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放蕩息子の帰還

NO. 176

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1858年2月7日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」。――ルカ15:20


 教育に携わるあらゆる人が告げるところ、精神にその誤りを捨てさせるのは、真理を受け入れさせるよりも、はるかに困難であるという。かりにある人が、いかなることについても完全に無知であったとしたら、その人をすみやかに、また効果的に教導する見込みは、その人の精神がそれ以前に偽りをため込んでいた場合よりも、相当に高いであろう。疑いもなく人は誰しも、物事を忘れることの方が、覚えるよりも難しいものである。古い偏見や先入見を捨て去ることには、非常な苦闘が伴う。いみじくも云われる通りに、「私は間違っていた」、というほんの数語ほど発音しにくい言葉は英語の中に一言もなく、実際、よほど大きな力に強制されない限り私たちがそれを発音することはないに違いない。そして、そのようにした後でさえ、古い蛇のような誤りが心に残した粘液を払拭することは困難である。間違った事がらを知るよりは、何も知らないままでいる方が良い。さて、私の確信するところ、この真理が何にもまして当てはまるのは、事が神に関する場合である。もし私が、聖書だけを基として、自由に自分の神観を形作って良かったとしたら、神の聖霊の支えがある場合、神がいかなるお方であるか、また、いかにして世界を支配しておられるかを理解するのは、はるかに容易であったろうという気がする。他の人々の種々の意見によって精神が歪められてしまった後では、神ご自身のみことばの真理を学ぶことさえ、きわめて困難になるのである。何と、兄弟たち。一体誰が神を正しく表現しているだろうか? アルミニウス主義者は、神が不公平だと非難する(そうする意図はなくとも、実質的にそうする)ことによって、神を中傷している。というのも、彼らの教えによると、神は一度約束したことを決して実行しないことがありえるからである。すなわち神は、永遠のいのちを与えると約束し、それを持つ者は決して滅びないと云っておきながら、結局そうした者らが滅びてしまうことはありえるというのである。アルミニウス主義者は神のことを、まるで移り変わりのある存在ででもあるかのように語る。神がある日には人々を愛し、次の日には彼らを憎むと云い、ある時には彼らの名を《いのちの書》に記すが、次の瞬間には彼らの名を抹消すると云うからである。そして、そのような誤りの影響は非常に有害である。幼い頃にこうした誤りを吸収してしまった多くの神の子どもたちは、そのあわれな、また、傷だらけのからだを引きずっては長い間のろのろと歩いていかなくてはならない。初めから真理を知っていたとしたら、喜びにあふれて天国へと歩んでいたであろうに。それとは逆に、カルヴァン主義的な説教者の話を聞いている人々は、非常にしばしば神について誤解しがちである。確かに私たちは、聖なる聖書で表わされている通りの意味でしか決して神について語るつもりはないが、それでも、私たちが重々承知しているように、私たちの話を聞く人々の多くは、私たちがいかに念には念を入れて語った主張によってさえも、神の真の姿よりは、神の戯画を受け取りがちなのである。彼らの想像する神は、峻厳な存在で、怒った、荒々しい、また、ごくたやすく激怒させられるが、容易には愛するように仕向けられない。彼らが考えがちな神は、至高の高遠な状態で座しており、ご自分の被造物の願いになど完全に無関心であるか、あるいは、気まぐれな《主権者》のように、彼らに対して自分勝手なことを行なおうと決意していて、彼らの望みに耳を傾けることも、彼らの災いに同情することもしない。おゝ、私たちがこうした誤った考えのすべてを捨て去り、あるがままの神を信じることができたとしたらどんなに良いことか! おゝ、私たちが聖書のもとに来て、そこでこの、神の神聖なかたちを映し出している鏡をのぞき込み、ありのままの神を受け入れることができたとしたらどんなに良いことか。《知恵》に富み、《正義》に富み、《恵み深さ》に富み、《愛》に富むエホバとして! 私は今朝、神の聖霊の御助けにより、努めてキリストの麗しいご人格を表現しようと思う。そして、もしここで話をお聞きの方々の中に、このたとえ話の中の放蕩息子の立場にある人がいるとしたら、――キリストのもとに向かいつつも、まだ遠く離れている人がいるとしたら、――私はこう堅く信ずる。きっとその人たちは、《同じ天来の御霊》の導きによって、エホバの慈愛を信じることになり、そのようにして、いま神との平和を見いだして、この祈りの家を離れることになるであろう、と。

 「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」。第一に私が注意したいのは、この、「家までは遠かった」という言葉で意図されていた立場である。第二に注意したいのは、こうした状況にある人々の思いをかき乱すいくつかの独特の悩みである。そして第三に私が努めて教えたいと思うのは、私たちの崇敬すべき神の大きな慈愛である。すなわち、神は、私たちが「まだ家までは遠」く離れているときにも、私たちのもとに走り寄り、その愛の御腕で抱いてくださるのである。

 I. まず第一に、「まだ家までは遠かった」という言葉で意味されていた《立場》とは何だろうか? ここで少し、何がこの立場ではないかということに注目しなくてはならない。これは、無頓着で、全く神のことなど顧みていない人の立場ではない。というのも、見れば分かるように、この放蕩息子は今や我に返って、父親の家へと戻りつつあったからである。確かに罪人たちはみな神から遠く離れており、彼らがそれを知っていようがいまいがその点に変わりはないが、この場合、このあわれな放蕩息子の立場で意味させられているのは、罪の確信によって目覚めさせられた人、自分の以前の生き方を忌み嫌うように導かれている人、そして、神のもとに立ち返りたいと真摯に願っている人の人格である。ならば、私は今朝、冒涜する者や、神を汚す者に対しては語りかけまい。そうした人にも、たまさかの警告が聞かれるかもしれないが、私はそうした人格に対して特に語りかけはしない。これは、それとは別の人向けの聖句である。その人は、そう云ってよければ、以前は神を冒涜する者であった。酔いどれで、神に悪態をつく者その他だったかもしれない。だが、今やこうした事がらとは手を切り、永遠のいのちを手に入れるために堅くキリストを求めている。それこそ、ここで、主のもとに向かいながらも、「まだ家までは遠かった」、と云われている人なのである。

