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滅ぼされた破壊者

NO. 166

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1857年12月6日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼすためでした」。――ヘブ2:14 <英欽定訳> 


 神の原初の帝国においては、万物が幸福であり、喜びであり、平和であった。もしも何か悪や、苦しみや、痛みがあるとしたら、それは神のみわざではない。神はそれを許容し、それを越えて支配し、その中から多くの善を引き出しておられるかもしれない。だが、悪は神から出てはいない。神ご自身はきよく完璧であられ、永久に甘美できよい水を湧き出させる清浄な泉であられる。悪魔の統治は、それとは逆に、いかなる善をも含んでいない。「悪魔は初めから罪を犯して」[Iヨハ3:8]おり、彼の支配は、どこまで行っても悪へと誘惑し、悲惨をもたらす道でしかない。死はサタンの支配の一部である。彼は、私たちの母エバを誘惑して禁断の木の実を食べさせたとき世界に罪を持ち込み、罪とともに死をも、それに伴う一切の災厄とともに世界に持ち込んだ。悪魔がいなかったとしたら、おそらくいかなる死もなかったであろう。もしサタンが誘惑しなかったとしたら、あるいは人は反乱を起こさなかったかもしれない。そして、反乱を起こさなかったとしたら、人は死が引き起こす苦痛に満ちた変化をこうむる必要もなく、永遠に生きていたであろう。私は死を悪魔の傑作だと思う。地獄という唯一の例外を除けば、死は確かに、罪が成し遂げた最もサタン的な害毒にほかならない。悪魔の心を何にもまして喜ばせたのは、この脅かしが成就するのを見いだしたときであった。「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」[創2:17]。そして、彼の悪意に満ちた心が何にもまして地獄的な喜びに満たされたのは、アベルが兄の棍棒で打ち殺され、地面に伸びているのを見たときであった。「あはは!」、とサタンは云った。「これこそ、すべての理性ある被造物の中でも最初に死んだ者なのだ。おゝ、何と嬉しいことか! これこそ俺様の支配の絶頂の時だ。確かに俺様は狡猾な誘惑によってこの地の栄光を損ないはした。確かに被造物全体は、俺様がそこに持ち込んだ悪のために呻き、産みの苦しみをしてはいる。だがこれは、これこそは俺様の傑作だ。俺様は人間を殺したのだ。死を人間に持ち込んだのだ。そして、ここに最初のひとりが横たわっているのだ。――最初の死人だ」。その時以来、サタンは人類の死にほくそえんできたし、彼が大威張りして良い理由もそれなりにあった。というのも、その死は万人に及んだからである。すべての人は死んできた。たとい彼らがソロモンのように賢くとも、その知恵で彼らの首を助けることはできなかった。モーセのように有徳の人々であっても、その徳で斧を避けることはできなかった。すべての人は死んできた。それゆえ、悪魔は自分の勝利を大いに自慢してきた。ただし二度、彼は敗北した。ふたりの人[エノクとエリヤ]だけは、死ぬことなく天国に入った。だが、人類の大多数は死の大鎌を感じなくてはならなかった。それで彼は喜んだ。この彼の強力無比の作品には、大地と同じくらい広い土台があり、人類の美徳が登りえたきわみと同じくらい高い頂上があったからである。

 死には恐ろしいものがある。いかに大きな信仰を有している人にとってさえ、それは恐るべきものである。ただ死の金箔と、その後に来るものと、天国と、立琴と、栄光とによってのみ、死はキリスト者にとってさえ、ようやく耐えられるものとなっているのである。死そのものは、人の子らにとって常に言葉に尽くせないほど恐ろしいものである。そして、おゝ! それがいかなる荒廃を生み出すことか! それは目という窓を暗くする。からだという天来の建造物の磨き立てられた支柱を引き倒す。魂という住人をその戸口から叩き出し、未知の世界へ飛んで行くよう云いつける。そして、生きた人に引き替えて死骸を残していく。そのなきがらの醜さは、誰ひとり恐怖感なしには見つめられないほどである。さて、これはサタンの歓喜である。彼は死を、その恐怖ゆえに、また、それがもたらす荒廃ゆえに自分の傑作と思う。その悪が大きければ大きいほど、彼はそれを喜び楽しむ。疑いもなく彼は、私たちの病をほれぼれと眺めるに違いない。私たちの罪を楽しむに違いない。だが、死こそは、彼にとって、その永遠の悲惨の中でいだきうる最大の楽しみの種である。彼は、自分のたった1つの致命的な行為、たった1つの裏切りによって、いかに世界を破壊の枝箒でなぎ払い、いかにあらゆる人を墓へと追い立てたかを目の当たりにするとき、声を限りに喜び叫ぶのである。

 また、死が悪魔にとって非常に愛しいものであるもう1つの理由がある。――単にそれが、地上における彼の主な働きであるというばかりでなく、それが、この世で彼の悪意と悪賢さを明らかに示す最上の機会となるからである。悪魔は、ほとんどの邪悪な者らと同じく臆病者である。臆病者の中でも最たる者である。健康な状態にあるキリスト者を彼はめったに攻撃しない。自分の《主人》の近くで生きており、恵みにおいて力強いキリスト者に、悪魔は手出しをしない。それは自分の強敵になると分かっているからである。だが、信仰が弱っているか、肉体が弱っているキリスト者が見つかると、彼はそれを攻撃の好機だと思う。

