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教会の安泰さ

NO. 161

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1857年11月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる」。――詩125:2 


 社会の種々の変化は、神の不変性を際立って明らかにするのかもしれない。ダビデの時代、エルサレムは難攻不落の要塞とみなされていた。それは、天然の塁壁たる山々に囲まれ、あたかも意図的にその防備のために張り出した半円形の盆地の中心に位置しているかに思われた。古代のユダヤ人から、それは難攻不落の城塞と考えられていた。今や、戦争の流儀は何と様変わりしていることか! ほんの小兵団でも易々とこの町を奪取できるであろうし、よほど強力な軍隊でもない限り、現在の状況にあるこの町の守備隊となることはできないであろう。だが、確かにエルサレムは変わってしまい、この比喩は不適当なものとなってしまってはいるものの、エルサレムの神はそのままであられる。というのも、神には「移り変わりや、移り行く影」[ヤコ1:17]がないからである。私たちは今朝、この聖句を今の現代に理解されるようにではなく、ダビデの時代に理解されたであろうように考察しなくてはならない。ダビデはエルサレムの町を見下ろして、内心でこう思った。「いかなる軍隊が奇襲を仕掛けようとも、この町を占領することはできない。また、侵略軍の数がいかにおびただしくとも、私の民は常にこの町を守り抜くことができるだろう。これは、自然と築城学との双方の粋を集めて防備を固めた堅固な町なのだから」。実際、彼の時代、また彼の息子ソロモンの時代には、いかなる敵軍も、古代の戦術しか有していなかった以上、神がこの町の周囲に積み上げた、こうした土の城壁を攀じ登ることは完全に不可能であったろうと思う。それゆえダビデは、その当時、「山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を囲まれる」、と云ったとき、こう意味していたのである。――「エルサレムが山々によって防護されているように、神の民は契約という城で固められ、神の《全能》という砦で防護されている。それゆえ、彼らは難攻不落に安泰である」、と。私たちはこの聖句をそのように理解することとして、今朝は、神の民がその主エホバの御腕の中にあっていかに安泰であるかという偉大な思想を説き明かすよう努めたいと思う。

 私たちはこの聖句を、まず第一に、全体としての《教会》に関連したものとして考察し、それから、それがいかに、あらゆる個々人にあてはまるかに注意してみたい。

 I. 第一に、《全体としての教会》は、神によって安泰に護られており、いかなる害も及ぼされることがない。教会は《全能の神》によって巧みに守備されている。また、契約の忠実な誓約という城で固められている。いかにしばしば《教会》は攻撃されてきたことか。だが、いかにしばしば勝利を得てきたことか。その戦闘と全く同じ数だけの勝利を教会は有している。仇敵どもは《教会》に攻撃をしかけてきた。蜂のように取り囲んだ。だが、神の御名によって教会は彼らを壊滅させてきた。バシャンの雄牛もよこしまな犬も、強大な者も取るに足らない者も、みな《教会》を打ち倒そうとたくらんできた。だが、天の御座に着いておられる方は彼らを笑われた。主はその者どもをあざけられた[詩2:4]。そして主の教会は、揺るぐことなく、とこしえにながらえるシオンの山[詩125:1]のようであった。いま歴史の巻物に目を向け、《教会》が人間どもによって熾烈な攻撃を受けたとき、いかに砦なる神によって防護されてきたを読んでみるがいい。

 1. 迫害はその血塗られた剣を鞘から抜き払ち、《教会》をその根本から引き裂くか、その斧で切り倒そうとしてきた。暴君たちはその炉を熱くし、その拷問台を整え、その火刑柱を林立させてきた。キリストのための殉教者たちは何千人となくむごたらしい死へと引きずられて行き、信仰を告白する者らは命を賭して立ち上がり、時の支配者に反抗して神の福音を主張しなくてはならなかった。この小さな群れはそこここへ散らされ、迫害の犬どもが彼らの逃げて行ったあらゆる片隅で彼らを悩ませた。地のあらゆる国々へと彼らは踏み迷っていった。羊や山羊の皮を着せられた[ヘブ11:37]。彼らの家は岩々の中にあり、彼らの眠り場は土や岩の穴だった。猟犬たちに追われる牡鹿のように、彼らは一瞬息を整えるだけの間もなかった。しかし、《教会》は征服されただろうか? 一度でも打ち負かされたことがあるだろうか? おゝ、神よ。あなたは、あなたの真理の無敵さを証明してこられました。あなたのみことばの力を現わしてこられました。というのも、あなたは単にあなたの《教会》を苦難のきわみの時に保っただけでなく、御名はほむべきかな、教会の危難の時をその最大の勝利の時とされたからです。あなたがたも見いだすであろう。《教会》は、最も激しく迫害されていたときこそ、最も大きな成功をおさめていたのである。異教徒の属州総督たちは、喜んで死のうとする幾多の人々を見たとき驚きのあまり目をむいた。彼らは云った。「確かに狂気が人類をとらえてしまったに違いない。この者らは自殺するだけではあきたらず、死を恋い慕っては、是が非でもわれわれの法廷のもとに出て来て、自分はキリストを愛する者だと云うのだ。まるで自分たちを処刑するようわれわれを急き立てようとでもするかのように」。神はそうした折や、迫害の時代のための恵みを与え、御民の勇気を支え、彼らを強くして事を行なわせ、あるいは、神がお望みになるならば死ぬこともできるようにされた。しかし確かに、キリストの《教会》は、神の《全能》という山々に取り囲まれていなかったとしたら、その数多くの敵のえじきとなっていたに違いない。

