顧みられなかった警告
NO. 165
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---- 1857年11月29日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂「角笛の音を聞きながら、警告を受けなければ、その血の責任は彼自身に帰する」。――エゼ33:5
世間のあらゆる事がらにおいて人々は、何が自分の得になるかということにかけては常に、実に油断なく目配りしているものである。新聞を読む商人のうち、自分に個人的に関わることに全く頓着せずそうしている者はまずいない。市場の騰落によって自分が利益か損失をこうむると分かっている以上、それに関する報道こそ、彼にとって最も重要な部分であろう。政治においてであれ、何においてであれ、事実、物質的な物事に関わることにおいては、個人的な利害こそ、通常は何にもまして優先される。人は常に自分に良い結果をもたらそうとしており、個人的な、また、家族にとっての利害こそ、大抵の場合、彼らの思いの大半を占めている。しかし、キリスト教信仰においては事情が異なる。キリスト教信仰において人は、自分がそこにいかなる個人的な利害を有しているかを吟味するため心探る問いかけをするよりも、抽象的な諸教理を信じたり、一般的な諸真理について云々したりする方を格段に好むのである。当たり障りのないことを扱う説教者を賞賛する人々の声はちまたに満ちている。だが、ひとたび説教者が心探るような質問を深く突き入れ出すと、次第に彼らは腹を立てるようになる。もし私たちが講壇に立って一般的な諸真理――例えば、万人が罪人であることや、《救い主》が必要であることなど――を宣言するとしたら、人々は私たちの教理に同意するであろうし、おそらくは、その講話に非常に満足して出て行くかもしれない。なぜなら、それは彼らを苦しめなかったからである。だが、いかにしばしば私たちの話を聞く人々は歯ぎしりし、向かっ腹を立てながら出て行くことであろう。なぜなら、イエスとともにいたパリサイ人のように彼らは、忠実な教役者について、彼が自分たちをさして語っていたことに気づくからである[マコ12:12]。だがしかし、私の兄弟たち。 これは何と愚かなことであろう。もし他のあらゆる事がらにおいて私たちが自分の所有する財産を好んでいるとしたら、――もし他の万事において自分に関わることに気を遣っているとしたら、――いかにいやまして私たちは、キリスト教信仰においても同じように行なうべきだろうか? というのも、確かにあらゆる人は、最後の審判の日には自分の申し開きをしなくてはならないからである。私たちはひとりきりで死ななくてはならない。復活の日には、別々によみがえらなくてはならない。そして、各人がひとりずつ神の法廷に立たなくてはならない。おのおのが別々に、「さあ、祝福された人たち」*、と云われるか、さもなければ、あの轟きわたる宣告、「のろわれた者ども。離れて行け」*によって愕然とさせられるかしなくてはならない[マタ25:34、41]。もし民族的救いのようなものがあるとしたら、もし私たちが十把一絡げに救われることが可能だったとしたら、また、そのようにして、麦の束のように刈り株とともに生え出た二、三本の雑草も麦ゆえに取り入れられることになるとしたら、そのときには、実際、自分の個人的な利害を顧みなくとも、それほど愚かではないかもしれない。だが、もし羊が一頭残らず、彼らを数えるお方の手の下を通って行かなくてはならず、もし誰もがひとりきりで神の御前に立ち、自分の行ないについて裁判を受けなくてはならないとしたら、――合理的なもののすべてにかけて、良心の命ずるすべてにかけて、自己の利益から強く要請されるすべてにかけて、ひとりひとり自分自身を眺め、思い違いをしないようにしようではないか。最後になってから、みじめに投げ捨てられる羽目にならないようにしようではないか。
さて、私は今朝、神の助けによって、努めて個人的になりたいと思う。そして、《天来の御霊》の豊かな助けを祈る一方で、この場に出席しているすべての方に願いたいとも思う。――私たちはあらゆるキリスト者に願いたい。どうか神に、この礼拝が祝されるように祈りをささげてほしい。また、他のあらゆる人にはこう願いたい。私があなたに対して、また、あなたに向かって説教していることをぜひとも理解してほしい。そして、もし何かあなた自身に個人的に当てはまることがあったとしたら、私は切に願う。生死にかかわることとして、その重みを十二分に良くかみしめてほしい。あなたの隣人のことは考えないでほしい。その人の方がずっと直接的に関係しているかもしれないが、その人のことは確かにあなたとは何の関わりもない。
この聖句は厳粛なものである。――「角笛の音を聞きながら、警告を受けなければ、その血の責任は彼自身に帰する」。第一の項目はこうである。――この警告は申し分のないものであった。――「角笛の音を聞き」。第二に、人を驚かすこうした警告に注意を払おうとしないでいる弁解は、ことごとく取るに足りない、よこしまなものである。それゆえ、第三のこととして、その不注意の結果は恐るべきものとならざるをえない。なぜなら、その場合、その人の血の責任はその人自身の頭上に帰さざるをえないからである。