 さて、死がその一切の恐怖とともにやって来るとき、普通サタンは魂に猛烈な襲撃をしかける。多くの聖徒たちは、大抵、死のほんの間際ではないにせよ、その少し前に、この魂の大敵による激烈な猛攻を受ける。そして悪魔が死を愛するのは、死が精神を弱めるからである。死が近づくとき、精神の力は部分的に破壊され、頑健な頃の私たちを励ましてきた活力の一部が一時的に取り去られる。そのとき私たちは、ただ物憂げに、弱々しく、疲れきって横たわるだけになる。「今こそ俺様の出番だ」、とこの悪い者は云う。そして私たちのもとに忍び寄る。したがって、私の信ずるところ、このことを理由として彼は死の力を持っていると云われているのである。というのも、彼が次のこと以外の意味で死の力を持っているとは考えられないからである。すなわち、死は彼によって創始されたし、死が臨む時に彼は、普通、その悪意とその力の大きな部分をありありと示すのである。というのも、私の兄弟たち。悪魔が死を引き起こすという意味で、死を左右する力を持っていないことは確実だからである。地獄にいる悪霊が総掛かりになっても、この世の最もいたいけな赤子のいのちさえ取り去ることはできないであろう。また、私たちが医者も匙を投げるほどの病にあえいでいるとしても、《全能者》の決定だけが私たちを死なせることができるのである。たとい私たちが弱さのきわみにあっても関係ない。原因ということに関する限り、悪魔は死の原因ではない。私たちはヤング博士ととともに喜んでこう信ずる。すなわち、御使いの腕も私たちを墓場に放り込むことはできず、それが堕落した御使いのかしら、明けの明星[イザ14:12]の腕であっても変わらない。そして、私たちを喜ばせることに、その後では、無数の御使いたちが結集しても私たちをそこに閉じ込めておくことはできない。それで、その扉の鍵を開くことであれ、後でそれに留め金をかけることであれ、悪魔には死んでいくキリスト者に対していかなる権威もないのである。

 何と、この場に出席している多くの人々は、キリスト教信仰について次のような考えを有している。彼らの思い描くキリスト教信仰とは、幸福で、快適で、楽しくて、あらゆる至福の泉――これが彼らの神だが――の間近に暮らすことであり、彼らの通り道は陽光に満たされ、彼らの目は耐えざる幸福に輝いている。彼らは、キリスト者がなすべき通り、この世の種々の試練に男らしく耐える。彼らは神の御手から出た患難を、諦念と忍耐を尽くして受け取る。さて悪魔は云う。「あいつには、疑わしい思念でちょっかいを出しても無駄だわい。あいつは手強すぎる。膝をかがめて祈っているあいつは力強いし、自分の神とともにあるあいつは力強い」。そうしたときキリスト者は悪魔に向かって、「手出しをするな!」、と云う。しかし、私たちが弱くなり出すとき、また、精神がからだの影響を受けて物憂くなり出すとき、また、何らかのよこしまな宗教的禁欲主義によって私たちが自分を飢えさせるか、神の鞭によって私たちが傷つけられたとき、そうしたとき、私たちが悪しき苦境にあるとき、敵は私たちのもとに殺到するであろう。そして、こうした時期に悪魔は死を愛するし、死について力を有するのである。なぜなら、それは天性の難局であり、それゆえ悪魔の好機だからである。

 今朝の私たちの講話の主題は、このことである。イエス・キリストは、その死によって、悪魔が死について有するいかなる力をも滅ぼした。左様。そして、これに二番目の真理をつけ加えると、それが私たちの第二の項目となる。主は単にその死によって悪魔が死について有していた力を滅ぼしただけでなく、ご自分が死なれた死によって、悪魔の力をあらゆる点で完全に滅ぼした

 I. では最初から始めよう。《キリストの死によって、死について悪魔が有する力は、キリスト者にとっては完全に滅ぼされている》。死について悪魔が有する力は、3つのことに存しており、私たちはそれを3つの観点から眺めなくてはならない。時として悪魔が死において、キリスト者に対して力を有するのは、キリスト者に自分の復活を疑わせようと誘惑することによってである。そして、キリスト者に暗黒の未来をのぞき込ませては、消滅への怯えを吹き込むのである。私たちはまずそれを眺めてから、キリストの死によって、死における悪魔のこの特定の力が完全に取り除かれたことを努めて示したいと思う。あわれな魂が永遠の瀬戸際にあるとき、もし信仰が弱ければ、また、もし希望の視力がかすむとしたら、そのキリスト者はまず間違いなく何を見やることになるだろうか? 未知の世界である。そして、こうした不信心者の言葉さえ、時として最も忠実な神の子どもの口をついて出てくるであろう。