 2. しかし、徐々に悪魔も賢くなっていった。彼はあからさまな迫害が神の《教会》を制圧するのに十分でないことを見てとった。それゆえ、残酷さにおいては劣りなく、一層奸知にたけた別の手段を取った。「それでは奴らをぶち殺すだけでなく」、と彼は云った。「奴らに汚名を着せることにしよう」。あなたは歴史書の中で、キリスト教の初期の時代、いかにぞっとするような風評がキリスト者たちについて流されたか読んだことはないだろうか? 私は、初代のキリスト者たちが、いかなる悪徳をその内密の集会の中で行なっていると非難されていたか、あえてあなたに告げはすまい。確かに彼らほど高潔で有徳の人々はいなかったが、彼らほど恐ろしく中傷された人々もいない。悪徳にふけっていた当の異教徒たちさえ、偽り者どもが口々に非難した数々の罪悪ゆえに、イエスに従う者たちを軽蔑するのだった。数年もすると、キリストの《教会》の純白の衣に投げつけられた泥ははがれ落ち、彼らは以前にまして白くなった。福音という天の光を闇で包み込もうとした暗雲は吹き払われ、キリストの《教会》の純潔は、「月のように美しい、太陽のように明るい」[雅6:10]ものとして、再び輝き出た。しかし悪魔はいかなる時代にも同じたくらみを用いる。彼は、信仰復興の手段となった、いかなるキリスト者の集団をも、常に中傷しようとした。私は、ある教役者が誰からも褒めそやされていると聞かされるとしたら、その人が無上の働きをしているとは思わない。そうした場合があるとしたら、明らかに例外であろうと確信する。歴史のあらゆる原則に背くはなはだしい例外である。あなたもホイットフィールドについて当時いかに云われていたかを覚えているであろう。彼はソドムもまるで知らなかったような数々の罪悪について非難されたが、彼ほど高潔で天的な人を一度として神はこの邪悪な地上を踏みしめるべく送られたことはない。そして、このことは常にそうであるに違いない。罪と邪悪さと戦っている《教会》は、かの悪い者の敵意により、誹謗中傷を浴びせかけられ、名誉を汚されざるをえない。よこしまな人々は、義人に対して打つ手がない場合、虚偽を吐きつけるものである。しかし、《教会》が、自分たちへの中傷によって損害を受けたことがあるだろうか? あるいは、個々のキリスト者が、それによって一度でも何かを失ったことがあるだろうか? 否。山々にエルサレムを取り囲ませた主なる神は、そのようにご自分で御民を囲んでくださり、私たちを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、審きの時、私たちを責めたてるどんな舌をも、私たちはそれを罪に定める。これが、主の民の受け継ぐ分である[イザ54:17]。おゝ、キリストの《教会》よ。中傷という名のぬるぬるした蛇を恐れてはならない。というのも、あなたは揺りかごの中にいたときでさえ、ヘラクレスのように、あなたに向かって来ようしていた中傷という蛇の大群を、あなたのあどけない手でつかんで殺してしまい、あなたを愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者[ロマ8:37]となったからである。そして、神があなたとともにおられ、王をたたえる声があなたがたの中にある以上[民23:21]、恐れてはならない。万人があなたをそしろうとも、あなたの《造り主》はやがてあなたに誉れを与えてくださるであろう。そして、あなたは、洗い場から上って来る雌羊[雅4:2]のように、中傷の池の中から上がって来るであろう。あなたの暗黒のバプテスマのゆえにより麗しく、より賞賛される、より愛らしい者となって。人々がいかなる軽蔑や恥辱をあなたに向かって投げつけてきたとしても関係ない。

 3. 再びサタンは知恵をつけて、こう云った。「ならば、こいつらが剣によっても中傷によっても滅ぼせない以上、よし、こうしてくれよう。奴らの真中に羊のなりをした狼を送り込んでやる。おのれの情欲に引き回された、様々な異端者を奮い立たせてやる。そいつらが、《教会》のただ中で嘘っぱちを広め、人の気に入ることを主の御名で預言するようにしてやるのだ」。そしてサタンは、こうしたすべてを文字通りに行なった。教会のあらゆる時代に、無数の異端者たちの群れがいた。ある時期など、ごくごく少数の者たちしか真理を忠実に信奉してはおらず、信仰を告白するキリスト者たちの大多数は道をはずれ、コラのようにそむいて滅びてしまった[ユダ11]。使徒たちが墓に入り、彼らの魂がパラダイスに落ち着いて間もない頃から、自分たちを買い取ってくださった主を否定するような者らが群がり起こった[IIペテ2:1]。――ある人々は、善を現わすために悪を行なおうとして[ロマ3:8]、当然の罪に定められた。私たちの《主人》が世を去ってから五十年も経たないうちから、ありとあらゆる種類の異端者たちが立ち起こり始めた。その時以来、世界は、真理を除く、ありとあらゆる姿かたちの教理がひしめく所となり、この現代に至るまで種々の異端がはびこっている。さて、いかにサタンがイスラエルの光を消そうとしているか見てみるがいい。そこにはローマの異端があり、それは大水の上に座っては[黙17:1]、おのれの力の限りを尽くして、《教会》を惑わし、残りの世を神の真理から引き離そうとしている。彼女は、その地獄の手練手管のすべてを用いては、真理に従うと告白する者たちの間に改宗者を作り出そうとしている。彼女は、あらゆる国でその装いを変えるであろう。自分自身の領土の内部には地下牢を築き、いかなる異論も許さない。――自由の国の中では、ぬけぬけと宗教的自由を要求し、その最愛の友であるふりをする。卑しい淫婦でありながら、その淫婦ぶりはまだやんではいないし、その不品行の杯はまだ満たされていない。彼女はなおも国々をむさぼり食い、一気に呑み込んでしまおうとしている。そして英国国教会の中には、彼女の妹であるピュージー主義がいる。私は今、私の福音派の兄弟たちについては何も云わない。《全能の神》が彼らの盾となり、彼らを祝福してくださるように! 私にとって唯一の驚きは、彼らが完全に出て行くことをせず、汚れたものに触れないようにすることをしないということである。しかし、悲しいかな、ピュージー主義は私たちの敬虔さの活力そのものを食い荒らそうと努め、大衆に向かって司祭こそすべてなのだと告げつつある。――キリストを引き下ろしては人間を高めよ。洗礼の水を《天来の御霊》の影響力と引き替えよ。そして、種々の礼典を、主なる私たちの神だけが占めるべき立場につけよ、と。まことにこの危険で欺きに満ちた、美しくも愚劣な信仰体系は大いに恐るべきである。とはいえ、私たちも知る通り、神の真の《教会》は常に安全であるに違いない。というのも、教会に対してはハデスの門も打ち勝てない[マタ16:18]からである。