I. まず第一に、《この警告は申し分のないものであった》。戦時中に、ある軍隊が夜襲を受け、眠っている間に分断され、壊滅させられた場合、もしもその襲撃を察知することが不可能であったとしたら、また、もし彼らがあらゆる注意を払ってその歩哨を立てておいたにもかかわらず、敵軍の狡知がまさっていたために壊滅させられたのだとしたら、私たちは泣くであろう。何者にも非を着せず、心底から嘆き悲しみ、その軍勢に完全な憐憫を寄せるであろう。しかし、もしそれとは逆に、彼らが自分たちの歩哨を立てておき、その歩哨たちがしっかり目を覚ましており、眠たげな兵士たちに申し分ないあらゆる警告を発していたにもかかわらず、その軍隊が分断されたとしたら、私たちは、同じ人としての情からはその死を嘆くことがあっても、それと同時に、こう云わざるをえないであろう。もし彼らが、歩哨たちから警告を受けても眠っているほど愚かであったとしたら、また、もし彼らが、血に飢えた敵の進軍について十分な、また、時宜にかなった注意を受けた後でも、増上慢な怠惰さによって腕をこまねいていたとしたら、彼らが死んだとしても、彼らをあわれむことはできない。彼らの血の責任は彼ら自身の頭上に帰さなくてはならない。あなたもそれと同じである。もし人々が不忠実な伝道牧会活動のもとで滅び、必ず来る御怒りから逃れるよう十分な警告を受けたことがなかったとしたら、キリスト者は彼らをあわれんで良い。しかり。彼らが神の法廷の前に立つときでさえ、確かに彼らが警告されなかったという事実が完全に彼らの罪の弁解になりはしないが、それでも私が思うに、さもなければ彼らの頭上に下っていたはずの永遠の悲惨を減ずるのに大いに役立つであろう。というのも、私たちも知る通り、警告を受けなかったツロやシドンの方が、最後の審判の日には、《福音》が宣べ伝えられるのをその耳で聞いていたいかなる町、あるいは、いかなる国よりも罰が軽いからである[マタ11:22]。だが、私の兄弟たち。もし、それとは逆に、私たちが警告されていたとしたら、もし私たちの教役者たちが忠実な者たちだったとしたら、もし彼らが私たちの良心をかき立てて、絶えず真剣に、必ず来る御怒りという事実に私たちの注意を引いていたとしたら、もし私たちが彼らの使信に注意を払わなかったとしたら、もし私たちが神の御声を蔑んできたとしたら、もし私たちが彼らの熱心な勧告に聞く耳を持たなかったとしたら、もし私たちが滅びるとしたら、私たちは警告を受けて死ぬことになる。――《福音》の響きの下で死ぬことになる。そして私たちの断罪は、あわれみのないものとなるに違いない。というのも、私たちの血の責任は、私たち自身の頭上に帰さなくてはならないからである。では、できる限り次の点について詳細に述べさせてほしい。すなわち、あなたがたの中の多くの人々の場合、この警告は全く申し分のないものである、ということである。
第一のこととして、この伝道牧会活動の警告は、あなたがたの中のほとんどの人々に聞こえていた。――「角笛の音を聞きながら」。はるか彼方の国々では、その喇叭の響きは聞こえない。悲しいかな! 私たちの無数の同胞たちは、神の使節たちによって一度も警告されたことがなく、御怒りが自分たちの上にとどまっていることを知らず、いまだ救いの唯一の道と方法を理解していない。だがあなたの場合、事情は非常に異なっている。あなたは、神のことばが自分に対して説教されるのを聞いたことがある。あなたは、神の御前に出るとき、「主よ。私はその真理を知りませんでした」、とは云えない。この場にいるいかなる男女も、その時にあえて無実を訴えることはないであろう。そしてさらに、あなたがたの中のある人々は、耳で聞いたばかりか、自分の良心においても、いやでもそれを聞かされてきた。いま私と向かい合って私の話を聞いている方々の中には、今や私が何年も何年もその尊顔を拝してきた人々がいる。一度や二度どころか、何度となく私は、ここで熱心に、忠実に、心をこめて語りかけていたとき、あなたの頬に涙が滴り落ちるのを見てきた。私は、あなたの全霊があなたの内側で揺さぶられるのを見てきた。だがしかし、私を悲しませることに、今のあなたは以前と全く変わっていない。あなたの誠実は朝もやのようであり、朝早く消え去る露のようである[ホセ6:4]。あなたは《福音》を聞いたことがある。その下で涙し、その響きを愛し、再びやって来ては、再び涙した。そして多くの人々はあなたが涙することに驚嘆した。だが、何にもまして驚嘆すべきことは、それほど何度となく泣いた後でも、あなたが自分の涙をいとも簡単に拭い去ってしまったことである。おゝ、しかり。神が私の証人であられるが、あなたがたの中のある人々は一吋たりとも天国に近づいていない。むしろあなたがたは、悔い改めない限り、自分自身の断罪を二重に確実なものとする証印を押してきたのである。というのも、あなたがたは《福音》を聞いた上で、幾多の預言を蔑み、神の自分たちに対するみこころを拒んできた[ルカ7:30]からである。それゆえ、あなたが死ぬときには、友人たちからはあわれまれながら死ぬに違いなくとも、それと同時に、あなたの血の責任はあなた自身の頭上に帰さなくてはならない。
その角笛は聞かれただけではない。それ以上に、その警告は理解された。この聖句で考えられている人は、その角笛を聞いたとき、それによって敵が近くにいることを理解したが、警戒しようとはしなかった。さて、私の兄弟たち。あなたも、《福音》の警告の響きを理解してきた。あなたの教役者には一千もの欠点があるかもしれないが、彼が全く免れている欠点が1つある。彼は、自分の考えを表現する際に、決して洗練された言葉遣いを駆使してそうしようとはしない。あなたがたはみな私の証人である。もしあるサクソン語が、あるいは、何か素朴な言葉が、あるいは、粗野な町言葉があるとして、それであなたに真理を告げられるとしたら、私は常に真っ先にそれを用いる。私は、神の御前であるかのように厳粛に云えるが、私は次のような堅い信念を持たずに自分の講壇を下りたことは一度もない。すなわち、何が起こったにせよ、私は自分の云いたかったことは完璧に分からせたはずだ、と。私は、少なくとも、誰ひとり私の意図を誤解しないような賢い言葉を集めようと努めてきた。人は歯ぎしりするかもしれないが、こう云うことはできなかった。「あの説教者は曖昧で、朦朧としていて、私に向かって私の理解を超えた形而上学を話していた」、と。彼はいやでもこう云わざるをえなかった。「よろしい。私は彼の云わんとすることがわかった。彼は十分に平易に話をした」、と。よろしい。方々。