 さらにまた、この描写によっては意図されていない人がもうひとりいる。すなわち、この、まさに立派な人、自分を傑出した義人だと考えているパリサイ人、自分の罪を告白することなど一度も学んだことがない人である。方々。あなたは、あなたの理解によると、家まで遠く離れてはいない。だが、その実あなたは、神の御前においては遠く離れており、光が闇から離れているように、また、東が西から離れているように、神からはるかに遠く離れている。あなたはこの放蕩息子と同じである。ただあなたは、自分の人生を正しく送る代わりに、御父のもとから家出し、御父から与えられた黄金を地面の中に隠し、豚の食べるいなご豆を平然と食べているだけなのである。そのようにしながら、あなたは、良い行ないというみじめな節約によって、地上でも、永遠においても、自分を支えるべき富を貯められるものと希望している。あなたの自己救済の希望は誤りである。そしてあなたは、この聖句の言葉によって語りかけられてはいない。自分が失われていると知ってはいるが、救われたいと願っている人こそ、ここで神から出迎えられ、愛情のこもった抱擁を受けたと宣言されている人なのである。

 さて今、私たちはこの疑問に至る。この人とは誰だろうか? また、なぜ彼は家から遠く離れていたと云われているのだろうか? というのも、彼は、自分の必要を知り、《救い主》を求めている以上、御国に非常に近づいているように思われるからである。答えよう。第一のこととして彼は、自分自身の理解において遠く離れていた。あなたは今朝この場にいる。そして、自分ほど神から遠く離れている人間はいた試しがないと思っている。あなたは自分の過去の人生を振り返り、いかに自分が神を軽んじてきたか、その安息日を軽蔑してきたか、その《本》をないがしろにしてきたか、注ぎかけの血[ヘブ12:24]を踏みつけにしてきたか、また、そのあわれみによる招きをすべてはねつけてきたかを思い起こしている。あなたが自分の生涯の頁をめくれば、あなたが犯した数々の罪を思い出す。――あなたの若い頃のもろもろの罪や、かつてのそむきの罪、成人してからの数々の罪悪、また、年を重ねた後で犯した熟し切った罪を思い出す。どす黒い波濤が暗黒の岸辺に打ちつけるように、それらは打ち重なる波をなして、あなたのあわれな悩める記憶に押し寄せてくる。そこには、あなたの幼稚な愚かさの小波がやって来る。それに重なって飛び上がるのは、あなたの若い頃のそむきの罪の1つであり、さらにその上にのしかかるようにやって来るのが、まさに大西洋のごとき、あなたの成人してからの数々のそむきの罪の波浪である。それらを見てあなたは驚愕し、驚倒して立ちつくしている。「おゝ、主なる私の神よ。私をあなたから隔てる深淵は何と深いことでしょう。ここに橋を架ける力などどこにありましょう? 私はあなたから罪によって何十哩も離れています。私の咎の山という山が私とあなたとの間に積み重なっています。おゝ、神よ。あなたがいま私を滅ぼすとしても、あなたは正しくあられるでしょう。また、もしあなたが私をあなたのもとに連れて行くことがあるとしたら、そうできるような力は、世界を造ったのと同じ《全能》の力以下の何物でもないに違いありません。おゝ! いかに私は神からはるか遠くにいることでしょう!」 あなたがたの中のある人々は今朝、あなたの隣人が自分の感じていることをあなたに打ち明けたとしたら唖然とするであろう。もし向こう側の人混みの中に立っている人が、この講壇に立ち、いま自分の感じていることを洗いざらい口にするとしたら、あなたは彼が自らの心について行なう描写に怖気を振るうかもしれない。あなたがたの中のいかに多くの人々が、律法による罪の確信の下にある魂がどれほど切り裂かれ、切り刻まれるかを全く何も知らないことか! もしその人がどう感じているか口にするのを聞いたとしたら、あなたは云うであろう。「あゝ! あれはあわれな、迷妄の下にある熱狂主義者だ。人間はそこまで悪くはないもの」。さもなければ、あなたは、その人が何か名状しがたい犯罪を犯したのであり、口にすることはできなくとも、それが彼の良心をむしばんでいるのだと、ともすれば考えるであろう。否。方々。彼はこれまで、あなたと同じくらい道徳的で、廉直な人だったのである。だが、彼がいま見いだしている自分の姿を描写するとしたら、あなたは全くぎょっとするであろう。だがしかし、あなたも同じなのである。自分ではそう感じていなくとも、また、憤激してそれを否定するとしても関係ない。神の恵みの光があなたの心に射し込むとき、それは長いこと閉め切っていた古い蔵の窓を開けるようなものである。何箇月も開けられなかった、その蔵の下には、ありとあらゆる忌まわしい生き物がいて、暗闇のために青ざめた、生気のない植物が生え出している。壁は暗く、爬虫類の通った後がぬらぬらしている。それは、ぞっとするほど恐ろしい場所であり、誰も進んで入ろうとはしないであろう。あなたは、暗闇の中なら安心しきってそこに歩み入り、時たま何かぬるりとした生き物に触れる以外には、その場所がそれほど不快で汚れた所だとは信じようとしないであろう。だがその鎧戸を開けて、窓硝子をきれいにし、少しでも光を射し込ませてみれば、いかに一千もの有害なものがこの場所をその住みかとしていたかが分かる。確かに、光がこの場所をこれほどぞっとする所にしたのではないが、光こそは、そこが前にはどれほどぞっとする所であったかを示したものであった。そのように、神の恵みが1つ窓を開いて、光を人の魂に射し込ませるだけで、その人は、自分が神からいかに隔たっているかを見て驚愕するのである。しかり。方々。きょうのあなたは、自分が《永遠者》以外の誰にも劣らないと考えている。自信たっぷりの足どりで、その御座に近づけるものと思い込んでいる。救われるためにしなくてはならないことは、ほんの少ししかない。そんなことはいつでもできるし、今であれ、臨終の床についた時であれ、自分を救えると想像している。あゝ! 方々。もしあなたがイスーリエル*1の杖によって触れられたならば、また、あなたの真実そのままの姿にされたとしたら、そのときあなたは見てとるであろう。あなたが今でさえ神から十分に遠く離れており、その懸隔のあまり、神の恵みの御腕が差し伸ばされて、あなたをご自身に引き寄せない限り、自分の罪の中で滅びるしかない者であるということが。さて、私は再び希望をもって自分の目を向ける。そして、この膨大な集会の中にいる少なからぬ数の人々がこう云えるものと思う。「先生。私は自分が神から遠く離れていると感じてます。そして、時々、自分など神から何のあわれみもかけてもらえないほど遠く離れているのではないかと恐ろしくなります。私は目を天に向けることもできません。自分の胸を叩いてこう云うだけです。『主よ。こんな罪人の私をあわれんでください』*[ルカ18:13]、と」。おゝ! あわれな心よ。ここに、あなたを慰める箇所がある。「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」。

