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目覚めよ! 目覚めよ!

NO. 163

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1857年11月15日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう」。――Iテサ5:6 


 いかに悲しいことを罪は行なってきたことか。私たちのこの麗しい世界は、かつては栄光に富む神殿であり、そのあらゆる支柱は神の善なるご性質を照り映えさせ、そのあらゆる部分は善の象徴であった。だが罪は、地から引き出すことのできるいかなる隠喩も比喩もだいなしにし、損なってしまった。罪が自然における天来の経綸を途方もなく攪乱してしまっため、美徳と善と天来の祝福の豊かさを無類に象徴していたものは、今や罪の比喩となり見本となってしまっている。こう云うのは奇妙なことだが、奇妙に真実なこととして、神の最上の賜物は、人々の罪によって、人の咎の最悪の象徴となってしまっているのである。大水を見るがいい! それは、その源から吹き出しては、豊穣さを抱きかかえつつ、野原を駆け抜ける。野を覆うかと思うと、たちまち引いて、平原の上に肥沃な土壌の堆積を残して行く。農夫はそこに自分の種を蒔き、有り余るほどの収穫を刈り取る。人は水の噴出を、摂理の豊かさ、また、人類に対する神のいつくしみの壮大さを見事に示す象徴であると呼んでいたであろう。だが私たちは、罪がその比喩をわがものとしていることに気づく。罪の始まりは水が吹き出すようなものなのである[箴17:14参照]。火を見るがいい! いかには神は親切にも、この元素を私たちに授けて、凍てつく冬のただ中にある私たちを元気づけてくださったことか。私たちは、雪と寒気の中から走り込んできては、家の中の火に向かい、わが家の炉辺で手を暖めて喜ぶ。火は御霊の天来の諸影響を示す豊かな象徴であり、キリスト者の熱心を表わす聖なる表象である。だが、悲しいかな、罪はすでにこれに触れており、舌が「火」と呼ばれ、「ゲへナの火によって焼かれ」ると告げられている[ヤコ3:6]。このことは明らかに、舌が冒涜や中傷を口にするとき、しごく頻繁に起こっていることである。それでユダは、罪が引き起こすこうした悪を眺めるとき、その手を上げてこう叫ぶのである。「ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします」[ヤコ3:5]。さらに眠りがある。神の賜物の中でも最も甘やかなものの1つは、安眠である。

「倦みし体(ちから)を甘く回復(いや)すは、かぐわし眠りよ」

眠りを神は、まさに祝福された者の休息を示す比喩に選ばれた。「イエスにあって眠った人々」、と聖書は云う[Iテサ4:14]。ダビデはそれを独特の恵みの賜物の1つとして上げている。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」[詩127:2]。しかし、悲しいかな! 罪はこれすらも放っておくことができなかった。この神々しい隠喩さえ踏みにじった。そして、祝福された者らの類ない状態が、神ご自身によって眠りと表現されたにもかかわらず、罪はそれすら冒涜し、云いたいことを云わずにはおかなかった。本日の聖句で眠りは、罪深い状況の象徴として用いられている。「ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう」。

 これを前置きとして、私はただちのこの聖句を取り上げることにしたい。この聖句の「眠り」は、避けるべき悪である。第二に、「ですから」という言葉が用いられていることにより、この眠りを避けるべきいくつかの理由があると示されている。そして、使徒がこの眠りを悲しみとともに語っている以上、私たちはこう学ばされるべきである。彼が「ほかの人々」と呼ぶ一部の人々については、そのために嘆くことが私たちの務めである、と。なぜなら、彼らは眠っており、目を覚ましておらず、慎み深くないからである。

 I. では第一のこととして、まず私たちは、《眠りという用語において使徒が意図している悪》を指摘してみよう。使徒は、眠っている「ほかの人々」について語っている。もしあなたが原語に当たってみるなら、「ほかの人々」と訳された言葉には、より強烈な意味がこめられていることに気づくであろう。それは、(ホーンがそう訳しているように)「屑たち」と訳すことができる。――「屑たちのように眠っていないようにしましょう」。一般大衆のように、下劣な者らのように、地上の困難を越えたことに何も思いを馳せない者らのように、である。「ほかの人々のように眠っていないようにしましょう」。卑しく下劣な群衆たち、キリスト者の有する気高い天界からの召しに生きていない者たち、「人間の屑たちのようには眠っていないようにしましょう」。そしてあなたは、原語ではこの「眠り」という言葉もまた、ずっと強い意味を有していることに気づくであろう。それは、深い眠り、熟睡を意味する。そして、使徒は、人間の屑はいま熟睡しきっているとほのめかしているのである。私たちは、これから彼がそれによって何を意図していたかをできる限り説明してみようと思う。

 第一に使徒が意味していたのは、人間の屑は嘆かわしい無知の状態にあるということである。眠っている人は何も分からない。家の中では陽気なお祭り騒ぎがあるかもしれないが、眠り惚けている者はその歓楽にあずかれない。家族に死が訪れているかもしれないが、眠っている者の頬は何の涙で濡れることもない。世界の歴史に関わる大事件が起こったかもしれない。だが彼にはそれが分からない。地震が大都市を瓦礫に変えてしまったかもしれない。戦争が一国を荒廃させてしまったかもしれない。あるいは、勝利の旗印が疾風の中に翻り、自国の喨々たる喇叭が勝利の音を私たちに向かって響かせているかもしれない。だが彼は何も知らない。

