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青銅の蛇の奥義

NO. 153

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1857年9月27日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって滅びることなく、永遠のいのちを持つためです」。――ヨハ3:14-15 <英欽定訳>


 賢い人々が私たちに告げるところ、あらゆる言語の土台には比喩があるという。未開の人々の話し言葉は、主として種々の比喩から成っている。また、実際、最も文明開化した人々の言葉も、それを本来の根源まで削ぎ落とすと、一連の隠喩に基づいているのであり、それが精神によって知覚され、その後、言葉の中で用いられているのである。私にも、このことだけは分かる。子どもに話し方を教えようとする場合、私たちは、自分の知っている名前で物事を呼ぶことはせず、例えば、何かの動物の発する鳴き声を表わすような名で呼ぶのが常である。そうした、一種の比喩によって物事を表わした方が、子どもたちにはどういうわけか理解しやすいのである。しかし、確かに野蛮国の間では、話し言葉はほとんど全く隠喩の組み合わせから成っている。北米土人の戦士が酋長たちに話しかけ、彼らを戦いへと燃え立たせようとしている言葉を聞くがいい。彼は天地のあらゆる隠喩を結集しては熱弁を振るっている。そしてあなたは、同じことが北米土人の持つ名前についてすら当てはまることに気づくであろう。あなたがたの中の、彼らの命名法に精通した人々が思い出すであろうように、彼らの偉人たちには奇妙この上もな名前がつけられている。比喩と隠喩によって彼らの精神の特質が示されているのである。

 さて、愛する方々。霊的な言葉遣いにおいても、事情は天性の言葉遣いと異ならない。ニコデモは恵みにおいては子どもでしかなかった。イエス・キリストが彼に御国の事がらに関する話し方を教えようとされたとき、主は彼に抽象的な言葉で話すことをせず、隠喩的な言葉を語られた。その方が、事の本質を彼に理解させるには、単なる抽象的用語を示すよりもすぐれていた。主がニコデモにお語りになったとき、主は聖化については一言も云わずに、「人は、水……によって生まれなければ」、と云われた[ヨハ3:5]。心の大きな変化については一言も話さず、こう云われた。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」[ヨハ3:3]。初めのうちは御霊について多くを語ろうとはせず、「風はその思いのままに吹く」*、と云われた。そして、彼に信仰を教えたいと思ったとき主は、こう云って始めることはなさらなかった。「信仰によって私たちはキリストと縁を組み、私たちの生きたかしらからいのちを引き出すのである」。むしろ、こう云われた。――「モーセが荒野で蛇を上げたように」、と。このように、回心した人々と最初にキリスト教信仰について話をするときには、常に比喩によらなくてはならない。純粋に教訓的な教えであるパウロ書簡ではなく、むしろイエスのことばを罪人には最初にはあてがわなくてはならない。その人が聖霊によって光を受け、御国の奥義を理解できるようになるまでは、そうである。そして私の信ずるところ、私たちの《主人》がこの比喩を用いた理由、また、ニコデモに対して隠喩に次ぐ隠喩、比喩に次ぐ比喩でお語りになった理由はそこにあったと思う。あらゆる言葉の根本は、比喩の中にあるに違いないからである。

 さて、きょう私が、私の会衆の大多数に向かって語りかけようとしているのは、主イエスを信ずる信仰という単純な主題についてである。その信仰によって、人々は救われるのである。そして私は、教訓的、教理的なしかたで語りかける代わりに、本日の聖句の例えを採り上げ、努めて私たちの主の模範にならおうと思う。そして、恵みにおいて子どもでしかない人々に対して信仰を平易に説き明かそうと思う。

 それでは、愛する方々。まず最初に述べさせてほしいのは、この荒野にいた人々である。――これは罪人である人々を表わしている。次に述べさせてほしいのは、この青銅の蛇である。――これは十字架につけられたイエス・キリストの予型である。それから指摘したいのは、何がこの青銅の蛇になされたかである。――それは上げられるべきであった。そして、そのようにキリストも上げられるべきであった。さらにそれから注目したいのは、咬まれた人々が何をなすべきであったかである。――彼らはその蛇を仰ぎ見るべきであった。そして、そのように罪人もキリストを信じなくてはならない。

 I. 私たちの最初の比喩は、《罪の状態にある人々》を表わしており、その比喩は、あの荒野にいたイスラエル人たちから取られている。彼らが燃える蛇[民21:6]に襲われたときのことである。あなたは想像できるだろうか? 自分たちが飛びかける燃える蛇の襲撃を受けていることを初めて悟ったとき、あのイスラエル人たちの顔にいかなる恐怖と狼狽の色が浮かんだかを。彼らはアマレクとの戦いにおいては雄々しく立っていた。しかし、この蛇どもは剣を見て震えるようなしろものではなかった。モーセは、ヤシャルの書[IIサム1:18]に記されているように、彼らに弓を使うことを教えていた。だが、この蛇どもには矢が役に立たなかった。彼らは物憂さと渇きと飢えとを忍んできた。時として昼は太陽に打たれ、夜は寒さに悩まされることがあった。神が保ってくださらなければ、こうした荒野の辛苦に、彼らは全滅していたであろう。こうしたすべてを彼らは忍んできたし、それらには慣れていた。だが、この燃える蛇は新奇な経験であり、新奇な恐怖はみな、その新奇さ自体のために恐ろしいものとなる。あなたは想像できるだろうか? いかに彼らが、自分の目にしたこのすさまじい来訪者たちについて口々に云い交わし出したことか! また、あなたは想像できるだろうか? いかに彼らの恐怖が野火のように宿営全体に広まり、その噂が広がるより先に蛇たちが彼らをむさぼり食らいつつあったことか!