もしそうだとしたら、そして、もしあなたがたが自分に理解できる警告を聞いてきたのだとしたら、あなたがたがこの日それを拒否しつつ生きている場合、その分だけあなたには罪がある。もし私があなたに向かって、理解できないようなしかたで説教してきたとしたら、あなたの血の責任は私の頭上に帰さなくてはならない。私はあなたに理解させるべきだったからである。だがもし私が、低い身分の人々のもとに下りて行き、一般庶民に即した粗野な語句を選んだとしたら、また、もしあなたがその警告を理解したとしたら、また、もしあなたがその後で危険を冒すとしたら、よく聞くがいい。私の手はあなたの血で汚れてはいない。あなたがたが罪に定められても、私はあなたの断罪について潔白である。というのも、私はあなたに平易に語ってきたからである。悔い改めない限り、あなたがたは滅びなくてはならない。また、主イエス・キリストにあなたの信頼を置かない限り、あなたが救われる希望はない、と。
さらに、この角笛は人を驚かせるものであった。角笛の音は、この世で最も人を驚かせるものと常に考えられてきた。これこそ、復活の朝、無数の眠っている者たちを飛び上がらせ、その墓からよみがえらせるために用いられるものである。左様。そして、あなたがたは、人を驚かせるような伝道牧会活動に接してきた。あなたがたは――あなたがたの中のある人々は――、悪魔そのひとをも震えさせただろうような教役者たちの下に座ってきた。彼らはそれほどに熱心であった。また、時としてあなたは震え上がらされたあまり、眠ることができなかった。あなたの髪の毛は逆立っているかのようであった。彼らは、まるで二度と語ることがないかのように語った。死に行く者が死に行く者らに向かってそうするかのようであった。自分が地獄を見てきたかのように、また、《全能者》の復讐を見知っているかのように、また、別の折には、イエスの心に入り込み、その罪人たちに対する愛を読みとってきたかのように語った。彼らは青銅の額をしていた。ひるむことを知らなかった。あなたの不義をあなたの眼前でむき出しにした。また、取り違えようのない荒々しい言葉遣いで、あなたのしたこと全部をあなたに告げるお方[ヨハ4:29]がおられることをあなたに感じさせた。彼らがそれを厳然と宣言したため、あなたはその重圧を感じないではいられなかった。あなたは常にその教役者への崇敬の念を保っていた。なぜなら、少なくとも彼があなたに対して正直であることを感じ、時には、行って彼の話をもう一度聞こうという気分になることがあったからである。少なくともそこでなら、あなたの魂は感動し、真理を聞かされるからである。しかり。あなたは――あなたがたの中のある人々は――、人を驚かすような伝道牧会活動に接してきた。ならば、方々。もしあなたがたが火事だという叫びを聞いたとしたら、あなたがたが寝床の中で焼け死んだとしても、あなたの黒こげの灰は私を責めはすまい。もし私があなたに、信じない者は罪に定められなくてはならないと警告してきたとしたら、あなたが罪に定められた場合、あなたの悲惨な魂は私を責めはすまい。もし私が、時としてあなたをあなたのまどろみの中から飛び上がらせ、あなたの舞踏会や愉快な宴席を落ち着かないものにさせたことがあったとしたら、結局あなたがこうした警告を捨てて、こうした助言を拒絶した場合、あなたはこう云わざるをえないであろう。「私の血の責任は、私自身の頭上に帰する」、と。
あなたがたの中の多くの人々の場合、その警告は非常に頻繁なものであった。もし人が角笛を《一度》聞いて、それを顧みなかったとしたら、もしかすると彼を大目に見ることもできるかもしれない。だが、私の話を聞いている人々のうち、いかに多くの人が福音の角笛の響きを非常に頻繁に聞いてきたことか。そこにいる若者よ。あなたは長年、敬神の念に富む母上の教えを受け、長年、敬神の念に富む教役者の勧告に接してきた。荷馬車一台分ほどの説教があなたのために費やされてきた。あなたは、多くの手痛い《摂理》、多くの重い病気を経験してきた。しばしば死の鐘があなたの友人のために鳴ってきた。あなたの《良心》は覚醒されてきた。あなたにとって、警告はまれなことではない。非常にありふれたことである。おゝ! 話をお聞きの方々。たとい人が福音を一度しか聞かなかったとしても、その血の責任はそれを拒否したその人自身の頭上に帰するであろう。だが、それを何度も何度も聞いてきたあなたは、いかにいやまさってはなはだしい罰に値すると考えられるであろう。《あゝ!》 いかに多くの説教をあなたが――あなたがたの中の多くの人々が――聞いてきたか、いかに多くの時にあなたが心を《切り裂かれた》かを思うとき、私は泣いてしかるべきであろう。毎年百度もあなたは神の家に通ってきた。それよりはるかに多く通ってきた。だが、あなたは、単に永遠の積み薪に百本多くたきぎを加えたにすぎなかった。百度も角笛はあなたの耳の中で響いてきたが、百度もあなたは顔を背けて罪に舞い戻り、キリストを蔑み、自分の永遠の利益を顧みず、この世の快楽と《関心事》を追求してきた。おゝ! これは何たる狂気か、何たる狂気か! おゝ、方々。もしある人が一度しか《あなた》の前であなたの永遠の利益について自分の心を注ぎ出さなかったとしても、その人があなたに向かって真剣に語ったとして、あなたがその人の使信を拒否したとしたら、そのときには、そのときでさえ、あなたがたには咎があったであろう。しかし、《全能者》の矢が射尽くされてきたあなたについて、私たちは何と云えば良いだろうか? おゝ、雨に次ぐ雨で潤され、陽光に次ぐ陽光で燃やされてきたこの不毛の地に何がなされれば良いだろうか? しばしば叱責されていながら、それでもうなじをこわくしている者に何がなされれば良いだろうか? たちまち滅ぼされて、いやされることがなくて[箴29:1]当然ではないだろうか? そして、こう云われて当然ではないだろうか? 「彼の血の責任は彼自身にあり、彼の咎の責任は彼自身の頭上に帰する」、と。