   「その労苦(つとめ)も 愛も失われ
    知り合い、知人を 失うに似ぬ」。

眠っている人は何も知らない。見るがいい。人間の屑がいかにこれと似ているかを! ある種の事がらについて彼らは大いに知っているが、霊的な事がらについては何も知らない。かの崇敬に値する《贖い主》の天来のご人格について、彼らは何の概念も有していない。敬神の念に満ちた生き方の甘やかな喜びについて、彼らは見当すらつけることができない。キリスト者の気高い感激や内なる歓喜に達することができない。天来の諸教理について彼らに話してやっても、それらは彼らにとって謎である。種々の崇高な経験について告げても、それらは彼らにとって狂信的な空想のように思われる。彼らは、来たるべき喜びについて何も分からない。そして、あゝ、彼らは! 自分がその不義のまま歩み続けた場合、自分たちにふりかかる数々の悪のことを忘れている。人類の大部分は無知である。彼らは、自分が神の知識を有していないことを分かっていない。彼らの目の前には、エホバに対する恐れがない[詩36:1]。むしろ、この世の無知によって目隠しされている彼らは、情欲の通り道に沿って確実ですさまじい末路、彼らの魂の永遠の破滅へと行進しつつある。兄弟たち。もし私たちが聖徒だとしたら、他の人々のように無知ではないようにしよう。聖書を調べよう。聖書の中には永遠のいのちがあるからである。聖書はイエスについて証言しているからである[ヨハ5:39]。勤勉になろう。みことばを私たちの心から離さないようにしよう。昼も夜もその言葉を口ずさみ、水路のそばに植わった木[詩1:2]のようになろう。「ほかの人々のように眠っていないように」しよう。

 また、眠りは無感覚の状態の描写でもある。眠っている人の中にも多くの知識があるかもしれない。その精神の奥深くに蓄えられた、十分に練られた知識が、目覚めさえすればあるかもしれない。しかし、彼には何の感覚もなく、何も分かっていない。強盗が家の中に押し入り、金銀がごろりと盗人の手に入る。その押し入り強盗の残虐な手によって子どもが殺されようとしている。だが、父親は眠りこけている。自分の持っているあらゆる金銀が、また最愛のわが子が、滅ぼす者の手の中にあろうと関係ない。彼は無意識である。いかにして彼に感じとることができようか、眠りが完全に彼の五感をふさいでしまっているのである! 見よ! 町通りに悲嘆の声が上がっている。貧しい家なしたちが、通りでねぐらにしていた場所が、火事で焼け落ちてしまったのである。彼らは彼の窓の真下で泣き叫び、彼の助けを求めている。しかし彼は眠り続けている。そして、何が彼の知ったことだろうか? 夜が冷たく、この貧者たちが吹きすさぶ寒風の中で震えていようと関係ない。彼には全く意識がない。彼は彼らのことを思いやらない。そら! 彼の地所の権利証書を取り上げ、その文書を燃やしてみよ! そら! 彼の農場に火をつけてみよ! 田畑で彼が有しているすべてのものを燃え上がらせてみよ。彼の馬を殺し、牛を滅ぼしてみよ。いま神からの火が下り、彼の羊が焼き尽くされるとしてみよ。敵が彼の全財産に襲いかかり、それを略奪するとしてみよ。彼は、まるで主の御使いに守護されてでもいるかのように眠っているであろう。

 これが人間の屑である。しかし、悲しいかな! 私たちはこの「屑」という言葉の中に、その大きな嵩を含めなくてはならない! 霊的な感覚を有している人々の何と僅かしかいないことか! 彼らは、自分のからだが、あるいは、自分の地所が負った障害、損害についてなら、何であれ十分に明敏に感じる。だが、悲しいかな! 自分の霊的な関心事について彼らは全く何の感覚も覚えない! 彼らは地獄の縁に立っている。神の怒りが彼らに向かって燃えている。だが彼らは恐れない。エホバの剣は鞘から抜き放たれている。だがその恐怖は彼らを捕えない。彼らは陽気に踊りながら進んで行く。人を酔わせる快楽の大杯を飲む。酒盛りをしては放蕩する。それでも彼らは好色な歌を歌い、しかり、それ以上のことをする。その徒な夢の中で彼らは《いと高き方》に公然と反抗する。その実、いったん彼らが自分の状態を自覚するとしたら、彼らの骨の髄は融解してしまい、彼らの心は蝋のように自分たちの内で溶けてしまう。彼らは、無頓着で無意識のまま眠っている。彼らに対して何をしようと、末頼もしいもののすべてを、また、彼らが死に至るとき彼らの励ましとなるだろうもののすべてを一掃してしまおうと、彼らは何も感じない。というのも、いかにして眠っている者が何かを感じるだろうか! むしろ、「ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう」。

 さらに、眠っている人は自分を守ることができない。向こうにいる武将を眺めるがいい。彼は勇者である。左様、そして、武装した勇者である。彼は天幕に入ったところである。彼は疲れている。彼はあの女から乳を飲まされ、「高価な鉢で凝乳を」[士5:25]食べたばかりである。たらふく食べて大の字になり、眠り込んでいる。だが、いま彼女が近づいて来る。彼女はその手に槌と釘を持っている。戦士よ! あなたは、その膂力の一撃で彼女を粉々にしてしまえたはずである。だが、あなたはいま自分を守ることができない。その釘は彼の耳にかざされ、その女の手は槌を握り、その釘が彼の頭蓋を串刺しにする。というのも、眠っていたときの彼は無防備だったからである。シセラの旗印は、幾多の強大な敵軍を圧して誇らかに翻ってきた。だが、今やそれはひとりの女によって汚されてしまう。告げよ、告げよ、告げよ! 目覚めているときには国々を震えおののかせていた男が、眠っているときには、女の細腕によって死ぬのである。