 そして今、愛する方々。もし私たちがみな、この世における自分の立場を見てとることができたとしたら、私たちはこの日、イスラエルが自分たちに襲いかかる蛇を見たとき感じたのと同じように感じるはずである。私たちの子どもたちがこの世に生まれたとき、私たちは彼らの中に罪があると信じている。だが、思い起こしても慄然とさせられることに、その子たちは、たといその誕生時に蛇に咬みつかれていなかったとしても、至る所で無数の悪に取り囲まれているのである! 息子をこの邪悪な世に送り出した父親が、わが子を取り巻くだろうあまたの邪悪を悟っていながら、恐怖を感じずにいられるだろうか? また、キリスト者たる人は、この不敬虔で肉欲的な世代のただ中を歩く際に、自分を信頼できるだろうか? 自分が種々の誘惑に取り囲まれていることを感じずにいられるだろうか? そうした誘惑は、もし彼がひとりきりで放置されたとしたら、いかに致命的な蛇の一千倍も彼にとって危険なものとなるのである。

 しかし、その光景は暗くなる。私たちは、それにさらに濃い影を塗らなくてはならない。このように咬まれた後の人々を見るがいい! あなたに描き出せるだろうか? この蛇の毒で血管を侵されたとき、彼らがいかに身もだえし、ひきつりを起こすことか。古い著述家たちが私たちに告げるところ、こうした蛇たちに咬まれると、激しい熱が生じ、体中に痛みが走り、あたかも血管伝いに焼きごてが送り込まれるかのようであったという。咬まれた者たちは非常な渇きを覚えた。際限もなく水を飲み、それでも内側の焼けつきを鎮めようと、泣いて水をほしがった。それは、水源で焚きつけられた猛火であり、人体のあらゆる神経、あらゆる腱越しに伝い走っては、人々を激痛で苛み、この上もなく恐ろしい痙攣とともに死なせていった。さて、私の兄弟たち。罪が、そのとりことした人々の上に、たちどころにこうした効果を生じさせると云うことはできない。だが、私たちは確言しよう。罪を放置しておけば、それは蛇に咬まれたために引き起こされうるいかなる悲惨よりもはるかに際立った悲惨に育っていくであろう。確かに、酩酊の毒杯を一気に飲み干す若者は、そこに蛇がいるとは知らない。というのも、そこには、底に沈んだ澱のほか、刺すようなものはないからである。なるほど自分の富を誇り、その高慢にまかせて華やかに着飾る婦人は、自分の腰帯に蛇が巻きついているとは知らない。というのも、そこには彼女が知っているような蛇はいないからである。だが、彼女の軽薄さが終わりを迎える日、彼女はそれを知ることになる。確かに神を呪う者は、自分が《造り主》に逆らって吐き出した毒を一匹の毒蛇が注入したことは知らない。だが、来たるべき日には、それを思い知ることになる。ひとりの傲慢な酔いどれを眺めるがいい。酩酊の長年月の後で、彼が自分のうちにある人がましさをすべて磨損してしまい、あわれで、ひ弱な生き物として自分の墓へよろめき進んでいる姿を見るがいい。彼の家の柱という柱は揺れ動き、彼の力は尽き果て、神がご自分のかたちとなるように望まれたものは、受肉した悲惨のかたちと成り下がっている! あの好色な放蕩者が、その短い快楽の日の閉じた後でどうなるか見るがいい!――否。それは、ここで描き出すには厭わしすぎる。私の唇は、わが国の病院が毎日のように目にしている種々の悲惨を描写することを拒んでいる。あのすさまじい厭わしさ、罪にふけっていた者たちを骨の髄までむしばむ呪わしい病。燃える蛇よ。お前たちなど、燃える情欲とくらべれば何ほどのこともない。お前たちは血液に毒を注入するが、情欲も同じことを、それをしのぐしかたで行なうからだ。情欲は魂に断罪を注入する! 罪がその働きを完璧に成し遂げたとき、また、その最後のまことしやかな概念が持ち出され、陰惨な犯罪と厭わしい不義へと育ちきったとき、――そのとき私たちの前にあるのは、蛇に咬まれたイスラエルすら決して繰り広げることがありえないような恐怖絵図であろう!

 そして、その影はさらに深まる。暗闇が垂れ込め、黒雲が濃密さを増す! この蛇によって死んだ者たちの死は、何とすさまじいものに違いなかったことか! ある種の死は、考えても甘やかなものである。かの卓越した説教者、自分の講壇上で死んだ故ボーモント博士の死は、私たちすべてがうらやむに足る死である。解き放たれたその霊は、神への賛美歌が天へと上っていく間に、そのからだを離れ、時を移さず神の御座へとかかげ上げられたのである。自分の《主人》に仕えきった人の死は、よく熟した麦束のように心にしみるものである。あるいは、その走路を走りきった太陽のように認められ、喜びとともに思い出されるものである。しかし、罪人の死は、――自分の種々の情欲に咬みつかれ、キリストを信ずる信仰によって救われなかった罪人の死は、――おゝ、何と恐ろしいことか! 定命の者のいかなる言葉をもってしても、神なく、キリストから離れて生きてきた人の死の床にいかなる恐怖があるかを描き出すことはできない。私は、この世に生を受けたあらゆる雄弁家に向かって云いたい。できるものなら自分の語彙の中から、神に敵対して生きてきた者、そして死の間際に良心が覚醒したまま死んだ者が世を去る光景の恐怖と戦慄を描き出せるような言葉を引き出して見るがいい、と。確かにある人々は罪の中で生き、その無思慮さを最後の一滴までも飲みきった上で死に、目隠しされたまま穴に沈んで行く。そこに、えぐるような恐怖はひとかけらもない。だが、それとは別の、良心が覚醒された人々は、そのようには死なない。おゝ、その悲鳴、叫喚、絶叫よ! おゝ、その苦悶に満ちて、ひきつった、悲惨な顔よ。あなたは一度も聞いたことがないだろうか? いかに人々が拳を握りしめては、自分は絶対に死なないと断言することか。また、いかにがばと身を起こしては、こう宣言することか。――「私は死ねない。死ぬわけにはいかない。まだ準備ができていないのだ!」 彼らは燃える深淵から身を引き離し、医者にすがりつく。そして、できるものなら自分のいのちの糸を伸ばしてほしいと願う! 左様。多くの看護婦は、あのような人はもう二度と看護したくありませんと断言するであろう。その恐怖は、死ぬまで彼女とともにあるだろうからである。

