は主がそれと同じものを苦しまれたとは云わない。だが、主はそれらすべてに匹敵するものを耐え忍ばれ、ご自分の民全員のあらゆる罪について神への償いを行ない、その結果として、彼らのあらゆる刑罰と同等のものを神におささげになったのである。さて、あなたがたは夢にも考えることができるだろうか? 推測できるだろうか? 私たちの主イエス・キリストのこの偉大な贖いを。

 IV. 私は次の項目についてはごく手短に語ろうと思う。《救い主》の苦悶を測る第四のしかたはこうである。私たちはそれを、《主がもたらされた栄光に富む解放》によって見積もらなくてはならない。

 身を起こすがいい。信仰者よ。あなたのいる所で立ち上がり、この日、主があなたのために行なわれたことの大きさを証言するがいい! あなたに代わって云わせてもらおう。私があなたの経験と私の経験を一息で告げるであろう。かつて私の魂は罪の重荷を負わされていた。私は神に反抗し、はなはだしいそむきの罪を犯していた。律法の恐怖が私をつかんだ。罪の確信の激痛が私を握った。私は自分に咎があることを見てとった。自分の下を眺めると、口を大きく開いた地獄が今にも私をむさぼり食らおうとしていた。私は良い行ないによって自分の良心を満足させようとしたが、すべては無駄だった。キリスト教信仰の数々の儀式に身を入れて、自分の内側に感じる激痛をなだめようと努めたが、全く何の甲斐もなかった。私の魂はこの上もない悲しみのあまり、ほとんど死なんばかりであった。私は、あの古の悲しむ人とともにこう云うことができたであろう。「私のたましいは、むしろ窒息を選び、私の骨よりも死を選びます」[ヨブ7:15]。次のことこそ、私を常に悩ませていた大問題であった。「私は罪を犯した。神は私を罰さなくてはならない。そうしないとしたら、いかにして神は正しいお方でありえようか?」 とうとう私の目は、あの甘やかな言葉に向けられた。それは、こう云っている。「御子イエスの血はすべての罪からきよめます」*[Iヨハ1:7]。私はこの聖句を私の私室に連れ込み、そこに座って瞑想した。私はある方が一本の十字架にかけられているのを見た。それは私の主イエスであった。そこには茨の冠があった。並ぶものもない無類の悲惨を示す数々の象徴があった。私は主を眺め、私の思いはこういうみことばを思い起こした。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」[Iテモ1:15]。そこで私は内心こう云った。「この方は罪人のために死なれたのだろうか? 私は罪人だ。ならば、この方は私のために死なれたのだ。私を救ってくださるのだ」。私の魂はその真理により頼んだ。私は主を仰ぎ見た。そして、私が「かの流れ、たましい贖う主の血の河」を眺めたとき、私の霊は喜んだ。というのも、私はこう云えたからである。

   「わが手にもてる もの何もなし
    ただこの十字架にわれはすがらん。
    裸なる者 受けよ、ころもを。
    力なき者 受けよ、恵みを!
    われ黒けれど 泉に逃れん。
    洗わせ給え、さなくば、われ死す!」

そして今、信仰者よ。あなたは残りを語れるであろう。あなたが信じた瞬間に、あなたの重荷はあなたの肩から転がり落ちて、あなたは空気のように軽くなった。暗闇の代わりに、あなたは光を得た。重苦しい装束の代わりに、賛美の衣を得た。それ以来のあなたの喜びを誰が語れようか? あなたは地上で天国の賛美を歌ってきた。そして、あなたの穏やかな魂の中で、贖われた者たちが有する永遠の《安息日》を待ち望んできた。あなたが信じたがゆえに、あなたは安息に入っている。しかり。これを広大な世界中に告げるがいい。律法の行ないによっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はイエスの死によって解放されるのである[使13:39]。天において告げるがいい。誰も神に選ばれた人々を訴えることはできない、と[ロマ8:33]。地獄においてすら告げるがいい。神に選ばれた者たちは決してそこに行くことがありえない、と。キリストが彼らに代わって死なれたからである。では、誰が彼らを罪に定めようとするだろうか?

