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あなたを贖う者

NO. 157

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1857年10月4日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」。――イザ41:14 


 さて、なぜここでは、「あなたを贖う者」、と云われているのだろうか? この尊い勧告に、《贖い主》の御名をつけ加えることには、どんな意味があったのだろうか? 神の御助けによって、私が今晩行ないたいと思う務めは、この事実にいかなる格別な祝福が伴っているかを示すことである。神は、「わたしはあなたを助ける。――主の御告げ。――」、と仰せになるだけでなく、「あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」、と云い足されたのである。

 ここでぜひ注意してほしいのは、これは3つの異なる人格による念押しであったかのように思われるということである。イスラエルは落胆していた。それでエホバは――これが、最初の言葉であるため――(見ての通り、「主」は太字になっており、「エホバ」と訳されるべきである。)――、ご自分のあわれな、試みられつつある、意気消沈したしもべに云っておられる。「わたしはあなたを助ける」[13節]。このことばが発せられるや否や、こう思ってもこじつけではないと思うが、聖霊なる神、イスラエルの聖なる者が、ご自分の厳粛な宣誓をもつけ足し、誓いと契約によってこう宣言しておられるのである。「わたしはあなたを助ける」[14節]。私たちは云うが、これは念押しのように見えないだろうか? 御父なるエホバが、ご自分の民を助けると宣言するだけで十分ではなかったのか! なぜ聖なる《三位一体》のもうひとりの位格が、この厳粛な宣言によって声をそろえたのだろうか? 私たちは、神の御助けがあれば、ここに非常に有益なものがあることを示せると思う。特に今晩は、この「贖う者」という言葉について詳しく考え、いかに私たちの主イエス・キリスト、私たちを《贖う者》によるこの言葉の念押しが、この勧告――「恐れるな。虫けらのヤコブ」――に格別な幸いを添えているかに注目したい。

 第一に、これがつけ加えられているのは、敷衍するためであり、第二に、甘やかさのためであり、第三に、確証のためである。

 I. 第一に、この節が、「あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」と云うとき、それがつけ足されたのは《敷衍するため》である。ある種の説教者たちは、その話を聞いても決して何も学ぶことができない。教えられることを、彼らが大して語らないということではない。だが彼らは、教えられるような思想を一度口にすると、すぐさま次の思想に移り、その第二の思想を展開させることなく、すぐさま、ほとんど何の関連もない第三の思想に移っていく。――単に、むき出しの思想を、いわば投げ出すだけで、それを人々に説き明かすことも、説明することもしないのである。そうした説教者たちは一般に、その聴衆たちに全く益にならないと苦情を云われる。聞く方は云うのである。「何と、それは私に何の感銘も与えないのである。それは良いものではあった。だが、あまりにもたくさんありすぎて、覚えておくことができなかった。家に持ち帰れるものが何もなかった」。その一方で、他の説教者たちはもっと良い手順に従っている。ある観念を与えてから、彼らはそれを努めて敷衍し、聞く者が、たとい抽象的な観念は受けとれなくとも、少なくとも、それが敷衍される所に来れば、いくつかの点をつかめるようにしようとするのである。さて、この書の大いなる《著者》である神、ご自分の預言者たちを通しての、真理の大いなる《説教者》である神は、ご自分が真理を説教しようとするとき、また、ご自分が真理を書き記そうとするときには、真理を敷衍し、1つの教理を展開し、「わたしはあなたを助ける。――の御告げ」、とお語りになる。とは、御父、御子、聖霊である。「おゝ! だが」、と神は仰せられた。「わたしの民は、わたしが敷衍しない限り、この思想を忘れてしまうだろう。ならば、わたしは、このことをさえ、いくつかの部分に区分することにしよう。わたしは彼らにわたしの《三位一体》について思い出させよう。彼らは私の《唯一性》は理解している。そこで彼らには、《唯一の者》の中に《三位》があり、この《三位》が《唯一の者》であることを思い起こさせることとしよう」。それで神はこう云い足されるのである。「あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」。エホバ――贖う者――イスラエルの聖なる者。――この三位は、実際エホバという言葉にみな含まれてはいるが、明確に列挙されなかったとしたら、十中八九は忘れられていたであろう。

