真のキリスト者の幸い
NO. 159
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---- 1857年10月18日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、すべてのことが働いて益となることを、私たちは知っています」。――ロマ8:28 <新改訳聖書欄外訳>
I. ここでは真のキリスト者とはいかなるものかが描写され、そのキリスト者の幸いが宣言されている。まず、次のような言葉で非常に簡潔に、だが全く余すところなく真のキリスト者の描写がなされている。――「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々」。この2つの表現は、私たちが玉と石を区別できるようにしてくれる、際立って特徴的な目印である。これらは私たちに、いかなる者が神の子らであるかを明かしているからである。
最初の特徴に含まれているのは、第二の特徴の外的な現われにほかならない。――「神を愛する人々」。さて、多くの事がらにおいて、世俗的な人々と敬虔な人々は一致するところがある。だが、この点に《こそ》、決定的な相違がある。不敬虔な人は決して神を愛さない。――少なくとも、その言葉の聖書的な意味においてはそうしない。未回心の人も何らかの神を愛するかもしれない。例えば自然の神や、想像上の神を。だが、啓示された神を愛することができるのは、恵みを心に注ぎ込まれ、神に対する天性の敵意からそらされた人だけである。私たちはみな生まれながらにそうした敵意を有しているのである。また、敬虔な人々同士の間にも、不敬虔な人々同士の間と同じように、多くの違いがあるかもしれない。彼らは異なる宗派に属しているかもしれない。非常に相容れない意見をいだいているかもしれない。だが、あらゆる敬虔な人々が一致するのは、この点、すなわち、彼らが神を愛するということである。誰でも神を愛する人は、疑いもなくキリスト者である。また、誰でも神を愛さない人は、いかに仰々しい見かけをしていようと、また、いかに自分の信仰告白を自慢していようと、神を見たことがなく、神を知ってもいないのである。というのも、「神は愛」であり、「愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられ」るからである[Iヨハ4:16]。真の信仰者は神を自分の《父》として愛する。彼らには、「子としてくださる御霊」があり、その「御霊によって、『アバ、父。』と呼」ぶ[ロマ8:15]。彼らは神を自分の《王》として愛する。彼らは喜んで神に従い、神の命令のうちを歩むことは彼らの喜びである。いかなる通り道にもまして彼らの足にとって柔らかいのは、神の戒めの通り道、その戒めに従順に従う道である。また、彼らは神を自分の《受ける分》としても愛する。というのも彼らは、神の中に生き、動き、また存在しているからである[使17:28]。神は彼らのすべてであり、神を抜きにして彼らには何もないが、神がおられれば、外的な財産がいかに乏しくとも、あらゆる至福という点で豊かであると感じる。彼らは神を自分の未来の《相続財産》として愛する。彼らの信ずるところ、日々や年々が過ぎるとき、彼らは神のふところに入ることになる。そして、彼らにとって何にもまさる喜び、また楽しみは、次のような完全な確信を持ち、信じていることである。すなわち、いつの日か自分は永遠に神の御座近くで住むことになり、神の栄光の輝きの中に隠され、神の永遠の恩寵を楽しむことになるのだ、と。あなたは神を愛しているだろうか? 口先だけの言葉でなく、心から仕える思いをもって愛しているだろうか? あなたは神を愛して神に臣下の礼を取っているだろうか? 神を愛して神との交わりを保っているだろうか? 神の贖いのふたをしばしば訪れているだろうか? 神の命令の中にとどまり、神の《かたち》にならうものになりたいと願っているだろうか? そうだとしたら、私たちが今朝云おうとしている甘やかな事がらはあなたのものである。しかし、もしあなたが神を愛する者では全くないとしたら、否、むしろ神とは赤の他人だとしたら、私は切に願う。きょう、あなたのためのものではない慰めをくすねたり、盗んだりしてはならない。「すべてのことが働いて益となる」。だが、それはすべての人々にとってではない。すべてのことが働いて益となるのは、ただ、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のため」だけである。
やはりキリスト者の描写を含んでいる第二の語句に注目するがいい。――「神のご計画に従って召された人々」。アルミニウス主義者たちが、いかにこのロマ書8章の意味を粉々に壊そうとしても、私たちは、言葉遣いや言葉というものを用いる限りにおいて、こう云わざるをえない。すなわち、ロマ書8章と9章は、人々がいまカルヴァン主義と呼んでいる《福音》の大黒柱そのものである、と。この二章を丹念に読み、それを理解した後では、いかなる人も、主権的な、分け隔てをする恵みの諸教理こそ聖書の教えの要諦であることを否定できない。私は、こうした諸教理を真実であると受け入れずに聖書を理解することはできないと信ずる。使徒の云うところ、神を愛する人々とは、「神のご計画に従って召された人々」である。これによって彼は2つのことを意味している。――第一に、神を愛するすべての人々は、神が彼らを召してご自分を愛させてくださったからこそ、神を愛するのである。