救いにつながること
NO. 152
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---- 1857年9月20日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂「救いにつながること」。――ヘブ6:9 本日の聖句は、その前後関係において読んで理解した場合、きょう私がこれに基づいて云おうとしていることすべての裏づけとなるかどうか、いささか心許ないものがある。しかし私は、この言葉をどちらかというと便宜的に取り上げたのであって、それを、今から行なえれば良いと願っている講話の標題のようなものに用いようと思う。私は座して、この主題について瞑想していた。――「救いにつながること」。すると、ある程度の時間、沈思黙考した後で、あれこれの思想が1つの寓意の形を取ったのである。その形に沿って私は今朝、そうした思想を提示したいと考えている。私は《救い》を1つの貴重で高価な宝物になぞらえた。神がその無限の愛とあわれみによって、この世に送ろうと決意された宝物である。そして私は思い起こした。私たちの主イエスは、この《宝》を地上にもたらすことに深く関わっており、ご自分の有していたすべてを送り出したばかりか、自らこの《救い》に付き添い、つらなって来られたのである。そのとき私の脳裡に浮かんだのは、1つの大行進であった。輝かしい者らが、《救い》というこの聖なる宝石をそのただ中にかかえてながら、ある国土を行進しつつある姿である。先を見やると、一団の強大な前衛部隊が見えた。それは、すでに《永遠》の岸辺に到達していた。《救い》の周囲を眺めると、いついかなる場合にも、そこには種々の恵みや美徳がつながっているのが見えた。その守護役の兵団や兵士らのように、その側面にも、その後衛にも、束になって伴っていた。
しかしながら、話を始める前に、1つ注意しておこう。使徒が種々の美徳や恵みについて語るとき、彼はそれらを「救いにつながること」[付随すること <英欽定訳>]と呼んでいるのであって、救いを引き起こすこととは呼んでいない。私たちの信仰が《救い》を引き起こすのではない。また、私の希望が、あるいは、私たちの愛が、私たちの良いわざがそうするのでもない。それらは、儀仗兵のように救いに伴うことなのである。《救い》の起源は、父なる神の主権のみこころ、子なる神イエスの血による無限の効力、そして聖霊なる神の天来の影響力にのみある。しかしながら、種々の「救いにつながること」はあるのである。では、どこかの古代の王侯が、自分の領土を行幸している様子を思い描くがいい。物語の中には、古代の東方の王侯について記されているものもあるが、それは現実のことというより、伝奇小説のように思われる。彼らは何千本もの幟を翩翻とひるがえし、ありとあらゆる富を運ばせながら行進したというのである。さて、そうしたことが私のたとえ話の大本にあると思ってほしい。そして、《救い》のことを1つの神聖な宝物であるとと考えてほしい。この宝物は、その前後に付き添いの守備兵を配しつつ、この世の中を運ばれて行きつつあるのである。
まず最初に私たちが考えたいのは、《救い》につながる、あるいは、その前を行く前衛部隊である。次に考えたいのは、その直前を行く者たちである。そしてそれから私たちが注意したいのは、その側面でつながっている者たちであり、しめくくりに注意したいのは、私たちの神のこの救いにつながる後衛部隊のことである。
I. まず第一に、《兵団や軍隊が行進する際には、先遣隊として、他の兵団のはるか先を行く者たちがいる》。《救い》の行進においてもそれと同じく、道を空けさせるため本隊よりもはるかに先行している者たちがある。私はあなたに、このように先行している図抜けた巨人たちの名を告げることにしよう。第一の者は《選び》であり、第二の者は《予定》であり、第三の者は《贖い》であり、その全員を束ねている指揮官が《契約》である。《救い》がこの世にやって来る前に、その先陣を切って《選び》が行進していたのである。それが務めとしていたのは、《救い》の宿舎割り当てであった。《選び》は世界中を行き巡り、《救い》がやって来るべき家々と、その宝が預けられるべき心にしるしをつけた。《選び》は、アダムから始まって以来最後のひとりに至るまでの人類全員に目を通し、《救い》の指定を受けていた者たちに神聖な刻印をつけた。「サマリヤを通って行かなければならない」*[ヨハ4:4]、と《選び》が云えば、《救い》はそこへ行かなくてはならない。それからやって来たのは《予定》である。《予定》は単に家にしるしをつけただけでなく、《救い》がその家まで旅する道路の地図を作った。《予定》は、《救い》という大軍勢のあらゆる足どりを規定し、罪人がいつキリストのもとに導かれるか、いかなるしかたで救われることになるか、どのような手段が用いられるべきかを規定した。それは、御霊なる神が罪の中に死んでいる者を生かすべき、また、イエスの血によって平和と赦しが語られるべき正確な時間と瞬間を指定した。《予定》がしるしをつけた道には何の遺漏もなかった。それで《救い》は、決して行き過ぎることがなく、決して道に迷うことがない。《主権の神》の永遠の聖定において、《あわれみ》の足どりはその一歩一歩が規定されていた。