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キリスト教の独立性

NO. 149

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1857年8月30日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる」。――ゼカ4:6


 神の第一にして最大の目的は、ご自分の栄光である。かつて、いかなる時もなかった頃には、ただ《年を経た方》のほか何者もおられなかった。神は、その荘厳で崇高な孤独の中に、ただひとり住んでおられた。神が世を創造すべきか、すべきでないかという問題は、もう1つの問いにどう答えるかにかかっていた。――それは神に誉れをもたらすだろうか、もたらさないだろうか? 神は創造のみわざによってご自分の栄光を現わそうとお決めになった。だが、創造のみわざにおける神の動機は、いかなる疑問の余地もなく、ご自分の栄光であった。その時以来、神が地を祝福し、それを祝福すらしてくださったのは、常にご自分の無限のみ思いの中にあるのと同じ目的――ご自分の栄光と誉れ――のためであった。それよりも低い動機を持つというのは、神の神聖さに劣ることであった。あなたや私が達することのできる最も高い立場、それは神のために生きることである。また神の最も高い美徳は、神が、《無限者》また《永遠者》としての偉大さをことごとく有するご自分をあがめさせることである。ならば、神がお許しになること、あるいは行なわれることは何であれ、この1つの動機、ご自分の栄光のためになされるのである。救いですら、確かに高価な代償が支払われ、私たちにとって無限の恩恵となるものではあっても、その第一の目的、また、その壮大な結果となるべきは、この《至高の支配者》の《存在》と種々の属性を高く掲げることにほかならない。

 さて、これは、神の偉大な種々の行為に、一般的に当てはまるばかりでなく、その詳細な点にも等しく当てはまることである。確かに神が教会をご自分のものとしておられるのは、その教会を贖い、保護することが、ご自分の栄光のためとなるからに違いない。それと等しく、神の許容、あるいは御力によって、教会に対して、あるいは教会において、あるいは教会のためになされるあらゆることは、教会の安寧のためのみならず、神の栄光のためなのである。聖書を読めば気づく通り、神は、教会を祝福されたときには常に、その祝福の栄光を確実にご自分のものとしてこられた。その祝福の恩恵にあずかったのが民であったとしても関係ない。時として神は権力によってご自分の民を贖われたが、そのときにも、その権力や能力を用いて、すべての栄光がご自分のもとにやって来るようにし、ご自分のみかしらにのみ栄冠が戴かされるようにされた。神はエジプトを打ち、力強い手と差し伸ばされた腕をもって、ご自分の民を導き出されただろうか? その栄光はモーセの杖にではなく、その杖をそれほど強力なものとした《全能の》力に帰された。神は荒野を越えてご自分の民を導き、彼らの敵から守られたではないだろうか? さらに、ご自分に頼ることを御民に教えることによって、一切の栄光をご自分のものとして保たれたではないだろうか? それで、祭司や預言者たちの中のモーセやアロンが神と誉れを分かち合うことはできなかったのである。また、できるものなら、アナク人の壊滅や、カナンの諸部族の破滅について私に告げてみるがいい。約束の地をイスラエルが所有したことについて告げてみるがいい。ペリシテ人が完敗させられ、山と積み上げられたこと[士15:16]、ミデヤン人が同士打ちさせられたこと[士7:22]を告げてみるがいい。王たちや君主たちが逃げ去っては倒れ、地がツァルモンに降る雪のように白くなったこと[詩68:14]を告げてみるがいい。私はこうした勝利の1つ1つについて云うであろう。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められた」*[出15:21]、と。また、あらゆる戦勝の最後にこう云うであろう。「主に冠ささげよ、主に冠ささげよ、主の御名を高め、たたえよ。世々とこしえに」。しかしながら、時として神は権力という媒介を行使しないことをお選びになる。また、権力や能力によって救うことをお選びになるとしても、それは栄光が神に帰されるためである。また、「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる」、と云われるときも、それは、同じ目的、同じ願いのためであり、私たちは次のように導かれるのである。――

   「《王の王》にぞ 令名(ほまれ)をささげ、
    《主の主》に栄えの 冠ささげん」。

神はご自分の誉れを極度に用心深く守っておられる。ご自分の教会を解放する際でさえ、神より人に誉れが帰されるようなしかたでは解放されないようになさるであろう。いかなる競敵もいない王座をご自分のためにお取りになるであろう。いかなる首長が戴いたことのない冠を戴き、いかなる首長が握ったこともない王笏を振われるであろう。というのも、神が神であられるのと同じくらい真実に、地は知らなくてはならないからである。神が、また、神だけがこれをなされたのであり、神にその栄光は帰されなくてはならないのだ、と。

 さて、私の今朝の目的は、神に栄光を帰すために、《救い主》を愛するあなたがたにこう示すことである。すなわち、教会が保たれ、勝利するのは、いずれも、権力によらず、能力によらず、神の御霊によってであって、それは、すべての誉れが神に帰され、そのいかなる部分も決して人間に帰されないようにするためである、と。私は本日の聖句をごく単純に区分したいと思う。この聖句そのものに添った自然な分け方である。第一に、権力によらず。第二に、能力によらず。第三に、わたしの霊によって

 あなたは、《権力によらず、能力によらず》という2つの言葉に何か区別があるのかと私に尋ねるであろう。答えよう。しかり。最上のヘブル語学者たちが告げるところ、最初の「権力」は「軍隊」と訳せるという。七十人訳はそう訳している。それは、集合的なものとしての力を意味する。――糾合された多くの人々の力である。二番目の言葉、「能力」は、一個人のすぐれた能力を意味する。それで本日の聖句を分かりやすくすると、次のように云い換えることができよう。――「『人々の糾合された力が互いに助け合おうと精を出すことによってではなく、また、ひとりの英雄の単独の力によってでもなく、むしろ、わたしの御霊によって。』と主は仰せられる」。さて、これで区分は明瞭になったであろう。これらには、それなりに違いがあるのである。

