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すべてをご覧になる神

NO. 177

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1858年2月14日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「よみと滅びの淵とは主の前にある。人の子らの心はなおさらのこと」。――箴15:11


 あなたはしばしば、木や石の神々の前にひれ伏す異教徒たちの無知を微笑んできた。あなたは聖書の言葉を引用しては、こう云ってきた。「目があっても見えず、耳があっても聞こえない」*[詩115:5-6]。それゆえあなたは、そうしたものは見ることも聞くこともできないのだから全く神ではありえないと論じてきたし、そうしたしろものを崇敬の対象とすることで自らの知性を卑しめることのできる人々を憫笑してきた。ここで私に1つ――ほんの1つだけ――質問させてほしい。あなたの神は見ることも聞くこともおできになる。では、あなたのふるまいは、異教徒が礼拝しているような神々を神としていた場合とくらべて、何らかの点で変わりがあるだろうか? 例えばほんの一時、この国で名目上は崇敬されているはずのエホバが、(例えばの話にしても冒涜に近いが)突如として盲目になり、人の行ないを見ることも、人の思いを知ることもできなくなったとしたしよう。そのとき、あなたは、今のあなたよりも神に関してずっと無頓着になるだろうか? 私はそうは思わない。十人中九人までは、また、ことによると、それよりはるかに大きく、また悲しい割合で、《神の全知》の教理は、たとい受け入れられ、かつ、信じられてはいても、私たちの生き方に全く何の実際的効果も及ぼしていないのである。人類の大半は神を忘れている。神の存在を知り、神が彼らを眺めていると信じている国民のすべてが、まるで何の神も有していないかのような生き方をしている。商人も、農夫も、店にいる人も、野良にいる人も、家庭における夫も、世帯における妻も、まるで神などいないかのような生活をしている。いかなる目も彼らを点検しておらず、いかなる耳も彼らの唇の声を聞いておらず、いかなる永遠の精神も彼らの行為の記憶を常に保管していないかのようである。あゝ! 私たちは実質的には《無神論者》にほかならない。私たちの大多数はそうである。しかり。新しく生まれ、死からいのちに移っていた者たち以外の全員は、いかなる信条を有していようと、結局、生活においては《無神論者》なのである。というのも、たとい何の神もおらず、何の来世もなくとも、人々の大多数は全く何の変化もこうむらないからである。彼らは今しているのと同じように生き続けるであろう。――彼らの生活は、神とその道とをなおざりにすることで満たされており、神がいなくなっても、彼らは大した影響を全く受けることがありえないのである。ならば今朝は、神の御助けがある限り、あなたの心をかき乱させてほしい。そして、願わくは神が、これから私の語る何事かによって、あなたがたの中からその《無神論》を少しでも追い出してくださるように。私は努めてあなたの前に、すべてをご覧になる神を現わそうとし、この途方もない事実をあなたが厳粛に考察するよう迫りたいと思う。すなわち、私たちのすべての行為、私たちのすべての歩み、私たちのすべての思いにおいて、私たちは常に神の注視の下にあるのである。

 本日の聖句では、第一に、1つの偉大な事実が宣言されている。――「よみと滅びの淵とは主の前にある」。第二に、1つの偉大な事実が推論されている。――「人の子らの心はなおさらのこと」。

 I. まず最初に、《ここで宣言されている偉大な事実》から始めたい。――第二文の実際的な結論――「人の子らの心はなおさらのこと」――を導き出す前提を供している事実である。この「よみ」および「滅びの淵」という2つの言葉を最も筋の通ったしかたで解釈すれば、それは次のような意味に理解されると思う。――「死と地獄とは主の前にある」。この世を去った霊たちの分離した状態と、滅び――ヘブル語で云えばアバドン――苦悶の場――とは、どちらも私たちには厳粛な神秘に包まれているが、神にとっては一目瞭然なのである。

 1. 最初に、ここで「よみ」と訳されている言葉は、それと同様に「死」、すなわち、世を去った霊たちの状態とも訳すことができる。さて死は、その厳粛な結果のすべてとともに、主の前では明らかである。私たちと、世を去った霊たちのその後との間には、真黒な密雲が立ちこめている。そこここで聖霊は、いわばその隔ての黒壁にひび割れを設けては、私たちが信仰によって中をのぞき込めるようにしておられる。というのも神は、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの」、また、人間の知性が決して理解できなかったものを、「御霊によって私たちに啓示された」からである[Iコリ2:9-10]。だが私たちが知っていることはほんの僅かでしかない。人々は、死んだとき、私たちの知の領域を越えた所に移る。からだにおいても、魂においても、彼らは私たちの理解を超えた所に行く。しかし、《神》は死のすべての秘密を理解しておられる。それをいくつかの項目に分けて列挙してみよう。