この世の何物も偶然によって回転してはいない――ある川辺で藺草がどこに生えるかは、国王の宿所と同じくらい確実に予知されている。――それと同じく、《救い》が偶然まかせにされるのはふさわしくないことであった。それゆえ神は、それがその天幕を張る場所や、その天幕に至るまでの足どり、そして、それがそこに到達すべき時をはっきり定めておられた。それからやって来たのは《贖い》である。その道は険しかった。確かに《選び》は家にしるしをつけ、《予定》は道路の地図を作っていたが、その道はあまりにも難路であったため、《救い》は、そこから障害物が一掃されるまで旅をすることができなかった。やって来たのは《贖い》である。この者には1つしか武器がなかった。その武器とは、キリストの無敵の十字架である。そこには私たちのもろもろの罪という山々が立っていた。だが《贖い》がそれらを打つと、それらは2つに割れて、主に贖われた者たちが行進して行ける谷間ができた。そこには神の激しい御怒りという大きな深淵があった。だが《贖い》は十字架でそれに橋を掛け、主の軍勢が渡って行ける永遠の通り道を残していった。《贖い》はあらゆる山に隧道を通した。あらゆる海を干上がらせ、あらゆる森を切り倒し、あらゆる高い丘を平地にし、谷間を埋め、《救い》の路が今や平坦で歩きやすいものとなるようにした。神はご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになる[ロマ3:26]ことができるようになったのである。
さて、この神聖な前衛部隊がその旗じるしとして掲げているのは、《永遠の契約》である。《選び》、《予定》、そして《贖い》――このように目も届かない彼方まで先立って行った事がら――は、みなこの軍旗によって戦闘へと結集された。――この《契約》とは、《永遠の契約》、すなわち、あの萬具(よろず)備りて鞏固なる[IIサム23:5 <文語訳>]契約である。私たちが知り、信ずるところ、明けの明星が暗黒の闇を驚かせる前に、神はご自分の御子と契約を結ばれた。すなわち、御子が死んで贖いの代価を支払い、父なる神の方ではイエスに、「だれにも数えきれぬほどの数の人々」*[黙7:9]をお与えになり、その血によってその人々は買い取られ、その血を通して確実きわまりなく救われることになるのである。さて、《選び》が前へ前へと行進していくとき、それはこの《契約》を携えている。この人々は、この恵みの《契約》の中で選ばれているのである。《予定》が行進するとき、また、《救い》の道を選定するとき、それはこの《契約》を宣告するのである。「主はイスラエルの全部族に従って人々の場所を選定された」。そして、《贖い》もまた、キリストの尊い血を指し示しつつ、血で買い取られた人々のための《救い》を主張する。なぜなら、《契約》がそれを彼らのものであると命じているからである。
さて、話をお聞きの愛する方々。この前衛部隊はあまりにも先行しているために、あなたや私には見ることができない。これらは真の教理であるが、非常に不可思議である。これらは私たちの視界を越えている。それで、もし《救い》を見てとりたければ、後衛部隊を見るまで立ち止まってはならない。なぜなら、前衛部隊はあまりにも遼遠に離れているため、信仰の目しか彼らに達することができないからである。私たちはこの神聖な遠眼鏡、信仰という天来の望遠鏡を持たなくてはならない。さもないと、決して目に見えないものを確信させられる[ヘブ11:1]ことはない。しかしながら、安心して確信しよう。もし私たちが《救い》を有しているとしたら、《選び》を有しているのである。信じる者は選ばれている。誰であれ咎ある罪人としてキリストに自分を投げかける者は確かに神のお選びになった子どもである。もしあなたが《救い主》を信じて、このお方のもとに来ているとしたら、確実に永遠の昔からそうするように予定されていたのであり、あなたの信仰は、あなたが神に選ばれた者、神から尊く思われているという大きなしるしであり証拠である。あなたは信じているだろうか? ならば《選び》はあなたのものである。あなたは信じているだろうか? ならば《予定》は、あなたにいのちがあると同じくらい確実にあなたのものである。あなたはイエスにのみ信頼しているだろうか? ならば、恐れてはならない。《贖い》はあなたのためのものである。それで、私たちはあの、すでに天界の丘へと達してしまっている壮大な前衛部隊によっても恐怖に打たれることはないであろう。彼らは選ばれた者が永遠に彼らの神のふところで休む場所を用意してくれたのである。
II. しかし、注目するがいい。私たちが次に吟味したいのは、《救いの直前を行進している軍隊》である。まず最初に、この軍隊の先頭を行進しているのは、神聖な畏怖とともにその名を述べなくてはならないお方である。それは神である。聖霊である。私たちの救いにおいて何がなされるよりも先に、そこには《聖三位一体》の《第三位格》がおられならなくてはならない。このお方がおられなくては、信仰も、悔い改めも、謙遜も、愛も、全く不可能である。私たちの主イエス・キリストの血潮ですら、聖霊なる神によって心に塗られない限り、救うことはできない。ならば私たちは、《救い》の直前を行く大軍勢に注目する前に、その全軍を指揮しておられるお方を忘れないように用心しようではないか。この偉大なる《王》、《不死の》、目に見えない、《天来の》ご人格、《聖なる霊》と呼ばれる聖霊、このお方こそ魂を生かすお方である。