よく聞くがいい。神が彼らを召されたのである。あらゆる人は、神を愛するようにと伝道者や牧会者によって召され、みことばによって召され、日々の摂理によって召されている。キリストのもとに来よとの一般的な召しは常に人々に与えられている。福音の大鐘は、息をしているあらゆる生きた魂に向かって、普遍的な歓迎を鳴り響かせている。だが、悲しいかな! その鐘がまさに天国の音色をしているにもかかわらず、また、すべての人々がある程度まではそれを聞いているにもかかわらず、――というのも、「その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届い」[詩19:4]ているからだが、――それでも、その音だけで神に至らされた人はいまだかつてひとりもいない。こうしたすべての事がらは、いかなる人の救いにとっても不十分なのである。特別な召しがさらに加えられなくてはならない。人には抵抗できない召し、有効な恵みの召し、私たちのうちに働いて、みこころのままに志を立てさせ、事を行なわせてくださる召しがなくてはならない。さて、神を愛するすべての人々は、特別な、不可抗の、超自然的な召しを有したからこそ神を愛するのである。彼らに尋ねてみるがいい。果たして自分ひとりにまかされていたとしたら、彼らは神を愛していたかどうか、と。ひとりの例外もなく彼らは、いかなる教理を信じていようと、こう告白するであろう。――
「恵みはわれに 祈りを教え
恵みにわが目 涙あふるる。
恵みぞ、われを かくまで保ち
われをばつゆも 去(ゆ)かせたまわじ」。私がこれまで出会ったことのあるキリスト者のうち、ひとりとして、自分は、自分自身の自由意志にまかされていたとき、自分ひとりの力で神のもとに来ました、などと云う者はいなかった。自由意志は、理論上はたいそう結構なものに見えるが、私は一度として、それが実践においてうまく働くのを見いだした人に出会ったことがない。私たちはみな告白するのである。もし私たちがかの婚宴に至らされるとしたら、――
「祝宴(うたげ)開きし 同じ愛こそ
優しくわれらを 押し込めるなり。
さなくばわれら なおも拒みて
おのれの罪に 滅びおるべし」。多くの人々は選びにけちをつける。その言葉そのものが、一部の人々にとっては、耳元をうるさくかすめる虫に似て、彼らはそれを聞きつけるや否や、憤激して回れ右をするのである。しかし、おゝ、人よ。このことを知るがいい。この教理についてあなたが何と云おうと、この石の上に誰かが落ちれば、損失をこうむるしかなく、むしろ、この足がその人の上に落ちると、その人を粉微塵に打ち砕いてしまうのである。いかに学識ある者が詭弁を弄しても、いかに狡猾な者がこじつけても、この選びの教理を聖書から吐き出すことは決してできない。誰でも聞いて判断するがいい。ロマ書9章のこの箇所に耳を傾けるがいい! 「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える。』と彼女に告げられたのです。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』と書いてあるとおりです。それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」[ロマ9:11-16]。「すると、あなたはこう言うでしょう。『それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。』しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです」[ロマ9:19-24]。これは神のことばである。もし誰かがこれにけちをつけようというなら、けちをつけるがいい。その人は自分に対する神の証言を拒絶するのである。もしも私がこの教理を私自身の権威に立って広めているのだとしたら、私を嫌悪し、それを拒否するとしても、あなたを非難することはできないであろう。だが、聖書の権威に立って私がこれを提示しているときには、いかなる者もそれに意義を唱えるなどということが決してあってはならない。
さて、これまで私は次のように断言してきたし、ほとんどのキリスト者はそう証言するものと確信する。すなわち、私が語ったことは真理であり、誰かが神を愛しているとしたら、それは神がその人に神を愛する恵みを与えてくださったからなのである。さて、かりに、この場の回心している誰かに私が次のような問いかけをしてみるとしよう。あなたのすぐ隣りにひとりの不敬虔な人がいる。あなたがたふたりは一緒に育てられ、あなたがたは同じ家に住み、同じ恵みの手段に浴してきた。だが、あなたは回心しているのに、彼はしていない。では、この違いが何によって生じたか、私に教えてくれないだろうか? ただ1つの例外もなく、その答えはこうなるであろう。――「もし私がキリスト者で、彼がそうでないとしたら、神にこそ誉れは帰されるべきです」。あなたは、自分には恵みが与えられ別の者には与えられなかったということで、神に何か不正義があると一瞬でも考えるだろうか? あなたはこう云うだろうと思う。「不正義ですって。いいえ。神にはご自分のものをご自分の思うようにする権利があります。私は恵みを当然のものとして要求することなどできませんでしたし、私の連れもそうです。神はそれを私に与えることを選ばれたのです。他の者は恵みを強情に拒絶しました。悪いのはその本人です。私もきっと同じようにしていたはずでしたが、神は『より多くの恵み』を与えてくださったのです。