 神は、ご自分の民全員の埋葬場所をご存知である。神は、墓標もなく孤独に葬られた人の終の棲家を、自分の上に広大壮麗な霊廟を建てた人と同じように目にとめておられる。不毛の砂漠に倒れて、そのむくろが禿鷹のえじきとなり、その骨々が太陽で白茶けた旅行者も、――海上の沖合いはるかで難破して、吹きすさぶ風と荒々しい波浪の呟きのほか、いかなる悲歌もその亡骸の上で奏でられることがなかった水夫も、――戦いの中で戦死した無数の名もない人々も、――わびしい森林の中で、凍てつく海の上で、猛烈な雪嵐の中で孤独に死んでいった多くの人々も、――こうしたすべての人々は、また、彼らの墓所は、神には知られている。海のふところにある、あの沈黙せる岩屋、真珠が深く横たわり、今や難破した者が眠っている場所は、神によって、ご自分の贖われた者のひとりの死に場所として印をつけられている。山腹にあるあの場所、旅行者が落ち込んで雪の吹きだまりによって葬られた深い渓谷は、神の記憶において、人類のひとりの墓として印をつけられている。いかなる人のからだも、それがいかに埋葬されたにせよされなかったにせよ、神の知識の埒外に移されたことはない。神の御名はほむべきかな。たとい私が死んで、どこかの教会墓地の一顧もされない片隅で、その部落の粗野な先祖たちの眠る所に横たわることになったとしても、私は栄光に富む私の御父の認める者として知られており、やがてよみがえるであろう。それは、誇らしげなゴシック様式の柱列が林立し、無数の歌が不断に天へと賛美される聖堂に埋葬された場合と全く変わらない。私は、そこに荘厳に物々しく葬られ、音楽と、恐懼に満ちた厳粛さとをもって埋葬された場合と同じように知られているだろうし、大理石の賞杯と高名な支柱が私のために建てられた場合と同じくらい認められているであろう。というのも、神がご自分の子どもたちの埋葬場所を度忘れするようなことはないからである。モーセはどこか人目のつかない場所で眠っている。神は口づけで彼の魂を取り去り、イスラエルが探そうとしても決して見つけられないような所に彼を葬られた。しかし神は、モーセがどこで眠っているかご存知である。それをご存知である以上、ご自分の子どもたち全員がどこに隠されているかを理解しておられる。あなたがたはアダムの墓がどこにあるか私に告げることができない。アベルの眠っている場所を私に指摘することはできない。誰がメトシェラの墓を、また大洪水以前の時代に住んでいた長命の人々の墓を発見できるだろうか? かつては尊ばれていたヨセフのからだが、信仰にあってどこに眠っているか誰に分かるだろうか? あなたがたの中の誰が、諸王の墓を発見し、ダビデとソロモンが孤独な壮大さの中で休んでいる正確な地点を指し示すことができるだろうか? 否。こうした事がらは人間の記憶から消え失せてしまっており、私たちは過去の偉人や権力者がどこに葬られているかを知らない。だが神はご存知である。死とハデスは主の前に開かれているからである。

 さらにまた神は、彼らが葬られた場所を知っているだけでなく、埋葬後の、あるいは死後の彼らのからだすべての歴史をも認識しておられる。しばしば不信心者はこう尋ねる。「いかにして人のからだは、人食い部族に食われたり、野獣にむさぼり食われたりしたとき、回復されるのか?」 私たちは単純にこう答える。神は、みこころであれば、そのあらゆる原子を追跡することがおできになる、と。神がそうすることが復活にとって必要であるとは思わないが、もし神がそれをお望みになるとしたら、神は、これまでに死んだあらゆるからだの、あらゆる原子を引き寄せることがおできになる。それが自然界の最も複雑な仕組みを通り抜け、その過程で種々の動植物と絡み合うことになり、しかり、他の人々のからだと絡み合っているとしても、神はそれでも、あらゆる原子のありかをご自分の知識の範囲内に置いておられる。そして、あらゆる原子をその彷徨から呼び戻し、それをその正当な領域に回復し、それを構成要素とするからだを再び建て上げることは神の《全能》の力にとってたやすいことである。確かに、はるか昔に崩壊したちりの痕跡を辿ることは、私たちにはできないであろう。いかに厳密な配慮とともに葬られ、いかに周到な敬意をもって保存されたとしても、何年も経てばその君主のからだは、長いこと厳重な守護と防護の中で眠った後で、結局は無頓着な手によって扱われることとなった。その棺は突き崩され、値打ち物の金属は割り取られた。一握りのちりが発見された。多くの国々の支配者だった者の最後の遺物である。そのちりは、罰当たりな手で教会の通路に投げ散らされるか、教会墓地にふりまかれ、風で隣の畑に吹き散らされた。それを永遠に保存しておくことは不可能であった。いかなる細心の配慮も打破された。そして最後にはその君主は自分の奴隷と同じ水準になり、「知り合い、知人を 失うに似ぬ」。しかし神は、その一握りのちりのあらゆる粒子がどこに行ったかをご存知である。神は、ご自分の本に、その原子の1つ1つの放浪先の印をつけておられる。神は、ご自分の目の前に死をはっきり開いているため、それらをみな寄せ集め、骨に骨をくっつけ、それを、昔の時代に覆っていたのと同一の肉でまとわせ、それらを再び生かすことがおできになる。死は主の前に開かれている。

 また、からだと同じく魂も、からだから分離したときには主の御前にある。私たちが臨終を迎えている友人の顔つきを眺めていると、突如そのからだを神秘的な変化が通り過ぎる。「亡くなった」、と私たちは云う。しかし、彼の魂がどこにあるか、私たちに少しでも見当がつくだろうか? その魂がどこに飛んでいったか、また、それがこの地上の混乱から逃れるとき、いかに尊厳あるお方の前に通されるか、少しでも推測できるだろうか? 私たちは、からだのない霊が不断に祝福を受け、自分の神を眺めている状態がいかなるものか、憶測することが可能だろうか? からだと魂が再び結び合わされ、神の御座の前で、この上もない至福を享受するときの天国がいかなるものか、それなりに想像を巡らすことは可能である。だが私はこう思う。私たちが自分のからだの中にいる間は、私たちの概念はあまりにも粗悪なものであるため、私たちの誰かがからだを失った状態にある際、その死の時から復活の時までの魂のあり方について少しでも思い描くことは、完全に、とは云わないまでもほとんど不可能であろう、と。