   「わが魂(たま)下に 何をば見るか、
    凄(すご)き永遠(とわのよ) 陰鬱(くら)き深淵(ふち)なり」。

あなたはその人に数々の約束について告げるであろう。未来に関するいくつかの啓示を思い出させて励まそうとすることもできよう。だが、キリストの死を抜きにするとき、私は云うが、キリスト者でさえ、死を陰鬱な行先、疲れと災厄に満ちた生が迎える暗く曇った幕切れとみなすであろう。私はどこへ向かって疾駆しているだろうか? 神の被造世界という弓から射られた矢として! 私はどこへ向かって疾駆しているだろうか? そして、その答えは、あなたの出所である虚ろな無から戻って来る。あなたは、同じ所を目指して疾駆しているのである。あなたには何もない。死ぬとき、あなたは失われる。あるいは、もし理性がよく教えられているなら、それはあなたにこう答えるかもしれない。「しかり。来世はある。だが、私はあなたに、あると思うとしか云えない。私は来世を夢見ている。だが、その別世界がどのようなものとなるか、その途方もない神秘の数々、その絢爛たる輝きの数々、あるいは、そのぞっとするほどの恐怖の数々を告げることができない」。そして、死のとげとは、キリストにある不滅を全く見てとったことのない人にとっては、自分が消滅することになる――存在しなくなる――、あるいは、存在するとしても、いかにして、どこで存在するのか分からない、と考えさせられることである。しかし、愛する方々。キリストの死によって、これらすべては取り除かれている。かりに私が横たわって死にかけているところに、サタンがやって来て、こう云ったとする。「お前は消滅することになるのだ。お前はいま、時の荒波の下に沈没しつつあり、永遠に虚無の洞窟の中に横たわることになるのだ。お前の生気溌剌たる霊は、永遠に存在をやめ、なくなってしまうのだ」。だが私は彼に答えるであろう。「否。そうではない。私はそうした恐れを全く持っていない。おゝ、サタンよ。ここで私を誘惑しようとするお前の力は、てんで全く役に立たない。向こうの私の《救い主》を見るがいい! 彼は死なれた。――本当に、現実に死なれた。というのも、彼は心臓を刺し貫かれ、葬られ、三日間その墓に横たえられたからだ。だが、おゝ、《悪魔》よ。彼は消滅しはしなかった。三日目に墓の中からよみがえり、復活の栄光に包まれて多くの証人たちの前に現われ、ご自分が死者の中からよみがえられたという絶対確実な証拠を示されたからだ。そして今、おゝ、サタンよ。私はお前に告げる。お前が私の存在を終わらせることはできない。というのも、お前は私の主の存在を終わらせることができなかったからだ。《救い主》なる主がよみがえられたように、主に従うすべての者もよみがえるに違いない。『私は知っている。私を贖う方は生きておられることを』*[ヨブ19:25]。それゆえ、私は知っているのだ。『うじが私のからだを滅ぼしても、私は、私の肉から神を見る』*ことを[ヨブ19:26]。おゝ、サタンよ。お前は私に、私が呑み込まれ、跡形もなくなり、非存在という底知れぬ所へ沈んでいくのだという。だが私はお前に答える。お前は嘘吐きだ。私の《救い主》は呑み込まれなかった。だが死なれたのだ。死なれたが、墓の中に長く囚人にされてはいなかったのだ。さあ、死よ。私を縛るがいい。だが、お前は私を滅ぼすことはできない。さあ、墓よ。お前の物凄い口を開き、私を呑み込むがいい。だが、私はいつかお前の綱をはじき飛ばすであろう。あのあらゆる栄光に富む日が明け初めるとき、私は光の露[イザ26:19]のような露を受けて、よみがえり、御前に生きるようになる。主が生きるので、私も生きるのだ[ヨハ14:19]」。それで、見ての通り、キリストは、復活の事実の証人となることによって、死における悪魔の力を打ち砕かれたのである。この点で主は、悪魔が私たちを誘惑して消滅を恐れさせるのを妨げられた。なぜなら、キリスト者として私たちが信ずるところ、キリストが死者の中からよみがえられたからには、イエスにあって眠る者たちを主はご自分のもとに連れて行かれるからである。

 しかし、ここで、ずっとよくある誘惑について考えてみよう。――死における悪魔の力のもう1つの段階である。私たちが生きている間も、いやになるほど悪魔は私たちのもとにやって来るし、私たちの咎がいずれ私たちに打ち勝つだろうと告げることによって私たちを誘惑する。私たちの若い時の罪や以前のそむき[詩25:7]が、今なお私たちの骨々の中にあると云うのである。そして、私たちが墓に眠るとき、私たちのもろもろの罪がよみがえって私たちに立ち向かうと云うのである。「そうした罪の数多くが」、と悪魔は云う。「お前に先立って審きの座に向かって行ったし、これからも他の罪が後を追うのだ」。キリスト者が弱くなり、その心とその肉がくじけるとき、キリストの死という偉大な教理がなければ、私は云うが、悪魔はその人をこのように誘惑できるであろう。「お前は死のうとしている。俺様も未来の状態がないなどとは云うまい。たといそう云ったとしても、お前はこう答えるだろうからな。『そのようなことはない。というのも、キリストは死者の中からよみがえったのであり、それゆえ、私もよみがえるからだ』、と。だが、俺様はお前を別のしかたで誘惑してやろう。お前はひとかどの信仰告白をしてきた。だが俺様はお前が偽善者だと責めてやる。お前は自分が主の愛する者のひとりだと主張している。では、お前のもろもろの罪を振り返ってみるがいい。思い出すがいい。これこれの日に、いかにお前の反抗的な情欲がむくむくと起こり、お前は、たといそむきの罪に完全にふけりはしなくとも、いかにそれを切望したことか。思い起こすがいい。いかにしばしばお前は荒野で神を怒らせ、いかにしきりに神の怒りを自分に対して燃え上がらせたことか」。悪魔は私たちの日記を手に取り、その頁をめくっては、真っ黒な指で私たちの罪を指摘する。そして、嘲りに満ちた口調と意地の悪い目つきをしながら、それを読み上げる。「ここにいる聖徒を見るがいい」、と彼は云う。「聖徒だと! あはは! 何とご立派な聖徒ではないか。そら! 安息日を破ったとよ。そら! 悪い不信仰の心になったとよ。そら! 生ける神から離れ去ったとよ」。そして彼は次々に頁をめくっては、まことにどす黒い頁のあたりで指を止めて、「これを見ろ!」、と云う。そして、そのことでキリスト者をねじりあげる。「あゝ!」、と彼は云う。「ダビデよ。バテ・シェバのことを思い出せ。ロトよ。ソドムと洞穴のことを思い出せ。ノアよ。葡萄畑と酔っ払ったことを思い出せ」。あゝ! そして、罪が真っ正面からにらみつけるとき――自分の昔のもろもろの罪の亡霊がよみがえり、まざまざと見つめるとき、聖徒でさえ震える。むろん本当に信仰を持っている人であれば、罪を正面から見つめても、こう云うことができる。「イエス・キリストの血が私を罪からきよめてくれるのだ」、と。しかし、その血がなければ、また、キリストの死がなければ、あなたは、悪魔が死の時いかなる力を私たちに対して有するか容易に思い描けるであろう。なぜなら彼は、私たちが死のうとするとき、私たちに面と向かって私たちのあらゆる罪を投げつけるからである。しかし、ここで見てとるがいい。いかに死によってキリストが悪魔からそうする力を取り除かれたかを。私たちは罪に誘う誘惑にこう答える。「まことに、おゝ、サタンよ。お前は正しい。私は反逆した。私は自分の良心と自分の記憶を偽りだとは云うまい。私はそむきの罪を犯したことを認める。おゝ、サタンよ。私の生涯の最も暗黒の頁に目を向けるがいい。私はすべてを告白する。

