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キリストの不変性

NO. 170

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1858年1月3日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」。――ヘブ13:8


 変わることなきお方がおられるというのは、ありがたいことである。人生というこの変転絶え間ないわたつみのただ中に、1つの堅固な岩があるというのは、ありがたいことである。というのも、昨年の間、いかに多くの、また、いかに痛ましい変化が起こったであろう? あなたがたの中のいかに多くの人々が、富み栄えつつ一年を始めながら、国々を揺り動かした恐慌によって貧乏人も同然に成り下がってしまったことか。あなたがたの中のいかに多くの人々が、昨年最初の安息日には、ぴんぴんしながら大股でこの場所に歩き入ってきたのに、きょうはよろよろと入って来ては、こう感じざるをえなかったことか。自分は鼻で息をする人間にすぎず、何の値うちもないのだ、と[イザ2:22]。あなたがたの中の多くの人々は、かつてこの集会所にやって来たときには、大勢の家族がいたし、かけがえのない愛する友たちの腕によりかかっていた。あゝ、その愛する人々は! もし今のあなたがひとりきりで、かたわらに誰もいないとしたら。おゝ、地よ! それは、あなたがたが最愛の人々を葬ってきたということにほかならない。あなたがたの中のある人々は、子どもを喪って、あるいは寡婦となって、あるいは父親を亡くして、今なお味わって間もない苦しみに涙しながらこの場にやって来た。あなたの境遇は多くの点で変わってしまい、それがあなたの心をみじめさで一杯にしている。あなたの甘美な杯は、苦みを一飲みしたことで打ち砕かれてしまった。あなたの黄金の収穫のただ中には、毒麦が投げ入れられており、あなたは尊い穀物と合わせて、毒性の雑草を刈り取らなくてはならなかった。あなたの純金の多くはくすんでしまい、あなたの栄光は離れ去った。昨年の年頭には甘やかだった心持ちは、年末には苦々しいものとなってしまっていた。あなたの歓喜や喜悦は、抑鬱や不安感に変わってしまった。悲しいかな! 私たちの数々の変化は。そして、いかなる変化も生じないお方をほめたたえよ。

 しかし、私たちより大きな物事も変化している。諸処の王国が秤の上で震えているからである。私たちは、ある半島が血の海となり、反乱軍が血に飢えた鬨の声をあげるのを見てきた。否。全世界が変わってしまった。地上はその緑を脱ぎ捨てて、《秋》のくすんだ衣裳をまとい、すぐにもその雪白の外套を着ようとしている。万物は変わってしまった。私たちの信ずるところ、見かけだけでなく実質においても、世界は古びつつある。太陽そのものが、じきに年老いて薄暗くなるに違いない。古びた外套は巻かれ出している[ヘブ1:12]。天地が一新されるときは、確かに始まっている。これらのものは滅びる。すべてのものは着物のように古びる[ヘブ1:11]。だが、永遠にほむべきは、変わることがなく、その年が終わることのないお方である。何日間も翻弄された後で、堅い岸辺に足をおろした船乗りが感じる満足は、まさしくキリスト者が、この騒然たる人生のあらゆる変化のただ中で、その信仰の足をこのような聖句に踏まえるとき覚える満足と全く変わらない。――「きのうもきょうも、いつまでも、同じです」。錨が最終的にどこかの不動の岩をしっかりつかんだとき船にもたらされる確固さ、それと同じ確固さを私たちの希望は、錨のようにこの栄光に富む真理に自らを固定させるとき、私たちの霊にもたらすのである。――「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」。

 私は今朝まず第一に、多少の説明を加えてこの聖句を説き明かしたいと思う。次に、私たちのよこしまな不信仰が必ずやそれに対してあげるであろう多少の反論に答えるようにしたいと思う。その後で、このイエス・キリストの不変性という偉大な教理から、いくつかの有益で、慰められる、実際的な教訓を引き出すようにしたいと思う。

