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キリストのへりくだり

NO. 151

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1857年9月13日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」。――IIコリ8:9


 使徒はこの章において、力を尽くしてコリント人たちを奮い立たせ、物惜しみをしない者にしようとしていた。彼らが群れの中の貧しい者たちに施し物をし、自分がそうした者の必要を満たせるようになることを願っていた。彼がコリント人に告げているところ、マケドニアの諸教会は、コリント教会よりも格段に貧窮していたにもかかわらず、自分たちの資力すら越えるほど、主の家族を救援するために事を行なっていた。それで彼は、コリント人たちにも同じようにするよう勧告しているのである。しかし、目下の者たちから取られた手本はめったに力強い効果を及ぼさないことをふと思い出した彼は、マケドニアの教会から引き出された自分の議論は脇へ置き、彼らが気前良く与える者となるべき別の理由を彼らに突きつけている。それは、ひとたび御霊によって適用されたならば、いかにかたくなな心も到底抵抗できないような理由であった。「私の兄弟たち」、と彼は云う。「天にはひとりの《お方》がおられる。あなたは、その方によって救われると希望している。その方を《先生》とも主とも呼んでいる[ヨハ13:13]。さて、もしあなたがこの方に見習いさえするなら、決してけちくさくなったり、物惜しみしたりできないであろう。というのも、私の兄弟たち。私はあなたに1つのことを告げたいからである。それは、あなたが昔から聞いていたことであり、明白な真実にほかならない。――『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです』。このことゆえに、いやでも慈善を行なうがいい」。おゝ、キリスト者よ。神の教会にものを与えるのを控えようとする強欲な心になりかかったときは常に思うがいい。あなたの《救い主》が、すべてを捨てても、あなたに必要なものを与えてくださったことを。ではあなたは、これほど高貴な自己否定を見ていながら、利己的になることができるだろうか? 群れの中の貧しい者があなたの前で窮迫しているというのに、自分ひとりを大事にしていられるだろうか? イエスを思い出すがいい。主があなたを真っ向から見据えて、こう仰せになると考えてみるがいい。「わたしは、自分をあなたのために捨てた。だのに、あなたは自分をわたしに与えまいとするのか? もしあなたがそうするというのであれば、あなたは私の愛を、その高さ、深さ、長さ、広さのすべてにおいて知ってはいないのだ」。

 さて今、愛する方々。この使徒の議論こそ、きょうの私たちの主題である。それは、きわめて単純にこのように区分される。まず第一に、私たちの《救い主》の元々の状態がある。――「主は富んでおられた」。次に、主のへりくだりがある。――「貧しくなられました」。それから、主の貧しさの効果と結果がある。――「私たちが富む者となるためです」*。その後しめくくりとして私たちは、あなたに1つの教理、1つの問い、1つの勧告を示すことにしよう。願わくは神がこれらすべてを祝福し、私たちを助けてそれらを正しく語れるようにしてくださるように。

 I. では、第一に、本日の聖句は私たちに、《イエス・キリストが富んでおられた》、と告げている。私たちの《救い主》が《処女マリヤ》から誕生したときに、その生を始めたと考えてはならない。主の存在が、あのベツレヘムの飼い葉桶に端を発していると想像してはならない。思い出すがいい。主は《永遠者》なのである。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っているのである[コロ1:17]。神がおられなかった時は、一度もない。まさにそれと同じく、私たちの主キリスト・イエスがおられなかった時期は決してない。主は自存の方であり、その生涯の初めもなく、年齢の終わりもない[ヘブ7:3]。主は不死の、目に見えない、唯一で全知の神、私たちの《救い主》であられる。さて、この世に対する主のご使命の始まる前に経過した永遠の過去において、イエス・キリストは富んでおられたと告げられている。そして、私たちの中でも、主の栄光を信じ、主の神性に信頼している者らにとっては、主がいかなる意味でそうあられたかを見てとることは困難ではない。イエスは資産において富んでおられた。あなたの目をあげるがいい。信仰者よ。そして、しばしの間、あなたのためにへりくだって貧しくなる前のわが主イエスの富をもう一度眺めてみるがいい。見るがいい。主はその御座に着き、ご自分がすべてに満ち足りていると宣言しておられる。「わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。千の丘の家畜らはわたしのものだから[詩50:12、10]。秘められた黄金の宝はわたしのもの、潜水夫も達することのできない真珠はわたしのもの、地が見たことのあるすべての宝はわたしのものである」。主イエスはこう仰せになることができた。「わたしは、わたしの王笏を東から西へ差し伸ばすことができる。そして、すべてはわたしのものである。この世のすべて、また、はるか彼方の空間で輝く諸世界は、みなわたしのものである。果てしなく広がり、私が作った世々に満ちている、この無限の空間のすべてはわたしのものである。高く飛びかけるがいい。それでも、私の領土の山頂に達することはできないであろう。地の底へ潜るがいい。それでも私の統治の内奥の深みに入り込むことはできないであろう。栄光のうちにある最も高い王座から、地獄の最底辺にある穴まで、すべては例外なくわたしのものである。わたしは、わたしの造ったあらゆるものの上に、わたしの王国の太い矢印をつけることができる」。

 しかし、主はそれに加えて、人々をさらに豊かにするものをお持ちであった。私たちは古の時代の王たちのことを聞いたことがある。彼らは信じられないほど富裕であり、彼らの富の大略が語られたとき、古いお伽噺にはこう記されている。「そして、この人には賢者の石があり、それによって何でも黄金に変えることができたのです」。確かに、彼がそれ以前に所有していたいかなる宝も、しんがりをつとめるこの宝石にくらべれば無であったに違いない。さて、造られた物におけるキリストの富がいかなるものであったにせよ、主には創造の力があり、そこにこそ主の無限の富があった。主は、望みさえすれば、ことばを発してそれを存在させることがおできになった。小指を一本あげさえすれば、現在の宇宙と同じくらい広漠な新しい宇宙がいきなり存在していたはずであろう。主の意のままに、無数の御使いたちが主の御前に立ち、おびただしい数の輝く霊たちが閃き現われたであろう。主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立った[詩33:9]。「光よ。あれ」[創1:3]、と仰せになると、光ができたお方には、万物に向かって、「かくあれ」、と仰せになる権威を持っておられる。ならば、ここには主の富があるのである。この創造の力は、主の冠の中で最も光輝く宝石の1つにほかならない。

