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恐れるな

NO. 156

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1857年10月4日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。――主の御告げ。――あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」。――イザ41:14 


 私が今朝、語りかけたいと思っているのは、キリスト者生活において失意と、落胆と、非常な悩みを感じている人々である。人生の中には、この上もなく激しい暗黒を伴う夜がある。そうした夜をくぐり抜けつつある霊は、大きな痛みと悲惨さの中で手探りせざるをえず、そうする間には、みことばの大きな慰めがことのほか必要となる。こうした時期が生ずるのは次のような次第である。それはしばしば、信仰生活の発端において起こる。ある青年が、伝道活動の下で深い感銘を受け、罪の重みを感じるように導かれたとする。彼は自分が、福音において宣べ伝えられているキリストのうちに救いを見いだすよう導かれたものと思う。その若い熱情によって彼は、自らを全くキリストにささげる。非常に厳粛な誓いを立てては、身も、魂も、時間も、才質も、自分の持てるすべてを、神に仕えるという大きなわざに奉献する。彼は、自分の誓いを果たすのは簡単だと思う。彼は費用を計算しない。浮かれ騒ぐ仲間たちを捨て去り、こびりついた積年の習慣を放棄し、簡単にキリスト者になれるだろうとみなす。悲しいかな! 何日も経たないうちに、彼は自分の間違いに気づく。たとい彼がただ何となく結論を下したわけでなかったとしても、確かに心を込めて結論したわけではなかったに違いない。というのも彼は、悪い不信仰の心[ヘブ3:12]から欺かれていて、その戦いがいかに熾烈なものとなるか、またいかに自分の内側にある古い悪の性質と、新しく生まれた恵みの原理との格闘が死に物狂いのものとなるかについて分かっていなかったからである。彼は、自分の愛好する、昔ながらの癖を放棄することが右腕を切り落とすようなものであることに気がつく。自分が以前に追求していたものを放棄するのは、右目をえぐり出すのと同じくらい痛ましいものであることを悟る。そこで彼は腰を下ろして云う。「もし、出だしでこれほど苦難があるとしたら、先へ進んだ後はどうなるだろうか。おゝ、わが魂よ。お前は、あまりにも性急に自分を神にささげてしまった。お前は、自分の武勇では決して成し遂げられないような戦いを引き受けてしまった。お前は、自分の力に余るような旅に乗り出してしまった。ならば、この世に舞い戻ることにしようではないか」。そして、たとい御霊が、「否。そのようなことをしてはならない」、と仰せになっても、このあわれな魂は、深い惨めさの中に座り込んで、こう叫ぶ。「私には後に戻ることも、前に進むこともできない。どうすれば良いのだろうか? 私は途中で我慢が到底できなくなっている」。同じ感情は、しばしば、最も勇敢なキリスト者の古強者をも圧倒する。長い間、天来のいのちに関わる事がらを経験してきた人も、時として暗い夜と荒れ狂う嵐に襲われる。その夜の暗さは、自分の右手と左手の区別も分からぬほどであり、その嵐の恐ろしさは自分の《主人》の、「恐れるな。わたしがあなたとともにいる」[イザ43:5]、という甘やかなことばも聞こえないほどである。周期的に竜巻と暴風がキリスト者の上に押し寄せる。その人は、肉体的な試練と同じくらい多くの試練を、自分の霊において受けるのである。私には、これだけは分かる。たといあなたがたの中のすべての人々にとってそうではないとしても、これは私にとって真実なことである。私はきょう、自分に向かって語らなくてはならない。そして、苦悩する、意気消沈した人々を励まそうと努める中において、自分に対しても説教したいと思う。なぜなら私は、自分の心を元気づけるものを必要としているからである。――いかなる理由や原因からかは分からないが、私の肉体には1つのとげ[IIコリ12:7]がある。それは私を打つためのサタンの使いにほかならない。私の魂は、私の内側でうなだれ、私は、生きるくらいなら、死んだ方がましであるかのように感じる。神が私によってなされたすべてのことは忘れられているように思われ、私の霊はしおれ、私の勇気は、これから起こることを考えて衰える。私には、あなたの祈りが必要である。神の聖霊が必要である。そして私がきょう自分に唯一できると感じた説教は、主イエス・キリストの良きわざと労苦に励んでいるあなたがたを励まし、また私自身を励ますような説教のほかになかったのである。

