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夕暮れ時の光

NO. 160

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1857年10月25日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「夕暮れ時に、光がある」。――ゼカ14:7


 私は、この言葉が述べられた際の特定の出来事に注目したり、それが特に言及している時期を突きとめたりすることに時間を取るつもりはない。むしろ、この一文を御国の規則として受けとろうと思う。神の恵みの経綸に属する大法則の1つ、それは、「夕暮れ時に、光がある」ということなのである。哲学者たちは、何らかの一般法則を確立したいと思うときは常に、相当数の個々の事例を集める必要があると考えるものである。それらを寄せ集めた上で、そこから一般法則を推論するのである。幸いなことに、神に関してそのようなことをする必要はない。摂理を広く見回すとき私たちは、多数の事件を集めておいて、その後で、その中にある真理を推論する必要はない。というのも、神は不変であられるため、その恵みの行為が1つあれば、神のなさりようの規則を私たちに教えるに十分だからである。さて私は、この1つの箇所にこう記されているのを見いだす。国家が何らかの逆境に陥っていたある折に、神は、「夕暮れ時に、光がある」、と約束してくださった。もし私が、何らかの人間の書き物の中にそれを見いだしたとしたら、そうしたことも一度は起こったのだろうと思ったであろう。とある折の緊急時に、何らかの祝福が授与されたのだ、と。ただし、そこから規則を導き出すことはできないであろう。だが私は、このことが神の書に書かれているのを見いだすとき、すなわち、とある折の御民に夕暮れ時が訪れていた場合にも、神が彼らの光を与えてくださったと悟るとき、私はそこから1つの規則を導き出しても全く差し支えないと感じる。すなわち、神の民には常に夕暮れ時には光があるとの規則である。

 さて、このことを私の現在の講話の主題としようと思う。種々の夕暮れ時が教会と神の民とには起こるが、原則として私たちは、夕暮れ時にも光があると全く確信して良い。

 往々にして神が恵みによって行動するしかたは、私たちが自然の中に見いだすことのできるものと相似している。例えば、神はこう云っておられる。「雨や雪が天から降ってもとに戻らないように、そのように、わたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」*[イザ55:10-11]。私たちはキリストについて神がこう仰せになっていることに気づく。「彼は牧草地に降る雨のように、地を潤す夕立のように下って来る」[詩72:6]。私たちは、神が恵みの契約を、ご自分がノアと結んだ季節に関する契約に、また人と結んだ年々の巡りに関する契約になぞらえておられることに気づく。「種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない」[創8:22]。私たちは、被造世界のみわざがしばしば恵みのみわざの鏡であること、また、自然の世界の中には、御民に対する神の恵みの世界におけるその偉大な行為を例証する物の例えとして引き出せるものがあることに気づく。しかし、時として神は、自然を踏み越えることを行なわれる。自然においては、夕暮れ時の後に光はやって来ない。太陽は旅する時を終えてしまっている。血気に逸り立った軍馬たちも疲れ切っている。休まなくてはならない。見よ。彼らは碧空の急坂を駆け下り、その燃える距(けづめ)毛を西の海に沈める。その一方で、夜はその黒檀の戦車に乗って彼らのすぐ後に追い迫る。しかしながら、神は自然の法則を踏み越えてお進みになる。神が御民にお送りになるある時期、理性の目にはもはや昼間が見えるとは思えず、むしろ、神のあわれみという栄光に富む景観も、神の忘却という暗闇に包み隠されるだろうと予期されることがある。しかし、そうしたことが起こる代わりに、神は自然を跳び越して、夕暮れ時にも、暗闇の代わりに光があると宣言されるのである。

 今の私の務めは、この一般規則を個々の異なる事例によって例証することである。中でも最後の事例については最も詳しく語ろうと思う。それが今朝の私の説教の主要な目的だからである。