 さて、話をお聞きの愛する方々。あなたは今は死にかけていない。だが、じきに死を間近にするであろう。あなたがたの中の誰ひとりとして、自分のいのちの賃借権を持っている人はいない。あなたの寿命を一時間でも長目に確保すること不可能である。そして、もしあなたが神なく、キリストから離れた者であるとしたら、あなたがたはみな、自分の血管の中に、かの言葉に尽くすことのできない死の毒液を有しているのである。そして、それはあなたの出立を云い知れぬほど陰鬱なものとするであろう! 私はこの、へどもど云う舌に巻きついている細引を断ち切って、激しく、熱誠を込めてこの主題についてあなたに語りかけられたらと思う。人々は私たちの回りで毎日死んでいる。今のこの時にも、何千人もの人たちが霊の世界へと出立しつつある。数々の二階寝室で、悲嘆に暮れた親族がその燃える額に涙を降り注いでいる。荒海の遠い彼方では、難破した水夫の上で海鴎が一声叫ぶだけである。深い、深い、深い、深い谷底でも、高みにそびえ立つ山頂でも、人々はいま死につつある。それも、いま私が描き出そうとして描き切れなかったすさまじい苦悶とともに死につつある。あゝ、そしてあなたがたも死ななくてはならない! では、あなたがたはまるで頓着しないで行進していこうというのだろうか? 一歩一歩、陽気な歌をずっと唄いながら歩き続けるつもりだろうか、来たるべきもののことなど夢にも思わず! おゝ、あなたがたは、てくてくと屠殺人のもとに赴く愚かな雄牛のようになろうというのだろうか、それとも、肉屋の短刀をなめる子羊のようになろうというのだろうか! 何たる狂気、何たる狂気。おゝ、人よ。あなたは、永遠の御怒りの下に行きつつあり、すさまじい破滅の部屋のもとへ行きつつある。だのに、あなたの心からは何の吐息も漏れ出ず、あなたの唇からは何の呻きも発されないというのか! あなたは日々死につつある。だが決して呻くことはなく、あなたの死の最後の日を迎える。その日があなたの悲惨の始まりとなるのである。しかり。おびただしい数の人々の状態は、蛇に咬まれたあのイスラエル人たちの状態そのものである。

 II. そして次に来るのは《治療の手段》である。咬まれたイスラエル人たちが治癒する手段は青銅の蛇であった。そして、罪人たちのための治療手段は十字架につけられたキリストである。「ばか云え!」、とイスラエル人のある者らは云った。旗ざおの上につけた青銅の蛇が、自分たちの癒しの手段となると聞いたとき、そう云った。彼らの多くは、不信仰につきものの陽気さの中で笑い飛ばした。――「下らない。たわごとだ。そんな話を誰が聞いたことがある。なぜそんなことがありえる? 旗ざおの上につけた青銅の蛇が、われわれのこの傷を治すだと。それを仰ぎ見るだけで! なぜどんな名医が総がかりでも治せないものが、青銅の蛇を一目見るだけで治せるのだ? 不可能だ!」 少なくとも、このことだけは確かである。たとい彼らが青銅の蛇を蔑まなかったとしても、多くの人々は十字架につけられたキリストを蔑んでいる。彼らが主について何と云っているか告げても良いだろうか? 彼らは、青銅の蛇について云ったのと同じことを主について語っている。ある賢い者はこう云った。――「何と、蛇こそ元凶ではないか、なぜ蛇にそれを元通りにできよう?」 しかり。そして人々は云うであろう。「人によってこそ罪と死が世に入ったのだ。だのに、人が私たちの救いの手段になれようか?」 「あゝ」、と別の者は、主についてユダヤ人的な偏見をもって云うであろう。「しかも、その男がどんな奴かときたら! 王でも、君主でも、偉大な征服者でもない。ただの貧しい田舎者で、それが十字架の上で死んだだけなのだ」。あゝ、とあの宿営の中にいた者は云った。彼らに云わせれば、それは何の変哲もない青銅の蛇でしかなかった。黄金の蛇ではなかった。では、青銅の蛇など彼らにとって何の役に立つだろうか? 溶かしても大した値段では売れまい。それが何の役に立つというのか? そのように人々はキリストについて云う。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人は彼から顔をそむけた[イザ53:3]。いかに主が自分たちを癒すのにふさわしいお方かを見てとれないからである。