 さて、兄弟たち。しばしの間あなたの思いにこの事実を詳しく語らせてほしい。この節、「わたしはあなたを助ける」(私があなたを助ける)にこめられている約束は、《神聖なる三位格》からの約束なのである。エホバが、永遠の御父が、「わたしはあなたを助ける」、と仰せになるのを聞くがいい。「時代はわたしのものである。代々が始まる前、いかなる世界もなく、いかなるものも創造されていなかったとき、永遠からわたしはあなたの神である。わたしは選びの神、聖定の神、契約の神である。わたしは、自分の力によって山々を堅く立て、帷のように、人が宿る天幕のように大空を張り延ばした。わたし、主がこうした万物を造った。『わたしはあなたを助ける』」。次にやって来るのが、御子なるエホバである。「そして、わたしも、あなたを贖う者である。わたしは永遠者である。わたしの名は不思議という。深淵がまだないときに、わたしは神とともにあった。いかなる川も掘られる前から、わたしはそこにいて、これを組み立てる者であった。わたしはイエスであり、代々の神である。わたしはイエスであり、悲しみの人である。『わたしは……生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている』[黙1:18]。わたしは、あなたの告白する信仰の大祭司[ヘブ3:1]であり、御座の前で《とりなす者》であり、わたしの民の《代理者》である。わたしには神と互角の力がある。『わたしがあなたを助ける』」。あわれな虫けらよ。あなたを贖う者はあなたを助けると誓っておられる。血を流すその御手によって、御子はあなたに助けを差し出すと契約しておられる。そして次には、聖霊がやって来られる。「そしてわたしも」、と御霊は云われる。「やはり神である。――ただの影響力ではなく、人格である。――わたしは、永遠に、またとこしえに御父と尊ともに存在している。――わたし、世界がいまだ影も形もないときに混沌の上にのしかかっていた者、地の上を覆っていたとき、そこにいのちの種を蒔いた者、――わたし、あなたの主イエス・キリスト、羊の《羊飼い》を死者の中からよみがえらせた者、――わたし、《永遠の御霊》なる者、主イエスをその墓場の束縛からよみがえらせる力を与えた者、――わたし、魂を生かし、選民を暗闇から光へ召し出す者、――わたし、わたしの子どもたちを保持し、最後まで彼らを堅く立たせることのできる者、――『わたしがあなたを助ける』」。さて、魂よ。この三者を1つに合わせてみるがいい。そのときあなたは、この方々が供することのできる助け以上のものを欲するだろうか? 何と! あなたは《一致せる三位一体》の《全能性》以上の力が必要だろうか? 御父のうちに存在している知恵以上のもの、御子において表わされている愛以上のもの、御霊の影響において明らかに示されている力以上のものを欲しているのだろうか? ここに、あなたの空っぽの水がめを持って来るがいい! 確実にこの泉はそれを満たすであろう。急げよ! あなたの欲求をまとめて、ここに持ち出すがいい。――あなたの空しさ、あなたの悲哀、あなたの必要を。見よ。この神の川はあなたを満たすために充溢している。これ以外にあなたに何がいるだろうか? 立てよ、キリスト者よ。ここにあなたの力はある。御父なるエホバ、御子なるエホバ、御霊なるエホバ。――この方々は、あなたとともにあり、あなたを助けてくださる。これが第一のことである。それは敷衍である。

