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大切な第一の戒め

NO. 162

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1857年11月8日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これが一番たいせつな命令です」。――マコ12:30 <英欽定訳> 


 私たちの《救い主》は、「これがたいせつな第一の戒めです」[マタ22:38]、と云われた。これは、「第一の」戒めである。――その古さからして第一の戒めである。これは、書き記された律法としての十戒よりも古い。「姦淫してはならない。盗んではならない」、と神が仰せになる前から、この律法は神の宇宙をつかさどる命令の1つであった。というのも、これは、人が創造される以前に、御使いたちを拘束していたからである。神が御使いたちに向かって、「殺してはならない。盗んではならない」、と仰せになる必要はなかった。そうした事がらは、彼らにとって、十中八九不可能なことだったからである。だが、神は疑いもなく彼らにこう仰せられたに違いない。「心を尽くし、あなたの神である主を愛せよ」。そして、ガブリエルが神の命令により最初にその原初の無から飛び出してきたとき、この戒めは彼を拘束していた。ならばこれは、その古さからして「第一の戒め」である。それは、あの園にいたアダムを拘束していた。その妻エバの創造以前から、神はこのことを命じておられた。他のいかなる戒めが必要になるよりも前から、これは彼の心の板そのものに書き記されていた。――「あなたの神である主を愛せよ」。

 また、これは、単にその古さからばかりでなく、その威厳からしても「第一の戒め」である。この、《全能の神》を扱っている戒めは、他のあらゆる戒めに優先するものでなくてはならない。他の戒めは人と人とを扱っているが、これは人とその《創造主》とを扱っている。他の、様々な儀式的な種類の命令は、たとい従われなかったとしても、たまたま違反した者に大した結果をもたらすものではないかもしれない。だが、これに従わなかった場合は、神の憤りが引き起こされ、たちまちその罪人の頭上に神の瞋恚をもたらすのである。盗みをした者は、この命令に違反することに加えて、はなはだしい違反を犯すことになるが、もしその2つを分離して、この命令への違反を抜きにした、何らかの命令に対する違反ということを考えることができたとしたら、私たちはこの戒めに対する違反を、違反という違反の中でも第一の位置に置かなくてはならない。これこそあらゆる戒めの王である。これこそ律法の帝王である。これこそ、神が後に人々にお与えになった、かの綺羅星のごとき諸命令すべてに優先しなくてはならない。

 さらに、これが「第一の戒め」であるのは、その正しさのゆえである。たとい人々が、「あなたの隣人を愛せよ」、という律法の正しさを見てとれなかったとしても、――たとい、なぜ私が自分を傷つけ自分に危害を加える者をも愛する義理があるのか理解することにいささか困難を覚えたとしても、――ここには何の困難もありえない。「あなたの神を愛せよ」は、巨大な天来の権威をもって私たちのもとにやって来るため、また、天性と私たち自身の良心との命ずるところによって歴然と批准されているため、まことに、この命令は、その要求の正しさゆえに第一の地位を占めなくてはならない。それは「第一」の戒めである。いかなる律法を破ろうとも、この戒めだけは守るように気をつけるがいい。たといあなたが儀式律法の戒めを破ろうとも、たといあなたがあなたの教会のしきたりを実際に破ろうとも、あなたの違反は司祭によってなだめられるかもしれない。だが、これが人の違反だとしたら、誰に逃れることができよう? この指令は揺るぎなく立っている。あなたは人の法律を破って、その刑罰を我慢するかもしれない。だが、もしこれを破るとしたら、その刑罰はあなたの魂が忍ぶには重すぎる。人よ。それはあなたを沈めてしまう。地獄のどん底より深く、石臼のようにあなたを沈めてしまう。他の何にもましてこの命令に用心するがいい。これを思って震え、これに従うがいい。というのも、これは「第一の戒め」だからである。

 しかし、《救い主》はこれを「たいせつな戒め」であると云われた。そして、確かにこのことも事実である。これが「たいせつ」であるのは、それがその腹中に他のすべての戒めを含んでいるからである。神が、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」[出20:8]、と仰せになったとき、また、「偶像を拝んではならない。それらにひれ伏してはならない」*[出20:5]、と仰せになったとき、――また、「あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」[出20:7]、と仰せになったとき、神はこの概括的な指令にすべて含まれている詳細事項の実例をいくつかあげたにすぎない。これこそ律法の要諦である。また、実際、第二の戒めでさえ、第一の戒めの中に込められているのである。「あなたの隣人を愛せよ」は、実のところ、この命令、「あなたの神である主を愛せよ」の中心部に見いだすことができる。というのも、神を愛することは、必然的に、自分の隣人を愛することを生み出すからである。

