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印度の災禍と英国の悲しみ

NO. 150

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1857年9月6日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを」。――エレ9:1


(注: 1857年5月10日、北印度最大の軍事基地で、英国東印度会社に雇われていた印度人兵士(セポイ)が反乱を起こし、翌日デリーに侵攻、各地に置かれた英軍基地でセポイは一様に反旗を翻した。二箇月の間に英国の支配に不満を持つ旧支配層や、没落した大土地所有者、土地を失った農民、職を失った商工業者など広汎な階層の人々が加わり、北部・中央印度に広がる大反乱となった。スポルジョンのこの説教は、こうした事情を背景に行なわれたものである。)


 時として涙は卑しいものである。臆病な霊の子らである。一部の男たちは眉宇に決意をみなぎらせるべきときに涙を流し、多くの女たちは神のみこころに自分をゆだねるべきときに涙を流す。この塩からい水滴の多くは、子どもじみた弱さの表われである。もしそうした涙を拭い去り、揺るぎない面持ちで世の渋面に立ち向かえるとしたら、その方がずっと良い。しかし、往々にして涙は力を指し示すものである。時として涙は、この世で最も気高いものである。悔悟する者たちの涙は尊い。そうした涙をためた杯一杯は、国王の身代金ほどにも莫大な価値を有している。人が罪のために泣くとき、それは決して弱さのしるしではない。それは、彼が精神の力を有していることを示す。否。それだけでなく、神から分け与えられた力を有していることを示す。その力によって彼は、自分の種々の情欲を断ち切り、情動を克服し、真心から神に立ち返ることができるのである。また他の涙もある。それは弱さの証拠ではなく、強さの証拠である。――優しい同情の涙は力強い情愛の子らであり、それはその親に似て力強い。大いに愛する者は、大いに涙する。この涙の谷にあっては、多くの愛は多くの悲しみと行をともにしなくてはならない。無情な心や、愛に欠けた霊は、地上の表玄関からその最果てへと行き過ぎていく間、自分以外の者のためにはほとんど吐息をつないであろう。だが、愛する者は、愛情の対象を選ぶと、それと同じだけの涙の井戸を掘っていく。私たちは、友人が増えれば増えるほど、嘆きも増えていくからである。少なくとも、彼らの嘆きをともにし、彼らの重荷を彼らに代わって負おうとするだけの愛をいだく者はそうである。誰よりも心広い人は、小人が感じるであろうような多くの悲しみは免れても、あわれな心の狭い霊が決して知らないような多くの悲しみを忍ばなくてはならないであろう。エレミヤのように力強い預言者でなくては、彼のように力強く泣くことはできない。エレミヤは泣いたからといって軟弱者ではなかった。彼の精神の強さと彼の愛の強さこそは、彼の悲しみの二親であった。「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを」。これは決して、へなへなとした感傷主義の表われではない。単に哀れっぽく鼻を鳴らす人間の発言では決してない。これは強大な魂の大喝である。その情愛において強く、その献身において強く、その自己犠牲において強い魂の叫びである。願わくは私たちがいかにすればこのようなしかたで泣けるかをわきまえ知ることができるように。そして、たとい私たちがエレミヤのようにしばしば泣くことはないとしても、いざ泣くときには、彼と同じくらい健全な泣き方ができるように。

 ある人々の場合、彼らがこの世に送り込まれてきたのは、まさに世界の泣き手となるという目的のためであるかのように思われるであろう。神の偉大な家には、あらゆるものが完全に整っている。その家に住む者の思念と情緒を表現できるあらゆるものものを、神は造られた。自然界において私は、植物が永久の泣き手となっていることに気づく。おとめが身投げして命を断った寂しい小川のほとりでは柳が永遠に泣いている。また、人々が御使いの喇叭で起こされるまで横たわって眠る墓地には、陰気な糸杉が立っていて、そのくすんだ外衣によって哀悼している。さて、自然と同じことが人間という種族についても云える。人類には勇敢さと大胆さがある。彼らには、自分たちの勇気を表わす英雄たちがいなくてはならない。また人類には、同胞たちに対する愛が多少はある。彼らには、人類の博愛を具現する高潔な博愛主義者がいなくてはならない。人々には種々の悲しみがあり、自分たちの泣き手がいなくてはならない。泣くことを本業とも務めともする悲しみの人たちがいなくてはならない。こうした人々は、揺りかごから墓場に至るまで、自分のためより他の人々の災いのために泣き通しである。この場には何人かそうした人がいるであろう。私はそうした人々の支持を得られれば嬉しく思う。また、たといそうした類の人が実はひとりもいなくとも、私は大胆にあなたがた全体に訴えたいと思う。そして、大きな嘆きの種となるものをあなたの前に提示するであろう。そしてもし私が、あなたが人に対していだいている愛にかけて、また、人の神に対していだいている愛にかけて泣き始めよと命じるとき、あなたが涙をこぼすとしたら、こうした困難な時期に際して、あなたはいやでも涙を流さざるをえないであろう。さあ、あなたに示させてほしい。なにゆえ私が本日のこの聖句を取り上げたかを。また、なぜ私がこうした哀切な言葉を口にしているかを。そして、もしあなたの心が石のように無感動なものでないとしたら、確かに今朝は何らかの涙が流されるべきである。というのも、もし私が愚かな発言をしたり、惰弱な語り方をしたりしなければ、あなたは家に帰ってから私室にこもり、泣くであろうからである。「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを」。

 私が今朝あなたに嘆いてほしいと思うのは、第一に、現実に殺された人々のためである。――「私の娘、私の民の殺された者のために」。それから、私があなたの涙を求めたいのは、道徳的に殺された人々のためである。――「私の娘、私の民の殺された者のために」。

