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五つの恐れ

NO. 148

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1857年8月23日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている」。――伝8:12


 私は時折、悪人たちが《いと高き方》の正義を糾弾しようとして、こう云うのを聞くことがある。すなわち、神は人が種々の力を用いるからといって罪に定めるが、それは不公平だ。そうした諸力は、もともと神が人に与えたものではないか、と。こうした陰険きわまりない悪は、弱く無知な人々の心をしばしばひどく嘆かせてきた。これがいかに信実からかけ離れたものてあるかを見てとれないからである。――はっきり云って、これほどの大嘘はない。神は、ご自分が与えた諸力を用いているからといって人々を罪にお定めになるのではない。神が人々を罪に定めるのは、彼らがそうした諸力を誤って用いているがためなのである。それらを行使するがためではなく、もともと意図されていないようなしかたで、それらを行使するがためなのである。単に考えたり、話したり、行なったりするがためではなく、ご自分の律法に反するようなしかたで考え、話し、行なうがためである。もう一度繰り返させてほしいが、神はいかなる人をも、ご自分によって与えられた力を用いたからといって地獄に落とすことはない。――だが、神が彼らを罪に定めるのは、そうした力を悪用したがためであり、神の誉れのために与えられた力を、厚かましくも、神への奉仕に反するもの、また、神の御座に逆らうものへと変えてしまったがためである。さて、愛する方々。神が私たちに与えてくださった力のうち1つとして、神への奉仕のために行使できないものはない。私の信ずるところ、ダビデが口にしたこの言葉は、彼自身に対する勧告であったとともに、1つの大きな真理であった。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ」[詩103:1]。人のうちにある何物も、そこで神のものとならないもの、神への奉仕において行使できないことはない。ある人は私に、果たして怒りを持ち込むことができるのかと尋ねるかもしれない。答えよう。しかり。善良な人は罪に対して怒ることによって神に仕えることができる。また、罪に対して怒ることは、気高く聖いことである。ことによると、あなたは私に尋ねるであろう。果たして嘲りを行使することができるのか、と。答えよう。しかり。私の信ずるところ、私たちは神のことばの宣教においてそれすら正当に行使することができる。このことを私は承知している。私は常にそれを用いている。そして、もし私が、哄笑によって人々に、ある過誤の愚かしさを、他のいかなるしかたにもまさって見てとらせることができるとしたら、彼らを笑わせるし、この場でも笑わせるつもりである。嘲りは神への奉仕に用いられるべきだからである。そして、神が人に植えつけてくださったあらゆる力は――私は何の例外も設けない――神への奉仕、また神の誉れのために用いることができる。むろん人が堕落によって自分で獲得したものは、神に仕えるために行使することはできない。私たちは神の前にアダムの盗みを持ち出して、《全能者》へのいけにえとすることはできない。また、私たち自身の肉的で罪深い情動は、《いと高き方》に誉れを帰すことができない。だが、生来の諸力の中には神が授けてくださったものがあり、それらの1つとしてそれ自体で罪深いものはない。それゆえ私は、それらを《主人》のために行使したいと思う。しかり。一見すると、それを用いて礼拝することなど不可能と思えるような力、例えば消化作用や、飲食といった力でさえ、神に誉れを帰すために持ち出すことができる。使徒は何と云っているだろうか?――「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」[Iコリ10:31]。