 そして、これが大切な命令であるのは、その包括性のためであり、これが大切な命令であるのは、それが《私たち》に突きつけている巨大な要求のためである。それは、私たちの心のすべてと、思いのすべてと、知性のすべてと、力のすべてとを要求する。誰にこれを守ることなどできるだろうか? 人間性の有するいかなる力も、この命令の支配から免れていないのである。また、この律法に違反する者にとって、これが大切な命令であることが分かるのは、それが人を罪に定める力の大きさにおいてである。というのも、これは、神がその人を打ち殺す両刃の大剣のごときものとなるからである。それは、神からの大いなる雷電にも似たものとなる。それで神は、勝手気ままにそれを破り続ける者を打ち倒し、完全に滅ぼされるのである。ならば、聞くがいい。あなたがた、おゝ、異邦人よ。また、おゝ、イスラエルの家よ。ならば、この日、聞くがいい。この大切な第一の戒めを。「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。

 私は、この講話を次のように区分したいと思う。――第一に、この戒めは私たちに対して何と云っているだろうか? 第二に、私たちはそれに対して何と云うだろうか?

 I. さて、第一の点、《この戒めは私たちに対して何と云っているだろうか?》、について論じるに当たり、私たちはこれをこう分けることにしたい。ここには、まず、義務がある。――「あなたの神である主を愛せよ」。二番目のこととして、ここには、この義務の基準がある。「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして」。三番目のこととして、ここには、このような義務を強いている、この要求の根拠がある。――それは、主が「あなたの神」だからである。神が私たちに服従を要求される根拠は、ただ単に、主が私たちの神だからということでしかない。

 1. さて最初に、この命令は1つの義務を要求している。その義務とは、私たちが神を愛するということである。これを破っている人がどれほどいるだろうか? ある種別の人々は、故意に、また、はなはだしいしかたでこれを破っている。というのも、彼らは神を憎んでいるからである。そこにいる不信心者は、《全能者》に向かって歯ぎしりして怒りを露わにする。無神論者は、その冒涜の毒液を自分の《造り主》のご人格に対して吐きつける。あなたも、神という存在そのものに対して毒づく人々がいることに気づくであろう。彼らも、自分の良心の中では、ひとりの神がおられることを知ってはいるが、その唇では冒涜的に神の存在を否定しようとするのである。こうした人々が、神はいない、と云うのは、神などいなければ良いと思っているからである。そうした願いが、そうした思想の生みの親であり、そうした思想は、心を大いに鈍感にせずにはおかない。そして、はなはだしく霊がかたくなになって初めて、彼らはそれをあえて言葉で云い表わすのである。たとい彼らがそれを言葉で云い表わしたときでさえ、大いに練習を積まない限り、大胆な、厚かましい顔つきでそうすることはできない。さて、この命令は、神を憎み、蔑み、冒涜するすべての者ら、あるいは、神の存在を否定するか、神のご性格を難詰する者らすべてに重くのしかかっている。おゝ、罪人よ! 神はあなたに、心を尽くしてご自分を愛せよ、と云っておられる。そしてあなたは、神を憎んでいる限り、この日、律法の判決を云い渡されているのである。

 別の種別の人々は、神がおられることは知っているが、神を無視する。この世で無頓着に、「そのようなことは少しも気にせず」*[使18:17]過ごしている。「よろしい」、と彼らは云う。「神がいようといまいと、私にとっては大したことではない」。彼らは特に神のことなど気にしない。彼らが神の命令に対して払う敬意は、女王の布告に対して彼らが払うであろう敬意の半分ほどにもならない。彼らは、あらゆる権威当局を嬉々として崇敬するが、それらを制定されたお方は見過ごにされ、忘れ去られるべきなのである。彼らは、それほど大胆でも正直でもないので、率直に自分の意見を表明したり、神を蔑んだり、神の公然たる敵どもの仲間入りをしたりすることはないが、神のことは忘れている。神は彼らの思いのどこにもいない。朝の彼らは祈りもなしに起床し、夜の彼らは膝をかがめることもなく床につく。週日に仕事をこなす間も、決して神を認めることはしない。時として幸運だのまぐれだのについて語ることはある。それは彼ら自身の脳味噌でこしらえた奇妙な神格たちである。だが神については――万事を越えて支配する《摂理》の神については――、彼らは決して語ることがない。たといその御名を軽口の中で口にしようと関係ない。それは、神に対する彼らのそむきの罪を増し加えるだけである。――「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。