 I. まず最初に、「夕暮れ時に、光がある」。その最初の例証を引き出したいのは、教会全体の歴史からである。全体としての教会には、多くの夕暮れ時があった。もし私がこの下界にある何かから教会史を描写する例えを引き出してよければ、教会は海のようなものだと描写すべきだと思う。時には、あふれるほどの恵みが栄光に富むしかたで現わされることがある。波また波が意気揚々とうねりながら陸地に打ち寄せ、罪の沼沢を覆っては、全地を《万軍の主》のものであると主張する。その進展があまりにも迅速すぎるため、罪や悪徳の岩礁がその行く手を妨げることはほとんどできなかった。とどまるところを知らない真理の伝播は、完全な勝利を予告しているかに思われた。幸いな教会は、その究極的勝利の日が確かに到来したのだと思った。教会の教役者たちによるその言葉は強力きわまりなく、教会の軍隊の真中におられる主はこの上もなく栄光に富んでおられたため、何者も教会に立ち向かうことはできなかった。教会は、「暁の光のように見おろしている、月のように美しい、太陽のように明るい、旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの」[雅6:10]であった。種々の異端や分派は一掃され、偽りの神々や偶像はその王座を失った。《全能のエホバ》はその教会の真中にいて、白い馬に乗っては勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行かれた[黙6:2]。しかしながら、歴史を読めば分かるように、ほどなくして決まって起こるのは、引き潮の時であった。恵みの流れは再び減退するように思われ、あわれな教会は迫害か、内側の腐敗によって撃退された。人の腐敗をみるみる引き離す代わりに、人の腐敗が教会をみるみる引き離すかに思われた。そして、かつては海の波のように義が満ちていた所に、人類の汚れきったどす黒い泥とぬかるみが居座り、教会は悲しみに沈んだ節を歌わなくてはならなかった。そのとき教会は、バビロンの川のほとりに座り[詩137:1]、かつての栄光を思い出しては泣き、現在の荒廃を思っては泣いた。それが常であった。――進展しては衰退し、しばし停滞しては、今一度進展し、再び後退する。教会の全歴史は前進に次ぐ前進と、その後のすみやかな退却の歴史である。――全体として見ると、前進と成長の歴史であると私は信ずるが、一章また一章と読んでいくと、成功と撃退、征服と落胆が入り混じった歴史である。そして私が思うに、これは最後の最後まで同じであろう。私たちには何度となく日の出があり、真昼があり、西に没することがあるであろう。幸いな日々の甘やかな夜明けがあり、私たちの宗教改革があり、私たちのルターたち、カルヴァンたちが登場するであろう。輝かしい昼間の頂点を迎えては、福音が余すところなく宣べ伝えられ、神の力が知られるであろう。また、教会が弱まり腐敗するという日没があるであろう。しかし、夕闇が教会の上に忍び寄るのと同じくらい確かに、その「夕暮れ時に、光がある」であろう。この真理に、教会の神聖な歴史すべてを通じて注目するがいい。預言のあらゆるともしびが途絶えたように思われた日、かつてはローマの通りという通りで声を轟かせた者が火刑柱で焼かれ、絞殺された日、サヴォナローラが逝き、彼に従う者らが周章狼狽していた日、また、教皇制の黒雲が世に対する神の愛と恵みの陽光を消し去ったかに思われた日、そうした暗く翳った時代に、福音が絶え果ててしまったように思われたとき、疑いもなくサタンは内心こう囁いたであろう。「教会の没するときが今や来たのだ」。それは教会にとって夕暮れ時である。闇を慰める日差しは、ほんの一筋か二筋しか義の太陽から漏れ出ていない。サタンは思ったであろう。ことによると、世界は永遠に自分の竜の翼の陰に横たわっているかもしれない、と。しかし、見よ! 夕暮れ時に、光はあった。神は、一介の修道僧を引き出しては、世界を揺さぶらせ、ご自分の補佐とも助手ともなるべき人々を引き起こされた。太陽はドイツに上った。あらゆる国々を照らした。そして、その有卦の時以来、それほど暗闇に近い夕暮れ時になったことは一度もない。それでも、暗く不吉な前兆を示す時期は他に何度もあった。かつて英国国教会が眠りこけていた時代があった。非国教会の諸団体もそれと変わらない体たらくで、キリスト教信仰は虚礼になり果て、国中のどの講壇を探してもいかなるいのちも、いかなる力も見当たらず、熱心な人など、いたとしたら奇蹟と云って良いほどまれにであった。善良な人々は私たちのシオンの上に立って云っていた。「悲しいかな、悲しいかな、私の娘、私の民の殺された者[エレ9:1]は! あの強大な清教徒たちの時代はどこに、どこにあるのか? 真理の旗じるしをその手に握って、虚偽をその足で踏み砕いた人々の時代は。おゝ、真理よ! お前は逝ってしまった。死んでしまった」。「否」、と神は仰せになる。「今は夕暮れ時である。そして光が射すことになるのだ」、と。オックスフォードに六人の青年たちがいた。ともに集っては祈っていた、この六人の青年は、敬虔すぎるとして放校された。彼らは全国を行き巡り、この僅かのパン種が、こねた粉の全体を発酵させた[ガラ5:9]。ホイットフィールド、ウェスレー、そして彼らの直下の後継者たちは、闇夜の稲妻のように国中に閃き、あらゆる人々に、彼らがどこから来たのか、何者なのか、と思い惑わせ、非常な働きを行なっては、国教会の内外で、福音が力と迫力をもって宣べ伝えられるようにした。夕暮れ時に、神は常に光をその教会に向かってお送りになるのである。