   『よし神 わが魂(たま) 地獄(よみ)に送(す)つとも
    主の義の律法(おきて) そをよく是とせん』。

しかし、おゝ、悪鬼よ。お前に云わせてほしい。私のもろもろの罪は、あの古のアザゼルのための山羊[レビ16:8]の上で数えられたのだ。おゝ、サタンよ。カルバリの十字架へと行くがいい。そして、私の身代わりがそこで血を流しているのを見るがいい。見よ。私のもろもろの罪は私のものではない。それらは彼の永遠の肩の上に置かれており、彼はそれらをご自分の肩の上から海の深みに投げ込まれたのだ。立ち去れ、地獄の犬めが! お前は私を煩わそうというのか? 行って、あの《人》の姿を見て満足するがいい。死の陰惨な地下牢に入り、そこでしばらく眠り、それからその鉄格子を引きちぎり、多くの捕虜を引き連れて[エペ4:8]行かれたあのお方を。それは、ご自分が御父から義と認められた証拠であり、私もまた主にあって義と認められた証拠なのだ」。おゝ! しかり。これこそ、キリストの死が悪魔の力を滅ぼすしかたである。私は悪魔に、お前のことなど少しも構わないと云える。というのも、私たちのすべての罪は過ぎ去り、厚い雲に覆われており、永遠に二度と私たちに向かって持ち出されないからである。「あゝ!」、とかつてひとりの老いた聖徒が、悪魔にひどく悩まされた後でこう云った。「とうとう私は、自分の誘惑を片づけることができましたよ。それで今は非常な平安を楽しんでいるのです」。「どのようにしてそうしたのです?」、と彼を訪ねてきたキリスト者の友人は云った。「私は奴めに血を見せたのです。キリストの血を見せたのです」。これこそ、悪魔の耐えられないことである。あなたは悪魔にこう告げるかもしれない。「おゝ! だが、私は何度も祈ってきたのだぞ」。彼はあなたの祈りなど鼻であしらうであろう。あなたは彼にこう告げるかもしれない。「あゝ! だが、私は説教者だったのだぞ」。彼は面と向かってあなたを笑い飛ばし、あなたが自分自身を罪に定める説教をしてきのだと告げるであろう。あなたは彼に、自分は何か良い行ないしたことがあると告げるかもしれない。だが彼はそれを持ち上げて云うであろう。「これがお前の良い行ないかよ。――不潔な着物ではないか。こんなものを贈られて誰が喜ぶか」。あなたは彼にこう告げるかもしれない。「あゝ! だが、私は悔い改めてきたのだぞ」。彼はあなたの悔い改めをあざ笑うであろう。あなたが何と告げようと、あなたをあざ笑うであろう。あなたが、とうとうこう口にするまでは。

   「わが手にもてる もの何もなし
    ただ十字架に われはすがらん」。

そのとき、悪魔はぐうの音も出なくなる。今や彼には何もできない。というのも、キリストの死は、悪魔が私たちに対して有する、私たちの咎ゆえに私たちを誘惑できる力を滅ぼしたからである。「死のとげは罪で……す」[Iコリ15:56]。私たちのイエスは、そのとげを取り除かれた。そして今、死は私たちにとって無害である。なぜなら、その後には断罪が続かないからである。

 さらにまた、かりにあるキリスト者が未来の状態に対する堅い確信を持っているとしよう。かの悪い者は、その人を別のしかたで誘惑することができる。「確かに間違いなくお前は」、と彼は云う。「永遠に生きることになるし、お前のもろもろの罪は赦されているかもしれん。だが、お前はこれまで、最後まで耐え忍ぶことが非常に困難であると気づいたはずだし、今お前は死のうとしているのだ。お前がくじけることは確実だろう。お前は、何やかや困難があると心の半分がエジプトに帰りたがったことを知っているはずだ。何と、そうした、ちょっとしたくまばちでさえお前を悩ましたのに、今やこの死は竜たちの王者なのだ。もはやお前も一巻の終わりだろう。これまでお前は車の轍を見ても溺れるのではないかと恐れて泣いていたのに、ヨルダンの川がいっぱいにあふれている所へ入って行こうとしている今、どうしようというのだ? あゝ!」、と悪魔は云う。「お前は鎖でつながれていた獅子たちをも恐れていた。この、鎖でつながれていない獅子をどうしようというのだ? 今やいかにしてお前は逃れられよう? お前が強く、お前の骨々に髄が満ちていたとき、また、お前の筋に力がみなぎっていたとき、そのときでさえ、お前は俺様の前で震えていた。お前が死ぬとき俺様がお前をつかまえるなら、お前の力をくじけるし、もし俺様がもう一度お前をつかむなら、

   『絶望(わろ)き締め付け 汝が魂(たま)感ぜん、
    青銅(からかね)の格子(くし)、三重(みえ)の鋼鉄(てつ)越え』。

あゝ! そのとき、お前は打ち負かされるだろうよ」。そして、時には、あわれな、薄信のキリスト者はそれを正しいと思うことがある。私は確かにいずれは敵の手に倒れるだろう、と。アルミニウス主義者の神学者は立ち上がって、云うであろう。「愛する方々。それは非常にまっとうな種類の感情ですぞ。神はしばしばご自分の子どもたちを見離し、投げ捨ててしまわれるのです」。これに対して私たちは答える。「お前は嘘吐きだ、アルミニウス主義者よ。口を閉じているがいい。神は決してご自分の子らを見離したことはないし、そのようなことをなさることはありえず、なさろうともしないのだ」。

