HOME | TOP | 目次

聖霊のみわざ

NO. 178

----

----

1857年11月5日、木曜日朝夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」。――ガラ3:3


 しかり。私たちはどこまでも道理が分からない者らである。愚かさは、子どもの心につながれているだけでなく[箴22:15]、神の子どもの心にさえつながれている。そして、懲らしめの杖が愚かさを子どもから叩き出すと云われてはいるが、患難の鞭が何度も繰り返し肩に振り下ろされない限り、キリスト者から愚かさが取り去られることはない。思うに私たちはみな、この点について理論的には非常に健全である。もしも誰かから、あなたはいかにして救いが自分のうちで成し遂げられると希望しているのですか、と尋ねられたとしたら、私たちは一瞬のためらいもなく、救いは主だけのものであるとの信念を断言し、こう宣言するはずである。聖霊が何よりも先に私たちの内側で信ずる心を開始されたのと同じように、私たちは御霊の御力だけがこの神聖なみわざを続けさせ、保ち、最終的に完成させてくれるものと期待しているのです、と。私は云うが、私たちは理論的問題としてはこの点について十分に健全である。だが私たちはひとり残らず、実践問題としては非常に異端的であり不健全である。というのも、悲しいかな! いかなるキリスト者であれ、自らを義としようとする自分の傾向を嘆き悲しまずにはすまないからである。どこの信仰者も、人生のいずれかの時点において、自己信頼の霊が心の中で起こり立ち、聖霊の絶対的な必要性を感じないようにさせられたために呻かざるをえないことがあった。――そうした自己信頼の霊によって、人は単なる天性の力や、善良な意図の強さや、強固な決心の強さに信を置くようになり、聖霊の神の御力だけにより頼むことがなくなるのである。少なくとも私には、このことだけは分かる。兄弟たち。私は、説教者としては、あなたがた全員に向かって、聖霊が私たちのあらゆる行ないを私たちの中で作り出すに違いなく、聖霊を抜きにして私たちには何も行なえない、と告げることができるが、それでも、人としての私は、自分が自らの説教を否定するように誘惑されることに気づくのである。自分の言葉によって否定するのではないが、まず聖霊を仰ぎ見ることもなしに種々の行為を行なおうと努力することによって事実上否定する気分にされるのである。私は、教訓的な部分では決して不健全になることがなくとも、それを実行に移す段になると、主イエス・キリストを愛していながら種々の血肉の弱さに今なお陥りやすいすべての人々と同じく、御霊で始まっていながら、肉による完成を求めていることに何度となく気づいて呻かざるをえない。しかり。私たちは、それほどまで道理が分からないのである。そして、私の兄弟たち。自分が道理の分からない者だと自覚するのは良いことである。というのも、人は愚かであってもそれをわきまえているときには、いつの日か賢くなる見込みがあるからである。自らが愚かであるとわきまえるのは、知恵の神殿に続く扉の上がり段に立つことである。ある立場が誤っていると理解することは、それを是正する道の半ばに当たる。私たちの自己信頼が厭わしい罪であり、愚かさであり、神への罪であることを全く確信し、そうした思いを神の聖霊によって焼きつけられるのは、私たちが自分の自己信頼を完全に打ち捨て、自分の魂が理屈だけでなく実践においても、全く神の聖霊の力により頼むようになる道を相当進んだということである。