 I. まず初めに、《実際の殺人と現実の流血》についてである。私の兄弟たち。私たちの心は、郵便に次ぐ郵便、電信に次ぐ電信によって本国にもたらされる恐ろしい消息に、死なんばかりの煩悶を感じている。私たちは、『タイムズ』紙の多くの投書を連日読んでは、ついに同紙を折り畳み、もう読めませんと神の御前で告白するまでとなっている。私たちは、この上もなく戦慄すべき、予想だにしなかった残虐行為によって霊を悩み苦しめられてきた。私たちは、ことによると、自分の夫や、妻や、兄弟や、姉妹に関する限り、流血沙汰に個人的な興味を持つべきではなかったかもしれない。だが私たちは、自分と同じ民族が東方の国であれほどむごたらしく殺されていることに気づいたとき、非常に強い血の絆を感じるのである。きょう私たちは、へりくだって自分たちの犯罪を告白すべきである。これまでの印度統治は残虐な統治であった。それは多くの点で神の法廷の前に現われて責を問われるべきである。その拷問は――最上の証拠が信じられるとすればだが――最も非人間的な種類なものであった。神よ、赦し給え。英国の名でそのような犯罪を犯してきた人々を。しかし、そうした日々は過ぎ去った。神がその罪を拭い去ってくださるように。私たちは、自分たちの咎を忘れはしない。だが、無情きわまりない冷酷さによって人々を苛んできた他の人々が、いま圧倒的な咎意識を感じていることに鑑みるとき、私たちがその件について詳述しなくとも容赦されて良いであろう。

 悲しいかな! あゝ、かの地にいる私たちの兄弟たちは! 彼らは死んだ。あゝ、彼らは! 背信の剣によって殺され、忠誠を誓った者らの反逆によって殺された。あゝ、彼らは! しかし、おゝ、あなたがた、兵士たち。私たちはあなたのためには泣かない。たといあなたがたが拷問を受けたとしても、あなたがたの異性が被らざるをえなかった辱めのきわみには及ばない。おゝ、英国よ! お前の娘たちのため、悲痛な哀悼の声で泣くがいい。彼女たちのため、お前の目に血の河を流させるがいい。たとい彼女たちが厭わしい大蛇に絞め殺されたのだとしても、あるいは、虎が彼女たちの血でその牙を赤く染めたのだとしても、そうした運命は、彼女たちが受けた陵辱にくらべれば幸いなものであったろう! おゝ、地よ! お前は古今に類例のない罪悪を目にした。お前は、定命の者の中でも最も汚れなき、最もしとやかな者を獣欲が食い物にしたのを見た。神の被造物の中で最も麗しい者らが汚された。かの愛すべき者たち、情欲の名などに耐えることもできない者たちが、受肉した悪鬼どもの抱擁へと投げやられた! 泣くがいい。英国よ。泣けよ、泣けよ。お前の息子たち、娘たちのために! もしお前がいま無情に構えているとしたら、また、もしお前が一滴も涙をこぼさずにこの醜行について読むとしたら、お前は彼らにとって母などではない! 確かにお前は心が欠けているに違いない。また、もしお前があの娘や妻たちのために泣かないとしたら、お前は、お前自身の獅子たちよりも愛情薄く、肉食獣よりも鈍感になっているのだ。兄弟たち。私は歴史をねじ曲げているのではない。何の悲哀もないところで、哀愁にふけろうと努力しているのではない。しかり。私の主題は、それ自体が、ことごとく悲哀で満ちている。それをだいなしにしているのは、私のつたない語り方である。きょう、雄弁家の役割を演じる必要はない。以前は何でもなかったものを飾り立てる必要もない。大したことのない悲嘆を大げさにする必要もない。――むしろ私は、いかなる口舌を尽くしても、思慮深いあらゆる人が感じているに違いない哀惜を減じさせるしかないように感じている。いかに私たちの心は粉々に砕かれ、千々に引き裂かれ、火で溶かされてきたことか! 苦悶が私たちをとらえ、その悲嘆は言葉に尽くせない。日に日に私たちの希望は失望へと変わり、私たちの聞くところ、今なお叛徒は怒り狂って暴れ回り、今なお英国の息子たちや娘たち、夫たちや妻たちに向かって暴虐の限りを尽くしているという。泣くがいい。キリスト者たち。泣くがいい! そして、あなたがたは私に尋ねるであろう。自分たちがきょう泣くように命じられたからといって、泣きはらした目が何の役に立つのか、と。なぜなら、復讐心が巻き起こりつつあるからである。英国の瞋恚はかき立てられている。反乱を起こした印度人兵士(セポイ)どもの上には、黒雲がのしかかっている! 英国が殺人鬼どもを打つとき、彼らの末路は最もすさまじいものとなり、彼らの破滅は途方もないものとなるであろう。そして英国は正当にそうしなくはならない。こうした者どもには《司法的な》刑罰が下されなくてはならない。それは地が震え、それを聞く者の2つの耳が鳴る[Iサム3:11]ほどの罰となろう! 私は、できるものなら、この復讐の炎を冷やすような涙を数滴でも降り注ぎたい気がする。否、否。私たちは、復讐をわが手に握りはしないであろう。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」[ロマ12:]。英軍兵士は、人間的な復讐心によって、その敵を破滅に追いやってはならない。彼らは、わが国法の宣告を執行するため任命された者としてそうするがいい。天下のあらゆる国の民法に従えば、こうした者どもは死罪と定められている。私たちは兵士としての彼らと戦争をするのではなく、犯罪者としての彼らの上に法を執行しなくてはならない。彼らは政府に対する反逆を犯したのであり、その犯罪だけでも判決は死である! しかし彼らは殺人者であり、私たちの法律によると、その正否はともあれ、殺人者は死罪とされなくてはならない。神はこの巨大な罪が罰を受けるようにせざるをえないし、私たちは英国人としての復讐心を感じたくないとしても、それでも、政府のゆえに――神が地上に設立された統治のゆえに――、いま剣を帯びた支配者は無意味に剣を帯びていてはならない。長年私は戦争を極悪の犯罪であると主張してきた。長年私はあらゆる戦闘を大規模な殺人とみなしてきた。だが今回、私は、平和を愛する《救い主》に従う平和を愛する者ではあるが、戦争を提起するものである。否。私が提起するのは戦争ではなく、正当かつ適正な刑罰である。私は戦士としての兵士たちを助けたり、けしかけたりしようとは思わないが、合法的な判決の執行者としての彼らをそうしよう。この判決は、恥ずべき狼藉および恐るべき流血という二重の犯罪ゆえに神の呪詛を自らの上に招き寄せた者どもに下されなくてはならない。そのようにして、刑罰が課されない限り、真実も純潔も決してこの地上を歩くことはできない。原則として私は極刑を用いることが正しいとは信じないが、この犯罪は低地の町々[創13:12]のぞっとするような咎のすべてをまとわりつかせており、耐えがたいほどに獣的である。しかしそれでも、私は云うが、私は英国人たちの復讐心を鎮めたいと思う。それゆえ私はあなたに泣くように命じたいのである。あなたがたは復讐について語っているが、自分がいかなる者らを相手にしなくてはならないか分かっていないのである。幾多の便りが届き、幾多の月日が経巡り、幾多の年数が経った後で初めてあなたがたは、こうした獰猛な者どもに対する勝利について聞くことになるかもしれない。高ぶりすぎてはならない。英国はかつてその偉大な功業について語ったが、それ以来、高慢の鼻をへし折られてきた。この国は、再び自分が全能ではないことを思い知らされることもありえる。だが、あなたがた、神の民よ。泣くがいい。解き放されたこの罪ゆえに泣くがいい。地上に出てきたこの地獄のゆえに泣くがいい。あなたの私室に赴き、この流血を止めてくださいと神に叫ぶがいい。あなたは、あなたの国の救出者となるべきである。英国軍隊の銃剣にではなく、英国キリスト者の祈りにこそ、私たちは信頼を置く。あなたの家に走り込み、急いで膝をかがめては、この絶望的な罪ゆえに、この上もなく痛切に嘆き悲しむがいい。そして、神に救いを乞い求めるがいい! 思い出すがいい。神は祈りを聞いてくださる。――祈りは《全能者》の腕を動かす。断食を布告しよう。きよめの集会を催そう。ひたすら神に叫び求めよう。戦陣の神[Iサム17:45]が自ら復讐してくださるように願おう。祈り求めよう。神によって福音の光がかの地に送られ、このような犯罪が二度と不可能になるようにと。また、今回これを鎮圧する結果として、二度とそれが解き放たれる機会を得られないようにしてくださるようにと。私は政府が国民の断食日を布告するかどうかは分からないが、現在は、あらゆるキリスト者が自分の心の中で断食を挙行すべき時であると確信する。私は、私の言葉をほんのひとかけらでも敬ってくれる、あなたがたの中のあらゆる人に命じる。もし私の勧告に一言でも力があるとしたら、私はあなたに、たった今、特別な祈りのときを過ごすように勧告する。おゝ! 愛する方々。あなたがたはあの悲鳴を聞くことができない。あの恐怖にひきつった顔を見ることができない。必死で逃げていく逃亡者たちを眺めることができない。だが想像の中では彼らを思い描くことができる。そして、神が今その盾を私たちの同胞臣民とその敵どもの間に置いてくださるように祈らない者、自分の魂を熱心な祈りによって掲げない者は呪われなくてはならない。また、特にあなたがた、この国の各地にある種々の会衆を代表している人たち。神が奮い立ってくださるように、休みなく嘆願し続けるがいい。これをあなたの叫びとするがいい。「おゝ、主よ。私たちの神よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者[民10:35]は雄羊の脂肪のように焼かれますように」。そのように神は、あなたの祈りを通して、平和を打ち立て、正義を回復してくださるかもしれない。そして、「神、私たちの神が、夜明け前に私たちを祝福してくださいますように」[詩67:6; 46:5]。