 そうした者らが人間の屑である。彼らは眠り込んでいる。彼らには誘惑に抵抗する何の力もない。彼らの道徳的力は離れ去っている。神が彼らから離れ去っておられるからである。そこには情欲への誘惑がある。彼らは商売上の問題では健全な原則の持ち主であり、何物も彼らを誠実さからそらすことはできない。だが、好色が彼らを滅ぼし、彼らは鳥のように網にかかる。彼らは罠に捕えられ、完全に征服されてしまう。あるいは、ことによると別のしかたで彼らは打ち負かされるかもしれない。彼らは不身持ちな行為をしたり、好色な思いを全くいだかない人々かもしれない。彼らはそうしたことを蔑む。しかし、彼らには別の弱点がある。彼らは杯によって罠にかかる。酩酊につかまり、滅ぼされてしまう。あるいは彼らは、たといこうしたことに抵抗することができ、締まりのない生活にも、暴飲暴食の生き方にも心が傾かないとしても、それでもことによると、貪欲が彼らのうちに入り込むかもしれない。思慮という名を借りて、それは彼らの心にするりと潜り込み、彼らは富を獲得すること、黄金を積み上げることへと至らされるかもしれない。その黄金が貧者の血管からしぼり取られたもので、自分がみなし子たちの血をすすっていようと関係ない。彼らは自分の情動に抵抗できないように見受けられる。いかに何度となく私は、人々からこのように聞かされることか。「私にはどうしようもないんです、先生。私が何をしようと、いくら決心しようと、何度も改めて決心しようと、同じことをしてしまうんです。誘惑には抵抗できないんです!」 おゝ、もちろん、眠っている間のあなたには抵抗できない。おゝ、生ける神の御霊よ! 眠っている者を起こしてください! 罪深い怠惰さと増上慢の双方を、ともに飛び上がらせてください。さもないと、モーセが彼らの道にやって来て、彼らが眠り込んでいるのを見て、不名誉な絞首台で永遠に彼らをしばり首にするといけないからです。

 さて私は、この「眠る」という言葉のもう1つの意味を示すことにしよう。私の望むところ、この会衆の中のある人々は、私が最初の3つの事がらを述べてきた間、まあまあ気楽にしていたであろう。なぜなら彼らは、自分がこうした事がらにおいては罪を免れていると思ったからである。しかし、眠りはまた、不活動をも意味する。農夫は眠っている間に自分の畑を耕したり、畦溝に種を蒔いたり、雲の見張りをしたり、自分の収穫を刈り入れたりすることはできない。水夫は眠りこけているときには、自分の帆を巻き上げたり、自分の船を大海目指して進ませたりすることはできない。取引所で、あるいは市場で、あるいは事務所で、人々が、堅く目を閉ざして眠り込んだまま、その取引を行なうことは不可能である。眠っている者しかいない国を見るとしたら、それは異様なことであろう。というのも、それは怠け者たちの国ということになるからである。彼らはみな飢えざるをえない。土地からは何の富も生み出さない。肩にひっかけるようなものは何もなく、着る物も食べ物もないであろう。しかし、私たちの中のいかに多くの者らが、この世の中で、眠りによって不活動になっていることか! しかり。私は不活動と云う。その意味は、彼らがある方向においては十分活動的だが、正しいことにおいては不活動だということである。おゝ、いかに多くの人々が、神の栄光のためには、あるいは、彼らの同胞たちの幸福のためには、いかなることにおいても全く不活動であることか! 彼らは、自分のためには「早く起き、おそく休み、辛苦の糧を食べる」*[詩127:2]。 ――彼らの子どもたち(これは彼ら自身の別名だが)のためには指が痛くなるまで労苦することができる。――目が血走り、頭がめまいを覚え、それ以上何もできなくなるほど疲れ切っても平気である。だが神のためには、彼らは何1つ行なえない。ある人々は時間がないと云い、他の人々はやる気がないと率直に告白する。神の教会のために彼らは一時間も費やせないくせに、この世の快楽のためには一箇月も注ぎ込むことができる。貧者のために彼らは、自分の時間を費やすことも、注意を払うこともできない。彼らは、ことによると、自分のため、自分の娯楽のための時間を取っておけるかもしれない。だが、聖なる働きのため、愛の行為のため、また、敬神の行ないのためには、余分な時間などないと宣言する。ところが、事実は、彼らにはその気がないということなのである。

 見るがいい。いかに多くの信仰を告白するキリスト者たちが、こうした意味で眠り込んでいることか! 彼らは不活動である。町通りでは罪人たちが何百人単位で滅びつつあるのに、また、人々が永遠の御怒りという火焔に沈み込みつつあるのに、彼らは腕組みをしている。滅びゆくあわれな罪人を憐れみはするが、自分の憐れみが本物であると示すようなことを何も行なわない。彼らは自分の礼拝所に通い、座り心地の良い、ふかふかの会衆席を占める。教役者が毎週自分たちを養ってほしいと願う。だが、彼らから《日曜学校》で教わる子どもはひとりもいない。貧者の家に配布される小冊子は一部たりともない。魂を救う手段となるような行為は何1つなされない。私たちは彼らを善良な人と呼び、その何人かを執事の職に選びさえするかもしれない。また、疑いもなく彼らは善良な人である。彼らはアントニーがブルータスを公明正大の士だと云ったとき意味したような意味で公明正大である。彼は云う。「その他の人々とて同様、すべて公明正大の人物である」、と*1。そのように私たちもみな、彼らが善人だとすれば、すべて善人である。しかし、こうした人々は善人ではあるが、ある意味で――何の役にも立たない善人である。というのも、彼らはただ座ってパンを食べるだけで、畑を耕さないからである。葡萄酒を飲むが、それを産する葡萄の木を育てないからである。彼らは自分が自分自身のために生きるべきだと考え、「だれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もない」*[ロマ14:7]ことを忘れている。おゝ、わが国の諸教会、諸会堂すべての中には、いかにおびただしい眠りがあることか。というのも、まことに、もしわが国の諸教会が一度でも目覚めていたとしたら、頭数に関する限り、回心した人々は十分におり、彼らに伴う才質は十分あり、彼らの有する資金は十分あり、彼らの有する時間は十分あり、神がその聖霊の満ち満ちた豊かさを授けてくださったとしたら――そして、彼らがみな熱心であったとしたら確実に神はそうしてくださるであろうが――、地上のあらゆる片隅で福音を宣べ伝えるのに十分な人数がいるからである。教会は器が欠けているために、あるいは、代行する機関がないために歩みを止める必要はない。今の私たちにはあらゆるものがあり、足りないのは意志だけである。私たちには、世界の回心のために神が与えると期待できるすべてのものがあり、ないのは、ただその働きのための心である。そして私たちのただ中に注ぎ出された神の御霊である。おゝ! 兄弟たち。「ほかの人々のように眠っていない」ようにしよう。あなたは、教会の中にも世の中にも、「ほかの人々」を見いだすであろう。その双方の「屑たち」はぐっすりと眠り込んでいる。