さもなければ、魂は永遠に死んだままであろう。御霊こそ魂を柔らかにするお方である。さもなければ、それは決して感覚を生じないであろう。御霊こそ宣べ伝えられたみことばに効力を賦与するお方である。さもなければ、それは決して耳を越えた先に達することができないであろう。御霊こそ心を砕くお方である。それを健康にするお方である。御霊は最初から最後まで、私たちのうちにおける《救い》の偉大な働き手であられる。それはイエス・キリストが私たちにとって《救い》の創始者[ヘブ2:10]であられたのと全く変わらない。おゝ、魂よ。このことによって、お前は《救い》がお前の家に来たかどうかが分かるであろう。――お前は聖霊にあずかる者となっているだろうか? さあ今、この問いに答えるがいい。――御霊はお前に息を吹き込まれたことがあるだろうか? お前の中に息を吹き込まれたことがあるだろうか? お前は、自分が御霊の超自然的な影響を受けたことがあると云えるだろうか? というのも、それがなければ、思い出すがいい。人は、上からの御霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできないのである[ヨハ3:3]。肉によって生まれた者は肉であり、御霊によって生まれた者だけが霊である[ヨハ3:6]。お前の最上の奮励努力も、聖霊がお前のうちで働き、みこころのままに志を立てさせ、事を行なわせて[ピリ2:13]くださらない限り、ことごとく何の役にも立たないであろう。お前の最高の肉の努力も決して、肉を越えた高みに達することはできない。川の流れが、自力では決して水源以上に高くならないのと全く同じである。あなたは道徳的かもしれない。非の打ち所がないほど廉直かもしれない。褒めるに足る点がたくさんあるかもしれない。だが、聖霊にあずかる者となっていない限り、あなたが救われることは、地獄に落ちた者が救われるのと全く同じくらい不可能である。私たちは新しく生まれなくてはならない。かの天来の影響力によって新しく生まれなくてはならない。さもなければ、すべては空しい。ならば、覚えておくがいい。神の御霊が常に《救い》につらなっておられることを。
さて今、この崇敬すべき御霊の直後にぴたりとつき従うのは、《雷軍団》[ローマの第12軍団の異名]である。聖霊なる神は、魂にお入りになるが早いか、私がいま《雷軍団》と呼んだものをご自分とともに引き入れなさる。そして、あなたがたの中でもすでに救われた人々は、私が何を意味しているのか分からず途方に暮れることはないであろう。この《雷軍団》は鎧に身を包み、その兜が揺れると万人がおののく。彼らの言葉は遠国から来た者らのように荒々しく、彼らの顔は見るだに恐ろしい。というのも、それは獅子のような顔であり、臆病な者をすくみあがらせるからである。この《雷軍団》の中のある者らは剣を帯びている。この剣によって彼らは罪人を打ち殺すことになる。というのも罪人は、健康にされる前に霊的に殺されなくてはならず、剣が彼を刺し貫かなくてはならず、彼の利己心すべてが打ち殺されなくてはならないからである。そうして初めて彼は主イエスのもとに連れて行かれることができるのである。それから、彼らのうちの別の集団は斧を手に持っている。それで彼らは、私たちの高慢という密生した木立を切り倒し、私たちの義という見栄えの良い杉の木を卑しめる。彼らの隣にいる一団は、泉を石で埋め、私たちの肉的な満足という水ためをことごとく粉砕し、ついには自分のあらゆる希望を略奪された私たちが絶望に駆られるまでとなる。それからやって来るのが、真鍮の喇叭、あるいは雄羊の角笛――かつてエリコを倒壊しつくしてぺしゃんこにしてしまったものと似たもの――を持っている者たちで、彼らはそれを吹き鳴らす。その音の甲高さ、恐ろしさは、罪人が、地獄の叫喚そのものでさえ決してこれ以上恐ろしくはあるまいと思うほどである。続いてやって来る者たちは、その槍ぶすまで霊を何度も何度も串刺しにする。そして、しんがりを勤めるのが十門の大砲、律法という砲兵隊である。それは傷ついた霊めがけて不断に砲撃し続け、その霊が自分が何者で、何をしているかも分からないほどにする。愛する方々。この《雷軍団》はあなたの家にやって来たことがあるだろうか? これまで彼らがあなたの心の中で部署に就いたことがあるだろうか? というのも、確実と思って良いことだが、これらは「救いにつながること」の一部だからである。私が語ってきたことは、回心した者たちにとっては決して寓話ではない。だが、それは主を知らない人々にとっては謎であろう。人は、真に回心する前に、大きな霊の苦悶を経験しなくてはならない。私たちの、自分を義とする思いはことごとく叩き潰され、泥まみれの町通りのように踏みつけにされなくてはならない。私たちの肉的な希望は、1つ残らずズタズタに切り刻まれなくてはならない。そして私たちの数ある虚偽の隠れ家はその一切が神の怒りの雹で一掃されなくてはならない。神の律法は、罪を初めて確信させられた罪人にとってすさまじい姿に見えるであろう。「私はなんということをしたのか?」[エレ8:6]、と彼は云うであろう。あるいはむしろ、「私がしでかさなかったことがあるのか?」、と云うであろう。御霊なる神が最初に彼に確信させたときの彼を見るがいい。あなたは彼を狂人だと思うであろう。