 若きキリスト者にとって、あるいは、霊の低調と精神の苦悩に攻撃されている老いたキリスト者にとって、何と尊い約束であろう! 「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。――主の御告げ。――あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」。キリスト者たる兄弟たち。この会衆の中のある人々は――それも多くの人々であると期待したいが――、主イエス・キリストの御国と奉仕のため、厳粛に自分自身をささげているはずである。ならば、そうした人々は聞くがいい。その奉仕のための備えが、本日の聖句の中で述べられているのである。第一に、私たちがキリストのために何か大きな事がらを行なえるようになる前には、弱さを自覚することがなくてはならない。「虫けらのヤコブ」。第二に、約束された力を信ずる信頼がなくてはならない。そして第三に、その約束によって恐れが取り除かれなくてはならない。「恐れるな。わたしはあなたを助ける」。

 第一のこことして、神に仕えて、何らかの成功をおさめるため、また、神のみわざにおいてすぐれた者、勝利する者となるための第一の資格は、《私たち自身の弱さの自覚》である。神の戦士が戦いに進軍するとき、羽毛飾りの兜をかぶり、腰のまわりにかたびらをつけ、自分自身の威光において強大な者であるとき、――また彼が、「私は自分が征服者となることを知っている。私自身の右腕と、私の強大な剣とが、私に勝利をもたらすのだ」、と云うとき、――敗北は遠からずして訪れる。神は、自分自身の強さに頼って出て行く者とともに行こうとはなさらない。自分自身の力を最初に計算した上で勝利を当て込む人は、間違った見通しを立てている。というのも、「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる」[ゼカ4:6]からである。自分にはできると誇りながら戦いに出て行く者たちは、その旗がちりの中を引きずられ、自分たちの武具を敗北で汚されながら戻って来るであろう。というのも、神は、自分自身の強さによって出て行く者とともに出て行くことをなさらないからである。神は云われた。人々は神に仕えなくてはならない。神ご自身のしかたで仕えなくてはならない。また、神ご自身の力で仕えなくてはならない。さもなければ、神は決して彼らの奉仕を受け入れない、と。天来の力によって助けられずに人が行なうことを神は決して受け入れることができない。神が唯一お受け取りになるのは、天から蒔かれ、心の中に散らされ、恵みの太陽によって取り入れられたものの実である。弱さが自覚されていて初めて、何らかの勝利がありえる。

 私は、多くの人々がきょうこう云っていると思う。「よろしい。先生。もしそれが多くをなすための資格であるとしたら、私にはそれが非常に大いにあります」。よろしい。驚いてはならない。不思議がってはならない。嘘ではない。神は、あなたが持っているすべてのものを空にした上で初めて、ご自分のものをあなたにつぎ込まれるであろう。神は、まずあなたの穀物倉を空っぽにした上で初めて、最上の麦でそれらをお満たしになるのである。神の川には水が満ちているが、その中の一滴たりとも、地上の泉からわき上がっているものはない。神がご自分の戦いにおいてお用いになる力は、ことごとく神ご自身が分かち与えなさる力である。そして私は、いま悩みのうちにあるあなたが、それによって、これっぽっちも落胆しないでほしいと思う。あなたのむなしさは、あなたが満たされるための備えにすぎず、あなたが下に引き降ろされているのは、あなたが高く引き上げられる用意をさせるためなのである。

 あなたがたの中には、神に仕えるための備えとあらば、いかに引き下ろされることをも、ほとんど切望しているような人々がいるだろうか? ならば私は、いかにしてあなたが自分のうちに、自分自身が無であるとの意識を深められるか告げてみよう。この聖句は私たちを虫けらとして語りかけている。さて、単なる合理主義者は――人間性の尊厳を誇りとしている人は――決して、このような称号の下に自分の名前を署名しないであろう。「虫けらだと」、と彼は云うであろう。「私は決して虫けらではない。私は人間だ。人間は、神がお造りになったものの中で最も栄光に富んでいるのだ。私は虫けらなどと呼ばれるつもりはない。私は人間だ。――私には何だってできる。私はあなたの啓示など欲しくない。そうしたものは、子どもには向いているかもしれない。信じることで学ぶしかない、子どもじみた精神の人々にはうってつけかもしれない。だが私は人間だ。私は真理を考え抜くことができる。私は私自身の聖書を作るであろう。私自身の梯子を形作り、もし天国があるなら、それに登って天国に行き着こう。あるいは、他にどうしようもなければ、自分で天国を作り出し、そこに住むことにしよう」。しかしながら、そうではない。賢く、悟りのある者は、自分が虫けらであることを知っており、それをこのようにして知っているものである。