 しかし、ある者らは云うであろう。十字架の宣教は単に救うことができないばかりか、悪を増し加えるものだ、と。古の医者たちが告げるところ、青銅は世界で最も人々を早死にさせるものだという。光り物を見ると、毒の効き目が強まるので、青銅を見ればたちまち死に至るというのである。だがしかし、語るも奇妙なことに、青銅の蛇を仰ぎ見ることが彼らを救ったのである。「はてさて」、と不信心者は云うであろう。「私には、どうして人々が罪から救われるために、キリストを宣べ伝えなくてはならないのか分からない」。「実際、先生」、と彼は云うであろう。「先生は出かけていっては人々にこう云っていますよね。どれほど悪逆な罪を犯した者であっても、信じさえすれば、その罪はみな洗いきよめられる!と。何と、それは人を図に乗せてしまいますよ。そして、今までよりもずっと悪人にしてしまいますよ。先生は人に向かって云いますよね。あなたがたの良いわざは全く何の役にも立たない、キリストだけを頼りにしなくてはならない!と」 「何と」、とその懐疑主義者は云うであろう。「ねえ、それは、道徳という道徳をだいなしにするってものですよ。傷を治すどころか死ですよ。なぜそんなことを宣べ伝えるのです?」 あゝ、十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力なるキリストであり、神の知恵なるキリストである[Iコリ1:18]。私自身、一見したところでは、こう認めざるをえない。蛇に咬まれた人を青銅の蛇が癒すなどというのは、それ自体としては、人間の精神がこしらえたことのある中でも、最もばかげたこしらえ事と思われる、と。だがしかし、よくよく調べてみると、その青銅の蛇のうちには、神ご自身に編み出すことのできたものの中でさえ、それを越えて高いものはない知恵が見てとれるのである。私もあなたに認めよう。キリストの十字架は、うわべだけ見れば、愚にもつかないほど素朴なもの、誰にでも考えつけるが、あまりにも下らないため思いつけなかったもののように思われる、と。しかし、よくよく調べてみるとき、また、十字架の贖罪の血を通して神の正義が擁護され、人が赦されるという驚嘆すべき神のご計画を理解するとき、私は云う。神の強大な知性でさえ、十字架につけられたキリスト・イエスにおいて表わされた神の知恵以上に叡知に満ちたご計画を構想することはできなかったであろう、と。

 しかし、覚えておくがいい。青銅の蛇について聞いた者らのうち、いかに大勢の者がそれを蔑んだとしても、そこには他の癒しの手段が《何1つ》なかったのである。そして、ここで今一度、私が救いの物語全体を告げるのを聞いてほしい。兄弟たち、父たちよ。私たちは罪深い時代から生まれ、私たち自身が自分の咎を増し加えてきた。私たちには何の希望もない。何をしようと、私たちが自分を救うことはできない。

   「燃ゆる熱心(おもい)も
    たぎつ涙も
    罪あがなえじ」。

しかし兄弟たち。神の永遠の御子キリスト・イエスはこの世に来られ、処女マリヤから生まれてくださった。主は陰鬱で悲惨な生涯を送り、最後には言葉に尽くせないほどの激痛を伴った死に方をされた。――それは、悔悟した者としてキリストのもとに来る者たちのもろもろの罪の罰であった。もしあなたがこの日、そのように悔い改めるとしたら、また、あなたの信頼をイエスに置くとしたら、あなたは、あなたの信頼と悔い改めの中に、キリストがあなたに代わって罰されたという確かな証拠を得ているのである。

