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キリストの死

NO. 173

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1858年1月24日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる」。――イザ53:10


 何と無数の目が太陽を眺めていることであろう。何と大勢の人がその目を上げては、星々の輝く天球を見ていることであろう! それらは、幾万もの人々によって不断に見つめられている。――だが、世界の歴史の中には、1つの大いなる偉業があり、それは、花婿のように出てきては勇躍その走路を走る太陽[詩19:5]よりも、はるかに多くの人々の目を日々釘付けにしている。世には、1つの大いなる出来事があり、それは、太陽や、月や、星々がその道筋を行進する姿にもまして大きな称賛を日々集めている。その出来事とは、私たちの主イエス・キリストの死である。この出来事に、キリスト教時代以前に生きていたあらゆる聖徒たちの目は常に向けられていた。また、千有年余もの年月をさかのぼり、現代のあらゆる聖徒たちの目もそれを眺めている。キリストを、天の御使いたちは永久に凝視している。「それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです」[Iペテ1:12]、と使徒は云った。キリストの上に、贖われた者たちの無数の目は永久に据えられている。また、幾万もの巡礼たちがこの涙の世にある間、何にもまして信じていたのは、また、何にもまして見たいと願っていたのは、天国でキリストのありのままの姿を見ること、また、交わりのうちにその本質を見てとることである。愛する方々。私たちは今朝、顔をカルバリの山に向けている間、多くの者らとともにいることになるであろう。私たちは、私たちの《救い主》の死というこの恐ろしい悲劇を、ぽつんと目撃する者にはならないであろう。私たちが目を向けるのは、天国の喜びと楽しみの焦点にほかならない場所、私たちの主なる《救い主》イエス・キリストの十字架である。

 それでは、本日の聖句を道案内として、カルバリを訪れてみようと思う。聖霊の助けを希望しつつ、十字架上で死なれたお方を見上げてみよう。私が今朝あなたに注意してほしいのは、まず第一に、キリストの死の原因である。――「彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった」。原語によれば、「彼を砕いて、痛めることはエホバのみこころであった」。第二に、キリストの死の理由である。――「もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら」。キリストが死なれたのは、罪過のためのいけにえだったからである。そして第三に、キリストの死の効果と結果である。「彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる」。神聖なる御霊よ。今、来てください。私たちはこうした類もない事がらについて語ろうとしているのですから。

 I. 第一にここで示されているのは、《キリストの死の起源》である。「彼を砕いて、痛めることはエホバのみこころであった」。キリストの生涯をただの歴史としてだけ読む人は、キリストの死の原因をユダヤ人たちの敵意と、ローマ人総督の気まぐれな性格にあるとするであろう。そうすることは正しい。《救い主》の死という罪悪と罪の責任は人類にあるからである。人間という種族は、神殺しになり、主を殺害し、自らの《救い主》を木に釘づけた。しかし、聖書の隠された奥義を発見したいと願いつつ、信仰の目で聖書を読む人は、この《救い主》の死の中に、ローマ人の残虐性やユダヤ人の悪意以上のものを見てとるであろう。神の厳粛な聖定が人間によって成就されたのを見てとるであろう。人間は、それを成し遂げるための無知な、だが咎ある道具だったのである。その人は、ローマ人の槍や釘を越え、ユダヤ人の野次やあざけりを越えて、すべての流れ出るもとである《神聖な泉》を仰ぎ見る。キリストの十字架刑の原因が《神性》の御胸にあるのを見てとる。その人はペテロとともにこう信ずるであろう。――「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました」[使2:23]。私たちは、決して神にその罪を負わせようなどとするものではない。だが、それと同時に、この事実が――世界の贖いにもたらしたその種々の素晴らしい効果とともに――天来の愛という《神聖な泉》から出ていたことを常に悟らなくてはならない。この預言者も同じである。彼は云う。「彼を砕いて、痛めることはエホバのみこころであった」。彼は、ピラトもヘロデも眼中に入れず、その原因を天の御父――《神聖な三位一体》の第一《位格》――にまで辿っている。「彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった」。

 さて、愛する方々。多くの人々の考えるところ、父なる神は、良くてせいぜい、救いの傍観者にすぎない。他の人々は、それをも越えて御父のことを中傷する。彼らは御父を、意地悪で峻厳な《存在》とみなし、人類に何の愛もいだいておらず、私たちの《救い主》の死と苦悶によってのみ愛に満ちた者とすることができたお方としている。さて、これは、父なる神の麗しい、また、栄光に富む恵みに対する、むかつくような誹謗である。この御父にとこしえに誉れがあるように。というのも、イエス・キリストが死なれたのは、神を愛に満ちたお方とするためではなく、神が愛に満ちたお方であられたからなのである。