彼は、自分の世的な仲間たちからは気が狂ったと思われる。彼は昼も夜も泣き続け、涙が彼の食べ物、飲み物となる。彼は地獄の夢を見るためほとんどまんじりともできず、目覚めればすでに地獄を味わっているかのように思う。「おゝ、必ず来る御怒り、必ず来る御怒り、必ず来る御怒り!」 それが、彼の心を絶えず圧迫しているように思われる。彼はジョン・バニヤンの描くあの巡礼のようである。彼は重い荷物を背中に背負っており、いかにすればそれを取り除けるか分からない。両手をもみしぼって、こう叫ぶ。「私はどうすればよいのか? 私はもう駄目だ。私は神に反逆してきた。そして神は私に怒っておられる」。おゝ、私はこの《雷軍団》が実に恐ろしいものであると云おう。神はほむべきかな。いったん彼らが心から出て行くと、ある程度は喜びがある。だが、彼らが人の良心に根を張っている間は、私はそうした人に云いたい。できるものなら少しでも陽気に、喜びをもって飲み食いしてみるがいい、と。あのあわれな町《人霊》は、このがさつな兵士たちがそこにいる間中、黒い喪章をつけていた。厭わしい威嚇と、陰惨な予感が、そうした状態にある罪人の唯一の仲間である。彼は、自分自身の行ないにかすかな希望や慰めを見いだそうとする。そこへ《律法》の鉄槌が下り、彼のあらゆる行ないを粉微塵にしてしまう。彼は考える。よろしい、では《無関心》と《怠惰》の寝椅子で安楽にしていよう。そこへ《律法》が突入し、彼を鉾槍に縛りつけ、その十叉の鞭を手に取ると、力の限りをこめて彼を打ち叩き始め、彼の心を再び血しぶかせる。それから《良心》がその塩水をもってやって来ると、それでもう一度彼の全身を洗うのである。そして彼は途方もない苦痛を味わう。彼の寝床ですら大釘と茨の寝床となるからである。この《雷軍団》は常に《救い》に先行する。人はみな多少なりとも恐れを感じた後で回心する。人によって恐れは小さくもあれば、大きくもある。だが、ある程度まで、この恐ろしい律法のわざが魂になくてはならない。さもなければ、《救い》が人の家にやって来ることはない。
おゝ、《雷軍団》よ。あなたがたは去ってしまった。私たちは彼らの喇叭が聞こえるし、次第に消えていくその響きがなおも私たちの肝を冷やさせる。兄弟たち。私たちは、彼らが私たちの家に、また、私たちの心にいた頃の恐ろしい日々をまだ思い出すことができる。彼らは去った。彼らの後には何が見えるだろうか? それに引き続いてすぐさま現われるのは、砕かれた心である。それを見るがいい。それを蔑んではならない。神はそれを蔑んでおられないのである。あなたが蔑んではならない。「砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」[詩51:17]。私は、このあわれな砕かれた心がいかにして砕かれたかを見てとる。それは、まさにその最深奥まで切り裂かれている。それは涙に溺れている。苦悩で圧倒されている。その謙遜さをみるがいい。それは今や決して誇りについて語りはしない。その悔い改めに注目するがいい。それがかつて愛していた罪を、今やそれは憎んでいる。自己救済などについてそれは語らない。聞くがいい。この砕かれた心が、その切れ切れの言葉を口に出している。聞くがいい。――「主よ。こんな罪人の私をあわれんでください!」*[ルカ18:13] この砕かれた心のもとに行って、その姿を見ることを恐れてはならない。いかにそれは甘やかな香りを放っていることか! 神がお認めになるいけにえの神聖な芳香がそこから立ち上っている。聞くがいい。またもやそれが語っている。――「主よ。助けてください。私は滅びそうです」*[マタ8:25]。見るがいい。このあわれな砕かれた心が世にあって仕事をしているところを。それは仕事の手を休めては突如このように叫ぶ。――「おゝ、もし――あゝ、あゝ――もう遅い!」 そして、それがひとりきりになれたとき、それは自分の心を神の前に注ぎ出し、こう叫ぶ。
「汚れたり! 汚れつつ かつ罪に満つ
余さずわれは、かくありき。
陰険(よこしま)なるは わが心」。おゝ、私の魂をイエスの血で洗ってください。私の一切の咎をお赦しください。そうすれば、私はとこしえにあなたのしもべとなるでしょう。
話をお聞きの愛する方々。この砕かれた心があなたの家に来たことがあるだろうか? 確実なことと思ってほしいが、私は神ご自身の真理を語っているのである。そこに議論の余地は全くない。――この砕かれた心があなたの胸のうちにやって来ていない限り、あなたがキリストにあずかる者にはなれない。心はまず罪の確信というすり鉢の中で突き崩されなくてはならない。そして、律法というすりこ木で粉々にされなくてはならない。さもないと、それは決して《慰め主》の恵みを十分に受け取ることができない。あなたは、きょう砕かれた心だろうか? 今この時、悲しんでいるだろうか? しっかりするがいい。《救い》は遅れてはいない。いったん砕かれた心があるならば、あわれみは間近である。砕かれた心は癒しの前奏曲である。殺すお方は癒してくださり、傷つけるお方は包んでくださる[ヨブ5:18]。打ちのめしたお方は、治してくださる。神は愛をもってあなたを眺めており、あなたをあわれんでくださる。