 III. さてここで、《この青銅の蛇はどうされるべきだっただろうか?》 この聖句には、「モーセはそれを上げた」*、と記されている。そして、彼はそれを旗ざおの上につけて上げるべきであったとも記されている[民21:8]。あゝ、愛する方々。キリスト・イエスも上げられなくてはならなかった。主は上げられた。悪人たちが主を上げた。呪われた木に釘づけて、彼らが主を十字架につけたときに! 父なる神が主を上げられた。というのも、神は主を、あらゆる支配と権威とをはるかに越えて高く上げられたからである[エペ1:21]。しかし、教役者の務めは、主を上げることである。一部の教役者たちは、世における自分の用向きがキリストを上げることであることを忘れている。かりにモーセが、神から青銅の蛇を上げるように命じられたとき、内心こう云ったらどうなっただろうか? 「私としては、それを上げる前に、ある程度、説明的な注釈を語るのがふさわしいと思う。そして、それを粗野な群衆の前に上げる代わりに、えり抜きの少数に秘伝を伝えることにしよう。そうすれば彼らはそれを理解できるだろう。私はこの蛇に多少、黄金の服をまとわせよう。銀の綴れ織りで装飾しよう。そのようにして、それが粗野な目には仰ぎ見られないようにしよう。そして私はそれを彼らに説明するよう努めよう」。さて、これこそ、今の時代や過去の時代の多くの司祭的な人々が行なおうとしてきたことである。福音、おゝ、それを貧民に宣べ伝えてはならない! 「聖書」、とローマ教会は云う。「それを野卑な群衆に読ませてはならない! いかにして奴らに理解などできよう? それは神聖すぎて、庶民の目に触れさせるわけにはいかない! しかり。この青銅の蛇は包み隠すがいい。布で覆うがいい。外に表わしてはならない」。「否」、と私たちのプロテスタント派の教役者たちは云う。その多くは云う。「聖書は与えなくてはならない。だが、私たちは決してその翻訳を変更してはならない!」 現行訳には、曖昧すぎて、説明されなければ誰にも理解できないような箇所がいくつかある。「しかし、否」、とこの時代の神学者たちは云う。「私たちは聖書を適正に翻訳することはしたくない。大衆は常に欠陥のある翻訳で我慢しなくてはならないのだ。この青銅の蛇は包み隠されなくてはならない。なぜなら、私たちが新しい翻訳を手に入れたとしたら、それは少し物事を動揺させるだろうからだ!」 「否」、と他の人々は云う。「私たちは必要があるなら新しい翻訳を手に入れよう。だが、真理の中のある部分は説教されるべきではない!」 私は今、牧会伝道職にある私の兄弟たちの何人かについて不真実なことを伝えようというのではない。私は知っているのである。彼らは、神のことばの中のいくつかの教理が説教されるべきではないと主張しているのである。――少なくとも毎日は。彼らは《選び》が真理であると云う。だが、決してそれに言及しない。《予定》が疑いもなく神聖な真理であると云う。だが、それは大衆から遠ざけておくべきである。それは彼らの信条の中になくてはならない。さもなければ、彼らは健全でないことになる。だが、講壇においてそれは決して口にされてはならない。「否」、とローマ教会は云う。「もし私たちが青銅の蛇を手にしたならば、私たちはそれを人目に触れない内陣の中に入れておこう。そして、その前で香を焚き、その見分けがはっきりつかないようにしよう。行列や、儀式や、形式張った式服によって、それが野卑な民衆からじろじろ眺められないようにしよう。私たちは、それが一千もの儀式で取り巻かれるようにしよう。それらによって福音を抽象的なものとし、民衆には儀式で満足させておこう!」 さて最近は、こうした方向に流れる大きな傾向がある。ピュージー主義が努めて行なおうとしているのは、福音の素朴さを宣べ伝える代わりに、種々の比喩を示すことである。「おゝ」、と彼らは云う。「ゴシック様式の教会は何と心を高揚させることか。ゴシック様式の柱列のある場所で着席するのは、何と魂を天国に引き上げることか! おゝ、巧みに演奏された風琴は何と甘やかな影響を精神に及ぼすことか!」 彼らが私たちに告げるところ、見事に着こなされた祭服からは、一種の天的な影響力が注ぎ出されており、司祭が聖なる、うやうやしいしかたで自分の勤めを果たしている姿を見ることは、魂に感銘を与える最も卓越した方法であるという。彼らは私たちに、降誕祭の時期の柊の木は最も天的で霊的なものだと信じさせようとしている。彼らの教えによると、私たちの熱情は、こうした緑の小枝によって天国に携えて行かれるのである。瓦斯灯があるべき所に時折、花を挿しておくことには、私たちの魂をパラダイスに連れて行く最も常ならぬ影響力があるのである。世界のどこを見ても、日中にろうそくを燃やすことにまさって素晴らしいしかたで、義の太陽を明らかに示すことはありえない! さて、私たちは彼らの見解に正確には同意しない。そうした場所は子どもたちのためには良いと思う。彼らは、そこではあまり泣かないであろう。彼らを面白がらせるものがたくさんあるからである。しかし、私たちに到底理解できないのは、いかにして人が――成人たる者が――ピュージー主義者の宗教のように、恥ずかしいほどなよなよとした、女々しいものの前で座っていられるかということである。そこには、純然たるたわごとのほか何もなく、福音を見えないようにするものしかない。それは、あたかもアロンがその香炉に香を盛り、それを青銅の蛇の前で振っては、もうもうと煙を立ち上らせては人々の目をふさぐようなものである。そして、そのときあわれなモーセはその背後に留まって仰ぎ見させようとするが、このあわれな魂のうち誰ひとりとして見ることはできない。なぜなら、彼らの前には煙があるからである。否。私たちが十字架につけられたキリスト・イエスでなすべきことはただ1つ、ただ主を上げて、主を宣べ伝えることである。多くの人々は、田舎訛りでしか喋れなくとも、やがて天国では輝かしい星々のきらめく冠を戴くであろう。その人はキリストを上げて、罪人たちがそれを見て生きるようになったからである。だが、多くの学識ある博士たちは、エジプト語でも、曖昧で神秘的な言葉でも語ることができるが、自分でもわけのわからないことを告げては、人生行路を終えた後で、まるきり星のついていない冠を戴いて天国に入るであろう。決してキリストを上げることがなく、自分の《主人》のために冠をかちとりもしなかったからである。牧会伝道職という厳粛な働きに召されている私たちひとりひとりは、覚えておくがいい。私たちが上げるべく召されているのは、教理でも、教会政治でも、特定の教派でもない。私たちの務めはキリスト・イエスを上げて、キリスト・イエスを完全に宣べ伝えることである。教会政治が論じられるべき時はあるかもしれない。また、特定の教理が擁護されるべきときはあるかもしれない。私たちが真理のいかなる部分についても沈黙を守ることがあっては決してならない。だが、牧会伝道職の主たる働き――その日々の働き――は、ただキリストを明らかに示し、罪人たちに向かってこう叫ぶことである。「信ぜよ、信ぜよ。信ぜよ。世の罪を取り除く神の《小羊》たるお方を」、と。

 そして、このことも覚えておくがいい。もし教役者がキリストを平易に宣べ伝えさえするなら、それは彼がなさなくてはならないすべてなのである。もし愛情と祈りを込めて彼がキリストを完全に宣べ伝えるとしたら、たとい1つも魂が救われないとしても、――そのようなことはありえないと私は信ずるが、――彼は自分の働きをなしたのであり、彼の《主人》は、「よくやった」、と仰せになるであろう。私は何度か、種々の教理について説教した後で、この建物から出て来ては、多くの人々が――浅はかにも――私をほめそやす中で、内心こう云っていたことがあった。「私にできるのは、呻くことだけだ。あのような主題について語るとは」。だが別の折には、私は説教をする際に口ごもること多く、一千もの云い間違いを犯したかもしれないが、私は王侯のように幸いな気持ちで出て来ることがあった。なぜなら、私はこう云っていたからである。「私は本当にキリストを宣べ伝えた」、と。そこには罪人たちが救われるのに十分なものがあった。そして、もし世界中の新聞雑誌が私の悪口を云おうと、また、世界中の人が、「あいつをこきおろせ」、と云おうと、彼はなおも深く潜っては、なおも息をしているであろう。自分の内側でこう感じている限りは。「私は罪人たちに対して説教してきた。そしてキリストが彼らに対して宣べ伝えられた。それで彼らはキリストが理解できたし、キリストをつかむことができたし、救われることができたのだ」。