 悲しいかな! さらに別のことを云わなくてはならないとは! そしてそれは、普通、福音主義者と呼ばれている人々に関することなのである。彼らのかかえている過誤は、一層陰険で、一層邪悪なかたちをしている。あゝ、私がこうした事がらについて「せいいっぱい大声で叫」[イザ58:1]ばなくてはならないとは。折に触れ、偽りの愛は、私たちの憎む種々の悪に対して私たちの口をつぐませたがる時がある。私の兄弟たち。特に私たちの非国教の諸教会のただ中には、1つの体系がある。実はそれは、体系という名にも値せず、ただ、あらゆる体系を粉砕しようという体系的な願望を有しているにすぎない。それは、《福音》を尊いものとしているあらゆる真理を取り去り、《贖い主》の冠からあらゆる宝石を引き抜き、それを人々の足で踏みにじろうとしつつある。わが国の数多くの講壇において、現在あなたは丸一月かかっても、《福音》を聞くことはないであろう。それ以外のことに関する説教なら何でも聞けるかもしれない。――反国教主義だの、政治問題だの――こうした事がらは現下流行のお題目である。十字架につけられたキリストは地に落ちても、そうしたことがありさえすれば良い。種々の政治形態が講壇をふさぎ、哲学が神学の場所に立っている。そして、そこに少しは神学がある場合も、何と彼らは云うだろうか? 聖霊を第一にして主要な作用者として高く上げるどころか、神の御霊が人々のために行なうしかないようなことを、人々に行なえと勧告しているのである。神の有効な恵みが必要であるなどとは一言も云わないのである。かの契約――「萬具(よろず)備りて鞏固なる永久の契約」[IIサム23:5 <文語訳>]――は、あざ笑われている。かつてはカルヴァンによってあれほど雄々しく掲げられた旗印、彼が数世紀を飛び越えてアウグスティヌスの手から受け取って握りしめた旗印、さらにアウグスティヌスがやはり使徒パウロの手から受け取った旗印、――その昔ながらの真理の旗印は、そのあらかたが巻き上げられてしまっており、こうした古い諸教理は旧弊で時代遅れなものだと告げられているのである。彼らによると、清教徒神学は当今の神学ではない。私たちには、前進する時代のための新しい福音が必要なのだ。私たちに向けてなされる説教は、たとい福音のあらゆる教理の絶対的な否定ではなくとも、少なくとも、そのすべてをあざ笑うようなものでなくてはならないのだ。人間は知恵のきわみに達しているので、自らの頭脳において、より良い福音をあみ出せるのだ。それは、ほむべき神の古臭い福音よりもすぐれているのだ、と。さてこれもまた、真理を圧伏しようとする敵の試みの1つだが、彼かそれをやりおおせる見込みは全くないであろう。というのも、「山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる」からである。