 まず手始めに、教会が保たれ、勝利するのは、《権力によって》ではありえない。――すなわち、集合的なものとしての力によってではない。

 第一に、糾合された力によって表わされているのは、人間の軍隊であると考えてみよう。確かに云えることだが、人間の軍隊によって教会が保たれたり、その利益が助長されたりすることはありえない。これまで私たちはみな、それとは違った考え方をしてきた。新たな領土が大英帝国に併合されると、愚かにもこう云ってきた。「あゝ! 英国がアウド[印度のウッタルプラデシュ中部地域]を併合したのは何という摂理であろう」、――あるいは、別の属領が併呑されると、――「さあ、《福音》のための扉が開かれたぞ。キリスト教政権はキリスト教を奨励するに違いないし、《政府》の頂点にキリスト教政権がある以上、原住民は私たちの啓示の真正さを仔細に調べる気持ちになるだろう。その結果、大きなことが起こるだろう。英国の銃剣の切っ先には《福音》が携えられているのであり、その勇士たちが突きつける真の剣の刃によってキリストの《福音》が宣言されないと誰に云えよう?」 私は自分でもそのように云ったことがあるが、今の私は痛みとともに自分が愚かであったこと、キリストの教会もまた、みじめに騙されてきたことが分かる。というのも、私はこう主張し、また、証明するからである。キリスト教国の武力の進展は、キリスト教の進展ではない。また、わが帝国の伸張は、《福音》にとって有利なものであるどころか、キリスト教に反するものである。そう私は主張し、この日、はっきりそう宣言する。

 私たちは、しばしの間、私たちの注意を印度だけに限定しよう。私の信ずるところ、同地における英国の支配は色々な意味で有益なものである。私は欧州社会による開化作用を否定しない。人間性を大きく高める事がらがなされてきたことも否定しない。だが、私はこう強く主張したいし、それを証明できる。すなわち、もしも《福音》が何の支援も受けずに放っておかれたとしたら、それが印度において伝播する可能性は、大英帝国の統治が始まって以来そこにあった可能性ををしのいでいたはずである、と。あなたがたは、もしもキリスト者たち――あなたがたが呼ぶところの――がかの国を所有するとしたら、彼らはキリスト教信仰を優遇するであろうと思っていた。さて、私は1つの事実を述べよう。全国津々浦々で告げ知らされるべき事実である。伝聞に基づいたものではない。少し前にある教職者から知らされたことだが、その事実は彼の記憶にまざまざと焼きついていたことである。ひとりの印度人兵(セポイ)が、ある宣教師によって神に回心した。彼はバプテスマを志願して、キリスト者となった。よく聞くがいい。私たちのようなやりかたと流儀に従ってではない。バプテスト派でも、独立派でも、メソジスト派でもなく、同領に設立された監督派教会の方式に従ってキリスト者となった。彼は軍隊付き司祭と面接し、キリスト者として受け入れられた。その印度人兵はどうなったと思うだろうか? 東印度会社[1858年まで印度統治に当たった]よ、永遠に恥を知るがい。彼は連隊服をはぎ取られ、軍から除隊させられ、実家に帰されてしまったのである。キリスト者になったというだけの理由で! あゝ! 私たちは、もし彼らが権力を得たとしたら、私たちの助けになると夢見ていた。悲しいかな! 貪欲の政策は、容易にはキリストの御国を支援するものにすることができない。