 しかしまた、この場にいる一部の人々が、自分のことを神から遠く離れていると感ずる二番目の意味がある。良心があらゆる人に告げるところ、人は救われたければ自分の罪を取り除かなくてはならない。無律法主義者であれば、人間は罪の中に生きていても救われることができると信ずるふりをするかもしれないが、良心はいかなる人にも決してこれほど言語同断な嘘を呑み込むことを許しはしないであろう。この会衆の中にいる人は、ただひとりの例外もなく完璧にこう確信しているはずである。もしも自分が救われることがあるとしたら、自分は自分の酩酊や種々の悪徳をやめなくてはならない、と。確かに、この場の誰ひとりとして決して、地獄的な無関心という阿片剤によってこう想像するほど麻痺させられてはいないに違いない。すなわち、自分は自分の種々の情欲にふけっていても、後でパラダイスに行き、贖われた者たちの白い衣を着ることができるのだ、と。もしあなたがたが、キリストの血にあずかる者となりながら、それでもベリアルの杯を飲めるなどと想像しているとしたら、――もしあなたがたが、サタンの肢体であると同時にキリストの肢体であることができると想像しているとしたら、――あなたがたは、人があなたに認めるほどの分別も持ち合わせていないのである。否。あなたは知っているはずである。右の腕を断ち落とし、右の目をえぐり出すこと――最も愛しい罪すらすっぱりやめることをしなければ、自分が神の国に入ることはありえない、と。そして、この場にいるある人は、自分の人生の不浄さについて確信している。彼は自分を改善しようと努めてきた。自己改善で救われると考えているからではない。それほど馬鹿ではない。むしろ、それが恵みの最初の実の1つであると知っているからである。――罪からの改善である。よろしい。あわれな人よ。彼は何年もの間、常習的な酔いどれだった。そして今、その情動を克服しようと葛藤している。彼はほとんどそれを達成しようとしている。だが、以前の彼には、そのようなヘラクレス的な苦闘を試みようとすることなど全くなかった。というのも、今や彼のもとに来るいくつかの誘惑は途方もなく強大で、それに抵抗するだけで彼の全力がふりしぼられ、ことによると、彼が最初の罪を確信させられた後でも、その誘惑に陥ったことが時たまはあるかもしれない。あるいは、それは別の悪徳かもしれない。そして、私の兄弟よ。あなたは、それに断固として反抗してきた。だが、数多くの縄目や枷が私たちを自分の種々の悪徳に縛りつけており、あなたは、罪の縦糸と横糸を紡ぎ合わせるのは実に簡単だったのに、自分が紡ぎ出したものをほぐすのはそれほど簡単でないことに気づいている。あなたは自分の家から自分の種々の偶像を一掃することができない。自分の貪欲な快楽のすべてをいかにすれば捨て去ることができるのかがまだ分からない。不敬虔な人々とのつきあいをまだやめてはいない。ひとり、また、ひとりと、あなたの最も親密な知人を切り離してきてはいるが、それを完全に行なうことは非常に困難であり、それを成し遂げることに難渋している。そして、しばしばあなたは膝まずいて、こう叫んでいる。「おゝ、主よ。いかに私はあなたから遠く離れていることでしょう! いかに高い階段を私は上らなくてはならないことでしょう! いかにすれば私は救われることができるでしょうか? 確かに、もし自分から自分の古い罪を一掃できないとしたら、私は決して進み続けることができないでしょう。そして、たといそれらを取り除いたとしてさえ、私は再びそれらに陥るでしょう」。あなたは大声で叫んでいる。「おゝ、私は神と何と遠く隔たっていることか! 主よ、私を近寄せてください!」