そして、もう1つのことだけ思い起こさせたいと思う。あなたがこれほどしばしば受けてきたこの警告は、時にかなってあなたのもとにやって来た。「あゝ」、とひとりの不信心者が一度こう云ったことがある。「神が人間を顧みることなど絶対にありませんよ。もし神がいるとしたら、絶対に人間のことを気になどとめませんよ」。そこで、客車の中で彼と向かい合わせに座っていたキリスト教の教役者は云った。「いつかそのうちに、あなたも、今ご自分が云ったことの真実さを身にしみて知ることになるかもしれませんね」。「一体何のことを云ってるのか分かりませんな」、と彼は云った。「よろしい。いずれ、あなたが神に呼び求めても、神がお答えにならない日が来るかもしれないということですよ。あなたが手を差し伸ばしても、神はあなたを顧みず、『箴言』の書で仰せになった通りになさるだろうということですよ。『わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときにあざけり、あなたがたを恐怖が襲うとき、笑おう』*[箴1:24、26]」。しかし、おゝ、方々。あなたは手遅れになる前に警告を受けてきた。あなたが警告を受けたのは、あなたが病床についた時ではなく、「五時」[マタ20:6]になった時ではなく、救いの可能性が細々としかない時ではない。あなたは時にかなって警告されている。きょう警告されている。今では過ぎ去ってしまった長年の間、警告されてきている。もし神が地獄に落ちた者たちにひとりの説教者を遣わすとしても、それは彼らの悲惨を不必要に増し加えることであろう。確かに、たとい誰かがゲヘナの野を行き巡って福音を宣べ伝え、彼らの蔑んだ《救い主》について彼らに告げ、今や彼らの手の届かない福音について告げることができたとしても、それは、そのあわれな魂をあだな試みで嘲り、彼らの云い知れようのない災いを増し加えることであろう。だが、おゝ、私の兄弟たち。いま福音を宣べ伝えることは、希望の持てる時期に宣べ伝えることである。というのも、「今は恵みの時、今は救いの日」[IIコリ6:2]だからである。船頭が流れに乗り出す前に警告するとしたら、彼が早瀬に押し流されても、彼は自分で自分を滅ぼしたのである。人が毒杯を飲む前に警告し、それが猛毒だと告げるとしたら、彼がそれを飲んだ場合、彼が死んでも、それは彼の責任である。それと同じように、私たちはあなたがこの人生を去る前に警告しよう。あなたの骨にまだ髄が満ちているうちに、また、あなたの関節の筋がゆるむ前にあなたに宣べ伝えよう。その場合、私たちは時にかなってあなたに警告したことになり、あなたの咎はその分だけいや増し加わるであろう。なぜなら、その警告は折にかなったもの、頻繁なもの、熱心なもの、適切なもの、目を覚まさせるもの、絶えずあなたに与えられていたものであったにもかかわらず、あなたは必ず来る御怒りから逃れようとしなかったからである。
そして、そのように、今朝でさえも私はあなたに云いたい。もしあなたがたが滅びるとしたら、私のすそにあなたの血はついていない。もしあなたがたが罪に定められるとしたら、それは呼び求められなかったためでも、祈られなかったためでも、涙されなかったためでもない。あなたの血の責任は、あなた自身の頭上に帰さなくてはならない。というのも、その警告に申し分はなかったからである。
II. さて今、私たちは第二の点に至る。《人々は、自分がなぜ福音の警告に注意を払わないか弁解するが、そうした弁解はことごとく取るに足らない、よこしまなものである》。私は、人々があげる弁解のうち、そのごく一部を検討したいと思う。ある人々は云うであろう。「よろしい。私はその警告に注意を払いませんでした。そんな必要があるとは信じなかったからです」。あゝ! あなたは、死後審きがあると告げられたが、その審きに対して備えをする必要があるとは全く信じなかった。あなたは、律法の行ないによっては、この世のいかなる人も義と認められることはなく、ただキリストによってのみ罪人は救われると告げられた。だが、あなたはキリストが必要だとは全く思わなかった。よろしい。方々。あなたは必要があると考えたはずである。あなたも、自分の内なる良心では必要があると知っているはずである。あなたは、不信者として――公然たる不信者として――立っていたときには、非常に大きな口を叩いていた。だが、あなたは知っているはずである。あなたが語っている間も、1つのかすかな細い声があなたの舌が偽りであると示していたことを。あなたは重々承知しているはずである。静かな眠れない夜に、自分がしばしば震えてきたことを。海上で嵐に遭ったとき、あなたは膝をかがめ、陸の上では笑い飛ばしてきた神に祈ったはずである。病気にかかって死にかけたときには、「主よ。私をあわれんでください」、と云ったし、これからは信じますと祈ったことがあったはずである。しかし、もしあなたがそれを信じていなかったとしても、あなたはそれを信ずるべきであった。理性の中には、来世があるとあなたに教えてしかるべきものが十分あった。神の啓示の《書》は、十分平易にそれをあなたに教えていたし、もしあなたが神の《書》を退け、理性の声、良心の声を退けてきたとしたら、あなたの血の責任はあなた自身の頭上に帰する。あなたの弁解はむなしい。否、それよりも悪い。それは不敬で、よこしまなものである。やはりあなた自身の頭上に、あなたが永遠に苦悶する責任は帰するのである。