 私は辛辣になろうとは思わないが、自分の属している教派の兄弟たちの多くに対して一言云わなくてはならない。あなたがたの中の多くの人々は、特定バプテストと名乗っている。つまり、自分はカルヴァン主義者だということである。だがしかし、親愛なる方々。あなたは締まりのない良心をしており、あなたがたの中のある人々は、叙任してからこのかた一度も選びについて説教したことがない。「五特質」の詳細は押し隠されている。あなたに云わせると、こうした事がらは人の感情を害するのだという。それで、親愛なる方々。あなたは人を不機嫌にするよりは、神を不機嫌にしようとするのである。しかし、あなたは答えるであろう。「知っての通り、こうした事がらは高踏的な教理です。それらは説教されない方が良いのです。実際的な話にはならないのですから」。私は本気で思う。人間のあらゆる冒涜のきわみが、その一言に集約されている、と。あなたは平然とこう云おうというのだろうか。「私には、神の真理の中に、人々に向かって説教したくない部分があるのです」、と。私に向かって云ってみるがいい。神は私が説教すべきではないものを聖書の中に入れたのだと! あなたは私の神にけちをつけているのである。しかし、あなたは云うであろう。「それは危険なものになるでしょう」。何と! 神の真理が危険であると? 私は、最後の審判の日、あなたの立場には立ちたくないと思う。そのような発言をした後であなたは、自分の《造り主》と顔を合わせなくてはならないのである。もしそれが神の真理でないとしたら、放っておくがいい。だが、もし真理であると信じているなら、はっきり口に出すがいい。この世は、誠実であるがゆえに、やはりあなたを好むであろう。たとい世が好ましく思わなくとも、あなたの《主人》が好ましく思ってくださるであろう。何事も押し隠してはならない。福音の全体をはっきり語るがいい。人間の責任をはっきり語るがいい。口ごもってはならない。神の主権をはっきり語るがいい。選びについて語るのを拒んではならない。この言葉を用いるがいい。人々が嘲ろうとも関係ない。人々に、もし彼らが信じなければ、その血の責任は彼らの頭上にあると告げるがいい。それで高ぶった人々があなたに敵対するとしたら、無視するがいい。自分は全く気にしないと云ってやるがいい。――自分にとって、そんなことは何でもない、人を喜ばせることなど何でもない、と。あなたの《主人》は天におられ、このお方をこそあなたは喜ばせたいのである。晴れようが荒れようが関係ない。このように行なうとき、サタンは挫かれ、敗北するであろう。だが、現在の時、彼はこのようにして、間違った教理によって教会を打ち壊そうと大いに力を尽くしているのである。

 4. 最後のこととして、悪魔が教会を圧伏しようとして発明した最も狡賢いもの、それは他の何にもまして私を驚愕させてきた仕掛けである。「それでは」、とサタンは云う。「迫害によっても、中傷によっても、異端によっても教会を消し去ることができない以上、それを破壊する別のしかたをひねり出すこととしよう」。そして私はしばしば、サタンのこの最後の発明に集約されている欺きの奥深さに驚嘆してきた。サタンは教会を分裂させようとする。私たちを互いから引き離そうとする。同じ真理を愛する者たちが顔と顔を合わせ、愛と平安と調和のうちにともに働くことができないようにする。「さあ」、と悪魔は云う。「思いついたぞ。ここに善人どもの一集団がいる。――こいつらは神の真理のある部分を非常に気に入っている。さて、聖書には、二揃いの真理が記されているのだ。一揃いの真理は、人間を責任ある被造物として扱っている。もう1つの種別の真理は、神を無限の《主権者》、自分のあわれみを自分の思う通りに分配する者として扱っている。さて、この親愛なる兄弟たちは人間の責任をことのほか好んでいる。こいつらはそれを説教するだろう。そして、それを説教しすぎるあまり、道の向こう端にいる兄弟が神の主権を説教すると激怒するだろう。それから俺様は、神の主権を説教する兄弟たちに、真理のもう片方を忘れさせてやろう。そして、それを説教する兄弟たちを憎ませてやろう」。あなたには、この敵の狡猾さが見てとれるだろうか? この善良な人々は両方とも正しい。彼らは両方とも真理の一部を説教している。だが、それぞれが自分の説教する部分の真理を相手の真理よりも上に置いているために、角を突つき合わせ始めるのである。何と、私がどこかの教会に立ち寄り、ある敬虔な兄弟が説教をしているのを聞くと、それは私の血を沸き立たせ肉を踊らせるような説教である。彼は罪について、義について、来たるべき審きについて熱心に説教している。だが彼は、自分の説教のすべてをこうほのめかすことで台無しにしてしまう。――「さて、何某氏の説教を聞かないように用心しなさい。なぜなら、彼はこうしたすべてに反駁し、あなたに向かって、人は恵みによって救われるのだ、それはあなたから出たことではなく、神の賜物なのだ、と告げるでしょうからな」。もちろん私は出かけて行き、その善良な人の話を聞く。そうしないよう告げられたからには、そうしなくてはならない。よろしい。その人は、「肉の欲求や人の意欲によってではなく、ただ、神によって」、と説教していた。そして私は、彼が神こそあらゆる救いの創始者であると証明していた間は、彼がこの聖句を非常に男らしく扱っていると思った。ただ、彼がついでのこととして口にしたのは、道の向こう端にある、行ないに病みつきになったところには行くなということであった。何と、彼らはどちらとも正しく、それぞれが真理の別の部分を手にしているだけなのである。ひとりは、責任あるものとしての人間を扱う真理を、もうひとりは、《主権者》としての神を扱う真理を握っている。だが悪魔は彼らの判断力をねじくれたものとしてしまい、その双方とも真実であることを見てとれないようにしてしまったのである。むしろ、彼らは互いに戦い続けるしかなく、悪魔の物笑いとなるしかない。さて、私は、よくも教会がこの最後の手口によって完全に滅ぼされかったものだと思う。というのも、これは、サタンがこれまで私たちの注意を引いたものの中でも、最も奸知に長けたものと思えるからである。むろん彼の深みは私たちの理解を越えてはるかに深遠であるに違いないが。しかし、兄弟たち。こうしたすべてにもかかわらず、また、頑迷固陋が荒れ狂い、不寛容が狂気に至るまで毒づこうとも、教会はやはり安泰なのである。というのも、神はご自分で教会を囲んでおられるからである。「山々がエルサレムを取り囲むように、今よりとこしえまでも」。