 神と私たちとの距離を示す、もう1つの面を告げさせてほしい。あなたは自分の聖書を読み、信仰だけが魂をキリストに結び合わせることができると信じている。あなたは、自分のもろもろの罪のために十字架上で死なれたお方を信じられない限り、決して神の国を見ることはできないと感じている。だが、あなたは今朝こう云えるのである。「先生。私は信じようと努力してきました。聖書を調べてきました。のべ何時間どころか何日間も、私の疲れ切った足を休めることのできる約束を見いだそうとして、そうしてきました。私は何度も何度も膝まずき、天来の祝福を熱心に嘆願してきました。ですが、いくら懇願しても、私の訴えは全く無駄でした。今に至るまで、私には何の恵みの囁きも、何の善が施された証拠も、何のあわれみのしるしもないからです。先生。私は信じようと努力してきました、そして、こう云ってきました。

   『「おゝ、われ 信じうべければ!
    さらばすべては 容易(やす)くならん。
    われは欲せど 果たしえじ。――
    主よ。解き給え。助けは汝れのみ!』

私は持てるあらゆる力を用いて、必死に自分を《救い主》の御足の下に投げ出そうとしてきました。自分のもろもろの罪がその血潮によって洗い流されるのを見ようとしてきました。私は十字架の物語に無関心ではありませんでした。それを百回は読み返し、涙することさえありました。ですが、そのアザゼルのための山羊の上に私の手を置こうと努力し、私のもろもろの罪が彼の上に移されたのだと信じようと苦闘するとき、賛嘆のうちに吐き出されてしかるべき息を、まるでどこかの悪霊が止めてしまうかのようなのです。私に代わって死なれた頭に差し伸ばすはずの手を何かが食い止めるかのようなのです」。よろしい。あわれな魂よ。あなたは実際に神から遠く離れている。ここで私はこの聖句の言葉を繰り返そう。願わくは聖霊がそれをあなたの耳の中でも繰り返してくださるように! 「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」。もしあなたが、そこまで来ているとしたら、あなたも、このようになるであろう。その距離は大きくとも、あなたの足でそれを歩むことはない。《永遠者》なる神がその御座から見下ろし、あなたのあわれな心を訪れてくださる。今のあなたが途中でためらい、神に近づくのを恐れているとしても関係ない。

 II. 私たちの第二の点は、この立場にある人々の胸をかき乱す、《いくつかの独特の悩み》である。このあわれな、ぼろぼろの放蕩息子をあなたに紹介させてほしい。安楽な暮らしの後で、彼は自らの悪徳によって赤貧に陥り、労苦することになる。しばらくの間、豚にえさをやりながら、ほとんど飢え死にしそうになった果てに、彼は自分の父親の家に戻り始める。それは長く倦み疲れる旅である。足が棒のようになるほど何哩も歩き続け、とうとうある山の頂上から、はるか彼方の平野にある父親の家を見る。彼と、彼がないがしろにした父親との間にはまだ何哩もある。あなたは、これほどの長い不在の後で、故郷にある懐かしの家を見たときの彼が、いかなる感動を覚えたか考えられるだろうか? 遠方からでも彼はそれをよく覚えていた。長年その敷居を踏んでいなくとも、決してそれを思い起こすのをやめたことはなかったし、一緒に暮らしていたときの父の優しさや、その裕福さの記憶は、決して彼の意識から消し去られたことはなかった。あなたは、彼がほんの一瞬、嵐の最中の稲妻の一閃のように、喜びの閃きを感じたと想像するであろう。だが、たちまち暗黒の闇が彼の霊にのしかかる。第一のこととして、おそらく彼はこう考えるであろう。「おゝ! たとい家まで辿りつけたとしても、父は私を受け入れてくれるだろうか? 父は私の面前で扉をぴしゃりと閉めて、行っちまえ! 今まで暮らしてた所で一生を送るがいい!、と云わないだろうか?」 それから別の考えが生じるかもしれない。「確かに、私を最初に道から踏み外させた悪鬼は、私が親に挨拶する前から、再び私を導き戻すだろう」。「あるいは、ことによると」、と彼は考えた。「私は途上で死んでしまい、父の祝福を受ける前に、魂が自分の神の前に立つことになるかもしれない」。もしあなたが今、キリストを求めている者の立場にあるとしたら、だが、もし自分がキリストが遠く離れていることを感じて嘆いているとしたら、疑いもなくこうした3つの考えのそれぞれが、あなたの脳裡をよぎってきたことであろう。