   「イエスの御座より くだり来て、
    苦しむ人と なりたるは
    つゆだに燃やす ためならず、
    御民(たみ)へのエホバの 愛の火を。

   「主の忍びたる 死にあらず、
    主の負われたる 激痛(いたみ)ならず。
    神の永遠(とわ)の愛 来たらすは。
    そは神 従前(もと)より 愛なれば」。

キリストが御父によって世に送り込まれたのは、ご自分の民に対する御父の愛情の結果であった。しかり。御父は、「実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」[ヨハ3:16]。事実、御父は、救いを聖定し、それを成し遂げ、それをお喜びになった点にかけては、御子なる神にも、聖霊なる神にも全く劣ることはなかった。そして私たちは、世の《救い主》について語るとき、それを広い意味で語る場合には常に、その言葉の中に、父なる神、子なる神、聖霊なる神を含まなくてはならない。というのも、この御三方すべてはひとりの神であり、私たちを私たちのもろもろの罪から救ってくださるからである。この聖句は、御父に関するあらゆる非情な考えを取り除くものである。イエス・キリストを砕くことはエホバのみこころであったと私たちに告げているからである。キリストの死の起こりは、父なる神にある。そのように見てとれるかどうかみてみよう。

 1. まず、その起こりは聖定にある。神は――天地の唯一の神は――、運命の書を全くご自分の意のままに握っておられる。その書の中に、他人の手によって書き込まれたものは何もない。予定というこの厳粛な書物の筆跡は、徹頭徹尾、全く神のものである。

   「御座に繋(つな)がる 一冊(ひとつ)の巻物(ふみ)あり、
    そこにあらゆる 人の運命(さだめ)と
    天つ御使(つかい)の かたちと嵩(かさ)とが
    記されおりぬ、永久(とわ)の筆もて」。

それに劣る手が摂理の一部を走り書きしたことは、いかに微少な部分でさえ決してない。それは、そのアルファからオメガに至るまで、また、その天来の序文から、その厳粛な「完」に至るまで、知恵に満ちた全知の神によって、ことごとく区割りされ、設計され、概略を作られ、計画された。それゆえ、キリストの死でさえ決してその例外ではなかった。御使いに翼をつけ、雀をお導きになるお方、私たちの頭の髪の毛一本すら時至らぬうちには地に落ちないよう守っておられるお方は、これほど小さな事がらにも注意を払っておられた以上、その厳粛な聖定の中で、地上の奇蹟の中でも最大の驚異たること、すなわち、キリストの死を省くなどということはありそうもなかった。しかり。その書の、あの血染めの頁、過去と未来の双方を黄金の言葉で栄光に富むものとしているあの頁――その血染めの頁は、私は云うが、他のどの頁とも同じようにエホバによって書き記されたのである。エホバは、キリストが処女マリヤから生まれることをお決めになり、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受けること、よみに下ること、そこから多くの捕虜を引き連れてよみがえること、それから、すぐれて高い所の大能者の右の座で永遠に統治されることをお決めになった。しかり。私も、自分の裏づけとして聖書を有していなかったとしたら、こうは云えなかったが、まさにこれこそ予定の核心なのである。そして、キリストの死は、神が他のあらゆる聖定を形成するもととなった中心そのものであり、主ぜんまいなのである。神はこのことを、神聖な建造物を築き上げるべき根底とし、土台石となさったのである。キリストが死に至らされたのは、父なる神の絶対的な予知と厳粛な聖定によるものであり、その意味において、「彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった」。