 最初に、その人はそれを黙想によって知る。ものを考える人は常に、自分を小さな者と思うものである。脳のない人々は常に大物である。だが、ものを考える人々は、考えることで自分の高慢を引き下ろすに違いない。――少なくとも、そうした人々の考えに、神が伴っておられればそうである。今あなたの目を上げて、神の指のわざである天を見るがいい。その日ごとの行進を導かれている太陽を眺めるがいい。真夜中に外に出て、天を眺めるがいい。星々と月を思うがいい。こうした神の御手のわざを思うがいい。もしあなたがたに分別があるとしたら、天体の高貴な音楽に、魂の調子を合わされて、あなたがたはこう云うであろう。「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」[詩8:4]。私の神よ! 天界の果てしない原野を眺め渡すとき、また、こうした重々しい球体がそこを回転しているのを見るとき、――また、あなたの御領地がいかに広大であるかを考察するとき、――それは、御使いがその翼を永遠に羽ばたかせようと、決してその果てまで達さないほどです――、私は、あなたが、人のように目立たない昆虫に目をとめられることに驚嘆します、と。私は顕微鏡のところに行って、木の葉の上の蜻蛉を見たときには、それをちっぽけだと呼んだ。だが、二度とそうは呼ぶまい。私にくらべて、それは偉大である。私が自分を神と比較してみるとしたら、そうである。私はあまりにも小さい。エホバの《全能性》を眺めるとき、私は無へと縮んでいく。――その小ささのあまり、極微動物と人との差など、神と人との無限の隔たりと比べれば、無へと減ってしまう。《神格》の偉大な諸教理について、広く思いを巡らすがいい。世界の基の置かれる前からおられた神の存在について考察するがいい。今おられ、昔おられ、やがて来たるべき《お方》、《全能者》を眺めるがいい。あなたの魂にできる限りこの《無限者》について把握し、可能な限りこの《永遠者》をつかむがいい。そうすれば、あなたに精神というものが少しでもあるなら、確実にそれは畏怖とともに縮こまるに違いない。丈高い御使いのかしらは、自らの《造り主》の御座の前で額づいている。私たちも、万物から称賛されるべき私たちの《創造主》とくらべて、自分がいかに卑しく無であるか、いかに取るに足らないしみのようなものであるかを感ずるとき、最低のちりの中にはいつくばるであろう。おゝ、魂よ。努めて自らが無であることを知り、それを神の偉大さについて黙想することによって学ぶがいい。

 さらに、もしあなたが自分自身の無であることを知りたければ、苦しみの中にあるときの自分が、いかなる者であるかを考察するがいい。私は先日の晩に、こう考えていた。神にとって、だれかを言葉に尽くせないほど大きな苦悶の中に投げ込むことは、いかに小さなことであろうか、と。私たちは健康であり、上機嫌にしている。なぜかは知らない。だが、あたかも神の指が一本の神経に――ほんの一本の、あわれな神経に――障ったかのように、突如私たちは非常にみじめになり、座り込んで泣き出してしまうほどとなる。私たちは、自分をどうして良いか分からない。しかし、半時間前の私たちは、「サタンの激昂に微笑み、世の渋面に立ち向かう」ことができていたのである。だのに神が御手を私たちの心の上に置き、その弦の一本をゆるめただけで、私たちの霊には何という不協和音が起こることであろう。私たちは、ごく些細な事がらによってさえ苛立たされ、二度と誰とも会いたくなくなる。種々の約束でさえ何の慰めももたらさない。私たちの昼間は夜となり、私たちの夜はゲヘナのように暗黒となる。私たちは、自分をどう耐え忍べば良いか分からない。ならば、いかに容易に神は私たちを惨めさの中に投げ込めることであろう! おゝ、人よ。これほど小さなものでひっくり返されてしまうとは、あなたは何と小さな者であることか。あなたがたは、人々が順境にあるとき大言壮語するのを聞いてきた。では彼らが深い苦悩の中にあり、大きな苦悶と悲しみの中にあるとき、同じように語るのを聞いたことがあるだろうか? 否。そうしたときの彼らはこう云う。「私は海でしょうか、海の巨獣でしょうか、あなたが私の上に見張りを置かれるとは。私は何者なのでしょう。あなたが朝ごとにこれを訪れ、夜ごとにこれを懲らしめるとは。つばをのみこむ間は、私を捨てておいてください[ヨブ7:12、17-19]。なぜ私は恐れおののいているのでしょう。私が何者だからというので、あなたは私をあなたの矢の的となさるのですか? あなたの御怒りの目当てとなさるのですか? 私を見つめないでください。おゝ、私の神よ。私はむなしい者だからです。私は過ぎ去っては衰える影にすぎません。おゝ、あなたのしもべにつらく当たらないでください。あなたのあわれみのゆえに」。大きな悲しみは、神がそれを祝福なさるときには常に、人をして自分のことを小さく考えさせるものである。