 しかしながら、この最初に説明すべき点を片づける前に、もう一言だけ云っておく必要がある。すなわち、使徒は自ら私たちに、講解の一部を供してくれている。というのも、第二文の、「目をさまして、慎み深くしていましょう」は、こうした事がらの逆が眠りであると暗示しており、それが彼の意図だからである。「目を覚まして……いましょう」。多くの人々は決して目を覚ましていない。彼らは決して罪を見張っていない。決して敵の誘惑を見張っていない。自分自身をも、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」[Iヨハ2:16]をも見張っていない。彼らは善を施すための機会をうかがっていない。無知な者を教え、弱い者を堅く立たせ、苦しむ者を慰め、困窮する者を援助する機会をうかがっていない。イエスの栄光を現わす機会をも、交わりの時をも待っていない。数々の約束を待っていない。自分の祈りに対する答えを待っていない。私たちの主イエスの再臨を待ち受けていない。こうした人々は、この世の屑である。彼らが目を覚ましていないのは、眠り込んでいるからである。しかし、私たちは目を覚ましていよう。そのようにして、自分が眠っている者でないことを証明しよう。

 また、「慎み深く」していよう。アルバート・バーンズは云う。これは何にもまして、禁酒、あるいは飲み食いにおける節制のことである、と。カルヴァンは、そうではない、と云う。これは、より具体的には、この世の事がらにおける節度ある精神を指しているのだ、と。両者とも正しい。これは、その双方を指している。慎み深くしていない人々は大勢いる。彼らが眠っているのは、慎み深くしていないからである。というのも、不節制は眠りに至らせるからである。彼らは慎み深くない。――大酒飲みの大食漢である。彼らは慎み深くない。――小さな仕事をすることに満足できない。――大きな取引をしようとしたがる。彼らは慎み深くない。――確実な商売を続けていられない。――投機をせずにはいられない。彼らは慎み深くない。――もし彼らがその資産を失うと、彼らの魂は自分の内側で絶望し、彼らは苦よもぎで酔わされた[哀3:15]ようになる。逆に彼らが金持ちになっても、彼らは慎み深くない。彼らは地上の事がらに心をかけるあまりに、その富ゆえの高慢に酔いしれるようになる。――金を鼻にかけた者になり、諸天がもう少し高く持ち上げられないと、彼らの頭は星々に衝突してしまう。いかに多くの人々が慎み深くしていないことか! おゝ! 私は特に今の時、あなたを強く戒めたい。愛する方々。厳しい時代がやって来ようとしている。今ですら相当に厳しい。慎み深くしていようではないか。米国における恐ろしい恐慌*2は、主としてこの命令、「慎み深くあれ」、に対する不従順から生じたのであり、もし米国の信仰告白者たちがこの戒めに従っていたとしたら、また、慎み深くしていたとしたら、あの恐慌は、完全に回避することはできなかったにせよ、多少なりとも緩和されていたであろう。さて、ほんのしばらくすると、少しでも貯金をしている人たちは、その銀行が倒産するのではないかといって銀行に殺到し、預金を引き出そうとするであろう。あなたは、自分の同胞たる人々にほんの少しの信頼もいだかないほど慎み深くなくなるであろう。そして、困難の中にある彼らを助けることも、そのようにして社会の祝福となることもなくなるであろう。そして、あなたがた、自分の金を高利で貸せば何がしかを得られると考えている人たち。あなたは、自分の持っているものを貸すだけでは飽きたらずに、あなたの貧しい債務者をしぼりあげ、むしりとり、もっと多くを貸せるようになろうとするであろう。人々がゆっくり金持ちになることに満足することはめったにないが、急いで金持ちになろうとする者は罪を犯さずにはいられないものである。用心するがいい。私の兄弟たち。――もしも不景気がロンドンを訪れ、商社という商社が潰れ、銀行という銀行が倒産することになるとしたら、――用心して慎み深くしているがいい。何にもまして恐慌を首尾良く乗り切るには、私たちひとりひとりが気を落とさないこと、――ただ朝起きて、こう云うことである。「景気は非常に悪く、きょう私は無一文になるかもしれない。だが、気を揉んだからといって何にもならない。むしろ、厳しい悲しみに対しても大胆な心を固めて仕事に行こう。取引は停止するかもしれないが、神はほむべきかな。私の宝は天にある。私が破産することはありえない。私は神の事がらに思いを据えている。それらを失うことはありえない。そこにこそ私の宝石があり、私の心があるのだ!」 何と、もしすべての人々がそのようにできたとしたら、それは世間の信用を作り出すものとなるであろう。だが、多くの人々の大きな破滅の原因は、あらゆる人々の貪欲さと、一部の人々の恐れである。もし私たちがみな確信と、大胆さと、勇気をもって世を渡って行けるとしたら、それにまさって衝撃を回避できるものはないであろう。さあ、その衝撃はやって来るに違いない。そして、今この場にいる、相当高い地位にある人々の多くは、短時日で乞食になるかも分からない。あなたの務めは、あなたの信頼をエホバに置いてこう云えるようになることである。「たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも、神は私の避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、私は恐れない」*[詩46:1-2]。そして、そうすることで、あなたは、人間の知恵があなたに命じうる他のいかなる手段にもまして、自分の破滅を回避する見込みを増すであろう。私たちは、他の人々のように仕事において節度を失うことなく、むしろ、目を覚ましていよう。「眠っていない」ようにしよう。――世の夢遊症に足をさらわれないようにしよう。それにまさることはありえない。――眠りながら貪欲に活動するよりは、むしろ、「目をさまして、慎み深くして」いよう。おゝ、聖霊よ。私たちが目を覚まし、慎み深くしていられるようお助けください。