 2. しかし、もう少し先へ進んで、キリストが死ぬために世に来られたのは、御父の意志とみこころの結果であった。キリストは遣わされもせずにこの世にやって来られたのではない。キリストは、すべての世に先立ってエホバのふところにいだかれており、ご自分の御父の中にいることを永遠に喜び、ご自身もその御父の永遠の喜びであられた。だが、「時満ちるに及んで」、神はご自分の御子、ご自分のひとり子を、そのふところから引き裂いて、惜しみなく私たちすべてのために引き渡された。ここにこそ、比類もなく、並びもない愛があった。罪を犯された審き主が、反逆の民の贖いのために、ご自分と同等であられる御子が死の苦痛を忍ぶことをお許しになるというのである。ほんの一時、あなたの想像力で、古の時代の一場面を思い描いてほしい。そこにひとりの白鬚の族長がいる。彼は朝早く起き出しては、息子を揺り起こす。力に満ちた青年である息子に、彼は起きてついて来るように云う。急いで彼らは、母親が起きる前に物音も立てず静かに家を出る。彼らは召使いたちを連れて、三日の旅路を行き、ついに主がお語りになった山に辿り着く。あなたはこの族長を知っているであろう。アブラハムの名は常に私たちの記憶の中に瑞々しいものがある。その途上、この族長は息子に一言も口をきかない。言葉を発せないほど、万感の思いが心にあふれんばかりになっているのである。彼は悲嘆に圧倒されている。神は彼に、その子を、そのひとり子を取っては山の上で殺していけにえにせよと命令されたのである。彼らは連れ立って行く。この、愛するわが子と隣り合って歩きながら、やがてその子の処刑者とならなくてはならない父親の、云い知れようもない魂の苦悶を誰が描き出せるだろうか? 三日目になった。しもべたちは、彼らが向こうで神を礼拝している間、丘のふもとで待っているように命じられる。さて、いかなる者に想像できようか。山腹を上って行く間、その子が彼にこう云ったとき、この父親の悲嘆がその魂のあらゆる堰を切って、いかにあふれ出したに違いないかを。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか」[創22:7]。あなたに思い浮かぶだろうか、いかに彼が自分の感情を押さえつけ、涙にむせびながら、こう叫んだかを。「イサク。神ご自身が羊を備えてくださるのだ」*[創22:8]。見よ! 父は息子に伝えたのである。神が彼のいのちを求められたという事実を。イサクは、抵抗することも父親のもとから逃げ出すこともできたが、神の命ぜられたことであれば、喜んで死にますと宣言する。父はわが子を取り、後ろ手に縛って、石を積み上げては祭壇を築き、たきぎを並べ、その火を用意した。さて今、その父の面に浮かぶ悲痛さを、いかなる画家に描き切れるだろうか? 短刀の鞘を払い、それを高く掲げて、今にもわが子を殺そうとしている父親のその表情を。しかし、ここで緞帳が落ちる。今や、その暗い場面は、天からの声の響きによって消え失せる。やぶに引っかかっていた雄羊が代わりになり、信仰の従順はこれ以上先へ行く必要がなくなる。あゝ! 私の兄弟たち。私はあなたをこの場面から、はるかに偉大な場面へと連れて行きたいと思う。信仰と従順が人にさせたこと、それを愛は神ご自身にしいて行なわせたのである。神にはひとりしか子がおられなかった。その子は神ご自身の心の喜びであった。神は私たちの贖いのためにその子を引き渡す契約を結ばれた。また、ご自分の約束を破ることもなさらなかった。というのも、定めの時が来たとき、神はご自分の御子を処女マリヤから生まれさせ、御子が人のもろもろの罪のために苦しむようにさせたからである。おゝ! あなたがたに、その愛の大きさが告げられるだろうか? 永遠の神をして、単にその御子を祭壇の上に置かせたばかりでなく、実際にその行為を行なわせ、その犠牲用の短刀を御子の心臓に突き刺させたその愛の大きさを。あなたには、人類に対する神の愛がいかに圧倒的なものであったに違いないか、考えられるだろうか? 神はアブラハムが単に意図の中だけで行なった行為を最後まで成し遂げたのである。そこを眺めるがいい。見るがいい。神のひとり子が死んで十字架から吊り下がり、覚醒した正義により血を流す犠牲となっているその場所を! まさにここに愛がある。そして、ここに私たちは見てとるのである。いかにして彼を砕いて痛めることが御父のみこころであったかを。