 さらに、もしあなたが自身の弱さを知りたければ、キリストのために何か大きな労苦をしてみようとするがいい。かりに、ある教役者が、安息日には百五十人ほどの信徒に向かって説教し、自分には大きな会衆がいると思っているとしよう。そうした人が、自分の首巻の色に非常に気を遣ったり、その小さな教会内における自分の威厳に対していかなる敬意が払われるかについて神経質になるとしても、無理はないと思う。そうした人が、自分は大主教閣下と同じくらい大物だと感じている気分はよく分かる。――なぜなら、そうした人々には何もないからである。自分を試すものが何もないからである。だが私は、ヴォルムスの帝国議会の前に立っていたルターが、自分はこのようなことができるのだと高ぶっていたとは想像できない。私は、ジャン・カルヴァンが、キリストのためのその不断の労苦において、また、宗教改革を指導し、神の真理を力強く教えている際に、自分に向かって、「見よ。この大バビロンは私が建てたものではないか」*[ダニ4:30]、と云っていたとは、考えられない。手持ちの務めが何もなく、ただぶらぶらと過ごしている人が、嘆賞おくあたわざる自分の自我について敬虔な満足感をいだいていることは想像もつくが、あなたが勇気を出して大変な労苦をする場合には、私はあなたがこう云わざるをえなくなるとしか考えられない。「主よ。あなたが、このような務めにお召しになった私は、何という虫けらでしょう!」 良ければ、神のために大きなわざを行なってきた、あらゆる人々の生涯に目を向けてみるがいい。あなたは彼らがこう云っていることに気づくであろう。「神が私をこのようにお用いになられるとは、何と驚くべきことか!」 「きょう、私の思いはこの上もなく打ちひしがれている」、と彼らの中のひとりは云っている。「というのも、神は私をある大きな労に召されたが、きょうほど自分の足りなさをひどく感じたことは一度もなかったからだ」。別の者は云っている。「私は明日、これこれの卓越した奉仕を私の《主人》のために行なわなくてはならない。そして私にはこう云える。私が低い状態にあったとき、私はしばしば、途方もなく高く引き上げられた。だが、この日、私の神は私を最低の深みに投げ込んでおられる。神が私に携わらせてくださったみわざを思い返すことによって」。では、あなたがたの中の一部の方々。行って何事かを行なうがいい。そのとき私は、こう云わざるをえなくなるであろう。それは、あなたの高慢という美しい泡ぶくを針で突き刺し、そのいくつかを破裂させる手段となるであろう、と。もしあなたが、虫けらであるとはいかなる意味であるかを理解したければ、行って、15節で虫けらがするはずだと云われていることを行なってみるがいい。――行って、山々を踏みつけて粉々に砕き、丘をもみがらのようにし、風で運び去らせ、まき散らすがいい。そしてそれから神にあって喜ぶがいい。そして、もしあなたにそうすることができるとしたら、

    御栄え 汝が目を 打たば打つほど
    よりへりくだりつつ 汝れは伏さん。

 敬虔な黙想、鋭い苦しみ、厳しい労苦――こうしたすべては、私たちに、自分がいかに小さな生き物であるかを教えるであろう。おゝ! 願わくは神が、あらゆる手段、あらゆる手立てによって私たちを保ち、自分が虫けら以上の何者でもなく、虫けらに何らまさらない者であることをよく理解させ、知らせてくださるように!

 私の兄弟たち。あなたや私は、何とたやすく有頂天になることか! 身を低くしておくことの何と難しいことか! 高慢という悪鬼は私たちとともに生まれ、私たちより一時間たりとも早く先立たない。それは私たちの性質の縦糸と横糸に織り込まれているため、私たちが埋葬布でくるまれるそのときまで、決して追い払うことはできない。もしだれかが私に、自分は謙遜です、と告げるとしたら、私はそうした人々が大いに高慢であるとわかる。そして、もしだれかがこの真理を――自分が絶望的なまでに自己の高揚に傾きがちであることを――認めようとしなければ、そうした人々は、この真理を否定することこそ、その最上の証拠だと知るがいい。あなたは、この世で最も甘美なへつらいが何であるか知っているだろうか? それは、古のカエサルのご機嫌取りが彼に告げたへつらいである。彼らが、カエサルはへつらいを憎む、と告げたときこそ、彼は最も大きくへつらわれていたのである。私たちは、ひとり残らず、へつらいを憎まない。私たちはみなへつらいを好む。それが「へつらい」という名札を貼られていれば別だが、それが、少し控えめなしかたで与えられると、それを喜ぶ。私たちはみなほめられることを愛する。