 II. そして、今、第二に、この「贖う者」という言葉について、それは《この約束を甘やかにするもの》である。あなたは一度も注目したことがないだろうか? ある約束は常に、イエスがその中に入っているとき、ことのほか甘やかになると思われるのである。すべての約束は、この方において「しかり」となり、「アーメン」となった[IIコリ1:20]。だが、ある約束がこの《贖い主》の御名に言及するとき、それは、ことさらに祝福をその約束に分かち与えるものである。兄弟たち。もしこのような比喩で云い表わしてよいとしたら、それは、着色硝子製の、ある種の装飾物が生じさせている美しい効果に似ている。ある人々は非常に視力が弱いため、光によって害を受けるようである。特に太陽の赤い光が有害らしい。そこである硝子が発明された。それは、有害な光を遮断した、柔らかな、また、その弱い目に合わせて調整された光だけを通すのである。主イエスは、あたかもこうした硝子の一種であるように思われる。《三位一体》なる神の恵みは、イエス・キリストという人を通して輝くとき、柔らかで、なごんだ光となり、それで定命の目にも耐えられるようになるのである。私の神よ。私は、あなたが私の《救い主》という、土の水がめをあなたの泉に入れてくださらなかったとしたら、そこから飲めませんでした。天よ。お前は明るすぎるので、もし私が、お前を避けるこの日よけを有していなかったとしたら、お前の耐えがたい光に我慢できなかったであろう。だが、それを通せば、霧を通したように、私はお前の栄光の光輪を見つめることができる。その光輝は衰えなくとも、私の破滅につながるような効果は減じられるからだ。《救い主》は、私たちのあわれで虚弱な組織に合わせて、ご自分の栄光を和らげ、加減しておられるように思われる。主の御名は、この天の葡萄酒の中に入れられており、その泡立ちと人を爽快にする力はいささかも減じさせていないが、御使いでさえ一杯に飲み干せば脳をふらつかされるような強度の力は取り去っているのである。それは、御国の強烈な古葡萄酒を、心浮き立たせるものというよりは酔わせるものとするような、奥義の深みを取り去るのである。キリスト・イエスは、神の川に投げ入れられて、その流れのすべてを甘いものとしている。そして、信仰者がこの《救い主》というお方において神を見てとるとき、そのとき彼は、自分の愛することのできる神、自分が大胆に近づくことのできる神を見いだすのである。確かに私は、この約束をいやがうえにも愛している。なぜなら、その血まみれの御手をもって、ご自分の誓約を捺印しておられる《救い主》を私は見ているように思うからである。その《救い主》は、「あなたを贖う者」と云い、その約束には血痕がしたたっているのである。私には、あたかも神がこの約束を、あわれな虫けらのヤコブに向かって発されたとき、イエス・キリストがじっとしていられなかったかのように思われる。主は御父が、「恐れるな。虫けらのヤコブ」、と仰せになるのを聞き、そのあわれな虫けらをご覧になった。頭をうなだれ、目から涙をひたすらに流し、恐怖に心臓をおののかせ、狼狽のあまり手をもみしだいている虫けらを。そして、御父が、「恐れるな」、と云われたとき、主は背後から一歩前に出て、御父の御声よりも格段に柔らかな御声で囁かれた。御父は、「恐れるな。虫けらのヤコブ。神がそう告げているのだ」、と仰せられ、その柔らかな御声は、「そして、あなたを贖う者もそう告げるのだ」、と云っているのである。このお方は、「恐れるな」、と仰せになる。あなたを愛し、あなたを知り、あなたの感じていることをご自分でも感じ、あなたがいま忍んでいる苦悩を耐えてこられたお方、――あなたの《身内の者》であり、あなたの《兄弟》であるお方、この方もやはり「恐れるな。虫けらのヤコブ」と云われるのである。おゝ、この言葉を、私たちの《贖い主》によって語られたことばであると見てとること、これは甘やかであり尊いことである。

 III. そして今、私たちは別の点に移る。これは、《確証》のために云い表わされているのだと思う。「すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです」[IIコリ13:1]。

   「盲(めしい)の不信(まが)に 過(あやま)たざるなし」。

私たちごとき不信仰な魂にこうした約束の数々を信じさせるには、多くの証言が必要である。「さて」、と神は云われる。「わたしは、あなたを助ける」。不信仰? あなたはエホバを疑おうというのだろうか? 「わたしはある」というお方が嘘をつけようか? 信実と真理の神があなたを欺けようか? おゝ、不信仰よ! 破廉恥な裏切り者よ! お前はこのお方を疑おうなどとするのか? しかり。そしてキリストは、それがそうするとご存じであった。そこでキリストはやって来ては、第二の証人として、「あなたを贖う者」と云われるのであり、御霊は第三の証人となるのである。「あなたを贖う者」は、自発的に第二の保証となり、この約束の真実さにとって、もう1つの担保となっておられる。御父は、その約束を破るとしたら、ご自分の名誉を失われるであろう。そして、わたしもまた、この約束が成就される担保として、わたしの真実と名誉を与えよう。「あなたを贖う者」は、あなたを助けると請け合う。おゝ、虫けらよ!