   「これのみ我ら、ただ知れり。
    彼ら堅けく 祝福(めぐみ)を受けぬ。
    罪も、煩労(まどい)も、苦悩(なやみ)も断ちて
    その救主(きみ)ともに 安息(やすみ)を得たり」。

しかし、聖徒たちの中の最上の人々でさえ、これ以上には何も私たちに告げることができない。彼らは祝福されており、パラダイスにいて彼らの主とともに支配している。兄弟たち。こうした事がらが神には知られているのである。死者の分離した状態、からだを持たない霊たちの天国は、《いと高き方》の凝視の範囲内にあり、今この時でさえ、みこころでありさえしたら、神は死んだあらゆる人々の状況を私たちに啓示することがおできになる。――果たしてその人が浄福の野に上り、自分の《主人》の御顔の陽光の中で永遠に住んでいるのか、それとも、鉄鎖で引きずられて地獄に下り、陰鬱な災厄の中で、あのすさまじい裁判の結果を待っているのか。その裁判では、いったん宣言され、部分的にはすでに忍ばれている判決が、「のろわれた者ども。離れて行け」*[マタ25:41]、との言葉によって再び明言されなくてはならないのである。神は、その大いなる裁きの日が来る前の、あらゆる人の分離した運命を理解しておられる。――その最後の判決が宣言される前から、死は主の前に開かれている。

 2. 「滅びの淵」という次の言葉は、地獄を、あるいは、罪に定められた人々の場所を表わしている。それもまた、主の前に開かれている。地獄がどこにあるのか、その悲惨がいかなるものか、私たちは知らない。ただ、「鏡にぼんやり映るものを見て」[Iコリ13:12]いるほか、私たちは、その目に見えない、ぞっとするほど恐しい事がらを決して見たことはない。その恐怖の国は未知の国である。私たちには、神がそれを、生きた定命の者たちの住まいからずっとはるか遠くに置き、その痛みも、呻きも、悲鳴も、叫喚も、ここでは聞こえないようにしておられることについて大いに感謝すべきである。さもなければ、地上そのものが地獄となり、言葉に尽くせない苦悶の厳粛な序幕、また前味となっていたであろう。神はご自分の領土のいや果てのどこかに、火と硫黄の燃える恐ろしい池を設けておられる。その中に神は反逆した御使いたちを投げ込まれた。彼らは、(ある種の許可を得て、今も地上を歩くことを許されているが)その胸の内側に地獄をかかえており、やがては鎖で束縛され、暗黒と暗闇の中に閉じ込められることになるのである。それは、自分の領域を守らず[ユダ6]、その反逆の手を神に向かって振り上げた者らのための場所である。それを私たちはあえてのぞき込むことはしない。ことによると、失われた者の苦悶について正確に知った者は誰もが一瞬のうちに気が狂わずにはすまないかもしれない。理性は、このような恐怖の光景によって惑乱させられるであろう。苦悶する霊たちの金切り声を一瞬でも聞いたら、それは私たちを永遠に絶望の深みへと追いやり、地上に生きている間、ただ鎖につながれるにふさわしいだけの者としてしまうかもしれない。私たちは荒れ狂う狂人になるに違いない。しかし、神があわれみ深くもこうしたすべての事がらを私たちから覆ってくださる一方で、それらはみな神には知られている。神はそれらを眺めておられる。しかり。神が眺めておられるということこそ、地獄を地獄たらしめているのである。神の両眼は瞋恚に満ちて、ご自分の敵どもを切り裂く稲妻を閃かせている。神の唇は凄絶な雷鳴に満ちて、いま悪人たちを恐れさせる雷鳴を轟かせている。おゝ! 彼らが神の目を逃れることができたとしたら、また、あの天の、憤らされた《威光》の御顔の陰鬱な眺めを見えないようにすることができたとしたら、そのときは、地獄も消し止められることがありえたかもしれない。そのときは、かのイクシーオン*1の車も静止することがあったかもしれない。そのときには、絶望に沈んだタンタロス*2もその喉の渇きを癒し、たらふく食べることができたかもしれない。しかし、そこで彼らは、鎖につながれて横たわりながら上を見上げては、常に《いと高き方》の恐るべき眺めを目の当たりにしているのである。かの雷電を握る恐るべき御手、かの雷鳴を語る恐るべき唇、かの彼らの魂を焼く火焔を閃かせる恐るべき両眼、それとともに絶望よりも深い恐怖を。しかり。地獄が、いかにぞっとするほど恐ろしく、幾層もの雲に包まれ、暗闇で覆われているとしても、《いと高き方》の視界の前ではむき出しにされているのである。

 ここには壮大な事実が言明されている。――「よみと滅びの淵とは主の前にある」。この後では、推論は簡単に思われる。――「人の子らの心はなおさらのこと」。

 II. そこで私たちは、《推論されている偉大な事実》に向かいたい。

 手短にこの第二の部分に入ることとして、私はこの主題を次のように論じようと思う。ここには1つの議論が見てとれる。――「人の子らの心はなおさらのことではないだろうか?」<英欽定訳> それゆえ、私はこう問うことによって始めよう。だからといって、なぜ人々の心が神によって見てとられることになるのだろうか? なぜ――いかにして――何を――いつ。これが私たちが今から語ろうとする事がらを区分する4つの問いである。

 1. なぜ、「もしもよみと滅びの淵とが主の前にある」*としたら、人々の心が主によって全く明瞭に見てとられざるをえないのだろうか?