 しかし、私が云いたいのはそれだけではない。私の信ずるところ、《政府》の助力は、その反対よりもはるかに悪い。同社が時として宣教事業を邪魔することを、私は強く遺憾に思う。だが私の信ずるところ、もし彼らがそれを奨励するとしたら、それははるかに悪いものとなっていたであろう。というのも、彼らの奨励は私たちが受けることのありえる最大の妨害となっていたであろうからである。もしも私が明日、印度へ赴いて《福音》を宣べ伝えるとしたら、私は神に祈るべきである。そのようなことがありえるとしたらだが、神が私に黒い顔を与え、私をヒンドゥー人のような見かけにしてくださるようにと。というのも、そうでない場合、私は、説教するときに、自分が支配者のひとり――そして時には、圧制者のひとり(と云い足さなくてはならないであろう)――とみなされているのを感じるはずである。そして、自分が人として人々に、また、兄弟が兄弟に、また、愛に満ちたキリスト者として人々に語っているように話を聞いてもらえるとは期待できないはずである。むしろ彼らは、私の話を聞いては、それにけちをつけることしかしないであろう。なぜなら、私の白い顔そのものが、私を優越した者であるように見せるからである。何と、英国においてすら、わが国の伝道師や、わが国の聖職者たちは、民衆に対して偉ぶった、また威張った様子をしている。彼らは自らを聖職と呼び、人々を平信徒と呼ぶ。そして、その結果、自分たちの影響力を弱めてきたのである。私は、自分の同胞の人々に立ち混じること、また、民衆の中のひとり、まさに彼らのひとり、彼らと同等の、彼らの友となることが正しいと思ってきた。すると彼らは私のもとに寄って来て、こだわりなく私を愛そうとしてくれた。そして私は、自分が兄弟であり、彼らの骨の骨、肉の肉であるようにふるまい、そう感じていない限り、福音宣教において成功を期待できないはずである。もし私がそのように彼らの前に立てないとしたら、彼らの心に達することはできない。ならば、もしも私が最優等の支配種族のひとりとして印度に遣わされ、その住民に福音を説けと命じられるとしたら、それは到底達成不可能な仕事を与えられたに等しい。ジョン・ウィリアムズが[南太平洋の]エロマンガ島で斃れたとき、あなたがたは泣いた。だが、エロマンガ島にとってそれは、わが国の宣教師たちが最初に印度に上陸した日よりも、ずっと有望な日だったのである。私は、現存する最も野蛮な部族のもとに行って宣教する方が、英国の支配下にある土地に行って宣教するよりもましだと思う。それは英国に何か落ち度があるためではなく、単に私が、英国人として、優越者のひとり、支配者のひとりとみなされ、それが善を施すことのできる私の力をほとんど取り去ってしまうであろうからである。さて、あなたの目をこの広大な世界に向けてもらえるだろうか? 一度でもあなたは、英国の支配下にある国のいずれかが神に回心したと聞いたことがあるだろうか? モファット氏や、私たちの偉大な友リヴィングストン博士はアフリカで長年働き、非常な成功をおさめ、多くの人々が回心してきた。では、英国の保護下にあるカフィル部族が1つでも回心したと聞いたことがあるだろうか? 何の援助も受けず、人として人に宣教された人々だけが神に導かれてきたのである。私としては、ある事業が殉教によって始まるときには、それにもかかわらず、それが成功に至る見込みがあると思う。だが、征服者が被征服者に福音を宣べ伝えるとき、それは成功しないであろう。神は私たちに、それが権力によらないことをお教えになるであろう。鞘から抜き放たれた白刃がキリストの助けとなったことは微塵もない。回教徒たちの信仰は偃月刀によって支えられるかもしれないが、キリスト教徒の信仰は愛によって支えられなくてはならない。戦争という大罪は、決して平和の信仰を促進しはしない。戦闘も、血染めの長衣の塊も、「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」[ルカ2:14]なる前触れとしてはふさわしくない。そして私が堅く信ずるところ、人々の大量殺戮や、銃剣や、軍刀や、大砲はこれまでも、また、これからも、決して福音を押し進めることはありえない。福音はそうしたものがなくとも前進するであろうが、そうしたものを通しては決して前進しない。「権力によらず」。さて、たとい支那において英国人が勝利を得つつあると聞かされても、二度と騙されてはならない。膝まずいて神にそのことを感謝してはならない。福音の伝播のためにはそれは天の恵みだと云ってはならない。――全然そうではない。経験の教えるところ、また、もしあなたが地図を眺めるならば私の述べたことが真実以外の何物でもないことを知るであろうところ、私たちの武力が勝利を得た地域では福音は妨げられることの方が多かったのである。それで、南洋諸島の土人たちが膝をかがめて、その偶像どもを蝙蝠に投げやっている[イザ2:20]というのに、英統治下のヒンドゥー人たちはその偶像どもを保ち続け、ベチュアナ人や叢林地土人が主に立ち返っているというのに、英支配下のカフィル人は回心していないのである。ことによると、それは彼らが英国臣民となったからではなく、宣教師たちが英国人であり、彼らの上位者としてふるまい、自分の影響力を弱めてしまった事実そのもののためかもしれない。おゝ、戦争よ。お前の喇叭の音を黙らせるがいい。お前のけばけばしい装具と、お前の血で汚れた服地を片づけるがいい。もしお前が十字架のついた大砲が本当に聖別されていると考えていたり、お前の軍旗が聖なるものとなっていると信じているとしたら、お前は偽りを夢見ているのだ。神は、その御国を進展させるためにお前を必要とはしていない。「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる」。