 私たちは、これまで見られたものにまさって暗い夕暮れ時を予期できるかもしれない。私たちは、主が保ってくださらない限りは決して、私たちの文明が過去の諸文明より長続きするなどと想像しないようにしよう。これまでは、しばしば愚かなこととして笑い物にされてきたような考えが実現し、いつの日から人々は、今の人々がニムロデの塚山の上を歩き回り、そこに埋まった町々に驚嘆するかのように、倒壊したロンドン橋の迫持の上に腰かけ、過ぎ去った文明に驚嘆するようなことがあるかもしれない。この国の全文明が最暗黒の夜に死に絶えることは決して不可能ではない。神は、かくもしばしば語られてきた大いなる物語をもう一度繰り返されるかもしれない。――「その幻を見ていると、また突然、大いなる恐ろしい獣が現われ、国々を支配した。だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない」。しかし、たといかりにそうしたことが起こるとしても、――たといかりに世界が野蛮と暗黒に戻らなくてはならないとしても、――たとい私たちが時々希望するような、最も輝かしい日への着実な進歩の代わりに、私たちのあらゆる希望が枯れしなびることになったとしても、私たちは、「夕暮れ時に、光がある」こと、世界の歴史の終わりが栄光の1つの終わりであることを全く確信していようではない。世界が、いかに血で赤く染まり、いかに罪でどす黒くなろうとも、世界はいつの日か、最初に創造されたときのようにきよく完璧なものとなる。来たるべきその日、このあわれな惑星は、自分の光彩が輝き出ないように押さえつけていた、暗闇という産着を脱がされていることに気づくであろう。神はこれからご自分の御名を日の上る所から日の沈む所まで知らしめるであろう。

   「ヨベルの年の 叫びぞや
    いかずちのごと 轟きて、
    さなくば満ちし 大海(おおうみ)の
    岸辺を打ちて 砕くごと、
    いつか響かん 広き世界(このよ)に」。

「夕暮れ時に、光がある」。

 II. この規則は、大きなものと同じくらい小さなものにも等しく通用する。私たちの知るところ、自然界では原子を支配しているのと全く同じ法則が星々や天体をつかさどっている。

   「涙の雫 かたどりて
    その粒 頬を 伝わらす
    法則(おきて)は地球(つち)を 円(まる)く保(も)ち
    惑星(ほし)の軌道(ゆくて)を 導けり」。

恵みの法則についても、それと同じである。教会にとって「夕暮れ時に、光がある」ように、あらゆる個々人にとっても「夕暮れ時に、光がある」。キリスト者よ。つましい物事に下降しようではないか。あなたには、物質的な事がらにおいて輝かしい日々があった。時としてあなたは大いに祝福されたことがあった。あなたは、子牛が牛舎にいた日や、橄欖がその実を産し、いちじくの木がその実りを拒まなかった日のことを思い出すことができる。納屋が麦ではちきれんばかりであった年々、大桶から油があふれ出していた年々のことを覚えている。あなたのいのちの川が深く、あなたの船が悠々と浮かび、それを悩ませるような不穏な苦難の大波が何1つなかったときのことを覚えている。その頃のあなたは云っていた。「私は悲しみを知らない。神は私を囲われた。私を保たれた。私を守られた。私は神の摂理の愛し子なのだ。私はすべてのことが働いて私の益となることを知っている。というのも、あからさまにその通りであることが目に見えるからだ」。よろしい。キリスト者よ。その後あなたは日没を味わった。あれほど明るく輝いていた太陽は、その日差しを刻一刻と斜めに投げかけ始め、ついには、長い影を落とすようになった。というのも、太陽が沈みつつあり、雲が集まり出していたからである。そして、神の御顔の光がこうした雲をうっすらと黄金色に染めてはいたものの、それは次第に黒くなりつつあった。それから苦難があなたにのしかかった。家族の加減が悪くなり、あなたの細君は死んだ。あなたの収穫は痩せ、あなたの日ごとの収入は少なくなり、あなたの米櫃はもはや満杯ではなくなり、あなたは日ごとの糧を求めてさまよった。あなたは自分がどうなるのか分からなかった。ことによると、あなたは非常な低さに至らされたかもしれない。あなたの船の竜骨は岩礁に擦れてきしる音を立てた。そこには、あなたの船を貧困という岩礁の上に浮かべておくだけの豊かさがなかった。「私は深い泥沼に沈み」、とあなたは云った。「足がかりもありません。あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました」[詩69:2; 42:7]。あなたには打つ手が全くないように思われた。いくら苦闘しようと、あなたの苦闘は状況を悪化させるだけであった。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」[詩127:1]。あなたは勤勉と節約の双方を用いた。さらに、これに「忍耐の限り」を加えた。だが、すべてはむなしかった。あなたが早く起きるのも、遅く休むのも、節倹の糧を食べるのもむなしかった。何事もあなたを救い出すことはできなかったからである。あなたは絶望のため死なんばかりであった。自分の人生の夜には永遠の暗黒が寄せ集められていると思った。あなたはいつまでも生きていたくはなかった。むしろ、この涙の谷を去ってしまいたかった。キリスト者よ! この聖句の原則の真実さを証言するがいい! 夕暮れ時にも、あなたとともに光があったではないだろうか? あなたの窮境の時は、神の機会の瞬間である。潮がその最も彼方へ流れ去ってしまったとき、そのとき、それは流れを変えるのである。あなたの引き潮には上げ潮があった。あなたの冬には夏があった。あなたの日の入りには日の出があった。「夕暮れ時に、光がある」。突然、何らかの不思議な神のみわざ、とその時のあなたに思われたものによって、あなたは完全に救い出された。神は、あなたの義を光のように、あなたの栄光を真昼のように輝かされた[詩37:6]。主は昔の日、あなたのために姿を現わされた。その御手を上から差し伸ばされた。あなたを深い水から引き出された。あなたの足を巌の上に置き、あなたの歩みを確かにされた[詩40:2]。ならば、注意するがいい。おゝ、天国の相続人よ! 過ぎ去った年々にあなたにとって真実だったことは、最後まであなたにとって真実であろう。あなたはこの日、災いと、思い煩いと、悲惨で悩まされているだろうか? しっかりするがいい! あなたは「夕暮れ時に、光がある」。もし神があなたの悲しみを引き伸ばしているとしたら、神はあなたの忍耐を増してくださるであろう。だが、むしろ、神はあなたを深みへと導き、そこであなたを再び引き上げてくださるであろう。あなたの《救い主》が下られたのは、上られるためであったことを思い出すがいい。同じようにあなたも、身を屈めて初めて勝利を得られるのであって、もし神があなたに身を屈めるようお命じになるとしたら、それが地獄のどん底であったとしても、覚えておくがいい。もし神があなたに身を屈めるようお命じになったとしたら、神は再びあなたを引き上げてくださる。ヨナが語ったことを思い出すがいい。――「私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私に答えてくださいました」*[ヨナ2:2]。おゝ! 頼むべきものを何1つ有していなかったとき、神に信頼した古の人とともに叫ぶがいい。「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」[ハバ3:17-18]。あなたも同じようにして、祝福されるがいい。というのも、「夕暮れ時に、光がある」からである。