「しかし」、と別の人は叫ぶであろう。「私はあの角笛が気に入らなかったのです。宣べ伝えられた《福音》が気に入らなかったのです」。ある人は云うであろう。「私は聖書の中にあるいくつかの教理が気に入らなかったのです。私は、あの教役者が時々あまりにも厳しい教理を説教すると思いました。私はその《福音》に同意しませんでした。その《福音》が変えられるべきだと思いました。そのままでは受け入れたくありませんでした」。あなたは角笛が気に入らなかったというのだろうか。よろしい。だが、神がその角笛を作り、神がその《福音》を作られたのである。そして、あなたが神のお作りになったものを気に入らなかったというのであれば、それはむなしい弁解である。その角笛があなたに警告していた以上、それがあなたにとっていかなるものであれ、何だというのか? そして確かに、もしそれが戦時中だったとしたら、また、あなたに敵の来襲を警告する角笛の響きをあなたが聞いたとしたら、あなたはじっと座ったまま、こう云いはしなかったであろう。「さて、どうやらあれは青銅の角笛のようだ。私は銀づくりの角笛でなくては気に入らないのだ」。しかり。だが、その音さえ聞こえれば十分だったはずであり、あなたは立ち上がって危険から逃れたであろう。今のあなたもそれと同じでなくてはならない。あなたがそれを気に入らなかったというのは、むなしい云い訳である。あなたはそれを気に入ってしかるべきであった。神が《福音》をそのようなものとされたからである。
しかし、あなたは云うであろう。「私はそれを鳴らした人が気に入らなかったのです」。よろしい。もしあなたが神の使者のひとりを気に入らなかったとしたら、この町には多くの者がいる。あなたは自分の気に入る者をひとりも見つけられなかったのだろうか? あなたは、ある人の語り方が気に入らなかった。それは芝居がかりすぎていた。別の人の語り方も気に入らなかった。それは教理的すぎた。別の人の語り方も気に入らなかった。それは実践的すぎた。――だが使者たちはいくらでもいる。気に入った者を受け入れるがいい。それでも、もし神が彼らを遣わし、彼らに吹き方を教えたのだとしたら、また、もし彼らが自分の能力の限りを尽くして吹き鳴らしているのだとしたら、あなたの気に入るような吹き方ををしていないからといって、彼らの警告を退けるというのは、全く下らないことである。あゝ、私の兄弟たち。私たちは、火事になった家の中にいるとしたら、ある人がどう語るかなどに難癖をつけはしない。もしその人が、「火事だ! 火事だ!」、と叫ぶとしたら、彼がどんな語気でそう云ったかなど口やかましく云い立てない。あいつは何てきつい声をするんだなどと考えはしない。「火事だ!」、と知らせた人の叫び方が気に入らなかったからといって、寝床に入ったまま焼け死ぬような人がいたとしたら、あなたはその人を馬鹿だと思うであろう。途方もない馬鹿だと思うであろう。何と、その人のなすべきことは、その声を聞くなり寝床から飛び出して、すぐさま階段を駆け下りることであった。
しかし、別の人は云うであろう。「私はその人本人が気に入らなかったのです。私はあの教役者が好きでなかったのです。私はその角笛を鳴らした人が好きでなかったのです。私は彼が説教する分には、いくらでも聞いていられました。ですが、彼のことが個人的に嫌いだったのです。それでその角笛が何と云っているかに注意を払わなかったのです」。まことに、神は最後にはあなたにこう云われるであろう。「愚か者。お前があの者と何の関わりがあるというのか。しもべが立つのも倒れるのも、主人の心次第だ。お前の務めは、お前にだけ関わっていたのだ」。あなたは、次のような人についてどう考えるだろうか? ある人がある船の外に落ちてしまったとする。溺れかけているところへ、ひとりの水夫が綱を投げる。そして、そこにそれはある。よろしい。その人は、まず最初に云う。「私はあの綱が気に入らない。あの綱は、最上の工場で作られたとは思えない。その上、少し脂染みまでついている。私はこれが気に入らない。次のこととして、私はこの綱を投げて寄こした水夫も気に入らない。あいつは優しい心根の男ではないに違いない。ああした顔つきは全く気に入らない」。それからゴボゴボいう呻きが聞こえ、彼は海の底に沈んでしまう。そして彼が溺れたとき、人々は云った。もし彼がその綱をつかもうとしていたら、何と良かったことか。だが、あんなに馬鹿げた、滑稽な文句を云っていたなんて。あれが生死の鍵を握っていたというのに、と。この場合、彼自身の頭上に彼の血の責任は帰する。そして、最後にはあなたもそれと同じになる。あなたが教役者を批判し、その様式を批判し、その教理を批判することにかまけすぎていたために、あなたの魂は滅びるのである。覚えておくがいい。あなたは批判によって地獄に落ちることがありえるが、批判することで自分の魂を地獄から引き出すことは決してない。あなたはそこで、あらん限りの批判を行なうことができよう。あなたはそこで、こう云っていることができよう。「私はあの教役者が気に入らなかった。その話し方が気に入らなかった。その内容が気に入らなかった」、と。だが、あなたが何をどう嫌おうと、あなたの焼き焦げた舌を冷やす水の一滴さえ得ることはないであろう。その苦悶の世界の容赦ない苦しみを和らげる役には立たないであろう。
他の多くの人々はこう云うであろう。「あゝ、よろしい。私はこうした事がらの何かが気に入らなかったわけではありません。ですが、あの角笛の音は、他の人たち全員に向かって吹き鳴らされてはいても、私に向かって吹き鳴らされていたとは思わなかったのです」。あゝ! これは非常によくある考え方である。「誰しも思えり、われひとりのみ不死身ならんと」。そうひとりの善良な詩人は語った。そして、誰しも、他のあらゆる人には《福音》が必要でも、自分には必要ないと思うものである。だが私たちはみな思い起こそうではないか。《福音》には、私たちひとりひとりに対する使信がある、と。話を聞いている方々。《福音》はあなたに何と云っているだろうか? みことばはあなたに何と云っているだろうか? あなたの隣人たちのことは忘れるがいい。そして、こう問うがいい。これは私を罪に定めているだろうか? それとも、これは私に私の赦罪を保証しているだろうか? というのも、思い起こすがいい。あなたがみことばを聞いて行なわなくてはならないのは、あなた自身の耳で、あなた自身の魂のために聞くことだけだからである。たとい誰かがこう云うとしても、それは無駄なことである。「私は、それが私に当てはまることだとは思っていませんでした」。私たちは、それが天の下のすべての造られたもの[コロ1:23]に宣べ伝えられるべきであると知っており、それゆえ、そこには、すべての造られたものに当てはまるものがあるに違いない。さもなければ、すべての造られたものに宣べ伝えられはしないであろう。