 最初にあなたは、キリストがあなたの前に現われる前に、自分が死にはしないかと恐れてきた。あなたは何箇月も《救い主》を求めてきたのに、見いだすことがなく、今やこの暗黒の思いがやって来る。「では、こうしたすべて祈りが聞かれないまま私が死んだらどうなるだろうか? おゝ! もし私がこの世を去る前に主が私の願いを聞いてくださるとしたら、私は満足しよう。何年苦悶の中にとどめておかれてもかまわない。しかし、もし明日の朝の前に私が死体になるとしたら? 今晩私は自分の寝床の前に膝まずき、あわれみを求めて叫ぶ。おゝ! だがもし主が明日の朝までに赦罪を送らず、夜の間に私の霊が主の法廷の前に立つことになるとしたら!――そのときにはどうなるだろうか?」 他の人々が自分は永遠に生きるのだと考えることは奇異であるが、罪を確信させられ、《救い主》を求めている人々は、自分が次の一瞬には生きていないことを恐れる。あなたも知っているであろう。愛するキリスト者の兄弟たち。あなたにも、地上では二度と開かなくなるのではないかと恐れて自分の目をあえて閉じようとしなかった時があったことを。日の光を永久に闇が包み、自分が外の暗闇の中に永遠に住むことになるのではないかと怯えて夜の翳りを恐怖した時のことを。あなたは、一日が始まるたびに嘆き、一日が去って行くたびに泣いた。なぜなら、自分の次の一歩が自分を永遠の破滅へと突き落とすのではないかと空想したからである。私も、あらゆる草むらが地獄への扉を覆い隠しているのではないかと恐れながら地面を踏みしめるのがいかなることであるか知っている。あらゆる粒子が、また、あらゆる原子が、また、あらゆる石が、そのように神と結託して私に不利に働き、私を滅ぼそうとしているかもしれないと私は恐れた。ジョン・バニヤンによると、彼の経験した一時期、彼は自分が人間よりは犬かひきがえるに生まれた方がましだったと感じた。罪ゆえにそれほど惨めに感じていたのである。そして、彼のみじめさの大きな点は、彼が三年間もキリストを求めていたにもかかわらず、結局はキリストを見いだすことなく死ぬかもしれないという事実にあった。そして実際、これは決して必要もない不安ではない。これは、すでに自分がキリストを必要としていると感じている一部の人々にとっては、あまりにも大きな不安をいだかせることかもしれないが、私たちの大部分は絶えず死の考えにはっとさせられているべき必要がある。あなたがたの中のいかに僅かな人々しか、そうした考えにふけることがないことか! あなたがたは、今の自分が生きていて、健康で、食べて、飲んで、眠っているがゆえに、自分は死なないと考えている。あなたがたは、自分の臨終のことを真面目に眺めることがあるだろうか? あなたがたは、夜自分の寝床に就くとき、思うことがあるだろうか? いかに自分がいつの日か服を脱いで最後の眠りにつくことになるのかを。そして、朝に目覚めるとき、あなたがたは一度も考えたことがないだろうか? かの大いなる裁判の日、全宇宙が《審き主》の前に立つことになる日には、御使いのかしらの喇叭があなたを飛び起こさせ、神の前に立たせることになるのだ、と。否。「誰しも思えり、われひとりのみ不死身ならんと」。そして、私たちは死の思いをなおも押しのけ、ついには苦悶の中で目覚めるに至るのである。そこで目覚めるのではもはや手遅れである。しかし、私が今朝、特に語りかけているあなた、自分はキリストからはるかに遠く離れていると感じているあなたは、もし本当に主を信じているとしたら、決して死なず、生きることになる。そして、主のみわざを告げ知らせることになる。あなたは、主を見いだすまで決して死なないであろう。いまだかつて、真摯に《救い主》を求めた魂のうちで、主を見いだす前に滅びたものはない。しかり。死の門は、恵みの門があなたのために開かれるまでは、決してあなたを閉じ込めることはない。キリストがあなたのもろもろの罪を洗い流すまで、あなたは決してヨルダンの大水でバプテスマを受けることはない。あなたの人生は安泰である。というのも、これが神の不変のご計画だからである。――神はご自分の恵みの日が来るまで、ご自分の選びの民を守り、それから彼らをご自分のもとへと連れて来られるのである。そして、あなたが《救い主》が自分に必要だと知っている限り、あなたは神の民のひとりであり、あなたは《救い主》を見いだすまで決して死なない。

 あなたの二番目の恐れは、こうである。「あゝ、先生! 私は自分がキリストを見いだす前に死ぬのではないかと恐れてはいません。それよりも悪いことを恐れているのです。私は以前にも何度か罪の確信を得たことがありますが、それはしばしば過ぎ去ってしまいました。私がきょう最も恐れているのは、今回もそれと同じになるのではないかということなのです」。私は、ひとりのあわれな坑夫の話を聞いたことがある。彼はあるとき、ある説教の下で深い感銘を受けたため、罪を悔い改め、自分の以前の生き方を捨てるように導かれたが、以前の生活に戻ることへの非常な恐れを感ずるあまり、ある日、膝まずいては神にこう叫んだという。「おゝ、主よ。私が信ずることにしたキリスト教の信仰を否定したり、私の以前の生活に逆戻りするくらいなら、この場で私を殺してください」。そして、信頼の置ける筋から告げられたところ、彼はまさにその場で死に、そのようにして彼の祈りはかなえられたという。神は、彼が地上で誘惑の矢面に立つことを許すよりも、彼を天の故郷に連れて行かれたのである。さて、人々は、キリストのもとに来るとき、自分の罪の確信を失うくらいなら、いかなる苦しみに耐えることになろうとその方がましだと感じている。何十度もあなたや私はみことばの説教の下でキリストのもとへと引き寄せられてきた。私たちは、自分にとってまさに転回点のように思われた十数度もの機会を振り返ることができる。何かが私たちの心の中でこう云った。「さあキリストを信ずるがいい。確かに、今は恵みの時、今は救いの日[IIコリ6:2]なのだ」。しかし、私たちは云った。「明日だ、明日だ」。そして、明日が来たとき、私たちの罪の確信は去っていた。私たちは、きのう自分が云ったことをきょう行なおうと考えたが、その代わりに、きのうの先延ばしが、きょうのひときわかたくなな邪悪さとなった。私たちはさらに神からさまよい出し、神を忘れた。さて、あなたは再び神から見限られるのではないかという恐れゆえに神に向かって叫んでいる。あなたは今朝この場に来る前にこう祈ってきた。「父よ。どうか同輩たちに笑われることによって私が信仰心をなくすようなことがないようにしてください。自分の世俗の仕事に思いをとらわれ、来世に対してしかるべく払うべき注意を妨げられないようにしてください。おゝ、きょうの下らないことが、私の思いを奪い、自分の神に会う備えをしないでしまうようなことがないようにしてください。――