 そして今、私はあなたにこの約束を読んでほしいと思う。それが、「あなたを贖う者」と云っていることを思い起こしつつ、そうしてほしいと思う。そうすれば、これを読み通したとき、あなたは、いかにこの「贖う者」という言葉が、そのすべてを確証しているように思えるかを見てとるであろう。では始めるがいい。「わたしはあなたを助ける」。その言葉に強調を置いてみるがいい。そのように読めば、それはあなたの不信仰に対する1つの打撃となる。「わたしはあなたを助ける」、と《贖い主》が仰せになっている。「他の者らは知らず、わたしはあなたを永遠の愛をもって愛し、あなたに誠実を尽くし続けた[エレ31:3]。『わたしはあなたを助ける』。地があなたを捨て去り、あなたの父母があなたを捨てようとも、わたしはあなたを取り上げる。あなたは、わたしを疑うのか? わたしは、あなたに対するわたしの愛を証明した。ここに吹き出す血を見るがいい。脇腹の槍の刺し傷を見るがいい。この両手を見るがいい。あなたはわたしを疑うのか? わたしは、あの湖の上で『わたしだ』、と云った[マタ14:27]。わたしの弟子たちに、『恐れることはない。わたしだ』、と云った。いま湖の上にあるあなたに対して、わたしは云うのだ。『恐れることはない。わたしはあなたを助ける』、と。確かにあなたは、わたしがあなたを忘れることを恐れる必要などはない。『女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない』[イザ49:15]。『わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある』[イザ49:16]。『わたしはあなたを助ける』」。さて、あなたは、ただ《救い主》がここに立っておられると考えなくてはならない。――あの、血染めの衣をまとった《人》が、私の立っているここに立っていると考えなくてはならない。そして、個人的にあなたに向かってこう云っているものと思わなくてはならない。「恐れるな。わたしはあなたを助ける」。おゝ、私の主よ。私は恩知らずにもあなたの約束を何度も疑ってきました。ですが、もし私が、私のためにその一切の悲嘆と悲しみを忍んでおられるあなたを見ることができたとしたら、もし私が、「わたしはあなたを助ける」と云うあなたの御声を聞くことができたとしたら、私はあなたの足元に身を投げ出し、こう云うはずです。「信じます。不信仰な私をお助けください」[マコ9:24]。しかし、主がこの場にいてそう語っておられないとしても、そう云っている口が人間の口でしかなくとも、思い出すがいい。主は今晩、私を通して、またご自分のみことばを通して、ご自身でお語りになったのと同じくらい真実に語っておられるのである。もしどこかの偉人がひとりの従僕によって、あるいは手紙によって、「私はあなたを守る」、という使信をあなたに送って寄こしたとしたら、あなたは彼自身の口がそう宣言するのを聞かなかったが、それでももし、あなた自身の筆跡を目にしたとしたら、あなたは云うであろう。「これで十分だ。私はこれを信じる。これはご主人の筆跡だ。ご主人の自署だ。これはご自身によって書かれたのだ。この血染めの署名を見るがいい!」 それは主の十字架によって捺印されている。そして、主の使節である私は、今晩私自身とあなたのもとに遣わされており、私自身の心とあなたに向かって云うのである。「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる」[詩42:5]。というのも、《贖い主》が、「わたしはあなたを助ける」、と云っておられ、もし主が、「わたしはあなたを助ける」、と云っておられるとしたら、誰が主を疑うことなどできようか? だれが主に信頼しないなどということができようか?