 しかしながら、私は今晩、この聖句から幾分逸脱したいと思う。これまでは手短にこの文章全体の意味を説明しようとしてきたが、私は今晩、ここで使徒が副次的に教えている教理を詳しく説明するつもりである。彼は私たちに、私たちが御霊で始まると教えている。――「御霊で始まったあなたがたが」、と。私はすでに、聖霊なる神が光を与えてくだされば、この聖句の全体を十分理解できるだけの説明は行なってきた。そこで、私は云うが、今からは、キリスト者が御霊で始まる、という観念についてだけ限定して話をしようと思う。キリスト教の始まりの部分は神の御霊から出ており、神の御霊からのみ出ているが、一方、それと等しく、その全行程においても、私たちは同じ力に頼り、同じ御力に依存しなくてはならない。そして、私がこの聖句を選んだのは、この理由からである。私たちのもとには、毎月毎月、非常に大人数の若い信仰者たちが押し寄せつつある。――毎週毎週、と云っても良い。というのも、毎週私たちは、相当な数の人々を教会に加えており、毎月毎月この両手は、《福音》の信仰においてまだ未熟な多くの人々にバプテスマを授けて、彼らに主イエス・キリストを信ずる信仰を告白させているからである。さて、私を驚愕させるのは、このように私の前にやって来るこうした人々が、恵みの諸教理において非常によく教えを受けており、契約にあるすべての真理について非常に健全だということである。次のことは、イエスの御名において、私の誇りとなり栄光となると思えることだが、私の知る限り、私たちがこの教会に受け入れた人々はただひとりの例外もなく、いわゆるカルヴァン主義的諸教理と呼ばれる、キリスト教信仰のあらゆる教理に完全に同意し、それを了解しているのである。人々が教理的に高踏的な点だとして笑い物にしがちな諸教理こそ、彼らが最も喜んで受け入れ、信じ、喜びとしているものにほかならない。しかしながら、私が見いだすところ、最も大きな欠けは、聖霊のみわざを忘れがちだという点にある。見ると彼らは、父なる神のみわざはごく容易に思い起こすことができる。彼らは、偉大な選びの教理を否定しない。御父によってかの偉大な義認の判決が選民の上に下されていることを明確に見てとることができる。それが、イエスの代償的犠牲と完璧な義とを通してもたらされていることを見てとることができる。また彼らは、イエスのみわざを理解することにやぶさかでもない。彼らは、いかにキリストがご自分の民の身代わりとなり、彼らの立場と、地位と、場所に立たれたかを見てとることができる。また彼らは、一瞬たりとも神の御霊に関する教理に疑いを差し挟みはしない。だが、彼らは、この点において明確ではない。彼らが他の点よりも口下手になる点、それは、この《神格》、すなわち聖霊なる神という全く崇敬すべきご人格のほむべきみわざに特に関係している点にほかならない。それゆえ、私は思ったのである。できる限り単純なしかたで、聖霊のみわざについて説教し、それを初めから説き明かしてみよう、と。私がいま希望しているのは、幾晩か続けて、それぞれ異なる時々に、聖霊なる神が導かれるままに、御霊のみわざという主題を最初から最後までより充実した形で語っていくことである。しかし、一言云っておくが、私が一連の説教を語っていくものと期待しても無駄である。私はそうしたことを計画するほど無分別ではない。私は聖霊なる神が人々に、三箇月も先の説教予定の一覧表を公にするよう望んでおられるとは信じない。なぜなら、《摂理》には常に種々の変更が生じ、説教者や聴衆の精神状態も変化するからである。そして、常軌を逸して賢明な人でもなければ、《老ムーアの暦》を見て、三箇月先にはいかなる種類の説教を語るのが最善であるかを正確無比に知ることなどできないであろう。むしろ人は、事を自分の神にゆだねて、神がお語りになるのと同じ時に自分をも語らせてくださるように願い、イスラエル人がマナを探したときのように、毎日毎日自分の説教を探すようにした方が良い。しかしながら、私たちは今、救いの最初における御霊のみわざの個々の点を努めて順序だてて話してみることにしよう。

 まず最初に主張させてほしいのは、《救いを開始するのは聖霊のみわざである》、ということである。救いが魂の内側で始まるのは、聖霊を抜きにした恵みの手段によってではない。むろん、この世のいかなる人も、神の定めた手段をないがしろにして良いわけではない。もしもある建物が祈りのために建てられているとしたら、その床を踏むことを怠る人が祝福を期待してはならない。もしある講壇がみことばを人々に伝えるために立てられているとしたら、いかなる人もみことばを聞くことによらずに救われると期待してはならない(時として私たちは、期待を越えたものをいただくこともあるが)。もし聖書が自国語で印刷されているとしたら、また、それを読めるとしたら、聖書をないがしろにし、それを学ぶのをやめる人は、救われるための1つの大きな、また、重要な機会を失っているのである。世には多くの恵みの手段がある。そして私たちは、それらをできる限り賞賛しよう。私たちは、それらを見くびるつもりなど毛頭ない。それらは最も価値あるものである。幸いなことよ、それらを有する人々は。幸せなことよ、恵みの手段で祝福されている国は。しかし、私の兄弟たち。いかなる人も聖霊から離れた恵みの手段で救われたことはない。あなたは、神が喜んで誉れをお授けになる人の説教を聞いているかもしれない。あなたがたは、自分の有する清教徒の神学書すべての中でも、神がご自分の聖霊の二倍の分を与えられた人の著作を選ぶかもしれない。祈祷会に毎回欠かさず出席するかもしれない。この聖なる書の頁をめくるかもしれない。だが、こうしたすべての中には、《天来の霊》の息吹を離れては何のいのちもない。こうした手段を用いるがいい。私たちはそれを用いるよう、また、勤勉に用いるようあなたに勧告する。だが、覚えておくがいい。こうした手段のいかなるものの中にも、聖霊なる神がご自分のものと認め、最終的に飾ってくださらない限り、あなたに益をもたらすことのできるものはない。これらは、市場にある噴水のようなものであって、水源が水で一杯になるときには、これも満ちあふれ、祝福を引き出せるが、いったんその流れがとどめられ、いったん水源がその流れを送り出さなくなると、水のない泉、雨を降らさない雲となってしまう。そしてあなたがたは、種々の儀式に向かっても、乾ききった皮袋に助けを求めるアラブ人のようになり、ひび割れたあなたの唇は風に吸いつき、つむじ風を飲むであろうが、何の慰めも、祝福も、教えも、そうした恵みの手段から受けることはないであろう。