 I. まず第一に、多少の《説明》によって、この聖句を説き明かしてみよう。――「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」。主は、そのご人格において同じである。私たちは絶え間なく変わっている。青春の輝きは壮年の力に取って代わられ、壮年の成熟は次第に老年の弱さへとしぼんでいく。しかし、「あなたの若さは、あなたにとっては、朝露のようだ」[詩110:3 <英欽定訳>]。私たちのあがめるキリスト・イエスよ。あなたは常に変わらず若くあられます! 私たちがこの世にやって来たときには幼児期の無知を有していました。私たちは、青年期にはあれこれと探りつつ、調べつつ、学びつつ成長します。より成熟した年代には、それなりの小さな知識に達します。ですが、老年期には再び子ども時代の痴愚によろめき戻っていきます。しかし、おゝ、私たちの《主人》よ! あなたは世界の基の置かれる前から、あらゆる定命のもの、また永遠の事がらについて完璧に予知しており、今もあらゆることをご存知であり、永遠にその全知において同じであられます。私たちは、ある日頑健かと思うと、その翌日には弱くなる。――ある日決意を固めているかと思うと、翌日には気の迷いを覚える。――ある時にはしっかりしているかと思うと、一時間もしないうちに水のように奔放になる[創49:4]。ある瞬間には、神の力によって守られて聖くしているが、次の瞬間には自分自身の情欲に引きずられて罪を犯している。だが、私たちの《主人》は永遠に同じである。きよくて、決して汚点をつけることがない。堅固で、決して変化することがない。――とこしえに《全能》で、変わることなく《全知》であられる。主からはいかなる属性も過ぎ去ることがない。主は決して目がかすむことも、腰が曲がることもない。移り変わりや、移り行く影はなく[ヤコ1:17]、決して揺るぎない、堅固なお方であり続けられる。ソロモンは彼の最愛のお方についてこう歌っただろうか? 「その頭は純金です。髪の毛はなつめやしの枝で、烏のように黒く、その目は、乳で洗われ、池のほとりで休み、水の流れのほとりにいる鳩のようです。その頬は、良いかおりを放つ香料の花壇のよう。くちびるは没薬の液をしたたらせるゆりの花。その腕は、タルシシュの宝石をはめ込んだ金の棒。からだは、サファイヤでおおった象牙の細工。その足は、純金の台座に据えられた大理石の柱。その姿はレバノンのよう。杉のようにすばらしい」[雅5:11-15]。確かに私たちは、今でさえ、主を自ら経験することによって、こうした描写の正しさを断言できるに違いない。そして、そこまでの一言一句を裏書きする一方で、その描写のしめくくりとしてこう云うことができるであろう。「そのことばは甘いぶどう酒。あの方のすべてがいとしい[雅5:16]。その比類なき麗しさは損なわれていない。この方は今もなお、『万人よりすぐれ』[雅5:10]、――『人の子らのなかで最も美しい人』である」、と。天来の啓示を受けたヨハネは、主についてこう語っただろうか?――「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった」[黙1:14-16]。主はそれと同じである。その額には決して皺が刻まれていない。その髪の毛が灰色なのは威厳のためであって、老齢のためではない。その御足は、世界が作られる前の歳月にとこしえの山[ハバ3:6]の上を踏み歩いていたときと変わらずしっかりと立っている。――その目は、誕生したばかりの世界を最初に眺めたときと同じくらい鋭い。キリストのご人格は決して変わらない。主が私たちを訪れるため再び地上に来るとしたら――確かに主はやがて来られるが――、私たちは主が同じイエスであることを見いだすであろう。以前と変わりなく愛に満ち、近づきやすく、寛大で、思いやりがあり、確かに最初に地を訪れたときに着ていた服よりも壮麗な衣で着飾ってはいるが、また、確かにもはや《悲しみの人》でも病を知る人でも[イザ53:3]ないが、同じご人格であられる。いかなる栄光、勝利、喜びをまとっていようと、変わってはおられない。私たちはキリストをほめたたえる。天的な光輝に取り巻かれていても、そのご人格は全く同じであり、そのご性質は変化をこうむっていないからである。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」。

 また、イエス・キリストは、その御父に対しても常に同じである。主は、すべての世に先立って御父の愛する子であった。バプテスマを受けようとして小川の中にいたときも御父の愛する者であった。十字架上でも御父の愛する者であった。多くの捕虜を引き連れて行かれたときも[エペ4:8]、御父の愛する者であった。そして主は、今もそのときと全く劣らず、御父の無限の愛情の対象であられる。昨日、主はエホバの御胸の中に横たわる神であり、一切の権力を御父とともにしておられた。――きょう、主は人として地上に立ち、私たちとともにいるが、それでも永遠に同じであられる。――主は高き所に昇るが、なおも御父の子として、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続し[ヘブ1:4]、――なおもすべての支配、権威、すべての名をはるかに越えた御座に着いておられる[エペ1:21]。おゝ、キリスト者よ。あなたの願いを主に訴えていただくがいい。御父は、今もかつてと変わらず主の願いをかなえてくださるであろう。御父の恵みを疑ってはならない。あなたの《弁護者》のもとに行くがいい。このお方は、常に変わらずエホバの御胸の近くにおられ、――そのとりなしに同じ力を有しておられる。ならば主を信頼するがいい。そして、主を信頼することにおいて、あなたはあなたに対する御父の愛を確信するであろう。

 しかし今、さらにずっと甘やかな思想がある。イエス・キリストはその民に対しても常に同じなのである。私たちは、今よりも幸いだった日々、すでに過ぎ去った日々に喜びを有していた。自分が何者でもなかったときに自分を愛してくださったお方のことを考えて喜んでいた。私たちはしばしば、自分がこのお方を愛してもいなかったときに、自分を愛してくださったお方について随喜して歌ったことがあった。