   『思いに沈める わが心(たま)に
    永久(とわ)の事をぞ 刻印(しる)し給えや』。

そして、このことを真に救いに至るみわざとし、決して絶えることも、私から取り去られることもないようにしてください」。それがあなたの熱心な祈りだろうか? おゝ、あわれな放蕩息子よ。それはかなえられる。それは聞き届けられる。あなたが後戻りする時はない。きょう、あなたの御父はあなたを天のご自分の御座からご覧になっている。きょう、御父はあなたを抱きかかえ、喜びに涙してくださる。きょう、御父はあなたにこう仰せになる。「あなたの多くの罪は赦されている」*[ルカ7:47]。きょう、みことばの宣教により、御父はあなたに向かって、来て論じ合え、と命じておられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、羊の毛のようになる。たとい、紅のように赤くても、雪のように白くなる」*[イザ1:18]。

 しかし、私が放蕩息子の有するものと思っている最後の、そして最も突出した思いは、こうであろう。彼が自分の父のもとに行き着いたとき、父が彼にこう云うことである。「二度と顔を出すな。わしは金輪際お前とは何の関わりも持たん」、と。「あゝ!」、と彼は内心こう思う。「あの日の朝を思い出す。母の涙には勝てないと分かっていたので、夜明け前に起き出したあの日。私は覚えている。いかに私が裏の階段を忍び降り、有り金全部を持ち出したか、いかにこっそりと裏庭を抜け、よその国へと家出して、何もかも使い果たしたことか。おゝ! 私が戻ったら、老いた父は何と云うだろうか? 何と、あれは父だ! 私の方に駆け寄って来ている。しかし、確かに父は馬の鞭を持っているに違いない。私を鞭打つために。たとい父がやって来るにしても、私に優しい言葉をかけてくれるなんてことがあるはずない。私に期待できるのはせいぜいこう云われることだけだ。『よろしい。ジョン。お前は有り金全部を使い果たしたのだな。わしがもう一度お前と関係を持つなどということは期待できんはずだ。わしはお前を飢えさせはせん。お前をわしの召使いのひとりにしてやろう。さあ来い。お前を下男にしてやる』。そして、もし父がそうするとしたら、私は父に感謝するだろう。否。それこそまさに、私が父に願いたいことなのだ。『雇い人のひとりにしてください』、と云おう」。「おゝ」、と悪魔は彼の内側で云った。「お前の父親は、決してお前に穏やかな口をきかないだろうよ。もう一度逃げ出した方がいいぜ。云っとくがね、親父さんがお前の近くに来たら、お前が一生のうち一度も受けたことがないような鞭打ちを受けるだろうよ。お前は心が張り裂けて死んでしまうだろう。たぶん、その場に倒れて死んじまうだろう。そして親父さんはお前を埋葬したりしないだろうね。腐肉食らいの鴉がお前を食っちまうのさ。お前には何の望みもありはしない。お前が何て仕打ちをしたか見ろよ。親父さんの立場になってみろよ。お前に息子がいたとして、お前の身代の半分を持ち逃げして、遊女におぼれて使い果たしたとしたら、どうする?」 そしてその息子は思った。自分が父の立場にいたら、非常に峻烈で厳酷になるだろう、と。そして、おそらく彼はほとんど踵を返して逃げ出しかけたであろう。しかし、そうする時間はなかった。彼が逃げ出すことを考えていたまさにそのとき、突然父親が彼に抱きつき、親身のこもった口づけを受けたのである。否。彼が自分の願いを云い終えるよりも先に、彼は白い衣を着せられた。家中で一番良い着物である。また、彼らは彼を食卓に着かせ、肥えた子牛をほふっては彼のためのごちそうにした。そして、あわれな魂よ。あなたもそれと同じである。あなたは云う。「もし私が神のもとに行くとしたら、神は決して私を受け入れてくださらないだろう。私はあまりにも卑しく、よこしまな者だ。他の人々なら、神はその胸にかきいだいてくださるだろうが、私にはそうでないであろう。もし私の兄が行くなら、彼は救われるだろうが、私の罪悪ははなはだ重いのだ。私は、年老いすぎてしまった。私はあれほど多くの不始末をしでかしてきた。私はあれほどしばしば神を冒涜し、あれほど頻繁にその安息日を破ってきた。あゝ! そして私は、あんなにしきりに神を欺いてきた。私は悔い改めると約束したのに、からだが良くなると神に嘘をつき、昔ながらの罪に帰っていった。おゝ、もし私が天国の扉の内側にもぐり込むことを神が許してくださったなら! 私は神の子どもたちのひとりになることなど願わないであろう。ただ、あのスロ・フェニキヤの女が願った所にいさせてくださいとだけ願おう。――犬になること、《主人》の食卓から落ちるパンくずを食べることだけを願おう。それが私の願うすべてだ。そして、おゝ! もし神がそれを私に許してくれさえしたら、神は決して私の声が絶えるのを聞くまい。私は生きる限り神の賛美を歌うだろうからだ。そして、世界が衰え果て、太陽が年老いて薄暗くなるときにも、私の感謝は、私の魂と同じほどに不滅で、決して神の愛を歌うことをやめないであろう。神は私の最もはなだしい罪を赦し、その血で私を洗ってくださったのだから」。そのようになるであろう。来て試してみるがいい。さあ罪人よ。あなたの涙を乾かすがいい。望みなき悲しみにふけるのはよすがいい。死に給うたキリストの御傷を仰ぎ見るがいい。あなたの嘆きのすべてをいま取り除くがいい。もはや嘆くべき理由は何もない。あなたの御父はあなたを愛しておられる。あなたを迎え、御胸の中に受け入れてくださる。

