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二タラント

NO. 175

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1858年1月31日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ』」。――マタ25:22、23


 「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです」[ヤコ1:17]。人々が持っているすべてのものは、かの《大いなる泉》、良いものすべての与え主から出たものとしなくてはならない。あなたには種々の才質があるだろうか? それらは才質の神によってあなたに与えられたのである。あなたには時間があるだろうか? 富が、影響力が、権力があるだろうか? 弁舌の力があるだろうか? 思索の力があるだろうか? あなたは、詩人、政治家、あるいは、哲学者だろうか? あなたの立場、あなたの賜物がいかなるものであれ、覚えておくがいい。それらはあなたのものではなく、上からあなたに貸し与えられているのである。いかなる人も、自分のものとしては、自分のもろもろの罪以外には何も有していない。私たちは、貸主がいつでも自由に追い出せる借地人にすぎない。神は私たちをご自分の地所に置き、こう仰せになったのである。「私が帰るまで、これで商売しなさい」[ルカ19:13]。私たちの葡萄畑がいかに多くの実を結ぼうと、その葡萄畑は《王》の持ち物であり、私たちが自分の賃金として百を取るにせよ、ソロモン王は千を取る[雅8:12]のでなくてはならない。私たちの能力と、その用い方との栄誉のすべては神に帰されなくてはならない。なぜなら、神こそ《与え主》だからである。このたとえ話は、そのことを私たちに非常に明白に告げている。というのも、これはあらゆる人に自分の才質が主から出ていることを認めさせるからである。地を掘って、自分の主の金子を隠した者[マタ25:18]でさえ、自分のタラントが《主人》のものであることを否定しはしなかった。「さあどうぞ、これがあなたの物です」[マタ25:25]という彼の答えは、この上もなく無礼なものではあったが、それでもこの事実を否定するものではなかった。それゆえ、この男でさえ、神に対する自らの責務を否定する者らや、自らの《創造主》に対する従順が言及されただけで、傲然と頭をそびやかし、自らの時間と力を神への奉仕よりは神への反逆に費やす者たちよりはましなのである。おゝ、私たちがみな賢くなって、あらゆる真理の中でも最も明らかなこの真理を信じ、それに立った行動を行なうとしたらどんなに良いことか。私たちは、自分の有するあらゆるものを《いと高き方》から受けているのである。

 さて、この世の中には、僅かな才質しか持っていない人々もいる。本日のたとえ話にはこうある。「ひとりには五タラント、ひとりには二タラント」[マタ25:15]。私は今朝そうした人々に語りかけたいと思う。そして、私は願う。私が口にするかもしれない、いくつかの辛辣なことが、神の祝福によって、彼らの徳を建て上げるか、彼らを叱責するものとなるようにと。第一に私が注意したいのは、この世の中には、僅かな才質しか有していない多くの人々がいるという事実である。そして私は、神が彼らに僅かなものしか分け与えておられない理由を説明しようと思う。第二に私がそうした人々に思い起こさせたいのは、こうした僅かな才質についてさえ、彼らは責任を問われるということである。そして第三に私は、しめくくりとして次のような慰めに満ちた所見を述べたいと思う。すなわち、もし私たちの僅かな才質が正しく用いられるとしたら、私たち自身の良心も、私たちの《主人》の審きも、より多くを得ないことで私たちを罪に定めはしない

 I. まず第一に、《神はある人々を僅かな才質しか持たない者として造られた》。人々がしばしば云い交わしている話を聞くと、まるで神が知能に何の差も設けなかったかのように思える。ある人が、自分は成功していることに気づく。するとその人は、もし他の誰もが自分のように勤勉で、根気よく励むことができさえすれば、みな必然的に同じように成功するはずだと考える。あなたもしばしば聞くように、敬虔で熱心ではあるが、たまたま魅力に乏しい教役者たちは、人々からけなされ、世の評判になることがないがために、のらくらしている怠け者だと呼ばれる。だが、その理由は、彼らに僅かな才質しかないことにあるのかもしれない。その場合、彼らは自分の有するものを最大限に活用しているのであって、ごく小さなことしか成し遂げられないからといって叱責されるべきではないであろう。これは誰しも見てとらざるをえない事実だが、私たちの生まれにおいてすら、それなりの差はある。子どもたちは、みなが同じように早熟ではないし、確かにすべての人が同じように学んだり教えたりする能力を有しているわけではない。神は傑出した、また、驚くほどの違いを設けておられる。私たちは、ミルトン級の人物と、字を読むこともできずに生き、また死んでいく人との差違のすべてが教育によって生じさせられたと考えるべきではない。疑いもなく、もって生まれた違いというものがあり、確かに教育は大きなことを行ないはするが、すべてを行なえるわけではない。肥沃な土地は良く耕されれば必然的に多くの作物を実らせるものであって、その生産高は、いかに耕されても土壌が固く不毛の地所をしのいで当然である。神は大きな、また、明確な差違を設けておられる。それで私たちは、自分の同胞たちに接するときには、このことを思い起こすべきである。後で神から、「よくやった。良い忠実なしもべだ」、と云われることになる当の人々に対して、辛辣なことを口にしてはいけないからである。