 3. これによって私は、本日の聖句をもう一点先へ進めることができる。愛する方々。事実、神は、単にキリストの死を計画し、進んでそれをお許しになったばかりではない。それ以上に、《救い主》の死をこの世のものならざる恐怖とした名状しがたい苦悶の数々は、まぎれもなく、まさに御父がキリストを砕いておられた効果であった。ひとりの殉教者が牢獄の中におり、鎖が彼の手首を縛っている。だが彼は歌っている。すでに彼は、明日が自分の火刑の日であると宣告されている。彼は両手を陽気に打ち鳴らすと、微笑んでこう云う。「明日の務めは目まぐるしいものになりますな。朝は下界の患難の火の上で朝食を取り、それからキリストとの夕餉のお相伴にあずかるのですから。明日は私の婚礼の日です。長い間、慕い求めてきた日なのです。明日、私は、栄光に富む死によって自分の人生の証言に署名することになるのです」。その時がやって来る。鉾槍をかかえた者らが彼を先導して町通りを進む。この殉教者の面差しの晴朗さに注目するがいい。自分を見つめる人々の一部に目を向けて、彼はこう叫ぶ。「私は、この鉄の鎖を黄金の鎖よりもはるかに尊く思います。キリストのために死ぬのは甘やかなことです」。彼が服を脱ぎ、自らの非命を受け入れるべく薪束の上に立つ前に、聖徒たちの中でも最も大胆な人々が数名、その火刑柱の回りに集まる。彼らに向かって彼は、キリストの兵士となること、自分のからだを焼かれるためにささげるのを許されることは喜ばしいことだと告げる。それから彼らと握手すると、彼は、「さようなら」、と朗らかな顔つきで告げる。人には、彼がこれから焼かれようとしているよりも、結婚式に行こうとしているかのように思われるであろう。彼が薪束の上に乗ると、鎖が彼の胴に巻き付けられる。短い祈りの言葉の後で、火が立ち上り始めるや否や、彼は雄々しい大胆さとともに人々に語りかける。しかし、聞けよ! 彼は薪束がぱちぱちはぜる間も、煙が吹き上がる間も、歌っているのである。彼は歌う。下半身が焼けてしまっても、なおも、古の詩篇のいくつかを甘く歌い続ける。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも」[詩46:1-2]。

 別の場面を思い描くがいい。そこでは《救い主》が十字架に赴こうとしている。苦しみのあまり、ぐったりとし、蒼白になっている。その魂は、主の内側で思い乱れ、悲しんでいる。そこには天来の沈着さは全くない。その心臓も同じであり、主は街路で失神する。神の御子は、数多くの犯罪人が運んできたであろう十字架の下で気を失う。彼らは主を木に釘づけにする。そこには何の賛美の歌もない。主は空中に掲げ上げられ、そこに吊り下げられて死を待つ。あなたには何の歓喜の叫びも聞こえない。主の御顔は厳めしく引き歪められている。あたかも云い知れようのない苦悶がその心を引き裂いているかのようである。――さながら、ゲツセマネが再び十字架上で再現されているか――あるいは、主の魂が再びこう云っているかに思える。「できますならば、この十字架をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」*[マタ26:39]。あゝ! 否。それは、決して真似しようもないほど、恐ろしい苦悩の呻きである。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]。殉教者たちはそうは云わなかった。神は彼らとともにおられた。古の信仰告白者たちは、死に至ったときそうは叫ばなかった。彼らはその火焔の中から大声で叫び、その拷問台の上で神を賛美した。これはなぜなのか? なぜ《救い主》はあのように苦しまれたのか? 何と、愛する方々。それは、御父が主を砕かれたからである。多くの死に行く聖徒を励ましてきた、神の御顔の日差しは、キリストから引き揚げられた。多くの聖なる人に喜んで十字架を支えさせてきた、自分が神に受け入れられているという意識は、私たちの《贖い主》には供されなかった。それゆえ主は、心における濃密な暗黒の苦悶の中で苦しまれたのである。詩篇22篇を読み、いかにイエスが苦しまれたかを学ぶがいい。1節、2節、6節以下の厳粛な言葉の上で沈黙するがいい。《教会》の下には永遠の腕がある。だがキリストの下には全く何の腕もなかった。むしろ、御父の御手が重く主にのしかかっていた。天来の御怒りの上臼と下臼が主を圧搾し破砕していた。そして、一滴の喜びも慰藉も主には供されなかった。「彼を砕いて、痛めることはエホバのみこころであった」。これこそ、私の兄弟たち。《救い主》の苦悩の絶頂であった。ご自分の御父が顔を背け、主を痛めつけておられたのである。