よろしい。別の人は云うであろう。「しかし、私は忙しすぎて、しなくてはならないことがありすぎて、自分の魂に関わることに注意を払うことなど到底できませんでした」。あなたは、しなくてはならないことがありすぎて、家が火事になったときも外に出ることができずに焼け死んで灰になった人について何と云うだろうか? 死にかかっているときにも、しなくてはならないことがありすぎて、医者を呼びにやる時間がなかった人について何と云うだろうか? 何と、あなたは云うであろう。ならば、その人は、しなくてはならないことを、それほどかかえているべきではなかったのだ、と。では、もしこの世の中の誰かが、時間が足りなすぎて自分の魂を失わせる原因となるほどの仕事をかかえているとしたら、その人はこの問いを心に銘記するがいい。「人は、たとい全世界を得ても、たましいを損じたら、何の得がありましょう」[マコ8:36 <英欽定訳>]。しかし、それは偽りである。――偽りである。――人々には時間があるのである。道が欠けているのではなく、意志が欠けているのである。方々。あなたには、あなたの一切の仕事にもかかわらず、快楽に費やす時間はあるではないだろうか? あなたには、自分の新聞を読む時間はある。――自分の聖書を読む時間はないのだろうか? あなたには歌を歌う時間はある。――祈りをささげる時間はないのだろうか? 何と、ある日、百姓のブラウンが市場で百姓のスミスに会ったとしよう。彼は相手に云った。「スミスどんよ。おらには、お前さんが狩りをする時間をどうやって見つけられるか見当もつかねえ。だって、種まいたり、草刈ったり、麦刈ったり、土耕したり、そんなこんなで、おらの時間は畑んことで一杯一杯なもんで、おらには狩りをする時間なんかねえもんなあ」。「あゝ」、とスミスは云った。「ブラウンよ。もしお前さんがおらと同じくれえ狩りのことを好きだったとしたら、時間なんかなくとも、その時間をこさえるだろうよ」。そして、これはキリスト教信仰についても同じである。人々がキリスト教信仰のための時間を見つけられないのは、それを十分に好んでいないからである。もし彼らがそれを好んでいれば、彼らは時間を見つけるであろう。それに、それにどれほどの時間がかかるだろうか? それがどれほどの時間を要求するだろうか? 私は自分の帳簿を開いたままでも神に祈れるではないだろうか? 朝食をとりながらも、聖句を1つぱっと暗記し、それを一日中思い巡らしていられないだろうか? 私は、この世の用事で忙しくしているときでさえ、自分の魂について考え、自分を《贖い主》の血と贖罪に投げかけることができるではないだろうか? それには全く時間がかからない。ある程度の時間は必要かもしれない。ある程度の時間は個人的な静思の時のため、キリストとの交わりのため必要かもしれない。だが、恵みにおいて成長するにつれ、私はより多くの時間をかけて当然だと思うようになる。多くを得れば得るほど、私は幸福になるであろう。そして私は、自分には時間がないなどという弁解を決してしないであろう。
「よろしい」、と別の人は云うであろう。「ですが、私には十分な時間があると思っていました。先生も、私が若い頃から宗教熱心になるべきだとは思いませんよね? 私はまだ若いんです。そして、私も他の人たちのように、ちょっとばかしお楽しみを味わったり、若気の道楽をしてもかまわないではないではないでしょうか?」 よろしい。――しかり、しかり。だが、それと同時に、私の知る限り、楽しみのための最上の場所は、キリスト者が暮らしている場所であり、この世で最も素晴らしい幸福は神の子どもの幸福なのである。あなたは、あなたの楽しみを味わってもよい。――おゝ、しかり! あなたがキリスト者になるとしたら、その楽しみを二倍、三倍にするであろう。あなたは、この世の子らが楽しみと呼ぶものを持つことはなくとも、それより一千倍もすぐれたものを持つであろう。しかし、ただあの悲しげな光景を眺めるがいい。そこに、その災厄の暗い深淵の中のはるか彼方に、ひとりの青年が横たわり、こう叫んでいる。「あゝ! 私は徒弟奉公を終えたら悔い改めようと思っていたのに、その時が来る前に死んでしまったのです」。「あゝ!」、と彼のそばにいる別の者が云う。「そして私は、一人前の職人だった頃、親方になったらキリストについて考えようと思っていたのに、ひとり立ちできるだけの金を手にする前に死んでしまったのです」。それから、そのかげにいたひとりの商人が、苦々しい悲哀をこめて呻くであろう。「あゝ! 私は引退して、田舎に隠居できるだけ財産を貯めたら信心を始めよう、そのときには神について考える時間があるだろう、子どもたちは結婚して出て行っているだろうし、身の回りの雑事は片が付いているだろうと思っていました。ですが、ここで私は地獄に閉じ込められているのです。そして、いま、私があれほど遅らせてきたことが何になったでしょう? 世間での一切のけちな楽しみのために有していた一切の時間など何でしょう? 今の私は、それで自分の魂を失ってしまっているのです」。私たちは、何か時間を守れないことがあると、非常な苛立ちを感ずることが多い。だが、来世において自分が遅れてしまったことを見いだす人々の恐怖と失望がいかなるものとならざるをえないか、私たちには思い描くことができない。あゝ! 愛する方々。もしも、「私は次の水曜になったら悔い改めます」、と云う人がこの場にいると知っていたとしたら、私はその水曜日が来る前に、その人が恐るべき状態にあることを感じさせたいと思う。というのも、きょうその人が死んだらどうなるだろうか? おゝ! もしその人が死んだら! 水曜に悔い改めるとの約束は、木曜日に断罪されたその人を救い出すだろうか?