 さて、恐れもまた、神への奉仕のために働かせることができることに注意されたい。真の恐れ――怯えではなく信仰を伴った恐れ――は、魂を救う。もちろん疑いではなく信頼こそキリスト者の力であり解放である。それでも、恐れは神から私たちに与えられた力の1つとして、それ自体で罪深いものではない。恐れは、この上もなく罪深い目的のために用いられることがありえる。その反面、恵みによってこの上もなく気高くされ、神への奉仕に用いられるために、人の最も崇高な部分となることもありえる。事実、聖書は恐れに誉れを与えている。敬神の思いの全体は、つぎのような言葉に尽きているからである。「神を恐れよ」。「主への恐れ」。「主を恐れる人々」。こうした語句は、真の敬神の思いと、それを有している人々を表現するために使われている。いま述べたように、恐れは魂を滅ぼすことがありえる。悲しいかな! それはおびただしい数の人々を滅ぼしてきた。おゝ、恐れよ。お前は多くの船を難破させてきた岩礁である。多くの魂がお前によって霊的な破滅をこうむってきた。だが、その場合、それは神への恐れではなく、人への恐れであった。多くの人々が《全能者》の円盾の分厚い突起めがけて突進し、神に公然と反抗してきたのは、か弱い人間たちの憤りを免れるためであった。多くの人々は、世俗的な損失を恐れるために、その良心に大きな咎を持ち込んできた。ある人々はあざけられたり笑い者にされたりすることを恐れて、正義に従う大胆さを持てずに、道を踏み外しては滅びに至った。しかり。そして、たとい恐れが完全な破滅をもたらさない場合でも、それは霊に多大な損害を加えることがありえる。恐れは、いかに巨人のようなキリスト者の腕をも麻痺させ、その競走において彼を立ち止まらせ、その労苦において彼を妨げてきた。信仰にはどんなことでもできる。だが、恐れに――罪深い恐れに――できることは、単に、信仰がその労苦を果たすのを妨げることでしかない。恐れはキリスト者を夜も昼も悲しませてきた。キリスト者は、自分の入り用が供されないのではないか、自分の必需品が与えられないのではないかという恐れにむしばまれるあまり、ふさわしくない思いに駆り立てられてきた。そして不信と疑りを伴った恐れによって神に不名誉を帰し、種々の約束から蜜を吸うことを妨げられてきた。恐れは、多くの神の子らに自分の義務を行なわせず、大胆な信仰告白をさせないようにしてきた。その霊に束縛を持ち込んできた。誤って用いられた恐れよ。お前はキリスト者の最大の呪いであり、罪人の禍根にほかならない。お前は狡猾な蛇であり、罪の茨を縫って這い進み、ひとたび人間性にからみつくことを許されると、それを締めつけては粉砕し、お前の毒液を送り込む。この罪深い恐れほど悪いものはない。それは無数の人々を殺し、幾千とない人々を地獄送りにしてきた。しかし、それでも恐れは、――これは逆説と思われるが――正しく行使されるなら、キリスト教のこの上もなく輝かしい状態であり、あらゆる敬神の念をただ1つの情緒に含んで表わすために用いられる。「神への恐れ」は、聖書が常に真の信仰を述べるために用いる云い方である。

 さて今、愛する方々。私は今朝、多少あなたに忍耐してもらって、恐れのうちにある、いくつかの魂について調べてみたいと思う。その恐れはいずれも正しい種類のもの、すなわち、救いを生じさせる恐れである。だが、この魂たちは今、その恐れを通して、ある程度の苦しみを感じており、それから解放されたいと願っている。ある老清教徒はこう云っている。「イエス・キリストは、中風の者と握手を交わしてくださるものである」。私は今朝、努めて同じことを行なわなくてはならない。あなたがたの中のある人々は、恐れという中風にかかっている。私はあなたの後を追って行き、あなたに、「恐れてはならない」、と云いたい。また、勇気を出すように命じたい。なぜなら、神があなたを慰めてくださるからである。私がいま語りかけようとしているのは、五つの異なる種類の恐れのもとで苦闘している人々である。