 しかし、なぜ神はすべての人々に同じような才質を与えておられないのだろうか? 私の最初の答えはこうである。それは、神が《主権者》であって、あらゆる属性の中でも、その愛に次いで、その主権を明らかに示すことを最も好まれるからである。主なる神は、ご自分のものをご自分の思うようにする[マタ20:15]権利があることを人々に知らせたいと欲しておられる。こういうわけで、救いにおいて神は、これをある人々に与え、別の人々には与えないのである。そして、いかに不公平だと非難されようとも、神の唯一の答えはこうである。「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょうか」[ロマ9:20]。芋虫は、なぜ神は自分を御使いにしなかったのかとつぶやくべきではない。また、海を泳ぐ魚は、それが天空の高みを翔る翼を有していないからといって不平を云ってはならない。神には、ご自分の被造物を望み通りに造る権利があったし、たとい人間が神の権利に異議を唱えるとしても、神はこの権利を保持し、誰がやって来ようと不可侵のものとして保たれるであろう。神は、ご自分の権利を垣根で取り囲み、無知な人間[ヨブ11:12]にそれを認めさせようと、そのすべての賜物において、絶えず私たちにご自分の主権を思い出させておられるのである。「わたしはこの者には」、と神は仰せになる。「あらゆる秘密を探りきわめるような明敏な精神を与えよう。別の者は、知識の最も平易な要素にしか達せないほど愚鈍な者にすることにしよう。わたしはある者には、形象の上に形象を山と積む力、また、その言語が天界の荘厳さに達するかと思えるほどの豊富な想像力を与えよう。別の者には、決して詩的思想など創作できないほど鈍感な魂を与えよう」。なぜですか、おゝ、神よ? その答えはこう返される。「わたしは、自分のものを自分の思うようにして良いではないだろうか?」 「それで、その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かにされるようにと、『兄は弟に仕える。』と記されたのです」*[ロマ9:11-12]。そして、人々に関しても同じことが記されているのである。すなわち、彼らのひとりは別のひとりよりも偉大なものとなり、ひとりは自分の首を垂れ、もうひとりはその上に自分の足をかける、と。というのも、主には、ご自分が良いと見られた通りに、地位や、賜物や、才質や、富を配分する権利があるからである。

 さて、ほとんどの人はこれに文句をつける。しかし、よく聞くがいい。あなたが神のうちにあっては不平を云っていることは、あなたが自分のうちにあっては、まさに愛してやまないことなのである。あらゆる人は、自分には自分のものを自分の思い通りに行なう権利があると感じることを好む。私たちはみな小さな主権者となることを好む。あなたは自分の金銭を自由に、惜しみなく貧者に与えるであろう。だが、もし誰かが厚かましくも、俺様にはお前の愛を要求する権利があるのだ、などと主張したりしたら、あなたは彼に施すだろうか? 決してそうはしないに違いない。そして、そうした場合でも、誰があなたの度量の大きさに疑問を呈したりするだろうか? これは、福音書記者のひとりによって語られたたとえ話においても全く同じである。人々はひどく骨の折れる仕事をした。ある者は十二時間、別の者は六時間、そして何人かはほんの一時間働いた。だが主人はその全員に1デナリずつ与えたのである[マタ20:1-15]。おゝ! 私はへりくだって自分の頭を垂れて云うであろう。「私の主よ。あなたは私に一タラントをお与えになったのですか。ならば、私はそのことゆえにあなたをほめたたえます。そして、それを正しく用いることのできる恵みをお授けくださるよう祈ります。あなたは私の兄弟に十タラントを与えておられるのですか。彼に対するあなたの親切さの大きさゆえに感謝します。ですが、私は彼をねたむことも、あなたに不平を云うこともしません」。おゝ! 神の主権の前で常に身をかがめる霊があればどんなに良いことか。

 また、神がある者に五タラント、別の者に二タラントをお与えになるのは、《創造主》が多様性を愛するお方だからである。秩序は天の最初の法則だと云われた。ならば、多様性こそは第二の法則に違いない。夜に諸天を仰ぎ見るがいい。そこには目もあやな変化がある。星々は、すべてが同じ明るさで輝いてはおらず、私たちの町通りの街灯のように一直線に配置されてもいない。また、あなたの目を下界に向けるがいい。植物界の中を見るがいい。レバノンの杉から壁をつたうヒソプまで、いかに多くの非常な差異がそこにはあることか。あるいは、苔の木はさらに小さい。見るがいい。上は、一軍隊の日陰になれるほど枝を張り伸ばした途方もなく巨大な木から、下は小さな地衣に至るまで、いかに神はあらゆるものを美しく、だが、多様性に富ませてお造りになったことか。良ければ、どれか一本の木を眺めてみるがいい。一枚一枚の葉っぱがその同輩といかに違っていることか。――今の時期、近づきつつある春の香りをかぎつけてはほころびつつある小さな芽吹きの1つ1つがいかに互いに異なっていることか。――2つと同じものはない。さらにまた、動物界を眺めるがいい。神はすべての生き物を同じようにはお造りにならなかった。その広がりの何と大きいことであろう。――偉躯を有する象から、岩山に穴を掘って住む岩だぬきまで――その鰭の一掻き一掻きによって深い淵を白髪のようにする[ヨブ41:32]鯨から、小川を横切る小魚まで、神は万物を異なるように造られた。そして私たちは至る所に多様性を見ている。このことは天国においてさえ同じであるに違いないと思う。というのも、そこには、「王座、主権、支配、権威」*[コロ1:16]があるからである。――御使いたちの異なる位階が、ことによると、階層に階層を連ねているのかもしれない。「個々の星によって栄光が違います」[Iコリ15:41]。では、なぜ同じ規則が人類においても当てはまってはならないだろうか? 神は私たちをみな同じ鋳型にはめておられるだろうか? そうとは思われない。というのも、神は私たちの顔を同じようにしておられないからである。どの2つの顔つきも瓜二つとは云えない。何かが似通っていても、そこには明白な相違がある。ならば、精神が似たようなものであるべきだろうか? 魂がみな、同じしかたで成型されるべきだろうか? 神の被造世界は、あらゆるものが同じ火の中で溶かされ、同じ鋳型に流し込まれる、ただの製造工場にまで成り下がってしまって良いだろうか? 否。多様性のために、神はある人を名高いダビデのごとき人物とし、別の人を名も知れぬダビデのよろい持ちにするであろう。ある人を預言するエレミヤのごとき人物とし、別の人を単に預言を読み上げるバラクのごとき者とするであろう。ある人は、あの金持ちのように富裕になり、別の人はラザロのように貧乏になるであろう。ある人は雷鳴のような大声で語るが、別の人は押し黙っているであろう。ある人は、みことばと教えにおいて力があるが、別の人はぼそぼそとしか語れず、その言葉はたどたどしいであろう。神は多様性があることを望んでおられる。そして、やがて来たるべき日に私たちは、この世を見下ろして、その歴史の美しさが、そこに参加していた種々の人格の多様性に大いに負っていたことを見てとるであろう。