 さてここで、この点から離れる前に、1つ注目してほしいことがある。すなわち、この聖句が私たちに保証していることによると、《教会》は、これまで常に保たれてきたように、常に今よりとこしえまでも保たれるはずなのである。この場には、心配性の老婦人がいる。先週の土曜日の夜、彼女が新聞を読んでいると、五、六人の聖職者がローマカトリックに宗旨替えするとの記事が目にとまった。彼女は自分の眼鏡を下に置くと、こう叫び始めた。「おゝ! 《教会》がたいへんだ、《教会》がたいへんだ」。あゝ! 眼鏡をかけるがいい。万事問題はない。こうした連中を失ったことを気に病んではならない。いなくなって、もっけの幸いである。私たちには無用の者らである。もう五十人が彼らの後を追ったとしても泣いてはならない。ほんの少しでも動揺してはならない。ある種の教会は危地に陥るかもしれないが、神の《教会》はそうならない。それは完全に安全である。それは最後まで安泰に立っている。今も覚えているが、私の友人たちの中には、現代の地質学上の種々の発見の知らせを受け取って途轍もなく動揺した人々がいる。それが、モーセの記した創造の記事に対する彼らの解釈と必ずしも合致していなかったからである。彼らは、聖書と矛盾するように思える何かを科学が発見するのを恐ろしいことと考えた。よろしい。それでも私たちは、詰まるところ、地質学上の困難を乗り越えて生きてきた。また、その時以来、相異なる系統の哲学的不信心者が立ち上がっては、種々の素晴らしい発見を行なってきた。そして、あわれで臆病なキリスト者たちはこう思った。「何と恐ろしいことか! これは確かに、あらゆる真のキリスト教信仰の終焉となるに違いない。科学が私たちに向かって事実を突きつけることができるとき、いかにして私たちは立っていられようか?」 だがそれから一週間ほど待つだけで、突如として彼らは、科学が彼らの敵ではなく友であることに気づいた。というのも《真理》は、たとい炉の中で銀が七回もためされるように試されようとも、そのように試されることで常に利益を得るからである。あゝ! あなたがた、教会を憎んでいる人たち。教会は常にあなたの目の上の瘤であり続けるであろう! おゝ! あなたがた、教会の城壁を粉々に打ち砕きたがっている人たち。このことを知るがいい。教会は難攻不落であって、その支柱の一本たりとも取り除かれることはなく、その索条の一本たりとも切れることはない。神が教会を今ある場所に置かれたのであり、天来の聖定が教会を岩の上に確立したのである。あなたは《教会》を憎んでいるだろうか? 憎み続けるがいい。それはあなたの憎悪によって決して動かされはしない。あなたは教会を粉砕してやると脅すだろうか? 教会はあなたを粉砕するであろうが、あなたが教会を傷つけることはできない。あなたがたは教会を軽蔑し、笑い者にしているだろうか? あゝ! やがて来たるべき日には、笑いはもう一方の側に起こるであろう。もう少し待つがいい。教会の《主人》が突如その栄光に包まれてやって来られるとき、そのときには分かるであろう。勝利はどちら側のものなのか、また、誰が笑う愚者であったのかが。

 このようにして私たちは第一の点、《教会》が難攻不落に安泰であり、神によって防護され、その城を固められていることについて片づけたことになる。

 II. 集団について真実であることは、ひとりひとりについても真実である。《教会》に関連する事実は、その中に《教会のあらゆる成員》をも含んでいる。神はその民を防護してこられた。それで、あらゆる信仰告白者は安泰であるに違いない。世間のある人々の教えるところ、キリストは恵みを人々に与えて、彼らにこう云っておられるのだという。「さて、あなたは最後まで耐え忍ぶなら救われるであろう。だが、それはあなたの努力にかかっているのだ」。ここから思い出されるのは、古の清教徒たちが用いた例話である。「アルバ公が何人かの囚人を助命してやった後で、彼らは公にいくばくかの食物を請い求めた。公の答えはこうであった。『私はお前たちに命は与えてやるが、食事を与えはしない』。こうして彼らは餓死してしまった」。最終的堅忍を否定する者たちは、《神性》をこれと似たようなしかたで描いているのである。「神は聖徒たちが最後まで耐え忍ぶ場合には永遠のいのちを約束してくださる」が、永遠のいのちを得るため欠かせない恵みを途切れないようにする保証はなさらないのだ! おゝ! 確かに、もしそれが真実だとしたら、永遠のいのちなど、私たちの誰にとっても何の値打ちもあるまい。私たちの神が、私たちを最初にお救いになった後で、私たちを生かしておくこと、また、私たちのあらゆる必要を供することに携わってくださらないとしたら、永遠のいのちが何の役に立つだろう? しかし、私たちは神の御名をほめたたえる。

   「一度愛せし もの 主は捨てず
    いまわのきわまで 愛させ給う。
    一度 主にあらば 永久(とわ)に主にあり、
    何も主の愛より 断つはかなわじ」。