 そして、アルミニウス主義者に答えた後で、私たちは悪魔に答えるために向き直り、彼にこう云う。「おゝ、悪鬼よ。お前は私たちを誘惑し、お前が私たちに打ち勝つと思わせようとしている。だが、思い出すがいい。サタンよ。お前に対抗して私たちを保ってきた力は、私たち自身のものではなかったのだ。私たちを救ってきた腕は、この血肉の腕ではなかったのだ。さもなければ、私たちはとうの昔に打ち負かされていただろう。あそこを見るがいい。悪鬼よ。《全能者》なるあのお方を。その《全能性》こそ、私たちを最後まで保つ力なのだ。それゆえ、私たちがどれほど弱くなろうと、私たちが弱いときこそ、私たちは強いのであり[IIコリ12:10]、私たちの危難の最後の時にも、私たちはやはりお前に打ち勝つのだ」。

 しかし、ここで注意してほしいが、この答えは、キリストの死から発し、生じているのである。主イエスが地上に下って来られたとき、サタンはその任務を知っていた。彼は主イエスが神の御子であると知り、飼い葉桶の中の赤子となった主を見たとき、こう考えた。もし主を殺せたら、そして、主を死の綱で縛れたら、何と素敵なことか! それで彼はヘロデの霊をかき立てて主を殺させようとした。だがヘロデはその目的を逸した。そこで何度となくサタンはキリストの身体的存在を危険に陥れ、キリストを死なせようと努めた。あわれな愚か者であった彼は、キリストが死んだとき、悪魔の頭を踏み砕いたことが分からなかった。あなたも覚えている通り、一度キリストが会堂におられたとき、悪魔は人々を煽動し、彼らの怒りをかき立てた。そして彼は思った。「おゝ! もしこいつを殺すことができたら、何と素晴らしいことか。そのときには、こいつもおしまいだ。そして、私は永遠に至高の支配者となるのだ」。それで彼は人々に主を丘のがけのふちまで連れて行かせ[ルカ4:29]、今や確実に主が真っ逆様に突き落とされるのだと考えてほくそ笑んだ。しかし、キリストは逃れられた。彼は主を飢えさせようとした。溺れさせようとした。主は食べ物もなく荒野にいたし、嵐の湖にいた。だが主を飢え死にさせることも、溺死させることもできなかった。サタンは疑いもなく主の血をあえぎ求め、主が死ぬことを切望していた。そしてとうとうその日がやって来た。地獄の宮廷に電信が走った。ついにキリストが死ぬというのである。彼らは地獄的な歓楽と喜びによってその鐘という鐘を打ち鳴らした。「奴は今や死ぬのだ」、と彼は云った。「ユダが銀貨三十枚を受け取った。あの律法学者やパリサイ人どもに奴を捕まえさせよう。奴らは、蜘蛛が不運な蝿を逃さないのと同じくらい、奴を逃しはすまい」。そして悪魔は、《救い主》がピラトの法廷に立っているのを見たとき、喜びのあまり呵々大笑した。そして、「十字架につけろ」、と云われたとき、彼の喜びはとどまるところを知らなかった。いずれ、いやでも自らの悲惨の中にとどまることになることを除けば。彼は、自分にとって無上の愉悦たるこの考えに大喜びした。栄光の主が死のうとしているのである。死においてキリストは、御使いに見られていた[Iテモ3:16]のと同じく、悪霊たちにも見られていた。そして、ピラトの官邸から十字架までのあの陰惨な行進を、悪霊たちは興味津々で見つめた。そして主が十字架についたのを彼らが見たとき、そこには勝ち誇った悪鬼が突っ立ち、こう悦に入っていた。「あゝ! 俺様は今や《栄光の王》を支配下におさめたのだ。俺様には死の力があり、主イエスを従える力があるのだ」。彼はその力を大いに振るい、ついに主イエスが悲痛な苦悶の中からこう叫ばざるをえないほどであった。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]。しかし、あゝ! いかに地獄の勝利は短命であったことか! いかにこのサタンの凱歌は束の間であったことか! 主は死なれ、「完了した!」[ヨハ19:30]が地獄の門という門を震撼させた。十字架からこの征服者は飛び降りると、この悪鬼を御怒りの雷電で追跡した。地獄の陰へとこの悪鬼はたちまち逃げ去り、この征服者もたちまち彼を追って下っていった。そして、私たちは彼がこう叫ぶ姿を思い浮かべることができよう。――

   「裏切り者よ! この雷電(いかずち)は 汝れを突き止め、貫かん。
    よし汝れ地獄(よみ)の 波の深淵(ふかみ)に、
         隠れ家の墓 探し出すとも」。

そして主は彼を捕まえ、――ご自分の戦車の車に縛りつけ、彼を引きずって栄光の階段を上って行かれた。御使いたちはその間ずっと歓呼していた。「あなたは……捕われた者をとりこにし、人々から、みつぎを受けられました」[詩68:18]。さて、悪魔よ。お前は、私が死ぬときには私に打ち勝つと云った。サタンよ。私はお前に挑戦する。そして、お前をあざ笑おう! 私の《主人》はお前に打ち勝たれたのだ。そして私はこれからお前に打ち勝つであろう。お前は、聖徒に打ち勝つと云うのか。お前は聖徒の《主人》に打ち勝てなかった。そして、聖徒に打ち勝つこともないであろう。お前は一度、イエスを打ち負かしたと思った。それは苦い思い違いであった。あゝ! サタンよ。お前は小さな信仰と、か弱い心を打ち負かせると思うかもしれない。だが、お前は驚くほど考え違いをしている」。――というのも、私たちはじきにサタンを自分たちの足で踏み敷くに違いないからである。そして、私たちの最後の難局においてさえ、また、私たちが挫かれる見込みがいかに恐ろしいほど大きくとも、私たちは、「私たちを愛してくださった方によって……圧倒的な勝利者となるのです」[ロマ8:37]。