 II. しかし、私には今、あなたが悲しむべきさらに大きな理由がある。――ずっと顧みられることのない、だがしかし、ずっと恐れるべき災厄の源である。もし私たちが、第一のことを述べたときに、悲しみに沈んだ声音で語ったとしたら、第二のことは、さらに悲しみに沈んだ調子で語らなくてはならない。――「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も……泣こうものを」、私の娘、私の民の《道徳的に殺された者のために》

 かの古いことわざは今なお真実である。「世界の半分は、残り半分がどのような生き方をしているか全く知らない」。あなたがた、信仰を告白するキリスト者たちの相当多数は育ちが良く、これまでの一生の間、一度も醜行の巣窟を訪れたことがない。一度も邪悪のたまり場に通ったことがない。また、あなたの同胞たちのもろもろの罪についてごく僅かも知ってはいない。ことによると、あなたは、今のように無知のままでいた方が良いのかもしれない。というのも、無知であることが誘惑から自由であるという場合、賢くなろうとするのは愚行だからである。しかし、ある人々は自分の仲間たちの邪悪さをいやでも見させられてきた。そして、公の教師は特にただの又聞きによって語るべきではない。むしろ、真正な情報源から何が時代の精神であるかを知るべきである。私たちの務めは、この国のあらゆる部分を鋭い眼力で見通し、いかなる罪悪が蔓延しているかを見てとることである。――いかなる種類の罪悪、いかなる類の醜行がはびこっているかを。あゝ、愛する方々。この国におけるあらゆる敬神の念の前進にもかかわらず、また、より良き時代を希望させるあらゆるしるしにもかかわらず、また、来たるべき朝の先駆けとなるあらゆる栄光の日差しにもかかわらず、また、あらゆる約束や私たちのあらゆる希望にもかかわらず、私たちは今なお、あなたに命じざるをえない。罪が満ちあふれ、不義がなおも強力であるがゆえに泣くがいい、と。おゝ、私たちの息子たち娘たちのいかに多くが、私たちの友人たち親戚たちのいかに多くが、罪によって殺されていることか! あなたがたは戦場を思って泣く。バラクラヴァの平原について涙を流す。だが、そうしたものよりも悪い戦場があるのである。剣でもたらされた死よりも悪い死があるのである。