それによって私の意志はしいてそうさせられたのです」。さて、方々。もし神がそうすることは間違っていないとしたら、いかにして神がそのことをしようと計画されることが間違ったことでありえるだろうか? そして、選びとは、ご自分が実際に行なわれることをしようとする神のご計画でなくて何だろうか? これは、いかなる者であれ、否定しようなどとしたら愚か者とならざるをえない事実であるが、神はある者には別の者よりも多くの恵みをお与えになるのである。私たちは、ある人が救われ、別の人が救われない理由を説明したければ、どうしても、こう信ずるしかない。すなわち、神はある人の心の中では、別の人の心の中よりも、ずっと有効な働きを行なわれたのである、と。――さもなければあなたは、人間に誉れを帰し、ある人が別の人よりも良い人間だったことにそれは存しているのだと云うしかなくなる。そして、もしそのようなことを云うとしたら、私はあなたとは何の議論もすまい。なぜなら、あなたは福音を全くわきまえていないからである。さもなければ、あなたは救いが行ないによらず恵みから出ていることを知っているはずである。もしあなたが神に誉れを帰すとしたら、あなたはこう告白せざるをえないであろう。神は、救われている人のためには、救われていない人のためよりも多くのことを行なわれたのだ、と。では、もたらされた結果が不正でない場合、いかにして選びが不正となるだろうか? しかしながら、人がそれを正しいと考えようが不正であると考えようが、神はそれをなさったのであって、その事実は人の面前に立っているのである。そうしたければ、それを拒否するがいい。神の民は、その外的な目印によって知られる。彼は神を愛する。そして、彼らが神を愛することの隠れた原因はこのことである。――神は、彼らが神を愛するようにと、世の基の置かれる前から彼らを選び、その恵みの召しを送られたのである。それは彼らが神のご計画に従って召され、恵みに導かれて神を愛し、神を恐れるようになるためであった。もしそれがこの聖句の意味でないとしたら、私は国語を理解していないことになる。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、すべてのことが働いて益となることを、私たちは知っています」。
さて、話をお聞きの方々。この聖句の中に入って行く前に、この問いかけをじっくり考えてみるがいい。私は神を愛しているだろうか? 私には、自分が神のご計画に従って召されていると信ずべき理由が何かあるだろうか? 私は上から新しく生まれているだろうか? 御霊は私の心の中で、血肉には決して達しえないようなしかたで働いておられるだろうか? 私は聖霊の生かす力によって死からいのちへと移っているだろうか? もし私がそうなっているとしたら、神は私がそうなるように計画されたのであって、この偉大な約束の全体は私のものである。
II. そこでこの言葉を1つ1つ取り上げ、その説明をしていくことにしよう。
1. まず、「働く」という言葉から始めたい。「すべてのことが働くことを、私たちは知っています」*。あなたの周囲を、上を、下を、見回してみるがいい。すべてのことが働くのである。それらが働くのは、怠惰とは反対のこととしてである。腕組みをするか、ものぐさの寝床に横たわっている怠惰な人は、神の規則の例外である。というのも、そうした人を除いて、すべてのことは働いているからである。深い藍色の天空で眠りについているかに見える星々の1つたりとも、その何千万哩もの旅をしつつ働いていないものはない。大海や川のうち常に働いていないものはなく、その千もの手を嵐の中で打ち鳴らすか、その底に国々の貨物を運びつつある。いかに奥深い森の中の空き地の片隅でさえ、働きが行なわれていない場所はない。何物も怠惰ではない。世界は大いなる仕組みのものであるが、それは決して静止していない。夜回りが番をする間も、昼日中の間も、沈黙のうちに地球はその地軸を中心に回っており、その予定された軌道を進みつつある。沈黙のうちに森は生長し、じきに伐採される。だが、その生長と伐採の間ずっとそれは働いている。どこでもかしこでも地は働いている。山々は働いている。その最内奥の自然も働いている。世界の心臓部の中心でさえ、常に脈打っている。時として私たちはその働きを火山や地震において悟らされる。だが、全く静まりかえっている時でさえ、すべてのことは常に働いている。
また、すべてのことが働くのは、遊ぶという言葉とは反対のこととしてである。それらは単にやむことなく活動しているだけでなく、ある目的のために活動している。私たちは、世界の動きや星々の相異なる旋回は子どもの風車が回るようなものにすぎないと考えがちである。それらは何も生み出さないのだ、と。古の説教者ソロモンも、かつてそうしたことを述べた。彼は云う。――「日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る」[伝1:5-6]。しかしソロモンが云い足さなかったのは、物事が見かけ通りのものではない、ということである。世界は遊んでいるのではない。いかに激越なその動きにも、目的がある。雪崩や、暴風や、地震は、常ならぬ形の秩序にすぎない。破壊や死は、顔覆いで装った進展にすぎない。存在するすべてのこと、なされつつあるすべてのことは、何らかの偉大な目当てと目的を成し遂げつつある。この世界という大いなる仕組みは、単に動いているだけでなく、その中で何かが織られつつあるのである。それは定命の者の目にはまだ完全には見えないもの、本日の聖句がこう云うときにほのめかしていることである。すなわち、それは神の民の益を作り出しつつあるのである。