 また、いかなる罪人の救いも、彼の内側で、教役者あるいは司祭によって開始されはしない。私たちの主イエスの時代以来、自分を司祭と呼んできた者、あるいは、他人がそう呼ぶのを許してきた者を、神よ赦し給え。先日の朝、私は家庭礼拝でウジヤ王の物語を読んだ。彼は王の職務を有しており、何が何でも主の幕屋に踏み込んでは、祭司たちに取って代わろうとした。あなたも覚えている通り、祭司たちは彼に抵抗して、「ウジヤよ。これはあなたの分ではありません」*[II歴26:18]、と云った。そして、ご存知のように彼は香炉を取っては、主なる神の前に立つ祭司のように香をたこうとした。彼らが話している間に、見よ! らい病が彼の顔に現われ、彼は雪のように白いらい病人となって神の家から出て行った。あゝ! 私の兄弟たち。自分を祭司と呼ぶのは、神にとって決して小さな罪ではない。すべての聖徒がキリスト・イエスを通して祭司的な職務を有していないわけではないが、誰かがその観念を、自分の同胞たちにまさって特に自分自身に当てはまるものとし、人々の間における祭司であると主張するとき、彼は神の前で罪を犯しており、それは、たとい無知による罪であってさえ、実に大きくはなはだしい罪であって、種々の大きな、また致命的な誤りをもたらすことになる。その咎は、その称号をあえて自らに当てはめることによって、そうした誤りに足がかりを与えた人の頭上に、部分的には置かれなくてはならない。よろしい。いかなる人であれ――そうしたければ、間違った礼儀によって彼を司祭と呼ぶがいい。――私たちの内側で、この働きを始めることはできない。――しかり。儀式を用いてそうできる人はいない。《教皇絶対主義者》、および仮面をかぶった《教皇絶対主義者》――白衣の悪魔、ピュージー主義者――が私たちに告げるところ、恵みは幼児の額に水の滴が落ちたときにその心で始まるのだという。だが、それは嘘である。神の御前における嘘である。その嘘をつく者を正当化するひとかけらの真理すら含んでいない嘘である。人には何の力もない。たとい、その人が使徒たちの継承者であると絶対確実に主張できる者から叙任された人であっても、――奇蹟的な賜物を授けられていたとしても、使徒パウロその人であったとしても、――もしその人が自分には人を回心させる力、新生させる力があるのだと主張するとしたら、その人は呪われるがいい。というのも、彼は真理を否定したのであり、パウロその人が彼に、呪われよ、主よ、来てください[Iコリ16:22]、と云っただろうからである。それは,永遠の福音から離れ去ってしまっているためである。その福音の枢要な点の1つは、――聖霊なる神のみわざたる新生、上から新しく生まれることなのである。

 そして、私の兄弟たち。これは全く確実なことだが、いかなる人も自分で自分を新しく生まれさせることを始めはしない。救いのみわざは決していかなる人によっても開始されたことはない。聖霊なる神がそれを開始させなくてはならない。さて、いかなる人も恵みのみわざを自分自身の心で開始させたことがない理由は明々白々である。第一に、人にはそれができないからである。第二に、人はそれを望まないからである。中でも最上の理由は、彼にはそれができないからである。――彼は死んでいる。よろしい。死人が生きた者とされることはあるかもしれないが、死人が自分で自分を生きた者にすることはありえない。というのも、死人は何もできないからである。それに、創造されるべき新しいことは、まだ全く存在していないのである。創造されていないものが創造することはできない。「いいえ」、とあなたは云うであろう。「その人には創造することができます」。しかり。地獄が天国を創造できるだろうか? ならば、罪にも恵みを創造できるであろう。何と! あなたは私に向かって、堕落した人間性、ほとんど獣並みになり果てた人間性が、神と張り合えるほど有能だと云うのだろうか? それが、偉大な驚異を作り出す点において、神性を模倣できるとか、神ご自身が与えることのできるような天来のいのちを分け与えることができるとか云うのだろうか? それはありえない。それに、これは創造である。私たちはキリスト・イエスにおいて新しく創造されたのである。誰か一匹の蝿を創造してみるがいい。その後でなら、自分自身のうちに新しい心を創造しても良い。小さなことができない限り、より大きなことはできないはずである。さらに、いかなる人もそれを望まないであろう。たとい誰かが自分を回心させることができるとしても、そうしようとする人はひとりもいないであろう。もしも誰かが自分はそれを望むと云い、もしそれが本当だとしたら、その人はすでに回心しているのである。というのも、回心させられるべき意志が、すでにあらかた回心しているからである。神を愛する意志、キリストと結び合わされたいという願いは、すでに神の御子の死を通して神と和解させられていない、いかなる人のうちにも見いだすことはできない。世には偽りの願望があり、真理の不正確な説明に基づいた願望がある。だが、真の御霊による真の救いを求める真の願望は、救いがすでに萌芽の状態でそこにあること、また、発芽期にあること、また、時間さえ経てばひとりでに恵みが発育していくことを確実に示す指標である。しかし、これは確かなことだが、人はそれを行なえないし、望まない。一方では完全に無能力であり死んでいるからであり、もう一方では完全に堕落しており、その気にならないからである。他の人々のうちにそれを見るときその変化を憎み、とりわけ自分自身のうちにあるそれを蔑むからである。それゆえ、聖霊なる神が始めなくてはならないことは確実である。他のどこにも、そうできる者はいないからである。