 そして今、もう一度この約束を読み、「助ける」の「る」に強調を置いてみよう。おゝ、「る」よ。「のだ」よ。お前たちは聖書の中で最も甘やかな文字である。「わたしはあなたを助け」。神が、「わたしは何々をする」、と仰せになるとき、そこには何かがある。兄弟たち。神の意志は数々の世界を存在させ始めた。神の意志は混沌の中から自然を飛び出させた。神の意志は数々の世界を保持し、「大地(ち)の柱 持ちこたえ」、被造世界を確立している。それは、神の「わたしは何々をする」である。神は世を生かしておられる。世界は、神の何かを「する」という意志を支えに生きている。そして、もし神が、それらの死ぬことを望まれるとしたら、それらは、時が来たったときに、砕け波の上の泡のように沈まなくてはならない。そこで、もし神の「何々する」がかくも強大だとしたら、私たちはここでそれに大きな強調を置いて良いではないだろうか?――「わたしはあなたを助け」、と。そこには何の疑いもない。わたしは、あなたが、「もしやひょっとして」、と云うことを許さない。否。わたしは助け。わたしは、もしかすると、あなたを助ける気分になるだろう、とは云っていない。否。私は進んであなたを助け。「わたしはあなたを助け」。わたしは、九分九厘、まず間違いなくあなたを助けるだろう、と云っているのではない。否。いかなる「もしや、ひょっとして」も、「万々が一」も排除して、わたしはそうする。さて、ここには力がないだろうか? 実際、私の兄弟たち。これはいかなる人の霊をも奮い立たせるのに十分である。いかにそうした人々が落胆していようと、もし聖霊なる神がこの聖句を吹き込み、その香料を私たちのあわれな魂の中にふんだんに行き渡らせるとしたらそうである。「恐れるな。……わたしはあなたを助け」。
 そして今、私は別の言葉を強調する。「わたしはあなたを助ける」。あなたを助けること、それはわたしにとって造作もないことだ。わたしがすでに何をしてきたか考えてみるがいい。何と! あなたを助けないと? 何と、わたしはあなたをわたしの血で買い取ったではないか。何と! あなたを助けないと? わたしはあなたのために死んだではないか。そして、もしわたしがより大きなことをしてきたとしたら、小さなことの方をしないだろうか? わたしの愛する者よ! あなたを助ける、それは、わたしがあなたのために行ないたいことの中でも最も小さなことである。わたしは、それより大きなことを行なってきたし、それより大きなことを行なうであろう。明けの明星が最初に輝き出す前から、わたしはあなたを選んだ。「わたしはあなたを助ける」。わたしはあなたのために契約を結び、わたしの永遠の思いのあらゆる知恵を働かせて、救いの計画を練った。「わたしはあなたを助ける」。わたしはあなたのために人となった。わたしの王冠をはずし、わたしの衣を脱いだ。わたしの宇宙の紫衣をわきへやっては、あなたのために人となった。こうしたことをしてきた以上、わたしはあなたを助ける。わたしは、あなたのためにわたしのいのち、わたしの魂を与えた。わたしは、あなたのために墓の中で眠りにつき、よみに下り、すべてを行なった。わたしはあなたを助ける。それは、わたしにとって何の代価も伴わない。あなたを贖い出すには大きな代償が必要だが、わたしにはすべてがふんだんにある。あなたを助けることにおいて、わたしはすでにあなたのために買い取ったものをあなたに与えるであろう。それは決して新しいことではない。私はそれを簡単に行なうことができる。「あなたを助ける?」 あなたは決してそれを恐れることはない。もしあなたが、今必要としているよりも千倍も多くの助けを必要としているとしても、わたしはそれをあなたに与えよう。だが、あなたが必要としているものなど、わたしが与えなくてはならないものにくらべれば、僅かなものでしかない。あなたが必要とするものは大きいが、それをわたしが授けることは何ほどのことでもない。「あなたを助ける?」 恐れてはならない。もしあなたの穀物庫の前に蟻が一匹いて、あなたの助けを求めているとしたら、あなたの小麦をひとつかみくれてやるとしても、あなたが破産することはないであろう。そして、あなたは、すべてを満ち足らすわたしの前では、一匹のちびた昆虫にすぎないのだ。あなたが食べることのできるあらゆるもの、あなたが受け取ることのできる一切のものは、もしあなたが永遠にわたり持ち運んでいくとしても、わたしのすべてを満ち足らす十分さをいささかも減らしはしないであろう。魚がいくら水を飲んでも海が減らないのと同じである。しかり。「わたしはあなたを助ける」。わたしは、あなたのために死んだ以上、あなたを捨てはしない。