 II. このように私は多くの時間を割いて、第一の点を説明した。――この眠りということで、何を使徒は意味していたか、である。さて今あなたは、「ですから」という言葉が暗に示していることに注目するであろう。すなわち、《このようにすべき、いくつかの理由》があるのである。そうした理由をあなたに示すことにしたい。そして、もし私がそれらを何かしら劇的な形にしてみるとしても、驚いてはならない。ことによると、その方がより記憶に残るであろう。「ですから」、と使徒は云う。「眠っていないようにしましょう」*。

 まず私たちは、この章そのものを私たちの理由として眺めたい。最初の理由は、この聖句に先立っているのである。使徒は私たちにこう告げている。「私たちはみな、の子ども、昼の子どもです。ですから、ほかの人々のように眠っていないようにしましょう」*[Iテサ5:5-6]。私は、日が暮れた後の町通りを歩くとき、あらゆる商店が閉まっており、あらゆる雨戸が下ろされているのを見ても驚きはしないし、二階の部屋のあかりは、人々が床につくため寝室に入ったしるしだと分かる。もう半時間もすれば、私は自分の足音にぎょっとするようになり、通りには人っ子ひとりいなくなる。それも不思議ではない。階上に上がれば、眠っている人々の安らかな寝顔をのぞき込めるであろう。だが私は何も不思議には思わない。それは、眠ってしかるべきとき、夜だからである。しかし、もしいずれかの日の午前中の11時や12時に町通りを歩いていて、そこに私しかいなかったとしたら、また、どの商店も閉まっており、どの家もぴったりと閉ざされているとしたら、また、何の物音も聞こえないとしたら、私は云うであろう。「これぞ奇妙、奇妙を通り越した奇妙、仰天すべき不思議だ。この人々は何をしているのだろう。もう真昼ではないか。だのに彼らはみな眠っている。私は目についた最初の扉叩きをひっつかみ、ガンガン叩いてやりたい。それから次の扉に行って呼び鈴を鳴らしてやりたい。この通り沿いのあらゆる家にそうしてやりたい。さもなければ、警察署に行って、そこで見つけたあらゆる人を揺り起こし、さっさと町通りで警報を鳴らせと云ってやりたい。あるいは、消防車を呼んできて、消防士たちに道をガタガタ走らせて、この人々を目覚めるようにさせてやりたい。まるでこう云いたいような気分がするからである。『ここには何らかの疫病がある。死の御使いが夜の間にこの通りを飛び回り、この人々を全員殺してしまったに違いない。さもなければ、彼らは確実にもう目を覚ましていたはずだ』、と」。昼間に眠っているのは、全く不似合いなことである。「よろしい。さて」、と使徒パウロは云う。「あなたがた、神の民よ。あなたのもとには昼間が来ている。あなたがたには義の太陽が上っており、その翼には癒しがある[マラ4:2]。神の御霊の光はあなたの良心の中にあり、あなたがたは暗闇の中から素晴らしい光へと導き出されている。というのも、あなたが眠り込み、教会がまどろむのは、昼間に町中が就寝し、太陽が輝いているときに町全体がまどろんでいるようなものだからである。それは時宜にかなったことでもなければ、見場の良いことでもない」。

 さて今、もしあなたがこの聖句をもう一度眺めてみるなら、あなたはそこにもう1つの議論を見いだすであろう。

 「私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう」[Iテサ5:8]。これは戦時のように見受けられる。それゆえ、またしても、まどろんでいることは見苦しいことなのである。向こう側の、はるか彼方の印度に1つの砦がある。あの忌まわしいセポイどもの一兵団がそれを包囲している。血に飢えた、地獄の犬どもである彼らが、いったん中に入り込むことを許されれば、母親とその子どもたちを引き裂き、勇士をめった切りにするであろう。彼らは門の前まで押し迫っている。その大砲は装填されている。その銃剣は血に渇しており、その剣は殺生に飢えている。ところが、その砦を行き巡ると、人々がみな眠り込んでいるのである。矢倉の上では哨兵が銃剣片手に舟を漕いでいる。天幕の中にいる指揮官は、その手に洋筆を握り、急送公文書の束を積んだ机を前に居眠りしている。兵士たちは天幕の中で横になっており、いつでも出撃可能な装備はしているものの、みなまどろんでいる。見張っている者はひとりもいない。ひとりも歩哨はいない。全員が眠りこけている。何と、愛する方々。あなたは云うであろう。「ここでは何がどうなっているのだ? 一体なぜこんなことが? どこかの大魔道師が杖を一振りして、彼ら全員に魔法でもかけたのだろうか? それとも、彼らは全員発狂したのだろうか? みな正気を失ったのだろうか? 確かに戦時に眠り込むなど実にけしからん。さあ! その喇叭を取り下ろせ。指揮官の耳元に近寄って、一発吹き鳴らし、それで彼が一瞬のうちに目覚めるかどうか見てみよ。城壁の上で眠りこけている兵士からあの銃剣を取り上げて、ちくりとお見舞いし、目を覚まさないかどうか見てやるがいい」。しかし、確かに確かに、敵が城壁を包囲し、門という門に殺到しているというときに眠り込んでいる人々になど、誰も我慢できないに違いない。