 しかし、私にはこうした紳士たちがこう答えるのが聞こえる。「よろしい。先生。私はキリスト教を信じているなどとは決して自負していませんが、それでも私は、そうした人々に全く負けないくらい善良な人間だと信じていますよ。私は同じくらい廉直だし、同じくらい道徳的だし、慈善的ですからね。確かに私は教会だの会堂だのの敷居をまたぐことはあまり多くありません。そんなことをする必要があるとは思いませんのでね。ですが、私は悪気のない真人間ですよ。教会の中には、いやになるほど偽善者がいますよ。それで私はキリスト教を一途に信じようとは思わないのです」。さて、愛する方々。一言だけ云わせてほしい。――それがあなたと何の関係があるだろうか? キリスト教信仰は、あなたとあなたの《造り主》との個人的な問題である。あなたの《造り主》は云われる。――「あなたは心を尽くしてわたしを愛せよ」、と。あなたが通りの向こう側に指を突き出して、裏表のある生き方をしている教役者を指さそうと、あるいは、聖くない執事を指さそうと、自分の信仰告白にはそぐわない生活をしている教会員を指さそうと、それはあなたにとって何の役にも立たない。あなたはそれとは全く何の関わりもない。あなたの《造り主》は、あなたに語りかけておられるとき、個人的にあなたに訴えかけているのである。そして、もしあなたがこのお方に、「私の主よ。偽善者がたくさんいるので、私はあなたを愛そうとは思いません」、と云うとしたら、あなた自身の良心が、そうした理屈の馬鹿らしさをあなたに確信させるではないだろうか? あなたのより健全な判断力は、こう囁くはずではないだろうか? 「ならば、これほど多くの偽善者がいるのだから、お前もそうでないように用心するがいい。また、自分の虚偽の見せかけによって、主の御国の進展に損害を与えている詐称者がこれほどいるのだから、お前が本物を持つべき理由、また、教会を健全で正直なものとすべき理由はそれだけ多いのだ」。しかし、否。わが国の町々の商人たち、わが国の町通りの行商人たち、わが国の熟練工や、わが国の職人たの大多数は、完全に神を忘れ果てて生きている。私は、英国が根から不信心なものだとは信じない。理神論や無神論が英国の全土で幅をきかせているとは信じない。むしろ私たちの時代の大きな過ちは、無関心という過ちである。人々は、物事が正しかろうと正しくなかろうと頓着していない。それが自分にとって何だというのか? 彼らは決して、わざわざ異なる信仰告白者たちの間を探り、どちらに真理があるかをみきわめようとはしない。彼らは、自分の心を尽くして神に敬意を表そうとは思わない。おゝ、否。彼らは神が何を要求しておられるかを忘れ、そのようにして、ささげられるべきものを神から奪っているのである。そのあなたに向かって、全人口の大部分を占めるあなたに向かってこそ、この律法は鉄の舌をもって実に語っているのである。――「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、と。

 ある種別の人々は、一群の呆けた者たちよりは、はるかに気高い性格をしている。彼らは決して、ただ単に官能的な幸福を求める気苦労によって、《神格》の数ある荘厳さを押し隠してしまう単純な者らとは違う。ある人々は神がおられることを忘れていない。しかり。彼らは天文学者たちであり、自分たちの目を天に向け、星々を眺めては、《創造主》の威光に感嘆する。あるいは、彼らは地の奥底まで掘り進み、太古における神のみわざの壮麗さに驚嘆する。あるいは、彼らは動物を調査する。そしてその解剖学的構造における神の知恵に感嘆する。彼らは、神について考えるときには常に、深甚きわなりない畏怖の念、またこの上もなく深い畏敬とともに神を思う。あなたは決して彼らの口から呪いや悪態を聞かない。あなたの見いだすところ、彼らの魂は偉大な《創造主》への深甚な畏怖にとらわれている。しかし、あゝ! 愛する方々。それで十分なのではない。これは、この命令に対する従順ではない。神は、あなたはわたしに驚嘆せよとも、わたしを畏怖せよとも命じておられない。それ以上のことを求めておられる。「あなたはわたしを愛せよ!」 おゝ! あなたがた、大空の諸天体がはるか彼方の空間に浮かんでいるのを見ている人たち。あなたの目を上げて天を見ることと、次のように云うこととは全くの別物である。――

   「かく汝が栄えのみわざあり。善の基よ、
    全能の主よ! 汝がものなる、なべての世
    かくも麗し。さらば汝が美の いかにあらん!
    云い尽くせじな、かく諸天(あめ)の上(え)に 汝れ座せば。

    われらは見えず、さなくば仄暗(くら)く
    下界(した)の作品(わざ)見ゆ。されど、そは宣言(つ)ぐ、
    想念(おもい)越ゆ汝が 慈悲(めぐみ)、大能(ちから)を」。

このように、偉大な《創造主》を賞賛することはそれなりに意味があるが、それが神の求めておられるすべてではない。おゝ、もしあなたがこれに、こう云い足すことができたとしたら、どんなに良いことか。――「こうした天体を造られ、これらをその軍勢ごとに導き出しておられるお方は、私の《父》なのだ。そして、私の心はこのお方に対する愛に脈打っているのだ」。そのとき、あなたは従順となるのである。それまでは決してそうではない。神はあなたの賛嘆ではなく、あなたの愛情を求めておられる。「心を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。