そして、さらにまた、すべてのことが働くのは、《安息日》とは反対のこととしてである。道徳的に私たちは、働くことを、――特にこの曜日には――聖なる安息および礼拝とは逆のものとして語る。さて、現在の瞬間、すべてのことは働いている。アダムが堕落した日以来、すべてのことは辛苦し、労している。アダムの堕落以前の世界は、高貴で不断の祝日とされていた。だが今の世界は、その労働日に至っており、今や骨を折って働かなくてはならない。アダムがあの園にいたとき、世界はその安息日を得ていた。だが、それが別の安息日を得るのは唯一、《千年期》が現われ出すときにほかならない。そのとき、諸王国は神、すなわち御父に献上され、それからこの世はその安息日を得て休みに入るのである。だが、現在のところ、すべてのことは働いている。
愛する兄弟たち。私たちも働かざるをえないとしても驚かないようにしよう。もし私たちが骨折り仕事をしなくてはならないとしたら、今が世界の骨折り仕事の週であることを思い出そう。六千年間のひっきりなしの労働と、骨折り仕事と、労苦は、たまたま私たちだけに起こった話ではなく、神の偉大な宇宙全体に起こっているのである。全世界は呻き、産みの苦しみをしている[ロマ8:22]。私たちは、自分の働きをすることにおいて怠らないようにしよう。すべてのことが働いている以上、私たちも働こう。――「『きょう。』と言われている間に、働きなさい。だれも働くことのできない夜が来ます」*[ヘブ3:13; ヨハ9:4参照]。そして、怠惰でものぐさな者たちは、自分が途轍もなく異常な存在であることを思い出すがいい。彼らは、神のこの偉大な働きという作品に落ちた汚点である。彼らには何の意味もない。「働く」という大いなる言葉が書き出されたあらゆる文書において、彼らは全く無意味である。しかし、働く人は、それが額に汗する働きであれ、手の痛む働きであれ、覚えておくがいい。自分は、もし主の民を祝福することを求めるとしたら、他のすべてのことと同調しているのだ。――単にそれらの働きとだけでなく、それらの目的と同調しているのだ、と。
2. さて、次の言葉は、「すべてのことがともに働いて」 <英欽定訳>、である。これは、それらの見かけ上の衝突とは反対のこととしてである。単に感覚と理性の目だけでこの世を眺めるとしたら、私たちは云うであろう。「しかり。すべてのことは働いているが、それらは互いに逆らい合っている。世には正反対の流れがある。風は北にも南にも吹く。確かに世界の帆船は、常に波にもまれているが、その波はこの船を、まず右に投げ上げたたかと思うと、次には左に放り投げる。それがこの船を目指す港へと堅実に前進させるようなことはない。確かに世界は常に活動しているが、それは戦場の活動によってである。そこでは軍と軍とが対決し、弱い方が打ち負かされるのだ」。思い違いをしてはならない。そうではない。物事は見かけ通りではない。「すべてのことはともに働いている」。神の摂理に敵対するものは全くない。戦争という鴉の翼は、平和の鳩の同労者である。嵐は、穏やかな凪と争っているのではない。――それらは互いに結び合わされ、ともに働いている。対立しているように見えても関係ない。わが国の歴史を見るがいい。いかに多くの出来事がその当時は衝突し合っているように見えたのに、私たちの益のために働いていたことであろう? 男爵たちと国王たちが支配権を求めて争ったことは、英国における自由の最後の火花を踏み消してしまうものと思われたかもしれない。だが、むしろそれらは積み薪に火を点けた。国々の数々の反乱、社会の動揺、無政府状態の相剋、戦争の激発、――すべては、こうしたすべてのことは、神によって支配されており、教会の戦車をより力強く前進させることしかしていない。それらが予定された目的――「神の民の益」――をし損なったことはない。私の兄弟たち。このことを信ずるのが非常に困難であることは私も承知している。「何と!」、とあなたは云うであろう。「あっしは何日も病気にかかってるんです。そして、あっしの日雇い仕事に頼り切っている女房や子どもたちは食べ物を求めて泣き叫んでるんです。これが、あっしの益のためにともに働いてるってんですかい?」 みことばはそう云っている。私の兄弟よ。そして、あなたにも、まもなくその通りであることが分かるであろう。「私は商売をしています」、と別の人は云うであろう。「ですが、今のすさまじい不景気のおかげで、途方もなく逼迫していて、悩みが尽きません。これが私の益のためになるのでしょうか?」 私の兄弟よ。あなたはキリスト者である。私はあなたが本気でそう尋ねているのではないことを知っている。というのも、あなたはその答えを知っているからである。「すべてのことがともに働いて益となる」、と仰せになったお方は、じきに、あなたに向かって、あなたの人生の最も調和していない部分部分にも調和があることを証明してくださるであろう。あなたは、あなたの伝記が書かれるときには、どう見ても黒い頁が白い頁と調和していることを見いだすであろう。――暗い日、曇りの日が、あなたの喜びのずっと明るい真昼を素晴らしく引き立てるものでしかないことを見いだすであろう。「すべてのことがともに働いて益となる」。世界には決して不調和はない。人々はあると考えるが、決してそうではない。ローマの戦車競技の御者たちは、その巧みで練達した手綱さばきと、灼熱する車輪によって、互いに衝突を避けることができたかもしれない。だが神は、無限に完全な技量によって、人間の種々の情動の燃える行路を導き、嵐にくびきをかけ、また、暴風雨にくつわを噛ませなさる。そして、それら1つ1つを一見したところの悪から引き離されておくことによって、なおも益がもたらされ、さらに大きな益がもたらされる。そして、それがさらに大きな益へと無限に連続していくのである。