 あゝ、泣くがいい。この国の酩酊のゆえに! わが民族のいかにおびただしい数の人々が、私たちの安酒場から破滅へとよろめき入っていくことか! おゝ、もし世を去った酔いどれたちの魂が、今のこの時、英国のキリスト者たちに見えるとしたら、彼らは震えおののき、悲しみのために両手を上げて泣き出すであろう。私の魂は、もしもこの悪鬼によって彼らにもたらされた滅びと破滅を知ることができたとしたら、永遠のニオベーとなり、いつまでも涙の雨を滴らせ続けるであろう。しかもそれは、この、ただ一個の悪鬼だけによってもたらされたのである! 私は決して狂信者ではない。決して絶対禁酒家ではない。――英国を酩酊から癒す道がその方面にあるとは考えていない。私は、このように他の人々に善を施すために自分を否定する人々を尊敬するし、彼らがその目的を達成すると信じられたら嬉しく思うであろう。しかし、私は決して絶対禁酒家ではないが、酩酊を憎むことにかけては、この世で息をしているいかなる人にも引けは取らないし、多くのあわれな人々にとって私は、この獣的な耽溺をやめせる手段となってきた。私たちは、酩酊が恐ろしい罪悪であり、ぞっとするような罪であると信ずる。そのすさまじい影響のすべてを眺めては、それといつでも戦争を始め、禁酒家たちと肩を並べて戦う覚悟がある。たとい戦い方においては彼らと異なっているかもしれなくとも関係ない。おゝ! 英国よ。いかにおびただしい数のお前の息子たち娘たちが、この国をこれほどまで支配している酩酊という呪わるべき悪鬼によって、毎年殺されつつあることか!

 しかし、他にもまだ数々の罪悪がある。あゝ、放蕩という罪は! 月は夜ごとにいかなる光景を見ているだろうか? それは甘やかに昨晩も輝いていた。牧草地は、それによって照らし出されたとき、あたかも美で銀鍍金されたかに思われた。しかし、あゝ! その青白い統治の下で、いかなる罪が行なわれたことか! おゝ! 神よ。あなただけはご存じです。もし私たちが、月によって照らし出された空から見下ろす時に、神がご覧になったものを見たとしたら、私たちの心はむかつかされ、実際、「広き荒野に結びし庵」を叫び求めるであろう! あなたがたは私に告げる。そうした種類の罪は、下層階級ではありふれたことなのですよ、と。悲しいかな、私はそれを知っている。悲しいかな、いかに多くの少女が、わが身にもたらされた汚名に耐えきれず、川に身投げしては命を断ってきたことか! しかし、このことを貧民の責に帰してはならない。私たちの町通りにある醜行や罪は、彼らから発したのではない。それは最高位の身分から始まっているのである。――私たちが社会の最も高貴な階級と呼ぶところから始まっているのである。自らをも他の人々を汚してきた人々は、わが国の上院に席を占めたり、わが国の貴族たちとともに歩いたりしているのが常である。高潔ならざる人格の人々が――彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだが[エペ5:12]――、最高階級の応接室や客間にも迎え入れられている一方で、彼らの情動のえじきとなったあわれな者らは野次られ、排斥されているのである! おゝ、主なる神よ。あなただけが、この罪がもたらしてきたすさまじい荒廃をご存じです。あなたのしもべの唇は、このことについてこれ以上は何も云えません。この者は、その口にできる極みに達しました。この者は、これ以上話を続ける何の許しも得ていないのを感じます。ですが、これだけは云えます。――「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを」! もしあなたがたが病院の中を歩いたことがあるとしたら、もしあなたがたが避難所を見たことがあったとしたら、もしあなたがたが囚人たちと話すことがあったとしたら、――そして、もしあなたがたがこの途方もない悪の巨大な広がりを知っているとしたら、あなたがたはこのように云う私に十分に共感するであろう。そのことについて考えただけでも、私の霊は完全に打ちひしがれてしまう。私の感ずるところ、罪がこのように統治し、不義がこのように蔓延している限り、私は生きているよりはむしろ死んでしまいたいと感じる。

 しかし、こうしたことだけが悪だろうか? これらが、わが国の民をむさぼり食らっている唯二の悪鬼だろうか? あゝ、そうだったとしたらどんなに良いことか。見よ、この国を通じて、いかに人々は、快楽という形に身をやつした、あらゆる罪によって堕落していることか。あなたがたは、どこか遠い国から帰ってきた場合のように、自分の家に深夜戻ってきたとき、おびただしい数の人々が賭博場や、下等な劇場や、他の罪の家からどっと出てくるのを見たことがないだろうか? 私はそうした場所に頻繁に通う者ではないし、ごく幼少の頃からそうした場を踏んだことはない。だが、こうした巣窟から吐き出されるのが見受けられる人々の集団からしても、私はただ両手をあげて、神がこうした場所を閉鎖してくださるよう祈るしかないであろう。それは地獄の門のように思われ、その扉は、彼ら自身が物の見事に云っているように、「底知れぬ所への道」なのである。あゝ、願わくは神が、この町に警告する人々、また、昼となく夜となくキリスト者である民に向かって、「私の娘、私の民の殺された者のために」泣くよう命ずる人々を数多く起こしてくださるように! キリスト者たち。人々の罪や醜行のために泣くことを決してやめてはならない。世には、白昼の罪がある。神ご自身の日、この日が汚されている。粉々に砕かれ、足で踏みつけられている。毎朝犯される罪があり、毎晩犯される罪がある。もしあなたがたがそれらを見てとることができたとしたら、あなたがたは決して幸いになれないであろう。もしあなたがたがそれらのただ中を歩いて、それらをじかに目にするようなことがありえたとしたら、また、もし神があなたに恵みをお与えになるとしたら、あなたがたはとめどなく涙するであろう。というのも、あなたがたは常に悲しみの種を有するであろうからである。「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを」。