 I. まず第一に、《覚醒しつつある良心によって引き起こされた恐れ》がある。これは、敬虔な恐れの中でも程度の低いものである。ここに、あらゆる真の敬神の思いは端を発する。生来、罪人は神の御怒りに恐れおののくものではない。彼は罪をちょっとしたことと考え、その楽しみを眺めては、その刑罰を忘れ、《全能者》に戦いを挑んでは、《永遠者》に向かって自分のちゃちな武器を振りかざす。しかしながら、彼が神の御霊によって覚醒させられるや否や、恐れが彼の心をつかみ、《全能者》の矢[ヨブ6:4]を彼の魂は飲み込み、律法の雷鳴が彼の耳の中で轟き、彼は自分のいのちをあやふやに感じ、自分のからだをもろいものと感じる。彼は死を思っておののく。なぜなら、自分にとって死は破滅の序曲となると知っているからである。彼は生におののく。というのも、神の御怒りが彼の魂に注ぎ出されるとき、生きることそのものが耐え難くなるからである。私の前にいるあなたがたの中の多くの人々は、神の御怒りを感じて苦しむという、すさまじい試練を経てきた。私の兄弟たち。私たちは死ぬまで決して忘れないであろう。私たちが最初に自分の失われた状態を発見したときに感じた、絶望的な悲嘆の時を。みことばの説教によって、聖書を読むことによって、祈りによって、あるいは、何らかの《摂理》によって、私たちは内側を見つめさせられ、自分の心の邪悪さを発見した。そして、いかに恐ろしいしかたで神がそむく者を罰するかを聞いた。あなたは覚えていないだろうか? いかに私たちが朝、不安な眠りの後で寝床から起き上がり、膝をかがめて祈りに祈り、額から汗がしたたり落ちるほどまで祈っても、自分の祈りが聞かれたなどとはつよほども希望できずに立ち上がったかを。あなたは思い起こさないだろうか? いかに私たちが、仕事をしながら、時として放心状態に至り、周囲の者らから正気をなくしたものと思われたかを。あなたは思い起こさないだろうか? 私たちがいかに美味な食事をとっても、苦よもぎの苦味を含んでいるように思われ、また、いかに甘い美酒も胆汁が混ぜ合わされているかのように思われたかを。いかに一日中私たちが悲しみに暮れ、夜には再び祈って寝床についても、やはり苦悶に満ち、やはり望みなきままであったか。そして、いかに私たちが夜には眠ることができず、必ず来る御怒りを夢に見、それ以前に見たいかなる夢よりもぞっとするような夢を見たことか。夜ごと日ごとに神の御怒りがつのりゆくように思われ、私たちの痛みと苦悩がいやまして恐ろしいものとなっていったかを。おゝ、私たちは決してそれを忘れないであろう。私たちの中でそれと同じ体験をしてきた者らは、決してその時期のことを忘れないであろう。というのも、それが始まった時こそ、私たちの回心の時であり、それが終わった時こそ、私たちの救いの時だったからである。今朝のこの場には、それと同じ状態にある人が誰かいるだろうか? 私はあなたを追い求めている。そして、あなたを追い求めるに際して、本日の聖句の言葉を宣言するものである。「私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている」。罪人よ。もしあなたがいま自分の罪ゆえに、神の御怒りを恐れさせられているとしたら、あなたは幸せになるのである。もしも御霊なる神が《全能者》の激しい怒りの鉢[黙16:1]をあなたの魂にぶち込んでおり、あなたが絶望し、恐れおののいているとしたらそうである。自分が滅ぼされると考えてはならない。あなたは幸せになる。いま私にあなたを慰めさせてほしい。こうした事がらに苦しんでいる一方で、覚えておくがいい。あなたのような苦しみは、神の民がみな、多かれ少なかれ苦しまなくてはならなかったことなのである。私が悩む求道者との会見を行なう日には――また、それ以外の時にも――、多くのあわれな心が私のもとにやって来る。そして彼らは私に、自分がいかに深い苦悩に陥っているかを告げる。自分ほど苦しみを感じている人はどこにもいないに違いありません、と。だが私が彼らに、あらゆる聖徒たちがいかなる経験をしてきたか説明し始め、それがいかによく踏み固められた道であるか、いかに天国へ向かうほとんどすべての旅人が踏み行かなくてはならない道であるかを彼らに告げると、彼らは唖然として、そのようなことがあるはずないと思う。罪人よ。私はあなたに云うが、あなたの最も深い悲嘆は、誰かによって感じられてきたのである。あなたがいま感じているよりも、ずっと痛切に感じられてきたのである。あなたは云う。「私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません」[詩69:2]、と。何と、方々。ある人々は、あなたが沈んだよりもはるかに深く沈んだことがあるのである。あなたは踝まで沈んでいるが、私の知っているある人々は腰まで沈んだことがあり、一部の人はまさに頭まで覆いつくされ、こう云えるほどであった。「あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました」[詩42:7]。あなたの苦悩は哀切をきわめているが、それは常ならぬことではない。他の人々も同じ苦悩に耐えなくてはならなかったのである。慰められるがいい。これは人跡未踏の孤島ではない。他の人々もそこにいたことがある。そして、もし彼らがこれを通り過ぎ、冠をかちとったとしたら、あなたもそれを通り過ぎ、これからキリストのふところにいだかれる信仰者の栄光を受け継ぐであろう。