私たちはこの「ともに」という言葉を別の意味でも理解しなくてはならない。「すべてのことがともに働いて益となる」。すなわち、それらの何物も個別には働いていないということである。私は、ある古の神学者が非常に簡潔な、かつ素朴な比喩を用いているのを思い出す。それをきょうは借りてみよう。彼は云う。「すべてのことがともに働いて益となる。だが、ことによると、こうした『すべてのこと』のうちの1つが、それだけで取り上げられると、私たちを殺してしまうかもしれない。医者が」、と彼は云う。「薬を処方したとする。あなたは薬剤師の所に行き、彼はそれを調合する。あるものはこの抽斗から取られ、あるものはあの薬瓶から取られ、あるものはあの棚から取られる。こうした成分の何かが致命的な毒だということは非常にありうべきことである。もしそれだけを抜き出して服用すれば、たちまち人を殺してしまいかねない。だが薬剤師はその1つをすり鉢に入れ、それからもう1つを、さらにもう1つを入れてから、その全部を自分のすりこ木で混ぜ合わせ、1つの化合物にする。そしてそれらは、ともに働いてあなたの益となるのである。だが、その成分のどれか1つだけでは致命的な害をあなたに及ぼすか、そうでなくとも、それなりにあなたの健康にとって有害なものとなってしまうであろう」。ならば、学ぶがいい。何らかの特定の摂理的行為の1つに関して、これが私の益となるのか、と尋ねるのは間違いなのである。ある1つのことが別のことと合わされて、さらに第三のこと、第四のこと、そして、こうしたすべてのことと混ぜ合わされてこそ、あなたの益のために働くのである。あなたが病気にかかっていることは、おそらくあなたの益にはならないであろう。神だけが、あなたの病気の後に続くべき何かを持っておられ、あなたの貧窮に続く何らかのほむべき解放を持っておられるのである。そして神は、あなたの人生における、そうした異なる経験を混ぜ合わせた際に、それがあなたの魂の益と、あなたの霊の永遠の益とを生み出すことをご存じなのである。はっきり私に分かっているのは、私たちの人生の中で起こる多くのことは、もし私たちが同じ状態に常にとどまり続けるとしたら、私たちの破滅となるだろうということである。あまりにも多くの喜びは私たちを酔いしれさせるであろうし、あまりにも多くの悲惨は私たちを絶望に追いやるであろう。だが、喜びと悲惨、戦闘と勝利、嵐と凪、これらすべてが混合されたものこそ、神がそのすべての民を究極的な幸福へと導くため、苦しみを通して彼らを全うする[ヘブ2:10]ための神聖な霊薬をなしているのである。「すべてのことがともに働いて益となる」。
3. さて私たちは次の言葉を取り上げなくてはならない。「すべてのことが働いて益となる」。この言葉に、本日の聖句の意味はかかっている。「益」という言葉には、いくつか異なる意味合いがある。まず、この世の子らの用いる意味合いがある。「だれかわれわれに良い目[益]を見せてくれないものか」[詩4:6]。――これによって彼らが意味しているのは、つかのまの益、一時的な益である。「誰か私の口に蜂蜜を入れてくれないものか。誰か私の腹を隠された宝で満たしてくれないものか。誰か私の背中を紫で飾り、私の食卓をありあまる食物で呻かせてくれないものか」。それが「益」なのである。――大樽が葡萄酒ではち切れ、倉が麦で一杯にになることが! さて神は、決してご自分の民のために、「すべてのことが働いて」そのような益となると約束されたことはない。まず間違いなく、すべてのことが働いて、そうしたものとは全く正反対のことになるであろう。おゝ、キリスト者よ。すべてのことが働いてあなたを金持ちにすると期待してはならない。それらがみな働いて、あなたを貧乏にすることも全くありえる。あなたに、たまたま起こりくる、すべての相異なる摂理が、波また波と打ち寄せて、あなたの富を岩礁の上に打ち上げ、それが難破するまでとなり、それから幾多の波があなたの上で炸裂し、ついにはあなたが、自分の富のお粗末な残骸たるあわれな小舟で大海に乗り出し、《全能の神》以外のいかなる助けも得られなくなることもありえる。ならば、すべてのことが働いてあなたの益となると期待してはならない。
キリスト者は、「益」という言葉を違った意味合いで理解する。「益」ということでその人は、「霊的な益」を理解する。「あゝ!」、とその人は云う。「私は黄金を益とは呼ばない。むしろ、信仰を益と呼ぶ! 私は財産が常に増し加わることが必ずしも私の益になるとは思わない。だが、恵みにおいて成長することは益だと知っている。私の体裁が良くなり、上流社会を歩き回ることが私の益となるかどうかは分からない。だが、私の神とともに謙遜に歩むことが私の益となることは分かる。私の子らが私の食卓を囲んで、橄欖の木の若枝のようになることが、私の益となるかは分からない。だが、私が私の神の庭で生き生きと成長すること、穴に下って行きつつある魂をかちとる手段となることが私の益となることは分かる。親切で、気前の良い友人たちがいること、そうした人々と交わりを持てることが完全に私の益となるかどうかは定かではない。