 V. 私はここまで急いですませて、最後の点に至ることとする。それは、何よりも甘やかなことである。イエス・キリストが世に来られたのは、本日の聖句の告げるところ、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」であった。キリストの贖いの偉大さを測る物差しは、《それが狙いとした範囲》である。主がご自分のいのちを与えたのは、「多くの人のための、贖いの代価として」であった。私はここで再びあの論争のある点に戻らなくてはならない。私たちがしばしば告げられるところ、(つまり、私たちの中にいる、普通はカルヴァン主義者と仇名される者たちが、ということだが――私はこの呼び名を大して恥じてはいない。カルヴァンは、結局のところ、この世に生きたことのある、霊感を受けていない人々の中では、ほとんど誰にもまして福音についてよく知っていたと思う。)――私たちがしばしば告げられるところ、私たちはキリストの贖罪を限定しているという。なぜなら、私たちは、キリストがすべての人々のための償いをしたのではないと云うからである。あるいは、すべての人々が救われはしないと云うからである。さて、これに対する私たちの答えはこうである。それとは全く正反対に、私たちの反対者たちこそ、それを限定しているのである。私たちは限定していない。アルミニウス主義者たちは、キリストはすべての人のために死なれたのだと云う。それがどういう意味か彼らに尋ねてみるがいい。キリストは、すべての人々の救いを確保するために死なれたのだろうか? 彼らは云うであろう。「いいえ、絶対にそうではありません」。私たちは彼らに第二の問いを発する。――キリストは特定のいずれかの人の救いを確保するために死なれたのだろうか? 彼らは答えるであろう。「いいえ」。彼らが首尾一貫しているとしたらそう認めざるをえない。彼らは云うであろう。「いいえ。キリストは、いかなる人も、これこれしさえすれば救われるように死なれたのです」。――そして、これこれの所に、いくつかの救いの条件が入るのである。では、私たちは云う。私たちは、かの古い言明にだけ立ち戻るであろう。――キリストが死なれたのは、疑う余地なく、決して誰の救いを確保するためでもなかったのだろうか。あなたは、「そうです」、と答えざるをえない。そう答えるしかない。というのも、あなたは、人が赦罪を得た後であってさえ、恵みから転落し、滅びることがありえると信じているからである。さて、キリストの死を限定しているのは誰だろうか? 何と、あなたである。あなたによると、キリストはいかなる人の救いをも過つことなく確保するためには死ななかったのである。あなたは私たちがキリストの死を限定していると云うが、ちょっと待ってほしい。私たちは云うであろう。「いいえ。親愛なる方々。あなたこそ限定している方なのだ。私たちは、キリストが死なれたことによって、誰にも数え切れないほどの数の大群衆の救いが過つことなく確保されたと云うものである。彼らは、キリストの死を通して、単に救われるかもしれないだけでなく、救われているのである。救われるに決まっているのである。いかなる可能性によっても、救われないでしまう危険を冒すことがありえないのである。あなたは自分の贖罪を自由に信じているがいい。そういう考えを持っていてかまわない。だが、だからといって私たちは、私たちの贖罪を決して放棄したりはしないであろう」。

 さて、愛する方々。誰かが限定された贖罪を笑い物にしたり、あざけったりしているのを耳にするときには、その人にこう云って良い。一般贖罪は、非常に幅広い橋が半分しか弧を描いていないようなものである。それは流れをまたいでいない。それは、単に半分まで行かせるとしか公言していない。それは、いかなる人の救いをも確保しない。さて、私はむしろ、ハンガーフォードほど狭くとも、ちゃんと川を渡り切っている橋に足を乗せる方が、世界と同じくらい広くとも、その流れの途中までしか続いていない橋を踏むよりも良いと思う。さて、私は、すべての人々が贖われたと云うのが私の義務だと告げられている。また、それには聖書的な裏づけがあると告げられている。――「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです」[Iテモ2:6]。さて、これは、実際、この問題の別の側における、非常に、非常に大きな議論であるように思われる。例えば、これを見るがいい。「世はすべてあの人のあとについて行ってしまった」*[ヨハ12:19]。これは、世界中がキリストの後について行ったということだろうか? 「そこでユダヤの全住民が彼のところへ行き、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた」*[マコ1:5]。これはユダヤの、あるいはエルサレムの全住民がヨルダン川でバプテスマを受けたということだろうか? 「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です」[Iヨハ4:4]。だのに、「全世界は悪い者の支配下にある」[Iヨハ5:19]。この「全世界」は、ありとあらゆる人々という意味だろうか? だとしたら、いかにして「神から出た者」である人々がいることがありえただろうか? 「世界」と「全」という言葉は、聖書の中で七、八回は出てくる。そして、その「全」が、ありとあらゆる、ひとりひとりの人々を意味するのは非常にまれである。この言葉は一般には次のことを意味している。すなわち、キリストがありとあらゆる種類の人々の中から、そのいずれかの人々を――何人かのユダヤ人、何人かの異邦人、何人かの富者、何人かの貧者を――贖われたのであって、主の贖いをユダヤ人だけや、異邦人だけに制限してはいないのである。