 さらに他の人々は、黙想に時間を費やすことを楽しみとしている。彼らはイエスを、御父を、御霊を信じており、唯一の神しかいないことを信じ、この三者がおひとりであることを信じている。彼らが楽しみとするのは、歴書の頁をめくるように啓示の書の頁をめくることである。彼らは神について沈思黙考する。神は彼らにとって好奇心をそそる研究対象である。彼らは、神について瞑想することを好む。そのみことばの諸教理を一日中でも聞いていられる。そして信仰的には非常に健全である。きわめて正統的であり、非常に知識がある。種々の教理について論争することもできる。神の事がらについて鋭意議論することができる。だが、悲しいかな! 彼らのキリスト教信仰は死んだ魚のようで、冷たく、こわばっている。そしてあなたは、それを自分の手にとってみるとき、まるで生気がないと云うであろう。彼らの魂は決してそれによってかき立てられていない。彼らは決してそれに完全に心を込めていない。彼らは黙想することはできるが、愛することができない。瞑想はできても、交わりができない。神について考えることはできるが、決して自分の魂を神に投げかけ、自分の愛のこもった腕で神を抱きしめることができない。あゝ、あなたに、冷徹な思索家であるあなたに、――あなたにこそ、この聖句は語っているのである。おゝ! あなたがた、黙想はできても愛することができない人たち。――「心を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。

 別の人が飛び上がって、こう云うであろう。「よろしい。私はこの命令に感じ入ってりはしませんよ。私は、毎日曜に二度、自分の礼拝所に集っています。家庭礼拝を行なっています。朝は、ある形式の祈りを唱えずに起床したりしないよう非常に注意しています。時には自分の聖書を読むこともあります。多くの慈善事業に寄付しています」。あゝ! 愛する方。だがあなたは、こうしたすべてのことを行ないながらも神を愛していないことがありえる。何と、あなたがたの中のある人々が自分の教会や会堂に出かけて行くしかたは、まるで馬の鞭で打たれに行くかのようではないか。それは、あなたにとってだれた、物憂いことなのである。あなたは、安息日を破るなどというようなことはしないが、できるものならそうしたいと願っている。あなたは重々承知している。もしそれが単に流行や慣習の問題でないとしたら、自分が神の家にいるよりは、その倍も素早く別の場所に行っているであろうことを。そして、祈りについて云えば、何と、それはあなたにとって何の楽しみでもない。あなたが祈りをするのは、単にそうすべきだと思うからである。何らかの名状しがたい義務感があなたを押さえているが、あなたはそれに何の楽しみも感じない。あなたは神について非常に格式張って語る。だが決して愛をもって語ることはない。あなたの心は決して神の御名が言及されるごとに弾みはしない。あなたの愛は決して神の数々の属性を思うときに潤みはしない。あなたの魂は決して神の数々のみわざを瞑想するときに踊り上がりはしない。というのも、あなたの心は全く感動していないからである。そしてあなたは、口先では神を敬うが、あなたの心は神から遠く離れている[マタ15:8]。それであなたは、やはりこの戒めに不従順なのである。「あなたの神である主を愛せよ」。

 では今、話をお聞きの方々。あなたはこの戒めを理解しているだろうか? 私には、あなたがたの中の多くの人々が、逃れるための抜け穴を探そうとしているのが見えるではないだろうか? あなたがたの中のある人々が、私たち全員を取り囲むこの天来の城壁からしゃにむに脱走しようとしているのが見えるような気がしないだろうか? あなたは云う。「私は決して神に反するようなことをしたことがありませんよ」。否。愛する方。問題はそこにはない。あなたがしていないことにではない。――問題はこうである。「あなたは神を愛しているだろうか?」 「よろしい。先生。ですが、私は決してキリスト教信仰のしきたりに反してはいませんよ」。否。それが問題なのではない。この命令は、「神を愛せよ」、なのである。「よろしい。先生。ですが、私は神のためにたくさんのことをしていますよ。私は《日曜学校》で教えたり、その他のことをしていますよ」。あゝ! それは私にも分かっている。だが、あなたは神を愛しているだろうか? 心をこそ神は欲しておられ、心なしでは満足なさらないであろう。「あなたの神である主を愛せよ」。それこそ律法なのである。そして、確かにアダムの堕落以来いかなる人もそれを守ることはできないとはいえ、それでも律法がアダムのあらゆる子らをこの日拘束していることは、神がすべての最初にそれを宣告なさったときと全く変わっていない。「あなたの神である主を愛せよ」。

 2. そこから私たちは第二の点に移る。――この律法の基準である。私はどのくらい神を愛しているだろうか? どこに私はその基準点を固定すれば良いだろうか? 私は自分の隣人を自分と同じように愛するべきである。私は自分の神をそれ以上に愛すべきだろうか? しかり。確かにそうである。その基準は、それよりも高い。私たちは、心と思いと知性と力を尽くして自分を愛するべきではない。それゆえ、自分の隣人をもそのように愛するべきではない。この基準はそれよりも高い。私たちは神を、私たちの心と思いと知性と力を尽くして愛するのでなくてはならない。