 しかし、いま私は、ずっと格段にあなたに当てはまるであろうことを投げ込まなくてはならない。ことによると、この場には、公然たる、衆知の罪にふけるような人はごく僅かしかいないかもしれない。ことによると、あなたがたの中のほとんどの人々は、あらゆる種類の美徳を有する善良で愛すべき階級に属しているかもしれない。だが、その階級の人々については、こう云われなくてはならない。「あなたには、欠けたことが一つあります」[マコ10:21]。私の心を何にもまして嘆かわしく感じさせるのは、あなたがたの姿である。いかにしばしば私は、主のしもべとして、並ぶものもないほど卓越した人格をした人々の自宅で、この上もなく丁重で手厚いもてなしを受けてきたことであろう。こうした人々には、キリスト者を飾ることのできるあらゆる美徳があるが、主イエス・キリストを信ずる信仰だけは欠けている。彼らは、まさに他の人々の見習うべき鑑とも模範とも掲げられて良い人々である。こうした人々のことを考えるとき、私の心はいかに嘆かされてきたことか。彼らは今なおどっちつかずで、今なお神なく、祈りなく、キリストから離れている。きょう、この会衆の中にはそうした多くの人々がいる。――私はあなたの人格では、いかなる欠陥にも後ろ指をさすことはできないであろう。あなたは、あなたの道徳において徹底的に厳正である。――悲しいかな、悲しいかな、悲しいかな、あなたは。あなたは今なお罪過と罪の中で死んでいる。なぜなら、あなたは天来の恵みによって新しくされていないからである! これほど愛らしくありながら、しかし信仰がない。これほど美しく、これほど愛すべきでありながら、しかし回心していない。おゝ、神よ。酔いどれが死ぬとき、また、悪態をつく者が滅びるとき、また、遊女や誘惑者が自業自得の運命に沈み込んでいくとき、私たちはこうした罪人たちのために泣いて良い。だが、私たちのただ中を歩み、ほとんど信仰者として認められていた、こうした人々がただ1つ必要なものを欠いているがために投げ捨てられるとき、それは御使いたちをも泣かせるに足るものと思われる。おゝ、教会員たち。あなたがたは、自分たちのただ中に、いかにおびただしい数のこうした人々を有しているかを思い出すとき、エレミヤの叫びを自分のものとして良い。――彼らは、生きているとされているが、実は死んでいる人々である[黙3:1]。また、他の人々は、キリスト者であると告白してはいないが、ほとんど自分の主であり《主人》であるお方に従おうと説得されかかっている。だがしかし、神の天来のいのちにあずかってはいない。