 また、私たちは、栄誉ある人々をも富んでいると云う。そして、これ以上ないほど富が有り余っている人々でも、不名誉と恥辱にまみれている場合には、自分を富者の仲間とみなすことはないに違いない。しかし、私たちの主イエスには栄誉があった。天来の存在以外の何者も受けることのできないほどの栄誉である。主がその御座に着いておられたとき、また、主が人になるため、その主権という輝かしい外衣を放棄する前には、全地は主の栄光で満たされていた。主はご自分の下にあるものも、周囲にあるものも、すべてを眺め渡すことができ、全宇宙には、「神に栄光あれ」、との銘が刻まれていた。昼となく夜となく、畏敬とともに伏し拝む霊たちの携える黄金の弦楽器から、賛美の香りが御前に立ち上っていた。おびただしい数の智天使や熾天使の立琴が絶え間なく主への賛美にかき鳴らされ、こうした力強い軍勢全体の声は常に崇敬を雄弁に語っていた。もしかすると、定めの日には、はるか遠方の領土からの王侯たち、王君たち、主の無限の領土の有力者たちが、キリストの宮廷に伺候し、おのおのがその年ごとの貢物を持ち来たったかもしれない。おゝ、そうではなかったと誰に知れよう。広漠たる永遠の、ある特定の壮大な時代には、大鐘が鳴り響くと、造られたすべてのものが大挙して集まり、主の御座の前における厳粛な謁見に臨んだのかもしれない。そうでないと誰に云えよう。天の宮廷で祝されていた祭日には、こうした輝かしい霊たちが主の御座の前で喜びと楽しみの内にひれ伏し、もろともに、定命の耳が一度も聞いたことがないような叫びとハレルヤの声をあげたのかもしれない。おゝ、神の都の間近を流れていた賛美の川々の深みがあなたに分かるだろうか? イエス、メシヤ、《王》、《永遠者》、父なる神と同等であられたこのお方の耳に絶えず注ぎ込まれていた調べの甘やかさを、あなたがたは想像できるだろうか? 否。その御国の栄光を思うとき、また、その御力の富と威光を思うとき、私たちの魂は自らの内側で肝を潰し、私たちの言葉は出て来ず、私たちは主の栄光の十分の一も口にすることができない。

 主は、それ以外の意味でも貧しくはあられなかった。地上でいかなる富、また栄誉を有している人も、を持っていなければ貧しい。私は、人々の恵みに頼って生きる乞食となっても愛を有している方が、王侯となっても蔑まれ、憎まれ、死ねばせいせいしたと云われる者であるよりは良いと思う。愛がなければ、人は貧しい。――定命の者に考えられる限りの金剛石や真珠を有していても関係ない。しかしイエスは愛において貧しくはなかった。決して主は、その魂が孤独だったために地上に来て、私たちの愛を得ようとされたのではない。おゝ、否。主の御父は永遠の昔から主を完全に喜びとしておられた。《聖三位一体》の第一位格なるエホバの心は、神聖に、また、不変に主と結びついており、主は御父および聖霊の愛するお方であった。この三位格は互いに神聖な充足と楽しみをいだいておられた。またそれに加えて、いかに主は、あの、堕落することのなかった輝かしい霊たちから愛されていたことか。私は、いかに無数の造られた階位や被造物たちが、今なお神に従順な者としてあり続けているものか検討がつかない。果たして造られた存在の中に、私たちの知る地上に造られた人間たちと同じくらい多くの種族がいるかどうかを知ることは不可能である。私たちは、果てしない宇宙の境域の中に、自分よりも無限にすぐれた者たちが住んでいる世界があるかどうかを知らない。だが、これだけは確かである。世界には聖なる御使いたちがいたし、彼らは私たちの《救い主》を愛していた。彼らは昼夜を問わず、翼を張り伸ばして立っており、主の命令を待ち、主のことばの声を聞こうとしていた。そして、主が彼らに飛べと命ぜられたとき、彼らの顔には愛が、彼らの心には喜びがあった。彼らは主に仕えることを愛していた。そして、これは全くの虚構とは云えないことだが、天に戦いが起こり、神が悪魔とその軍団を放逐されたとき、選ばれた御使いたち[Iテモ5:21]は、主に対するその愛を示し、戦いの勇士となり、その力は強かった。主が私たちの愛を求められたのは、ご自分を幸せにするためではなかった。私たちなどいなくとも主は十分愛に富んでおられた。

 さて、天界からひとりの霊がやって来て、イエスの富についてあなたに告げようとしたとしても、彼にはそれができなかったであろう。ガブリエルよ。あなたは、その飛翔において、私の想像力が追える高みを越えて上っていったが、それでもあなたは決して神の御座の頂きに達したことはない。

   「耐ええぬ光の暗くして、汝が裳裾(もすそ)こそ現われぬ」。

イエスよ。誰にあなたの《威光》の額を見ることができるでしょう。誰にあなたの力ある御腕の強さが悟れましょう。あなたは神であり、無限であられます。そして私たちは、あわれな有限のものであり、あなたの中に埋没しています。一時間も生きていない昆虫には、あなたを理解することができません。私たちは、あなたの前に額ずきます。あなたをあがめます。あなたは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です[ロマ9:5]。しかし、あなたの無窮の富を理解すること、あるいは、あなたの宝を悟ること、あるいは、あなたの豊かさを勘定すること、それは、できるものではありませんでした。私たちに分かるのはせいぜい、神の豊かさ、無限者の宝、永遠の富が、みなあなたご自身のものだということでした。あなたはいかなる思いも越えて富んでおられました。