   「イエスは探しぬ、縁(えにし)もなくし、
    神の牧場(おり)より さまようわれを。
    わが魂(たま)危機(あだ)より 救うため、
    尊き血潮を 差し挟みたり」。

また私たちは、自分の苦難や試練の歳月をも振り返って見る。そして、厳粛に、だが、へりくだりとともに証言することができる。主は、私たちのあらゆる急場において私たちに対して真実であられ、一度たりとも私たちを裏切ったことがない、と。それでは、このことを思って自らを励まそう。――たとい主が、きょうは私たちを罪意識で悩ませておられようとも、私たちに対する主の心は、かつてと寸分も変わってはいない。キリストは、御民にとって暗黒に見える仮面をつけることがあるかもしれないが、その御顔は常に同じである。時として黄金の笏の代わりに鞭を御手にお持ちになることがあるが、その聖徒たちの名前は、その笏を握りしめる手のひらと同様、その鞭をつかむ御手にも彫り刻まれているのである。そして、おゝ、いま突如として私たちに思い浮かんだ甘やかな思想よ! 愛する方々。あなたは、自分が天国に入ったとき、キリストがいかにあなたを愛してくださるか考えられるだろうか? あなたは、天的な安息の海に身を浸すとき、自分が泳ぐことになる底なしの愛情の海の深さを測りきわめようとしたことが一度でもあるだろうか? キリストがあなたを、しみも、傷も、そのようなものの何1つない者として、御父の御座の前に立たせるときに[エペ5:27; コロ1:22]、あなたに現わしてくださるであろう愛について考えたことが一度でもあるだろうか? よろしい。立ち止まって思い起こすがいい。主は、そのときあなたを愛するのと同じくらい大きな愛で、今のこの時もあなたを愛しておられるのである。というのも、主は永遠にきょうと同じであり、きょうも永遠と同じであられるからである。私はこの一事はこころえている。もしイエスが私を心にかけているとしたら、イエスは、この頭が冠をいただいたとき、また、この手が喜ばしい指によってあの黄金の立琴の和弦に触れるときでさえ、あらゆる罪と煩いと悲哀をまとわりつかせた私を愛している今この時よりも一原子も多く私たちを愛することはないであろう。私はこう書かれていることばを信じている。――「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました」[ヨハ15:9]。そして、これよりも高い程度の愛を私たちは想像できない。御父は御子を無限に愛しておられる。そして、信仰者よ。それと同じようにきょう、神の御子はあなたを愛しておられるのである。主は切にあなたを哀れに思っておられる。その御心はことごとくあなたに注ぎ出されている。主のいのちはことごとくあなたのものである。主の全人格はあなたのものである。主はいま以上にあなたを愛することはできない。いま以下にあなたを愛することはできない。「きのうもきょうも、いつまでも、同じ」である。

 しかし、ここで思い起こそう。イエス・キリストは昨日と同様、きょうも罪人たちに対して同じである。今から数えて八年前に、私は最初にイエス・キリストのもとにやって来た。今月の六日が来ると、私はイエスの恵みの福音においてちょうど八歳になったことになる。そうした意味ではまだ子どもであり、幼子である。私はあの勧めの言葉を聞いた時のことを思い出す。――「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」[イザ45:22]。そして、私は覚えている。いかに私は大いに震えおののきながら、また僅かな信仰しか持たずに、《救い主》の御足のもとに近づいていったことか。私は主からはねつけられるだろうと思っていた。「確かに」、と私の心は云った。「主をお前の《救い主》として信頼するなどということをしたら、お前の罪をすべて一緒くたにしたよりも、はるかに憎むべき増上慢となるだろう。主のもとに行ってはならない。主はお前をはねつけるだろう」。しかしながら、私は絞首索を自分の首にかけ、たとい神から永遠に滅ぼされたとしても神は正しいのだと感じながら、自分の頭に灰をかぶり、多くの吐息とともに自分の罪を告白した。そして、そのとき、――私が主にあえて近づくことをしたとき、また、主から渋面を向けられるだろうと思っていたそのときに、――主は御手を差し伸べて、こう仰せになったのである。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」[イザ43:25]。私は放蕩息子のようにやって来た。そうせざるをえない羽目に陥っていたからである。私は、あの外国で放蕩して湯水のように財産を費やしたあげくに[ルカ15:13]、飢えきっていた。そして、御父の家を遠くから眺めた。だが、御父の心が私に対する愛で早鐘のように打っているとは知るよしもなかった。おゝ、何と歓喜にあふれる時であったことか。イエスは私に、ご自分が私のものであると囁かれたのである。私の魂は、「イエス・キリストはわが救い」、と云うことができたのである。そして今、私は自分の記憶を新たにするため、こう思い起こしたいと思う。きょうも私の《主人》は、昨日、私にとってそうであられたのと同じお方なのである。また、そのときの私が罪人として主のもとに行き、その私を主が受け入れてくださったことを知っている以上、今の私は、たとい自分が聖徒かどうかについてこの上もなく疑っているとしても、自分がいかに罪人であるかは全く疑いえない。それで、おゝ、イエスよ。あなたの十字架のもとに私は再び参ります。あなたは、あのときの私を受け入れてくださったからには、今も私を受け入れてくださるでしょう。そして、それが真実であると信じて私は、自分の同胞である定命の者たちに向き直ってこう云うのである。「私を受け入れてくださった主、また、マナセを受け入れてくださった主、また、十字架上の強盗を受け入れてくださった主は、きょうも、そのときと同じなのである。おゝ! 来て、このお方を試してみるがいい! 来て、試してみるがいい! おゝ! あなたがた。自分が主を必要としていると知っている人たち。主のもとに来るがいい。あなたがた、天における自分の相続財産を売却して丸損になった人たち。あなたは、自分で買わなくとも、イエスの愛の贈り物として回復できるのである。あなたがた、無一物の人たち。キリストはきょうも、常と変わらず満ち満ちておられる。来るがいい! ここで自らを満たすがいい。あなたがた、渇いている人たち。この流れは豊かに流れている。あなたがた、真っ黒な人たち。この泉は今もきよめることができる。あなたがた、裸の人たち。この衣装箪笥は空っぽになってはいない。