 そして私たちがここから引き出すのは、第一に、私たちは神を無上のお方として愛すべきだということである。おゝ、夫たちよ。あなたはあなたの妻を愛すべきである。あなたが妻を愛しすぎるということは、ただ1つの場合を除いてありえない。それは、あなたが彼女を神にまさって愛し、彼女の意向を《いと高き方》のみこころにまさって好ましく思う場合である。そうするとき、あなたは偶像礼拝者となってしまう。子どもたちよ! あなたは自分の両親を愛すべきである。あなたが自分を生んでくれた父を、また、自分を産み落としてくれた母を愛しすぎるということはありえない。だが、覚えておくがいい。それをも無効にする律法が1つあるのである。あなたは、あなたの父やあなたの母を愛するのにまさって、あなたの神を愛すべきである。神はあなたの第一の、またあなたの最高の愛情を要求しておられる。あなたは神を、あなたの「心を尽くして」愛すべきである。私たちは自分の親戚を愛することが許されている。そうするように教えられている。自分の家族を愛さない者は異邦人や取税人よりも悪い[Iテモ5:8]。しかし、自分の心の最愛の相手をも、神を愛するほどに愛するべきではない。あなたがたは、自分が正当に愛する者たちのために小さな王座を立てても良い。だが、神の王座は栄光に富むいや高い王座でなくてはならない。あなたは彼らをその上り段の上に据えても良い。だが神がその御座そのものに着くのでなくてはならない。神が王位につけられるべきである。あなたの心の国王たる《お方》として。あなたの愛情の王として。云うがいい。云うがいい。話をお聞きの方々。あなたはこの戒めを守ってきただろうか? 私は自分がそうしてこなかったことを知っている。私は神の前で有罪を認めなくてはならない。神の前に身を投げ出し、自分のそむきの罪を認めなくてはならない。しかし、それにもかかわらず、この戒めは立っている。――「心を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。――すなわち、あなたは神を無上のお方として愛すべきなのである。

 また、注意するがいい。この聖句から私たちが引き出せるのは、人が神を心底から愛すべきだということである。これは明々白々である。というのも、これはこう語っているからである。「心を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。しかり。神に対する私たちの愛には、心底からのものがあるべきである。私たちは自分のありったけを神にささげる愛にこめるべきである。それは、ある人々がその同胞たちに、「暖かになり、十分に食べなさい」[ヤコ2:16]、と云いながら、それ以上何も与えないときのような種類の愛ではない。しかり。私たちの心は、そのありかたすべてが神に吸い込まれているものとなり、神が、その追求とその最も力強い愛との心からの的となるようにするべきである。いかに「尽くして」という言葉が何度も何度も繰り返されているか見るがいい。自分の存在の出入りのすべて、魂のわき立つ思いのすべては神のためのもの、神だけのためのものであるべきである。「心を尽くして」。

 さらに、私たちは、心底から神を愛すべきであるのと同じように、思いを尽くして神を愛すべきである。そのとき私たちは神を、私たちのすべてのいのちをもって愛すべきである。それがこの意味だからである。たとい私たちが神のために死ぬよう召されたとしても、私たちは自分のいのちにもまして神を好むべきである。私たちが、この戒めの完全さに達したければ、殉教者の域に行き着くしかないであろう。彼らは神に服従しないくらいなら炉の中に投げ込まれるか、野獣にむさぼり食われることを望んだのである。私たちは家も、家庭も、自由も、友人たちも、慰安も、喜びも、いのちも、神の命令1つで投げ出す覚悟をしていなくてはならない。さもなければ、私たちはこの戒めを実行に移していないのである。「心を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。

 また、次に私たちは自分の知性を尽くして神を愛すべきである。これは、知力をもって神を愛すべきだということである。さて、多くの人々は、ひとりの神の存在を信じている。だが、その信仰内容を愛していない。彼らは、ひとりの神がいることは知っているが、何の神もいなければいいのにと願ってやまない。あなたがたの中のある人々はこの日、もしこの世に神など全くいないと信じられるとしたら、非常に喜ぶであろう。鐘という鐘を鳴らし始めるであろう。何と、もし何の神もいないとしたら、自分の好き勝手に生きられるのである。もし何の神もいなければ、そのときには放蕩しても、未来の諸結果を恐れる必要がないのである。もしあなたが、永遠の神がいなくなったと聞いたとしたら、それはあなたにとって、ありうべき最高の喜びであろう。しかし、キリスト者は決してそうしたことを願わない。ひとりの神がおられるという思想はその人の存在を照らす日光である。その人の知性は《いと高き方》の前にひれ伏している。いやいやながら自分のからだをかがめる奴隷のようにしてではなく、自分の《主人》を崇敬することを愛するので伏し拝む御使いのようにひれ伏している。その人の知性は、その心と同じくらい神を好ましく思っている。「おゝ!」、とその人は云う。「わが神よ。私はあなたがおられることであなたをほめたたえます。あなたは私の最高に大切なお方、私の最も尊い、私の最も素晴らしい楽しみだからです。私はあなたを私の知性を尽くして愛します。私の有するいかなる思想であれ、いかなる判断力であれ、いかなる確信であれ、いかなる理性であれ、あなたの足下に置けないもの、あなたの誉れのために聖別できないものはありません」。