 II. こういうわけで、主イエス・キリストは富んでおられた。私たちはみな、それを信じている。私たちのうち誰ひとり、それを真に云い表わすことができないとしても関係ない。おゝ、御使いたちは、最初にこのことを知らされたとき、いかに驚愕したことか。イエス・キリスト、《光と威光の君》が土くれを身にまとい、赤子となり、生涯を送った上で死ぬというのである! 私たちは、それが最初いかにして御使いたちに告げられたのか分かっていないが、その噂が最初にこの神聖な群れの間に流れ出したとき、そこにいかに尋常ならざる驚異の念が巻き起こったかは想像できよう。何と! あの星々でくまなく飾られた冠をお持ちのお方が、その冠を脇へ置こうとしているというのは本当か? 何と! 全宇宙の紫衣を両肩に打ち掛けておられるお方が人間になり、どん百姓の服を着ようというのは確かなのか? 永遠にして不死のお方が、いつの日か十字架に釘づけられるなどということが本当にありえるのか? おゝ! いかに彼らの驚異は増し加わったことか! 彼らはその真相を知ろうと切望した。そして、主が高き所からお降りになったとき、彼らは主について来た。というのも、イエスは「御使いたちに見られ」[Iテモ3:16]、というとき、それは特別な意味で見られたからである。というのも、御使いたちは、驚天動地の心持ちで主を眺め、これが一体どういうことかと思い惑っていたからである。「主は私たちのために貧しくなられました」*。あなたには、この天国の光が消滅した日、主がご自分の威光を脱がれる模様が見えるだろうか? おゝ、あなたがたは、この行為が現実に行なわれたとき、この天の軍勢の驚嘆の念がいかにいや増し加わったか思い描けるだろうか? 彼らは、その宝冠が取り去られるのを見た。主がその星々の帯を解き、その黄金の履き物を脱ぎ捨てるのを見た。あなたがたには考えられるだろうか? 主が彼らに向かって、「わたしは、かの処女の胎を見下しはしない。地上に降って人になるつもりだ」、と仰せになったときのことを。あなたは思い描けるだろうか? 自分たちもついて行きます、と彼らが主に云い張ったときの様子を。しかり。彼らは主がお許しになる限度一杯まで主につき従った。そして、地上にやって来たとき彼らは歌い始めた。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」[ルカ2:14]。そして彼らは羊飼いたちを驚嘆させ、天が新しく生まれた《王》に敬意を表して新しい星々を掲げるまで、立ち去ろうとはしなかった。さあ今、驚くがいい。あなたがた、御使いたち。《無限者》が幼子となられたのである。全宇宙を双肩にかけておられるお方が、その母の乳房にすがりついているのである。万物を創造し、被造世界の支柱を支えておられるお方が、今やひとりの女に抱きかかえられなくてはならないほどひ弱になってしまったのである! そして、おゝ、あなたがた、主の富を知っていた者たち。主の貧しさを賞賛しつつも驚くがいい! この新しく生まれた王はどこに眠るだろうか? カエサルの宮殿内でも最上の部屋を有しているだろうか? 黄金の揺りかごが彼のためには用意されていただろうか? 羽毛を詰めた枕が、その頭を休めるために備えられていただろうか? 否。雄牛のえさをはむ所、みすぼらしい馬小屋の飼い葉桶の中に《救い主》は横たわり、貧民の子どもたちが巻くような巻き布にくるまれているのである。彼はそこに長い間とどまってもいなかった。突如として彼の母は彼を連れてエジプトへ行かなくてはならなかった。彼はそこへ行き、異国暮らしをする異邦人となるのである。また、帰国した際の彼を見るがいい。世界という世界を造ったお方が、金槌と釘を扱い、父の手伝いの大工仕事をしているのである! 彼をよく見るがいい。高き所に星々をかけ、それらを夜に光らせたお方を。彼をよく見るがいい。その額に栄光の星を1つもかけていないお方を。――これは、他の子どもたちと同じように素朴な子どもである。だが、彼の幼年期や少年期の光景はしばし放り出し、成人した彼を眺めるがいい。そして今あなたがたは云うであろう。私たちのために本当に彼は貧しくなられたのだ、と。キリストほど貧しかった者はいない。主は貧困の王であった。彼はクロイソスとは正反対であった。――彼なら富という山麓の頂上に立つことができたであろうが、キリストは貧困の最下等の谷間に立っておられた。彼の服を見るがいい。それは上から全部一つに織った[ヨハ19:23]貧民の服であった! その食物については、主はしばしば飢え、常に他人の憐れみに頼ってご自分の必要を満たしておられた。世界の広大な地所に収穫をまき散らされたお方が、時として空腹の痛みを鎮めるものを持たないことがあったのである。大海洋の水源を掘られたお方が、井戸の傍らに腰をかけ、ひとりのサマリヤの女に向かって、「わたしに水を飲ませてください」[ヨハ4:7]、と云われたのである! 主は何の戦車にも乗ることなく、痛む足をひきずりながら、火打ち石のように固いガリラヤの大地を縫って大儀な道を歩かれた。主には枕する所もなかった。主は、その巣穴へ急ぐ狐を眺め、その休み場へ向かう鳥を見ては、こう云われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、わたし、人の子には枕する所もありません」*[マタ8:20]。かつては御使いたちによって仕えられていたお方が、しもべのしもべとなり、手ぬぐいを取って腰にまとっては、ご自分の弟子たちの足を洗わっておられるのである[ヨハ13:4-5]。かつては世界という世界のハレルヤによって誉れを帰されていたお方が、今はつばを吐きかけられ、蔑まれているのである! ご自分の御父から愛され、満ち満ちた愛情をふんだんに受けておられたお方が、こう云うことができたのである。「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた」[ヨハ13:18]。おゝ、このキリストの謙卑を描き出せる言葉があったならどんなに良いことか! 御座に着いておられた主と、十字架の上で死なれた主との間の懸隔のいかに遼遠なことか! おゝ、彼方の栄光の高みと、十字架という最深淵との間の広漠たる隔たりが誰に測り知れよう! 主の歩みを辿るがいい。キリスト者よ。主があなたにその飼い葉桶を残しておかれたのは、いかに神が人となるため下降されたかをあなたに示すためであった。主について行くがいい。ついて行くがいい。そのすべての旅路を通して。主とともにあの誘惑の荒野から進み始めるがいい。そこで主が断食し、空腹を覚え、野の獣とともにおられる姿を見るがいい。《悲しみの人》で病を知る[イザ53:3]者としての主の大儀な道に沿って行くがいい。主は酔いどれの代名詞となり、あざける者の歌となり、悪意ある者らから野次られた。彼らから指を突きつけられ、「酔いどれよ、大酒飲みよ」*[マタ11:19]と呼ばれておられる主を見るがいい。主の via dolorosa[悲しみの道]に沿って主について行き、ついにゲツセマネの橄欖の木々の間におられる主に出会うがいい。大粒の血の汗を滴らせておられる主を見るがいい! ガバタの敷石[ヨハ19:13]まで主について行くがいい。ローマ兵の残虐な鞭打ちの下で血糊の河を注ぎ出している主を見るがいい! 涙に濡れた目でカルバリの十字架まで主について行くがいい。そこで主が釘づけられるのを見るがいい! 主の貧しさに注目するがいい。その貧しさは、彼らが主を丸裸にし、頭の天辺から爪先まで白日の下に晒したほどであった! その貧しさは、主が彼らに水を求めたときに与えられた飲み物が酢であったほどであった! その貧しさは、枕する所もなかった主の頭が、その死に際しては茨を巻きつけられたほどであった! おゝ! 《人の子》よ。私はどちらをいやまさって称賛すべきか分かりません。あなたの栄光の高みか、あなたの悲惨の底いかを! おゝ、私たちのため殺された《人》よ。私たちはあなたを称揚すべきでしょうか? 万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる《神》よ。私たちはあなたに声の限りを尽くして歌をささげるべきでしょうか? 「主は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられました」*。かりに私がきょう、ひとりの王の物語をあなたに告げたとしよう。ある美しいおとめのために、自分の王国を捨てて彼女と同じ農民になった王の話である。あなたがたは立ち止まって感嘆し、その魅惑的な物語に耳を傾けるであろう。だが、自分の尊厳を包み隠して私たちの《救い主》となられた神について話をすると、私たちの心はほとんど感動しない。あゝ! 愛する方々。私たちはその物語をあまりにもよく知りすぎており、あまりにもしばしば聞きすぎているのである。そして、悲しいかな! 私たちの中のある者らは、口の悪いことにこのように云いさえする。その主題が要求するほどの関心を、人にいだかせられるなどと期待する方が無理なのだ、と。しかし、確かに、ある種の偉大な大建造物について云われているのと同じように、――すなわち、たといそれを毎朝目にしている人にとっても、そこには何か常に感嘆すべき新しいことがある、と云われるように――、キリストについても私たちはこう云えよう。たとい毎日主を見ていようと、私たちは常に愛し、感嘆し、あがめるべき何かを新しく見いだすはずである、と。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました」。