   『咎ある魂(たま)よ、逃れ来よ。
    主のみもとにて、傷は癒えん。
    こは、なお福音の 栄えある日、
    代価(かた)なき恵み いま満ちあふる』」。

私は本日の聖句の満ち満ちた豊かさに、自分が望むほど入り込むことができると云うつもりはない。だが、もう1つの思想を告げたい。イエス・キリストは、そのみことばの教えにおいて昨日と同様、きょうも同じである。近頃の人々が告げるところ、時代が進歩している以上、神学も進歩する必要があるという。何と、私は、ルターが説教したようなしかたはこの時代には合わないと云われるのを聞いたことがある。私たちは、格段に洗練されているのだ! 彼らによると、ジョン・バニヤンの時代に通用したような説教様式は、今の様式ではないのだという。確かに彼らは、こうした人々を敬ってはいる。彼らはあのパリサイ人たちに似ている。彼らは、自分の先祖たちが殺した預言者の墓を建てており[ルカ11:47]、まさに先祖が先祖なら子孫も子孫であり、親たちに瓜二つであることを証ししているのである。そして、あの人々がしたようなしかたで説教する人々が立ち上がり、率直な語り口をし、上品で奥ゆかしい口のきき方を知らないと、あの人々がその時代に受けたのと同じような断罪を今も浴びるのである。なぜなら、今の人々によると、世界は前進し続けており、福音も前進しなくてはならないからだという。否。方々。古い福音は同じである。その支柱の一本たりとも外されてはならない。その和弦の一本すらも緩められてはならない。「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」[IIテモ1:13]。神学に何か新しいものが入り込むとしたら、それは偽りでしかない。パウロの宣教が、今日の教役者の宣教でなくてはならない。ここにはいかなる発達もない。私たちは、自分の有する福音の知識においては発達するであろう。だが、福音は同じものであり続ける。理由は簡単、これは完璧だからである。完璧なものが向上することはありえない。カルヴァンが説教し、クリュソストモスが説教し、パウロが説教したのと同じ真理こそ、私がきょう説教しなくてはならない真理である。さもなければ、私は自分の良心と自分の神に対して偽り者とならざるをえないであろう。私は真理の形を変えることはできない。真理の荒削りな圭角を削り取るつもりなどない。ジョン・ノックスの福音が私の福音である。スコットランド全土に轟き渡ったものが、再び英国全土に轟き渡らなくてはならない。わが国の教役者の大多数は、信仰においては十分健全ではあるが、その説教のしかたにおいては欠けた部分がある。選びは多くの講壇において一年に一度たりとも言及されない。最終的堅忍は押し隠されている。神の律法の大いなる事がらは忘れられており、アルミニウス主義とカルヴァン主義の合の子のようなものが現代を喜ばせている。そして、これにより主は、ご自分の幕屋の多くを捨て去り、ご自分の家を離れてしまったのである。そして、再び喇叭がはっきりした音を出すまではそれを放置しておかれるであろう。というのも、いずこであれ古い福音がなくなった場所には、まもなくその教会の壁に、「イ・カボデ」[Iサム4:21]と記されることになるからである。盟約者たちの古い真理、清教徒たちの古い真理、使徒たちの古い真理こそ、時の試験に耐え抜く唯一の真理であり、それは、よこしまで不敬虔な世代に合わせて改変される必要など決してない。キリスト・イエスは、あの山上で説教されたときと同じようにきょうも説教しておられる。主はその教理を変更しておられない。人々は嘲笑するであろうが、主の教理はなおも同じである。――その1つ1つには Semper idem[常に同じ]と記されている。それらを取り除いたり、変造したりすることは許されない。