 見ての通り、私の兄弟たち。このようにしてキリストの死はサタンから、聖徒が死ぬ際に有している強みを取り去ってしまった。それで、私たちは喜びに満ちて、ヨルダン川のゆるい勾配の岸辺へと下って行くことができるのである。あるいは、たとい神が私たちを突然の死に召されたとしてさえ、その断崖からなめらかに舞い降りることができるのである。というのも、キリストが私たちとともにおられ、死ぬことは益[ピリ1:21]だからである。

 II. しかし今、もうほんのしばし、あなたに示したいことがある。すなわち、キリストは、単にその死によって死における悪魔の力を取り去っただけでなく、《他のあらゆる場所において悪魔がキリスト者に対して有していた力をも取り去られた》。「主は、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」――つまり、打ち負かし――「ました」。

 死は悪魔の主要な塹壕である。キリストは、獅子の穴の中でそのひげを引き抜き、悪魔自身の陣地で彼と戦われた。そして、死を彼から取り上げ、かつての難攻不落の要塞から防備を撤去したとき、単にそれを悪魔から取り去っただけでなく、彼が聖徒に対して有している他のあらゆる強みをも取り去られた。そして今、サタンは、死の時のみならず、他のあらゆる時、あらゆる所においても、征服された敵となっている。彼は、冷酷かつ強大な敵ではあるが、キリスト者とともに馬上槍試合の試合場に入るや、震えて怖じ気づく敵である。というのも、彼は知っているからである。たといその戦いが天秤の上でしばらくは揺れ動こうとも、勝利の重りは聖徒の側に落ちざるをえない、と。なぜなら、キリストがその死によって悪魔の力を滅ぼされたからである。

 私の兄弟たち。サタンは、明日あなたに対して大きな力を振るうかもしれない。あなたを肉の欲に、あるいは暮らし向きの自慢[Iヨハ2:16]にふけるよう誘惑するかもしれない。あなたのもとに来て、こう云うかもしれない。「これこれの不正直なことをするがいい。そうしたら、俺様がお前を金持ちにしてやるぞ。これこれの快楽にふけるがいい。そうしたら、俺様がお前を幸せにしてやるぞ。さあ」、とサタンは云うであろう。「俺様の甘言に乗るがいい。俺様はお前に、聖書の葡萄樽から出て来たどんな葡萄酒よりも芳醇な葡萄酒をがぶ飲みさせてやるぞ。お前が今まで知らなかったようなパンを食べさせてやるぞ。この誘惑の果実を食べるがいい。これは甘いし、お前を神のようにしてくれるのだぞ」。「あゝ!」、とキリスト者は云う。「だが、サタンよ。私の《主人》は、お前と関わり合ったときに死なれたのだ。だから私はお前とは何の関わりも持つまい。お前は、私の主を殺したからには、できるものなら私をも殺すであろう。だから、とっとと消え失せるがいい! だが、お前が私のために銀を積んで、私が不正を行ないさえすればそれをやると私に告げると云うなら、見よ。サタンよ。私はお前の銀を黄金で覆うことができるし、その後でさえ、その十倍もくれてやることができるのだ。お前は、罪を犯せば私の得になると云う。否。むしろ、キリストの宝の方が、エジプトの一切の宝よりも大きな富なのだ[ヘブ11:26]。何と、サタンよ。たといお前が私のもとに王冠を持って来ようと、また、『さあ! もしお前が罪を犯すなら、これをやろう』、と云おうと、私は云うであろう。『けちな王冠だ! 何と、サタンよ。私には、それよりもすぐれた冠が天国に保管されているのだ。私はこんなもののために罪を犯すことはできない。これは賄賂にしてはけちくさすぎる』、と」。たとい悪魔が金貨の入った袋を持って来て、「さあ、キリスト者よ。これをやるから罪を犯すがいい」、と云っても、キリスト者は云うであろう。「何と、悪鬼よ。そんなしろものには目もくれる価値もない。私は、街路を純金で敷かれた町に相続地を有しているのだ。だから、こんな、あわれなチャリンチャリンいうものが私にとって何だろうか? そいつを持って失せるがいい!」 彼は美を提供して私たちを誘惑する。だが私たちは彼に云う。「何と、悪魔よ。何をお前は狙っているのか? 美が私にとって何であろうか? 私の目は麗しの《王》を、また、遙か彼方の国を見てしまったのだ。そして、信仰によって、私は知っているのだ。やがて私が、美そのものも、その完璧さすらをも越えた所へ行くことになる、と。――そこで私は私の《救い主》を仰ぎ見るのだ。そのお方は、『万人よりすぐれ』[雅5:10]ているのだ。これは私にとって何の誘惑でもない! キリストは死なれた。そして私は、キリストのためにこうしたものをちりあくたと思っている。なぜなら私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められるという望みがあるからだ[ピリ3:8-9]」。それであなたも見ての通り、誘惑においてさえ、キリストの死は悪魔の力を滅ぼしたのである。

 「お前は屈服しないというのか」、と悪魔は云う。「お前を誘惑することはできない! あゝ! よろしい」、彼は云うであろう。「もしお前を誘い出して道を踏み外させられないとしたら、俺様はお前を押し出してやろう。お前は何様だというので、俺様にたてつこうというのか? あわれで、弱々しい人間よ! 何と、俺様は御使いたちを堕落させたこともあるのだ。どうしてお前を恐れることなどあろうか。さあ!」 そして彼は自分の足で私たちの足を踏みつけ、その竜の叫喚でこだまを恐怖させ、誰ひとり答える者がないまでとする。彼はその燃えるような剣を掲げ、私たちを地に打ち殺そうと考える。私の兄弟たち。あなたは、いかなる盾でその打撃を受け止めなくてはならないか知っている。私たちのため死なれたキリストを信ずる信仰の大盾[エペ6:16]である。彼はその投げ矢を放つが、その投げ矢は傷つけることがない。というのも、見よ。私たちはやはりそれをこの万能の大盾、キリストとその十字架とで受け止めるからである。それで、彼のほのめかしがいかにすさまじいものであっても、キリストの死は、悪魔の誘惑する力をも滅びへ追いやる力をも、滅ぼしてしまっている。彼はそのいずれかを行なおうとすることが許されるかもしれない。だが、いずれにおいても成功できない。キリストの死は、「悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼ」した。