 私は常々、キリストの貧しさには、特に忘れてはならないことが1つあると考えていた。困窮の膝であやされながら育った者たちは、自分たちの状態の災いについてさほど痛切に感じはしない。しかし、それとは別に私は、その貧窮を哀れに思えるような人々に出会うことがある。彼らはかつては金持ちだった。彼らが今まとわりつかせている襤褸服そのものからして、以前の彼らが人として最高の階級にあったことは伺われる。あなたは、彼らが貧民の中でも最も貧しい者たちの間にいる所で出会う。そして、貧乏な中で生まれ育った者たちにまして彼らのことを憐れむ。なぜなら、彼らはより良いものを知っていたからである。いかに貧しい人にもまして、私が常に最も大きな苦しみを見いだすのは、先にまともな時代を見たことのある人々である。私は今でも、生活の扶助を受け取った際に私にこのように告げた人々の顔つきを思い出すことができる。――扶助といっても、私はできる限り思いやりをもって与えて、それが慈善のようには思われないようにしたのだが――、「あゝ、先生。私は今よりも幸いな日々を知っていたのです」。さて、その目には涙が浮かんでいた。その心は苦い追憶に打たれていた。このような人にとっては、いかに小さな軽視も、あるいは、ほんの少しでもあからさまにすぎる親切も、心臓をえぐる短刀となる。「私は今よりも幸いな日々を知っていたのです」、は彼らの喜びの上に鳴り渡る弔鐘のように聞こえる。そして、まことに私たちの主イエスは、その悲しみのすべてにおいてこう云うことがおできになったであろう。「私は今よりも幸いな日々を知っていたのです」、と。思うに、主が荒野で悪魔から誘惑されたとき、悪魔を粉々に打ち砕かないようご自分を抑えるのはつらいことであったに違いない。おそらくもし私が神の子だったとしたら、今の私の感情からすると、あの悪魔が私を誘惑した場合、一瞬のうちに彼を地獄の底に叩きつけていたに違いない! また、思い描いてもみるがいい。あの神殿の頂に立って、悪魔から、「下に身を投げ、私を拝みなさい」、と云われたとき、私たちの主が持ったに違いない忍耐を。主はこの邪悪な欺く者に指一本触れようとはせず、彼のほしいままにふるまわされた。おゝ! 《救い主》の心には、いかに力強い悲惨と愛があったに違いないことか。主は、ご自分の創造した人間たちからつばきを吐きかけられたのである。ご自分が見えるようにしてやったその目がご自分を軽蔑で眺め、ご自分が口をきけるようにしてやったその口がご自分をののしり、冒涜したのである! おゝ、愛する方々。もし《救い主》が私たちのように感じるお方であったとしたら、また私は、主がある程度までは私たちと同じように感じたことに疑いをいだいていないが、――ただ偉大な忍耐によって主はご自分を抑制なさったのである。――主は、彼らをことごとく一掃してしまっていたに違いないと思う。そして、彼らが云った通りに[マタ27:40]、あの十字架から降りて来ては、ご自分を救い、彼らを完全に滅ぼしたであろう。この世が、あれほどその《贖い主》をひどい目に遭わせたときにも、それを足の下に踏みながら、なおも砕かずにいることに耐えられたというのは、強大な忍耐であった。主を抑制した忍耐に驚愕するがいい。主が感じたに違いない貧しさにも驚愕するがいい。彼らが叱責してもののしり返さなかった[Iペテ2:23]その霊の貧しさに。主は、彼らから嘲られても、こう仰せになった。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」[ルカ23:34]。主は、それよりも輝かしい日々を見たことがあった。それは主の悲惨をより苦いものとしたし、主の貧しさをより貧しいものとした。