 キリスト者は、このことが約束についてもあてはまることを思い出すがいい。罪人はこのことが、脅かしについても全く同じようにあてはまることを思い出すがいい。各人がひとりひとり思い出すがいい。この《聖なる書》には一言もつけ加えられることがありえず、一文字たりとも取り除かれることがありえない。キリスト・イエスがなおも同じであるように、その《福音》もまた、きのうもきょうも、いつまでも、同じだからである。

 こうして私は、手短にこの聖句を説き明かしてきた。その意味をもれなく示したわけではないが、キリスト者が時間のあるときに、その底知れぬ深み――主キリスト・イエスの不変性――を調べられるくらいは説明したつもりである。

 II. だがここに、ひねくれた足どりをした者がやって来る。――[九つの生命を持つという]猫と同じくらい多くのいのちを持ち、何門もの大砲で砲撃を浴びせかけようと、決して殺すことのできない者である。その名を、不信翁――不信仰――という。そして、彼はそのみじめな雄弁の口を切ってこう宣言する。「なぜ、そのようなことがありえましょう? 『イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じ』ですと? 何と、昨日キリストは私に対して燦々と降り注ぐ陽光でしたのに――きょうの私は苦悩の中にいるではありませんか!」 しばし待て。不信仰よ。キリストが変わっていないことを思い出してほしい。あなたは自分を変えたのである。あなたは先ほど自ら、昨日のあなたは楽しんでいたが、きょうのあなたは苦悩の中にいると云って非難したからである。そうしたことすべては起こりえるが、それでもキリストには何の変化もありえない。太陽は常に同じであろう。空がある時には曇り空で、一時間経つと黄金の光で輝いたからといって、太陽が変化した証拠にはならない。キリストについてもそれと同じである。

   「もし今日、神の われらを祝し、
    罪赦さるを 感じさすとも、
    明日はわれらを悩まさせ、
    内なる疾病(やまい) 感じさすらむ
    すべてはわれらに
    おのれ憎ませ、主を愛さすがため」。

主には何の変化もない。

   「主のみこころに 変わりなし、
    よしわが気分(おもい) 暗くあるとも。
    主の愛みてる 心はなおも
    変わることなく 同じくあらん。
    わが魂(たま)多くの 変化(かわり)経るとも
    主の愛 つゆも 変移(うつり)はあらじ」。

あなたの気分は、キリストがお変わりになる何の証拠にもならない。それは単にあなたが変化する証拠でしかない。

 しかし、不信仰翁はやはり云う。――「確かに神は変わったに違いありません。遠い昔の古い聖徒たちを見てください。彼らは何と幸せな人々であったことでしょう! いかに彼らの神からいつくしまれていたことでしょう! いかに神は彼らに良いものを給ったことでしょう! しかし、先生。今の私が飢えていても、朝にパンと肉とを運んで来たり、夕方にパンと肉とを運んで来たりするような烏[I列17:6]は一羽もいません。私ののどが渇いても、私の渇きに応ずるような水は全く岩から吹き出しはしません。イスラエル人たちについては、その服がすり切れなかったと云われていますが[申8:4]、きょう私の外套には穴が開いていますし、次の衣をどこで得られるかは分かりません。彼らが砂漠をついて行進していたとき、神は誰にも彼らを傷つけることを許しませんでした。ですが、先生。私は絶え間なく敵どもに悩まされています。私はまさしく聖書のこの言葉のようになっています。『アモン人は、年が改まるたびに苦しめていた』*[II列13:20]。彼らは私を苦しめているからです。何と、先生。私は自分の友人たちが大勢死んでいるのを見ています。ですが、神のエリヤたちをいま天国に連れていく火の戦車は一台もありません。私は息子を亡くしましたが、預言者があれの上に身を伏せて、生き返らせるようなことは全然ありませんでした。町の門でイエスが私に出会って、あの陰惨な墓から息子を返してくれるようなことは全然ありませんでした。そうです。先生。今はよこしまな時勢なのです。イエス・キリストの光は薄暗くなってしまっているのです。たといキリストが金の燭台の間を歩いているとしても、昔していたようにではないのです。そして、それより悪いことに、先生。私の父親が話していたところ、過去の時代には偉大な人々がいたといいます。私はロメーンだの、トップレディだの、スコットだのという名前を聞いたことがあります。ホイットフィールドといった者たちや、バニヤンといった者たちについて聞いたことがあります。そして、ほんの数年前にさえ、ジョウゼフ・アイアンズのような人々について語られるのを聞いていたものです。――福音の全体を厳粛に、また、熱心に語る説教者たちのことです。しかし、今こうした人々はどこにいるのでしょうか? 先生。私たちは洟垂れ小僧たちの時代に巡り合わせてしまったのです。人物たちは死に絶えてしまっており、私たちにはほんの数人のこびとしか残されていないのです。オーウェンや、ハウや、バクスターや、チャーノクといった卓越した先祖たちのように、巨大な歩幅でのし歩く人々はひとりもいません。私たちはみな小人ばかりです。イエス・キリストは私たちを、先祖たちのようには取り扱っておられないのです」。しばし待て。不信仰よ。あなたに思い起こさせてほしいが、神の古の民たちにもそれなりの試練があったのである。あなたがたは使徒パウロが何と云っているか知らないのだろうか? 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている」[ロマ8:36]。さて、もし何らかの変化があるとしたら、それは良い方への変化である。というのも、あなたはまだ、「死と戦って、血を流すまで抵抗したことが」*[ヘブ12:4]ないからである。