 しかし、もう少し先に進もう。神には、それよりも深い理由がある。神がある人々に僅かな才質しか与えないのは、神には数多くの小さな領域があり、これらが満たされることをお望みになるからである。世界には大海洋があり、そこには住人が必要である。おゝ、主よ。あなたはレビヤタンを造ってそこで泳がされました。だが海の深みのはるか彼方には、数々の秘密の岩屋や隠された洞穴がある。その入口はごく小さなものである。もしレビヤタンしかいなかったとしたら、そうした穴は永遠に空き間となるに違いない。だが一匹の小魚が造られれば、その小さな場所はそれにとって大洋となるのである。森の木々にはおびただしい数の小枝や細枝がある。みなが鷲だったとしたら、いかにして森は歌で喜ばしいものとされるだろうか? また、あらゆる細枝にその鳴鳥を止まらせることができただろうか? しかし神は、それぞれの細枝がその音楽を聞けるように、そこに座るべき小さな鳴鳥を造られた。あらゆる領域には、それを占めるべき生き物がいて、その領域に適した大きさをしているに違いない。神は常に経済的にお働きになる。神はある人を、四、五百人ほどの住人が暮らすどこかの小さな教区の牧師にしようと意図しておられるだろうか? その人に、使徒に匹敵するような種々の能力を与えて何になるだろうか? 神はある婦人を、自宅で自分の子どもたちをささやかに教える者、穏やかに家庭で訓育する者にしようと意図しておられるだろうか? もし神が彼女を女流詩人にしたり、彼女に一国を高揚させるような賜物をお与えになるとしたら、それは彼女の妨げとなり、彼女に害を与えるではないだろうか? 彼女の才質の小ささが、ある程度まで、彼女の領域の小ささに彼女をふさわしいものとしているのである。そこにいる若者は、《貧民学校》の補助を十分に行なうことができる。だが、もし彼にもっと高い才能があったとしたら、彼はその働きを蔑視していたかもしれない。そして《貧民学校》はその優秀な教師を失っていたかもしれない。世界には種々の小さな領域があり、神は小さな人々によって、それらを占めさせようと望んでおられるのである。重要な義務を果たすべき部署があれば、その労務に適した神経と力を有する人々が見いだされる。神は、あらゆる隙間のために彫像をお造りになり、画廊のあらゆる区画のために絵を作成される。空になっている所はどこにもない。だが、いくつかの隙間は小さなものなので、それを占める小像も小さなものとなる。ある人々に神が二タラントをお与えになるのは、二タラントで十分だからであり、五タラントでは多すぎるためである。