 III. よろしい。いま私たちは第三の点に至る。――《なぜ《救い主》は死ぬため、貧しくなるためにやって来られたのか?》 これを聞くがいい。あなたがた、アダムの子どもたち。――聖書は云う。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」。あなたがたのためにである。さて、私が大会衆としてのあなたがたに語りかけるとしたら、あなたは、「あなたがたのために」、というこの云い回しの美しさを感じないであろう。神を恐れて歩んでいる夫と妻よ。私にあなたの手を取らせ、正面からあなたがたを見つめて、この言葉を繰り返させてほしい。「主は、あなたがたのために貧しくなられました」。青年よ。あなたと同年代である兄弟に、あなたを見つめさせ、この言葉を繰り返させてほしい。「主は富んでおられたのに、それでもあなたのために貧しくなられました」。白髪の信仰者よ。私にあなたを見つめさせ、同じように云わせてほしい。「主は、あなたのために貧しくなられました」。兄弟たち。この言葉を心に銘記し、それがあなたを溶かさないかどうか見てみるがいい。――「主は富んでおられたのに、私のために貧しくなられました」。御霊の影響力がこの真理の上にあるよう乞い求めるがいい。そうすれば、これはあなたの敬神の念を深め、あなたの霊を愛に満たすであろう。――「われ罪人のかしらなるとも、イエスわがために死にたまいけり」。さあ、あなたの言葉を聞かせてほしい。罪人をここに連れて来て、独白させてみよう。――「私は彼を呪いました。冒涜しました。ですがしかし、私のために彼は貧しくなられました。私は彼に仕える教役者をあざけりました。彼の安息日を破りました。だのに、私のために彼は貧しくなられたのです。何と! イエスよ。あなたは、所有する価値もない者のために死ぬことがおできになったというのですか? あなたは、できるものならあなたの血を流そうとしたであろう者のために、ご自分の血を流すことができたというのですか? 何と! これほど価値なく、これほど邪悪な者のために死ぬことがおできになったというのですか?」 「しかり。しかり」、とイエスは仰せになる。「わたしはその血をあなたのために流したのだ」。では聖徒に語らせてみよう。「私は」、と彼は云うであろう。「主を愛すると告白してきました。だのに、私の愛のいかに冷たいことでしょう。いかに僅かしか主にお仕えしてこなかったことでしょう! いかに主から遠く生きてきたことでしょう。私はそうあってしかるべきほどには主との甘やかな交わりをしてきませんでした。いつ私は主への奉仕のために財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしたでしょうか? だというのに、わが主よ。あなたは云われます。『お前のために、わたしは貧しくなったのだ』、と」。「しかり」、とイエスは云われた。「悲惨に叩き込まれているわたしを見るがいい。苦悶を味わい尽くしているわたしを見るがいい。死につつあるわたしを見るがいい。――こうした苦しみすべてをわたしが受けたのはお前のためなのだ」。あなたは、このように、余りあるほどあなたを愛し、あなたのため貧しくなられたお方を愛そうとはしないだろうか?