 答えよう。それは、人々の心が死や苦悶の場といった領域ほどには広くないからである。人の心とは何だろうか? 人の自我とは何だろうか? 人は聖書の中ではいなごにたとえられてはいないだろうか? 神はこう宣言しておられないだろうか? 神は、「島々を」――人々の満ちている島々全部を――「細かいちりのように取り上げる」。また、「国々は、手おけの一しずく」である[イザ40:15]。ならば、もしもこのすべてをご覧になる神の目が、死という広大な境域を一目で見渡すとしたら、――そして、これは、それを徹底的に歩き回ろうとするいかなる人をも驚倒させるに足るほどに遠大な境域である。――、もしも、神が一目で死を見渡し、地獄をそのあらゆる底知れぬ深淵と、そのあらゆる悲惨の果てしなさもろともに見通しておられるとしたら、私は云うが、その場合、神は人の心と呼ばれる小さなもののあらゆる行動をことごとく眺めることがおできになるであろう。かりに、ある途方もなく賢い人がいたとして、一国の必要物をことごとく知ることができ、無数の人々の感ずるところを覚えていられるほどの賢者であったとしたら、その人にとって自分の家族の行動を理解したり、自分の家人の情緒を理解することなど困難ではないと思えるであろう。もし人が自分の腕をある広大な領域に差し伸ばし、「私はこのすべてを治める君主だ」、と云うことができるとしたら、確かに彼はそれ以下のものを支配できるであろう。自分の知恵によって何世紀をも歩き通せる人は、ある一年の歴史について無知だなどとは云わないはずである。科学の深みに没入し、天地創造以来の全世界の歴史を理解できる人であれば、自分の軒先で起こる小さな謎に驚かされることはないであろう。しかり。死と地獄を見てとる神は、私たちの心を見てとっておられる。それは、はるかに小さな広がりしかないからである。

 また、さらに思い起こすがいい。人の心ははるかに年若いものでもある。死は年古りた君主であって、堅く揺るがない王朝を保持している唯一の王である。アダムの時代以来、決して彼は他の者によって継承されることがなかったし、決してその統治に空位期間がもたらされたことはなかった。その黒檀の王笏は、世代に次ぐ世代をなぎ払ってきた。彼の大鎌はこの地上の沃野を百度も刈り取ってきた。そして、別の作物が私たちの後を継ぐときも、彼はなおも大群衆をむさぼり尽くそう、地を再び一掃しようと待ち構えている。死の境域は古の領土である。彼の黒い花崗岩の支柱は永遠の丘[創49:26]ほどにも古い。死はアダムが生存を始めるはるか以前から、地上でえじきを食らっていた。その力によって深い淵を白髪のようにし[ヨブ41:32]、その闊歩によって地響きを立てる生き物たち――こうした自然界でも年長の子ら、アダムがエデンを歩くずっと以前から地上で生きていた強大な生物たち――これを死はそのえじきとしていた。力ある狩人のように彼は巨大な爬虫類を突き刺しては打ち倒してきた。そして、いま私たちはそれを石の墓から掘り出しては、感嘆しているのである。彼は私たちの古の君主である。だが、古の者ではあっても、彼の君主政治のすべては神の記録の中にあり、死そのものが死んでしまい、勝利にのまれる[Iコリ15:54]ときまで、死は主の前に開かれている。また、地獄も何と古いものであろう!――最初の罪と同じくらい古い。サタンが御使いたちを誘惑し、天の星の三分の一に道を踏み外させたとき[黙12:4]、そのとき地獄は掘られた。そして、かの底知れぬ所が、最初に復讐という硬い岩から打ち出され、神の御怒りに何ができるかを示す驚嘆すべき記録とされたのである。地獄の火は、昨日やきょう点されたものではない。それはヴェスヴィオ山*3がその毒々しい赤みを帯びた炎を噴き出すよりもはるか昔から燃えていた火焔である。地上の赤い火山からの焦げた灰が最初に大地に落ちた時よりはるかに昔に、地獄の火焔は燃えていた。というのも、「トフェテは古くから備えられており、そこには火とたきぎとが多く積んである。主の息は硫黄の流れのように、それを燃やす」*[イザ30:33]からである。ならば、この古代の物事と、こうした古きものらと、死と地獄とが、神によって見つめられてきたとしたら、また、彼らの全歴史が神に知られているとしたら、いかにいやまして神は、ただの極微動物であり、ひと時しか生きていない蜻蛉であり、私たちが人と呼ぶものの歴史を知っておられることだろうか? あなたは、きょういたかと思うと明日にはおらず、きのう生まれたかと思えば――次の時には墓が用意されており、一瞬後には、「灰は灰へ、ちりはちりへと」、と聞かれることになり、棺の蓋の上に土塊が落ちることになる。私たちは一日で消え失せる被造物であり、何も知らない。私たちは、ここにいないも同然である。単に生きては死んでいくにすぎない。「去(い)った!」こそ、私たちの歴史の最大の部分をなしている。私たちがその物語を終える暇もほとんどないままに歴史はその完結を迎える。ならば確かに神は、ひとりの人の歴史など簡単に理解できるであろう。神が死と地獄という2つの君主制の歴史を知っているからには当然である。