 もう1つだけ云おう。神が人々に二タラントを与えるのは、非常にしばしば、魂を救うことにおける神の恵みの偉大さを彼らによって明らかにお示しになるためである。あなたは、神聖な知識に精通した教役者の話を聞いたことがある。彼の知恵は深淵で、彼の弁舌は優美である。彼の説教の下では多くの人々が回心した。これまであなたは、しばしば次のように云われるのを聞いたことがないだろうか? 表立ってそうと口にされることはなくとも、ほとんどそれと暗示されるのを聞いたことはないだろうか? すなわち、彼の成功の大きな部分は、彼の学識と、彼の優美な話術のおかげなのだ、と。しかし、それとは逆に、あなたが出会ったことのあるある人は、方言の訛りがひどく、その物腰は野暮ったく、明らかに文学上の業績など全く持ち合わせていなかった。それにもかかわらず、神はその人に、熱心な心という一タラントを与えておられる。彼は雷の子のように語る。荒々しく、いかめしい言葉遣いによって、罪を公然と非難し、福音を宣言する。彼の下で何百人もの人が回心する。この世は彼を鼻であしらう。「私には、こうした一切のことがさっぱり理解できん」、と学者は云う。「これはみな、愚にもつかん。――勿体ぶった決まり文句だ。あの男は何も知っとらん」。批評家はその鵞筆を取り上げては、その先端を尖らせ、自分に見つかる限りで最も苦々しい炭に浸しては、その男の経歴を滑稽きわまりない筆致で書き上げる。この男の額には悪魔の角こそ見えないが、それ以外の部分はほぼ悪魔そのものだとさえ云う。彼は悪とされるあらゆるものであり、善とされる何物でもない。批評家は彼を徹底して糾弾する。彼は愚者である。無価値である。下劣である。高慢である。無学である。無教養である。英語のいかなる言葉によっても彼のあくどさは表現できず、新しく言葉をひねり出さなくてはならない。さて今、教会は何と云うだろうか? この男自身は何と云うだろうか? 「たといそうでも、おゝ、主よ。今や栄光は永遠にあなたのものとなるに違いありません。あなたは、この世の取るに足りない者や、無に等しいものを選んで、有るものをない者のようになさったからです」[Iコリ1:28参照]。それで、小さなものによって神は、時として大きなものによる以上の栄光を獲得なさることがあると思われる。そして、私には疑いのないことだが、神があなたがたの中のある人々に僅かしか善を施す力も、影響力も与えず、狭い領域しか与えなかったのは、神が、最後の大いなる日に、御使いたちに対して、小さな領域においていかに多くのことをご自分が行なうことがおできになるかをあざやかに示すためである。あなたも知るように、愛する方々。2つの事がらは常に私たちの注意を引くものである。1つは、途方もない大きさにおいて具現された技能である。私たちは膨大な大きさの巨船を見ては、人間がそれを造りえたことに驚く。別のとき私たちは、ほんの一平方吋にも満たない面積に立った、優雅な細工品を見てこう云う。「よろしい。私はいかにして人々が大きな船を建造できるかは理解できる。だが、いかにして芸術家がこれほど細密なものを作成する忍耐と伎倆を持ち合わせているのかは見当もつかない」、と。そして、あゝ! 愛する方々。私にはこう思われるのである。私たちにとって神が偉大な神であると理解されるのは、単に私たちが無窮の天空の原野を見渡し、そこに浮かぶ無数の天体を目にとめるときのみならず、私たちが卑しい田舎家に住む婦人を目にして、神の完璧なことばがその魂の中で実現しており、神のいや高い栄光が彼女の僅かな才質によって現わされているのを目にするときも、決して劣りはない、と。確かに、人が小さなことにおいても、大きなことと同じくらい栄誉を授けられるとしたら、《無限者》にして《永遠者》なるお方は、とりわけ人類の小ささにまで身をかがめるとき、ご自分の栄光を現わすことがおできになるはずである。

 II. 私たちの第二の主張は、たとい《僅かな才質であっても、その責任が問われる》、ということであった。私たちは、最後の審判の日について考えるとき、ある特定の人格たちが、他の人々よりも、ひときわ苦しい過程を経ることになるだろうと非常に想像しがちである。思えば私は、しばしば心ならずも、ナポレオンの伝記を読んでこう云ったことがある。「ここにいるのは、途方もない能力を持った人物だ。世界の征服者だ。このような人物をもうひとり輩出するには十世紀かかっても難しいだろう。だが、この人物は、自分の一切の能力を野望のために悪用し、自分の軍隊を破滅的な洪水のようにあらゆる国々に連れて行っては、数百人単位ではなく――何百万人とは云わぬまでも――何万人単位で妻たちを寡婦にし、子どもたちを父無し子にしたのだ。彼が神の御座の前に立つとき、その厳粛な弁明はいかなるものとならざるをえないだろうか? 雲霞のような証人がスペインの野から、ロシアの野から、イタリヤの野から、エジプトの野から、パレスチナの野から立ち上がり、おのれの大胆な野望を満足させるために、自分たちを死に至らしめた男を告発するではないだろうか?」 しかし、どうか思い出してほしい。ナポレオンは被告として法廷に立たなくてはならないが、私たちひとりひとりもそこに立たなくてはならないのである。そして、たとい私たちの地位がそれほど高くなくとも、また、私たちが名声の頂点に立っていなくとも、それでも私たちは、《いと高き方》の観察を受けざるをえないほどには高く立っており、私たちにはこの世で害悪を行ない、それについて責任を問われるほどの能力と力があるのである。「おゝ!」、とある人は云うであろう。「私は確かに、最後の審判の日には、神が私を見過ごしてくださるだろうと思っていました。私は決してトム・ペイン[1734-1809。理神論者]ではありませんでした。下劣で俗悪な不信心者の間の指導者になったことはありませんでした。私は、公序を乱したことはありません。私が犯してきたささやかな罪は、人々の耳目を引くものではありませんでした。誰もそれについて耳にした者はいません。私の悪い模範が遠くまで及んだとは思いません。ことによると私の子どもたちは、私のふるまいによってさほど祝福を受けなかったかもしれませんが、それにもかかわらず、私の行動などごくごく微細な害悪であって、私以外のいかなる者にも害毒を吹き込むには小さすぎました。私は、総じてほどほどに道徳的でした。私は神に仕えてきたとは云えませんが、それでも義務の道に背くことなど実に軽いものでした!」 あゝ! 確かに、愛する方々! あなたは自分ほど小さな者はいないと思っているかもしれない。だが、あなたが自分で自分を取るに足らない者にしているからといって、あなたが勘弁されるわけではない。あなたには、僅かながらも預けられたものがあった! ならば、あなたの才質を活用する手間は、それだけ少なかったのである。多くの才質を有している人がそのすべてを用いようとするなら、多くのたいへんな苦労が必要である。その人は、五タラントなどあまりに多すぎて、一度に市場に出すことができなかったという云い訳ができるかもしれない。あなたには、1つしかタラントがない。誰でも自分の一タラントを貸し出して、利益を得ることはできる。――その手続きには、ほんの僅かな手間しかかからない。それで、あなたが、その一タラントを活用することなく生き、そして死んで行く限りにおいて、あなたの咎は、あなたのタラントが僅かなものでしかなかった、そして、結果として、それを用いる手間もまた少なかったという事実そのものによって、この上もなく大きなものとなるであろう。もしあなたが僅かしか有していなかったとしても、神はあなたから僅かなものしか要求されなかったのである。では、なぜあなたはその僅かを持ってこなかったのか? もし誰かが一年で一ポンドの家賃の貸家に住んでいたとして、それが、その金額の割にはきわめて手狭な家であったとしても、もしその人が自分の家賃を持ってこないとしたら、その家賃が百ポンドで、家賃を払えなかった場合とくらべて、半分も云い訳にはならない。あなたは、要求されたものが僅かだったことのゆえに、その分だけ云い訳が立たなくなるであろう。では、あなたに対して語りかけさせてほしい。あなたが責任を問われざるをえないと思い起こさせてほしい。