 しかしながら、それは私たちが今あなたに提示したい点ではない。その点とはこのことである。キリストが死なれた理由は、「私たちが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」。主が富んでおられたのに貧しくなられたのは、私たちの貧しさが、主の貧しさから出た富となるためであった。兄弟たち。私たちはいま喜ばしい主題を前にしている。――《救い主》の血にあずかっている者たちは富む者となっているのである。《救い主》が死んでくださった者たちは誰でも、もしその御名を信じて、自分をこの方にささげているとしたら、きょう富んでいるのである。だがしかし、この場にいるあなたがたの中のある人々は、自分のものと呼べる土地を猫の額ほども有していない。あなたはきょう、自分のものと呼べるものを何1つ有していない。あなたは今週、自分がどのようにして糊口をしのげるか分かっていない。あなたは貧しい。だがしかし、もしあなたが神の子どもだとしたら、私はキリストの目的があなたにおいてかなえられていることを知っている。あなたは富んでいる。しかり。あなたが富んでいると云うとき、私はあなたをからかっているのではない。あなたをあざけっているのではない。――そこに掛け値はない。あなたは本当に富んでいるのである。あなたは資産において富んでいる。あなたがいま所有しているのは、宝石よりも高価で、金銀よりも価値のあるものである。銀や金は私にありません、とあなたは云うかもしれない。だが、もしあなたがそれに続いて、「キリストがすべてです」、と云えるとしたら、あなたは金銀を山と積んでいる人が云えるあらゆることよりも大胆な宣言をしたのである。「しかし」、とあなたは云うであろう。「私は無一物です」。人よ。あなたはあらゆるものを有している。あなたはパウロが何と云ったか知らないだろうか? 彼は宣言している。「現在のものであれ、未来のものであれ、世界であれ、いのちであれ、死であれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです」*[Iコリ3:22-23]。摂理という偉大な機械仕掛けの中で、あなたのために回転していない車輪は1つもない。恵みの偉大な経綸は、その満ち満ちた豊かさのすべてとともにあなたのものである。思い出すがいい。子とされること、義と認められること、聖められることは、みなあなたのものなのである。あなたは霊的な事がらにおいて、心に願えるあらゆるものを有しており、この世で生きるために必要なものすべてを有している。というのも、あなたはこのように云った人を知っているからである。「衣食があれば、それで満足すべきです」[Iテモ6:8]。あなたは富んでいる。真の富によって富んでいる。夢想の富によってではない。時として人々は夜、金銀を海岸の貝殻のようにかき集めることもあるが、朝目覚めると自分が一文無しであることに気づく。しかし、あなたの富は永遠の宝である。あなたの富は堅実な富である。永遠という太陽が富者の黄金を溶かし去るときも、あなたの富は持ちこたえるであろう。富んでいる人には、富で一杯になった水ためがある。だが、貧しい聖徒には、あわれみのがあり、泉を持っている者の方が豊かなのである。さて、私の隣人が金持ちであった場合、彼は自分の思い通りの富を有しているかもしれない。だが、それは単に水ためが一杯になっているにすぎず、じきに枯渇するであろう。だが、キリスト者には絶えず流れる泉があり、汲み出しても汲み出しても、永遠にその泉はなおも流れ続けるであろう。よどんだ水たまりは、いかに大きくとも、よどんだものである限り、ほとんど価値はない。だが、流れ続ける小川は、いかに小さく見えようとも、時間が経ちさえすれば、膨大な量の貴重な水を生み出すであろう。あなたは決して富の大きな水たまりを持つことにはならない。富は常にあなたに向かって流れ続ける。「あなたのパンは与えられ、あなたの水はきよくされる」*[イザ33:16]。古のウィリアム・ハンティングドンはこう云っている。「キリスト者には手篭分の相続分がある。多くの人は、自分の娘が結婚するとき大して多くの者を与えることがない。だが私は娘に向かってこう云う。『私はお前に、ある日は小麦を一袋送ろう。次の日にはこれこれのものを、時には黄金を若干送ろう。私が生きている限り、常にお前に何かを送ろう』」。彼は云う。「あの娘は、一千ポンドを現金で受け取ったあれの姉よりも、はるかに多くのものを有することになるだろう。それこそ私の神が私を扱っておられるしかたである。神は富んだ人には何もかも一度に与えるが、私には日々お与えになるのだ」。あゝ、エジプトよ。お前は、お前の穀物倉が一杯になっているときには富んでいるが、そうした倉は空になるであろう。イスラエルは、自分たちの穀物倉など見ることができず、天から日ごとに降ってくるマナしか見えなかったとき、はるかに豊かであった。さて、キリスト者よ。それがあなたの相続分である。――それは、常に湧き出る泉という相続分であって、すぐに空になる水ため一杯分の相続分ではないのである。

 しかし、思い出すがいい。おゝ、聖徒よ。あなたの富は、今はあなたの財産に存しているのではない。思い出すがいい。あなたは約束において富んでいるのである。人は手持ちの現金という点では貧しさのきわみにあろうとも、金持ちで正直な人からの約束手形を持っているとしたら、こう云うであろう。「私の財布には一銭も入っていないが、ここには、これこれの額の手形がある。――私はこの署名を知っている。この会社には信頼が置ける。――私は富んでいるのだ。手持ちの金は全くなくとも」。それと同じようにキリスト者はこう云うことができる。「もし私が手持ちとしては全く富を持っていなくても、私にはその約束がある。私の神は云われた。『わたしは正しく歩く者たちに、良いものを拒まない』*[詩84:11]、と。――これは私を富む者とするという約束である。神は私に告げられた。『あなたのパンは与えられ、あなたの水は確保される』*[イザ33:16]、と。私は神の署名を疑うことができない。私は神のことばが信ずべきものであると知っている。そして、神の信実さについては、神がその約束を破るだろうと思うほど、神に不名誉を帰そうとは思わない。しかり。この約束は、それそのものと同じくらい確かである。もしそれが神の約束だとしたら、私がそれを持つことになるのは、いま私がそれを持っているも同然に確実である」。