 しかし、思い出すがいい。それでも、キリストには何の影響も及ぼされてはいない。裸も、飢えも、剣も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないからである[ロマ8:39]。火の戦車がやって来ないのは事実である。だが、その場合、御使いたちがあなたをイエスのふところに連れて行くのであって[ルカ16:22]、それは同じくらい素晴らしいことである。烏があなたに食物を運んでこないのは事実だが、あなたが何らかのしかたで食物を得ていることも同じくらい真実である。確かにいかなる岩も水を噴き出させはしないが、それでもあなたの飲み水は確保されてきた。あなたの子が死者の中からよみがえらされなかったのは事実だが、あなたも覚えている通り、ダビデにはあなたの子と同様によみがえらされなかった子どもがいたのである。あなたが有している慰めは、彼が有していたものと同じである。「私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」[IIサム12:23]。あなたは、自分が古の聖徒たちより心引き裂かれるような思いをしていると云う。そのように云うのは、あなたが無知だからである。古の聖なる人々はこう云ったものである。「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか」[詩42:11]。預言者たちでさえ、こう云わざるをえなかった。――「あなたは私を苦よもぎで私を酔わせ、私の歯を小石で砕いた」*[哀3:15-16]。おゝ、あなたは間違っている。あなたの時代は、ヨブの時代にまさる多くの苦難で満ちているわけではない。あなたは古のロト以上に無節操な者たちによって悩まされてはいない[IIペテ2:7]。モーセ以上に怒りに駆られるような誘惑を受けてはいない。そして確かにあなたの道は、あなたのほむべき主の道以上に険しいものではない。あなたに苦難があるという事実そのものが、主の真実さの証しである。というのも、あなたは主の遺産の半分を得ており、残り半分も受けることになるからである。あなたも知る通り、キリストの遺言には2つの部分が含まれていた。「あなたがたは、世にあっては患難があります」。あなたは、これを得ている。次の句はこうである。――「あなたがたはわたしにあって平安を持つ」*[ヨハ16:33]。あなたはそれも得ている。「勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」。これもまた、あなたのものである。

 するとあなたは、自分は教役者という点において悪い時代に巡り合わせています、と云うであろう。そうかもしれない。だが、思い出すがいい。この約束はそれでも真実である。「わたしはパンと水をあなたから取り去っても、あなたの牧者たちを決して取り去りはしない」。あなたには、なおもあなたの有している者たちがいる。――なおも何人かは、神とその契約に忠実な者たち、また、真理を捨てていない者たちがいる。そして、時代は暗くとも、以前の時代ほど暗くはない。それに加えて、思い出すがいい。あなたがきょう云っていることは、あなたの先祖たちが云っていたことなのである。トップレディの時代の人々は、ホイットフィールドの時代を振り返っていた。ホイットフィールドの時代の人々は、バニヤンの時代を振り返っていた。バニヤンの時代の人々が涙していたのは、ウィクリフや、カルヴァンや、ルターの時代のためであり、その時代の人々は、使徒たちの時代のために涙していた。そして疑いもなく使徒たちの時代の人々は、イエス・キリストの時代のために涙していたに違いない。そして、間違いなくイエス・キリストの時代にいた何人かの人々は、盲目にも預言の時代にも立ち戻りたいと願っていたし、キリストの最も栄光に富む時代よりも、エリヤの時代のことをずっと考えていたに違いない。人々の中には、現在よりも過去の方に目を向ける人々がいるものである。だが確信するがいい。イエス・キリストは、きょうも昨日と同じであり、永遠に同じなのである。

 嘆く者よ。喜ぶがいい! 私はひとりの少女のことを聞いたことがある。その子は、自分の父親が死んで、母が身も世もなく泣いているのを見た。母親は、何日経とうが、何週間経とうが、慰められることを拒んでいた。そこで、この少女は母親に近づき、小さな手で母の手を握り、その顔をのぞき込んで云ったのである。「母さん。神様が死んじゃったの? 神様が死んじゃったの、母さん?」 そのとき母親は思った。「そんなはずないわ」。その子は、こう云っているかに思われた。「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主[イザ54:5]。ならば、あなたは涙を乾かしていいのです。私には天にひとりのお父様がいますし、あなたにはまだひとりの夫がいるのです」、と。おゝ! あなたがた、自分の金銀を失った聖徒たち。あなたがたには天に宝があるのである。そこでは、虫も錆もつかず、盗人が穴をあけて盗むこともない![マタ6:20] あなたがた、きょうは病んでいる人たち。あなたがた、健康を失っている人たち。思い出すがいい。来たるべき日には、すべてが埋め合わされるであろう。そして、あなたがたは、この炎があなたを害さないことに気づくであろう。それはあなたの金滓を焼き尽くし、あなたの金を精錬するにすぎないであろう。覚えておくがいい。イエス・キリストは、「きょうもきのうも、いつまでも、同じ」*なのである。