 覚えておくがいい。話をお聞きの方々。最後の審判の日に、あなたの申し開きは個人的なものとならざるをえない。神はあなたに、あなたの教会が何をしたかをお尋ねにはならないであろう。――あなたが自分で何をしたかをお尋ねになるであろう。さて、そこには《日曜学校》がある。もし神が教会の全員をまとめてお審きになるとしたら、彼らはそれぞれ云うであろう。おゝ、主よ。全体として私たちは素晴らしい《日曜学校》を有していましたし、多くの教師をかかえていました、と。そして彼らは自分の申し開きができたであろう。しかし、否。ひとりずつ、あらゆる信仰告白者は神の御前に行かなくてはならない。「お前は《日曜学校》のために何を行なったか? わたしはお前に子どもたちを教える賜物を与えた。――お前は何をしたのか?」 「おゝ、主よ。私たちには《日曜学校》がありました」。それは関係ないであろう? あなたは何をしただろうか? あなたは今、あなたが結びついていた集団についての申し開きをすべきではなく、個人としてのあなたについての申し開きをすべきなのである。「おゝ」、とある人は云うであろう。「あの頃は、何人もの貧しい教役者たちがいました。私はサリー音楽堂にいましたし、そこでは彼らのために大きな支援をしていました」。否。あなたは何をしたのだろうか? あなたは、あなた自身の富について個人的に責任を問われるであろう。「よろしい」、とある人は云うであろう。「私は、以前なされていたよりもずっと多くの説教が今ではなされていると云えることを嬉しく思います。諸教会は奮起させられているように見受けられます」。しかり。だが、あなたは、その誉れの一部に自分があずかっているかのように思われる。あなたは、以前のあなたよりも多く説教しているのだろうか? あなたは教役者である。あなたはより多くの努力をしているだろうか? 覚えておくがいい。あなたの兄弟たちが行なっていることではなく、あなたが行なっていることこそ、あなたがやがて神の法廷で申し開きをするよう要求されることなのである。そして、あなたがたひとりひとりには、この問いが発されるのである。「お前は、自分のタラントで何をしてきたか?」 諸教会とあなたがいかに結びついていようと、それは何にもならないであろう。あなたの個人的な行ない――神に対するあなたの個人的な奉仕こそ、救いに至る恵みの証拠としてあなたに要求されることである。そして、もし他の人々が怠けているとしたら――もし他の人々が神に対してささげるべきものをささげていないとしたら――、その分だけ、あなたが、この上もなく勤勉にそうすべきずっと多くの理由があるのである。

 また、思い出すがいい。あなたの申し開きは具体的なものでなくてはならないであろう。最後の審判の日には、あなたは、大まかなところを慌ただしくざっと列挙すれば良いわけではない。しかり。「人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません」[マタ12:36]。さて、人々は個々の細目においてこそ道を踏み外すのである。「よろしい」、とある人は云うであろう。「もし私が自分の人生を総じて眺めるとしたら、私はそれほど恥じることはありません。ですが、あの細目が、あの小さな細目が――あれらこそが、その申し開きの悩ましい部分なのです。少しも突っつきたくない部分なのです」。あなたは、昨日のすべてが小さな事がらから成り立っていることを知っているだろうか? そして、きょうの事がらはみな小さく、明日あなたが行なうことはみな小さな事がらであろう。小さな貝殻が白亜質の丘々を成し、白亜質の丘々が寄り集まって山脈を成すように、取るに足らない行動の1つ1つがその申し開きの全体を成し、それらの1つ1つが個々にばらばらにされなくてはならない。あなたは先日一時間空き時間があった。――あなたは何をしただろうか? あなたには1つの声があった。――それをどのように用いただろうか? あなたには一本の洋筆があった。――あなたはそれを使うことができた。――それをどのように用いただろうか? それぞれの詳細が持ち出され、その1つ1つについての申し開きが要求されるであろう。おゝ、あなたが賢くなるとしたら、また、あなたがたがこの問題をなおざりにせず、むしろ、あなたのふるまいという音楽のあらゆる音符を取り上げ、それぞれの音符をその同輩たちと調和するものにしようと努めるとしたら、どんなに良いことか。それは、結局において、あなたの人生という詩篇が胸の悪くなるような不協和音になってはならないからである。おゝ、あなたがた、神なき人たちがこのことを覚えていられればどんなに良いことか。今のあなたの人生は、最後の大いなる日の裁判において、あなたを断罪という末路に追いやらずにはおかないようなものに違いない。

 さらに、その申し開きは、非常に厳密なものとなり、こうした小さな事がらを抜きにして免れることはないであろう。「おゝ! それらは、いくつかの、ちょっとした過ちで、実際、ごく小さな事がらですよ。私は決して全くそれらを問題にしたりしませんでした」。しかし、それらはみな、そのときには、問題にされるであろう。神が私たちの心を詳しく調べにおいでになるとき、神は単に大きなことばかりでなく、小さなことをもご覧になるであろう。あらゆることがのぞき込まれ、銭厘のような罪も、大金のような不義と同じとなる。――すべてが私たちに対して持ち出され、厳密な申し開きがなされなくてはならない。