 III. しかし、いま私たちが三番目の例証を引き出したいのは、神ご自身の民の霊的な悲しみからである。神の子どもたちには二種類の試練がある。物質的な試練と霊的な試練である。私はこの点については手短に語ることとし、善良なジョン・バニヤンから1つの例証を借りることにしたい。あなたは、キリスト者と出会ったアポルオンについてジョン・バニヤンが何と述べたか覚えているであろう。バニヤンはそれを比喩的に語っているが、それは決して比喩ではない。アポルオンと出会った人であれば、この件には何の間違いもないこと、そこには恐ろしいほどの真実があることをあなたに告げるであろう。私たちの基督者がアポルオンに出会ったのは、彼が屈辱の谷にいたときであり、この竜はこの上もなく獰猛に襲いかかった。その燃える槍によって彼を滅ぼし、そのいのちを奪おうとした。勇敢な基督者は全力を尽くしてかれに立ち向かい、その剣と盾を正しく男らしく用い、ついにはその盾に槍が林立し、その手が剣にくっついて離れなくなるまでとなった。あなたは、この人と竜がいかに長時間戦い合ったか覚えているであろう。そしてとうとうこの竜は基督者を激しく打ち倒し、彼は地面に伏してしまった。そして、あゝ、あろうことか、倒れた瞬間、彼は自分の剣を取り落としてしまったのである! その光景がまざまざと目に浮かぶ。竜はその全力を奮い起こし、その足で基督者の首根っこを押さえつけ、その燃える槍を彼の心臓に投げつけようとしていた。「わはは! 今こそお前はおれのものだ」、とかれは云った。「これで、手も足も出まい」。だが語るも不思議なことに、「夕暮れ時に、光が」あった。竜の足があわれな基督者からいのちそのものを踏み砕こうとするに十分であった瞬間に、彼はその手を伸ばしたと云われている。彼は自分の剣をつかみ、決死の一撃を竜に加えつつ、こう叫んだ。「私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がる」*[ミカ7:8]。そして、彼が竜に切りつけた一撃があまりにも死に物狂いのものであったために、竜はその翼を広げて飛び去り、基督者は自分の勝利を喜びながら旅を続けた。さて、キリスト者であれば、これらすべてがよく分かるであろう。これは、その人にとっては何の夢でもない。その人は竜の足に何度も踏みつけられたことがある。あゝ! そして、ある人の心臓に全世界の重みがのしかかったとしても、それは悪魔の片足の重みほどにもならない。サタンがいったんある霊の上手を取ると、かれは強さも、意志も、悪意も用いずに、それを苦悶させることができる。人が、あの悪い者と戦っている最中に、そのひづめの下に踏みつけられるようなことがあるとしたら、それは苛酷な運命である。しかし、神はほむべきかな。神の子どもは、竜の足の下にあるときも、やがて天国の神の御座の前に出たときと同じくらい安全なのである。「夕暮れ時に、光がある」。そして、地上と地獄のあらゆる勢力が、また、キリスト者がいまだかつて知ったことのあるあらゆる疑いや恐れが、あいともにある聖徒を悩まそうとしたとしても、見よ、神は立ち上がり、その敵どもは散り散りになり、神はご自分に勝利を得られる。おゝ、それを信じることのできる信仰があればどんなに良いことか。おゝ! 神を信ずる信頼があればどんなに良いことか。それは決して神を疑うことなく、むしろ、私たちの悲しみのいかに暗い瞬間にも、なおも自分にとってすべては順調であると感じることができる! 「夕暮れ時に、光がある」。