 しかし、私は、他にもあなたを慰めることを告げよう。私はあなたにこう尋ねたい。――あなたは後戻りして、以前の自分になりたいと思うだろうか? あなたのもろもろの罪はいま非常に痛ましく、あなたはほとんど飲み食いすることも眠ることもできないでいる。かつては、あなたの罪は決してあなたにつきまとわなかった。あなたは酒を飲むこともできたし、サタンや罪の間近にいても他の誰とも同じように陽気にしていられた。さあ、あなたは、そのときのあなたに戻りたいだろうか? 「いいえ」、とあなたが云うのが私には聞こえる。「いいえ。わが主、わが神。みこころであれば、私をもっと嘆かせてください。ですが、これ以上私をかたくなにはさせないでください」。このあわれな手負いの良心に尋ねてみるがいい。彼の嘆きのこの最初の苦悶と激痛の中にあって、果たして彼がかたくなな罪人になりたいかどうかを。「いいえ」、と彼は云う。そして彼は、冒涜する者が神に向かって悪態をつくのを聞くとき、彼の目には涙が浮かぶ。彼は云う。「主よ。もしあなたが私を心のかたくなさから解放してくださるとしたら、私は自分の数々のみじめさのゆえにあなたに感謝します。もしそれらが私をあのようにすさまじい増上慢、あのようなあなたに対する反逆から救い出してくれるとするなら、私の数々の苦悶のためにあなたを賞賛します」、と。よろしい。ならば、勇気を出すがいい。見ての通り、あなたの状態は最悪のものではないのである。さらに劣った状態があるのである。おゝ、もしあなたがそこまでやって来ているとしたら、キリストに望みをかけるがいい。あなたは、なおも先へと進めるであろう。しかし、最大の慰めはこのことである。イエス・キリストはあなたのために死なれたのである。もし聖霊なる神があなたに、あなたが罪の中に死んでいることを示しているとしたら、また、もし御霊があなたに、あなたの不義の絶望的な性格を啓示しておられるとしたら、また、あなたの咎ゆえの悔悟によってあなたを粉々に砕いてしまっているとしたら、――私の話を聞くがいい。私は、口からでまかせを云っているのではない。私は神の権威をもって語る。――イエス・キリストはあなたのために死なれた。しかり。あなたのためである。下劣きわまりない、堕落し果てたあなたのためである。私は決して一般救済論者ではない。私はイエス・キリストが死なれたのは、救われる人々のためだけであると信じている。いま生きているいかなる人のためにもキリストは無駄死にしなかったと信じている。私は、キリストが人々の身代わりとして罰を受けられたと常に信じてきた。さて、もしキリストが万人の身代わりとして罰されたとしたら、私は人々に罰を下す神に何の正義も見てとれなかったであろう。いったん彼らの代わりにキリストを罰しておられる以上そうである。私はこう主張し、信ずるものである。――そして、聖書的な権威に立って、こう考える。イエス・キリストは、いま信じている者、あるいは、これから信ずることになる者すべてのために死なれたのである。そして、自分には《救い主》が必要だと感じてキリストをつかむすべての人々の身代わりとして、罰をお受けになったのである。それ以外の人々は、主を拒絶し、蔑み、神に逆らって罪を犯し、自らのもろもろの罪のゆえに罰を受ける。しかし、贖われた人々は、血で買い取られているため、失われることはない。キリストの血は、罪に定められている人々のために流されるにはあまりにも貴重である。《救い主》がある罪人の身代わりの立場をお取りになったにもかかわらず、結局その罪人が自らのもろもろの不義を負わなくてはならないなどというのは、考えるだに空恐ろしいことである。私は、これほど神に対して不当であり、これほど人々に対して危険きわまりないと思われる思想にふけることは決してできない。《救い主》は、ご自分が買い取られたすべての者たちを所有することになる。主は云われる。主がその天の御父から与えられたすべての者たちは、主のもとにやって来る、と[ヨハ6:37]。さて、あわれな魂よ。ここには、あなたにとって堅固なものがある。私はもう一度尋ねよう。あなたは自分が失われ、滅びた者であることを知り、感じているだろうか? ならば、《救い主》はあなたを買い取られたのであって、あなたを所有なさるであろう。ならば、主はあなたのために罰を受けたのであって、あなたは決して二度と罰されることはないであろう。ならば、主はあなたのために、あなたが滅びることのないために、十字架にかけられたのである。あなたにとっては、いかなる地獄もない。あなたに関する限り、永遠の火の池は消されてしまっている。地獄の地下牢はこじ開けられて、その鉄格子は切断されている。あなたは自由である。いかなる断罪も決してあなたをとらえず、いかなる悪魔も決してあなたを底知れぬ所に引きずっていくことはできない。あなたは贖われており、救われている。「何と!」、とあなたは云うであろう。「私が贖われているですと! 何と、先生。私は罪の塊なのですよ」。まさにそれこそ、あなたが贖われている理由である。「しかし、私は人間という人間の中でも、最も咎にまみれているように感じています」。しかり。そして、それこそ、キリストがあなたのために死なれたという証拠なのである。主は自らこう仰せになっている。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」[マコ2:17]。もしあなたに山ほどの善行があり、それによって天国に行けると考えているとしたら、あなたは滅びるであろう。だが、もしあなたが自分の咎を知っていて、それを告白するとしたら、――これは私が断言するのではなく、聖書が断言することである。――「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私は」、と使徒は云う。「その罪人のかしらです」[Iテモ1:15]。これをつかむがいい。あわれな罪人よ。そして、その後で私はこの聖句をあなたに繰り返そう。「しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている」。あなたはこれから幸せになるであろう。そして、いかに今はどす黒くとも、いつの日か、血で洗われた者たちの中にあって永遠の栄光の中で歌うことになるであろう。これが神を恐れる最初の段階である。ここから次へと移ることにしよう。