 そこで、私の兄弟たち。今の私は、この主題をごく手短にしか語ることができないが、まず聖霊が初めに何をなさるのかを示すこととする。ただし、このみわざ――魂の中における救いの真のみわざ――を描写する際の私が、決定的に厳密に事を識別しているとは期待しないでほしい。私たちが話に聞いたことのある、ある神学者会議で、かつて、人は悔い改めるのが先か、信じるのが先かについて議論されたという。そして、長々と討論された後で、他の人々よりも賢いある人が別の問いを示唆した。果たして新生児は息を吸うのが先か、血液が循環しだすのが先か、と。「さて」、と彼は云った。「こちらの問題を確実に突きとめたならば、もう一方の問題も確実に突きとめられるでしょう」。人には、どちらが先に来るか分からない。おそらく、その2つは私たちの内側で同時に生ずるのであろう。私たちがこうした事がらを順々に言及していくとき、こうした事がらがみな、正確に私たちが言及した通りの順序に従って起こるのだと宣言し証明することはできない。むしろ私たちは、人間の判断に従い、私たち自身の経験に従って、救いのみわざにおいて聖霊なる神が活動される通常のしかたと思われることだけをここで述べたいと思う。

 さて聖霊なる神が魂の中で行なう最初のことは、それを新生させることである。私たちは常に、新生と回心を区別するようにしなくてはならない。人は一生の間、数限りなく回心するかもしれないが、新生させられるのはただ一度である。回心は新生によって引き起こされることだが、新生は魂における聖霊なる神の最初の行為である。「何と」、とあなたは云うであろう。「新生が罪の確信より先に来るのですか?」 間違いなくそうである。死んだ罪人の中に罪の確信が起こりえたはずがない。さて、新生は罪人を生かし、彼を生きた者とする。罪人が、真に霊的な罪の確信を自分の内側に生じさせられるには、まず第一に、いのちを受けなくてはならない。確かに、いのちの中で最も初期に発生するものの1つは罪の確信である。だが人は、まず生きた人となっていなくては、自分に《救い主》が必要であると見てとることはできない。つまり、霊的な状態にあって、救いに至る有効なしかたで、自分の深い堕落ぶりを真に理解する前には、その堕落ぶりを見てとる目がなくてはならないし、律法の宣告を聞く耳がなくてはならないし、生かされて生きた者とされていなくてはならないのである。さもなければ、感じることも、見てとることも、見分けることも全くできないであろう。そこで私は、御霊が行なう最初のことはこのことであると信ずるものである。――御霊は、罪の中で死んでいる罪人、アダムによってもたらされた状態のままの罪人を見いだし、天来の影響力を彼の中に吹き込まれる。その罪人は、それがいかになされたか分からず、私たちの中の誰にも理解できない。「あなたには風が理解できません。――それはその思いのままに吹きます」*[ヨハ3:8]。だが、その効果は目に見える。さて、私たちの中の誰にも、聖霊が人々の中でいかにお働きになるかを告げることはできない。疑いもなく、この会衆席に座ったことのある人々の中には、説教か、祈りか、賛美の最中に、――自分では、いかにしてか分からなくとも――神の御霊が自分の心の中にあり、自分の魂の中に入り込まれた人々がいるはずである。その人は、もはや罪の中に死んではいなかった。もはや思慮もなく、望みもなく、霊的な能力もない者ではなく、生き始めていた。そして私の信ずるところ、この新生のみわざは、それが有効的になされるときには――そして御霊なる神がそれを有効的に行なわないことはないであろう――、神秘的なしかたで、しばしば急激になされる。また、種々の様々なしかたでなされる。だが、それでもそれは常に、このしるしを帯びている。――すなわち、その人は、それがいかになされるかを理解していなくとも、何かがなされていることは感じるのである。何がどうとは知らなくとも、何かがなされていることは分かる。また、以前は一度も考えたことがないようなことを考え出している。以前は一度も感じたことがないようなことを感じ出している。彼は新しい状態に至らされている。彼の中にはある変化がもたらされている。――あたかも町通りに立っている死んだ柱が突然、自分に魂があることに気づいて、道行く馬車の音を聞いたり、歩行者の言葉に耳を傾け出したかのようである。そこには何か全く新しいものがある。実は、その人は霊を持つようになったのである。以前の彼は全く霊を有していなかった。彼は、からだと魂でしかなかった。だが今や神は彼に三番目の偉大な原理、新しいいのち、御霊を吹き込んでおられ、彼は霊的な人となっているのである。さて彼は、単に精神的な活動ができるだけでなく、霊的な活動ができる。それ以前も魂を持っていたために、ただの精神的活動としては悔い改めたり、信じたりすることもできた。神について考え、神を求める何らかの願望を有することもありえた。