 このように私は、この主題の第一の部分を解き明かした。――私たちの《救い主》の最悪の苦しみの起源、すなわち、御父のみこころである。

 II. 私たちの第二の項目は、第一の項目を説き明かすものである。さもなければ、いかにして神がご自分の御子を砕くなどということをなさるかは、解決不能な神秘である。御子は完璧に無罪であられたが、あわれな、また、誤りがちな信仰告白者や殉教者たちは、彼らの試練のとき、神からそのように砕かれることはなかった。《何が救い主の苦しみの理由だったのか?》 ここで私たちは、こう告げられている。「彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら」。キリストがあのように悩みを受けたのは、その魂が罪過のためのいけにえだったからである。さて、私はできる限り平易なしかたで、私たちの主キリスト・イエスの贖罪という尊い教理についてもう一度宣べ伝えよう。キリストは、身代わりという意味で、罪過のためのいけにえであった。神は救おうと切望しておられた。だが、もしこのような言葉が許されるとしたら、《正義》が神の両手を縛っていた。「わたしは正しくなくてはならない」、と神は云われた。「それは、わたしの性質にとって選択の自由のないことだ。運命のように厳格で、不易のごとく堅いもの、それは、わたしが正しくなくてはならないという真理である。しかしその一方で、わたしの心は許すことを願っている。――《人》のそむきの罪を見過ごしにし、彼らを赦してやりたい。いかにすれば、それが可能だろうか?」 《知恵》が前に進み出て、こう云った。「このようにすればできます」。《愛》も《知恵》に同意した。「神の御子キリスト・イエスが人の立場につくのです。そして、カルバリ山の上で人の代わりにいけにえになるのです」。さて、よく聞くがいい。キリストがあの《破滅の山》を登って行くのを見るとき、あなたは、人間がそこに向かいつつあるのを見ているのである。キリストが木の十字架の上に仰向けに投げ倒されるのを見るとき、あなたは主の選民たちの全集団をそこに見ているのである。そして、あの釘が主のほむべき御手と御足を刺し貫くのを見るとき、それは主の《教会》の全体がそこで、自分たちの身代わりにおいて、木に釘づけられているのである。そして今、あの兵士たちが十字架を持ち上げ、用意されていた軸穴に叩き込む。主の骨々はみなはずれてしまう。こうして主のからだは、言語に絶する苦悶で引き裂かれる。そこでは人間性が苦しんでいるのである。そこでは《教会》が、その身代わりにおいて、苦しんでいるのである。そしてキリストが死ぬとき、あなたはその死を、単にキリストご自身が死んだばかりでなく、キリストがあのアザゼルのための山羊[レビ16:8]として、すなわち、身代わりとして立たれた者たち全員が死んだものとみなすべきである。確かに、キリストは自らも真実に死なれた。だが、それと等しく真実なのは、主がご自分のために死んだのではなく、身代わりとして、信仰者たちの代わりに、代理として、彼らに成り代わって死なれた、ということである。あなたが死ぬとき、あなたはあなた自身のために死ぬであろう。だが、もしあなたが主を信じているとしたら、キリストが死んだとき、キリストはあなたのために死なれたのである。あなたが墓の門を通り過ぎるとき、あなたはそこへひとりきりで孤独に赴く。あなたが、一団の人々の代理になることはなく、個人として死の門を通り過ぎる。だが、覚えておくがいい。キリストが死の苦しみをくぐり抜けたとき、主はご自分の民全員を代表する《かしら》であったのである。

 では、キリストが罪過のための犠牲となられた意味を理解するがいい。しかし、この件の栄光は、ここに存している。罪のための身代わりとしてこそ、主は現実に、また、文字通りに、その選民全員の罪のための罰を受けられたのである。私がこう云うとき、何か物の例えを用いていると理解すべきではない。むしろ私は、口にしている通りのことを現実に意味しているのである。人は自分の罪ゆえに永遠の火へと断罪されていた。神がキリストを身代わりとして取られたとき、確かに神はキリストを永遠の火の中に送り込みはしなかったが、神がキリストの上にぶちまけた災いのすさまじさは、永遠の火にすら匹敵する懲罰であった。人は永遠に地獄の中で生きるように断罪されていた。神はキリストを永遠に地獄に送り込みはしなかったが、それに相応する刑罰をキリストの上に載せられた。神は信仰者たちが現実に行くはずだった地獄をキリストに飲ませはしなかったが、それでもキリストにはquid pro quo――それに相当するもの――をお与えになった。神はキリストの苦悶の杯を取り、その中に、神にしか想像することも、夢に描くこともできないほどの苦しみと、悲惨と、苦悩とをつぎ込まれた。それは、キリストの血によって買い取られ、最後には天国に立つことになる者たちひとりひとりの、あらゆる苦しみと、あらゆる災厄と、あらゆる永遠の苦悶のすべてと全く同等のものであった。すると、あなたは云うであろう。「キリストはそのすべてを飲み尽くしたのですか?」 主はそのすべてを苦しまれたのですか? しかり。私の兄弟たち。主はその杯を取り、