 さて、キリスト者たち。それがあなたの姿である。あなたの人生は戦いの人生である。この世と肉と悪魔は、地獄の三位一体であり、あなたは自分のあわれな天性というみじめな泥細工を塹壕にしなくてはならない。あなたは眠り込んでいるのか? サタンが情欲という焼夷弾をあなたの目という窓に撃ち込んでいるのに、眠り込んでいるというのか?――彼が誘惑という矢をあなたの心に発射しつつあるのに、――彼らがあなたの足を捕らえようと数々の罠を仕掛けているというのに。眠り込んでいるというのか? 彼があなたの存在そのものの下に坑道を掘り進め、主権の恵みの妨げがなければ、今にも燐寸を擦ってあなたを木っ端微塵にしようとしているときに。おゝ! 眠っていてはならない。十字架の兵士よ! 戦時に眠るのは全く辻褄が合わない。偉大な神の御霊が、決して私たちをまどろませないようにしてくださるように。

 しかし今この章そのものは後にして、私は他の理由を1つか2つあなたに示すことにしよう。それは、キリスト者である人々をその眠りから目覚めさせることになるはずである。「死人はおらんかね! 死人はおらんかね! 死人はおらんかね!」 それから、鐘の鳴る音がする。これは何だろうか? ここに大きな白十字でしるしをつけられた扉がある。主よ。私たちをあわれみ給え! あの町通り沿いにあるすべての家々には、あの白十字でしるしがつけられているように思われる。これは何だろうか? ここでは、通りに草が生えている。ここでは、コーンヒルやチープサイドがさびれきっている。誰も、この無人の舗道を踏み歩く者はない。聞こえる音と云えば、死の青白い馬の蹄が石畳に当たっているかのような、あの馬蹄と、多くの人にとって死の鐘を鳴らしているあの鐘の響きと、あの荷車の車輪がガタゴトいう音、そして、このすさまじい呼び声だけである。「死人はおらんかね! 死人はおらんかね! 死人はおらんかね!」 あなたにその馬が見えるだろうか? さて、その界隈に、ひとりの医者が住んでいる。彼は非常な名医であって、神は彼に知恵を貸し与えておられる。しかし、しばらく前にその書斎で彼は、神から精神を導かれ、この疫病の秘密をつきとめた。彼は自分もまた疫病に打たれて、死の瀬戸際にあったが、その霊験あらたかな薬瓶を手にとって唇に当てるや、一気に飲み干して、自らを完治させた。だが、あなたは私がこれから告げようとしていることを信じられるだろうか? そのようなことが想像できようか? この男は、住民全員を癒すであろう処方薬を有している。自分の隠しにそれを持っている。ひとたび町通りで配られたなら、病人を喜ばせ、あの死人の鐘を遠く追い払うであろう薬を有している。だのに彼は眠り込んでいるのである! 眠り込んでいるのである! 眠り込んでいるのである! おゝ、諸天よ。なぜお前たちは急降下して、この恥知らずを打ち砕かないのか? おゝ、地よ! なぜお前はこの悪鬼がお前の胸中にあることを許すのか? なぜこいつを生きながら呑み込まないのか? こいつには薬がある。怠け者すぎて、その治療薬のことを告げ知らせに出かけるのが億劫なのである。こいつは癒しの手段を有しているのに、怠惰すぎてそれを病人や死にかけている人々に与えに出かけるつもりがないのである! 否。愛する方々。このような非人間的な畜生めが存在しているはずがない! しかし、私はきょう、この場にそうした人が見える。そこに、あなたがいる! あなたは世が罪という疫病で病んでいることを知っている。また、あなた自身は、施与された治療薬で癒されている。だのにあなたは眠り込んでおり、物ぐさで、道草を食っている。あなたは、行ってこうしようとはしていない。

   「まわりの者に 告げよかし
    汝れの知りたる 救世主(きみ)のことをば」。

そこには尊い福音がある。だがあなたは行って、それを罪人の唇にあてがおうとはしない。そこに、何にもまして尊いキリストの血がある。だが、あなたは決して、死にかけた人々に向かって、彼らが救われるために何をしなくてはならないかを告げようとはしない。この世は疫病よりも悪いものによって滅びつつある。だのに、あなたはぶらぶらしている! また、あなたは福音の教役者である。あなたは、この聖なる職務を身に負っている。だのにあなたは日曜日に二回、また週日に一回説教するだけで満足しており、何の気の咎めも感じない。あなたは決して、あなたの説教を聞きに大群衆を引き寄せたいとは願わない。むしろ、会衆席はがらがらにしておき、礼儀作法を稽古している方が、一度でも、熱心すぎるように見える危険を冒して、群衆を引き寄せて、彼らにみことばを語るよりもましだと思っている。あなたは著述家である。あなたには卓越した文章力がある。だが、あなたが自分の才質のありったけをつぎ込んでいるのは、軽い読み物か、娯楽を供するであろう他の物事――だが、魂に益をもたらすことはありえないもの――を生み出すためである。あなたは真理を知っている。だが、それを口に出して云おうとしない。向こうにいる母御は回心した婦人である。あなたには子どもたちがいる。だのに、彼らに天国への道を教えようとはしない。向こう側にいるあなたは青年である。日曜日には何もすることはない。そして、そこには《日曜学校》がある。あなたは行って、神が病んだ魂の癒しのために供された、その主権的な治療法を私たちに告げようとはしない。死の鐘は今もなお鳴り響いている。地獄は叫び立てている。人々の魂に飢えてわめいている。「罪人はおらんかね! 罪人はおらんかね! 罪人はおらんかね! そいつを死なせて、地獄送りにしてやるぞえ!」 また、そこにいるあなたは、キリスト者であると告白しているのに、魂を救う器となるためには何も行なっていない。――決して自分の手を差し出して、主の御手にあって、火の中から燃えさしを取り出すように罪人を引き抜く手段になろうとはしない! おゝ! 願わくは神の祝福があなたの上にとどまり、あなたをそのような悪い道からそらし、あなたが他の人々のようには眠っておらず、目を覚まして慎み深くしていられるように。この世の差し迫った危険によって私たちは、活発になるべきである。眠っているべきではない。