しかし、その後に続くのは誰だろうか? 別の兵団、別の軍団である。だが、これらは他の者らとは格段に異なっている。絹物を着た軍団が引き続いて来る。これらは鋼に身を包んでいるのではない。その頭には戦の兜をかぶってはいない。微笑みを浮かべ、喜びに満ちた顔つきをしている。彼らの手にはいかなる武器もない。いかなる雷鳴も発することはなく、むしろ、あわれみ深い優しい言葉を語る。また、彼らの手には祝福が山と積まれている。この絹物を来た軍団が誰かあなたに告げても良いだろうか? こうした兵団は、あわれな砕かれた心を取っては、それをまず血で洗うのである。彼らはそれに《贖罪》の神聖な血潮を振りかける。そして、このあわれな砕かれた心が、気を失わんばかりに病み衰えていながらも、いかに私たちの主イエス・キリストの尊い血の最初の一滴を受けるかを見るのは驚くばかりである。そして、血でよく洗われたとき、この軍団の別の者が前に進み出て、この心を取り上げて、水で洗う。――というのも、水と血の双方が《救い主》の心臓から流れ出しているからである。
「あゝ、主の水と 御血潮よ
裂かれし脇より 流れ出て
罪を二重(ふたえ)に 治さしめ
われをきよめよ、咎と悪より」。そして、おゝ、それは何たる洗いであろう! かつては地獄の炭のようにどす黒かった心が、レバノンの雪のように白く見える。それがいったん《救い主》の血と水の中に浸されると、おゝ、いかにきよくなることか! ケダルの天幕のように黒かったものが、ソロモンの幕のように美しくなる[雅1:5]。それから続くのが、このあわれな砕かれた心の傷に、油と葡萄酒を注ぐ者たちである。それで、以前は疼痛を覚えていた所で、傷口が一斉に歌い出すのである。この尊い約束の神聖な油と葡萄酒はあらゆる傷に注がれる。それから後に続くのは、柔らかな指を用いて、《約束》という神聖な塗布剤で心を包む者たちである。このようにしてそれはもはや砕かれたようには見えなくなり、この砕かれた心は歌い出す。心の全体が嬉しさのあまり歌い出す。というのも、神がその力を回復させ、その傷のすべてを包んでくださったからである。神の約束の通りである。「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」[詩147:3]。そしてそれから、このみわざが完全になし終えられていないために、さらにやって来る者たちがいる。彼らは《王》の衣装箪笥をかかえており、この豊富な貯蔵庫の中から彼らは、魂を頭の天辺から爪先まで着飾らせる。彼らは魂に、燦然と輝く栄光の飾りとなりえるあらゆるものをまとわせ、御座の前の霊たちのように煌めかせる。そしてそれから、《王》の宝石細工人たちがやって来て、すべての仕上げを行なう。彼らは魂に装身具をつけさせ、それを宝石という宝石できらびやかに飾る。あの父親が云った通りである。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい」[ルカ15:22]。それと全く同じように、この《絹物を着た軍団》は、かつてはあわれで砕かれていたこの心を洗い、癒し、きよめ、美しく飾る。こうした者らがあなたの家に来たことはあるだろうか? これは寓話である。だが、それを理解している者にとっては、手に取るように分かることである。罪人よ。あなたにキリストの血が塗られたことはあるだろうか?
「汝れは仰ぎて よく見うべきか、
たましい贖う 主の血の河を。
神より堅く 知らされて、
神との和解 主 汝れに得しと」?あなたは、今この時、あなたの手をキリストの愛しい頭に置いているだろうか? 自分の罪を告白し、主が自分に代わって罰されたと信じているだろうか? 信じられるだろうか? ならば、まことに救いはあなたのものである。また、あなたの心は水で洗われたことがあるだろうか? 云うがいい。あなたは罪を憎んでいるだろうか? あなたの咎はみなきよめられ、その咎の力は切り取られているだろうか? それであなたは不義の道を愛しておらず、そむく者の通り道を走ろうとはしていないだろうか? ならば、あなたは天国の相続人である。また、云うがいい。あわれな罪人よ。あなたはイエスの義という衣を着せられているだろうか? あなたは、自分が《愛する方》にあって受け入れられたと、甘やかな希望をいだけるだろうか? 私は目に涙を浮かべているあなたが見えるような気がする。また、あなたがこう云うのが聞こえるような気がする。私は時として心の底からこう歌ったことがあります、と。
「イェスよ。汝が血と 汝が義とは
わが麗しき 栄えのころも。
燃ゆる世にても これをまとわば
われ喜びて こうべを上げん。かの日も大胆(つよ)く われは立たん。
そは誰(た)ぞわれを 非難(せ)めうべき。
主の血のまたく われ解(と)きたるに、