だが、彼は、1つたりとも霊的な考えをいだくことができず、1つたりとも霊的な望みや願望をいだくことができなかった。こうした事がらを引き出せる力を全く持っていなかったためである。だが今、新生によって彼には、何かが与えられたのであり、与えられている以上、その種々の効果がすぐに見えるようになるのである。その人は自分が罪人であると感じ始める。なぜ彼は以前はそう感じなかったのだろうか? 左様。私の兄弟たち。感じられなかったのである。感じるような状態になかったのである。彼は死んだ罪人だった。そして、たとい彼が人に向かって、また神に向かって、お愛想のように、自分は罪人ですと云ってきたとしても、彼はそのことについて全く何も分かっていなかった。彼は自分が罪人であると云った。しかり。だが、彼が罪人であることについて語るのは、盲人が、自分では一度も見たことのない星々について語るようなものであり、それがあると告げられない限り知らなかったであろう光について語るようなものだった。だが今やそれは深刻な現実である。あなたは彼を笑い飛ばすかもしれない。あなたがた、新生したことのない人たち。だが今や彼は、あるものを有しているがために、実はあなたの笑いの届かないところに至ってしまっているのである。彼は、そむきの罪のこの上もない重さと悪とを感じ始めている。彼の心は震え、彼の肌すらおののく。――場合によっては、からだ全体が影響を受ける。その人は昼夜を分かたず病んでいる。彼は恐れのため心底から慄然としている。彼は旋律や歓楽の音に耐えられない。彼の一切の陽気さは枯渇してしまう。彼は喜ぶことができない。彼は不幸せになる。みじめになる。打ちひしがれ、苦悩する。場合によっては、ほとんど気が狂いそうになる。大部分の場合、それほど激しい様相を呈することはなく、優しい御霊の囁きがあるが、それでも、新生によって引き起こされる激痛や苦痛は、新しいいのちがその人の過去の状態の罪や悪を発見しつつある間、涙なくしては語ることも言及することも難しい。これはみな御霊のみわざである。

 そして魂をここまで至らせた後で、次に聖霊が行なわれるのは、その魂に、自分で自分を救うことは完全にできないと教えることである。その魂も、ことによると、《福音》が宣教されるのを聞いてきたとしたら、以前からそう知っていたかもしれない。だがそれは単に耳で聞き、理性で理解していたにすぎない。今やそれは彼のいのちそのものの一部となってしまっている。彼はそれを実感している。それは彼の魂に入り込み、彼はそれが真実であると分かる。かつての彼は、自分が善良だろうと考えていたし、それで自分は救われるだろうと考えていた。聖霊はそうした考えを彼の脳味噌から叩き出してしまった。「ならば」、と彼は云うであろう。「私は種々の儀式を試してみよう。そこから益を得られないか見てみよう」。聖霊なる神が射る矢は、そうした考えの心臓をぶち抜き、それは彼の目の前で絶命して倒れる。彼はその死骸を見るに耐えられず、アブラハムがサラについて云ったように、こう叫ぶ。「死んだ者を私のところから移して葬れ」[創23:8]。かつて彼はそれをいたく愛していたが、今やその姿を見るのも憎む。かつて自分は信じることができると考えていた。彼の頭の中にはアルミニウス主義的な観念があり、自分は好きなときに信ずることができ、好きなときに悔い改めることができると思っていた。だが今や、御霊なる神によって彼は、「私には何もできない」、と云わされるような状態にある。彼は、生きた者となった今こそ、自分が死んでいることを発見し始める。以前はそれについて何も知らなかった。今や彼は、教役者から信ずるように命じられても、持ち上げるべき何の信仰の手もないことに気づく。祈るように命ぜられるとき、今や、祈りたくても祈れないことを発見する。今や自分が無力であることに気づき、自分は陶器師の手の中にある粘土のように神の御手の中で死ぬのだと知り、こう叫ばされる。「おゝ、主よ。私の神よ。あなたが私を救ってくださらなければ、私は永遠に罪に定められます。というのも、私はこの件では、まずあなたから御力を与えられない限り、指一本上げることができないからです」。そして、もしあなたが彼に何かをするよう促すと、彼はそれをしたいと切望するが、それがただの肉的な行ないにすぎず、御霊の行ないではないことを恐れる。それで彼は、さんざんに瞑想しては立ち止まり、歩みを止め、ついには呻いて叫び出すまでとなる。そして、こうした呻きや叫びが真に御霊のみわざであることを、また、自分に霊的ないのちがある証拠であることを感じて、そのとき本当に真剣に《救い主》なるイエス・キリストを仰ぎ見始める。しかし、よく聞くがいい。こうしたすべての事がらは御霊によるのであって、これらのうち何1つ、聖霊なる神の天来の影響から離れて、いずれかの人間によって魂の内側に生み出されることはありえないのである。