 III. さて、しめくくりとして私が注意したいのは、《こうした恐れが、この放蕩息子の場合にいかに解消されたか》、また、私たちが同じ立場にある場合、私たちにおいてもそうした恐れがいかにして解消されるか、ということである。

 この聖句は、「父親は彼を見つけ」、と云う。しかり。そして、神はまさに今、あなたを見つけられた。急いで拭い去られたその涙を――まるで恥じてでもいるかのように拭われた、あなたの涙を――神はご覧になり、それをご自分の皮袋におさめられた。ほんの数瞬前にあなたが囁いた祈り、ごくかすかで、ごく小さな信仰しか伴っていない祈りを、神はお聞きになった。先日あなたは自分の私室にいた。誰ひとりあなたの声を聞いていた人はいなかった。だが神はそこにおられた。罪人よ。このことをあなたの慰めとするがいい。神は、あなたが悔い改め始めるとき、あなたを見ておられるのである。神は、他の誰かれを眺めるときのように、ありふれたしかたであなたを見つめるのではない。非常な関心をたたえた目をもってあなたをご覧になる。神は、あなたのあらゆる罪、あなたのあらゆる悲しみの中にいたあなたを眺めてこられた。あなたがやがて悔い改めるだろうと希望しながらそうしておられた。そして今や神は恵みの最初の微光を見て、喜びをもってそれを眺めてくださるのである。孤城の天辺にいるいかなる見張り人が朝の最初の灰色の光を見てとる喜びにもまさる喜びをもって神はあなたの心の最初の願いを眺めてくださる。いかなる医者が、死ぬと思われていた人の胸が最初に上下するのを見るときにもまさって、神はあなたについて、今しも最初の善の徴候が見えるあなたについて喜んでくださる。自分など軽蔑され、知られておらず、忘れられているのだと考えてはならない。神は栄光にあるそのいと高き御座からあなたを注視し、ご自分の見てとられたことを喜んでおられるのである。神はあなたが祈るのを見てとられた。あなたが呻くのをお聞きになった。あなたの涙に目をとめられた。あなたを眺め、それらがあなたの心における恵みの最初の種であるのを見て喜ばれた。

 それからこの聖句は、「かわいそうに思い」、と云う。父親は単に彼を見ただけでなく、彼がそのような状態にあることを思って内心で泣いた。この老父には非常に遠くまで見通す視力があり、放蕩息子の方では遠くにいた父を見分けられなかったのに、父は放蕩息子を見分けることができた。そして、この息子を見た父親の最初の思いはこうであった。――「おゝ、私のあわれな子、おゝ、私のあわれな息子よ! こんなにひどく落ちぶれ果ててしまうとは!」 この父はその愛の遠眼鏡をのぞき込み、彼を見ては云った。「あゝ! あれが私の家を出ていったときには、あんな様子をしてはいなかった。可哀想な子だ。足が血だらけだ。長い道のりを来たのだ。包帯をしてやろう。あの顔を見るがいい。私のもとを去ったときのあれと同じ子とは思えない。あれほど輝いていた目は今や落ちくぼんでいる。前にはふっくらしていた頬は、飢饉のためにこけている。可哀想な、気の毒な子だ。骨と皮ばかりではないか。それほどやせ衰えているのか」。心に何らかの怒りを覚えるどころか、彼はまさに正反対のものを感じる。自分のあわれな子に途方もない憐れみを感じる。そして、それこそ主があなたに対して感じておられることである。――あなたがた、罪ゆえに呻き、嘆いている人たち。神はあなたのもろもろの罪を忘れておられる。ただ、あなたが今のように身を落としてしまったことだけを思って泣いておられる。「なぜお前はわたしに反逆し、自分をこんな状態にしてしまったのか?」 それは、まさにアダムが罪を犯した日のようであった。神は園を歩かれたが、アダムがいないことをさびしく思われた。神は、こうは叫ばれなかった。「アダム。ここへ来て、審きを受けるがいい」。しかり。柔らかく、悲しげに、悲哀に満ちた御声で、神は云われた。「アダム。あなたは、どこにいるのか。おゝ、わたしの大切なアダム。わたしがあれほど幸せにしてやったアダム。あなたは、どこにいるのか。あなたはわたしとともに歩んでいた。あなたは自分の友から身を隠すのか? おゝ、アダムよ。あなたは、自分がどれほどの災厄を自分の身に、また、あなたの子孫に招いたか、ほとんど分かっていない。アダム。あなたは、どこにいるのか?」 そしてエホバの御胸は、きょう、あなたを気の毒に思っている。神はあなたに対して怒ってはおられない。その怒りは過ぎ去っており、その御手は今なお差し伸ばされている。神があなたに、自分は神に対して罪を犯したのだと感じさせ、神との和解を願わせておられる限り、今や神の御心には何の御怒りもない。神が感じている唯一の悲しみは、あなたが自分を今のあなたのような嘆かわしい状態に陥れてしまったということについてである。