 これが、なぜである。これ以上の議論も、この聖句からいくらでも引き出せるとはいえ、それをあげる必要はあるまい。「人の子らの心はなおさらのこと」。

 2. しかし、今、いかにして神は心をお知りになるのだろうか? つまり、どの程度まで、また、どのくらい神は人々のうちにあるものを理解し、知っておられるのだろうか? 答えよう。聖書は種々の箇所で私たちに最も正確な情報を与えている。神は人の心を徹底して知っておられるため、それを「探る」と云われている。私たちはみな、探るという例えを理解できる。反逆者を自宅に匿っていると思われる者には捜索令状が出る。巡査は階下の部屋に踏み込み、あらゆる押入の扉を開き、あらゆる割れ目をのぞき込み、鍵を取り上げ、地下室に降り、石炭をひっくり返し、薪をかき乱し、誰かがひそんでいないか調べる。二階の部屋にも行く。何年も開いていなかった古い部屋がある。――それが開かれる。巨大な収納箱がある。錠が壊されて、こじあけられる。家の最上部すら捜索される。屋根瓦の上か、平瓦の上に誰かが匿われているといけないからである。とうとう、その捜索が完了したとき、巡査は云う。「ここに誰かがいることはありえない。平瓦から土台まで私はこの家をくまなく探したのだ。私は蜘蛛一匹も見落とさなかった。徹底的に家捜ししたのだから」、と。さて、神が私たちの心をご存知になるしかたも、それと全く同じである。神は心を探られる。――隅から隅まで、くまなく、いかなる隙間も隠れ場も、もれなく探られる。そして、この主の例えはさらに進められる。「主のともしびは」、と記されている。「腹の底まで探り出す」*[箴20:27]。何かを見つけたいときに、私たちはともしびを持って来ては、細心の注意を払って下をのぞき込み、埃を払いのけてみる。もし捜しているのが、小さな貨幣だったとしたら、私たちはともしびを点けては家中を掃いて、それを見つけ出すまで丹念に探し続ける。神も全くそれと同じである。神は、ともしびをかざして、エルサレムを捜し[ゼパ1:12]、すべてを明るみに出される。決して不徹底な捜索ではない。自分の偶像を探しにラケルの天幕に入ったラバンの捜索のようなものではない。彼女はそれをらくだの鞍の下に入れ、その上に座っていた[創31:34]。だが、神はらくだの鞍をもいかなるものをも見通される。「人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。――主の御告げ」[エレ23:24]。神の御目は心を探り、そのあらゆる部分をのぞき込まれる。

 別の箇所で、神は思いを試すと語られている[エレ11:20]。これは、探ること以上である。金細工師は黄金を手に取ると、それを眺めては、慎重に検査する。「あゝ!」、と彼は云う。「だが、私はこの金の中身が分かっていない。これを試さなくてはならない」。彼はそれを炉に投げ込み、それに石炭を山と積み上げる。すると、それは溶融し、溶けてしまい、そこに金滓がどれだけあったか、金がどれだけあったかが分かるのである。さて、神は、私たちの内側に純金がどれだけあるか、金滓がどれだけあるかを、一金位に至るまで知っておられる。神を欺くことは不可能である。神は私たちの心をご自分の《全能》という炉に入れておられる。その炉――神の知識――は、金細工師の坩堝が金を真に試すように徹底的に私たちを試す。――そこにどれだけ偽善があり、どれだけ真実があるか――どれだけまがい物があり、どれだけ本物があるか――どれだけ無知があり、どれだけ知識があるか――どれだけ敬虔さがあり、どれだけ冒涜があるか――どれだけ注意深さがあり、どれだけ無頓着さがあるかを試す。神は心の各成分を知っておられる。魂を個々の元素に還元なさる。それをちりぢりに断ち割られる。――石英はこれだけ、金はこれだけ、くずは、金滓は、木は、草は、わらは、金は、銀は、宝石はこれだけ、と[Iコリ3:12]。「主は心を試し、思いを探られます」*[箴17:3; 黙2:23]。

 さらに、心をお知りになる神について、このように述べられている。聖なる文書のある箇所で――(これは、家に帰ってから子どもたちに調べさせてみると良いであろう)――神は心を評価すると云われている[箴24:12]。さて、あなたも知るように評価する(ponder)というラテン語は、はかりにかけるという意味である。主は心を秤にかけられる。古の大家クォールズは、1つの例えを云い表わしているが、そこでは、大いなる者が心を秤の一方の皿に置き、もう一方には律法を――聖書を――置いて、心を量ろうとしている。これこそ人の心に対して神が行なわれることである。人の心はしばしば、ぱんぱんに膨れ上がっており、人々は、「あれは、何と大きな心の人だろう!」、と云う。しかし、神は人の大きな心を見かけでは判断せず、善良な心をその外見で判断することもなさらない。むしろ、それを秤にかけて、その目方をお調べになる。――果たして私たちの心に恵みがあって、それが心をずっしりと重くしているか、それともただの霊気しか詰まっておらず、秤に載せるとふわふわ軽いものでしかないかをお調べになる。神は、可能な限りのあらゆるしかたで心を探り、それを火に投じ、その後でそれを天秤におかけになる。おゝ、神はあなたがたの中の多くの人々についてこう云われるではないだろうか? 「わたしはあなたの心を探ったが、それが空っぽであることを見いだした」。あなたは廃物の銀と呼ばれる。というのも、神があなたを炉に入れた後で、あなたを退けたからである[エレ6:30]。それから神はご自分の宣告のしめくくりとして、こう仰せになる。「メネ、メネ、テケル。――あなたははかりで量られて、目方の足りないことがわかった」[ダニ5:25-27]。では、これがいかにして?という問いへの答えである。