 これがなされた後で、魂は今やあらゆる自信に嫌気が差し、絶望して、その最後の立場へと至らされる。しかり、地べたに這いつくばり、首には縄が巻きつけられ、その頭には灰と荒布をかぶっている。聖霊なる神は、次に、イエスの血をその魂に塗りつけ、その魂に、イエスをつかむことのできる信仰の恵みを与え、聖なる慰藉の油を注ぎ、確信という油注ぎを与えられる。それによって、その魂は、完全にイエスの血と義に身をゆだね、喜びを受け取り、自らが救われたことを知って、赦罪にあって歓喜する。しかし、よく聞くがいい。それは御霊のみわざである。一部の説教者たちは自分の信徒に向かって、「信じなさい。ただ信じなさい」、と告げるであろう。しかり。彼らがそう告げることは正しい。だが、覚えておくがいい。そう信ずることすら御霊のみわざでなくてはならないと告げることも正しいのである。というのも私たちは、「ただ信ぜよ」、と云いはするが、これはこの世で最も大変なことにほかならないからである。そして、一部の人々がごくたやすいと云っていることは、信じたいと願う人々がこの世で最も困難であると気づくことなのである。自分の内側に御霊を有する人にとって、書かれたみことばが自分の前にあり、御霊の証しが自分の中にあるときに信じることはごく単純である。しかし、あわれな試みられつつある罪人、神のことばの中に雷鳴と脅かし以外の何も見てとれない罪人にとって――その彼にとって信ずることは――あゝ、私の兄弟たち。それはある人々が云うほど小さなことではない。神の御霊の満ち満ちた力がなければ、いかなる人をもそのような信仰に至らせることはできないのである。

 よろしい。罪人がこのように信じたとき、そのとき聖霊は一切の尊いことを彼にもたらされる。そこにはイエスの血がある。それが私の魂を救えるのは、御霊なる神がその血を取り上げ、私の良心に注いでくださるときのみである。そこにはイエスの完璧な、しみ1つない義がある。それは私にぴったりの、また、私を頭から足まで飾る衣であるが、それが私の役に立つのは、私がそれを身に着たときのみである。そして、私はそれを自分では着ることができない。聖霊なる神がイエスの義という衣を私に着せてくださらなくてはならない。そこには子とする契約がある。それによって神は私に子としての種々の特権を与えてくださる。だが私が子とされたことを喜べるのは、子としてくださる御霊[ロマ8:15; ガラ4:6]を受けて、「アバ。父」と叫べるようになったときのみである。それで、愛する方々。見ての通り――私は、まだまだ語れるが、それでは時間が尽きてしまう。――見ての通り、新しく生まれたキリスト者の経験において持ち出されるあらゆる点、また、私たちが魂における救いの始まりと呼ぶ、救いのその部分におけるあらゆる点は、聖霊なる神に関わっているのである。御霊を抜きにして起こすことのできる行動は何1つない。御霊を抜きにして正しく成し遂げられることは何1つない。しかり。あなたがたが最上の手段を有していても――最も厳正な儀式、最も正統的な真理を有していても――、また、自分の精神をこうしたすべての事がらについて行使したとしても、また、イエス・キリストの血があなたのために流されたとしても、また、神ご自身があなたを世界の基の置かれる前から救われるよう定めておられたとしても、それでもなお、この救いの計画という黄金の鎖には、1つの環が常に挿入されなくてはならない。というのも、それなしには、みな不完全だからである。あなたは御霊によって生かされなくてはならない。あなたは暗闇から光へ召されなくてはならない。あなたはキリスト・イエスにあって新しく造られた者[IIコリ5:17]にされなくてはならない。