罪のすさまじ 呪い、恥辱(はじ)より」。さて今、私たちはまだ《救い》の完全な確信に至ってはいない。この《絹物を着た軍団》は去った。彼らの旗じるしはなおも翩翻とひるがえっており、彼らの約束の喇叭はなおも大気を旋律で喜ばせている。次に何が来るだろうか? ここにやって来るのは、《救い》の実際の供回りとなっている者たち――あるいは、むしろ、その直前の隊伍で行進している者たちである。この者たちは四人いる。それは、悔い改め、謙遜、祈り、繊細な良心と呼ばれる。《救い》の完全な確信の直前に行進しているのは謙遜である。彼女はうなだれた様子をしている。悲しんでいるのではないが、思い上がった顔つきはしていない。彼女は目を上げて、神の誉れが宿っている場所を見ようなどとはほとんどしない。多くの場合、彼女はうつむいており、自分の以前の状態を思い出し、自分のかつての生活のあらゆる苦さや咎について考えている。彼女は決して神が自分のためにしてくださったことを誇らない。自分の掘り出された穴[イザ51:1]と泥沼を見つめる。自分が《救い主》の血によって洗われたことは分かっているが、洗われる前の自分がいかにどす黒かったかを覚えており、おゝ、現在のことは喜んでいても過去のことを嘆いている。彼女は自分の弱さを感じている。自分ひとりで立とうなどとはしない。彼女の《愛する方》の御腕によりかかる。この方が絶えず支えておられなければ自分が地に倒れ伏すと分かっているからである。彼女と肩を並べているのが、彼女の妹の《悔い改め》と呼ばれる者である。彼女は涙によって、《王》の御前に埃が立たないようにしている。彼女はどこへ行こうと泣いている。そして、もしあなたがその理由を尋ねれば、彼女はこう云うであろう。自分が泣いているのは地獄が恐ろしいためではありません。――それはみな去ってしまいました。向こうに見える《絹物を着た軍団》が、と彼女はあなたに云うであろう。自分の涙をすべて拭い去ってくれました。むしろ、自分が泣いているのは、自分が自分をこれほど愛してくださった主を打ったからなのです。それで彼女は自分の胸を叩きながら、こう叫ぶのである。――
「そは汝れ、わが罪、わがむごき罪、
主を苦しめし おもだてる者。
わが咎は みな釘となり、
わが不信こそ 槍となれり」。彼女の《救い》について彼女に告げれば告げるほど、彼女は、そのような《救い主》に向かって自分が反逆などということを行なったことを思って泣く。彼女は自分の罪が拭い去られたことを確信している。自分の《主人》から自分が赦されていることを知っている。だが、彼女は決して自分を赦そうとは思わない。それから、《悔い改め》と肩を並べているのが、《祈り》という者である。彼は祭司であり、その手には、かぐわしい香を一杯に盛った香炉を持っている。それは《王》への道が整えられるため、また、自分が行進するにはどこにでも甘やかな芳香があるようにするためである。《祈り》は真夜中に起き上がっては神を呼び求める。その目覚めている目は、日の出に挨拶する。それが、その心をエホバに持ち上げるためである。また、日が沈むときに《祈り》は、日輪が請願をその戦車に積みもしないままその車輪を地平線の下に隠したりしないようにする。そして、《救い》に直接つながっているこの仲間たちのうちの第四の者は、繊細な《良心》である。この繊細な《良心》は、ほとんど一歩も前へ踏み出せない。その足を間違った場所に下ろすことを恐れるからである。あわれな繊細な《良心》よ。ある人々はお前を蔑んでいる。だが、彼は《王》の心には愛しい。私の兄弟たち。私は、あなたや私がもっと彼について知ることができればと思う。私は、以前は良心が非常に繊細であると気づくことがよくあった。それで、もう一度そう感じたいと願うものである。その頃には、私たちはあらゆる行為について、それを行なう前に、それが正当であるかどうか問いただしていた。またその頃の私たちは、たといそれが正当なものであったとしても、立ち止まって、それが得策かどうかを確かめようとするものであった。そして、たといそれが得策であると思ったても、それでもそれが主なる私たちの神に大いに誉れを帰すものであると感じるのでない限り、それを行なおうとはしないものであった。私たちは、虚偽を信ずるといけないからといって、あらゆる教理の前でためらいを感じたものであった。偶像礼拝を犯すことになるといけないからといって、あらゆる規定を吟味した。繊細な《良心》が私たちとともにいた頃は幸いな日々であった。だが今、話をお聞きの方々。あなたはこうした四人について何か知っているだろうか? 謙遜はあなたのもとにやって来たことがあるだろうか? 彼女があなたの高慢を地にまみれさせ、神の御前でちりの中に伏すことを教えたことがあるだろうか? 悔い改めはあなたの心の床を涙で洗ったことがあるだろうか? あなたは自分のもろもろの罪ゆえにひそかに泣かされたこと、あなたの不義を嘆き悲しんだことがあるだろうか? 祈りはあなたの霊に入ったことがあるだろうか? 覚えておくがいい。祈りのない魂は、キリストのない魂である。あなたは祈ることを学んだことがあるだろうか? 鸚鵡の口真似のようにではなく、心の常に清新な表われとしての祈りを学んだことがあるだろうか? そして最後に、あなたの良心は繊細だろうか? というのも、あなたの良心が繊細にされていない限り、救いはあなたと出会っていないからである。というのも、これらは救いに直接伴っている事がらだからである。