 III. さて今、私は手短に、この聖句のこの部分から、1つか2つ甘やかな結論を引き出さなくてはならない。

 まず第一に、もし主が昨日もきょうも同じだとしたら、わが魂よ。お前は、こうした変わり行く物事を思うのではなく、主を心に留めるがいい。おゝ、わが心よ。じきに過ぎ去るに決まっている世という砂の支柱の上にお前の家を建ててはならない。むしろ、この岩の上にお前の望みを築き上げるがいい。これは雨が降って大水が押し寄せても、びくともせずに安全に立っているであろう。おゝ、わが魂よ。私はお前に命ずる。お前の宝を、この安泰な穀物倉の中に貯えるがいい。おゝ、わが心よ。私はお前に命じる。今お前の宝を、決して失うことがありえない所に入れておくがいい。それをキリストのうちに入れるがいい。お前のありったけの情愛をキリストのご人格に注ぎ、お前のありったけの希望をキリストの栄光に置き、お前のありったけの信頼をキリストの霊験あらたかなる血潮にかけ、お前のありったけの喜びをキリストの臨在に置くがいい。そうすれば、お前は自らを、また自らのすべてを、決して何物も失うことがありえない所に置くことになるであろう。それは安泰だからである。覚えておくがいい。おゝ、わが心よ。来たるべき時には、万物が色褪せ、あなたはすべてと別れなくてはならない。死の陰鬱な夜がすぐにあなたの陽光を消し去らずにはおかない。暗黒の洪水がじきにあなたとあなたが有するすべてのものの間に滔々と流れ込んで来ざるをえない。ならば、お前の心を、決してお前を捨て去ることのないお方に置くがいい。死という暗くうねる川波を通じて、お前とともにいてくださるお方に自らをゆだねるがいい。このお方は天国の急坂をあなたとともに上り、あなたを天の所で永遠にご自分とともに座らせてくださるであろう。兄弟よりも親密なこの友[箴18:24]に、お前の秘密を打ち明けるがいい。わが心よ。私はお前に命ずる。お前の関心事の一切を、決してお前から取り去られることのありえないお方に託すがいい。このお方は決してお前を離れることがなく、決してお前が離れ去ることをお許しにならない。このお方とは、「きのうもきょうも、いつまでも、同じであるイエス・キリスト」*にほかならない。それが、1つの教訓である。

 よろしい。では、次である。もしイエス・キリストが常に同じであるとしたら、わが魂よ。努めてキリストにならうようにするがいい。お前も同じようになるがいい。覚えておくがいい。もしお前にもっと信仰があったとしたら、お前は楽しみの山の上にあるときと同じくらい、炉の中にあっても幸いでいられるのである。豊かなときと同じくらい飢えているときも喜んでおり、橄欖が何の油をもたらさないときも、はちきれんばかりの大桶がなみなみと油を湛えているときと同じくらい主を喜んでいるであろう。もしお前がもっとお前の神を信頼しているとしたら、お前はずっと翻弄されることが少ないであろうし、もしお前がもっとキリストに近づいているとしたら、ずっと動揺することは少ないであろう。昨日のお前は、あらゆる祈りの力をもって祈ることができた。ことによると、お前が常にお前の主人の近くに生きていたとしたら、お前は祈る際に常に同じ力を有していられたかもしれない。あるときお前は怒り狂うサタンをもものともせず、世界の渋面にも立ち向かうことができる。明日になるとお前は臆病者のように逃げ出すであろう。しかし、もしお前が、罪人たちのあのような反抗を忍ばれた方のことを常に覚えていたとしたら[ヘブ12:3]、お前は常に堅固で、思いにおいて揺るがされることがなかったであろう。風見鶏のようにならないように用心するがいい。神に求めるがいい。その律法がお前の心に、あたかも石に記されるかのように――砂に記されるかのようにではなく――書き記されることを。求めるがいい。神の恵みが、川のように――枯れてしまう小川のようにではなく――お前のもとにやって来ることを。求めるがいい。お前の生き方が常に聖いものとされ続けることを。お前の進む道があけぼのの光のようになり、それが遅れることもなく、いよいよ輝きを増しては真昼に達することを[箴4:18]。キリストのようになるがいい。――常に同じであるがいい。