 ある人々は悪魔など信じないと云う。よろしい。そうした人々には、あなたがたの云うことなど信じない、と云うしかない。なぜなら、もし彼らが自分自身をよく知っていたとしたら、たちまち悪魔を見いだすだろうからである。しかし、悪魔などというものがいる証拠を、彼らがほとんど有していないこともきわめてありうることである。というのも、あなたも知っての通り、悪魔は決して時間を無駄にしないからである。彼がある町通りに近づいたところ、ひとりの人が商売に携わっているのが見える。金の亡者で、貪欲で、強欲な男である。彼はやもめの家を飲み下し、あわれなみなし子の最後の土地をまさに呑み込んだばかりである。「おゝ」、と悪魔は云うであろう。「そのまま行き過ぎよう。あそこでは止まるまい。あいつは俺様など必要ではない。あいつは、苦もなく地獄に行くだろうよ」。彼は次の家へ行く。そこにはひとりの男がいる。酔いどれで、年がら年中飲み騒いでばかりいる。悪魔はその行進を続けながら、こう云う。「ここでも俺様の出る幕はない。なぜわが親愛な友たちを煩わさなくてはならないだろうか? なぜこうした、最後には俺様のものになるに決まっている者たちにかかずらわなくてはならないだろうか? 奴らを悩ます必要は全くない」。それから彼は、ひとりの貧しい聖徒が膝をかがめて、ごく僅かな力を祈りにおいて振るっているのを見いだす。「おゝ!」、と悪魔は云う。「こいつは、最後まで俺様の手に入らないだろう。ならば今、こいつを怒鳴りつけてやろう」。そこにいるのは、自分の悪の道から立ち返ったばかりのあわれな罪人で、こう叫んでいる。「私は罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。主よ。私をあわれんでください」。「家来が失われていく」、とサタンは云う。「逃すものか。俺様はこんなふうに自分の家来を失うつもりはないぞ」。それで悪魔は彼を執拗に攻撃する。あなたが悪魔の存在を信じていない理由は、まず間違いなく、悪魔がめったにあなたのもとにやって来ないことにある。それは、あなたを逃す心配がほとんどないため、彼はあなたに目を配る手間をかけず、それであなたは彼を見ないのである。それは、あなたが彼を煩わせるには悪人すぎるからである。そして彼は云うのである。「おゝ、そうだとも。あの男を誘惑して無駄にする時間などない。あいつを誘惑するなど屋上屋を架するというものだわい。あいつは、もう悪人になり切っているからな。だから、あいつのことは放っておこう」。しかし、ある人が神のそば近く生きているとき、あるいは、ある人の良心が覚醒し始めるとき、サタンは叫ぶのである。「戦闘準備! 戦闘準備! 戦闘準備!」 それには2つの立派な理由がある。第一に、彼はその人を悩ましたいと欲するからであり、第二に、その人を滅ぼしたいと欲するからである。よろしい。神はほむべきかな。悪魔がキリスト者に対していかなるあざけりと、悪賢さと、悪意を注ぎ出そうとも、キリスト者はキリスト・イエスという岩の陰で安全であり、安心していられるのである。

 さて今、しめくくりとして、神の民への慰めと、神を知らない人々への警告として一言二言云わせてほしい。

 おゝ、神の子どもたち! 死はそのとげを失っている。死における悪魔の力が滅ぼされているからである。ならば、死ぬことを恐れるのはやめるがいい。あなたは死がいかなるものか知っている。彼を正面から見据えて、お前など恐ろしくないと云ってやるがいい。神からの恵みを乞い求めるがいい。あなたの《主人》の死について詳細に知り、それを堅く信ずることによって、あなたがこの恐るべき時のための力を強められるように願うがいい。そして、よく聞くがいい。もしあなたがそのように生きるとしたら、あなたは死を楽しみをもって考えることができ、それがやって来るとき、非常な楽しみとともにそれを歓迎できるであろう。死ぬのは甘やかなことである。キリストの御胸の上に横たわり、天来の愛情の唇から肉体に口づけされて魂を抜き取られるのは甘やかなことである。そして、あなたがた、自分の友人を失った人たち。つまり彼らに死なれた人たち。望みのない人々のように悲しみに沈んではならない[Iテサ4:13]。というのも、悪魔の力が取り去られていることを思い出すがいい。キリストの死は、世を去った人々について、何と甘やかな思いを私たちにもたらすことか! 彼らは去っていった。私の兄弟たち。だが、どれだけ遠くへ去ったか分かっているだろうか? 天で栄化された霊たちと、地上で戦闘している聖徒たちとの距離は大きなものと思える。だが、そうではない。私たちは故郷から遠く離れてはいないのである。

   「ただ一息で 霊は離(ゆ)き、
    『去(い)ぬ』とわれらの 云う云わず、
    贖(か)われし霊は 得(うけ)るなり、
    御座の近くに その場所を」。

私たちは距離を時間で測る。ある場所は私たちから何時間も離れていると云いがちである。もしそれが百哩も離れていて、何の鉄道もないとしたら、私たちはそれを遠い距離だと考える。だがもしそこに鉄道があれば、たちまちそこに行けると考える。しかし、私たちは天国がいかに近いと云わなくてはならないだろうか? ほんの一息で、私たちはそこに達しているのである。何と、私の兄弟たち。世を去った私たちの友人たちは、いわば同じ家の二階にいるにすぎない。彼らは遠く離れ去ったのではない。彼らは階上におり、私たちは階下にいるのである。しかり。この詩人が云うように、それ以上である。