 しかし、さらにキリスト者は、死後の財産において非常に富んでいる。私は、自分の知っているある老人が死ぬと、巨万の富を手に入れ、黄金が敷き詰められ、宝石を壁にして建てられた場所に住むことになると思う。しかし、愛する方々。あなたがたはみな、やがて死ぬべき老人[古い人]を有しているのであり、彼が死んだとき、もしあなたがイエスに従う者だとしたら、自分の相続財産を手に入れるであろう。あなたは、その古い人が誰か知っている。彼は非常にしばしば聖書で語られている。願わくはその古い人が、あなたの中で日ごとに死に、新しい人があなたの中で強められるように。その腐敗した古い人、あなたの古い性質がその墓へとよろめき入るとき、あなたは自分の所有地へと入るであろう。キリスト者は相続人のようである。相続人は、未成年の間はさほど多くのものを持っていないが、キリスト者はいま未成年者なのである。だが、彼らが成年に達するとき、その財産のすべてを手に入れることになる。もし私がある未成年者に会うならば、彼は云うであろう。「これは私の所有財産なのです」。「あなたはそれを売り払うことができませんよ。あなたは、それに手をかけることはできませんよ」。「ええ」、と彼は云うであろう。「それは私にも分かっています。ですが、これは私が二十一歳になったときには私のものとなるのです。そのとき私は完全に支配することになります。ですが、それと同時に、これは今後のいかなるときにも劣らず本当に私のものなのです。私には、これを手に入れる正当な権利があります。そして、私の後見人が私に代わってその管理をしているとしても、これは私のものであって、彼らのものではありません」。さあ今、キリスト者よ。天国には黄金の冠が1つあり、それはきょうあなたのものなのである。それは、あなたが自分の頭にそれを載せたときも、今以上にあなたのものとなるわけではない。思い出すが、私はある例え話をしたと云われる。天国には幾列も連なっている冠があるのだ、それを見よ、とキリスト者たちに私が命じたというのである。――まず間違いなく、そう云ったような気がする。――だが、もしそうでなかったとしても、私は今そう云うであろう。立ち上がるがいい。キリスト者よ。冠がみな準備されているのを見るがいい。そして、あなた自身の冠に注目し、立ってほれぼれと眺めるがいい。それがいかなる真珠で飾られているか、また、いかに黄金でずしりと重いか見るがいい! そして、それがあなたの頭のためのものなのである。あなたのあわれな、ずきずき痛む頭、あなたのあわれな苦しめられたこめかみが、これからその冠で飾られることになるのである! また、あの服を見るがいい。それは宝石が豊富に煌めいており、雪のように白い。そして、それがあなたのためのものなのである! あなたの普段着が片付けられたときには、これが、この「人の手によらない……永遠の家」[IIコリ5:1]が、あなたの永遠の安息日の衣裳となるのである。頂に登るがいい。キリスト者よ。そして、あなたの相続財産を眺め渡すがいい。また、そのすべてを眺め渡し、あなたの現在の資産、あなたの約束されている資産、あなたの相続権に帰している資産を見てとったとき、思い出すがいい。これらすべてが買い取られたのは、あなたの《救い主》の貧しさによってであったことを! あなたの有するすべてのことを見て、云うがいい。「キリストがこれらを私のために買い取ってくださったのです」、と。あらゆる約束を眺め、その上の血痕を見るがいい。しかり。天国の立琴や冠をも眺めて、その血染めの買い入れ札を読むがいい。思い出すがいい。あなたはキリストがあなたを買ってくださらなかったとしたら、決して罪に定められた罪人以外の何者にもなれなかったのである! 思い出すがいい。もし主が天にとどまっておられたとしたら、あなたは永遠に地獄にとどまっていたであろうし、もし主がご自分の誉れを包み隠すことも、覆うこともなさらなかったとしたら、あなたは決して一筋の光によっても照らされなかったであろう。それゆえ、主の愛する御名をほめたたえ、主を賞揚し、あらゆる流れをその源泉まで辿るがいい。そして、あなたの有するあらゆるものの源であり泉であるお方をたたえるがいい。兄弟たち。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」。

 IV. それで終わりではない。ここで3つのことを云わなくてはならないが、できる限り手短に語るようにしたいと思う。

 最初に1つの教理である。その教理とは、すなわち、もしキリストがその貧しさによって私たちを富む者としてくださったとしたら、今や栄化されたキリストは何をなさるだろうか、ということである。もし《悲しみの人》が私の魂を救ったとしたら、今や高く上げられたその人が、この魂を滅びるにまかせるなどということをなさるだろうか? もし死に給う《救い主》が私たちの救いを獲得したとしたら、生きてとりなしておられる《救い主》は、それを豊かに確保してくださるではないだろうか?

   「主はかつて生き、いま生きてあり
    高座(たかき)で永久(とわ)に とりなし給う。
    誰(たれ)ぞわれらを 御愛より断ち
    深淵(よみ)に沈めん、望みなくして」。

もしあの釘があなたの手を貫いていたときに、おゝ、イエスよ。あなたが全地獄を敗走させたとしたら、その手に王笏を握っておられる今、あなたが敗北することなどありえるでしょうか? もし、茨の冠があなたの額にかぶせられていたときに、あなたがかの竜を倒したとしたら、御使いたちの歓声があなたに立ちのぼっている今、あなたが打ち負かされ、征服されるなどということがありえるでしょうか? 否。私の兄弟たち。私たちは栄化されたイエスに頼ることができる。自分を主の御胸で安らがせることができる。もし主が貧しさにあってあれほど強くあったとしたら、その富のうちにあっていかなるお方であられるに違いないだろうか?

 次のことは、1つの問いである。その問いとは単純なものである。話をお聞きの方々。あなたはキリストの貧しさによって富む者とされているだろうか? あなたは云う。「私はキリストなどなくとも十分善良です。私に《救い主》は必要ありません」。おゝ、あなたはこう云った古の教会のようである。「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」。だが主は云われる。「あなたは裸の者で、貧しくて、哀れである」*[黙3:17]。おゝ、あなたがた、良いわざに頼っている生きており、自分が他の人並みに善良だからといって天国に行けると考えている人たち。あなたが自分のために積むことのできる功徳はみな何にもならない。人間の性質がもうけたものはみな、汚れとなり呪いとなってしまう。もしそれらがあなたの富だとしたら、あなたは決して聖徒ではない。しかし、あなたは今朝こう云えるだろうか。話をお聞きの方々。「私は生まれながらに何も持ってはいません。神はその御霊の力によって私に自分が何者でもないことを教えてくださいました」。

 私の兄弟たち。姉妹たち。あなたはキリストを、あなたのすべてのすべてとして受け取っているだろうか? きょう、ためらうことなくこう云えるだろうか? 「私の主、私の神。私には何もありませんが、あなたは私のすべてです」、と。さあ、私は切に願う。この問いを、のらりくらりとかわしてはならない。あなたは無頓着で、不注意である。ならば、この問いに否との答えを返すがいい。しかし、そう答えたときには、私は切に願う。自分が何と云ったかに用心するがいい。あなたは罪深く、それを感じている。私は切に願う。来て、イエスをつかむがいい。思い出すがいい。キリストは、自分のものを何1つ持たない者らを富む者とするために来られたのである。私の《救い主》は医者である。もしあなたが自分で自分を癒せるとしたら、主はあなたと何も関わりも持たないであろう。思い出すがいい。私の《救い主》は裸の者に着せるために来られたのである。主は、もしあなたが身を覆う襤褸切れ一枚持っていないとしたら、あなたに着せてくださるであろう。だが、あなたが頭の天辺から爪先まで主にそうさせない限り、主はあなたとは何の関わりも持たないであろう。キリストは、いかなる同労者も決して持つつもりはないと云っておられる。主は、すべてをなすか、全くなさないかである。ならば、さあ。あなたはすべてをキリストに明け渡しただろうか? だとしたら、あなたはこの問いに良い答えを返したのである。幸せになるがいい。喜ぶがいい。たとい死が一時間後にあなたを襲ったとしても、あなたは安泰である。帰って行くがいい。そして、神の栄光を望んで喜ぶがいい。