   「愛の勝利(かち)たる 一飲みにて
    主は断罪を 飲み干せり」。

主は地獄のあらゆる恐怖を忍ばれた。鉄の憤りが叩きつけるように一度に主の上に殺到し、何貫目にも当たる雹の粒が降り注いだ。そして主は、その黒雲が全く枯渇するまでそこに立っておられた。そこには私たちの巨大な、また途方もない負債があった。主はご自分の民の借財を最後の一銭に至るまで払ってくださった。そして今や、いかなる信仰者も、刑罰という点では、一文一銭といえども神の正義に対して支払うべき筋合いはない。確かに私たちは、神に感謝を負っているが、また、神の愛に多くを負っているが、神の正義には何物も負ってはいない。というのも、キリストは、かの時に、私たちのもろもろの罪の一切を――過去の罪、現在の罪、来たるべき罪のすべてを――取り上げて、そのすべてのために、その場で罰されたからである。それは、主が私たちの身代わりに苦しまれたので、私たちが決して罰を受けないようになるためであった。では、あなたには、どのように父なる神が主を砕かれたかが見てとれないだろうか? 神がそうされたのでない限り、キリストの苦悶は私たちの苦しみに相当するものでありえたはずがない。というのも、地獄は罪人たちから神が御顔を隠すことに存しており、もし神が御顔をキリストから隠されたのでなかったとしたら、決してキリストは、ご自分の民の災厄と苦悶に相当するものとして受け入れられるような苦しみを忍びえたはずがなかった。――そうとしか、私には考えられない。