 IV. そして今、愛する方々。私はほとんどしめくくりに達している。だが、これから差しかかるのは、この講話の中で最も力を必要とする部分にほかならない。《イスラエルは何をすべきだっただろうか?》 罪を確信させられた罪人たちは何をすべきだろうか? イスラエル人は仰ぎ見るべきであった。罪を確信させられた罪人たちは信じなくてはならない。あなたは、モーセの姿を思い描けるだろうか? その尊い頭をすっくと伸ばし、力の限り大胆にこう叫んでいるその姿を。――「見よ、見よ、見よ!」 あなたには彼が見えるだろうか? その右手で旗ざおをつかみ、それを掲げ上げては、どこかの偉大な旗手のように宿営中を練り歩いている姿が。指で指摘し、手で、目で、唇で、足で、体中のあらゆる部分で語りながら、熱誠を込めて、蛇に咬まれたあわれなイスラエル人たちに向かって、仰ぎ見るよう命じている姿が。ことによると、あなたには思い浮かぶかもしれない。折り重なって倒れ、死にかけていた者、ほとんど死んでいた者がその青銅の蛇を眺めては、息を吹き返していく光景が。さて注意するがいい。その宿営の中のある者たちは仰ぎ見ようとしなかった。彼らは意固地にも目をつぶった。そして、その旗ざおが彼らに近づけられたときも、仰ぎ見ようとはしなかった。ことによると、それは不信仰のためだったかもしれない。彼らは云った。「それが何の役に立つ? こんなもん俺たちには何にもならねえよ!」 そこに、このみじめな男がいる。旗ざおは彼の前にある。だがしかし、彼は仰ぎ見ようとしない。よろしい。彼はどうなるだろうか? おゝ、死の苦しみが彼に臨む。見よ、死んでいく彼がいかにピクピクひきつっていることか! いかに彼の肉体が苦悶によじれて見えることか! だが彼は、自分の目を、力と激情をふりしぼっても閉じておこうとする。自分の目が開いて青銅の蛇を見、生きることになるといけないからである! あゝ! 話をお聞きの方々。そして、きょうのこの場には、そうした人がいる。この場にいる多くの人々は、キリストのもとに来て救われようとはしない。――福音が宣べ伝えられても、それに抵抗し、それを蔑み、それを拒絶する。誰かが福音を受け入れるのはすべて恵みのみわざだが、誰かが福音を拒絶するのはすべて人のしわざである。この場にいるある人々は、これまでしばしばその良心に感ずることがあった。彼らはしばしば感動して信じかけたことがあった。だが、彼らは絶望的なまでに悪に心を傾けており、キリストのもとに来ようとはしなかった。あゝ、罪人よ。あなたはほとんど分かっていない。あなたの運命がいかに悲惨なものとなるかを。あなたは、きょうは私に、自分は《救い主》を信じはしないと云うかもしれない。この警告に耳を貸さずに、こう云うかもしれない。「何をそれほど大騒ぎすることがあるのか? 私は信じるくらいなら死んだ方がましだ。キリストに救える力があるなどとは思っていないのだから! それが何の役に立つのか?」 あゝ、方々。あなたは私を拒絶してもかまわない。だが思い出すがいい。すぐに私よりも偉大な説教者があなたのもとにやって来るであろう。その腕は骸骨のようであり、その指は骨張っており、その息づかいは冷え冷えとしている。彼は凍りつかせ、それでいながら確信させるであろう! その名は《死》である! きょう、正面から私の顔を見て、私があなたに宣べ伝えたことなど嘘だと云ってみるがいい。――それは簡単に行なえる! だが明日、死を正面から見つめて、彼にそう云ってみるがいい。あなたは、それがずっと困難なことに気づくであろう。左様。そして、たといあなたに、そうするだけの無鉄砲さがあったとしても、かの《大いなる審き主》がその御座に着いたとき、このお方の顔を見つめて、その福音は真実ではないと告げようとはしないであろう。というのも、恐怖し、怯えきったあなたは、御座の上に着いているお方の御顔から自分を隠そうとして、あちこちへ狂奔するだろうからである。ことによると、あの宿営には、そのうちに仰ぎ見ようと云っていた者がいたかもしれない。「おゝ」、と彼らは云った。「いま仰ぎ見る必要はないさ。毒液はまだ効いてこない。私たちはまだ死んでいない。もうしばらくは!」 そして、彼らが最後の言葉を発するより早く、彼らはこわばり、土のように冷たくなっている! いかに多くの人々が同じようにしているであろう? 彼らはまだ信心深くなろうとはしない。もう一日したら、もう一時間経ったら。彼らは、自分がいつでも好きなときに敬虔になれると信じている。その考えは間違っているが、そのため彼らは、事をできる限り引き延ばそうとする。いかに多くの人々が救いの日を引き延ばしたあげくに、悔い改める前に断罪の日がやって来てしまったことか! おゝ、いかに多くの人々が、「しばらく眠り、しばらく手をこまねいて」*[箴6:10]、と云ってきたことか! そして彼らは、浸水沈没しつつある船の上にありながら、脱出できるうちに脱出せず、甲板で愚図愚図している人のようである。最後には海が彼らが呑み込み、彼らは生きながら深みへと下っていく。先延ばしに用心するがいい。遅れは危険であり、ある種の遅れは地獄落ちの理由となりうる! ここを仰ぎ見るがいい。この十字架上で血を流しておられるキリストを仰ぎ見るがいい。いま仰ぎ見るがいい。というのも、御霊は、「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」[ヘブ3:15]、と云っておられるからである。

 疑いもなく、この場には医者を試してきた人々が何人かいるに違いない。「青銅の蛇を仰ぎ見るですって?」、と彼らは云う。「私たちはそうはしません。お医者先生、あなたのバルサム油を持って、ここへ来てください。あなたはの焼灼薬を取って、この毒を私の腕から焼き尽くすことはできませんか? そして私を救うだろう強壮剤を何か注ぎ込むことはできませんか? 先生、あなたには私の血液を鎮めることのできる解毒剤を何もお持ちではないのですか? あゝ、私はあの青銅の蛇など笑い飛ばします。それを仰ぎ見ようとは思いません。私はあなたの腕に信頼します。おゝ、知識に秀でた先生!」 そして、いかに多くの人々がいま同じことをしていることであろう? 彼らは云う。「私はキリストを信じようとは思わない。私は努力してもっともまともになることにしよう。自分を改善しよう。教会の儀式という儀式に出席しよう。私は自分で自分を助けて、イエスの必要など全くないほど自己改善できるのではないだろうか?」 左様。試してみるがいい。あなたがたは、そうしたへつらいの油を魂に塗ることもできる。潰瘍の傷口を薄皮で覆うこともできる。だが、その間ずっと、暗い腐敗は内側で眠っており、最後には、はなはだしい炎となってあなたの上に吹き出すであろう。そのとき、あなたには治療を試みる時間などない。むしろ、一掃されてしまう。――あわれみの病院にではなく、らい病人のように、町の外へと、あなたは祝福の希望から叩き出されてしまうであろう。