キリスト者は、あらゆる害悪から防護されており、安泰である。だがしかし、おゝ、神の子どもたち。多くの者があなたを滅ぼそうとつけ狙っており、あなたの恐れはしばしばあなたに、あなたが敵の顎の中にあると告げるであろう。摂理はしばしばあなたに敵対しているように思われ、あなたの目はめったに乾くことがないであろう。葬儀に次ぐ葬儀が続くかもしれない。損失が損失の後を追うかもしれない。焼け落ちた家屋の後にしなびた作物がやって来るかもしれない。この世の中におけるキリスト者は、人類に起こり来る種々の危難に対して安泰ではない。おゝ! 神の子どもたち。やることなすことがあなたに敵対していると思えるかもしれない。ことによると、神の波、神の大波が、みなあなたの上を越えて行くであろう[詩42:7]。あなたは飢えや、裸や、渇きがいかなるものかを知るかもしれない。この世で家もなく、友もなく、父もなく、母もなくなるかもしれない。だが、おゝ! 覚えておくがいい。飢饉も、空腹も、貧困も、病も、弱さも、軽蔑も、あなたの主キリスト・イエスにある神の愛から、あなたを引き離すことはできない[ロマ8:38-39]。あなたは今までにないほど低く沈むかもしれないが、神の御腕が達さないほど低く沈むことは決してありえない。あなたのあわれな船は大風の前にあてどなく漂流するかもしれないが、神がそれを岩礁から遠ざけておけなくなるほど遠くまで行くことは決してない。しっかりするがいい。この定命の人生の種々の試練はあなたのために働いて、「測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」[IIコリ4:17]のである。

 さらに、あなたはこの世によって誘惑されるかもしれない! あなたの足を掬おうとする罠が四方八方に仕掛けられているかもしれない。あなたは自分の肉によって誘惑されるかもしれない。あなたの種々の腐敗はあなたの鼻面を引きずり回し、しばしばあなたの信仰をぐらつかせ、自分が完全に転覆されるのではないかとあなたを身震いさせるかもしれない。そして悪魔は燃える火の矢をあなたに投げつけ、あなたを不潔なほのめかしで刺し貫くかもしれない。ほとんどあなたに冒涜を云わせんばかりとなるかもしれない。そして、そのすさまじい暗示によって、あなたを絶望の一歩前まで追いやるかもしれない。しかし、おゝ! 思い出すがいい。

   「地獄(よみ)と汝が罪 汝が道ふさぐ。
    されど地獄(よみ)つみ、征服(まか)さる敵ぞ。
    汝が主はそれを 十字架(き)に釘づけて、
    凱歌(かちうた)うたえり、よみがえりの日に」。

 また、あなたはに打ち負かされるかもしれない。あなたは転落することがありえる。願わくは神があなたを転落させずにいさせてくださるように。だが、たといあなたがこの上もなく堅実に、またきわめて徳高く保たれているとしても、罪は犯してしまうものである。そして、罪はあなたの上手を取って、あなたがその奔流をほとんどせき止められないまでとなるであろう。良心は囁くであろう。「お前が神の子だとしたら、いかにしてこのように罪を犯すことなどありえようか?」 そしてサタンはあなたの耳に向かって吠え猛るであろう。「罪を犯す者は神を知ってはいないのだ」。そして、それであなたは、自分の罪によって滅ぼされんばかりとなるであろう。しかし、そのとき、あなたの暗い苦悩の時に、ぜひともこの節を読むがいい。――「山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる」。このことに確信を持つがいい。罪そのものでさえ、あなたをあなたの《救い主》に結びつけている黄金の絆を断ち切ることはできない。

 あなたはこれまで一度も、聖徒たちは背教しうると信ずる人々の説教を聞いたことがないだろうか? キリスト者たちの危険について、非常に哀切をこめて長々と語る人々の話を聞いたことはないだろうか? 彼らは云う。「しかり。あなたは一生の間、神に仕えていられるかもしれない。だが、ことによると死の瞬間に、あなたの信仰はくじけて、罪が勝ちを制し、あなたは滅びに至るかもしれないのだ」。そして彼らは、その非常に美しく慰めに満ちた考え方を例証するために、港に着く直前に浸水沈没していく船の例えを用いる。さて、疑いもなく、多くの木造船は浸水沈没するし、自由意志造船所で建造された船の多くも浸水沈没するに違いない。だが、選ばれたあわれみの器という船には、滅びないお墨付きがあり、これまで一度として、それが難破した例は知られていない。古の神学者が云うように、地上のエルサレムから天上のエルサレムに至る間でうねる波間には、一隻の難破船も見えない。多くの嵐は起こるが、決して難船することはない。フッカー主教は甘やかにこう云う。「代々とこしえに幸いなことよ。その信仰によってわが子を神の子どもとした母の子は。地は揺れ動き、その支柱は私たちの足下で震え、天の顔は愕然とし、太陽はその光を失い、月はその美しさを失い、星々はその栄光を失うかもしれない。だが神に信頼する者については、もし火が彼の頭の髪の毛一本すら焼け焦がすことができないと宣言するとしたら、もし獅子たちが、また、生まれながらに貪婪で、激しい飢えを覚えて今にもむさぼり食らおうとしている獣たちが、信仰を持つ人の肉体そのものを、いわば宗教的にあがめているとしたら、この世の中に何か彼の心を変えるもの、彼の信仰をくつがえすもの、神に対する彼の愛情を変じるもの、あるいは、彼に対する神の愛情を変じるものがあるだろうか?」 おゝ、いったん私たちがこの教理を信じ、それを真実なものとして私たちの心で受け入れるとしたら、それは、どれほど霊を深い海の上に浮かべておくだろうか? どれほど私たちを、荒れ狂う波浪のただ中にあっても歌わせることができるだろうか? もし私たちの救いが神の契約によって安泰にされているとしたら、誰が恐れる必要などあるだろうか?