 しかし、いま私は、できるものならば、この悲哀に満ちた主題をもう少し深くあなたの思いに突き入れたいと思う。エレミヤがこの嘆きによって大声で、切々と泣いた時代、エルサレムは笑いさざめきと陽気なお祭り騒ぎで満ちていた。エレミヤは、浮かれ騒ぐ一団の群衆のただ中にいた。彼は、その彼らに向かって告げた。エルサレムは破壊され、彼らの神殿は瓦礫の山となり、ネブカデネザルがそれを更地にしてしまう、と。彼らは彼を嘲り笑った。嘲弄した。そこに見られるのは、なおも弦楽や踊りだけであった。あなたは、この勇敢な老人を思い描けるだろうか? というのも、彼は神殿の宮に座り込み、勇敢にも、悲しみに暮れていたからである。そして、確かにその柱列はまだ倒れておらず、その黄金の屋根はまだ汚れていなかったが、彼は両手をあげてはエルサレム神殿が火で焼き尽くされる姿、その女子どもが捕囚として引かれていく姿、その息子たちが剣で刺し通される姿を思い描いた。そして、それを思い描いたとき彼は、いわば、霊において神殿の倒壊した支柱の1つに腰を下ろし、そこで、いまだ来ていない――だが、目に見えないものを確信させる[ヘブ11:1]信仰が彼に向かって描き出した――荒廃のただ中で、こう叫んでいるのである。「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら」、と。さて、きょう、この場にいるあなたがたの中の多くは、人生というこの仮面舞踏会の参加者であり、浮かれ騒いでいる。あなたがたは、きょうは陽気で、楽しくしている。そして、あなたがたは、自分のことが私から泣かれるべき者として語られることに吃驚している。「私のために泣くですって!」、とあなたは云う。「私は健康です。富んでいます。人生を楽しんでいます。なぜ私のために泣くんです? 私はあなたの感傷的な涙など全然必要としていませんよ!」 あゝ、だが私たちが泣くのは、未来を見越しているからなのである。もしあなたが地上でいつまでも生きていられるとしたら、ことによると、私たちはあなたのため泣かなくて良いかもしれない。だが私たちが信仰の目によって予想しているそのときには、天の支柱がぐらつかざるをえず、この大地が揺れ動かざるをえず、死がそのえじきを出さざるをえず、大きな白い御座[黙20:11]が天の雲の中に据えられざるをえず、エホバの雷鳴と稲妻が軍勢となって進発し、神の御使いたちがその隊伍ごとに整列しては、大いなる裁判の華麗な行列として満座を占めるのである。――私たちはその時のことを予想し、あなたが《審き主》の前に立っているのを信仰によって見ている。その御目が厳めしくあなたに据えられているのが見える。その御声がかの書を読み上げているのが聞こえる。一文また一文と、御怒りの轟きがあなたの愕然とした耳を打っている間、あなたの膝がわなないているのに気づく。あなたの青ざめた顔が見える気がする。主がこうお叫びになるとき、あなたが筆舌に尽くしがたい恐怖を味わうのを見てとる。「のろわれた者よ。離れて行け!」*[マタ25:41] 私たちにはあなたの悲鳴が聞こえる。あなたの叫びが聞こえる。「岩々よ。私たちをかくまってくれ。山々よ。私たちの上に倒れかかってくれ!」*[黙6:16] 燃える剣を持った御使いが、あなたを追っていくのが見える。最後にあなたが、云い知れようもない悲痛な金切り声をあげて地獄の穴に下っていくのが聞こえる。――では私たちはあなたに問いたい。もしあなたがこれを、私たちが見ているのと同じように見ることができたとしたら、あなたは、あなたの破滅することを思って私たちが泣こうとしていることに驚くだろうか? 「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は泣こうものを」*。審きの中に立ちおおせず、風が吹き飛ばすもみがらのように[詩1:4-5]、消えることなき業火の中に落ちて行かざるをえないあなたのことを! そして、信仰の目によって、私たちはそれよりさらに先を眺める。陰惨で、すさまじい未来をのぞき込む。私たちの信仰は、無砕石で押し固められた鉄の門を通して物事を見てとる。罪に定められた者たちの場所を見てとる。信仰によって開かれた私たちの耳に聞こえるのは、「陰鬱(くら)き呻き、虚ろな嘆き、責苦(くる)しめらるる幽鬼の悲鳴」である! 天の目薬を注がれた私たちの目は、決して尽きることのないうじを見てとり、決して消えることのありえない火[マコ9:48]を眺め、あなたが火炎の中でもだえ苦しむのを見てとる! おゝ、信仰告白者たち。もしあなたがた必ず来る御怒りをも、永遠の地獄をも信じていなかったとしたら、あなたがたがこのような考えに心動かされなくとも不思議ではない。しかし、もしあなたがたが、あなたの《救い主》が仰せになったこと――からだも魂も、ともにゲヘナで滅ぼす[マタ10:28]と宣言したときに仰せになったこと――を信じているとしたら、私は、そこへ行こうとしているあなたの同胞たちのために泣くこともなしに、その考えにあなたがたが耐えられることを訝しまざるをえない。私は、自分の敵が火の中に行進していくのを見たとしたら、飛んでいって彼とその火の中に割って入り、彼を守ろうとするであろう。ではあなたは、悪徳と罪という狂気の経路の上を人間たちが行進し続けるのを見、「罪から来る報酬は死」であることを重々承知していながら、一滴の涙を差し挟むこともしようとしないのだろうか? 何と! あなたは獣よりも獣的で、石よりも無情なのだろうか! そうであるに違いない。もし地獄という、言葉に尽くせない苦悶によっても、あなたの目から涙を、あなたの心から祈りを引き出せないとしたら。おゝ、もしきょう、どこかの強大な御使いのかしらが地獄の門の閂を外すことができたとしたら、また、もし彼が、ほんの一秒でも、その呻き声と泣き声とを私たちの耳に届かせることを許されたとしたら、おゝ、いかに私たちは嘆き悲しむべきであろう! おのおのが腰に自分の手を当て[エレ30:6]、この地上を恐怖のうちに歩むであろう。その悲鳴は、私たちの髪の毛を逆立て、苦悶と苦悩のために私たちに地面を転げ回らせるであろう。――

   「おゝ、陰惨(くら)き闇路の 望み消ゆ果て、
    罪人(ひと)が神より 引き離されて
    恐怖(のろ)わるその身 固縛(かため)らる地は
    御神の愛を 味わうをえじ」。

ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は、そこに行こうとしているあなたがたの中のある人々のためにこの日泣こうものを。