 帆柱がいかに軋み音を立てているか聞くがいい! あの帆布がびりびりに千切れているのを見るがいい。前方には砕け波がある! 船はあの岩礁に真っ向から突っ込んで行きつつある。船長はどこにいるのか? 甲板長はどこにいるのか? 水夫たちはどこにいるのか? おおい! 誰もいないのか? 嵐が来ているのだぞ。どこにいるのだ? あなたは船室に下っていく。すると、船長がすやすやと安らかにまどろんでいる。舵輪の所にいる男は、これ以上ないほどに熟睡している。そして水夫たち全員が自分の吊り寝床の中にいる。何と! しかも、砕け波は前方に迫っているのである。何と! 二百人もの乗客の生命が危殆に瀕しているのである。だのに、この畜生どもは眠り込んでいるというのか? こいつらを蹴り上げるがいい。こんな奴らを船乗りにしておく価値がどこにあるのか? 特にこの急場に臨んでいるときに。何と! さっさと出て行け! もしお前が上天気の日に眠り込んでいたとしたら、われわれも勘弁してやったかもしれない。起きろ、船長! 一体何だというのだ? 気でも狂ったのか? しかし、聞けよ! 船が座礁した。すぐに沈没するだろうか? 今はお前も働き出すというのか。今や、何の役にも立たない今になって働く。溺れつつある婦人たちの金切り声が、お前のきわめて呪わしい怠慢ゆえに、面倒を見てもらえなかったという恨み節の弔鐘となって、地獄に落ちていくお前を送るだろう。よろしい。それこそまさに、こうした時期における、私たちの中の非常に多くの者らの姿でもある。

 私たちの社会というこの堂々たる船は、罪の嵐の中でよろめいてる。この偉大な国の帆柱そのものが、この高貴な船舶を吹き流しつつある悪徳の暴風雨の下で軋んでおり、あらゆる船材は引きゆがみ、可哀想なこの船は、神の助けがない限り、あゝ! 何者も救うことができない。では、この船の船長とは、また水夫たちとは、神に仕える教役者、そしてキリスト教信仰の告白者たちでなくて誰だろうか? こうした人々こそ、神がこの船の舵を取る恵みを与えられた者らなのである。「あなたがたは、地の塩です」[マタ5:13]。あなたがたが地を保ち、それを生かしておくのである。おゝ、神の子どもたち。あなたがたは嵐の中で眠り込んでいるだろうか? 今まどろんでいるだろうか? もし何の悪徳の巣窟もなかったとしたら、もしひとりも遊女がいなかったとしたら、もし神聖を汚すような建物が何もなかったとしたら、もし何の殺人も犯罪もなかったとしたら、おゝ! あなたがた、地の塩たる人たち。あなたがたも眠っていてかまわないかもしれない。だが、今日、ロンドンの罪の叫び声は神の耳に届いている。この怪物都市は犯罪で覆われており、神はこの町に腹を立てておられる。だのにあなたは眠り込んで何もしていないのか? では、神が私たちを赦してくださるように! しかし、確かに、神が赦してくださるあらゆる罪の中でも、これこそ最大のものに違いない。世が地獄に落ちて行きつつある間にまどろんでいる――サタンが忙しく人々の魂をむさぼり食らっている間に怠けている罪である。「兄弟たち」。このような時勢においては、「眠っていないように」しよう。というのも、もしそうするとしたら、呪いが私たちの上に降りかかるに違いないからである。ぞっとするほど耐えがたい呪いが。