 そして今、最後の言葉を取り上げてみるがいい。――「わたしはあなたを助ける」。ここを強調してみるがいい。「恐れるな。虫けらのヤコブ……わたしはあなたを助ける」。わたしは、たとい星々が落ちることを許すとしても、あなたを助ける。自然界が荒廃し、滅び去るままにまかすとしても、わたしはあなたを助ける。もしわたしが、大地を支えている堅固な柱を時にむしばませるのを許すとしても、それでもわたしはあなたを助ける。わたしは地と契約を結んだ。「種蒔きと刈り入れ、……夏と冬……とは、やむことはない」[創8:22]。だが、その契約は、確かに真実なものではあるが、わたしがあなたについて結んだ契約ほど大いなるものではない。そして、もしわたしが大地とのわたしの契約を守っているとしたら、わたしは確かに御子とのわたしの契約を守るに違いない。「恐れるな。……わたしはあなたを助ける」。しかり。あなたをである! あなたは、「私は助けられるには小さすぎます」、と云うであろう。だが、わたしはあなたを助け、わたしの力をあがめさせよう。あなたは、「私は助けられるには邪悪すぎます」、と云うであろう。だが、わたしはあなたを助け、わたしの恵みを明らかに示そう。あなたは、「わたしは、以前の助けについて恩知らずでした」、と云うであろう。だが、わたしはあなたを助けて、わたしの信実さを明らかに示そう。あなたは、「ですが、わたしはそれでも反逆するのです。私はなおも脇道にそれるでしょう」、と云うであろう。「わたしはあなたを助け」、わたしのの寛容を示すであろう。「わたしはあなたを助ける」ことを知っておくがいい。

 そして今、脳裡に思い描いてみるがいい。その十字架の上にかかって血を流しておられる私の《主人》が、あなたを、また私を見下ろしている姿を思い描くがいい。その愛と悲惨がこもごも混じり合っている愛の御声がこう口ごもりながら云うのを聞くがいい。主は今、あの強盗に語りかけ、彼に向かって、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」[ルカ23:43]、と仰せになったばかりであった。そして主は、そう仰せになった後で、あわれな意気消沈したあなたや私の姿を目でとらえ、こう云われる。「恐れるな。虫けらのヤコブ……わたしはあなたを助ける。わたしはこの強盗を助けた。――わたしはあなたを助ける。わたしは彼に、彼がパラダイスにいることを約束した。わたしは、あなたが助けられることを約束できる。わたしはあなたを助ける」。おゝ、《主人》よ! 願わくは、このようにお語りになることを促したあなたの愛が、私たちを促してあなたを信じるようにさせてください。

 そして今もう一度、主に聞くがいい。主は高く上げられている。主は、「捕われた者をとりこにし、人々から、みつぎを受けられ」た[詩68:18]。――さて今、主に聞くがいい。その天国の厳粛かつ華麗な行列の真中にあって、主はご自身の貧しい親戚に知らぬ顔をなさらない。主は見下ろし、この世にある私たちが、なおも罪と悩みと悲嘆と格闘しているのをご覧になる。主は私たちが、ご自身とともに王権を要求しているのをお聞きになる。そこで主は仰せになる。「虫けらのヤコブよ! わたしは今いと高きところで統治してはいるが、わたしの愛はなおも大きい。わたしはあなたを助け」。私は祈る。主がその代名詞の甘やかさをあなたの心に、私の兄弟たち、そして私の心に適用してくださるようにと。「わたしはあなたを助ける」。おゝ、確かに、暗闇と悲しみの折にある妻に夫が語りかけ、彼女を慰めるとしたら、あなたは、主がこう仰せになるとき用いておられる議論を容易に理解できるであろう。「わたしの若い時の妻よ! わたしの喜び、わたしの楽しみよ。わたしはあなたを助ける」! あなたは、主が愛を示した数々の時や、困難に遭っている妻のかたわらに立っていた数々の時期を、主が数え上げている姿を容易に思い浮かべることができる。その婚礼の日のことを彼女に思い出させ、葛藤の日々や、喜び合った日々のことを簡単に考えることができる。そして主は仰せになる。「妻よ。あなたはわたしを疑うことができるだろうか? 否。わたしは夫である以上、わたしはあなたを助け!」 そして今、あなたは《救い主》がその教会にこう語っておられるのを聞く。「時が始まる前にわたしと婚約したあなたを、わたしは、わたしのあがむべき人格に結び合わせた。そして、おゝ、わが花嫁よ。わたしの王宮が破滅しようと、天そのものが震え動こうと、わたしはあなたを助ける。あなたを忘れる? わたしの花嫁を忘れる? 自分の誓いに背く? わたしの契約を捨て去る? 否。決して、そのようなことはない。わたしはあなたを助け」。