   「高ぶる者は 称賛(よきな)得んため 辛苦を忍び
    慎む者は 称賛(よきな)を避けて そを確保(かた)くせんとす」。

私たちはみな称賛を愛する。誰しもそうである。それで、私たち全員にとって正しく、かつふさわしいことは、神の前で額づき、自分の性質に織り込まれている高慢を認め、神に向かってこう願い求めることである。どうか私に、いかに自分が小さなものであるかを教えてください、どうか自分がこの約束――「恐れるな。虫けらのヤコブ」――を申し立てられるようにしてください、と。

 II. さて次の点である。私たち自身をキリストにささげる前に、あるいは、《救い主》のために何か大きな労苦を行なう前に必要なことがある。《約束された力を信ずる信頼があるべきである》。「わたしはあなたを助ける。――主の御告げ。――あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」。これは確かな事実だが、人々は虫けらではあっても、虫けらには決して行なえないはずのことを行なっている。人々は、無でしかなくとも、この《無限者》の力に匹敵するほどの行ないを成し遂げている。このことの説明は、いかにしてつくだろうか? 確かに、それは虫けらではない。それは、彼らに大能を与えている、何らかの隠れた精力に違いない。この謎は、この聖句の中で解き明かされている。「わたしはあなたを助ける。――主の御告げ」。古代史の中で、ある話が告げられている。ひとりの勇敢な名将がいた。その旗じるしは常に戦いの先頭にあり、その剣は敵たちの恐怖の的であった。というのも、それは殺戮と勝利の先駆けだったからである。あるとき彼の君主が、この強力な剣をよく調べてみたいので送ってくれないか、と彼に要請した。この君主は剣を取り上げ、じっくりと吟味した上で、こう云って送り返した。――「余は、この剣に何も素晴らしいものを見てとらなんだ。人がなぜこれを恐れるのか、余には理解できぬ」。この名将は、この上もなく恭謙なしかたで、次のような使信を送り返した。「陛下にあらせられましては、この剣を調べてみたいとのご所望でしたが、私は、その剣を振るう腕を送りはしませんでした。もし、その腕を、またその腕を導く心とをお調べになりましたら、その謎を理解していたであろうと存じます」。さて今、私たちは、人々を眺め、人々がなしてきたことを見てとるときに云うであろう。「私にはこれが理解できない。いかにして、こんなことがありえたのだろう?」 何と、私たちはただ剣を見ているにすぎないのである。もし私たちが、その人を導き、先へと進ませた無限の愛の心を見ることができたとしたら、その人が神の剣として勝利を得たことは何の不思議でもなくなるはずである。キリスト者なら思い出してよいことことだが、その人は小さな者ではあっても、神がともにおられるのである。神が助けてくださる、しかも、素早く助けてくださるのである。兄弟たち。私はこういう人を好んでいる。何かを始めようとするときには、自分自身のことを恐れて、「こんなものは何の役にも立たない。私にはこれができない」、と云う人である。その人にはまかせておける。その人はそれを行なうはずである。そこに何の問題もない。「おゝ、大したことはない。私にはそれができる」、と云うような人は、確実きわまりなく挫折するであろう。しかし、人はまずこう云うことから始めるがいい。「私は自分が何をしようとしているか分かっている。そして私は、確かに自分にはこれができないと感じている。きょう私が感じているものを越えた何かが与えられない限りは」。その人は、翩翻とひるがえる旗じるしとともに、数々の喇叭によって勝利者と宣言されて戻ってくるであろう。しかしそれは、約束された助けにその人が信頼を置いているからに違いない。さて、キリスト者よ。私はあなたが今朝、今にも戦闘から逃げ出そうとしているのが見える。先週のあなたは、様々な逆境の中にあって意気消沈しきってしまい、自分のキリスト教信仰を放棄せんばかりになっている。さて、人よ。ここに、ひとりの志を同じくする兄弟がいるのである。彼は全く同じような状況をくぐり抜けつつある。今朝ここにやって来たときの彼は、古のヨナがそうしたように、タルシシュに逃げだそうという気分に半ばなりかかっていた。舟を見つけられさえすれば、とっくに出帆してしまっていたであろう。だが彼は、この場所にやって来て、あなたの肩を軽く叩き、こう云っているのである。「兄弟。やはり脱走兵にはならないようにしようではないか。武器を手に取り、私たちの《主人》のために戦い続けようではないか。約束では、『わたしはあなたを助ける』、と云われているのだから」。兄弟よ。これは、何とすべてを満ち足らわす約束であろう。――「わたしはあなたを助ける」。何と、神が私たちにいかなる責務をお与えになろうと問題はない。もし神が私たちにそれを行なわせてくださるとしたら――神が私を助けてくださるとしたら――、私は世界を真っ二つに割り、それを脱穀場のちりよりも細かく砕くであろう。左様。