だが、私がキリストと交わりを保っていること、キリストに霊的にあずかること、それが――たとい、その御苦しみにあずかることであっても――私の益となることは分かる。私の信仰、私の愛、私のあらゆる恵みが成長し、増し加わること、また、私が私のほむべき主なる《主人》イエス・キリストのかたちに似たものとなることが私の益となることは分かる」。よろしい。キリスト者よ。あなたはこの聖句の意味を汲み取っている。ならば、「すべてのことは働いて」神の民のそうした種類の益となる。「よろしい!」、とある人は云う。「ならば私は、そんなもののことは考えませんな」。しかり。ことによると、あなたは考えないかもしれない。豚が飼槽から頭を持ち上げて、星々のいずれかについて思い巡らすようなことはありそうもない。私は、あなたが霊的な益を軽蔑しても大して驚かない。というのも、あなたはまだ「苦い胆汁と不義のきずなの中に」[使8:23]おり、霊的な事がらには縁がないからである。そして、あなたが霊的な事がらを軽蔑するということそのものによって、自分が霊的な者ではないこと、それゆえ、霊的な事がらを理解できないことを学ぶがいい。それらは、霊によってわきまえるものだからである[Iコリ2:14]。しかしながら、キリスト者にとって地上で受けることのできる最高の益は、恵みにおいて成長することである。「それです!」、とキリスト者は云うであろう。「私は商売で破産した方が、恵みにおいて破産するよりもましです。たとい私の財産が減ったとしても、――その方が、信仰後退者となるよりもましです。そうです! あなたの波、あなたの大波が私の上をうねり越えて行ってもかまいません。――苦難の大海の方が、罪の一滴よりもましです。おゝ、私の神よ。私は両肩に一千回あなたの鞭が打ち下ろされる方が、一回でも自分の手を禁じられたものに差し伸ばしたり、自分の足で反対する者らの道を走ったりするよりもましなのです」。キリスト者が地上で有する最高の益は、霊的な益である。
また、私たちはこうも云い足すことができよう。この聖句は永遠の益、永続的な益をも意味している、と。すべてのことが働いてキリスト者の永続的な益となる。それらはみな働いて、キリスト者をパラダイスへと連れて行く。――すべてが働いてその人を《救い主》の足元へ連れて行く。「そして主は、彼らをその望む港に導かれた」、と詩篇作者は云った[詩107:30]。――嵐や暴風、大水や暴風雨によってである。キリスト者の受けるあらゆる苦難は、彼を天国へと押し流すだけである。荒々しい風は、単にこの人生という海峡を越えて永遠の平安という港へと向かう彼の船路を急がせるものにすぎない。すべてのことは働いてキリスト者の永遠にして霊的な益となる。
だがしかし、私はここで云わなくてはならない。時として、すべてのことが働いてキリスト者の物質的な益となることもある、と。あなたは、あの老ヤコブの物語を知っているであろう。「ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ」、とこの老いた族長は語った[創42:36]。しかし、もし彼が神の奥義を読んでいたとしたら、シメオンが失われてはいないことを見いだしたであろう。というのも、彼は人質としてとどまっていたからである。――ヨセフが失われてはおらず、むしろ、彼の白髪頭が墓に下っていく道を先立ってなだらかにしていたことを見いだしたであろう。また、ベニヤミンでさえヨセフによって、弟に対する愛をもって連れて行かれることを見いだしたであろう。それで、彼に反してふりかかって来るように思われたことは、物質的な事がらでさえ、彼のためになったのである。あなたはまた、あの卓越した殉教者の物語も聞いたことがあるかもしれない。彼は常々、「すべてのことが働いて益となる」、と云っていた人物である。その彼がメアリー女王の役人たちに捕縛され、焼かれるために火刑柱のもとに連れて行かれたとき、途中で手荒に扱われすぎたため、足を折ってしまった。そこで彼らは嘲りながら云った。「すべてのことが働いて益となるのかよ。お前の折れた足が何の益になるってんだ?」 「私には分かりません」、と彼は云った。「どのようにしてそうなるかは。ですが、これが私の益となることは分かっています。そして、あなたがたにも、やがてそれが分かることでしょう」。語るも不思議なことに、それは本当に彼の益となった。というのも、びっこになったことにより途中で一日か二日暇取ったため、彼がロンドンに着いた時には、ちょうどエリザベスの女王即位が宣言されるのを聞けたのである。そして彼は、その折れた足のために火刑柱を免れたのである。彼は自分を死へと――と人は思っていたが――引っ立ててきた男たちに向き直って、こう云った。「さて、あなたがたは、すべてのことが働いて神のためになると信じますかな?」 それで私は、この聖句の主旨は霊的な益であると云ったが、それでも、その本流の中には、時として何かしら豊かで、まれな物質的な恩恵が、より豊かな霊的祝福と同じく、神の子どもたちのために流れていることもあるのである。