 さらにまた、この神に対する愛は活動によって特徴づけられるべきである。というのも、私たちは神を私たちの心を尽くして、心底から、――私たちの思いを尽くして、すなわち、私たちのいのちを投げ出して、――私たちの知性を尽くして、すなわち、精神的に愛すべきであり、私たちは神を、私たちの、すなわち、活動を尽くして愛すべきだからである。私は、自分の魂のすべてを神への礼拝と崇敬に投入すべきである。私は一刻たりとも、あるいは、私の富の一銭たりとも、あるいは、私の有するただ1つの才質たりとも、あるいは、肉体的、精神的な力の一粒たりとも、神礼拝から引っ込めておくべきではない。私は、神を自分の力を尽くして愛すべきである。

 さて、いかなる人がこの戒めを守ったことがあるだろうか? 確かにひとりもいない。そして、いかなる人にも、これを守ることはできない。ならば、こういうわけで《救い主》が必要なのである。おゝ! 私たちがこの戒めによって地べたに叩きのめされ、自分を義とする思いが、この「たいせつな第一の戒め」という大槌によって粉々に砕け散るとしたらどんなに良いことか! しかし、おゝ! 私の兄弟たち。私たちは、これを守ることができていたらといかに願うことか! というのも、もし私たちがこの命令を無傷に、破られないものとして保つことができたとしたら、それは下界における天国となるであろうからである。被造物の中で最も幸福なのは、最も聖なる者たちであり、何の留保もなく神を愛する者たちなのである。

 3. そして今、ごく手短に私は、この戒めの基盤として置かれた神の要求権についてだけ述べなくてはならない。「心と思いと知性と力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。なぜか? 第一に、神は主であられる――すなわち、エホバであられるからである。そして、第二に、神はあなたの神であられるからである。

 人よ。一日で消え失せる被造物よ。あなたはエホバをそうあられるお方であるがゆえに愛さなくてはならない。見よ。あなたが目にすることもできないお方を! あなたの目を第七の天にまで上げるがいい。見るがいい。恐ろしい威光の中で、その衣の輝きが、御使いたちにもその顔を覆わせ、彼らにとってすら強烈すぎるその光が彼らを永遠の盲目で打たないようにしているさまを。このお方を見るがいい。天を天幕のように広げて住み[イザ40:22]、その敷物に黄金の針で、暗闇に輝く星々を編み込まれたお方を。この方に注目するがいい。地を造り、その上に人間を創造した[イザ45:12]お方を。そして、このお方が何と云われるか聞くがいい。この方はすべてを満ち足らわせる、永遠、自存、不変、全能、全知のお方なのである! あなたはこのお方をあがめたくはないだろうか? このお方はいつくしみ深くあられる。愛に満ちておられる。情け深くあられる。恵み深くあられる。その摂理の豊かな寛大さを見るがいい。その恵みの豊かさを眺めるがいい! あなたはエホバがエホバなるがゆえに愛したくはないだろうか?

 しかし、何にもましてあなたは神をあなたの神なるがゆえに愛すべきである。神は創造によってあなたの神であられる。神はあなたを造られた。あなたは自分で自分を造ったのではない。神が、《全能者》が、種々の媒介を用いたかもしれなくとも、それにもかかわらず、人の唯一の創造者であられた。神は、私たちの先祖たちを媒介にして私たちをこの世にあるものとしたが、それでも神は、地のちりからアダムを造り、彼を人としたときにアダムの《創造主》であったのと同じくらい、私たちの《創造主》であられる。あなたのその驚嘆すべきからだを見てみるがいい。いかに神が骨々を組み合わせ、それを最もあなたの役に立つ、有用なものとされたことか。見るがいい。いかに神があなたの神経と血管を配置されたことか。目を見張るがいい。いかに神が驚嘆すべき仕組みを用いて、あなたを生かしておられるかを! おゝ、ひと時しか生きていないものよ! あなたは、自分を造られたお方を愛したくはないだろうか? あなたが、自分を手ずから形作ったお方、みこころに従ってあなたを造形されたお方のことを思っても、それでも自分を造り上げたお方を愛さないなどということがありえるだろうか?