あゝ、これらはみな、むなしい弁解である。人々は、自分のからだのいのちに関わる際には、そんな弁解などしない。願わくは私たちが賢くなるように。そうしたあわれむべき云い訳で弁解したりしないように。私たちの魂、私たち自身の魂がかかっているのである。もし彼らが警告を受けないとしたら、その弁解がいかなるものであれ、彼の血の責任は、彼ら自身の頭上に帰さなくてはならない。
III. そして今、私は、ありったけの真剣さをこめて、厳粛きわまりないしめくくりを行なおうと思う。警告は申し分なかった。それに注意を払わない弁解は汚れたものであると分かった。では、最後に考えるべきことは、「《その血の責任は彼自身の頭上に帰する》」ということである。手短に云おう。――彼は滅びる。彼は確実に滅びる。云い訳の立たないしかたで滅びる。彼は滅びる。では、これはどういう意味だろうか? いかなる人間の精神にも、それがいかに広大な精神であれ、1つの魂が永遠に神から投げ捨てられるということに思いを致すことは決してできない。必ず来る御怒りは、来世で啓示される栄光と同じく言葉に尽くすことができない。私たちの《救い主》は、不敬虔な者たちに対して、未来の状態の種々の恐怖を云い表わす言葉を苦心して探された。あなたも覚えているように、主は尽きることのないうじと、決して消えることのない火、底知れぬ穴、外の暗闇で泣いて、呻いて、歯ぎしりすることについて語られた。いかなる説教者もキリストほど愛に満ちていたことはないが、いかなる者であれ、これほどぞっとするようなしかたで地獄について語ったことはない。だがしかし、《救い主》がその最善を語り、その最悪を語ったときでさえ、未来の状態の恐怖がいかなるものであるかを私たちに告げてはおられないのである。あなたがたは種々の病を見たことがある。激痛に襲われた際の人々の悲鳴を聞いたことがある。私たちは、少なくとも、身近な人々の寝台のかたわらに立ち、人間のからだにおける苦悶がいかなるきわみまで達しうるかを見たことがある。だが、私たちの中の誰も、そのからだがどれほどの苦しみに耐えられるものか知ってはいない。確かに、からだは永遠に苦しまなくてはならないに違いない。――「たましいもからだも、ともにゲヘナに投げ込むことのできる方」*[マタ10:28]。私たちは、激しい苦痛について聞いたことはある。だが、これほどの苦痛は決して夢にも思ったことがない。さらに、私たちは魂の悲惨の何がしかは見たことはある。私たちは、自分が子どもの頃によく知っていた人が、霊において抑鬱されている姿を一度も目の当たりにしたことはないだろうか。彼のために何をしてやっても、彼を微笑ませることは決してできない。――決して朗らかな光が彼の目に輝くことはない。――彼は悲哀に沈み、抑鬱されている。左様。そして、私の不幸な定めは、単に霊において抑鬱されていたばかりかく、精神のたがが外れてしまった人と同居しなくてはならないことにあった。その精神は、あまりにも哀調を帯びた陰鬱な空想を思い巡らすあまり、その人の姿を一目見るだけで、夏の陽射しを、荒涼たる冬の暗黒そのものに変えてしまうほどであった。彼は、暗く呻く言葉以外何も発さなかった。彼の思念は常に憂鬱な様相をしていた。彼の魂の内側は真夜中であった。――触れるほどの闇[出10:21]であった。あなたは自分でも、いかに精神が人を悲惨で満たす力を有しているか見てとったことが一度もないだろうか? あゝ、兄弟姉妹。もしあなたがたがわが国の多くの癲狂院に行き、わが国の数々の病棟に行けたとしたら、――左様、また、臨終の床にも行けたとしたら、あなたにも、精神がいかに激越な苦悩を感じられるものか分かるかもしれない。そして、覚えておくがいい。その精神が、定命の肉体と同じように罰に苦しむこととなるのである。しかり。私たちは「罰」という言葉を避けてはならない。聖書がそれを用いており、私たちもそれを用いなくてはならない。おゝ! 方々。もし私たちが悔い改めなければ、《私たち》がひとりひとり、救うことのできる方[ヘブ5:7]にあわれみを叫び求めない限り、私たちは滅びなくてはならない。信仰者とならない限り、「地獄」という言葉で意味されるすべてのことが私の中で実現しなくてはならない。そして、「のろわれた者ども。離れて行け」*[マタ25:41]によって意味されるすべてのことが、心底から神に立ち返らない限り、あなたのものとならなくてはならない。
しかしさらに、教役者の叱責によって立ち返らない者は死に、しかも確実に死ぬであろう。これは、ことによると、とか、たぶん、とかいった問題ではない。私たちが宣べ伝えている事がら、また、聖書で教えられている事がらは、厳粛に確実な問題である。死は、いかなる旅人も戻ってきたことのない領域かもしれないが、私たちがそれについて何も知らないといっては正しくない。人間が存在し、彼らが暮らしている世界が存在しているのと同じくらい確実に、来世はある。そして、もし彼らが悔悟しないまま死ぬとしたら、その世界は彼らにとって悲惨の世界となるであろう。そして、よく聞くがいい。――逃れる見込みは全くないのである。キリストから離れて死ぬとしたら、あなたが逃れることのできる門は何1つない。――永遠に、おゝ、永遠に失われたままであり、あわれみの希望は1つもない。――投げ捨てられ、1つも脱出の出口はなく、身受けされる見込みはただの1つもない。おゝ、もしも逃れることのできる希望が来世にあったとしたら、私たちもこれほど真剣になる必要はない。だが、いったん失われたならば永久に失われている以上、――いったん投げ捨てられたなら、何の希望も、何の希望の見通しもなく投げ捨てられている以上、私たちは真剣にならなくてはならない。おゝ、私の神よ。私は、この日この場に出席している何人かの人々が次の安息日が来る前にほぼ確実に死んでいることを思い起こすとき、真剣にならざるをえない。これほど大人数の集会とあれば、おそらく、私たちの全員が次の七日間の間、巡礼のままでいられる公算は小さいであろう。これは、単にありうべきことというだけでなく、おそらくそうなることである。この膨大な聴衆の中の一部の人々は、未知の世界に乗り出しているはずである。もしそれが私だったとしたら、私は至福の港へと船出するだろうか? それとも、永遠に燃える波浪を越えて航海し、災厄という岩礁に乗り上げ、失われ、難破し、座礁することになるだろうか? 魂よ。お前はどちらになるだろうか? ことによると、死ぬのはあなたかもしれない。そこで話をお聞きの白髪のご老人。あるいは、あなたかもしれない。そこの若い方。あるいは、そこの少年、君が死ぬことになるかもしれない。――私は知らないし、私たちにそれは分からない。――神だけがご存知である。ならば、ひとりひとり自分に問いかけるがいい。私は、死へ召されたとしたら、備えができているだろうか? しかり。あなたは今いる所で、あなたが腰かけている長椅子の上で死ぬかもしれない。――今あなたは死ぬかもしれない。