 さて、この「権力」という言葉を別の意味で理解した場合、それは、大きな団体を意味する。つまり、人々の云うところの教派である。近頃、人々は奇妙な考えを頭に入れていて、彼らの呼ぶところの教派を形成する。これはみな間違っている。世にはいかなる教派もあるべきではない。というのも、聖書によると、あらゆる教会は他のどの教会からも独立しているからである。世には、相違する個々の意見の数と同じくらい多くの教会があってしかるべきである。だが、そうした諸教会を糾合した教派などは、全く存在しているべきではない。そうしたものも何らかの善を施すことがあるかもしれないが、それがもたらしている害悪の方は莫大なのである。さて、ある教派が最初に始まるときには非常に大きな反対を受ける。例えば、メソジスト派を取り上げてみよう。その最初の説教者たちが何と熱心であったことか。何と疲れを知らずに労苦したことか、何とひっきりなしに迫害されたことか。だが、何という魂の収穫を神は彼らにお与えになったことか! あの最初にオックスフォードで数人の青年が永遠の福音を宣べ伝え始めたときに起こった群雲から、何という祝福が降り注がれたことか! メソジスト派は前進し続け、ついにそれは最も尊敬すべき種類の団体となるまでとなった。その支流は英国全土に広がり、あらゆる国にその団体を有している。――そして今――私はメソジスト派に反することを云うつもりは毛頭ない。同派を好む者は(私は好まないが)それを信ずるがいい。――だが、私はいま強くこう云いたい。彼らが最大のものとなっている時こそ、彼らが最も微弱な働きしかしていない時なのである。彼らは古のメソジスト派の力が大いに弱り果ててしまったと告白するであろう。かつては世界をひっくり返し、諸教会をことごとく天来の光といのちで燃え上がらせるように思われた力は、そのあらかたが消えてしまっている。彼らの陣営内には、戦争のことや戦争のうわさがある。そのあげくに、新派やら旧派やら、改革派やら協議会派やら、無数のあれやこれやとして、彼らがいかに多くの宗派に分裂していくかは誰にも見当がつかない。実のところ、この団体が最大になり始めたときにこそ、神は仰せになったのである。「さて、お前はお前のわざを大部分なし終えた。そのわざは、もはやお前によってはなされないであろう。権力によらず、お前の連合力によるのでもなく。お前は、われわれの努力によって地は福音で覆われるだろう、と云ってきたが」。「いま」、と神は仰せになる。「わたしはお前を数千人単位で減らすであろう。年々お前の会員を取り除き、その一方で他の教派を強くしよう。そして、お前は、まだ存在はするものの、自分の熱心が離れ去っているために、心を痛めて泣き、悔い改めなくてはならないであろう」。他のどの教派についても全く同じである。私たちバプテスト派は、世界で最も哀れな奴らとみなされ、誰もが私たちを鼻であしらっていたときには、今の私たちよりもはるかに大きなことを行なっていた。そこには、現在よりもはるかに純粋な教理があった。はるかにすぐれた説教があった。しかし、私たちは体裁が良くなり始めた。――そして、まさに私たちの体裁が良くなり始めるのと軌を一にして、自分たちの力を失い始めた。ゴシック様式のバプテスト派の会堂が新たに建つたびに素朴さは減衰し、いわゆる知的な教役者が新たに立つたびに福音主義的な力はその分、失われていった。ついに今、教派としての私たちは、他のどの教派とも変わらない体たらくにある。そして私たちには、再び私たちの古の指導者たちの何人かが、力と現われ[Iコリ2:4]をもってみことばを宣べ伝えること、またバプテスト派の体裁を良くしようとしてきた大仰な慣例主義をことごとく覆すことが必要である。願わくは私たちが、決して大いに褒めそやされる会衆に向かって説教するよう召されることがないように。それは悲しい災いの日となろう。蔑まれ、つばを吐きかけられ、風刺画化され、あざけられるのは、キリスト教の教役者が受けうる最高の栄誉である。だが、ちやほやされ、へつらわれ、人々の喝采を受けるのは、あわれで卑しいことであり、得る価値もないことである。もし誰かがここにやって来て、「この人たちは、不体裁な人たちだな」、と云うとしたら、私たちは答えよう。「私たちは貧しい人々に宣べ伝えようと努めているのである」、と。しかし、よく聞くがいい。どこかの大教派があまりにも大きくなり始めるときには常に、神はその角を切り落とし、その栄光を取り去るであろう。世がこう云うようになるまでそうなさるであろう。「これは権力によらず、能力にもよらないのだ」。

 そして今、私はこの「権力」という言葉の適用をもう1つ示そう。私がこれまで述べてきたことは、ある特定の教会にもそっくりそのまま当てはまる。私は自分が牧師をしている教会のことを思って震えるものである。私たちが少人数であったときには、私は決して震えることがなかった。私たちは祈りにおいて熱心であったし、真心から嘆願をささげていた。「パーク街にある、あのみじめなバプテスト派会堂」に行くことは軽蔑の対象であった。私たちは蔑まれ、そしられ、中傷されていた。そのときの私は、一度もそうしたことのために震えたことはなかった。神は伝道活動を祝しておられ、魂は救われつつあり、私たちは主を恐れつつ、愛にあってともに歩んでいた。しかし、今の私は震えている。今や神は私たちの地境を広げてくださり、私たちが会員数を十人単位ではなく百人単位で数えられるようにしておられる。今や私たちは、英国最大のバプテスト教会であると云える。私はいま本当に震えている。なぜなら、今やまさに私たちがこう云い始めるであろう時だからである。「私たちは大いなる民だ」。「私たちは多くのことを行なうことができる」。「私たちは大きな活動を行なっている」。「世間は私たちに注目するであろう。私たちは多くのことを成し遂げるだろう」。もし私たちが一度でもそのようなことを云うとしたら、神は仰せになるであろう。「人間に信頼し、肉を自分の腕とする者はのろわれよ」*[エレ17:5]。そして、御顔の光を私たちから隠し、堅く立っている私たちの山は揺らぎ始めるであろう。おゝ、諸教会よ!――あなたがた、諸教会の代表としてこの場に集っているすべての人たち。この知らせを持ち帰るがいい。おゝ、諸教会よ! 自分に信頼しないように用心するがいい。こう云わないように用心するがいい。「私たちは体裁の良い団体だ」。「私たちは大人数だ」。「私たちは有力な者たちだ」、と。あなたがたが、自分の力に栄光を帰し始めないように用心するがいい。というのも、そうなるとき、「イ・カボデ」[Iサム4:21]があなたの壁に記され、あなたの栄光はあなたから去るからである。覚えておくがいい。私たちがほんの少人数だったころ私たちとともにおられたお方は、私たちが大人数となった今も私たちとともにおられなくてはならない。さもなければ、私たちは敗北せざるをえない。そして、私たちが「イスラエルの最も小さな者」*[ミカ5:2]にすぎなかったとき私たちを強くしてくださったお方は、私たちが「マナセの幾千もの者」*[申33:17]のようになった今も私たちとともにおられなくてはならない。さもなければ、私たちは一巻の終わりとなり、私たちの時代は過ぎ去るであろう。「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる」。