 IV. もう少し辛抱してほしい。もう1つの事例だけ示唆したら、私が主として詳しく語ろうと思っている最後の点に移るであろう。キリストのもとに来ようとしつつある罪人にとっても、このことは真実である。「夕暮れ時に、光がある」。私が求道者と面接する日には、非常に多くの人々が私のもとにやって来ては、彼らの霊的遍歴の物語を私に告げる。そして、彼らは私に、彼らのささやかな話を、考えうる限り最も大きな驚異の様子とともに告げる。そして、語り終えるや否や、それが奇妙きわまりないものではないでしょうかと尋ねるのである。「ご存じでしょうか、先生。私は常々この世の事がらにおいてはごく幸せにしていました。ですが、罪の確信が私の心に入ってきました。それで、《救い主》を求め始めてみたところ、どうでしょう。先生。私が《救い主》を求めていた長い間、私はみじめでたまらず、自分で自分が耐えきれないほどでした。確かに、先生。これは不思議なことじゃありませんか」。そして、私が彼らを真っ向から見つめて、「いいえ。不思議ではありませんよ。私は今晩、十何人もの人と会いましたが、その人たちはみな私に同じことを告げたのですよ。それこそ、あらゆる神の民が天国へ向かっていく道なのです」、と告げると、彼らは目をむいて私を見つめる。さながら、まさか私が不真実を告げようとしたなどとは思わないが、他の誰かが自分たちの感じたようなことを感じるなど、この世で最も奇妙なことと考えたかのようである。「さあ、座ってください」、と私は時々云うことがある。「そうしたら、私は、私が最初に《救い主》を求めたときに自分の感じたことをお話ししましょう」。「何てことでしょう、先生」、と彼らは云う。「それこそまさに、私が感じてきたことです。ですが、私は誰かが自分の通ったのと同じ通り道を通ったことがあるなんて考えもしていませんでした」。あゝ! よろしい。私たちが霊的な事がらについて互いにほとんど知り合っていないとき、私たちの通り道が孤独なものであるかのように思われるとしても不思議はない。だが、あわれな求める罪人たちに対する神のお取扱いの大部分は、分かる人には分かるものである。彼らの経験は常に大きく似通っており、彼らがキリストのもとに来ようとしている間、一般には、その1つ1つを見分けることができるものである。さて、魂が真実にキリストを求めているときには常に、それは暗闇の中でキリストを求めざるをえないものである。あわれななロトがソドムから走り出たとき、彼は薄明の中を駆け通さなくてはならなかった。彼がツォアルに着くまで太陽は上らなかったからである[創19:23]。それと同じく、罪人たちが彼らの罪から《救い主》のもとに走って行きつつあるとき、彼らは闇の中を走らなくてはならない。彼らが何らかの慰めや平安を得られるのは、十字架上で死なれたお方をすべてとして単純な信仰によって仰ぎ見ることができるようになるときでしかない。この場には今朝、非常な苦悩のもとにある多くの魂がいる。あわれな心よ! 本日の聖句はあなたにとって慰めである。「夕暮れ時に、光がある」。あなたには、かつて小さな光があった。道徳の光である。あなたは、自分で何かができると思っていた。それはみな取り除かれている。それから、あなたには別の光もあった。種々の儀式という細いろうそくがあり、あなたはそれが自分を照らしてくれるものと自信満々であった。だが、それは消え果てている。それでもあなたは、自分の良いわざという薄明かりで道を手探りできると思った。だが、すべては今や失せてしまったように思われる。あなたは思っている。「神は私のようなみじめな者を完全に滅ぼされるでしょう! おゝ、先生! おゝ、先生!