 さらに、この点における最後のこととして、覚えておくがいい。その申し開きは、非常に公明正大なものであろう。最後の審判の日には、すべての人がその地位に全く関わりなく裁判にかけられるであろう。国王は、自分のタラントについて申し開きをするよう召還され、彼と隣り合って、彼の廷臣や奴隷が立たなくてはならない。世界一強大な皇帝も、世界一卑しい作男と同じように、神の法廷に立たなくてはならない。すべての人は、現われて、各自その肉体にあってした行為に応じて裁判を受けなくてはならない[IIコリ5:10]。私たちの信仰告白について云えば、それは何の役にも立たない。私たちは、自分の高慢によって世界に吐き気を催させるほどの、高慢きわまりない偽善者だったかもしれないが、あたかも下劣きわまりない罪人であったのと同じように、探られ、吟味されなくてはならない。私たちは、神の永遠の裁判所の前で裁判を受けなくてはならず、何物も私たちの裁判官に偏見を持たせることはできず、証拠を離れて、私たちに有利な、あるいは不利な意見を彼にいだかせることはできない。おゝ、このことは、この裁判をいかに厳粛なものとするであろう。特に、もし私たちが申し立てるべきキリストの血を有してない場合には! かの偉大な《弁護者》はご自分の民に、ご自分の転嫁された功績を通して、無罪放免を獲得してくださるであろう。彼らの罪は、それ自体では彼らを罪に定めているであろうが関係ない。しかし、覚えておくがいい。このお方がおられない場合、私たちは決してこの最後のすさまじい審理の燃える試練に耐え抜くことができない。「よろしい」、とひとりの老説教者入った。「律法が与えられたとき、シナイは煙っており、蝋のように溶けた。だが、律法の罰が与えられるときには、全地が震えおののき、ひるむであろう。というのも、誰が主の日に――神の燃える怒りの日に耐えられるだろうか?」

 III. 最後の点は、こうである。《もしも天来の恵みによって――(そして、これは天来の恵みによってしか成し遂げられえないことだが)――私たちの二タラントが正しく用いられるとしたら、私たちが五タラントを持たなかったという事実は、私たちに何の害ももたらさないであろう》