そして、もし神が私とともにおられるとしたら、この息は、子どもが泡をふくらませるように、全世界を吹きまくることであろう。神が人とともにおられるとき、その人に何ができるかなどと云う必要はない。神がある人のものであれば、その人には何事もできるのである。神がある人の腕にかかえられていさえすれば、その人はろばの顎骨しか戦う武器がなくとも、ペリシテ人の死体を山と積むであろう[士15:16]。神がある人の手に握られていれば、その人は巨人を相手にして、石投げ器と石しかなくとも、すぐに巨人のみけんに石をめり込ませるであろう。神がある人の目に宿っていれば、その人は王や君主たちにも公然と逆らうであろう。神がある人の唇に宿っているとしたら、その人は、たとい報いとして死を得ることになっていても、まるで歯に衣着せない口をきくであろう。神とともにある人に恐ろしいものはない。その人はすべてに満ち足りている。その人の力を越えたものはない。そして、私の兄弟たち。神は何と時宜を得た助けであろう! 神の助けは常に正しい折にやって来る。私たちは、助けられる必要もないときに、神が私たちを助けてくださらないからといって、しばしば大騒ぎする。「おゝ!」、とある人は云う。「私は、自分がキリストのために死ねるとは思えません。自分には、そうできないだろうと感じます。私に、死ねるだけの力があると感じられたならどんなに良いことでしょう」。よろしい。あなたは、単にそれを感じる必要がないのである。なぜなら、あなたはいま死ぬわけではなく、神は死の時がやって来るまで、死ぬための力をあなたに与えて蓄えさせておくことはなさらないからである。あなたがたが死にかけるときまで待つがいい。そうすれば、神はあなたに死ぬための力をお与えになるであろう。「おゝ!」、と別の人は云うであろう。「私が誰それさんのように祈りにおいて力強く感じられたなら、どんなに良いことでしょう」。しかし、あなたは祈りにそれほどの力強さを必要としていないのであり、あなたがそれを有することはないであろう。あなたは、あなたに必要なものを、必要なときに得るであろう。しかし、それ以前には得ないであろう。あゝ、私がしばしば神に向かって叫び、願い求めたのは、説教を始める前に気分が悪くならないことであった。――人々に向かって説教できると感じられるようになることであった。私は一度もそうした感じを得られた試しがない。だがしかし、時として神は、私が語って行くにつれて、私を励ましてくださった。そして私に、その日を十分に乗り切るに足るだけの力を与えてくださった。あなたの場合もそれと同じであるに違いない。神は、あなたが神を必要とするときにやって来てくださる。――それより一分でも早くも遅くもない。「わたしはあなたを助ける」。私は、あなたが助けを必要とするときに、あなたを助ける! そして、おゝ! 兄弟たち。神から助けられるとは、何と事を高貴なものとすることであろう! 同胞の人から助けられるのは、 決して不名誉ではなく名誉である。だが、神によって助けられること、それは何という誉れであろう! キリスト者の預言者がその《主人》のことばを宣べ伝えるとき、また、自分の腰回りに《全能者》の帯を締め、それが自分の日の働きのために自分を強めているのだと感じるとき、また、人々を恐れなくともよいのだと感じるとき、そのときのその人は、何と高貴な存在であろう! キリスト者の博愛家が、病や死の染み込んだ監獄に行き、神が御使いの翼を自分の上に置いて、疫病の日にも自分を覆っておられるのだと感じるとき、神を自分の傍らに有することは何とその人に気高さと誉れを与えることであろう! 神の力で腰を締められ、腕を強められるのは、人が到達しうる最高のことにほかならない。私は、ほんの昨日こう感じたばかりである。「おゝ、もし私が智天使だったなら、私は張り伸ばした翼によって立ち、神に仕える機会を与えられたことで、神をほめたたえるものを」。だが、私は自分でこう思った。「私には神に仕える機会がある。だが、そうするには私はあまりにも弱すぎる。おゝ、私の神よ。あなたが私に、この荷を負わせなさらなかったならば良かったものを」。そのとき、この考えに私は打たれた。「智天使や熾天使は、そのようなことを云ったことが一度でもあっただろうか? 彼らは一瞬でも、『私にはそれを行なうだけの強さがない!』、などと云うだろうか?」 否。もしも、ある智天使が自分の力を越えた務めを得ているとしたら、彼は柔和に頭を垂れて、云うであろう。「わが主よ。私は飛びます。飛びます! なすべきことをお命じになるお方は、私にそれを行なわせてくださいます」。では、キリスト者も同じように云わなくてはならない。「わが神よ。あなたはそれをお命じになるのですか? それで十分です。それはなされます。あなたは決して私たちが自腹を切って戦いに送り出されるようになさったことがありません。そして、今後も決してそのようなことをなさらないでしょう。あなたは私たちを助けてくださいますし、最後まで私たちとともにいてくださるでしょう」。