 もしかすると、この場にいるある人々は、自分たちのただれた患部を眺めることに忙しすぎて、この蛇を眺めることなど考えつかなかったかもしれない。あわれな人たち。彼らは自分の悲惨の中に横たわっており、まず足にある傷口をじっと眺め、それから手にある傷口をじっと眺めては、自分たちの患部について泣き声をあげる。そして、決してかの蛇を仰ぎ見ようとはしない。何百、何千人もの人々がそのようにして滅びていく。「おゝ」、と罪人は云う。「私は途轍もなく罪深い者です!」 人よ。それがあなたと何の関係があるだろうか? キリストはすべてを満たす功績をお持ちである。この方を仰ぎ見るがいい。「いいえ、いいえ」、と別の者が云う。「私にはキリストを仰ぎ見られません。おゝ、先生。先生は私がどんな罪悪を犯してきたかご存知ないのです。私は酔いどれでした。悪態をつく者でした。遊女を買い漁る者でした。その他あれこれでした。どうして私などが救われるでしょう!」 愛する方。あなたの傷口はそれとは何の関係もない。ただ十字架の上のキリストだけである。もし誰かあわれな人が蛇に咬まれて私にこう云ったとしたら、――「私はもう、あそこを仰ぎ見ても何の役にもたちません。私がどんなにたくさん咬まれたか見てください。私の腰には大きな蛇が巻き付いています。もう一匹が私の手をむさぼり食らっています。どうして私に生きることなどできましょう?」 私はその人に云うであろう。「愛する方よ。あなたにぶらさがっているのが蛇一匹であろうと五十匹であろうと、何の注意も払ってはならない。あなたの咬み傷が一箇所であろうと、五十箇所であろうと、同じことである。あなたがしなくてはならないのは、ただ仰ぎ見ることである。あなたには、そうした咬み傷と何の関係もない。あるとしたら、あなたがその傷の痛みを感じているということ、そして仰ぎ見ない限りその傷によって死んでしまうということだけである」。そして今、あなたがた、罪人のかしらたち。主イエスを信ずるがいい。そうすれば、たといあなたの罪がこれ以上ないほど数多くとも、主はご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになる[ヘブ7:25]。だがしかし、いかに多くの人々が、こうした種々の迷妄によって滅びていくことか。福音が彼らの目の真前にあるというのに、旗ざおの上にあからさまに掲げ上げられているというのに、それを見ないというのは不思議でならない。

 そして今、私はもう1つか2つ甘やかなことを告げて、あわれな罪人を励まさなくてはならない。おゝ、今朝、咎のある人たち。また、自分に咎があると知っている人たち。あなたに云わせてほしい。「キリストを仰ぎ見よ」、と。というのも、思い出すがいい。あの青銅の蛇が上げられたのは、宿営の中にいる、咬まれた者がみな生きるためであった。そして今キリストがあなたの前で上げられているのは、「信じる者がみな、人の子にあって滅びることなく、永遠のいのちを持つためです」。罪人よ。悪魔はあなたが閉め出されていると云う。彼に云ってやるがいい。この「みな」は、誰ひとり閉め出さない、と。おゝ、かの尊き言葉、「みな」よ。あわれな魂よ。私はあなたがその一言にすがりつき、こう云っているのが見える。「では、先生。もし私が信じれば、主は私を追い払わないのですね」。私は、ある遊女が、その咎のすべてをまとわりつかせたまま、自分の不義を嘆いている姿が見える。彼女は、キリストが救うことなど不可能だと云う。しかし、彼女は、「みな」と云われているのを聞く。すると彼女は仰ぎ見て、生きるのである! 覚えておくがいい。それは、彼らが年の頃いくつぐらいであるかとか、どれだけ多く咬まれたかとか、宿営のどの辺に住んでいたかなどは問題ではない。彼らはただ仰ぎ見さえすれば生きる。そして今、あなたがた、不義の中で白髪になってしまい、もしも髪の毛が人格を示すとしたら、悪徳の歳月によってどす黒くなっているため、白髪よりは黒髪となるであろう人たち。思い出すがいい。小さな罪人たちと同じく大きな罪人たちのためにも同じキリストがおられるのである。赤子のためと同じく白髪の者たちのためにも同じキリストがおられるのである。富者のためと同じく貧者のためにも同じキリストがおられるのである。王侯たちのためと同じく煙突掃除夫たちのためにも同じキリストがおられるのである。聖徒たちのためと同じく、売春婦たちのためにも、同じキリストがおられるのである。「みな」。私は広々とした言葉を用いる。広大な範囲をとらえて、罪人たちの全宇宙をなめ尽くすためである。――キリストを仰ぎ見る者はみな生きる。そして、覚えておくがいい。これは、僅かしか見ない者は生きられないとは云っていない。ことによると、そこには、あまりにもひどく咬まれたために、瞼が腫れ上がり、ほとんど視界がふさがっている者たちがいたかもしれない。古のクリストファー・ネスは云う。「そこにいたある者たちは、視界がごく僅かしかないため、細められた片目でしか見られなかったかもしれない」。そして、彼一流の奇抜なしかたでこう云う。「もし彼らがほんの一瞥でもその青銅の蛇をめがけて射ることができさえしたら、彼らは生きたのである」。そして、あなたがた、自分には信じられないと云っている人たち。もし神があなたに、ちり一粒の半分ほども信仰を与えてくださるとしたら、それによってあなたは天国へと運ばれていくであろう。もしあなたがただ、「おゝ、主よ。信じます。不信仰な私をお助けください[マコ9:24]」、と云えたとしたら、もしあなたがシモン・ペテロともに手を突き出して、「主よ。助けてください。私は滅びそうです」*[マタ8:25]、と云えたとしたら、それで十分である。もしあなたが、ただあのあわれな取税人の祈り――「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]――を祈れたとしたら、それで間に合う。そして、よしんばあなたが、老いて年期を積んだ聖徒たちとともには、