III. そして、ここでやって来るのが、《その満ち満ちた豊かさにおける救い》である。「救いにつながること」は、その前面で壮麗な行進をしている。――《選び》から始まって、こうした、罪人の心の中でほころびかけている尊い美徳のつぼみに至るまで、これは何と麗々しい陣立てであろう! 確かに御使いたちは時として賞賛の念に打たれつつ飛び交っているであろう。また、《救い》の先駆けとなっているこの長大な陣立てを心に銘記しているであろう。そして今やって来るのが、貴石と宝玉に満ちた貴重な小箱である。それは、神ご自身にふさわしい名工のわざであり、いかなる金槌もその上で持ち上げられたことはない。それは《永遠の光》という鉄床の上で鍛造され、形成され、《永遠の知恵》という鋳型に流し込まれたものではある。だが、いかなる人間の手もそれを汚したことはない。そして、それには到底言葉に尽くせないほど尊い宝石を嵌め込まれているため、たとい天地を売り渡しても、もう1つ別な《救い》を買い取ることは決してできないであろう! では、いかなる者たちが、それに身近に接しているだろうか? そこには、麗しい三姉妹がいて、常にこの宝を保護している。――あなたは彼女たちを知っている。その名は聖書の中でよく見かけられるものである。――《信仰》、《希望》、《愛》という天来の三姉妹である。この者たちが《救い》をそれぞれの腰まで持ち上げては、それをかかえて行くのである。《信仰》は、キリストをつかみ、すべてをキリストにまかせるもの、主の血といにえとに一切を賭けて、他の何物にも信頼を置かないものである。《希望》は、にこやかな目をして栄光のうちにおられるイエス・キリストを見上げて、主がすぐにも来られることを期待する。下を見て、自分の道の上に気味の悪い《死》があるのを見るときも、自分が勝利をもって通り抜けることを期待する。そして、おゝ、甘やかな《愛》よ。三人の中で最も麗しいこの者は、その言葉が楽の音であり、その目は星々である。また愛は、キリストを仰ぎ見て、キリストに魅了されている。そのあらゆる職務におけるキリストを愛し、その臨在を賞賛し、そのことばを畏敬し、わが身を火刑柱に縛りつけてもキリストのために死ぬ覚悟ができている。キリストは、ご自分の身を十字架に縛りつけ、彼女のために死んでくださったのである。甘やかな愛よ。神がもこの神聖なみわざの保護をお前に任せることをお選びになったのもむべなるかな。《信仰》、《希望》、そして《愛》――さあ、罪人よ。あなたにはこの3つがあるだろうか? あなたは、イエスが神の御子であると信じているだろうか? あなたは、イエスの功績の効力により、あなたの《造り主》と喜びをもって顔を合わせることを希望しているだろうか? あなたは、イエスを愛しているだろうか? さあ、あなたは私の後についてこう云えるだろうか?
「イェス、われ愛さん、汝が麗しき名を、
わが耳に、そは 妙なる調べ。
われ、そを高く 響かせまほし、
あめつち共に 聞きうるごとく。おゝ、わが魂(たま)に汝れ 上なく尊く
果てなき喜び わが身の頼り
汝れに宝石(たから)は 華美なる玩具
黄金(こがね)は卑しき ちりひじならん」。あなたには、これらの恵みがあるだろうか? あるとしたら、あなたは《救い》を有している。これらがあるなら、あなたはいかなる至福の点から見ても富んでいる。というのも、神はその《契約》においてあなたのものだからである。あなたの目を前方に投げかけるがいい。思い出すがいい。《選び》はあなたのもの、《予定》と《主権の聖定》はともにあなたのものなのである。思い出すがいい。律法の恐怖は過ぎ去っている。砕かれた心は喪に服している。キリスト教信仰の数々の慰めをあなたはすでに受け取っている。種々の霊的な恵みはすでに芽吹いている。あなたは不死の相続人であり、あなたには栄光に富む未来がある。こうした事がらが「救いにつながること」である。
IV. さて、ぜひとも、もうほんのしばし私に忍耐してほしいと思う。《私は後衛部隊を繰り出さなくてはならない》。このような前衛部隊を擁する恵みが、後部には何も伴っていないというようなことはありえない。では、《救い》に続く者たちを見てとるがいい。その前面を麗しく輝く智天使たちが歩いていたのと同じく――あなたは、まだその名を覚えているであろう。――《謙遜》、《悔い改め》、《祈り》、そして繊細な《良心》である。――、それに続く者たちも四人いて、罪人の心の中を厳粛な物々しさで行進してくる。その第一の者は《感謝》である。――これは常にこう歌っている。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ」[詩103:1]。そしてそれから、《感謝》はその息子の手をつかんでいる。その子の名は《従順》である。「おゝ、わが主人よ」、とその心は云う。「あなたは私のためにこれほどのことをしてくださいました。私はあなたにお従いします」。――
「走らせ給え 汝が命により、
こは喜ばしき 路ならん。
わが手も、足も、心をも
背かせ給うな、わが神に」。この美しい恵みと連れ立っているのが、《献身》と呼ばれる者である。――それは、いかなる俗塵にもまみれていない純白の霊であって、その頭から爪先まで、一切が神のものであり、すべてが純金である。それが語る言葉を聞くがいい。――
「わが身も、われの持つものも
みな永遠(とこしえ)に 汝がものぞ。
義務(つとめ)が何を 求むるも
わが手ことほぎ 明け渡さん。わがすべてをば 主にささげずば
こはわが義務(つとめ)ならざるや、
われの、わが神 熱心(あつ)く愛して
残りなくみな 神に献(ささ)ぐは」。この輝く者につらなっているのが、澄み切った厳粛な顔立ちの者で、《知識》と呼ばれている。「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう」[ホセ6:3]。救われた者たちの《知識》は奥義を理解する。彼らはキリストの愛を知る。彼らは、その方を知ることが「永遠のいのち」であるお方[ヨハ17:3]を知るのである。