   『われ罪人の かしらなり』

これほど邪悪でみじめな者が生きていたためしなどありません。さもなければ、そんな者が一度でも生きていたとしたら、確かに神はそいつをすぐさま地獄に叩き込んだに違いありません。私は自分に何の希望がないと確信しています。何と、先生。私が何をしようと、これっぽっちも自分をまともにすることができません。祈ろうとしても、自分が祈りたいと思うようには祈れません。聖書を読んでも、それは私に反してみな真っ黒です。何の役にも立ちません。神の家に行けば、教役者はモーセのように思われ、私に向かって律法ばかり説教します。――私の魂への慰めの言葉など一言も持ってないように思えます」。よろしい。私はそう聞いて喜んでいる。あわれな心よ。私はそれを喜んでいる。私はあなたの悲惨さそのものを喜ぶつもりは毛頭ないが、あなたが今いる所にいることを喜んでいる。かつてハンティングドン夫人が、ホイットフィールド氏の兄弟に向かって、こう語ったことを思い出す。ホイットフィールド氏の兄弟は、非常な精神的苦悩の下にあったが、ある日お茶の席で霊的な事がらについて語り合っているとき、こう云った。「奥様。私は自分が失われた人間だと分かっています。これは確実なことです!」 よろしい。人々は彼に語りかけた。彼を元気づけようとした。だが、彼はかぶりを振り続けた。自分は完全に破滅しており、失われた人間だと云うのである。そこへハンティングドン夫人が両手を打ち鳴らして、「それは結構なことですわ、ホイットフィールドさん。それは結構なこと」、と云った。彼は彼女がそのようなことを云うのは残酷だと思った。だが、彼女が自分の意図をこのように説明したときには、よく分かった。「と申しますのは、人の子は失われた人を捜して救うために来たのです[ルカ19:10]。ですから、あなたを救うために来られたのですよ」。さて、もしこの場に誰か失われた人がいるとしたら、私はただこの一言を云いたい。私もそれを結構なことだと思う。かの偉大な《羊飼い》は、そのような人を救うためにやって来られたのである。もしあなたがたの中の誰かが、自分は神の律法によって罪に定められていると感じているとしたら、私はあなたが罪に定められていることを神に感謝する。というのも、自分の良心の中で律法により罪に定められている人々は、これから福音によって赦されることになるからである。

   「咎ある魂(たま)よ、逃れ来よ。
    主のみもとにて、傷は癒えん。
    こは、栄光(さかえ)ある 福音の日、
    代価(かた)なき恵み 満ちあふる」。

しかり。まさに今この時、あなたが自分の心の中に全く昼を有していないとき、また、夕暮れ時がやって来ている、自分は永遠に滅びなくてはならないのだ、と思っているとき、――今こそ、神がご自分をあなたに現わしてくださるときである。あなたは、自分自身の襤褸服を有している間は、決してキリストを有することはない。あなた自身の義という一銭銅貨を有している間は、決してキリストを持つことはない。だがあなたが無となったとき、キリストはあなたのものとなる。あなたが自分自身には何もより頼むものがないとき、イエス・キリストは福音においてあなたの完全な《救い主》となられる。主はあなたにこう告げるよう私に命じておられる。主が来られたのは、あなたのような者を捜して救うためなのだ、と。