 あなたは云うであろう。教会の中心に立っていたような人、真理のための華々しい戦士が死ぬときには、御使いたちが天国の門という門に押し寄せて彼を出迎えるであろう。というのも、彼は強大な英雄であり、自分の《主人》のために多くのことを行なってきたからである。カルヴァンやルター級の人々は、いかなる喝采をもって受け入れられることか!――多くの才質を有し、自分にゆだねられたものに対して忠実であった人々である。しかり。だがあなたは知らないのだろうか? 多くの、つつましい村の牧師たちは、その群れが五十人にも足らないが、自分のいのちがかかっているかのように彼らのために骨折り仕事を行ない、彼らの幸福のために何時間も祈りに費やし、自分のなけなしの能力のすべてを用いても彼らをキリストのものにしようと努めているのである。では、あなたがたは、この人の天国への入城は、ルターのごとき人物の入城よりも、華々しくないと想像するのだろうか? もしそうだとしたら、あなたがたは神がいかに御民を扱われるかを分かっていないのである。神が彼らに賜る報いは、彼らに預けられたものの大きさによるのではなく、彼らの忠実さによるのである。これにより、「小さい事に忠実な人」[ルカ16:10]は、大きい事にも忠実であった人と同じくらいの報いを受けるのである。手短にこの章に目を向けて、このことを見てとってほしいと思う。最初に気づくのは、この二タラントの者が、五タラントの者と同じくらい大きな確信をもって主人のもとに出て来たということである。「来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました』」。私はこう云わざるをえないであろう。すなわち、あわれなこの二タラントの者は、それで商売している間、しばしば五タラント預かった自分の隣人を眺めては、こう云った。「おゝ、私も彼がしているのと同じくらいにできたらなあ! 見てみるがいい。彼には五タラントも元手があるのだ。そして、年々いかに多くの利益をあげていることか。おゝ、私にもあれだけのことができたらなあ!」 そして、やりくりしていく中で、彼はしばしばこう祈った。「おゝ、私の主よ。あなたにお仕えするための、より大きな能力と、より大きな恵みをお与えください。私は、もっと多くのことを行ないたいと切望しているからです。私には、五十もの国々を渡り歩いたような話はありません。パウロがしたように、国から国へと旅をしながら真理を宣べ伝えたなどと告げることもできません。そうです。私はこの教区にとどまっていなくてはならず、ほとんど飢え死にしそうになりながら、この信徒たちのために骨を折って働いています。そして、もし私がこの教会に十人から十二、三人でも人を増やしたとしたら、それは私にとって非常に大したことです。何と、聞けば、誰それ氏は一年間で二、三百人も人を増やす特権にあずかったといいます。おゝ、私にそうできたとしたら! 確かに私が天国に行くときには、私は何とかその扉にもぐり込むことでしょう。その一方で、彼は恵みによって、大胆に入ることができるでしょう。自分の麦束をかかえながら」。さあ、よすがいい。あわれで小さな信仰よ。よすがいい。あなたの《主人》は、そのようにはあなたを扱わない。あなたがやがて死ぬとき、あなたは主の恵みによって、あなたのよく用いられた二タラントによって、十タラントを持つあなたの同労者と同じくらいの確信を死について感じるであろう。というのも、そこに至るときにあなたは、自分の主の甘やかな臨在を有し、こう云うであろうからである。「私はキリストにあって全うされています。キリストの義が私を頭から爪先まで覆っています。そして、いま私の過去の生涯を振り返って見るとき、私はこう云えます。主の聖なる御名はほむべきかな。私にできたことは僅かですが、私は主のために自分にできる限りのことを行なってきました。私は主が私の数ある欠陥を容赦し、私の誤りを赦してくださると知っていますし、私は、自分のつつましい村の責任を眺めるとき、大きな喜びに包まれずにいることはできません。主が私にあそこで働くことを許してくださったのです」。そして、おゝ、私が思うに、その人が自分自身の良心によってよしとされるところは、もっと公にほめそやされてきた人にまさって豊かであろう。というのも、その人は、自分の信頼のすべてをキリストに置いた後で自分に向かってこう云えるからである。「よろしい。私は確かに、このことを名声のために行なってきたのではない。というのも、私は誰に見られることなく紅に染まったからだ。――私はあだに芳香を砂漠に散らしてきた。誰も、私の行為について読んできた者はいない。私の行なったことは、私自身と神との間のことであり、私は自分の報告を神に提出して、こう云うことができる。『主よ。私はこれをあなたのために行ないました。自分に誉れを帰すためではありません』」。しかり。愛する方々。私は今あなたに、この国にいる多くの熱心な伝道者たちについて告げることができる。彼らは、私たちの中の誰よりも熱心に働いているが、はるかに小さな誉れしかかちえていない。しかり。そして、私は何十人もの市内伝道者たちのことを持ち出すことができるであろう。キリストのための彼らの骨折りは、到底測り知れないほどの賞賛に値するものである。彼らは地上では決して大した報いを得ることがない。否、むしろ、侮辱や、軽蔑に出会う。あなたは、このあわれな人がきょう、この礼拝所からすぐさま出かけていくのを見るであろう。彼はきょうの午後、三時間かけて、病人を訪れ、彼らとともに過ごし、そして月曜日の朝にも姿を現わすであろう。彼は家々を巡り歩く。しばしばその扉は彼の前でぴしゃりと閉ざされる。しばしば烏合の衆や酔っぱらいに直面させられ、時として嘲られ、あざ笑われ、ありとあらゆる宗教的信念を有する人々、また、何の信念も持たない人々と出会う。彼はこつこつと働き続ける。彼には自分の小さな夕べの集会があり、そこにごく少人数の人々を集めては、彼らとともに祈ろうとする。そして、時々はひとり、また、ひとりと男女が回心していく。だが彼は何の誉れも受けとらない。彼はその人を教役者の所に連れて行き、こう云う。「先生。ここにいるのは良い人です。私は、この人が心に感銘を受けていると思います。先生の方でこの人にバプテスマを授けて、先生の教会に加入させてくださいませんか?」 教役者はすべての名声を得るが、そのあわれな市内伝道者について云えば、彼についてはほとんど、あるいは全く何も語られない。ことによると、単に彼の名前だけが、ブラウン氏、あるいはスミス氏として報告書の中で言及される時もあるが、人々は彼をほとんど重要視することがない。あるとすれば、自分たちが支えなくてはならない愛の対象としてかもしれない。だが実は、彼こそは人々に愛を与えている人なのである。自分のいのちの活力と血と髄とをすべて与える代わりに、六十ポンドかそこらしか受けないのである。これでは到底、彼の家族は欠乏しないではいられまい。しかし、愛する方々。彼が死んだときには、大群衆の前に立ち、国中をキリスト教信仰ゆえに高揚させることを許された人にもまさらずとも劣らぬほど、良心に責められるところがないのである。彼はキリストの義をまとって主人の前に出ては、恥じることのない顔つきをもって、こう云うであろう。「私は二タラント受け取りましたが、さらに二タラントもうけました」。