 しかし、この父親は単に可哀想に思うだけでとどまらなかった。可哀想に思った上で、「走り寄って彼を抱き、口づけした」。このことを、あなたはまだ理解していないが、やがて理解するであろう。神が神であるのと同じくらい確実に、もしあなたがこの日神を正しくキリストを通して求めているとしたら、いずれ来たるべき日には、完全な確信という口づけがあなたの口に与えられ、主権の愛という御腕があなたを抱きかかえ、あなたはそれを実感するであろう。あなたは神を蔑んできたかもしれないが、それでも神があなたの《父》であり、あなたの《友》であることを知るであろう。あなたは神の御名をあざ笑ってきたかもしれないが、いつの日か、その御名を純金よりも喜ぶようになるであろう。あなたは神の安息日を破り、神のみことばを軽蔑してきたかもしれないが、来たるべき日には、安息日があなたの楽しみとなり、みことばがあなたの宝となる。しかり、驚いてはならない。あなたは罪の巣窟に落ち込み、自分の衣を不義で真黒にしてきたかもしれない。だが、いつの日か、神の御座の前で、御使いたちのように白い者として立つのである。そして、かつては神を呪った舌は、これから神の賛美を歌うことになるのである。もしあなたが真の求道者だとしたら、情欲に染まってきた両手はいつの日か黄金の立琴を持ち、《いと高き方》に逆らう企てを巡らしてきた頭は黄金の輪を巻かれることになるであろう。神が罪人たちに対してそのように行なわれるとは、不思議なことと思われないだろうか? しかし、それは不思議に思われても、不思議な真実となる。居酒屋でふらついているあの酔いどれを見るがいい。いつか彼が、美のきわみたる光の子らの間に立つ可能性などあるだろうか? 可能性! 左様。確実性である。もし彼が悔い改めて、自分の道の誤りから立ち返るとしたら、それは確実である。聞くがいい。あなたがた、呪いと悪態をついてきた人たち。見るがいい。自らを地獄のしもべと自称し、そうすることを恥じていない人たち。そうした者がいつの日か贖われた者たちの至福にあずかることなど可能だろうか? 可能! 左様。それ以上である。確かである。もし自分の悪の道から立ち返るなら確かである。おゝ、主権の恵みよ。人々を立ち返らせ、彼らを悔い改めさせ給え! 「悔い改めよ。立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか?」*[エゼ33:11]

   「主よ、罪人を 返らせ給え。
    汝れが豊けき あわれみゆえに!」

 もう一言二言だけ語って終わりとしよう。もしあなたがたの中の誰かがきょう、罪の確信の下にあるとしたら、ぜひ厳粛に警告させてほしい。そうした確信を消し去りがちな場所に立ち寄ることをしてはならない。

 『紐育キリスト教唱道者』紙の記者が、次のような胸を打つ物語を供している。――

 「今から二十六年前、私がマサチューセッツ州を旅していた時のことだが、ある晩、――の町で説教した後で、非常に真剣な面持ちをした青年が立ち上がり、その集会の人々に一言話をしたいと云った。その許可を得て、彼は次のように語った。――『みなさん。今から一年ほど前に、ぼくは仲の良いひとりの若者と一緒に、自分の魂の救いを求め始めました。何週間か、ぼくらはともに進み続け、ともに労苦し、しばしば、イエスを信ずる信仰を手に入れるまでは、求めることを決してあきらめまいという契約を新たにするのでした。しかし、突然、その若者は集会出席を怠るようになり、あらゆる恵みの手段に背を向けるように思われ、ぼくを避けるようになって、ぼくがほとんど彼と話す機会がなくなるほどでした。彼の奇妙なふるまいによって、ぼくは非常に心が痛み、心配させられました。ですが、それでもぼくは自分の魂の救いを手に入れるか、さもなければ、あの取税人の嘆願を口にしつつ滅びようと決意していました。何日かして、ひとりの友人がぼくに教えてくれたところ、ぼくの若い仲間は、ある舞踏会に出席するよう招待され、それに出ようと決心していたというのです。私はすぐに彼のところに出かけて行き、目に涙を浮かべながら、その決意を翻させよう、その晩はぼくとともに祈祷会に行くように説得しました。ぼくが何と云おうと無駄でした。別れ際に彼はぼくに云いました。自分のことを失われた者だと思わないでくれよ、自分はこの舞踏会に出席した後で信仰を求めるつもりでいるのだから、と。その期日がやって来て、彼は舞踏会に出かけ、ぼくは祈祷会に出かけました。集会が始まってすぐに、神はぼくの祈りに答え、ぼくの霊的な囚われの状態を覆し、義と認め給う神の愛にあってぼくの魂を喜ばせてくださいました。その舞踏会が始まってすぐに、ぼくの若い友人はその舞踏室の先頭にいて、ひとりの若い令嬢の手を取って立っていました。舞踏の先導を務めようというのです。ところが、音楽家が洋鼓弓の音合わせをしている間に、全く何の前触れもなく、その若者はいきなり仰向けに倒れると、死んで床に横たわってしまったのです。ぼくはすぐさま呼ばれ、彼のなきがらをその父親の家まで運ぶ手伝いをすることになりました。みなさんは、そのときのぼくの心にいかなる感情がきざしていたか、こう聞けばより良く判断できることでしょう。その若者とは、ぼく自身の兄だったのです』」。

 ならば、あなたの罪の確信を粗末に扱ってはならない。そのように粗末な扱いをしたことゆえにあなたが感ずる悲嘆の声を上げるには、永遠をもってしても短すぎるだろうからである。

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(訳注)

*1 ミルトン『失楽園』に出てくる、サタンの正体を暴いた天使。[本文に戻る]

  
 

放蕩息子の帰還[了]

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