 そして今、私はしめくくりに三番目のことを告げるが、それは1つの勧告であった。罪人よ。あなたは今朝、自分の貧しさを感じているだろうか? ならば、キリストの貧しさを仰ぎ見るがいい。おゝ、あなたがた、罪ゆえにきょう悩んでいる人たち。――そして、この場には、そうした者たちが大勢いるが、――神はあなたを放ってはおかれなかった。あなたの心を罪の確信という鋭い鋤刃でで耕してこられた。あなたはきょう、こう云っているであろう。「私は救われるためには何をしなくてはならないのだろうか?」 あなたは、イエス・キリストの恩恵にあずかるためとあらば、自分の全財産を投げ捨ててもかまわないと思っている。あなたの魂はきょう、いたく砕かれ、苦悶している。おゝ、罪人よ。もしあなたが救いを見いだしたければ、あなたはそれをイエスの血管の中に見いださなくてはならない。さあ、あなたの目から、一瞬涙を拭って、ここを見るがいい。あなたには、主が見えるだろうか? 十字架がその恐ろしい姿をそびえ立たせているところ、そこに主はおられる。主が見えるだろうか? その頭に注目するがいい。あの茨の冠を見るがいい。玉なす血の滴が、なおもそのこめかみににじんでいるのを見るがいい。主の目に注目するがいい。それは、今まさに死のうちに閉ざされようとしている。その苦悶の皺が、これほどまでに望みない苦悩によって刻まれているのが見えるだろうか? その両手が見えるだろうか? そこから小さな血の川が流れているのが見えるだろうか? 聞くがいい。主がものを云おうとしている。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]。それが聞えただろうか? 罪人よ。もう一瞬長く立ち止まり、その全身をもう一度眺め渡して見るがいい。そのからだの何とやつれ果て、その霊の何と煩悶していることか! 主を眺めるがいい。しかし、聞くがいい。主がもう一度何か云おうとしている。「完了した」[ヨハ19:30]。主はそれで何を意味したのだろうか? それは、主があなたの救いを完成させたという意味である。主を仰ぎ見て、そこに救いを見いだすがいい。思い出すがいい。悔悟する者が救われるために神がお求めになるのは、イエスを仰ぎ見ることだけである。私のいのちを賭けてもいい。――もしあなたがあなたのすべてをキリストに賭けるならば、あなたは救われるのである。私はきょうキリストの保証人となり、もしキリストがその約束を破るとしたら、永遠に縛られていよう。主は云われた。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]。あなたの手が、あなたを救うのではない。あなたの目でなくてはならない。あなたが救われる頼りにしようとしている、もろもろのわざから目を離すがいい。もはやあなたの罪を隠しもしない服を織り上げようと努力してはならない。その編具は投げ捨てるがいい。そこには蜘蛛の糸しか詰まっていない。それでいかなる服を織り上げようというのだろうか? 主を仰ぎ見るがいい。そうすれば、あなたは救われる。仰ぎ見た上で失われた罪人はひとりもいない。あなたは、あの目に注目できるだろうか? 一目でそれはあなたを救い、ほんの一瞥であなたは自由にされるであろう。あなたは、「私は咎ある罪人です」、と云うだろうか? あなたの咎こそ、私があなたに仰ぎ見るよう命ずる理由である。あなたは、「私に仰ぎ見られません」と云っているだろうか? おゝ、おゝ、願わくは神があなたを助けて、いま仰ぎ見させてくださるように。覚えておくがいい。キリストはあなたを拒絶なさらない。あなたはキリストを拒絶できるが、キリストは拒絶なさらない。覚えておくがいい。あなたの口元には、イエスの御手が差し出しているあわれみの杯があるのである。私は、あなたが自分の必要を感じているかどうかが分かる。サタンはあなたにそれを飲ませまいと誘惑するであろうが、彼が勝つことはないであろう。あなたは、それに唇をつける。それは、ことによると、かすかで、触れたか触れないかというほどでしかないかもしれない。しかし、おゝ、一口でもそれをすするがいい。そして、その最初の一飲みはあなたに至福を与え、深く飲めば飲むほど、より天国をあなたは知るであろう。罪人よ。イエス・キリストを信ずるがいい。あなたに宣べ伝えられる福音の全体を聞くがいい。神のことばにはこう記されている。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。それを私が翻訳したこの言葉を聞くがいい。――信じて水に浸される者は、救われます。信ずるがいい。自らをこの《救い主》にゆだねるがいい。バプテスマによってあなたの信仰を告白するがいい。そうするとき、あなたはイエスにあって、イエスがあなたを救ってくださったことを喜べるであろう。しかし、覚えておくがいい。信ずるまでは告白してはならない。覚えておくがいい。バプテスマは、あなたが信仰を持つまでは何の意味もない。覚えておくがいい。それは、信ずる前に人にとっては茶番であり偽りなのである。そして、信じた後でも、それはあなたの信仰の告白以外の何物でもない。おゝ、それを信ずるがいい。自分をキリストに投げかけるがいい。そのとき、あなたは永遠に救われるのである! 主がその祝福を加えてくださるように。《救い主》のゆえに。アーメン。  

 

キリストのへりくだり[了]

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