   「わが名は御手の 掌中にあり
    永遠すらも よく消すをえじ」

と歌うことができないとしても、覚えておくがいい。こう歌うことができさえしたら、全く十分なのである。――

   「行きて死ぬるも われは恐れじ
    すでに決せり われ試さんと
    われ知る もしも 離れおるなら
    われ永遠(とこしえ)に 死ぬほかなければ」。

 さて今、あわれな魂よ。私はほとんど話を終えた。しかし、私にはあなたを行かせることはできない。私には、あなたの目に涙が浮かんでいるのが見える。あなたが自分の咎を告白し、自分の罪を嘆いているのが聞こえる。私はあなたに、私の《主人》を仰ぎ見て生きよと命じる。私の主なる《主人》を試すのを恐れてはならない。私は、あなたがいかに恥じているかを知っている。私も同じように感じたことがあった。主は自分など決して救わないだろうと考えたことがあった。さあ魂よ。あなたは今、ひとりきりになっている。というのも、何千人もの人があなたの回りにいようと、あなたは私があなただけに語りかけていると考えているからである。そして、私は実際そうしている。私の兄弟よ。私の姉妹よ。あなたはきょう罪ゆえに泣いている。――イエスを仰ぎ見るがいい。そして、あなたを励ますために、次の3つのことに注意するがいい。まず最初に注意してほしいのは、イエス・キリストは、あなたが仰ぎ見られるように、わざわざ十字架につけられたのである。主が死なれた唯一の理由は、あわれな罪人たちが主を仰ぎ見て救われるためであった。さて、私の愛する兄弟たち。もしキリストが木にかけられた目的がそこにあったとしたら、あなたは自分がそうしてならないなどと考える必要はない。もし神が川をお送りになり、それが、そこから私たちが飲むためであったとしたら、あなたは飲まないことにして神を失望させようとするだろうか? 否、むしろあなたは云うであろう。「神は私が飲むことを望まれたのですか? ならば、私は飲みます」、と。さてイエスは仰ぎ見られるために、わざわざ十字架にかかられた。主を仰ぎ見よ。仰ぎ見て、生きよ。また、あなたの励ましとしてやはり覚えておくがいい。主はあなたが仰ぎ見るよう頼んでおられる。あなたが信ずるよう招いておられる。主はきょう、ご自分に仕える教役者を遣わして、あなたがそうするように命じさせておられる。主は私にこう云っておられる。「世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:15-16]。さて私は、単に、私の《主人》の扉があなたに向かって大きく開かれているとしか云えないわけではない。私はそれ以上のことを云うであろう。私に向かって主は、あなたに入ってくるよう頼めと命じられた。知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ[箴1:20]、あなたを招いては、こう云っている。「雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ夕食にお出かけください」*[マタ22:4]。しかり。私の《主人》は、その聖霊に命令を与えておられる。すなわち、もし人々が自分から来ようとしなければ、無理にでも連れて来て、ご自分の家が一杯になるようにせよ、と[ルカ14:23]。ならば、あわれな罪人よ。あなたは歓迎されるに決まっている。神はご自分の食卓が満席になるまで罪人たちを迎え入れなさるであろう。そして、もし神があなたに、あなたが罪人であることを感じさせておられるとしたら、――来て、迎(い)れられるがいい。罪人よ。来よ。そして、私の最後の励ましはこのことである。私の《主人》のもとに来て、このお方を試すがいい。なぜなら、主はあなたを救うと約束しておられるからである。イエス・キリストの約束はみな誓いと同じくらい堅固である。1つとして破られることはない。主は云われる。――「信じる者はみな、人の子にあって滅びることなく、永遠のいのちを持つ」*。さて、たといこの場に、自分は地上で最も邪悪な卑劣漢だと云い張ってやまない人がいたとしても、私はその人にこう云おう。――お若い方。私は神の約束が真実であることを証明するのを非常に好んでいる。さて神は仰せになっている。もしあなたが信じるなら、あなたは滅びることはない、と。愛する友よ。もし普通の罪人が試して、この約束が破られなかったとしたら、それはその真実さをいくらかは証明する。だが、あなたは異常な罪人である。さて、異常な罪人であるあなたが、あえてこの約束に賭けてみてほしい。神はあなたが滅びることはないと云っておられる。来て神を試してみてほしい。そして、覚えておくがいい。神は、ご自分を神でなくし、真実であることをやめるのでない限り、キリストを信じた罪人を罪に定めることなど決してできないのである、と。さあ、一か八かやってみるがいい。あなたがた、罪を負ったあまりに、その重荷の下でよろめいている人たち。この単純な約束の上に身を倒すがいい。「主は……完全に救うことがおできになる」[ヘブ7:25]。ただ、全くあなたの身をキリストに投げかけるがいい。そして、それでもあなたが救われないとしたら、神の書は嘘っぱちとなり、神ご自身がご自分の真理を破ったことになる。しかし、そのようなことはありえない。来て、これを試すがいい。「キリストを信じる者はみな滅びることなく、永遠のいのちを持つ」*。  

 

青銅の蛇の奥義[了]

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