 また、思い出すがいい。おゝ、キリスト者よ。私たちがきょう、その者らのために泣けとあなたに云っている人々は、ことによると、数々の大きな特権を受けていたかもしれず、その結果、失われたなら、より重い刑罰を予期しなくてはならないかもしれない。きょうの私は外国にいる人々への同情を求めてはいない。ホッテントット族や回教徒のために泣けと命じはしない。彼らのために泣いてもかまわないし、そうすべき歴とした理由はある。――だが、私はきょう、あなたの娘、あなたの民の殺された者のためのあなたの涙を求める。おゝ! いかにおびただしい数の異教徒たちが、わが国の礼拝所の中にいることか! いかに大群衆の未回心の人々が、通常私たちが神を礼拝するために集まる場所のあらゆる会衆席にはいることか。そして、こうつけ加えても間違いではないが、この場にいる何百人もの人々は、いかに神もなく、キリストから離れ、この世にあって望みのない人々[エペ2:12]であることか。そして、こうした人々は、ホッテントット族のようにみことばを聞いたことのない人々ではないのである。彼らはそれを聞いて、それを拒否してきたのである。あなたがたの中の多くの人々は、死ぬときには、自分が自分の義務を知らなかったのだという云い訳を申し立てることはできない。あなたには、それが平明に宣べ伝えられていた。あなたは、それを町通りのどの片隅でも聞いた。あなたの家には神の書がある。あなたは救われるには何をしなくてはならないか知らなかったとは云えない。あなたは聖書を読んでおり、救いを理解している。――あなたがたの中の多くの人々は救いの理論について深く教えられている。あなたがたが滅びるときには、あなたの血の責任はあなた自身の頭上にあり、《主人》はきょうあなたの上でこう叫んでしかるべきであろう。「ああベツサイダ。ああコラジン。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう」*[マタ11:21]。私はきょう自分自身に驚く。私は自分の目を憎む。それを今えぐり出したい気がしている。なぜなら、それは私が願うほどには、滅びつつあるあわれな魂のために泣こうとしないからである! あなたがたの中には、私が愛し、私を愛してくれる人々がどれほど大勢いるであろう! 私たちは互いに赤の他人ではない。私たちは互いに離れて暮らすことはできなかった。私たちの心は長い間堅く結び合わされていた。あなたがたは患難のとき私のそばに立っていてくれた。みことばに耳を傾けて来た。それを喜びとしてきた。私は証言するが、もしあなたが私のために両眼をえぐり出せるとしたら、あなたはそうしようとしたであろう。だがしかし、私の知るところ、あなたがたの中の多くの人々が神のことばを真に愛する者であるのは見かけでしかない。また、確かに神のしもべを大いに愛してはいるが、あゝ、あなたは。あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいる[使8:23]のである! 悲しいかな、私の姉妹。私はあなたのために泣ける! わざわいが、わざわいが来る。私の兄弟。私はあなたのために泣ける! 私たちは神の家に集ってきた。ともに祈ってきた。だがしかし、私たちは分かたれなくてはならない。羊飼いよ、あなたの群れの何頭かは滅びるであろう! おゝ、私の牧場の羊たち。私が世話をしている人たち。私は、あなたを失わなくてはならないという、ぞっとするような考えをいだかなくてはならないだろうか? 私たちは、最後の審判の日に、永遠にさらばと云わなくてはならないのだろうか? 私は、あなたに不利になる証言をしなくてはならないのだろうか? 私は正直になるであろう。私はあなたの魂を忠実に扱ってきた。神が私の証人であられるが、私はしばしば弱さの中にあって説教してきた。しばしば神の前で呻かなくてはならなかった。自分で願っていたほどの説教ができなかったからである。だが、私は決して不真面目に説教したことはない。誰もこの点で私を不正直であると非難しはしないであろう。私には、あなたの微笑みを得ようと努めたことなど一度もない。私は決してあなたの渋面を怖がったことはない。私はしばしば倦み疲れていた。休んでしかるべきときにも、神のことばを宣べ伝えてきた。しかし、それが何だろうか? 何ほどのことでもなかった。ただ、問題はこのことだけである。あなたの上には、ある責任が置かれている。そして、覚えておくがいい。《福音》が聞かされている下で滅びるというのは、他のどこで滅びるよりも恐るべき滅びなのである。しかし、話をお聞きの方々。それがあなたの運命とならなくてはならないだろうか? また、最後の審判の日に私はあなたに不利な証言をしなくてはならないのだろうか? そうならずにすむよう私は神に祈る。《主人》に切望する。主が私たち双方をそうした運命に遭わないようにしてくださるようにと。

 そして今、愛する方々。この点を語り終える前に、もう一言つけ加えるべきことがある。あなたがたの中のある人々は、泣くための理由を探してこの会衆を眺め回す必要はない。敬神の念に富む私の兄弟姉妹。あなたは、あなた自身の家族の中に泣くべき理由を十分有している。あゝ、母よ! 私はあなたの嘆きを知っている。あなたは、泣き濡れた目で、何時間も嘆きに満ちて神に叫ぶべき理由がある。あなたの息子のためである。あなたの子はあなたに背いてしまった。そして、あなたから生まれた者はその母の神を蔑んできた。父よ。あなたは丹誠を込めてあなたの娘を育て上げた。あなたは彼女が幼いときには彼女に食べさせ、あなたの腕に抱きかかえては可愛がった。彼女はあなたのいのちの喜びであった。だが、彼女はあなたに対しても、神に対しても罪を犯した。あなたがたの中の多くの人々には、あなたが祈りの中でしばしば名をあげる息子たち娘たちがいる。だが決して希望をもってではない。あなたはしばしば、神があなたの息子についてこう云われたように考えてきた。「エフライムは偶像にふけっている。そのなすにまかせよ」*[ホセ4:17]。あなたの愛する子は、あなたの心を刺す毒蛇となり果てている! おゝ、ならば、泣くがいい。私は切に願う。親たちよ。あなたの子どもたちのため泣くことをやめてはならない。彼らが罪人であろうと、彼らに対して心を冷淡にしてはならない。神はまだ彼らをご自分のもとに連れ戻してくださるかもしれない。つい先週の教会集会でも、私たちは、コルチェスターの敬虔な教役者によって教育され、育て上げられた年若い友を私たちの交わりに迎え入れたばかりである。彼女はそこに何年もいた。そして、そこを離れてロンドンに上京するとき、その教役者は彼女にこう云った。「さあ。私はあなたのために何百回も祈ってきました。そして、あなたのため、できることはみなしてきました。あなたは石のように固い心をしています。もはや、あなたのことは神にゆだねるしかありません!」 それが彼女の心を砕いた。彼女は今イエスに回心している。いかに多くの息子たち娘たちが、その両親に同じように感じさせていることか! 「さあ」、と彼らは云った。「もうお前のことは放っておくよ。お前はもう私の手には負えない」。しかし、そう云いながらも彼らは、泣くこともなく彼らを放り出そうと云っているのではない。むしろ彼らは内心こう思っていたのである。たとい彼らが罪に定められるとしても、自分は、地獄の門の間際まで、泣きながら彼らを追っていこう。もし涙によって彼らを天国へとおびき寄せることができるのなならば、と。いやしくもキリスト者である者が、どうしてわが子を愛さずにいられるだろうか? イエス・キリストを信ずる信仰者である者が、いかにして御国の事がらにおいて、わが子に対して冷たく非情でいられるだろうか? 私は一部の宗派の教役者たちや、ある種の信仰告白者たちについて聞いたことがある。彼らは家庭礼拝を軽蔑し、家庭における敬虔さを笑い飛ばし、それを何とも思っていないという。私は、そうした人々が、なぜあれほどの福音理解を有していながら、それほど僅かしか、その精神を有していないでいられるか理解に苦しむ。私は神に祈る。そうした類の一切からあなたを救い出し、私を救い出してくださるようにと。しかり。わが子を主への恐れのうちに訓練するのは私たちの努めである。私たちが彼らに恵みを与えることはできないが、それを与えることのできる神に向かって祈り求めるのは私たちの義務である。そして、私たちの多くの嘆願に対して、神は私たちを追い払いはしないであろう。むしろ、私たちの祈りに注意を払い、私たちの吐息をかえりみてくださるであろう。