 II. 《能力によらず》とは、個々の力によらないということである。知っての通り、愛する方々。結局において、これまでになされた最も大きな働きは、ひとりひとりの人によってなされたものである。数百人が多くを行なうことはめったにないし、大集団がそうすることは決してない。小さなまとまりの個々人こそ、結局において、能力であり、権力なのである。英国のいずれかの教区で、よく整えられた団体が善を施しているとしよう。――その活力の中心にいるのは、誰かひとりの若い婦人、あるいは若い男である。大勢の人々を擁している、いかなる教会を見ても、働きを行なっているのはほんの二三名である。宗教改革を見てみるがいい。多くの改革者たちがいたかもしれないが、ひとりルターがいただけであった。多くの教師たちがいたかもしれないが、ひとりカルヴァンがいただけであった。前時代の説教者たちを見てみるがいい。諸教会を奮い立たせた、力強い説教者たちである。彼らにも多くの助手はいたが、結局のところ、ホイットフィールドの友人たちでも、ウェスレーの友人たちでもなく、事はこのふたりが自分で行なったのである。個々人の努力こそ、最終的には、最大のものなのである。ひとりきりの人は、五十人を足手まといにしている人よりも多くのことを行なうことができる。種々の委員会はごくまれにしか大した役に立たないし、種々の組織体や団体は、時として、力を増す代わりに、力を削ぐものとなりえる。ノアの箱舟が一団の人々によって作られなくてはならなかったとしたら、彼らはまだその竜骨も据えてはいなかったであろう、とはよく云われるが、それは正しいかもしれない。組織体が事をなすことはめったにない。それはほとんど常に失敗する。なぜなら、連帯責任とは無責任だからである。キリスト教信仰においても全くそれと同じである。大事はひとりの人によってなされなくてはならない。古い歴史を振り返ってみるがいい。誰がイスラエルをペリシテ人から救出しただろうか? 徒手空拳のサムソンであった。誰が人々を糾合してミデヤン人を敗走させただろうか? 一個のギデオンであった。「主の剣、ギデオンの剣だ」[士7:20]、と叫んだ者であった。誰がその敵を打っただろうか? 一個のシャムガルが牛の突き棒でそうした[士3:31]。あるいは、一個のエロンが、自国を支配する暴君をその短刀で葬った。――ばらばらの人である。――自分の石投げと石を手にしたダビデたちは、軍隊にできたことよりも多くのことを成し遂げてきた。「しかし」、と神は仰せになる。「個々人の力によって、福音が伝播されるべきでもない」。個々の力には、別の意味もある。時として私たちは、この種のことを、学識を表わしていると云うことがある。私たちはそこここで、学識において卓越して偉大な人々を見いだす。彼らは不信心者を捕らえては、解剖台の上に縛りつけ、たちまち彼を詳細に分析することができる。偉大な神学教師である。大学で授かることのできる最高の学位に達している。聖書を徹底的に読み込んでいる。強大な神学者であって、ジョン・オーウェンと論じ合うことも、カルヴァンの出鼻を完全にくじくこともできるであろう。博覧強記で、この上もなくすぐれた評論を執筆することができ、哲学的論考に対する大きな賜物を有している。しかし、あなたは自分の一生の中で、一度でも聞いたことがあるだろうか? こうした人々が神によって祝福されて、何か大きなキリスト教運動を率いることがあった、と。そうしたこともあったかもしれないが、私はその一切を忘れてしまった。そうしたことも起こったかもしれないが、私はそれを覚えていない。このことを私は確信している。主イエス・キリストの使徒たちには何の学位もなく、持っていたのはただ、腕利きの漁師であるという良い身分だけであった。私にとってこのことは確かである。代々を通じて神は、何か非常に偉大な知的広がりを有する人々をお用いになることはめったになく、用いられたのは深遠な学問の人のようには見えなかった。彼らは一般に断固たる意志と、強固な信念の持ち主ではあったが、非常に高い知的能力の人であることはめったになかった。だからといって私は、学問をけなすべきだろうか? おゝ! 否。決してそうではない。学問はあればあるほど良い。人々はできる限り賢くあるがいい。できる限り学問を積むがいい。だがそれでも、この事実に変わりはないし、誰ひとりそれに異論を唱えることのできる者はいない。――神はしばしば知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を取り上げ[Iコリ1:27]、人々にこのことを見てとらせようとされる。「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる」。

 私は英国で最も卓越した教役者たちの多数と知遇を得るという喜びと幸いを得ている。私は彼らとともに散歩したり、語り合ったり、御国の事がらについて話をしたりする。それは大きな喜びであり、もし彼らがこの場にいるとしても、彼らは私がこれから云おうとしていることを辛辣であるとは思わないであろう。すなわち、私たちが喜んで子どものようにその足元に座り、その知恵を聞こうとするであろう人々の多くは、教役者としてこのような告白をしたのである。自分は、自分の生涯を回顧するとき、オーウェンとともにこう云いたい。「私は、もし鋳掛け屋のバニヤンのように説教できさえしたら、自分の才能すべてを引き替えにしても惜しくはない」、と。彼らは、自分が深遠な学識や研究能力の持ち主であるとの名声を得ただけでなく、何か別の者にもなりたかったのである。私の兄弟たち。それは彼らの過失ではない。彼らは忠実に、また熱心に労苦してきた。私には彼らに何の過ちも見いだせない。神の主権こそ、このことを彼らの肝に銘じさせ、その力を彼らに感じさせるのである。――それは、能力によるものであってはならなかった。そして、彼らの知的秀抜さそのものが、彼らを脇へ押しやっているのである。――それで彼らは、教会に何か非常に大きな結果をもたらすためには、神から用いられることができないのである。個々人としてはともかく、少なくとも総じてそうである。なぜなら、その場合、それが能力によるもののように見えるからである。