 V. そして今、私はしめくくりにあたって、最後の事例についてより詳細に語ろうと思う。――「夕暮れ時に、光がある」。もし私たちの太陽が真昼になる前に沈んでいないとしたら、私たちはみな人生の夕暮れを迎えるものと期待して良いであろう。私たちはこの世から死によって取り去られるか、さもなければ、もし神が私たちを生かしてくださるとしたら、まもなく私たちは人生の夕暮れに達するであろう。もう何年もすれば、ひからびて黄ばんだ木の葉があらゆる人間たちにうってつけの同伴者となるであろう。そのことに何か陰気なことがあるだろうか? 私はあるとは思わない。老年の時は、そのあらゆる弱さにもかかわらず、キリスト者にとってはことのほか祝された、特権の時であると私には思われる。世俗的な罪人にとって、快楽の風味が自分の諸力の衰弱や、自分の強壮さの衰えによって奪われてしまう老年は、退屈と苦痛の時期に違いない。だが、十字架の老練な兵士にとって、老年は確かに大きな喜びと幸いのときに違いない。私は先日の晩、魅力的な田舎を馬車で走っているとき、老年とはいかに夕暮れ時に似ているものか、と考えていた。熱い煩労の太陽は沈んでいる。私たちの年若い敬神の思いを照らした太陽、さほど深く根づいていなかったそうした思いを焼き焦がし枯らしてしまった太陽、――また、私たちが次にいだいた真の敬虔さを焼き焦がした太陽、しばしばそれを枯らさんばかりにし、実際それが水路のそばに植わっていなかったとしたら枯らしてしまったに違いない太陽、――その太陽は、今や沈んでしまった。善良な老人は、今や世界中で特に何も思い煩うことがない。その人は仕事に対しても、自分の生きている時代の喧噪や騒音や争闘に向かってもこう云う。「お前は私にとって何でもない。自分の召されたことと選ばれたこととを確かなものとすること[IIペテ1:10]、この私の確信を堅く保っていること、そして、私の変化が来るのを待っていること、それが私の務めのすべてなのだ。お前のこの世的な快楽や心遣いの一切と私は何の関係もない」。彼の人生の労苦はすべてなされた。彼はもはや今は、若年の頃や壮年の頃のように額に汗したり労苦したりすることはない。彼の家族は育ちきり、もはや彼に頼ってはいない。神が彼を祝しておられればそうである。そして、彼には自分の老年の必要のために十分なものがある。あるいは、どこかの粗野な私設救貧院で彼はその生の最後の数年間を息づくことになるかもしれない。何という静謐と平穏であろう! 夕暮れ時に田畑から帰ってきた労務者が、自分の寝椅子に身を投げ出すように、この老人は自分の労働から解放されているのである。そして、夕暮れ時の私たちは、家族が一堂に会し、暖炉に火を燃やし、窓帷を引き、家の炉端を囲んで座る。もはや、世間の騒々しい事がらは考えない。老年もそれと全く同じである。この世ではなく家族こそが心を奪う話題である。

 あなたは今まで、尊ぶべき老人たちが手紙を書くとき、いかにそれを自分の子どもたちに関する情報で埋め尽くしているかに気づいたことはないだろうか? 「ジョンは元気にしている」。「メアリーの具合は良くない」。「家中の者は元気にしている」。大概の職業人の友人ならこう書くであろう。「株価が下がった」、とか、「金利が上がった」、とか。だが、善良な老人の手紙には決してそうしたことは記されないであろう。彼は自分の家族のことや、最近結婚した自分の娘たちのことや、そうした一切のことについて手紙を書く。私たちが夕暮れ時にするのも全く同じである。私たちは身内の者たちのことしか考えず、世間のことは忘れる。それこそ、白髪頭の老人がすることである。彼は自分の子どもたちについて考え、それ以外のすべてを忘れる。よろしい。ならば、こうした老人にとって暗闇の中にも光があると考えられるとは、何と甘やかなことであろう! 「夕暮れ時に、光がある」。あなたが倦み疲れる日々に怯えてはならない。あなたが朽ち衰える日々に怯えてはならない。おゝ、十字架の兵士よ。古いともしびが消えるときには、新しいともしびが燃やされる。いのちのともしびが薄暗くなるときには、新しい光が灯される。恐れてはならない! あなたの朽ち果てる夜はやって来つつあるかもしれない。だが、「夕暮れ時に、光がある」。夕暮れ時にキリスト者は、それまで一度も有したことがなかった新しい光をいくつも有する。聖霊によって灯され、その光によって輝く光である。そこには明るい経験の光がある。彼は後ろを振り返っては、自分のエベン・エゼルを建て、「ここまであなたが私たちを助けてくださった」*[IIサム7:12]、と云うことができる。彼は自分の青春時代の光であった古びた聖書を振り返っては、こう云うことができる。「この約束は私に向かって証明された。この契約は真実であることが証しされた。私は私の聖書を長年にわたってめくってきたが、一度として破られた約束を読んだことはない。すべての約束は私に対して守られてきた。『すべての良いことが一つもたがわなかった』[ヨシ23:14]」。そして、そのとき、もし彼が神に仕えてきたとしたら、彼には自分を励ますもう1つの光がある。彼には、神が自分にいかなる善を施すことを得させてくださったかの追憶という光がある。彼の霊的な子どもたちの何人かがやって来ては、神が彼の会話を彼らの魂にとって祝福してくださった時のことについて語る。彼は自分の子どもたち、また、自分の子どもたちの子どもたちが立ち上がっては《贖い主》をほめたたえる姿を見やる。夕暮れ時にも彼には光があるのである。しかし、最後に夜が全く本気でやって来る。彼は十分長く生きてきた。彼は死ななくてはならない。この老人は寝床に横になっている。太陽は沈みつつあり、彼にはもはや光がない。「窓を開けて、広々とした空を最後にもう一度見せておくれ」、と彼は云う。太陽は没してしまっている。私には向こうの山々が見えない。それらはみな霧の塊である。私の目はかすみ、この世もまたかすんでいる。突然、1つの光が彼の顔に射し込んできて、彼は叫ぶ。「おゝ、娘よ! 娘よ! ここに! 私にはもう1つの太陽が上ってくるのが見える。お前は太陽がいま沈んだと云わなかったか? 見よ、私には別の太陽が見える。そして、あの丘々が見晴らせた所で、その丘々が暗闇の中に沈んでしまった所で、娘よ。私は燃える真鍮のような丘々が見える。そして、その頂上に碧玉のように輝く町が見える気がする。しかり。そして私には開いた門が見える。霊たちが出て来ている。彼らは何と云っているだろうか? おゝ、彼らは歌っている! 歌っている! これが死なのか?」 そして彼がそう問う前に、彼はそれに答える必要のない所へと行ってしまう。というのも、死はことごとく未知だからである。しかり。彼はかの真珠の門をくぐり抜けた。彼の足は黄金の大通りに立っている。彼の頭は不滅の冠できらびやかに飾られている。永遠の勝利という棕櫚の枝が彼の手にはある。神は彼を愛する方において受け入れておられる。