 大きな危険に陥っている幼いわが子に対して、母親が何と云っているか聞くがいい。彼女は云うであろう。「坊や。私はあなたを助けますよ」。それから彼女は、その子に自分がその子の母親であることを思い出させる。ひ弱だった頃のその子が、自分の乳房から必要な栄養を吸っていたことを思い出させる。いかに彼女がその子の世話を焼き、膝の上であやしたか、またいかにあらゆるしかたで彼女がその子の慰めとなり支えとなってきたかを思い出させる。「坊や!」、と彼女は云い、その心はあふれ流れる。――「私はあなたを助けますよ!」 何と、その子は決してそれを疑わない。その子は云うであろう。「ええ、お母さん。私はあなたがそうなさると知っています。それを確信しています。そう告げられる必要はありません。私はあなたがそうなさるのが確かだと思っています。私にはあなたの愛の証拠がこれほどまでにあるのですから」。そして今、私たち、《救い主》を愛する者らは、自分の目を涙で濡らしながら、ただこう云うべきではないだろうか? 「おゝ、ほむべき《贖い主》よ! あなたは、私たちを助けるとお告げになる必要はありません。私たちはあなたがそうなさると知っているからです。おゝ、それをもう一度告げていただきたいと思うほど、私たちがあなたを疑っているなどとお考えにならないでください。私たちは、あなたが私たちを助けてくださると知っています。私たちはそれを確信しています。あなたの以前の愛、あなたの太古の愛、あなたの婚礼の時の愛、あなたのいつくしみ深い行ない、あなたの永遠の誠実、これらすべては宣言しています。あなたが決して私たちを捨てることはありえない、と」。しかり、しかり。「わたしはあなたを助け」。

 そして今、兄弟たち。私たちはここを降りて行き、霊的なしかたでキリストのからだを食べ、その血を飲もうとしている。そしてわたしが望むのは、私たちがその、《救い主》の象徴たる葡萄酒とパンにあずかる間、パンの一口一口が、また葡萄酒の一飲み一飲みが、《主人》の代わりにこう云うのを聞くように思えるようになることである。「わたしはあなたを助け、わたしはあなたを助け」、と。そして、そのとき、あなたや私は、霊を聖霊の力で奮い立たせ、私たちの武具をまとうことによって、サタンを恐れさせようではないか。明日は世に出て行き、《贖い主》の約束が御霊によって適用されるとき、主に何ができるか目にもの見せてやろうではないか。「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける」。さあ、今晩あなたのあらゆる恐れを表に引き出し、それらを、あなたにできる限りひどい目に遭わせてやろうではないか。それらをこの場で、絞首台に吊り下げるがいい。さあ、今、数々の約束の最大の大砲の的として吹き飛ばしてやるがいい。それらを永遠に滅ぼしてしまうがいい。それらは変節した反乱者たちである。それらを切り殺し、完全に滅ぼし、行ってこう歌おうではないか。「それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても」[詩46:2-3]。「わたしはあなたを助け」、と《贖い主》は仰せになる。

 おゝ、罪人よ。私はあなたを憐れむ。これが、あなたの約束ではないからである。たといこれが、キリストから離れているがゆえにあなたの失うすべてだったとしても、実に大きなものを失うこととなるであろう。願わくは神があなたを召してくださり、あなたがこの《贖い主》の血に信頼するのを助けてくださるように。アーメン。

  

 

あなたを贖う者[了]

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