 「否、否」、とある人が云う。「たといある人に学問がなくとも、大したことではありません。人は雄弁でなくてはならないのです」。それはもう1つの間違いである。魂が救われるのは、雄弁という能力によってではない。私の信ずるところ、心底から福音を説教するあらゆる人は雄弁である。それで、私は間違った言葉を用いてしまった。しかしながら、私が意味しているのは、偉大な弁論能力が神に用いられて、何か非常に大きな成果をもたらすことはごくまれにしかない、ということである。この点でさえ神は、それが能力によってもたらされるように見えることはなさらない。あなたがたはホイットフィールドの説教について聞いたことがあるが、一度でも彼の説教を読んだことがあるだろうか? あるとしたら、それが実に情けない代物だと云うであろう。それらの中には、雄弁術に近づきうるようなものは何1つないと思う。この人の熱心さだけが彼を雄弁にしていたのである。あなはた一度でも、大群衆を動かすために神に祝福された説教者の話を聞いたことがあるだろうか? 彼は雄弁だった。というのも、熱心に語ったからである。だが、弁論術については薬にしたくもなかった。私としては、説教におけるあらゆる勿体ぶりを慎まなくてはならない。私は確かに、この講壇に立つときには、決してこのようには考えてはいない。「私はこの人々に向かって、いかにすれば壮大なしかたで語れるだろうか?」 私がここに立つときには、こう考える。「私には云わなくてはならないことがある。私は彼らにそれを告げよう」。それをどのようなしかたで彼らに告げることになるかは、私には大したことではない。おそらく、神の助けによって、私は何とか言葉を見いだすであろう。だが、雄弁の優雅さだの、弁論術としての言葉だのについては、私は完全に、また皆目五里霧中だし、そうした方面の達人である人々を模倣したいとも思わない。私の信ずるところ、いま私たちが雄弁だと呼んでいる、すでに亡き人々は、在世当時には、あわれでへまな語り手であると笑われていたのである。死んで葬られた今の彼らは聖者の列に加えられているが、生前の彼らは口汚く罵られていた。

 さて、私の兄弟たち。私が強く信ずるところ、神は一般には精緻な語り口だの、壮大な文章だのといったものに汚点をつけ、事が個人の能力によってではなく、ご自分の御霊によるものであることを示そうとされる。私はここに立ち、この場所の付近のどこか特定の界隈に指を突きつけることができるであろう。また、これこれの会堂の脇で立ち止まり、こう云うことができるであろう。そこで説教している人の文章はいかに知的な人々の査読にも耐える立派なものだが、その会堂には今朝、百人しか入っていない。私は別の人をあなたに指摘するであろう。その説教を私たちは、いまだかつて耳にした中で最も非の打ち所のない弁論であると呼べるが、彼の会衆はほとんど全員が居眠りをしている。また私たちは別の人を指摘できよう。その人には質素きわまりない素朴さがあり、その話を語る文章には比類もなく異様な美しさがあるが、何年もの間、その会堂ではひとりの魂が救われたとも聞こえてこない。さて、なぜそうなのだろうか? 思うに、それは神がこう云っておられるからである。それは能力によらないのだ。個人の能力によるものであってはならないのだ、と。そして、私はこう云うであろう。神は、個人的な能力によって世界を動かす、あるいは何らかの改革を行なう人をお立てになるときには常に、例外なく、誰の目にも毒々しく明らかな欠点や過誤を有する人をお選びになる。そして、私たちはこう云わざるをえない。「人がこれを行なっているのだろうか。確かにこれは神から出ているに違いない。あの人にこのようなことができたはずがない」、と。しかり。世には、あまりにも偉大すぎて神の意図にかなわない人々がいる。彼らの様式はあまりにも卓越しすぎているのである。もし神がそれらを祝福されたなら、世は――特に文壇は――こう叫ぶであろう。彼らの才質を神は祝福なさるのだ、と。だが神はそれとは逆に、どこかの粗雑な男、まさしく土の器にほかならない者を取り上げては、ご自分の宝を彼の中に入れ、全世界を揺さぶられる。人々は叫ぶ。「これがどうしてそうなるのか分からない。確かにあの男の力ではないに違いない」、と。批評家はその洋筆を取り上げては、毒筆を振るい、その人の人格についてこの上もなくすさまじいことを書き記す。その人はそれを読んで、こう云う。「これはまさに真実だ。そして、私はそのことを喜ぶ。というのも、もしこれが真実でなかったとしたら、神は私をお用いにならなかったであろう。私は自分の弱さを誇りとする。なぜなら、キリストご自身の力が私の上にとどまっているからだ。もし私にこうした弱さがなかったとしたら、これほど多くのことをなすことはできなかったであろう。だが、この弱さそのものが、人々に、『あれは人間わざだ』、とはどうしても云えないようにしているのだ」。私はしばしば、私に反対する一部の人々によって喜ばされてきた。彼らは、私のうちにあるあらゆること――私の頭の天辺から足の爪先まで――を嘲ってきた。私は全身くまなく傷があり、ただれた傷口があり、一言一句が野卑であり、すべての所作が奇怪であり、そのすべては忌まわしく冒涜的なのである。そこで私は云った。「よろしい。これは喜ばしいことだ。もうこれで心配はない」、と。そして、ある人々が、「さあ、私たちの教役者を弁護しなくては」、と云っている間も、私は考えていた。「放っておくのが良いさ。それに越したことはほとんどないもの。というのも、かりにそれが本当だとしたら――そして、そのほとんどは本当のことだが――、神にはいやまさる栄光が帰されるのだ。これなら、みわざがなされていることを誰が否定できるだろう?」 そして、真に偉大な名匠は、悪い道具を使っても、見事な職人芸を作り出させる人であり、もし数百もの魂が現に回心しているとしたら、もし酔いどれが素面になっているとしたら、もし遊女が貞節になっているとしたら、もし悪態をつく者、冒涜する者、盗人、若い頃からごろつきだった者が救われるという壮大な結果があるとしたら、私は、それがいかなることか分からない。そして、もし私がそれを行なうために用いられている不格好で、扱いにくい、つまらない道具であるとしたら、私は神をほめたたえる。というのも、そのときあなたは私に誉れを帰すことはできず、あらゆる栄光を神に帰さざるをえず、神にこそあらゆる栄光は属することになるからである。神はこのことを証明し続けるのである。「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる」。