 3. 次の問いは、何を?である。神は人の心の中に何をご覧になるだろうか? 神は人の心の中に、私たちが考える以上に膨大なものをご覧になる。神は今、そして、これまでにも、私たちの心の中に、情欲、冒涜、殺人、姦淫、悪意、憤り、そしてあらゆる愛のなさをご覧になっておられる。心は、いかにどす黒く描いても黒すぎることにはならない。悪魔そのひとよりもどす黒い絵の具で塗りたくらない限り無理である。あなたは一度も人殺しをしたことはないが、心の中では人を殺してきた。一度も自分の手を情欲で汚したり、不潔な散水を受けたことはないかもしれないが、それでも心の中ではそうなってきた。あなたは一度も悪い想像をしたことがないだろうか? これまでにあなたの魂は、一瞬たりとも、快楽を渇仰したことはないだろうか? それは、貞潔なあなたがふけることのありえないような快楽だが、ほんの一瞬でも、あなたはそれを眺めて、ごくかすかな満足や楽しみすらいだいたことはないだろうか? 想像力は、自分の独房にいる孤独な修道僧に対してすら、公の生活を送る人々がこれまでに夢見たことのあるいかなる悪徳よりもはなはだしい悪徳を、しばしば描き出してきたではないだろうか? そして、自分の私室にいる神学者もまた、自分では神にささげられていると願っている心にさえ、この上もなく邪悪な種別の冒涜や、殺人や、情欲がたやすくとりつくことに気づくことがあるではないだろうか? おゝ! 愛する方々。これは、いかなる人間も正視に耐えない光景である。自分自身の精密な吟味の前に真にさらけだされた心の有様は、私たちを驚愕させ、ほとんど狂気に追いやりかねないであろう。だが神は心を、その獣的な官能性のすべてにおいて、その彷徨と反逆のすべてにおいて、その高ぶりと高慢のすべてにおいてご覧になっている。神はそれを探り、完全に知っておられる。

 神は心のあらゆる想像を見てとる。そして、それらがいかなるものか、私たちはあえて告げるまい。おゝ、神の子どもたち。それらはあなたを幾度となく泣き叫ばせ、呻かせてきた。そして、この世の子らはそれらのことで呻くことはなくとも、それでもそれらを有している。おゝ、心とは、何と冥府のごとき種々の想像の不潔な豚小屋であろう。それがいったん踊り出し、謝肉祭を繰り広げ、罪に関して乱痴気騒ぎを始め出すや否や、胸の悪くなるような忌まわしいもので一杯になってしまう。しかし、神はそうした心の種々の想像をご覧になっている。

 また、神は心の悪巧みをもご覧になっている。おゝ、罪人よ。ことによると、あなたは神を呪おうと決意してきたかもしれない。あなたは、まだそうしてはいないが、そうするつもりでいる。だが、神はあなたの悪巧みを知っておられる。――それをことごとく読みとっておられる。ことによると、あなたは、自分が行こうと意図している奔放さの限りまでひた走ることを許されないかもしれない。だが、あなたの意図そのものは今《いと高き方》の吟味を受けているのである。心の火で鍛造された計画のうち、1つたりとも、それが決意という鉄床で打ち延ばされる前から、私たちの神エホバによって知られていないもの、見られていないもの、御心にとめられていないものはない。