 また、考えて見るがいい。神があなたの神であられるのは、あなたを保っておられるからである。あなたは食卓につく。だが、神がその食卓をあなたのために設けてくださったのである。あなたが呼吸している空気は神の慈愛の賜物である。あなたが背中に引っかけている着物は、神の愛の賜物である。あなたのいのちは神に依存している。神の無限の意志1つで、あなたは墓に至らされ、あなたのからだはうじ虫に与えられるであろう。そして、今の瞬間のあなたが頑健で健康であるとしても、あなたのいのちは絶対的に神に依存している。あなたは、今いるところで、やにわに死ぬかもしれない。あなたが地獄送りにならずにいられるのは、ただ神のいつくしみの結果としてである。あなたは今この時、神の主権の愛があなたを保っておられなかったとしたら、消えることのない火焔の中でうだらされていたであろう。神にとってあなたは反逆者であり、その十字架と御国の進展との敵であるかもしれないが、神は、そこまでは、あなたの神であられる。神はあなたを造ったお方、あなたを生かしておられるお方だからである。確かにあなたは、神を愛することを自分が拒んでいるというのに、神があなたを生かしておられることを怪訝に思うであろう。人よ! あなたは、自分のために働こうともしない馬を飼っておくだろうか? 自分を侮辱したような召使いを自宅においておくだろうか? 彼があなたの意志と思し召しを行なうどころか、自分で自分の主人になりたがり、あなたに反抗するような場合、あなたは彼の食卓にパンを広げてやり、彼の背中に仕着せをかけてやるだろうか? 絶対にそうはすまい。だがしかし、ここにいる神はあなたに食物を与え、あなたはその神に背いているのである。悪態をつく者よ! あなたが自分の《造り主》を呪った唇は、その神によって維持されているのである。あなたが冒涜のために用いている当の肺臓は、神によっていのちの息を吹き込まれているのである。さもなければ、あなたは生存を停止していたはずである。おゝ! あなたが神のパンを食し、その後であなたのかかとを神に上げるとは奇妙なことではないか。おゝ! あなたがたが神の摂理による食卓につき、神の寛大なお仕着せをまといながら、ぷいと背を向け、高き天につばきし、あなたを造り、あなたを保っておられる神に向かって、あなたのちっぽけな反逆の拳を振りかざすとは、何と驚くべきことではないか。おゝ、もし私たちの神の代わりに、私たち自身と同じような者を相手にしていたとしたら、私の兄弟たち。私たちは自分の同胞たる被造物に対して一時間と辛抱していなかったであろう。私は人々に対する神の寛容に驚嘆する。私は、口汚い冒涜者が自分の神を呪っているのを目にする。おゝ、神よ! いかにしてあなたはこれを我慢できるのですか? なぜあなたは彼を地に叩きのめさないのですか? もし羽虫が私を煩わせたら、私は一瞬のうちにそれを叩き潰さないだろうか? そして、人などその《造り主》にくらべれば何だろうか? 人とくらべた場合の蟻一匹の半分ほども大きくはない。おゝ! 私の兄弟たち。私たちは、神が、この最高の命令に違反した後の私たちをもあわれんでくださることに驚愕して良い。しかし、私はきょうここに、神のしもべとして立っている。そして私は、私自身に向かって、またあなたに向かって、神の代わりに要求する。神が神であられるがゆえに、神が私たちの神、また、私たちの《創造主》であられるがゆえに、――私はあらゆる人に向かって、その心を尽くして神を愛するよう要求する。思いを尽くし、知性を尽くし、そして私たちのありったけの力を聖別し尽くして従順になるよう要求する。

 おゝ、神の民よ。私はあなたに語りかける必要はない。あなたがたは、神が特別の意味であなたの神であることを知っている。それゆえ、あなたは神を特別の愛で愛さなくてはならない。

 II. これが、この戒めが私たちに告げていることである。私は実際ごくごく手短に第二の項目について語ることにしたい。すなわち、《私たちはこれに対して何と云わなくてはならないだろうか?》

 おゝ、人よ。あなたはこの命令に何と云わなくてはならないだろうか? この場には、こう答えるほど途方もなく愚かな者がいるだろうか? 「私はそれを守るつもりですし、それに完璧に従えると思います。そして、それに従うことによって天国に行けると思います」。人よ。あなたは馬鹿か、故意に無知になっているのである。確かに、もしあなたがこの戒めを理解しているとしたら、あなたはたちまち自分の両手をぽとりと落として、こう云うであろう。「それに従うなど全く不可能です。それに徹底的に完璧に従うことなど、誰にも達する望みは持てません!」 あなたがたの中のある人々は、自分の良い行ないで天国に行けるものと思ってはいないだろうか。ではこれこそ、あなたが足を載せるべき最初の石である。――それはあなたが到達するには高すぎるものと私は確信している。そのくらいなら、地上の山々によって天国に上ろうとする方が、そしてヒマラヤ山脈をあなたの最初の足がかりとする方がましである。というのも、確かに地面からチンボラソ[アンデス山脈の死火山]の頂上まで一飛びした後でさえも、あなたは、この大切な戒めの高みに足を載せることには絶望するであろうからである。これに従うなどということは、いつまでたっても不可能である。しかし、覚えておくがいい。あなたが、このことに完全に、完璧に、絶えず、永遠に従うことができないとしたら、自分のわざによって救われることはできない。