 さて、あなたがたの中には、このことについて何か分かっている人がどのくらいいるだろうか。これこそ、その実際的な部分である。さて、話をお聞きの方々。あなたはこのことを理解しているだろうか? ことによると、方々。あなたはこの上もなく賢くて、嘲りとともに踵を返しては、こう云うかもしれない。「超自然主義の一種だ。このメソジストどもときたら、いつだって超自然的なことばかり喋るのだ」。あなたは非常に賢い。この上もなく賢いことに疑いはない。だが、私には、古のニコデモもまたあなたと同じくらいの所までは達していたし、あなたも彼以上の所までは達していないという気がする。というのも、彼はこう尋ねたからである。「人は、老年になっていて、どのようにして新しく生まれることができるのですか?」*[ヨハ3:4] そして、《日曜学校》に通っている子どもなら誰でもニコデモの無知を笑うにもかかわらず、あなたはそれよりも賢くはない。だがしかし、あなたはラビである。そして、あなたは私たちを教えようというのではないのだろうか。そして、あなたは私たちにこうした事がらを教えようというのに、それでいて超自然主義をあざ笑うのである。よろしい。やがて来たるべき日には――私は、それがあなたが死んで破滅する日の前に来るように願うが――超自然主義者たちのキリストこそあなたにとって唯一のキリストとなるであろう。あなたは死の大水の中に入り込むであろう。そこであなたは自然を越えた何かを必要とするであろう。そして、あなたは自分の心の内側で超自然的なみわざがなされるように叫び求めるであろう。そして、そのときこそ、初めてあなたは、自分の知恵が狂気の1つの手口でしかないことを痛感するように目覚めるかもしれない。そして、いくら叫んでも何にもならず、ただこの答えが返されるだけかもしれない。「わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときにあざけり、あなたがたを恐怖が襲うとき、笑おう」*[箴1:24、26]。

 私はあなたがたの中の別の人がこう云っているのが聞こえる。「よろしい。先生。私は、自分の心の中における、聖霊なる神のこのみわざについて何も分かっていません。ですが私は、他の人たちとは全く同じくらい善良です。私は、キリスト教の信仰告白など全くしません。礼拝所に行くのもごくごくまれなことです。ですが、私は聖徒たちの誰にも負けないくらい善良です。彼らの中の何人かを見てみてください。――全く大層ご立派な人たちじゃありませんか」。だが待て。キリスト教信仰は、あなた自身とあなたの《造り主》との間のことである。そして、あなたは、あなたの云う、そうした全く大層ご立派な人たちとは何の関係もない。かりに私が、聖徒として召された人々の大多数は根っからの罪人と呼ばれる方がずっとふさわしく、それを白く塗ってごまかしているだけだと告白するとしても、――かりに私がそう告白するとしても、それがあなたと何の関係があるだろうか? あなたのキリスト教信仰は、あなた自身のためのものでなくてはならず、それはあなたと、あなたの神との間のものでなくてはならない。たとい全世界が偽善者だらけだったとしても、それはあなたをあなたの神の前における義務から免除しはしないであろう。あなたが《造り主》の前に出たとき、もしあなたがまだ神と敵対していたとしたら、あなたはこのような弁解を申し立てようなどとできるだろうか?――「だって世界中が偽善者だらけだったんです」。「よろしい」、と神は仰せになるであろう。「それがお前と何の関係があったのだ? ならばその分だけ、お前には正直な人間になるべき理由があったではないか。もしお前が、教会はこのように、その教会員たちの悪いふるまいや愚かさを通して、流砂に乗って流れ出しつつあったと云うなら、それだけお前にはそれを健全なものとする助けを行なうべき理由があったのだ。もしお前にそうできると思っていたとしたならば」。別の者はこう叫ぶであろう。「よろしい。私にはそれがなぜ必要なのか分かりません。私は精一杯善良にしています。私は決して安息日を破りません。キリスト者の中でもとりわけ几帳面なひとりです。安息日にはいつも二回教会に行きます。徹底的に福音的な教役者の話を聞いていまし、あなたも彼には何の欠点を見いださないでしょう」。あるいは、ことによると、別の人がこう云うであろう。「私はバプテスト派の会堂に通っています。私はいつだってそこにいます。私は自分のふるまいを厳正に律しています。私は良き父であり、良き夫です。取引上で私に後ろ指を指せる人がいるとは思いません」。よろしい。確かにそれは非常に良いことである。そして、もしあなたが感心にも明日の朝、聖ポール大寺院に行き、その彫像の1つを洗ってそれにいのちを吹き込むことができるとたら、そのときには、あなたも自分の道徳によって救われるであろう。だが、あなたは――あなたでさえも――罪過と罪との中に死んでいるため[エペ2:1]、御霊を抜きにしては自分自身をどれほど洗っても、自分の中にいのちを入れることはできない。あの彫像たちをいくら洗っても、それを歩かせたり、考えさせたり、呼吸させたりできないのと同じである。あなたは聖霊によって生かされなくてはならない。あなたは罪過と罪との中に死んでいるからである。