 ひとりのあわれな囚人が独房の中にいる。もしゃくしゃの蓬髪がその目を覆っている。数週間前に、裁判官が黒帽子をかぶり、彼の出て来た場所へ彼を連れて行くこと、そして絞首によって死ぬべきことを命じたのである。このあわれでみじめな男は、やがて両手を縛られ、絞首台に上り、落下すること、そして死んだ後のことを思うと、心が内で砕け散るように感じる。おゝ! すべてを後に残して、どこに行くかも分からずに出立することを思って、いかに彼の心が引き裂かれ、苦しめられているか誰に分かろう? そこにひとりの男が、寝床に横たわって熟睡している。彼はそこでこの二日の間眠りっぱなしである。そしてその枕の下に、彼らはその囚人の無条件赦免状を持っている。私はそのごろつきを馬の鞭で打ってやりたい。しこたま打ちのめしてやりたい。というのも、このあわれな男を、二日間も極度のみじめさの中に置いておいたからである。何と、もし私がその男の赦免状を有しているとしたら、私は稲妻の翼に乗ることになるとしても、その男のもとに行きたいと思う。そして、これほど甘やかな使信を、これほどあわれな重苦しい心に届けに行くとしたら、これまで走ったことのある最速の列車も、極度にのろく感じるであろう。しかし、あの男は、あの畜生は熟睡している。無条件赦免状を枕の下にしまいこんで、このあわれでみじめな男の心が落胆で砕けたままにしている。あゝ! 彼にあまり厳しく当たってはならない。彼はきょうこの場にいる。今朝、あなたの隣には、あわれな悔悟した罪人が座っている。神は彼を赦しておられ、あなたが彼にその良い知らせを告げることを望んでおられる。彼は先週の日曜あなたの隣に座っていた。そして彼は説教の間中涙していた。自分の咎を感じていたからである。もしそのときあなたが彼に話しかけていたとしたら、誰にわかろう? 彼は慰めを得ていたかもしれない。だが、そこに彼は今いる。――あなたは彼に良い知らせを告げない。あなたはそうすることを私にまかせようというのだろうか? あゝ! 方々。だがあなたは代理人によって神に仕えることはできない。教役者が行なうことは、あなたにとっては無価値である。あなたには、あなた自身の個人的な義務があり、神はあなたに貴重な約束を与えておられる。それは今あなたの心の上にある。あなたは、自分の隣の席の人に向き直って、その約束について告げるだろうか? おゝ! いま多くの痛める心が痛みを覚えているのは、私たちが怠慢にもこの救いの良い知らせを告げようとしないからである。「そうです」、と私の教会員のひとりは云うであろう。日曜この場所に来ては、前の週の日曜に涙していたのを見た若者や若い婦人を探すことを欠かさず、多くの人々を教会の中に導いた人である。「そうです。私はあなたに、ある話をすることができるでしょう」。彼はひとりの若者を正面から見つめて云うであろう。「以前にも、何度かお見かけした方ではありませんかな?」 「ええ」。「あなたはこの集会にたいへん深い興味をお持ちのようですね」。「ええ、持ってます。なぜぼくにそんなことを聞くんです?」 「それは、私が先週の日曜にも、あなたの顔を見ていたからですよ。そして、私は、あなたに何らかの働きがなされていると思ったのです」。「おゝ! そうなんですか」、と彼は云う。「ここに来るようになってから、誰かがぼくに話しかけてくれたのは、これが初めてなんです。そして、ぼくはあなたに一言云いたいんです。母と一緒に家にいたときは、ぼくも少しは宗教心があると思っていました。でも、家を離れて年季奉公人になってからのぼくは、大勢の罰当たりな連中と一緒に過ごし、してはならないことを何でもしてきました。そして今、ぼくは泣けているんです。悔い改めようと思うんです。ぼくは神に願ってるんです。どうしたら救われるのか知りたいって! ぼくはみことばが説教されるのを聞きました。でもぼくは、誰かから個人的に話しかけてほしいんです」。そこで彼は向き直って、若者の手を取って云うのである。「愛する若い兄弟。私はあなたに話しかけたことを嬉しく思いますよ。主がここで今も何かをなさっておられることを思うと、私のあわれな老いた心は喜びますよ。さ、うなだれてはいけません。あなたも知っての通り、『「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するもの』だからです[Iテモ1:15]」。その若者は手巾を目に当てて、しばらくしてからこう云うであろう。「あなたのお宅に伺って、お会いしてもかまわないでしょうか」。「おゝ、もちろんですよ」、と彼は云う。彼は若者と話をし、彼を前へ導き、ついには神の恵みによって、この幸いな若者が前に進み出て、神が自分の魂のために何をなさったかを宣言するようになるのである。そして、自分が救われたのは、教役者の説教のおかげであるのと同じくらい、できる限りの助けを自分に与えてくれたこの人の素朴な仲立ちの働きのおかげです、と云うのである。

 愛する兄弟たち。花婿はやって来られる! 目覚めよ! 目覚めよ! 地はすぐにも崩れ、諸天は溶かされざるをえない! 目覚めよ! 目覚めよ! おゝ、聖霊が私たちみなを覚醒し、目を覚まさせてくださるように。

 III. さて、すでに第三の点について語る時間はなくなってしまった。私はあなたを長々とは引き留めまい。警告として一言云わせてほしい。ここでは、《1つの悪が嘆かれている》。ある人々は眠っており、使徒はそれを嘆き悲しんでいる。

 私と同じく罪人である方々。あなたがた、この日まだ回心していない人たち。あなたに対して、五、六言、語らせてほしい。そうしたら、もうここを出て行ってかまわない。未回心の男たち! 未回心の婦人たち! あなたはきょう眠り込んでいる。嵐の真っ只中にあって、帆柱の天辺で眠っている人[箴23:34]のようにそうしている。あなたは眠り込んでいる。大水が吹き出し、自分の家が土台から削り取られ、遠く海まで押し流されつつあるときに眠っている人のようにそうしている。あなたは眠り込んでいる。自宅が燃え上がり、自分の髪の毛の房が焼けこげつつあるとき二階の部屋にいて、自分の周囲の荒廃が分かっていない人のようにそうしている。あなたは眠り込んでいる。――断崖の縁で横たわり、死と破滅が真下にあるのに、それとも知らず眠り込んでいる人のようにそうしている。眠っているうちに、ちょっとでも体がずれれば真っ逆様になるだろうに、それが分かっていない。あなたはこの日、眠り込んでいる。そして、あなたが眠っている場所は、支えとしては途方もなく華奢であって、いったん壊れたなら、あなたは地獄に落ちるしかないのである。そして、もしそれまでに目覚めないとしたら、そのときのあなたの目覚めはいかなるものとなるであろう! 「あの金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げた」*[ルカ16:23]。そして、一滴の水を叫び求めたが、それは拒まれた。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。これが福音である。イエスを信じるがいい。そうすれば、あなたがたは、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおど」ることになろう[Iペテ1:8]。

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(訳注)

*1 シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』、III.2。[本文に戻る]

*2 クリミア戦争[1853-56]の終結とともに、穀物価格が急落し、米国の銀行や鉄道会社は苦境に陥った。1857年10月13日、紐育にある五十七銀行のうち一行を除くすべてが支払いを停止。12月12日まで銀行業務は再開されなかった。この年には、欧米を包括する未曾有の規模で経済恐慌が発生した。[本文に戻る]

 

目覚めよ! 目覚めよ![了]
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