 そして今、私はもうしばらくの間、あまり長くあなたを引き留めないようにして、なぜ信仰者が万が一にも滅びることがありえないことが完全に確実かといういくつかの理由を示したいと思う。なぜそうしたいかというと、私はこの膨大な会衆から毎週おびただしい数の手紙を受けとっているからである。そして、神の栄光のために云っておかなくてはならないが、こうした手紙の多くは私を途方もなく喜ばせるものである。ただし、そうしたもの以外の手紙によって私は、非常に大きな懸念をかき立てられる。そうした手紙の中には、このようなものがあるのである。「先生。私は以前は神の子どもであったと知っています。何年も前に私はとてつもなく喜ばしい感情をいだいていました。全くの法悦にひたっていました。それで、そのとき死んだなら、自分が天国に行っていただろうことは疑うことができません。ですが今は、私は途方もない悩みの中にあって、今の自分が死ぬようなことがあるとしたら、失われてしまうだろうと確信しているのです」。さて、私の兄弟。私はあなたがこの場にいると知っている。あなたはこのことを、自分に対する言葉として聞いて良い。あなたの謎に対する解決法はたった2つしかない。もしあなたがその頃神の子どもだったとしたら、あなたは今も神の子どもである。また、もしあなたがその頃天国に行けていたとしたら、今も天国に行くであろう。今のあなたがいかなる者であっても関係ない。もしあなたが一度でも新生していたとしたら、新生は一度しかなされないみわざなのである。そして、もしそれが一度あなたのためになされていたとしたら、それはその効力を失ってはいない。――あなたはまだ神の子どもである。しかし、私はあなたが決して一度も神の子どもではなかったのではないかと考えたい気がする。あなたには、何度か素晴らしい法悦の時があった。だが、あなたは一度も自分自身の心の疫病を知ったことがない。残念ながら、お若い方。あなたは一度も神から服をはぎ取られたことがなく、一度も鉾槍に縛りつけられたことがなく、一度も律法の十叉の鞭を背中に受けたことがないのではないかと思う。しかし、いずれにせよ、もう二度と、自分は一度は回心していたが今は回心していません、などと私に向かって告げてはならない。なぜなら、もしあなたが神に回心していたとしたら、神はあなたを保ってくださったはずだからである。「義人は自分の道を保ち、手のきよい人は力を増し加える」[ヨブ17:9]。

 そして今、私はあなたに、なぜ信仰者が滅びることがありえないのは確実かを告げても良いだろうか? 第一のこととして、聖書が真理である以上、信仰者が滅びることなどいかにしてありえるだろうか? 聖書は、あらゆる信仰者がキリストのからだの器官であると云っているのである! もしあなたが私に、私の頭が水面上に浮かんでいても良いと云いさえしたら、私はあなたが私の指を水の中に溺れさせることを許すであろう。試してみよ。指を溺れさせることは決してできない。頭が大水の上に出ている限り、その人を溺れさせることはできない。――それは全くの不可能である。――また、その人のからだのいかなる部分を溺れさせることもできない。さて、キリスト者はキリストの、かの大いなる《かしら》の一部である。キリストが――からだの頭が――天にあるとしたら、からだの頭を溺れさせることができない限り、からだを溺れさせることはできない。そして、もし頭が天国にあって、いかなる害悪も届かないところにあるとしたら、からだのあらゆる器官は生きていて、安泰なのであり、最後にはやはり天国に入るであろう。あなたは想像するだろうか? おゝ、異端者よ。キリストがご自分のからだの一器官でも失うことがあるなどと! キリストは切り刻まれた体で天国にお住みになるのだろうか? 絶対にそんなことはない! もしキリストが私たちをご自分と結び合わせてくださっているとしたら、たとい私たちがその天的なからだの最も卑しい器官であろうとも、主は私たちが切り落とされるのをお許しにならないであろう。人は、自分に妨げる力があるときに、腕や、足や、手をみすみす失うだろうか? あゝ! 否。そして、キリストが全能であられる以上、何物も主の子どもたちをそのからだから奪い去ることはありえない。彼らは「キリストのからだの部分」[エペ5:30]だからである。

 しかし、もう一言云いたい。信仰者が滅びるようなことがあるとしたら、いかにして神は真実でありえようか? 神は仰せになられた。「あなたが川を渡るときも、わたしはあなたとともにおり、も、大水もあなたを押し流さない」*[イザ43:2]。さて、もし大水が私たちを押し流すとしたら、いかにして神は真実でありえようか? 「火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」[イザ43:2]。ならば、もし私たちがひとりでも信仰者が焼き尽くされるのを見いだせるとしたら、私たちは神の約束が破られたと証明できるであろう。しかし、私たちにそうすることはできない。神は今その子どもたちとともにおられ、これからも常にともにおられる。それに、神はこう仰せにならなかっただろうか? 「わたしはわたしの羊に永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」*[ヨハ10:28]。左様。愛する方々。神が神であられるとしたら、いかにしてご自分の民がその御手から奪い去られるようなことがありえるだろうか? 確かに、これほどしばしば繰り返され、これほど厳かに確言された約束に対して不忠実であったりしたら、神は私たちにとって何の神でもないに違いない。それに、このことに注目するがいい。もしある聖徒が転落し滅び去るとしたら、神は単にご自分の約束を破ったばかりでなく、ご自分の誓いをも破ったことになるのである。というのも、神は、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため[ヘブ6:13]、ご自分をさしてこう誓われたからである。「それは、変えることのできない二つの事がらによって、――神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。――前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです」[ヘブ6:18]。しかり。誓いを破るような神、約束を蔑むようなエホバは、不可能である。それゆえ、滅びてしまった神の子どもも同じようにありえないことである。