――では、あなたはどこに行くだろうか? というのも、思い出すがいい。いずれに行こうと、あなたがたは永遠に行くのだということを。おゝ! 永遠――永遠――永遠よ。私がお前の峨々たる絶壁を永久に登り続けても、決して頂上に達することはなく、私の通り道はいつまでも悲惨、あるいは喜びとならざるをえないのだろうか? おゝ! 永遠よ。底なき深淵、果てしなき海原よ。私はお前の渺茫たる波浪を越えて永久にまっしぐらに航海しなくてはならないのだろうか?――そして、至福の海を蹴立てて進むか、さもなければ、復讐の暴風に駆り立てられて悲惨の深淵を越えて行かざるをえないのだろうか? 「われは誰ぞや?」 「わが魂(たま)、覚めよ、検分(けみ)をばせよや、かたよらず」。私に備えはできているだろうか? 備えはできているだろうか? 備えはできているだろうか? というのも、備えができていようといまいと、死は何の遅れも認めないからである。そして、もし死が私の戸口に来たとしたら、彼は私が永遠に行かなくてはならない所へ私を連れて行くであろうからである。備えができていようといまいと関係ない。
さて、最後のこととして、罪人は滅びるであろう。――確実に滅びるであろう。だが、最後に、罪人は何の云い訳もなしに滅びるであろう。――彼の血の責任は彼自身の頭上に帰する。ある人が破産したとき、こう云える場合もある。「これは無謀な取引の結果ではありません。――私が今のような有様になったのは、私が信頼していた人物の不誠実のためだけなのです」。その場合、その人はある程度は慰めを得て、「どうしようもなかったのだ」、と云えよう。しかし、おゝ、話をお聞きの方々。もしあなたが、警告を受けた後で、自分の魂を破産させるとしたら、そのとき、あなた自身の永遠の破産状態の責任は、あなた自身にあるであろう。たとい途方もなく大きな不幸が私たちを襲ったとしても、その起こりが神の摂理にあるとしたら、私たちは朗らかに耐え忍ぶであろう。だが、もし私たちが自分で自分にそれを招いたのだとしたら、それは何と恐るべきものとなるであろう! そして、あらゆる人は覚えておくがいい。もし人が《福音》を聞いた後で滅びるとしたら、その人は自分自身の殺人者となるのである。罪人よ。あなたはその短剣を自分で自分の心臓に突き立てるのである。もしあなたが《福音》を蔑むとしたら、あなたは自分で自分の火焔の寝床のための燃料を準備し、自分を永遠に縛る鎖を槌で打っているのである。そしてあなたが罪に定められたとき、あなたが悲痛に思い返すことになるのはこのことである。――私は自分で自分を罪に定めたのだ。自分で自分をこの穴に投げ込んだのだ。というのも、私は《福音》を退け、使信を蔑んだからだ。私は《人の子》を足で踏みにじった。その叱責を全く受けようとしなかった。その安息日を蔑んだ。その勧告に聞く耳を持たなかった。そしていま私は、自らの手で滅んでいるのだ。私自身の魂を惨めに自死させたのだ。
さて今、1つの甘やかな考えが私に浮かんだ。ある善良な著者がこう云っている。「疑いもなく、世界には、そこで何が起こったかを思い起こすならば、永遠に不毛のままである場所がいくつもあるであろう」。彼は云う。「私は一度、聖ポール大寺院の、丸天井の真下にいたことがある。そのとき、ひとりの友人が私に軽く触れてこう云った。『あの、のみで彫った跡が分かるかい?』 『分かるよ』、と云うと、彼は云った。『あれは、ある男が身投げした跡なんだ。そこに彼は落ちて、ばらばらになってしまったのさ』」。著者はこう云う。「私たちはみな、その小さな場所から後ずさりした。それは同胞の血が流れた場所だったのだ。それを思うと、そこは恐るべき所と思われた」。世には多くの町通りがあり、多くの道端があり、多くの神の家がある。それは、人々が最後の決心をして、自分の魂を罪に定めた場所である。また、疑いもなく、今朝、この場に立っている、あるいは座っているある人々は、その良心の声によって、「神を受け入れる決心をせよ」、と語りかけられている。そして今、サタンと悪の心とは寄ってたかって、「そんな使信ははねつけろよ。笑い飛ばせよ。忘れてしまえよ。明日の劇場の切符を取れよ。こんな男にびくびくさせられるなよ。そんなふうに喋るのが、あいつの商売なんだからさ。さっさと外へ出て、笑い飛ばそうじゃないか。きょうの午後からは楽しく過ごそうじゃないか」。しかり。これは、あなたが受けることになる最後の警告であろう。あなたがたの中のある人々にとってはそうであろう。あなたがたの中のある人々は、今この時、自分を罪に定める決心をするであろう。そして、あなたは未来永劫、永遠にわたって、サリー音楽堂の桟敷席の下のあの場所を眺めて云うことになろう。「あゝ! 私が彼の話を聞いたあの日は! 私は半分は心に感銘を受けていた。――彼は、ほとんど、私をキリスト者にするところだった。だが、私は地獄に向かおうと決心したのだ」。そして、あなたが立っている場所、あるいは、座っている場所は御使いたちにとって厳粛な場所となるであろう。というのも、御使いたちは互いにこう云い交わすであろうからである。「脇へ寄りなさい。これは、ひとりの人が自分の魂を永久とこしえに滅ぼした所なのです」、と。しかし、甘やかな思いとは、ある場所はまさにそれとは逆だということである。
何と、愛する方々。今朝、あなたが座っている場所は、三週間前にひとりの人が神に回心した所なのである。そして、あなたが座っているその場所を、あなたは尊ぶべきである。というのも、その場所に座っていたひとりの人は、あなたと同じように罪人のかしらのひとりであったが、そこで《福音》の使信と出会ったからである。また、ずっと後ろの方の、その扉の陰では、多くの魂がキリストに導かれた。多くの良い知らせを私は、向こうの上部桟敷席にいた何人の人々から聞いたことがある。「先生。私は説教の間中、先生の顔を見ることができませんでした。ですが、それにもかかわらず主の矢は、あの角を曲がって、私の心に突き立ちました。それで私は救われたのです」。あゝ、よろしい。願わくは神が、この場所を祝福してくださり、この日、そのあらゆる座席を、ご自分の恵みによって荘厳なものとしてくださるように。また、あなたの今後の人生において、あなたの幸福が始まった所、あなたの救いの夜明けとなった場所として思い出されるようにしてくださるように。「主イエスを信じてバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたも救われます」*[使16:31: マコ16:16]。これこそ、私たちがすべての造られたものに宣べ伝えるよう命じられている福音である。――「信じて水に沈められる者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」*[マコ16:16]。
顧みられなかった警告[了]
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