 さらにまた、しめくくりとして、あなたは次のことに気づくであろう。彼の《主人》の褒め言葉には何の差違もない。――報いについては何ら違いがない。どちらの場合も、それは、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」、であった。ここにホイットフィールドがやって来る。一度に二万人もの人々の前に立って福音を宣べ伝えた人物で、英国でも、スコットランドでも、アイルランドでも、米国でも神の真理を証しし、自分の回心者たちを数千人単位で数えることができた。それもただ一回の説教によってである! ここに彼はやって来る。迫害と嘲りに耐えたが、動かされることがなかった人――この世がふさわしい所ではなかった人[ヘブ11:38]、自分の同胞たる人々のために生き、最後には彼らのために死んだ人。そばに立って、賞賛するがいい、御使いたち。《主人》が彼の手を取り、こう仰せになる。「よくやった。よくやった。良い忠実なしもべだ。主人の喜びをともに喜んでくれ!」 見るがいい。いかに無代価の恵みが、自ら勇壮な働きを行なわせた人物に誉れを与えていることか。だが、聞けよ! そこへやって来たこの人は誰だろうか? あわれな、痩せぎすの女性で、地上では肺を病み、その頬のあちこちには消耗性の紅潮が見え、三年もの長きにわたって病床に伏していた。彼女は一国の王女ででもあったのだろうか? というのも、天国が彼女のことで沸き返っているように思えるからである。否。彼女は針仕事で暮らしを立てていた貧しい娘で、働き詰めのあまり死んでしまったのである!――朝から晩まで、縫って、縫って、縫い通しだったのである! そして、ここに彼女がやって来る。彼女は年若くして墓場に赴いたが、熟し切った麦束が倉に収められるように[ヨブ5:26]天国にやって来ている。そこで彼女の主人は仰せになる。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」。彼女はホイットフィールドの側の席に着く。これまで彼女が何をしてきたか聞いてみるがいい。すると、彼女はロンドンのどこか薄暗い裏通りの奥にある屋根裏部屋に住んでいたことが分かるであろう。そこには、もうひとりの貧しい娘が彼女とともに働くためにやって来るのだった。そのあわれな娘は、最初、彼女とともに働きにやって来たときには、陽気で浮ついた少女だったが、この肺病の少女が彼女にキリストについて語ったのである。そして、彼女の具合が悪くなる前の彼女たちは、晩になると部屋をそっと出ては会堂へと、あるいは教会へと連れ立って行くのだった。最初は、もう一方の娘を行かせるのは一苦労で、彼女は愛をもって相手を強いて懇願するものだった。そして、その娘が多少激昂するときにも、彼女は決して相手のことをあきらめなかった。彼女はこう云うのだった。「おゝ、ジェーン。私、あなたにも《救い主》を愛するようになってほしいのよ」。そして彼女は、ジェーンがいないときにはジェーンのために祈った。また、縫い終わったときには、聖書の一頁を彼女に読み聞かせてやった。あわれなジェーンは文字が読めなかったからである。そして、多くの涙をもって彼女に、彼女を愛して、ご自分を彼女のために渡された《救い主》について語ろうとした。とうとう、多くの困難な説得の日々と、多くの悲しい失望の時と、多くの涙に満ちた眠れぬ夜との後で、とうとう彼女はその娘がキリストに対する自分の愛を告白するのを生きて見ることができた。その後、彼女はその娘を残して病気になり、部屋で寝たきりになり、ついには病院に運び込まれて、そこで死んだのである。病院にいたときの彼女は数部の小冊子を手元に置いておき、見舞いに来る人々にそれを渡すのだった。彼女は、もしできるものなら、女たちに訪ねてきてもらいがった。そして、彼女たちに小冊子を与えるのだった。彼女は、病院に入ったばかりの頃には、寝床から這い出すことができた場合、死にかけている人のかたわらにいるようにし、看護婦も彼女にそうさせてくれた。病状が重くなりすぎて、とうとうそれもできなくなると、彼女は同じ病室の向かい側にいる、快方に向かっていて退院することになっているひとりの貧しい女に、枕元で聖書を一章読んでくれるように頼むのだった。彼女が読んでほしがったのは自分のためというよりも、その女のためであった。そうすれば、その女が読んでいる間に、聖書が心を打つだろうと考えたからである。ついにこのあわれな娘は死んで、イエスにあって眠ることとなった。そして、このあわれな肺病のお針子は、「よくやった」、と云われることになったのである。――御使いのかしらでさえ、これ以上に何を彼女に云えたであろう。――「彼女は、彼女にできたことを行なった」。

 では、《主人》の褒め言葉を見るがいい。そして、最後の報いは、自分のタラントをよく用いてきたすべての人々にとって等しいものとなるであろう。あゝ! もし栄光に種々の程度があるとしたら、それは私たちのタラントに従って分与されるのではなく、それを用いる私たちの忠実さに従って分与されるであろう。程度の差があるかないかについては私には分からない。だが、このことだけは分かっている。主のみこころを行なう者には、こう云われるであろう。「よくやった。良い忠実なしもべだ」、と。

 そして今、愛する方々。一言だけ云わせてほしい。私はあなたに、私たちの教会には、福音を絶えず宣べ伝えている多くの人々がいると告げた。私は、貧しい教役者たちからの手紙を何通か持ってきて読むことがある。だが、時々私は、それが思いやりを欠くことのように思われて、そうしないでしまうことがある。しかし、ある年にそうしたときには、献金額がほぼ二倍に跳ね上がったのである。それで私は礼儀に反することをしてでも、彼らの助けになることをしたいとほとんど本気で思うのである。しかしながら、私は厳粛に請け合うものだが、もしどこかに貧乏があるとしたら、それはバプテスト派の諸教会の教役者たちの間にある。そして、残念なことだが、その原因の一端は、信徒たち自身の責任なのである。彼らは献金をするという習慣があまりにも乏しいため、彼らの教役者たちは飢えさせられてしまうのである。さて、もしキリストが、多くの卑しい説教者たちに向かって、その死後に、「よくやった」、と仰せになるとしたら、あなたは教会が彼らを飢えさせることを主がお求めだと考えるだろうか? 彼らは、年間三十乃至四十ポンドで暮らしているのである。さて、兄弟たち。もしキリストが最後には、「よくやった」、と仰せになるとしたら、私たちは、主の判決を予期して、こう云って良いであろう。「きょう、よくやった」、と。では、私たちが何にもまして、「よくやった」、と云うしかたは、穀物をこなしている牛からくつこを外してやり[Iテモ5:18]、こうした貧しい教役者たちに対して、私たちへの神の御助けに従って、私たちの富の中から何がしかをささげて、彼らの必要が満たされるようにすることではないだろうか? 来年には、相当多くの、何十人もの人々が、今年あなたがささげるものに頼って生活することになるであろう。ことによると、あなたはそれを思い出して、彼らを助けるかもしれない。普段はここにやって来る、ひとりの親切な紳士は、こう云ってきている。「私は今晩そちらには行けませんが、私の一ポンドを前もって送りますので、先生の方で献金箱にお入れください」。そして私は信頼する。きょうこの場にいない誰かがいるとしても、その人は次の安息日にはここにいて、この献金のことを忘れないようにするであろう、と。それは常に私の教会の心にとって大切なことなのである。

  
 

二タラント[了]

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