 そして今、キリスト者である嘆く者たち。私はあなたのなすべき働きを十分示してきた。願わくは聖霊なる神が、あなたにそうする力を与えてくださるように。もう一度だけ、あなたに勧告させてほしい。泣くがいい。あなたには模範が必要だろうか? あなたの《主人》を見るがいい。主はあの丘のがけのふちまで来られた。向かい側の丘の上に横たわるエルサレムをご覧になって主はそれを見下ろし、それを目にしながら――その高嶺の麗しさは、全地の喜び[詩48:2]であったが――強固な町の城壁を調べる際の画家のような歓喜を感じたり、その栄光に富む光景のただ中に立ち並ぶ、いくつかの壮麗な尖塔の位置に着目する代わりに、急に泣き出された。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される」[マタ23:37-38]。今あなたがたは家路につくがいい。そして、周囲の丘のどれかに立って、谷間に横たわる、この《怪物》都市を眺めるがいい! そして云うがいい。「あゝ、ロンドン、ロンドン! お前の咎のいかに大きなことか。おゝ! 《主人》がその翼の下にお前を集め、お前をご自身の町とし、全地の喜びとしたくださるとしたらどんなに良いことか! おゝ、ロンドン、ロンドン! 種々の特権に満ちていながら、罪に満ち、福音によって天まで高められていながら、お前はそれを拒絶することによって地獄に投げ落とされるのだ!」 そして、あなたがたがロンドンのために泣き終わった後には、行ってあなたが住んでいる町通りについて泣くがいい。安息日が破られ、神の律法が踏みつけられ、人々のからだが粗末にされているのを見てそうするがいい。――行って泣くがいい! 泣くがいい。あなたが自分のつましい貧困の中で住んでいる袋小路のために。泣くがいい。あなたが自分の壮麗な富とともに住んでいる広場のために。泣くがいい。あなたがそれなりに不自由なく暮らしている、もう少し慎ましい通りのために。泣くがいい。あなたの隣人や友人たちのために。彼らの誰かが、神のない生き方をしてきたあげくに神なく死ぬことがないように! それから、あなたの家に行き、自分の家族のため、召使いたちのため、夫のため、妻のため、子どもたちのために泣くがいい。泣くがいい、泣くがいい。泣くのをやめてはならない。神が彼らをその御霊によって新しくしてくださるまでは。そして、もしあなたに、過去の人生の中で一緒に罪を犯した友人たちが誰かいるとしたら、彼らの救いのため熱心になるがいい。ジョージ・ホイットフィールドの云うところ、彼はその若年の頃、多くの青年たちと一緒に骨牌遊びに興じ、本来なら他の務めに携わっているべきときに、何時間も無為な時間をつぶしてきたという。だが彼が回心したとき、真っ先に考えたのは、「私は神の恵みによって彼らをも回心させなくてはならない」、ということであった。そこで彼は一心不乱に働き、ついに彼ら――自分と咎をともにした仲間――のうちひとりとして、今や自分と福音の患難をともにする仲間となっていない者はいないと云えるまでとなった。おゝ、あなたも同じようになるがいい! また、あなたの奮励を涙で終わらせてはならない。ただ泣くだけで何も行なわないのでは無意味である。二本の足で立ち上がるがいい。あなたがた、声と力を有する人たち。出て行って福音を宣べ伝えるがいい。それをこの巨大な町のあらゆる町通りと路地とで宣べ伝えるがいい。あなたがた、富を有する人たち。出て行って、それを貧しい人、病む人、困窮している人、死にかけた人、教育のない人、未開の人のために費やすがいい。あなたがた、時間のある人たち。出て行って、それを善を施すわざのために費やすがいい。あなたがた、祈りに力を有する人たち。出て行って、祈るがいい。あなたがた、筆を振るうことのできる人たち。出て行って、不義を糾弾するがいい。――あらゆる者が持ち場につくがいい。あなたがたの中のあらゆる人々が、この戦闘の日、自分の大砲につくがいい。今こそ神とその真理のために。神と正義のために。私たち、主を知る者の中のあらゆる者は、その御旗の下で戦うことを求めるがいい! おゝ、神よ。あなたがおられなければ、私たちのいかなる奮励もむなしいものです。今やって来て、あなたの教会をより大きな勤勉と、より愛情のこもった熱心さへと奮起させてください。私たちが、この日有しているような涙の種を今後持たなくなるように! 罪人たち。主イエスを信ずるがいい。主は死なれた。主を仰ぎ見て、生きるがいい。そして、《全能の神》があなたを祝福してくださるように! 父、子、聖霊の神に、栄光がとこしえにあらんことを。

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印度の災禍と英国の悲しみ[了]

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