4. 見ての通り私はこの聖句を逐語的に取り扱っている。そして、いま私は、「働く」という言葉に戻らなくてはならない。――それは、その時制に注目するためである。「すべてのことが働いて益となる」。これは、それらがやがて働くことになるとも、これまでに働いたことがあるとも云っていない。その両方が暗に云われてはいるが、これは、それらがいま働いていると云っているのである。すべてのことは、いま現在、この瞬間に働いて、信仰者の益となっているのである。すべてのことがかつて働いて私の益となったことを信ずるのは、至極簡単であると私は思う。私は過去を振り返って見て、主が私を導いてくださったすべての道に感嘆することができる。これまでに、誰かひとり、《全能の神》に対して感謝すべき理由を有する者が生きていたことがあるとしたら、私がその者だと思う。私には私の頭上に垂れ込めた暗黒の嵐も、私の通り道を横切っていた反対の奔流も見えるが、揺りかごから今に至るまでの私にふりかかったあらゆる出来事について神に感謝することができるし、私の残りの日々の水先案内人になってほしいと誰にもまして望むのは、私を無名の蔑まれた境遇からこの場所へ向けて進めさせ、そのみことばを宣べ伝えさせ、この大会衆を養わせるようにしてくださったお方にほかならない。また、疑いもなく、あなたがたひとりひとりは、キリスト者としての自分の過去の経験を振り返るとき、ほぼ同じようなことが云えるであろう。あなたがたは、多くの苦難をくぐり抜けてきたが、これらはみな働いて私の益となった、と云うことができる。そして、どうにかこうにか、将来についてもそれと等しい信仰をいだいている。あなたは、最終的にはすべてのことが働いてあなたの益になると信じている。信仰の急所は常に現在時制に存している。私は過去は常に信じられるし、将来も常に信じられるが、現在、現在、現在、それこそ信仰をぐらつかせるものである。さて、本日の聖句が現在時制であることに注目してほしい。「すべてのことは働く」のである。まさにこの一秒一瞬にも。キリスト者がいかに悩まされ、落胆し、抑鬱し、絶望していようと、すべてのことはいま彼の益のために働いている。そして、たといヨナのように彼が山々の根元まで下り、地の閂がいつもでも自分の上にあると考え、絶望の海草が彼の頭にからみつこうとも[ヨナ2:5-6]、その完全な深淵の中にあってすべてのことがいま彼の益のために働いているのである。もう一度云うが、ここにこそ信仰の急所がある。ひとりの老田夫がかつて私にこう告げたことがある。彼によって私は、多くの簡潔な云い回しを自分のものとしたものである。――「あゝ! 先生。わしは、たまげるようなことする必要がないときには、いつだってたまげるようなことができますだ。今は神様を信じられるような感じがしとりますが、先生。わしがそういうふうに感じる時には、大して信じらなきゃいけねえもんがねえですだ」。そして彼は、それを彼一流の云い回しでこんなふうに云い換えた。――「わしの腕はいつだって逞しく、わしの鎌はいつだって切れ味抜群だけんど、そんときには収穫がねえですだ。んでもって、わしが何町歩でも草刈りできるように思うときには、草が一本も生えてねえですだ。だのに収穫が実ったときには、わしは弱くなっており、草が生えたときには、わしの鎌はなまくらになっとるちゅうわけですだ」。あなたもそれと同じことに気づいていないだろうか? あなたは、自分には驚くべきことができると思う。あなたはこう云う。
「よしわが魂(たま)に 地の逆らいて
地獄(よみ)の燃える矢 投げつけらるも
激すサタンを われは笑いて
立ち向かいなん 世は顰(しか)むとも」。そのとき、あなたに一陣の風が吹きつけ、あなたの頬を涙が流れ落ちると、あなたは云うのである。「主よ。私を死なせてください。私は先祖たちにまさっていませんから」*[I列19:4]。あなたが、山々をも打ち負かそうとしていたあなたが、もぐら塚にもつまずき倒れるのである。
ならば、私たちひとりひとりに必要なのは、この「働く」という言葉で自分の心を慰め、確固たるものとすることである。「すべてのことが働いて」。商人よ。あなたは先週、非常に逼迫していたし、今週はより悪化する見込みが非常に高いとしても、それでも信じるがいい。すべてのことが働いてあなたの益となる、と。その信頼を保ち続けるには、多くの激しい苦痛を忍ばなくてはならないであろう。だが、おゝ! あなたの《主人》の誉れのために、また、あなた自身の慰めのために、その慰藉を持ち続けがいい。あなたの事務所が、あなたが正直に行動してきた限り、いまにもあなたの耳元でぐらぐらと崩れ落ちそうに思われても、それでもあなたの十字架を負うがいい。あなたの益のためにそれは働くのである。いま働いているのである。母親よ。今週あなたは、あなたの最初の子が墓地へと運ばれていくのを見るかもしれない。その死別はあなたの益のために働くのである。おゝ、人よ。ほんの数日のうちに、あなたと同じ釜の飯を食べている者が、あなたに向かってかかとを上げる[ヨハ13:18]かもしれない。おゝ、あなたがた、きょうは意気軒昂にしている人たち。あなたがた、目を輝かせ、喜ばしい顔つきをしている人たち。日が沈む前に何らかの悪があなたにふりかかり、あなたは悲しまされるであろう。そのとき、すべてのことがともに働いてあなたの益となることを信ずるがいい。もしあなたが神を信じているとしたら、また、神のご計画に従って召されているとしたら、そうである。