 ならば、私たちは、大きなことを行なえるようになる前に、私たち自身の弱さを知り、神の強さを信じなくてはならない

 III. さてここで最後の点に移ることにする。それは手短に語ろう。それから私たちは、《できる限り、恐れを取り除くよう努めなくてはならない》。預言者は云う。「恐れるな」。あなたは虫けらであるが、恐れるな。神があなたを助けるであろう。なぜ恐れなくてはならないのか? 自分が私たちの《主人》に仕えているのだと確信しているときには、努めて恐れを取り除こうではないか。そして、そうすべき次のような理由を認めようではないか。

 恐れを取り除かなくてはならないのは、恐れは痛みを伴うからである。それが何と霊を責め苛むことか! キリストは、信頼しているときには幸福である。疑いをいだくとき、みじめになる。信仰者が自分の《主人》に目を向け、頼りにするとき、その人は歌うことができる。自分の《主人》を疑うとき、その人には呻くことしかできない。いかに忠実なキリスト者といえども、ひとたび疑い出し、恐れだすや、何とみじめで哀れな者となり果ててしまうことか! それは私が決して首を突っ込みたくない商売である。なぜなら、それは決して経費の元を取れず、何の利益ももたらさないからである。――それが疑いという商売である。何と、魂は砕け散り、槍で突かれ、短刀で刺され、分解させられ、絞り上げられ、痛めつけられる。恐れに屈するとき、魂はいかにして存在すべきか分からなくなる。立てよ、キリスト者よ! あなたは悲しみに満ちた顔つきをしている。立てよ、そして、あなたの恐れを追い払うがいい。なぜあなたは永遠に自分の地下牢の中で呻いていようとするのか? なぜ巨人絶望者が永遠にあなたをその野生りんご樹の棍棒で打ち叩いていなくてはならないのか? 立てよ! 奴を撃退せよ! 約束の鍵に触れよ。元気を出すがいい! 恐れがあなたの助けとなったことは一度もないし、今後も決して助けにはならないであろう。

 また、恐れは人を弱らせる。いったん人が恐れをいだくと、――その人は自分の影にも怯えるようになるであろう。だが人が勇敢になると、軍隊の前にも立ちはだかり、それに打ち勝つものである。他人を恐れる人は、決して世の中で多くの善を施すことがないであろう。神を恐れれば祝福がもたらされるが、人々を恐れると罠にかかる[箴29:25]。そして、多くの人がそうした罠に足を取られてきた。いかなる人も、神に対して忠実であるというのであれば、人を恐れることがあってはならない。いかなる人であれ、自分の腕を十分に役に立つものとし、自分の力を急場にもくじけないものとするには、自信をもって信じること、静かに待つことができなくてはならない。私たちは恐れてはならない。恐れは人を弱くするからである。

 さらに、私たちが恐れてはならないのは、恐れが神に不名誉をもたらすからである。《永遠者》を疑う? 《全能者》に不信感をいだく? おゝ、何と反逆的な恐れよ! あなたは、諸天を積み上げ、地の柱を支える御腕が麻痺することなどあると思うのだろうか? 永遠にわたる時代が巡り来ようと、全く傷つけられることのなかった額が、最後には老年による皺を深々と刻まれることになるだろうか? 何と! 《永遠者》があなたを失望させることなどあるだろうか? 真実な《約束者》がご自分の誓いを破ることなどあるだろうか? おゝ、不信仰よ。お前は神に不名誉をもたらしている! 立ち去れ! 神は過ちを犯すには賢くありすぎ、不親切になるにはいつくしみ深すぎるお方である。神を疑うことから離れて、神に信頼し始めるがいい。というのも、そうすることによって、あなたは神のかしらに冠を置くが、神を疑うことによって、その冠を足で踏みにじるからである。