 次に神は心の決意をご存知である。おゝ、罪人よ。神はいかに何度となくあなたが悔い改めようと決意したか、また、再決意したか、また、それから同じことをしてきたかをご存知である。おゝ、あなたがた、病を得てきた人たち。神は、いかにあなたが神を求める決意をしながら、健康が戻って肉体的な危機を脱すると、自分自身の決心を軽蔑したかをご存知である。あなたの数々の決意は天で綴じ込まれており、あなたの破られた約束の数々、また、あなたの蔑まれた誓いの数々は、順々にあなたを罪に定めるべく、すみやかな証人として持ち出されることになる。こうした事がらはみな神に知られている。私たちはしばしば、神がいかに人の心の中にあるものを知っておられるかという明確な証拠を得てきた。伝道活動の最中においてさえそうである。何箇月か前に、ここに立って説教していた時、私は群衆の真中に立っていたひとりの人を故意に指差して、こういうことを云った。――「そこに座っているひとりの人は靴屋である。自分の店を日曜日にも開いている。彼は先週の安息日の朝にも店を開き、九ペンスの靴を売っては、そこから四ペンスの儲けをあげた。彼の魂は四ペンスでサタンに売り渡されているのである」。さて、ある《市内伝道者》が、この町の西端部を巡回していたとき、ひとりの貧しい男に出会い、こう質問した。――「スポルジョン氏のことをご存知ですか?」 彼は男が一編の説教を読んでいるのに気づいたのである。「ええ」、と男は云った。「当然あの人のことは知ってますとも。あっしは、あの人の話を聞きに行って、神様の恵みを受けて、新しい人になったんすから。ですが」、と男は云った。「それがどんな具合だったかお話ししましょうか? あっしは、あの《音楽堂》に行き、真中あたりに席を取りました。するとあの人は、まるであっしのことを前から知ってるみたいにあっしを見つめて、わざわざその場の皆に云ったんですよ。この人は靴屋で、先日の日曜日に靴を一足売ったのだ、って。そして、先生、ほんとにあっしはそうしたですよ。でも、先生。それだけなら何ともなかったでしょう。ですが、あの人は、あっしがその日曜に九ペンスを受け取って、四ペンスの儲けを出したって云ったんですよ。そして、その通りにあっしは九ペンス受け取って、その儲けは四ペンスかっきりだったんす。一体どうやってあの人がそれを知ったのか見当もつきません。あっしは思いました。神様があの人を通してあっしの魂に語りかけておられるんだって。それで、あっしは先週の日曜には店を閉めました。それを開けてから、出かけるのが怖かったんすよ。あの人がまたあっしを二つ割りにするといけないと思って」。私は、この《公会堂》で起こった、嘘偽りない話を十いくつでも告げることができる。私が故意に誰かを指差す。その人についてはこれっぽっちも知ってはおらず、自分の云ったことが正しいなどという考えはひとかけらもなく、ただ御霊に動かされてそうしたと信ずるだけである。にもかかわらず、その描写は途方もなく驚くべきもので、その人々がここを出るとこう云ってきたのである。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです[ヨハ4:29]。あの人は神から私の魂に遣わされたに違いありません。さもなければ、私の内実をあれほどはっきり云い表わすことはできなかったはずです」。

 そして、それだけではなく、私たちの知っているいくつかの場合には、人々の想念が講壇から明らかにされてきたのである。私たちは時々、人々がその肘をつつき合うのを見ることがある。自分のことを明らかに云い当てられたからである。そして私は、彼らがこの場を出て行きしなに、こう云うのを聞いてきた。「あれは、ぼくが扉から入るときに、君に云ったことだろう?」 「あゝ!」、と別の人は云う。「私は、あの人が云った、まさにそのことを考えていたのだ。そして、そのことについてあの人は私に告げたのだ」。さて、もし神がこのようにご自分のあわれで無知なしもべを助けて、そのしもべが知りもしない思いや行ないを述べさせることによって、ご自分の《全知》を証明しておられる以上、神が、隠されている一切のことをご存知であることは決定的に証明されたに違いない。なぜなら、私たちの見るところ、神はそれを人々にお告げになり、彼らがそれを他の人々に告げることができるようにしておられるからである。おゝ、あなたがたが、いかに必死に自分の過ちを神から隠そうとしても、疑いもなく神はあなたを発見なさる。神は、きょうあなたを発見しておられる。神のみことばは、「心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができ」、「たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通」す[ヘブ4:12]。そして、最後の審判の日に、あの本が開かれ、神があらゆる人にその宣告を云い渡されるときには、神がお造りになったあらゆる人の心について、神がいかに正確で、いかに注意深く、いかに尊く、いかに個人的な知識を有しておられたかが分かるはずである。

 4. さて、最後の問いは、いつ?である。いつ神は私たちをご覧になるのだろうか? 答えよう。神は私たちをどこででも、いかなる場所においてもご覧になっている。おゝ、愚かな人よ。《いと高き方》から隠れることができると思っている人たち! 今は夜で、いかなる人の目もあなたを見ておらず、帷は引かれ、あなたは隠されている。だが、その闇を通して主はあなたを睨んでおられる。ここは遠い国である。誰もあなたのことを知らない。両親や友人たちは後に残してきたし、あなたを縛るものは何もない。だが、ひとりの御父があなたのそばにおられ、今しもあなたを眺めておられる。これは孤独な場所であり、もしその行為がなされても、いかなる舌がそれを告げることもない。だが、天にはそれを告げる1つの舌がある。しかり。壁の梁が、また、野の石があなたに対する証人として立ち上がる。あなたは、神から突きとめられないような場所に身を隠すことができるだろうか? この全世界は硝子でできた蜜蜂の巣箱のようではないだろうか? そして、神は立って、私たちが自分は隠れていると思っているときに行なうあらゆる動きをご覧になっているではないだろうか? あゝ、それは、素通しの隠れ家でしかない。神は天から眺め、石の壁や岩山を通してご覧になる。しかり。私たちの心の奥底すら神の御目は刺し通し、この世で最も分厚い暗黒の中にあってさえ、神は私たちの行為を見ておられる。