5. そして今、しめくくりに私たちは、使徒がこう語っている大胆さに注目しよう。「作り事だ!」、とある人は云うであろう。「気休めの作り事だよ、先生!」 「感傷主義だ!」、と別の人は云うであろう。「ただの詩的な感傷主義だ」、と。「あゝ!」、と第三の人が叫ぶであろう。「真っ赤な嘘っぱちだ!」 「いいや」、と別の人が云うであろう。「そこには、何らかの真実があるに違いない。艱難、汝を玉となすというからな。だが、それは私にとっては無価値な真理だ。というのも、私には、こうした事がらがどんな益をもたらすか、まるで分からないのだから」。親愛なる方々。使徒パウロはあなたがたの反論を百も承知していた。それゆえ、いかに彼が大胆にこの教理を主張しているかに着目するがいい。彼は、「私はこう確信しています」、とは云っていない。「私はこう信じます」、とも云っていない。むしろ、厚かましいほど大胆に、あなたの前に現われては、こう云うのである。「すべてのことが働いて益となることを、私たちは」(私には多くの証人がいるのだ)、「知っています」。パウロよ。あなたは何を云おうとしているのか? これほど奇妙で驚愕させられるような教理を、このように独善的な厚かましさで云い立てるとはどうしたことか? 一体全体、何が云えるというのか? 彼の答えを聞くがいい! 「『私たちは知っています』。いかなることも、ふたりか三人の証人の口によって、確認されるのです[IIコリ13:1参照]。だが、私には何万人もの証人がいます」。「私たちは知っています」。そして使徒は手を上げると、白い衣を着た大群衆が永遠に神を賛美している場所を指し示す。――「彼らは」、と彼は云う。「大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです[黙7:14]。彼らに聞いてみなさい!」 すると、口をそろえて彼らは答える。「神を愛する人々のためには、すべてのことが働いて益となることを、私たちは知っています」。アブラハムが、イサクが、ヤコブが、ダビデが、ダニエルが、かつて世にあったあらゆる力強い人々が、彼らの生涯の物語を口にしては、彼らの自伝を書き記し、こう云うであろう。「私たちは!」 このことは、私たちの人生においても、ある程度、決定的に証明されている。それは、私たちの生涯という迷宮全体を貫く黄金の道しるべにも似た事実である。――「神を愛する人々のためには、すべてのことが働いて益となることを、私たちは知っています」。「私たちは」、と再び使徒は云う。――そして彼は、その手を自分のあわれな困窮する兄弟たちの上に置く。――彼は、ローマにある監獄に入れられた自分の囚人仲間たちを見やる。ローマ、ピリピ、アジアのあらゆる場所における教師たちという、みすぼらしい一団を見やっては、云う。「私たちは!」 「私たちは知っています。私たちにとって、それは疑いの的となる問題ではありません。私たちはそれを試しました。それを実証しました。単に信仰がそれを信じているだけではなく、私たち自身の生涯が私たちにこのことの真実を確信させているのです」。私はこの場にいる何十人も、何百人もの人々に訴えることができよう。そして、こう云えよう。兄弟たち。あなたがた、白髪頭をした人たち。立ち上がって語るがいい。このことは真実だろうか、真実でないだろうか? 私は、尊ぶべき人が、自分の杖にすがって立ち上がるのが見える。そして、その老いた頬にほろほろと涙をこぼしながら、彼はこう云う。「お若い方。それは真実じゃ。わしはそれを証明してきた。白髪頭になるまで、それを実証してきた。神はそうしてこられた。なおも、神は運んでくださる[イザ46:4]。神はご自分の民をお捨てにならない!」 老兵よ! あなたには多くの苦難があったではないだろうか? 彼は答える。「お若いの! 苦難とな? わしには、お前さんには思いつけないほど多くの苦難を経てきたものよ。わしは自分の身内を全員、墓に葬ってきた。わしは、森の中の最後の樫の木のようなものじゃ。わしの友だちはみな、とうの昔に死から伐り倒されてしまったわい。それでもわしは、今まで持ち上げられておるのだ。わしを支えることのできたお方は、わしの神でなくて誰であろう!」 この人に聞いてみるがいい。果たして神が一度でも彼に対して不真実だったことがあったかどうかを。彼は云うであろう。「いいや。神なる主が約束されたすべての良いことは、1つも違わなかった。それはみな実現した![ヨシ23:14]」 兄弟たち。ならば、このような証言を聞く私たちは大胆に云うことができる。「すべてのことが働くことを、私たちは知っています」、と。それだけでなく、ここには、あなたがた、中年の人たちがいる。また、私たちの中には若者たちさえいる。冬は私たちの枝々を容赦してこなかったし、稲妻は私たちの幹を傷つけることをやめてはいない。それでも、ここに私たちは立っている。すべてに打ち勝つ恵みによって保たれている。すべてのことを働かせて益としている恵みにハレルヤ!
おゝ、話をお聞きの方々。あなたはキリストを信ずる信仰者だろうか? そうでないとしたら、私は切に願う。立ち止まって、考えるがいい! 一息ついて、自分の状態を思ってみるがいい。そして、もしあなたがこの日、あなた自身の罪深さを知っているとしたら、罪人を救うために来られたキリストを信ずるがいい。そして、そうしたならば、すべてのことはあなたのために働くであろう。転がり落ちる雪崩も、地を揺り動かす地震も、よろめいている天の支柱も、すべては、それが倒れたり揺れたりするときも、あなたを傷つけることなく、なおもあなたの益のために働くであろう。「主イエス・キリストを信じて、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたも救われます」[使16:31; マコ16:16参照]。福音はそう語っているからである。主があなたを祝福してくださるように! アーメン。
真のキリスト者の幸い[了]
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