 私は誰かがこう云っているのが聞こえるような気がする。「あなたは、いま宣べ伝えたようなこの贖罪を、文字通りの事実として理解せよと云っているのですか?」 私は云う。最も粛然たるしかたで、その通りである、と。世には数多くの贖罪の理論があるが、私は、この代償の教理以外のどの理論にも、何ら贖罪を見いだすことができない。多くの神学者たちによると、キリストは、ご自分が死んだとき、神ご自身が義であり、また、不敬虔な者を義とお認めになることを可能にするような何かを行なったのだという。その何かとは何かを、彼らは私たちに告げない。彼らは、万人のための贖罪を信じている。だが、そのとき、彼らの云う贖罪とはこのようなものなのである。すなわち、彼らの信ずるところ、ユダはペテロと全く同じくらい贖われていた。彼らの信ずるところ、地獄に落ちた者たちは、天国で救われている者たちと同じくらいイエス・キリストの償いの対象であった。そして、表立ってそう云いはしないものの、それでも彼らが意味しているに違いないところ(というのも、それが正当な推論だからであるが)、おびただしい数の人々の場合、キリストは無駄死にしたのである。というのも、彼らの云うところ、主は彼ら全員のために死なれたが、主の死は効力が乏しすぎて、主が彼らのために死なれたにもかかわらず、彼らは後に地獄落ちとなったからである。さて、このような贖罪を私は軽蔑する。――これを拒絶する。私は、限定的贖罪を宣べ伝えているがために、無律法主義者だとかカルヴァン主義者だとか呼ばれるかもしれない。だが私は、人間の意志が加わらない限り誰にとっても効力がないような普遍的贖罪を信ずるよりは、むしろ、意図されたすべての人々にとって効力がある限定的贖罪を信じたいと思う。何と、私の兄弟たち。もし私たちがキリストの死によって受けた贖罪が、単に、私たちの中の誰かを、やがて自分で自分を救えるようにさせるという程度のものでしかなかったとしたら、キリストの贖罪には一銭の価値もなかったであろう。というのも、私たちの中の誰も――福音のもとにない限り――自分で自分を救うことはできないからである。というのも、たとい私が信仰によって救われることがありえるとしても、もしその信仰が、聖霊の助けを受けない私自身の行為であるとしたら、私は、善行によって自分を救うことができないのと同じくらい、信仰によって自分を救うことはできないからである。そして結局これは、人々がこれを限定的贖罪と呼ぼうが、彼ら自身の虚偽の、また腐り果てた各種の贖いがそうできると触れ込んでいるのと同じくらいには効力があるのである。しかし、あなたは、この限定的贖罪の限度を知っているだろうか? キリストは、「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」[黙7:9]を買い取られたのである。その限度はまさにこれである。主は罪人たちのために死なれた。この会衆の中にいる誰であれ、自分の内側で、悲しみながら、自分が罪人であると分かっているとしたら、その人のためにキリストは死なれたのである。キリストを求める人は誰でもキリストが自分のために死なれたと分かるであろう。というのも、私たちがキリストを必要だと感ずること、また、キリストを求めることこそ、キリストが私たちのために死なれたことを示す過ちようのない証拠だからである。そして、よく聞くがいい。ここには重要なものがある。アルミニウス主義者はキリストが自分のために死なれたと云うが、あわれな人よ。そのとき彼はそこからごく小さな慰藉しか引き出せない。というのも、彼はこう云っているからである。「あゝ! キリストは私のために死なれた。それは大したことではない。それは単に、私が自分の追い求しているものを心がけるなら救われることもありえるというだけのことだ。私はことによると、うっかり足を踏み外すかもしれない。罪に陥るかもしれない。そうしたら、私は滅びることがありえるのだ。キリストは私のために大きなことをしてくださった。だが、それで十分ではない。私が何かを行なわなければならないのだ」。しかし、聖書をありのまま受け取る人は、こう云う。「キリストは私のために死なれた。それで私の永遠のいのちは確かなのだ。私には分かっている」、と彼は云う。「キリストがある者の代わりに罰を受けたのに、その者が後で罰を受けることはありえない、と」。「しかり」、と彼は云う。「私は義なる神を信ずる。そして、もし神が義であるとしたら、まずキリストを罰して、それから人々を後で罰するなどということはしないであろう。しかり。私たちの《救い主》は死なれた。それで私はいま、神の復讐のあらゆる要求から自由なのだ。また、この世を大手を振って歩くことができるのだ。いかなる雷電が私を打つこともなく、私は絶対に確信して死ぬことができるのだ。私のためには何の地獄の火炎もなく、いかなる穴も掘られていない、と。というのも、私の贖いの代価であるキリストが私に代わって苦しまれたのだから。それゆえ、私はきれいさっぱり解放されているのだ」。おゝ! 栄光に富む教理よ! 私はこれを宣べ伝えながら死にたい! 一体、神の愛と真実さについて私たちに行なうことのできる最高の証言は、キリストを信ずるすべての者には、この上もない満足を与える代償があるという以上に何があるだろうか? 私はここで、かの傑出して深遠な神学者ジョン・オーウェン博士の証言を引用したいと思う。――「贖いとは、身代金の介入によって、人を悲惨から自由にすることである。さて、ある身代金が囚人を自由にするために支払われるとき、正義の要求によれば、当然、彼は、そのように価値ある対価をもって自分のために獲得された自由を受けとり、享受するはずではないだろうか? もしも私が、ある男を拘束から解放するために、彼を拘禁している男に一千ポンドを支払うとしたら、その男が彼を自由にする権限を有しており、また、私の与えた金額に満足する場合、このあわれな囚人の解放が実現しないというのは、私にとっても彼にとっても不正なことではないだろうか? 一体全体、人々の贖いがなされたのに、そうした人々が放免されないなどということが考えられるだろうか? 代金が支払われたのに、買い物が終了しないなどということがありえるだろうか? だがしかし、普遍的贖いを主張するとしたら、そうしたことが――また、他の無数の馬鹿げた事がらが――真実とされなくてはならないのである。すべての人のための代金が払われているが、僅かな者しか解放されず、万人の贖いが完成されているが、そのうち僅かな者しか放免されず、牢番は打ち負かされたが、囚人たちは幽閉されたままであると! 疑いもなく、『普遍的』という言葉と、大部分の人々が滅びていくような『贖い』という言葉のはなはだしいちぐはぐさは、『ローマ』という言葉と、『カトリック』(公同の)という言葉のちぐはぐさに匹敵している。もし万人の普遍的贖いがあるとしたら、彼らは、かりそめのものであれ現実のものであれ、自分たちが幽閉されている、あらゆる悲惨から解放されるはずである。身代金による介入によって、そうなるはずである。何と、それでは、万人は救われないのだろうか? 一言で云うと、キリストによって作り出された贖いが、人々を完全に解放し、あらゆる悲惨から放免するものであり、かつ、そこにおいて彼らがキリストの血の代価によって包み込まれているとしたら、万人が救われるのでない限り、それが普遍的なものであるなどということは到底思い描くことができない。それで普遍救済論者の意見は贖いにとって不適当なのである」。

 私はここで再び立ち止まりたい。というのも、ある臆病な魂がこう云っているのが聞こえるからである。――「ですが、先生。私は自分が選ばれていないのではないかと心配なんです。もしそうだとしたら、キリストは私のためには死ななかったわけでしょう」。しばし待て! あなたは罪人だろうか? そう感じているだろうか? 聖霊なる神はあなたに、あなたが失われた罪人であると感じさせてこられただろうか? あなたは救いを欲しているだろうか? 欲していないとしたら、それがあなたに供されていないとしても、何ら辛いことにはならない。だがもしあなたが本当に自分はそれを欲していると感じているとしたら、あなたは神に選ばれた民である。もしあなたが救われたいという願いを有しているとしたら、聖霊からあなたに与えられた願いがあるとしたら、その願いは良いことのしるしである。もしあなたが救いのために信じて祈ることを始めているとしたら、あなたは、そこにあなたが救われるという確かな証拠を有している。キリストはあなたのために罰された。そして、もしあなたが今、