 しかし、愛する方々。私たちは、もし《救い主》を愛しているとしたら、自分が滅びるのではないかと恐れる必要はない。というのも、最後の理由はすべてにまさって有力だからである。キリストは、ご自分がその血で買い取られた者らを失いたいとお望みになるだろうか? しかり、途方もなくねじくれた判断力をした人々は、キリストが、断罪される者たちのためにも死んだのだとか、滅びていく人々をご自分の血で買い取ったのだとか信じている。よろしい。もし彼らがそう信じることを選ぶのだとしたら、私は彼らの知性の弾力性をうらやましいとは思わない。むしろ、私にとってこのことは自明の理と思われる。すなわち、キリストは、ご自分の心血という尊い値を払ったほどのものを、決して手放すことはなさらない。もし主が私たちを、十字架の業苦をも忍ぶに足るほど愛してくださったとしたら、私は主が私たちを愛して「十分に最後まで保ってくださる」*[Iコリ1:8]ことが分かる。「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」[ロマ5:10]。私はこう確信しているからである。ご自分のいのちをも惜しまず、それをご自分の民のために投げ出されたお方は、《全能》が与えることのできる何物も差し止めることはない、と。

 そして、いま私はしめくくりに、ほんのしばし、ここに出席している不敬虔な人々に向かって語りかけることにしよう。その人々は考え深い人でなくてはならない。さもなければ、私が云うことは、その耳におそらくとまらないだろうからである。私が少年だったとき、こんな思いにふけっていたことを覚えている。「さあ、僕は盗人だの、人殺しだの、そんなものにはなりたくないぞ」。私は、そうした類の罪を大嫌いになるようなしつけを受けていた。「だけど」、と私は内心で考えた。「それでも僕は縛り首になるかもしれないや。僕が盗人にならないって保証は何もないもの」。なぜなら私は、自分よりも年長の学友たちの何人かが、すでに不正直さでは名うての者であったことを思い起こしたからである。それで私は思った。「どうして僕がああならないことがあるだろう?」 自分の聖書の中にこの教理を見てとったと思ったときの私の霊の歓喜は、何人たりとも云い表わすことはできないであろう。もし私が自分の心をキリストにささげるとしたら、キリストは私を罪から守り、私が生きる限り、私を保ってくださるというのである。私はそのことを完全に確信してはいなかった。――聖書の真理であるとは思っていたが、全く確かだとは思っていなかった。だが私は、どこかの小さな、尖塔のついた会堂の教役者が、同じ真理を口にしたのを聞いたときのことを思い出す。おゝ! 私の心は歓喜に満ちた。私はその福音を慕いあえいだ。「おゝ!」、と私は思った。「もし神が私を愛してくれさえしたらどんなに良いことか、もし私が自分は神のものだと分かりさえしたらどんなに良いことか!」 というのも、その最も麗しい部分は、もし私がそうした者となれば、神が私を最後まで守ってくださるということにあったからである。それこそ私にそれほど福音を愛させたことであった。子どもではあったが、また、救いに至るようなしかたでは決して福音について知っていなかったが、それによって私は、救われることを愛するようになった。なぜなら、もし救われたとしたら、神は決して私を扉から外に放り出さないからである。それこそ、子ども時代の私にとって福音を非常に尊いものとしたことであった。それで、聖霊が私に自分の咎を示し、私に《救い主》を求めるよう導かれたとき、この教理は私の霊にとって輝かしい星のようであった。私は常にそれを待望した。私は思った。「よろしい。もし私がいったんキリストに目を向け、自分をキリストにゆだねるとしたら、キリストは、私が最後まで耐え忍ぶ恵みを与えてくださるのだ」。そして、おゝ! この教理は今の私にとってこの上もなく尊いものであって、かりに誰かが私に、最終的堅忍は聖書の真理ではない、と確信させることがありえたとしたら、私は二度と説教すまいと思うほどである。というのも、自分には説教するに足る何物も有していないと感じるだろうからである。もしあなたが、神から出た新生もその効力を失うことがあるのだとか、神の愛もご自分の選びの民から引き離されることがありえるのだとか、一度でも私に信じ込ませることができたとしたら、そんな聖書はあなただけのものにしておくがいい。その表紙から裏表紙の間までに、私の愛するものは何もない。私が願うものは何もない。私にふさわしい福音は何もない。私はそんな福音は神の威光に達さないものだとみなす。それは、堕落した人類の威光にさえ達さない。それが永久の、「萬具(よろず)備りて鞏固なる」ものでない限り。

 さて今、あわれな震えつつある罪人たち。あなたがた、自分のもろもろの罪を知っている人たち。今朝キリストを信じるがいい。そうすれば、あなたは救われる。永遠に救われる。今の瞬間に、かの木の上で死なれたお方を仰ぎ見るがいい。そして、私の兄弟たち、姉妹たち。あなたの手を差し出してほしい。私たちは手を取り合って、あなたが信じた喜びに涙を流そうではないか。そして、このことを思い起こして、私たちの喜びを積み重ねようではないか。すなわち、たとい天の柱列がよろめき、地の堅い土台がふらつき、諸天の顔つきが驚愕し、太陽が闇に変じ、月は血の色に変わろうとも、何物もイスラエルの栄光である方[Iサム15:29]の御手からあなたを奪い去ることはありえない。あなたは今、そしてこれからも、確実に安泰である。来たり給え。おゝ、聖霊よ。この言葉を祝福し給え。イエスのゆえに。アーメン。

  

 

教会の安泰さ[了]

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