 「よろしい」、とある人は云うであろう。「もし私が、自分に可能な限りこれに従おうと努めるとしたら、おそらくそれで何とかなるであろう」。否。方々。何とかはならない。神が要求しておられるのは、あなたが完璧にこれに従うことであり、もしあなたがこれに完璧に従うのでないとしたら、神はあなたを罪に定めるであろう。「おゝ!」、とある人は叫ぶであろう。「それでは、だれが救われることができるのでしょう!」[マタ19:25] あゝ! それこそ私があなたを導いて行きたい点である。この律法によっては、誰が救われることができるだろうか? 何と、この世の誰ひとり救われないのである。律法の行ないによる救いは如実に不可能であると分かっている。それゆえ、あなたがたの中の誰ひとりとして、自分はこれに従うように努めよう、そして救われることを希望しようとは云わないであろう。私は、世界最高のキリスト者が自分の思いを呻き声でこう云い表わしているのが聞こえる。――「おゝ、神よ」、と彼は云う。「私には咎があります。たといそれで、あなたが私を地獄に落とすとしても、それ以外のことは申せません。私は若いときから、私の回心の時から数えてさえ、この命令を破ってきました。私は毎日これに違反しています。私は知っています。もしあなたが正義を縄にない、義を重りにしたとしたら、私は永遠に拭い去られてしまうでしょう。主よ。私は律法に対する自分の信頼を放棄します。というのも、それによっては決してあなたの御顔を見ることも、受け入れていただくこともできないと知っているからです」。しかし、聞くがいい! 私はそのキリスト者が別のことを云うのが聞こえる。「おゝ!」、とその人はこの戒めに向かって云う。「戒めよ。私はお前を守ることができない。だが、私の《救い主》はお前を守られた。そして、私の《救い主》は、ご自分が行なわれたことを、信ずるすべての者のために行なわれたのだ。そして今、おゝ、律法よ。イエスが行なわれたことは私のものなのだ。お前に何か私を責めるために持ち出せる問題があるか? お前は私がこの戒めを完全に守ることを要求している。見よ。私の《救い主》はそれを私のために完全に守ってくださったのだ。そして、主は私の身代わりなのだ。私が自分ではできないことを、私の《救い主》は私のために行なわれたのだ。身代わりのわざを拒否することはできない。というのも神は、主を死者の中からよみがえらせた日に、それを受け入れてくださったからだ。おゝ、律法よ! お前の口を永遠に閉ざすがいい。お前は決して私を罪に定めることはできない。私はお前を一千回破ろうとも、自分の単純な信頼をイエスに置く。イエスだけに置く。その義は私のものであり、それによって私は負債を支払い、お前の飢えた口を満足させるのだ」。

 「おゝ!」、とある人は叫ぶであろう。「私にも、自分はこのようにして律法の憤りから逃れることができたと云えたなら! おゝ、私に、キリストが私のために律法を守られたことが分かるなら!」 ならば、待つがいい。私があなたに告げるであろう。あなたはきょう、自分が咎のある、失われた、また、滅びた者であると感じているだろうか? 目に涙を浮かべつつ、イエスの他何者もあなたに善を施すことはできないと告白するだろうか? あなたは、あらゆる信頼を喜んで打ち捨てて、自分をただ木の上で死なれたお方にだけ投げかけるだろうか? あなたはカルバリを仰ぎ見て、血を流して苦しんでいるお方、血糊の流れで赤く染まったその姿を見ているだろうか? あなたはこう云えるだろうか?

   「咎あり、弱く、甲斐なき虫けら、
    汝れが御腕(かいな)に われは身を投ぐ。
    イェスよ、わが身の 義となり給え、
    わが《救い主》にて わがすべてとぞ!」

そう云えるだろうか? ならば、主はあなたのために律法を守られたのであり、律法はキリストが赦免した者を罪に定めることができない。もし《律法》があなたのところにやって来て、「私は、お前が律法を守らなかったがゆえに、お前を地獄に落とすことにする」、と云うとしたら、こう云ってやるがいい。お前は私の髪の毛一本にすら触れることはできないのだ。というのも、私は律法を守りはしなかったが、キリストが私のためにそれを守ってくださったのであり、キリストの義は私のものとなっているからだ。ここにその貨幣がある。私が鋳造したのではないが、キリストが鋳造してくださったものだ。私がお前に、お前の求めるものすべてを支払っている以上、お前は私に手出しができないのだ。私は自由であるに違いない。キリストは律法を満足させてくださったのだから、と。

 そして、その後で――そして、これで私は話をしめくくるが――おゝ、神の子どもよ。私は、あなたが何と云うか分かっている。あなたは、律法がイエスによって満足させられたの見た後で、膝をついてこう云うであろう。「主よ。あなたに感謝します。この律法が私を罪に定めることができないことを。というのも、私はイエスを信じているからです。しかし、今、主よ。私を助けて、この時から永遠にそれを守らせてください。主よ。私に新しい心をお与えください。この古いいのちはあまりにも邪悪なものだからです。主よ。私に新しい悟りをお与えください。私の思いを御霊のきよい水で洗ってください。私の判断力と、私の記憶力と、私の思想との中にやって来て、お住まいください。そうするとき、私はあなたを、私の新しい心を尽くし、私の新しいいのちを尽くし、私の更新された知性を尽くし、そして、私の新しい霊的な力を尽くして愛することでしょう。今のこの時から、とこしえに至るまで」。

 願わくは主があなたに、その天来の御霊の精力によって罪を確信させてくださり、この素朴な説教を祝福してくださるように。イエスのゆえに! アーメン。

  

 

大切な第一の戒め[了]

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