 しかり。そこの美しい娘さん。あなたは、どこから見ても申し分がない。いかなる点でも非難されることはない。あなたは愛情細やかで、優しく、親切で、従順である。生き方そのものがあまりにもきよく思われるため、あなたを見る人はみな、あなたが天使のように見えると思う。だがあなたでさえ、新しく生まれない限り、神の国を見ることはできない[ヨハ3:3]。あなたが天来の変化をこうむらない限り、天国の黄金の門は陰鬱な蝶番のきしみを立てて閉ざされ、あなたを永遠に閉め出すであろう。というのも、その門は何の例外も認めないからである。そして、おゝ、あなたがた、よこしまな者の中でも最もよこしまな人たち。あなたがた、清廉潔白な通り道から最果てまでさまよい出てしまった人たち。「あなたがたは新しく生まれなければならない」[ヨハ3:7]。天来のいのちによって生かされなくてはならない。そして、こう思い起こすことはあなたを慰めることである。すなわち、道徳的な人を目覚めさせることができ、清廉で正直な人を救うことができるのとまさに同じ力は、あなたのうちで働くこともでき、あなたを変えることもでき、獅子を子羊に変え、鴉を鳩に変えることができるのである。

 おゝ、話をお聞きの方々。自分に問いかけてみるがいい。あなたはこの変化をこうむっているだろうか? そして、もしこうむっているとしたら、言葉に尽くすことのできない喜び[Iペテ1:8]に踊るがいい。というのも、「私は神から生まれた」、と云える母の子どもは幸いであり、栄光に満ちているからである。幸いなことよ、その人は。神と聖なる御使いたちは、御霊によって生かされ、神から生まれた人を幸いと呼ぶ。彼には多くの困難があるかもしれないが、彼の一切の災厄を埋め合わせる「測り知れない、重い永遠の栄光」[IIコリ4:17]があるからである。彼には戦争や戦いがふりかかるかもしれない。だが、踏みとどまるがいい。そこには勝利の喇叭があり、征服者たちの月桂冠にまさる花冠があり、永遠の栄光の冠があり、しぼむことのない至福があり、永久に神の御胸に受け入れられることがあり、エホバと不断の交わりを有することがあるからである。しかし、おゝ! もしあなたが今晩新しく生まれていないとしたら、私にできるのはただ、あなたのために震えおののき、私の心を祈りによって神に掲げ上げ、あなたのためにこう祈ることしかない。神が今、その《天来の御霊》によってあなたを生きた者とし、あなたに御霊が必要であることを知らせ、それからあなたをイエスの十字架に導いてくださるように、と。しかし、もしあなたが今晩、自分には《救い主》が必要であると分かっているとしたら、また、もしあなたが今晩、自分は罪の中に死んでいることを自覚しているとしたら、私が福音を伝えるのを聞くがいい。それで話を閉じよう。主イエス・キリストはあなたのために死なれたのである。あなたは自分に咎があることを知っているだろうか? 偽善者のように、それを知っているふりをしているのではなく、自覚的に、身にしみて知っているだろうか? それについて泣いているだろうか? それを嘆き悲しんでいるだろうか? あなたは、自分で自分を救えないと感じているだろうか? あらゆる肉的な救いの方法にうんざりしているだろうか? 今晩こう云えるだろうか? 「神がそのあわれみの御手を差し伸ばしてくださらない限り、私は自分が永遠に失われて当然であり、いま失われていると知っています」、と。ならば、私の仕えている私の神、主は生きておられる。私の《主人》はあなたをその血によって買い取られたのであり、主は血によって買い取られた者たちを、ご自分のものになさるであろう。獅子の牙からも、熊の顎からも彼らを奪取してくださるであろう。主はあなたを救ってくださるであろう。というのも、あなたは主が血によって獲得されたものの一部だからである。主はあなたのもろもろの罪をご自分の頭上に置かれた。あなたは死なない。「あなたの多くの罪は赦されています」*[ルカ7:47]。そして私は、《主人》の喜ばしい布告者として、今晩あなたに、主のみことばもまたあなたに告げていることを告げるものである。すなわち、あなたは信仰の満ち満ちた豊かさによって喜んで良い。というのも、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」からであり、この「ことばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するもの」[Iテモ1:15]だからである。

 願わくは主が今その祝福を増し加えてくださるように。イエスのゆえに。

-

  -----
 

聖霊のみわざ[了]
----
----

HOME | TOP | 目次