 そして最後に、おゝ、キリスト者よ。主を疑ってはならないのは、そうすることによって、あなたは自分自身を低めてしまうからである。あなたは、信じれば信じるほど偉大な者となるが、疑えば疑うほど小さな者となる。世界の征服者についてこう云われた。彼が病になったとき、彼は子どものようにしくしくと泣いた。「何か飲む物をくれ」、と、ひとりが病気の少女のように泣いた。それは、彼の不名誉と云われた。では、自分の神にひそかに頼って生き、神にだけ信頼していると公言しているキリスト者が、神を信頼できないということ、小さな子どもがその信仰を打ち負かすというのは。不名誉なことではないだろうか? おゝ、あわれな底浅舟よ、雨垂れ一滴でも転覆してしまうとは! おゝ、あわれな、ちっぽけなキリスト者よ。道端のわらしべ一本一本に打ち負かされ、石ころ一個一個につまづくとは! ならば、キリスト者たる人たち。男らしくふるまうがいい! 疑うのは子どもじみたことである。信頼することこそ一人前の大人の栄光である。あなたの足を、微動だにしない《千歳の岩》に踏まえるがいい。あなたの目を天に上げるがいい。世を軽蔑するがいい。決して臆病者になってはならない。あなたの握り拳をこの世の顔に叩き込み、世と地獄に公然と反抗するがいい。そうするとき、あなたは男となり、気高い者となる。しかし、縮こまり、すくみあがり、恐れおののき、疑うとき、あなたは自分のキリスト者たる尊厳を失っており、もはや自分のあるべき姿から外れているのである。あなたは神に誉れを帰していない。「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。――《主の》御告げ」。ならば、なぜ恐れることがあろうか?

 私の声は嗄れてきつつあるように感ずる。それとともに、ものを考える力もなくなりつつある。それゆえ、私はただ、キリストにあって勇敢に戦っている戦友たちに目を向けて、彼らにこう云うことしかできない。兄弟たち。あなたや私は、自分からは何もできない。私たちは、あわれで、ちっぽけなしろものである。だが、大きな事がらを試みようではないか。というのも、神が私たちとともにおられるからである。大きな事がらをあえて行なおう。神は私たちをお捨てにならない。神が以前に何をなさったかを思い出すがいい。そして、神は古に行なわれたことを、再び行なわれるであろうことを思い出すがいい。《羊飼いの少年》ダビデを思い出すがいい。シャムガルと彼の牛の突き棒のことをよくよく考えるがいい[士3:31]。あのろばの顎骨のこと、石投げ器から放たれた石のことを忘れてはならない。もしこれらが不思議を行なったとしたら、なぜ私たちがそうできないだろうか? もし小さな事がらが大きな事がらを行なってきたとしたら、私たちも大きな事がらを行なおうとしようではないか。あなたがた、微塵のような人たち。あなたの運命が崇高なものとならないか、なぜ分かろうか。信仰によって試み、そうなるようにするがいい。そのとき、あなたがたの中の最も小さな人も、神の力によって勇士となれるであろう。おゝ、神を信頼する恵みさえあれば、あなたがたに何ができるかだれにも分からない。虫けらよ。お前たちは無であるが、お前たちは君主たちを食らってきた。虫けらよ。お前たちは無であるが、杉の木の根をむしばんできた。虫けらよ。お前たちは無であるが、海の深みの深淵に岩礁を作り上げ、強大な艦隊を難破させてきた。虫けらよ。お前たちは、大海原を航海してきた船の中でも最も堂々たる船の竜骨を食い荒らしてきた。もしお前たちがそのようなことが自力で行なえたとしたら、私たちにできないことがあろうか? お前たちの力は、お前たちの口にあるが、私たちの力も、私たちの口にあるのだ。私たちは自分の口を用いて祈り、また絶えず賛美するであろう。そして私たちは、これから勝利者となるであろう。というのも、神は私たちとともにおられ、勝利は確実だからである。

    おののける魂(たま)! 捨てよ、恐れを。
    ただあわれみを 汝が主題(ふし)とせよ。
    あわれみぞ 川に似て
    1つの尽きざる 流れに湧かん。

    恐るな、この世と 地獄(よみ)の力を、
    神はその力を 抑え給わば。
    強き御腕は 憤りを撃退(はじ)き
    彼(か)の努力をば 無に帰さん。

    恐るな、物質(もの)の 足らざるを。
    主は御民(たみ)満たし
    与え給いぬ、その糧(かて)を、
    彼らの要する その他のものを。

    恐るな、神は 御働き(みわざ)を捨てず
    半端(なかば)でみわざ 残すまじ
    御約束には 忠実(かた)くあり――
    御子にも神は 忠実くあらん。

    恐るな、墓の力をも、
    死の猛りたる とげすらも
    神は果てなき 怒りをふせぎ――
    果てなき栄光(さち)へと導かん。

  

 

恐れるな[了]

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