   「嘆きと罪の 世より離れて
    永久(とわ)に神とぞ ともに閉ざさる」。

彼は、光の中にいる聖徒たちとともに数えられており、この約束が成就する。「夕暮れ時に、光がある」。

 さて今、話をお聞きの白髪頭の方々。あなたもそうなるだろうか? 私は、尊ぶべきジェイ氏が一度ケンブリッジに来たときのことを覚えている。説教の途中で彼は、あなたがたの中のある人々がそこに座っているように座っていたひとりの老人に対して手を突き出し、こう云った。「果たして、その白髪は栄光の冠だろうか? それとも、道化師帽だろうか? それは、そのどちらかでしかないのだ」。というのも人は、あなたがたの中のある人々が達しているような年齢にありながらまだ回心していないとしたら、実際に白髪を道化師帽にしてしまっているからである。だが、もしあなたがキリストに聖別された心を有しているとしたら、今キリストの子どもとなっており、自分が永遠にキリストのものであると完全に信じていることは、あなたの額の上に栄光の冠を戴くことである。

 さて今、若い青年子女の方々。私たちはすぐに老いてしまう。もうまもなくすれば、私たちの若々しい体格はよろめくようになり、次第に私たちは杖を必要とするようになる。歳月は短いものである。一年は、それが毎年毎年、私たちの頭の上を越えていくにつれて短くなっていくように思われる。私の兄弟よ。あなたは私と同じくらい若い。では、あなたには、あなたの夕暮れが光となるという希望があるだろうか? 否。あなたは酒に酔うことを始めてしまった。そして、酔いどれの夕暮れは、闇に輪をかけた闇であり、その後には断罪が来る。否。若人よ。あなたはあなたの人生を神聖冒涜で始めた。そして、神をけがす悪態をつく者の夕暮れには何の光もない。あるのはただ、毒々しく赤みを帯びた地獄の炎だけである。そのような夕暮れに用心するがいい! 願わくはあなたがたが知恵を選ぶように。というのも、「その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である」[箴3:17]からである。一部の宗教者たちはみじめである。だがキリスト教信仰が彼らをみじめにしているのではない。真のキリスト教信仰は幸いなものである。私はキリストを知るまで、心からの笑いと幸いな顔が何を意味しているかを決して知ることがなかった。だがキリストを知ったとき、思うに私は、この世で、世の者でないかのようにして、だが、世にあって幸いな者として生きることができているのである。もし私の目を上におられる《救い主》に据えていることによって、私がダビデとともに、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ」[詩103:1]、と云えるとしたら、また、私がいかに主をほめたたえるべきかを知っているというこのことゆえに、何にもまして主をほめたたえるとしたら、あゝ! そして、もしあなたがた、壮年の方々が、あなたの青春の時代に、聖霊によって自分自身を神に聖別することができたとしたら、あなたは、終わりに至るときに、ある程度の悲しみをもって自分の弱さを振り返るであろうものの、さらにまさる程度の喜びとともに主の恵みを振り返るであろう。その恵みは子ども時代のあなたとともに始まり、あなたを青年時代も保ち、老年の間にあなたを成熟させ、最後には完全に熟した麦束が農夫の穀倉に納め入れられるように[ヨブ5:26]あなたを集め入れるのである。願わくは、大いなる神なる《主人》がこの言葉を私たちひとりひとりにとって祝福してくださるように。私たちの主イエス・キリストのゆえに。アーメン。

 

夕暮れ時の光[了]


 警告

近時、まがいものの、非常に不正確な版の《スポルジョン氏の説教集》が出回りつつある。『ニューパーク街講壇』を定期的に購読している方々は、唯一の公認版である《ニューパーク街講壇》の標題を冠していない、いかなる説教集をも購入しないように注意されたい。



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