 III. さて今、しめくくりはあなたを飽かせないようにしよう。教会の進展と前進は、軍隊や団体や諸教会の集合的な力によって成し遂げられるのでも、個々人の奮励だの、学識や雄弁だのによって成し遂げられるのでもない。むしろ、そうした2つの目的は《神の霊によって》成し遂げられる。

 私が昨日考えていたのは、愛する方々。もし神が突如その御霊をペンテコステの日にされたようにキリスト教国の全面にお注ぎになるとしたら、いかに壮大な変化がもたらされることか、ということであった。私はそのとき、座ってこの説教について瞑想していた。そして私は思った。おゝ! もし神がその御霊を私の上にお注ぎになるとしたら、私は自分がいま座っているところから飛び上がり、膝をかがめては、これまで一度もしたことがないようなしかたで祈り始めるのではなかろうか。そして次の安息日に会衆のもとに出て行ったときには、彼らは自分の周囲に厳粛な畏怖を感じるであろう! 私が語る一言一言は、神の弓から放たれた矢のように命中した。そして、彼ら自身もこう感じるであろう。これは「神の家にほかならない。ここは天の門だ」![創28:17]、と。何千もの人々が叫ぶであろう。「救われるためには、何をしなければなりませんか」?[使16:30]、と。そして、天来の火をかかえて帰宅し、ついにはこの町全体が燃え上がるまでとなるであろう。そして、そのとき私は、もし諸教会が同じ状態にあるとしたら、また、教会員の全員が同じ御霊を受けたとしたら、諸教会全体に何が起こるかを思い描いた。私は教役者が月曜の朝から土曜の晩までほとんど、あるいは何もしないでいるのを見てきた。毎週の講義を語り、一回だけ祈祷会で立てば、務めは終わったと考えていた。その彼が、突如として、自分の寝椅子から立ち上がり、自分の会堂の病人全員を巡回し始めるのが見える。また、いかに彼が病人に短い慰めの話を語るか、いかに聖なる重々しさと、天来の素朴さを持っているかが見える。病人がその枕から頭をもたげては、死の苦悶の中にあってさえも歌い出すほどである。私は彼らの中の別の人々を見たような気がした。彼らは腰に帯を締めては、こう叫んでいた。「私は何をしているのだろうか?――人々は滅びつつある。そして私は彼らに向かって一週間に三度しか説教していない。これで、伝道者の働きに召されているといえるだろうか?」 私はこうしたすべての教役者たちが来週の月曜の夜に全員野外説教をし始めたのを読んでいるような気がした。私は彼ら全員がこの国のあちこちを飛び回り、御使いのように飛びかけているのを見たような気がした。そしてそのとき私は、執事たちもまた全員御霊に満たされてるのを見たような気がした。そして、彼らがその満腔の力を込めて、神を恐れてあらゆることを行なっていることに気づいた。私は、お大尽で、支配者であった者たちが、もはやデオテレペス[IIIヨハ9]のようになりたがってはいないことに気づいた。天的な影響力があらゆる思いに広がっているのを見た。教会の付属室が祈祷会には狭すぎるようになるのを見た。そして、会堂が人で混み合うのを見た。また、同じ単調な祈りを十年一日のごとく祈ってきた兄弟たちが、熱心な、燃えさかる言葉を迸らせるのを聞いた。私は、教役者が語りかけ、祈りを促している間、全集会が涙にかき暮れているのを見た。そして、兄弟たちがひとりひとり立ち上がっては、イエスとともにいて、いかに祈るべきかを聞いてきた人々であるかのように語るのを聞いた。彼らは、あたかもキリストがゲツセマネで祈るのを聞いていたかのように祈った。それは、これまで人が祈ったこともないような祈りであった。そしてそれから私は、こうした教会員や、こうした執事たちや、こうした牧師たちの全員が世界に出て行くのを見た気がした。そして、おゝ、私は思い描いた。そこには、いかなる説教があることか、いかなる小冊子配布があることか、いかなる貧窮者への施しがあることか、いかなる聖い生き方があることか! そしてそれから、私はすでに聞こえたかのように思った。いかなる家も夕暮れにはその歌を発し、いかなるあばら屋も早朝にはその祈りを天にささげている声が。私は、いかなる鋤歯にも「神に聖別されたもの」と刻まれ、いかなる馬の鈴の上にも「主への聖なるもの」[ゼカ14:20]と刻まれているのを見た気がした。そして、そのとき私は、相異なる教派の人々が駆け寄っては抱擁し合うのを見た気がした。主教がその主教冠を取り、自分の非国教徒の兄弟を抱きしめては友と呼び、自分の聖堂で説教してくれるように告げるのを私は見た。また、硬直した清教徒的な非国教徒が、国教信奉に対するその憎しみを打ち捨てて、英国国教会の兄弟を心に迎え入れているのを見た気がした。バプテスマを受けた者も受けていない者も1つの卓子に着いているのを見た気がした。長老派も、ウェスレー派も、独立派も、クエーカー教徒も、1つのことにおいては一致しているのを見た。――十字架につけられたキリストがすべてだということである。また、彼らは互いに握手し合っていた。左様。そして、そのとき私は御使いたちが天から降りてくるように思った。そして私は私の白日夢が終わるすぐ前に、このように叫ばれるのを聞いた。――「ハレルヤ。ハレルヤ。ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた」*[黙19:6]。それは白日夢であったが、いつの日か真実となるであろう。神の御霊によって、こうしたすべては成し遂げられるであろう。いかにして、また、いかなる手段によってかは、私も知らないが、その偉大な行為者が聖霊であるに違いないことは分かっている。