さて、あなたはこうした4つを持っているだろうか? 彼らは《救い》の先導者というよりは、その従者である。「はい、持っています」、と信仰者は云えるであろう。「私は、自分が《感謝》と《従順》と《献身》と《知識》を持っていると思います」。私は長々とあなたを煩わすまい。だが、この四人の後に続く、三人の光輝く者がいる。彼らを忘れるわけにはいかない。というのも、彼らはこの全員の中の精華だからである。そこには、火のような目を持つ《熱心》がいる。その心は炎であり、その舌は燃え盛り、その手は決して倦むことがなく、その四肢は決して疲れることがない。《熱心》、それは稲妻の閃きよりも速い翼をもって世界を飛び回り、それでいてさえ、自分の翼が自分の願いにくらべれば遅々としたもののように思う。《熱心》、それは常に喜んで従い、キリストのために自分を捨て去り、良いことのためには常に心を動かされてやまない。この《熱心》が常に寄り添っているのが、《交わり》と呼ばれる者である。これは確かに、一行全体の中でも最も敬虔な者に違いない。ある御使いを霊化して、ある御使いをきよめて、さらに一層天使的にしたもの、それが《交わり》である。《交わり》は内密にその神を訪れる。その神は内密に謁見なさる。これはイエスのかたちと一致している。イエスの足跡に従って歩む。イエスの胸にその頭を不断にもたせかけている。そして、必然的な結果として、《交わり》の反対側には――片方の手では《熱心》をつかんでいる《交わり》のもう片方には――《喜び》がいる。――御霊にある《喜び》である。《喜び》、それはこの世の歓楽が定命の美に与えることのできるいかなるものにもまして輝く目をしていて、悲しみの丘々をも足どり軽く踏み越え、険阻きわまりない路にあっても、真実さと愛との歌を歌う。《喜び》は、夜啼鳥のように、暗闇の中で歌い、暴風の中でも神を賛美することができ、嵐の中でもその高い賛美を朗々と歌える。これは実際、《救い》の後衛にいるにふさわしい智天使たちである。このもう三人を忘れてはならない。《熱心》、《交わり》、《喜び》――彼らは御霊の後々のわざであって、非常に見事な腕の冴えを示している。
さて、私はほとんど話を終えている。その直後にいるのは、《堅忍》である。最終的で、確実で、確かな堅忍である。それに続くのが完全な《聖化》であって、それによって魂はあらゆる罪からきよめられ、神ご自身のように純白で、きよい者とされる。さて、私たちはこの軍隊の最後尾に達している。だが、覚えておくがいい。前衛部隊の中に、先行しすぎていて私たちの目には見えない者らがいたのと同じく、後衛部隊の中には、あまりにも遅れてついて来るため今は私たちの目につかない者たちがいるのである。ただ信仰の目によってそれを見てとってみよう。私たちはこの軍隊を見てきた。それを、聖霊によって導かれる《雷軍団》から辿り、ついに完全な《聖化》によって終結するに至った。聞くがいい。私には、銀の喇叭の響きが聞こえる。背後には、栄光に富む陣立てが続いているのである。はるか彼方のずっと後方から、征服者たる英雄たちの足どりを辿り、彼らが私たちの罪をすでに一掃してしまった後からついて来る近衛隊がある。あなたにはその前面にいる者が見えないだろうか? 人々はその者を骸骨として描いている。彼を見るがいい。彼は恐怖の《王》ではない。私はお前を知っている。《死》よ。私はお前を知っている。みじめにも人々はお前について嘘を云ってきた。お前は王笏など握っていないし、お前の手に投げ矢はない。お前はやせこけてもいなければ、恐ろしげでもない。私はお前を 知っている。お前は輝く智天使である。お前が手に持っているのは投げ矢ではなく、黄金の鍵である。パラダイスの門を開く鍵である。お前は見るに慕わしく、お前の翼は鳩の翼のように銀で覆われており、黄金色をしている。この《死》という御使いを見るがいい。そして、彼の後に続く《復活》を見るがいい。私は三人の輝かしい者たちがやって来るのが見える。ひとりは《確信》と呼ばれている。見るがいい! それは《死》を眺めている。何の恐れもその目には浮かんでおらず、その顔色は全く青ざめてはいない。聖なる《確信》がいかにしっかりとした足どりで行進しているか見るがいい。《死》の冷たく縮みあがるような流れは、その血を凍らせない。その後ろにいる、その兄弟たる《勝利》を見るがいい。彼がこう叫ぶのを聞くがいい。「死よ。おまえのとげはどこにあるのか? 墓よ。おまえの勝利はどこにあるのか?」[Iコリ15:55 <英欽定訳>] この最後の言葉、「勝利」は、《御使いたちの歓呼》にかき消されてしまう。これがしんがりを勤めるのである。御使いたちは、贖われた者たちの霊を抱きかかえ、《救い主》のふところの中に入れる。――
「嘆きと罪の 世より離れて
永久(とわ)に神とぞ ともに閉ざさる。
その祝福は とこしえにあり」。さて今、永遠の歌が続く。――「主をほめたたえよ。主をほめたたえよ。王の王、主の主。主は主に勝利をもたらしたのだ。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、とこしえまでも! ハレルヤ! それをもう一度!」 この永遠のこだまを、未来永劫に叫ばせるがいい。「ハレルヤ!」
「《救いにつながること》のゆえに」
救いにつながること[了]
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