 さらに、もしキリストが常に同じであるとしたら、キリスト者よ。喜ぶがいい! 何が来ようと、あなたは安泰なのである。

   「よし山の根の 投げつけられて
    深淵(うみ)の深みに 葬らるとも、
    痙攣(おこり)ぞ、堅き 世を揺するとも、
    われらが信仰 つゆも恐れじ」。

たとい数々の王国が覆滅しようと、キリスト者が震える必要はない。しばし、このような光景を想像してみるがいい。かりに、明日から三日間、太陽が昇らなかったとする。月が血の塊に変じて、もはや世を照らさなくなったとする。鼻をつままれても分からないほどの暗黒があらゆる人を覆ったと想像してみるがいい。次に、世界中が揺れ動き、いかなる塔も家々も小屋も倒壊してしまったと想像するがいい。続いて、海が身の程を忘れて陸地に躍り上がり、山々が立つことを止め、その基からぶるぶると震え出したと想像するがいい。その後で、光輝く彗星が天空に流れ――雷鳴がやむことなく轟き――稲妻が一瞬の休みもなく次々と閃く光景を思い描くがいい。それから、種々の空恐ろしいしるしと、悪鬼のような亡霊たちと、薄気味悪い霊たちとを目にしたと考えるがいい。次に、1つの喇叭が、耳を聾せんばかりの音を吹き鳴らし、死んで滅びつつある人々の悲鳴が聞こえるものと想像するがいい。こうした混乱のただ中に、ひとりの聖徒がいたと想像するがいい。愛する方々。「きのうもきょうも、いつまでも、同じイエス・キリスト」*は、その人を、こうしたあらゆる恐怖の中にあっても、きょう私たちがあるのと同じように安全に守ってくださるであろう。おゝ、私は喜んでいる! 私は起こりえる最悪の光景を描き出してみた。それでもあなたは安泰であろう。ならば何が起ころうとも、イエス・キリストが同じあられる以上、あなたは安全である。

 そして今、最後の最後に、もしイエス・キリストが「きのうもきょうも、いつまでも、同じ」であるとしたら、これは不敬虔な者にとって何と悲しい言葉であることか! あゝ! 罪人よ。主は地上におられたとき、こう云われた。「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」[マコ9:48]。あの山の上に立っていたとき、主はこう仰せになった。「片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて地獄の火に投げ入れられるよりは、よいことです」*[マタ18:8]。地上の人として主は、山羊が左側にされ、彼らにはこう仰せになると云われた。「のろわれた者ども。離れよ」*[マタ25:41]。罪人よ。主は、ことば通りに実行するであろう。主は云われた。「信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。あなたが信じなければ、主はあなたを罪に定めるであろう。嘘ではない。主は決して約束を違えたことがない。決してこけおどしをすることはない。義人が永遠のいのちに入るとの確信を、きょうの私たちに持たせるのと同じ真理は、不信者たちが永遠のみじめさに入るとの確信を、あなたに持たせるべきである。もし主がその約束を破ったことがあるとしたら、主が、こけおどしをしたこともありえたかもしれない。だが主は、一方を守ってこられた以上、もう一方も守られるであろう。主がお変わりになると思ってはならない。主は変わることがないからである。主が消えることはないと仰せになった火が結局は消火されるのだなどと考えてはならない。しかり。もう数年もすれば、話をお聞きの方々。あなたが悔い改めていなかった場合、あなたはイエスの脅かしの一点一画さえもが成就することに気づくであろう。そしてそれは、よく聞くがいい。あなたにおいて成就するであろう。偽りを云う者よ。主は云われた。「すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある」[黙21:8]。主はあなたを欺きはしないであろう。酒に酔う者よ。主は云われた。「いうまでもなく、だれでも酒に酔う者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはない」*[ガラ5:21; Iヨハ3:15]。主は口先だけのお方ではない。あなたが永遠のいのちを持つことはないであろう。主は云われた。「神を忘れたあらゆる国々は地獄に投げ入れられる」*[詩9:17]。そして、あなたがた、キリスト教信仰を忘れたすべての人たち。あなたは道徳的な人々かもしれないが、主はあなたに対してご自分のことばを守られるであろう。あなたを地獄に投げ入れられるであろう。おゝ、「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は」[詩2:12]。さあ、罪人よ。あなたの膝をかがめるがいい。あなたの罪を告白し、それを捨てるがいい。それから主のもとに来るがいい。自分をあわれんでくださいと主に願うがいい。主はご自分の約束をお忘れにならないであろう。――「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。来て、主を試してみるがいい。あなたの一切の罪をまとわりつかせたまま、いま主のもとに来るがいい。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。これが私の《主人》の福音だからである。そして私は今こう宣言する。――「信じて水に浸かる者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。願わくは神が、信ずる恵みをあなたに与えてくださるように。私たちの主イエス・キリストを通して。アーメン。

  

 

キリストの不変性[了]

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