 そして今、愛する方々。あなたに助言させてほしい。教会が今のとき最も必要としているのは、神の聖霊である。あなたがたはみな種々の計画を立てては、「さあ、もし教会がもう少し変われば、それはより良くなるだろう」、と云う。教役者たちが変われば、あるいは、教会秩序が変われば、あるいは、何かが変わりさえすれば、すべてが良くなると思う。否。愛する方々。そこに間違いがあるのではない。問題は、私たちがより御霊を必要としているということである。それはあたかも機関車が鉄道の上にあって、動いていないのを見ているかのようである。そこで人々は機関手を乗せて、「さあ、あの機関手が何とかするだろう」、と云う。彼らは次から次に試してみる。ある者は、これこれの車輪を交換すべきだと提案するが、それでもぴくりともしない。そこである者が、やいのやいの云っている者たちの中に突然割って入り、こう云うのである。「いいえ、みなさん。これが動こうとしない理由は、全く蒸気が詰まっていないためです。火が全く燃えていませんし、汽罐にはまるで水が入っていません。だから動こうとしないのです。この汽車には何か欠点があるかもしれません。あちこちで塗装が剥げているかもしれません。しかし、そういったどんな欠点があろうとも、蒸気を立てさえすれば、これは十分に良く動きますよ」。しかし、今や人々はこう云っている。「これを変更しなくてはならない。そして、あれを変更しなくてはならない」、と。だが、御霊なる神がやって来て私たちを祝福してくださらない限り、いささかも良くはならないであろう。あなたは同じ教役者たちを有しているかもしれないが、神が彼らを祝福してくださるとしたら、彼らは一千倍も神のために用いられるようになるであろう。あなたは同じ執事たちを有しているかもしれないが、御霊が高き所から彼らの上に注がれるとき、彼らは今の彼らよりも一千倍も大きな影響力を有するであろう。それこそ教会の大きな必要であり、その必要が満たされない限り、私たちがいかに改革に改革を続けても、全く代わりばえがしないであろう。私たちには聖霊が必要である。いかなる欠陥が私たちの組織にあろうとも、いったん主なる神の御霊が私たちのただ中におられるようになるときには、そうした欠点は決して実質的にはキリスト教の進展を妨げることはできない。

 しかし私は、このことのため熱心に祈るようあなたに切に願う。あなたは知っているだろうか? きょう私は説教してきたが、聖霊なる神がご自分を現わしてくださるとしたら、この場の全員が回心しない理由はどこにもないのである。私の唇の声音が届く範囲内にいるあらゆる魂が、きょう云われた何かによって回心しないでいる理由は、聖霊なる神がその言葉を祝福してくださるとしたら、その一片の翳りすらないのである。いま私は繰り返して云おう。いかに卑しい原始メソジスト派であれ、また、この地上に立っている、いかなる種類の貧しく取るに足らない説教者であれ、真理を語っているとしたら、その人が御霊なる神によって、人々の回心のために大いに用いられることはありえるのである。その働きは、今は世を去って神の御座の前にある、いかなる大説教者にも劣らないことがありえるのである。私たちが必要とするすべては神の御霊である。愛するキリスト者の方々。家に帰って、そのために祈るがいい。神がご自分を現わしてくださるまで、倦まずたゆみず行なうがいい。それが肝心である。これまでしてきたような、永遠のとぼとぼ歩きで満足していてはならない。形ばかりの行ないを繰り返すことで満足していてはならない。目を覚ますがいい。おゝ、シオンよ。目覚めよ、目覚めよ、目覚めよ! あなたの力を身にまとうがいい。おゝ、エルサレムよ。あなたのまどろみから起き出し、あなたの無気力さから覚醒し、神に叫んでこう申し上げるがいい。「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。さめよ。昔の日のように」*[イザ51:9]。そして、神がそうなさるとき、あなたは、それが権力によらず、能力によらなくとも、神の御霊によるものであることに気づくであろう。

 そして今、私はしめくくりにほんの数分もかからない短い語りかけを行なおう。罪人よ。回心していない罪人よ。あなたはしばしば自分で自分を救おうとしてきた。だがあなたはしばしば失敗してきた。あなたは、あなた自身の力や能力によって、あなたの悪しき情動や、あなたにつきまとう放埒な願望を矯めようとしてきた。悲しいかな、あなたのあらゆる努力は成功していない。そして、私はあなたに警告する。そうした努力は今後も成功しないだろう、と。というのも、あなたは決して自分の力では自分を救えないからである。あなたのありったけの力を傾けても、決して自分の魂を新生させることはできない。決して自分を新しく生まれさせることはできない。そして、新生が絶対に必要であるとはいえ、御霊なる神がそれを行なってくださらない限り、それは絶対にあなたには不可能である。私はあなたのために祈るものである。御霊なる神があなたに罪を確信させてくださるように。そして、もしあなたがすでに罪を確信させられているとしたら、私はあなたに命ずる。主イエス・キリストを信じるがいい。というのも、主はあなたのために死なれたからである。あなたのもろもろの罪を洗い流してくださったからである。あなたは赦されている。それを信じるがいい。幸せになるがいい。そして、喜びながら帰って行くがいい。あゝ、《全能の神》があなたとともに死ぬまでともにいてくださるように。

  

 

キリスト教の独立性[了]

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