   「万(よろず)の民は 終焉(はて)なき家へ
    瞬(またた)くうちに 飛び去れり。
    われらもやがて 縁(ふち)にぞ至り
    じきに行くなり 死の間際(きわ)へ」。

それから彼は、彼らについてこう述べる。

   「民の半ばは 大水(みず)渡りたり」。

そこに彼らはいる。向こう側の岸辺にいる。ここには、別の部分がいる。流れの中に深くもぐっている。ここにいる私たちは、その縁にいて、今にも下りて行こうとしている。彼らはみな1つの軍隊である。アベルから始まり、今しも世を去ろうとしている者に至るまで、そこには、いかなる切れ目もない。そして彼らが一体でなくなることは決してない。あの真珠の門が永遠に閉ざされ、彼ら全員が安泰になるまでそうである。

   「今しもわれら 信仰によりて
    先立つ者と 手をば合わせて、
    かつまた迎えん 血注がる民を
    とわ永久(とこしえ)の 岸辺にて」。

 そして今、私はしめくくりに罪人に対してこう告げたいと思う。おゝ、あなたがた神を知らない人たち。あなたがた、キリストを信じていない人たち。死はあなたにとって、身の毛もよだつものである。それをあなたに改めて云う必要はない。あなた自身の良心がそうあなたに告げているからである。何と、人よ。あなたは宗教を笑い飛ばすときがある。だが、あなたが粛然とする瞬間においては、それは決して笑えることではない。この世で一番の自慢屋は、一番の臆病者と相場が決まっている。たとい人が私に、「おゝ、私は死ぬことなど怖くありません。あなたのキリスト教信仰など気にかかりません」、と云っても、私は騙されない。私にはすべてがお見通しである。その人は、夜ひとりきりになったときに感ずる恐れを覆い隠そうとしてそう云うのである。木の葉が一枚でも窓に落ちかかるとき、その人がどれほど蒼白になるかあなたは見るべきである。大気を稲妻がつんざいているときのその人を見るべきである。「おゝ、何て光だ」、とその人は云うであろう。あるいは、もしその人が強い人なら、ことによると、一言も発さないかもしれない。だが、その人は嵐がつのる間中、そうした恐怖を感じているのである。キリスト者のようではない。勇気を持っている人のようではない。何と、私は稲妻を愛している。神の雷は私の楽しみである。私がいついかなるときにもまして良い気分になるのは、途方もない雷と稲妻の嵐が吹き荒れるときである。そのとき私は、まるで自分が舞い上がれるかのように感じ、心の全体が歌い出す。そのとき私は喜んでこう歌う。――

   「こはわが 気高き神、
    わが父、わが愛なり。
    天(あま)つ力を 降らせ給いて
    われをば上へ 連れ行かん」。

しかり。あなたが死ぬのを恐がっていることは私に分かっている。そして私はあなたにこう云いたい。――あなたが死ぬのを恐がるのももっともしごくであり、いま死ぬのを恐がるのはもっともしごくである、と。あなたは、これまで何度も免れてきたので、自分は決して死なないと思っている。かりに、私たちがある人を捕まえて、その柱に縛りつけ、腕のいい射手が弓矢を手に取り、彼に射かけるとしよう。よろしい。一本の矢がパッと閃くと、その右に座っていた人に当たるかもしれない。また、別の矢がパッと閃くと、左にいた人に当たるかもしれない。一本は彼の頭の上に、別の一本は彼の足より下に突き立つかもしれない。だが、その人が、自分の耳元で矢たけびが聞こえるときに、笑ってあざけるだろうとは考えられまい。そして、もし彼がこう確信しているとしたら、すなわち、その射手が自分に狙いをつけさえすれば、自分は射抜かれるのだと確信しているとしたら、そのときには、愛する方々。あなたは彼がいかなる恐怖を経験していると告げるか思い描けまい。しかし、確かにそこには何の笑いもないはずである。彼はこうは云わないであろう。「おゝ! 私は死なないさ。見ろ。あの男は、他の奴らばかりを打ってるじゃないか」。否。死の危険があるというだけで、彼は正気になる。この射手には鋭い目と、しっかりとした手があって、ただ弦を引くだけで、その矢が確実に自分の心臓に達するのだと考えるだけで、少なくとも彼を真面目にし、常に油断させずにおくには十分であろう。というのも、一瞬のうちに、彼が思ってもみないときに、その矢が飛んで来かねないからである。さて、それがきょうのあなたである。神はその矢を弦につがえておられる。あなたの隣人は右で死んでいる。別の隣人は左で死んでいる。その矢はすぐにあなたのもとにやって来るであろう。神がそう望めば、もっと前に来ていたかもしれない。おゝ、死をあざ笑ってはならない。永遠を蔑んではならない。むしろ、自分に死の備えができているかどうか考えるがいい。死がやって来て、あなたの目方が足りないことを見いだすといけない。そして、覚えておくがいい。死は決してあなたの遅れを許しはしない。あなたは考えるべき時を遅らしてきた。だが死はあなたの都合に合わせて遅れはしない。むしろ、あなたが死ぬときには、神に立ち返るための猶予など一刻も与えられないであろう。死はその最初の一撃とともにやって来る。断罪が後に続く。執行猶予の望みは全くない。「信じて水に沈められる者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」*[マコ16:16]。このように私たちは、神が私たちにお命じになる通り、神の《福音》をあなたに宣べ伝えている。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によって水に沈めなさい」*[マタ28:19]。見よ。私はあなたに告げる。イエスを信ずる信仰こそ、魂の唯一の逃げ路である。浸礼によってそれを告白することこそ、人々の前で信仰を告白すべき、神ご自身が定めた方法である。願わくは主の助けによってあなたが、この2つの大いなる福音の命令において神に従えるように。イエスのゆえに。アーメン。

  

 

滅ぼされた破壊者[了]

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