 さて、ではこの件について個人的な適用をさせてほしい。それでしめくくることにしよう。もしこのことが本当だとしたら、偽善者よ。あなたは何という愚か者であろう! もし神が心を読めるとしたら、おゝ、人よ。あなたのかしこまった取り繕いは何と情けない、情けないものであろう! あゝ! あゝ! あゝ! あなたがたの中のある人々には、何という変化が訪れることであろう! この世は仮面舞踏会であり、あなたがたは――あなたがたの多くは――キリスト教信仰の仮面をつけている。あなたは、目もくらむような時を踊って過ごし、人々はあなたが神の聖徒だと考える。だが、永遠の扉の前で、あなたはいかに変わらざるをえないことか。そこでは、覆面を外さざるをえず、あなたは、今の猿芝居をやめなくてはならない! いかにあなたは赤面することであろう。そのとき、あなたの頬からは化粧が洗い落とされる。――あなたは神の前に裸で立ち、恥ずかしくも、汚れ果て、病んだ偽善者の姿をさらす。かつては、キリスト教信仰の体裁を整えた、絢爛な仮装をしていたが、今はそこに見下げ果てた、卑しむべき、厭わしい者として立っている! 多くの人々は、見るも胸が悪くなるような癌をかかえている。おゝ! その癌にむしばまれた心がむき出しにされるとき、偽善者たちはどのように見えることか! 執事よ! あなたの老いた心が引き裂かれて中身をあばかれ、あなたのよこしまな見せかけが破り去られるとき、いかにあなたは震えることか! 教役者よ! あなたの白法服が取り去られ、あなたの尊大な仰々しさが犬にくれてやられるとき、いかにあなたはどす黒く見えることか! いかにあなたは震えることか! そのときには、他人にくどくど説教することなどない! あなた自身が説教を食らい、その主題聖句はこの言葉であろう。「のろわれた者ども。離れて行け」*[マタ25:41]。おゝ、兄弟たち。いかなるものにもまして偽善を避けるがいい。もし罪に定められたければ、そうする決意を固めて、正直な人間らしく罪に定められるがいい。だが、私は切に願う。決して天国に行くふりをしながら、その間ずっと地獄に向かっているというようなことをしないでほしい。もしあなたが永遠に苦悶の中に居を構えるつもりだとしたら、悪魔に仕えるがいい。それを恥じてはならない。最後までそう踏みとどまり、世間にあなたが何者であるか知らせてやるがいい。しかし、おゝ! 決してキリスト教信仰の隠れ蓑をかぶってはならない。私は切に願う。羊の皮を着た狼となることで、あなたの悲惨の度を増してはならない。悪魔の蹄を露にするがいい。隠してはならない。地獄に行きたければ、そう云うがいい。「もし神が神であれば、それに仕えよ。もしバアルが神であれば、それに仕えよ」*[I列18:21]。バアルに仕えながら、神に仕えているふりをしてはならない。

 もう1つ実際的な結論がある。もし神が一切のことを見ており、知っているとしたら、これはいかにあなたを震えおののかせるべきだろうか。――あなたがた、何年もの間、罪の中で生きてきた人たち! 私の知っているある人は、かつて、一匹の猫が部屋にいたという事実によって、ある罪の行為を止められたことがある。彼は、そのあわれな生き物の目が彼を見ることにさえ耐えられなかった。おゝ、あなたがたが、常にあなたを注視しているあの御目の記憶をかかえながら生活できるとしたらどんなに良いことか。悪態をつく者よ! あなたは、自分を眺めている神の御目が見えたとしたら、悪態をつけただろうか! 盗人よ! 酔いどれよ! 遊女よ! あなたがたは、もしあなたに注がれる神の御目を見たとしたら、自分の罪にふけることができただろうか? おゝ、その目はあなたを驚かせ、あなたに止まれと命じ、神の御目の前であなたが神の律法に反逆するのを許さなかったであろう。米独立戦争について、こんな話がある。米国人の捕虜となった者たちのひとりが、この上もなく洗練された性格の拷問を受けた。彼は云う。「私は狭い地下牢に入れられた。私に必要なものはみな快適に供された。だが、壁に1つ丸い穴が開いていて、そこからひとりの兵士が絶えず私を眺めていたのである」。彼は云う。「私は安らぐことができなかった。食べることも、飲むことも、何をすることも気楽にはできなかった。なぜなら、そこには常にあの目があったからである。――決してそらされることも、決して閉ざされることもない目――常にその小さな一室の中の私について回る目。それから隠れるものは何もないのだ」。さて、この例えを心に突き入れるがいい。それがあなたの立場であることを思い起こすがいい。あなたは、時間という狭い壁の中に閉じ込められている。あなたがたが食べる時も、飲む時も、起きる時も、寝床に横たわる時も、通りを歩く時も、家で椅子に座るときも、その目は常にあなたに据えられている。いま家に帰って、できるものなら神に逆らう罪を犯してみるがいい。いま家に帰って、神の面前でその律法を破り、神を蔑み、神を無視してみるがいい! あなた自身の滅びへと突進するがいい。エホバの円盾に向かって自らを打ちつけ、エホバご自身の剣で自分を滅ぼすがいい! 否。むしろ、「悔い改めよ。立ち返れ」*[エゼ33:11]。悔い改めるがいい。あなたがた、罪の道を進んできた人たち。キリストに立ち返って、生きるがいい。そうすれば、今はあなたの恐怖となっている同じ《全知》があなたの喜びとなるであろう。罪人よ! もしあなたがいま祈るならば、神はあなたをご覧になる。もしあなたがいま泣くならば、神はあなたをご覧になる。「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」[ルカ15:20]。あなたもそれと同じようになる。もし今あなたが神に立ち返り、その御子イエス・キリストを信じさえするならば、そうなるのである。

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(訳注)

*1 ゼウスの怒りに触れて、永遠に回り続ける火焔車に縛りつけられた。[本文に戻る]

*2 ゼウスの子で、神々の秘密を漏らしたため、顎まで地獄の水につけられていながら、飲もうとすると水は退き、果実を取ろうとすると枝が退く飢渇に苦しめられた。[本文に戻る]

*3 イタリア南部ナポリ湾頭の活火山。[本文に戻る]

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すべてをご覧になる神[了]

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