   「わが手にもてる もの何もなし
    ただ十字架に われはすがらん」

と祈れるとしたら、あなたは、自分が存在していることについて確かであるのと同じくらい、自分が神の選ばれた民であることについて確かであって良い。というのも、このことは誤りない選びの証拠だからである。――必要を感じ、キリストを渇き求めるということは。

 III. さて今、私はしめくくりとして、《救い主》の死の《ほむべき効果》についてのみ注意することにしよう。この点についてはごく手短に告げたい。

 《救い主》の死の最初の効果は、「彼は……子孫を見ることができ」るということである。人々はキリストによって救われることになる。人々は生によって子孫を有するが、キリストは死によって子孫を有する。人々は死んで、その子どもたちを残し、彼らの子孫を見ることはない。キリストは生きており、日々ご自分の子孫が信仰の統一体の中へと導き入れられてくるのをご覧になっている。キリストの死の1つの効果は、大群衆の救いである。よく聞くがいい。そのように多くの者らが救われたのは偶然ではない。キリストが死なれたとき、御使いが次のように云うことはなかった(ある人々は彼がそう云ったと述べてきたが)。「さて、彼の死によって、多くの人々が救われる可能性が出てきたわい」。この預言の言葉は、「だがもしかすると」、だの、「ひょっとすると」、だのの一切を黙らせている。「彼は、その義によって多くの人を義とする」*[イザ53:11]。《救い主》の死に、出たとこ勝負の要素は微塵もない。キリストは、ご自分が死なれたとき、何を買い取られたか知っておられた。そして主は、ご自分が買い取られたものをご自分のものになさるであろう。――掛け値なしに、それ以上でも、それ以下でもなく。キリストの死には、運まかせにされているような効果は何1つない。幾多の「〜する」、また、「〜になる」が、この契約を堅固にしている。キリストの血まみれの死は、その厳粛な目的を果たすことになる。恵みの相続人はひとり残らず御座の回りで相会い、

   「主の御恵みの 奇しきをたたえ
    み栄えたかく 告げ知らせん」。

 キリストの死の二番目の効果は、「彼は末長く」あるということである。しかり。主の御名はほむべきかな。主は、死なれたとき、その生を終えたわけではなかった。主は墓の中に囚人として長く留められていることはありえなかった。三日目の朝がやって来て、この勝利者はその眠りから起き上がると、死の鉄の縄目をはじき飛ばし、その牢獄から出て来て、もはや死ぬことはなくなる。主はその四十日間を待たれ、神聖な歌の歓呼とともに、「多くの捕虜を引き連れ、高い所に上られた」*[エペ4:8]。「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられる」[ロマ6:10]のであり、もはや死ぬことはないのである。

   「今や御父の かたわらに座し
    主は勝ちてあり 統(す)べ給う」。

 そして、最後の最後に、キリストの死によって、神のみこころは成し遂げられ、大きく栄えることになった。神のみこころは、この世がいつの日か罪から完全に贖われることである。神のみこころは、このあわれな、かくも長きにわたり暗闇の中にくるみこまれていた惑星が、じきに生まれたばかりの太陽のように燦然と輝き出すようになることである。キリストの死はそれをなした。カルバリでその御脇腹から流れ出た川は、この世をそのあらゆる暗黒からきよめることになる。かの真昼の闇の時は、新しい義の太陽の昇天であり、その太陽は決して地を照らすことをやめない。しかり。来たるべきそのとき、剣や槍は忘れ去れた物となる。――戦いの装備や物々しく華麗な行列はことごとく打ち捨てられて、うじ虫のえさか、好事家が思い巡らす対象となる。来たりつつあるその時、古きローマはその七つの丘の上で身震いし、マホメットの三日月は漸次欠けて行っては二度と満ちることがなく、異教徒たちの神々はみなその玉座を失い、もぐらや、こうもりに投げやられる[イザ2:20]。そしてそのとき、赤道から両極点に至るまで、キリストは誉れを帰され、地の《最高権者》となり、地から地へ、川から地の果てに至るまで、ひとりの《王》が統治し、1つの大声があがる。「ハレルヤ。ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた」*[黙19:6]。そのときには、私の兄弟たち。キリストの死が何を成し遂げたかが見てとられるであろう。というのも、「主のみこころは彼によって成し遂げられる」からである。

  
 

キリストの死[了]
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