 しかしながら、論争を離れて、私は今、1つの問いに答えるであろう。では、方々。私に告げてほしい。誰のためにキリストは死なれたのだろうか? あなたが1つか2つ問いに答えてくれたなら、私はあなたに、果たして主があなたのために死なれたかどうかを告げるであろう。あなたは今朝、罪を自覚しているだろうか? 聖霊はあなたに、あなたが失われていると教えておられるだろうか? ならば、キリストはあなたのために死なれたのであり、あなたは救われるであろう。あなたは今朝、自分が世界中にキリストのほか何の希望もないことを自覚しているだろうか? あなたは、自分が自分の力では、神の正義を満足させることのできる贖罪を差し出せないと感じているだろうか? 自分自身に対する一切の信頼を放棄しているだろうか? そして、あなたは膝をかがめて、「主よ。助けてください。私は滅びそうです」*[マタ8:25]、と云えるだろうか? ではキリストはあなたのために死なれたのである。だが、もしあなたが今朝、「私は、ちゃんと善良にしています。私は私自身の行ないによって天国に行けます」、と云っているとしたら、そのときには、覚えておくがいい。聖書はイエスについてこう云っているのである。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」[マコ2:17]。あなたがそのような状態にある限り、私にはあなたに宣べ伝えるべき何の贖罪もない。しかし、もし今朝のあなたが有罪であると感じ、みじめで、自分の咎を意識していて、キリストをあなたの唯一の《救い主》として受け入れるつもりがあるとしたら、私はあなたに、あなたは救われることができると云うだけでなく、それよりさらに良いこととして、あなたは救われるだろうと云うことができる。あなたが何もかもはぎとられて、キリストをあなたのすべてとして受け取り、あなた自身は全くの無となるとき、そのとき、あなたはキリストを仰ぎ見て、こう云えるのである。「あゝ、血を流し給う神の《小羊》よ! あなたの悲嘆は私たちのために耐え忍ばれました。あなたの打ち傷によって私はいやされ、あなたの苦しみによって私の罪は赦されるのです」。そして、そのとき、いかなる精神の平安をあなたが持つか見るがいい。というのも、もしキリストがあなたのために死んでおられるとしたら、あなたが失われることはありえないからである。神は1つのことゆえに二度罰することはなさらない。もし神があなたの罪ゆえにキリストを罰されたとしたら、神は決してあなたを罰さないであろう。「刑罰(むくい)を神の義 再請求(もと)めえじ。まず我が流血(ちなが)す 保証人(みうけ)より、さらに再び わが手より」。私たちはきょう、もしキリストを信ずるとしたら、神の御座そのものへと進み出て、そこに立つことができる。そして、もし、「お前には咎があるか?」、と云われるとしたら、「はい、あります」、と云うことができる。しかし、もし、「お前は、なぜお前が自分の咎のために罰されないでいられると云えるのか?」、と云われたとしたらどうだろうか? 私たちはこう答えることができる。「大いなる神よ。あなたの正義と、あなたの愛との双方が私たちに保証しています。あなたが私たちを罪ゆえに罰することはない、と。というのも、あなたは私たちに代わってキリストを罪ゆえに罰されたではないでしょうか? では、いかにしてあなたは正しくあられるでしょう、――いかにして神でなどあられるでしょう、もしあなたが身代わりであるキリストを罰したとして、その後で人自身を罰するなどということをなさるとしたら?」 あなたの唯一の問いは、「キリストは私のために死なれただろうか?」、である。そして、私たちが与えることのできる唯一の答えは、こうである。――「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」[Iテモ1:15]。あなたは、自分の名前を罪人たちの間に書き記すことができるだろうか?――飾り言葉としての罪人の間にではなく、それを感じ、それを嘆き悲しみ、それを哀悼し、それゆえにあわれみを求めている罪人たちの間に書き記せるだろうか? あなたは罪人だろうか? そう感じ、そう知っており、そう告白しているとしたら、あなたは今、イエス・キリストがあなたのために死なれたと信ずるよう招かれている。なぜなら、あなたは罪人だからである。そしてあなたは命じられている。この大いなる不動の岩に身を投げ出して、主イエス・キリストのうちにある永遠の安泰さを見いだせ、と。

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特定救済[了]
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