 II. すでに信じた人々、また真に回心した人々の多くが有している恐れの中には、《懸念の恐れ》と呼べるものがある。彼らは自分が回心していないのではないかと案じている。彼らは回心している。そこには何の疑いもない。時として彼らは自分でもそのことが分かっている。だが、大方の場合は不安がっている。世の中には、その性格上、恐れに圧倒されている人々がいる。彼らの精神は、独特の成り立ちにより、他のどの状態にもまして、恐れという状態にごくたやすく陥りがちであるように見受けられる。何と、現世的な事がらにおいてさえ、彼らは常に恐れている。そして、こうしたあわれな魂が回心するとき、彼らは常に自分がそうなってはいないのではないかと不安になるのである。最初に、彼らは自分が十分に悔い改めなかったのではないか不安であると云う。彼らによると、彼らの心の中における働きは深いものではなかった、それは単に底の浅いしかたで、上っ面だけ耕されたにすぎず、決して自分の魂の内側に入り込みはしなかったのだという。それから彼らは、自分が決してキリストのもとに正しいしかたでやって来はしなかったのだと確信する。間違ったしかたでやって来たのだと思う。いかにそのようなことがありえるのかは誰にも分からない。というのも、彼らは御父が引き寄せたのでない限り絶対に来ることはできなかったからである[ヨハ6:44]。そして、御父は間違ったしかたで彼らを引き寄せることはなさらなかった。それでも彼らは、自分たちが正しくやって来てはいないと云い立てる。さらに、たといそうした考えが頭から叩き出されても、彼らは自分たちが正しく信じていないのだと云う。だが、それが取り除かれても、彼らは云う。もし自分が回心しているとしたら、これほど多くの罪にとらわれてはいないだろう、と。彼らは、キリストには信頼できると云うが、自分がキリストに正しく信頼していないのではないかと不安になる。そして、何をしようと以前の状態に逆戻りしてしまう。常に不安がっている。さて今、こうした善良な魂たちに私は何と云えば良いだろうか? 何と、私はこう云うであろう。「私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている」。信ずる者だけではなく、神を恐れる者が約束を得ているのである。私は彼らがより多くの信仰を得られるように願う。彼らが《救い主》をつかみ、より確信を持ち、完璧な信頼へと至るようにすら願う。だが、たとい彼らがそうできないとしても、私は彼らを傷つけるような言葉を発するべきだろうか? 絶対にそうではない。「私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている」。こうしたあわれな人々の中には、世界で最も聖く、最も天的な思いをした人がいるのである。私が見てきた人々の中には、あわれで、意気消沈した霊をしていながら、この上もなく麗しい種々の恵みを現わしている人々がいた。そこには、薔薇のような薄紅色の健康的な美しさはなかった。だが、病的に青白く見える百合にも、それなりの美しさはある。そして、はかなく弱い彼らであっても、謙遜と柔和、忍耐と辛抱強さという恵みは卓越して有しており、現存するいかなる種類のキリスト者にもまして瞑想と、自己吟味と、悔い改めと、祈りを実践している。私は決して彼らの霊をかき乱すべきではない。神の最上の子らの中には、常に日陰で育つ者らがおり、彼らは、「私は、自分の信じて来た方をよく知っています」*[IIテモ1:13]、と云えるような境地にはほとんど達することができないのである。暗闇が彼らには最もふさわしく、彼らの目は弱く、燦々と輝く陽光は彼らを盲目にしてしまうかに思われる。彼らは影を愛する。そして彼らは、「われはわが《救世主》(きみ)愛しまつらん。われ主を愛し、主われを愛す」、と歌うことができるように思ったが、再び後戻りし、自らの内側で呻き始める。「本当に私は主を愛しているのだろうか? もしそうだとしたら、なぜ私はこのような状態にあるのだろうか?」

 さて、私は1つの大きな逆説を口にしようとしている。――私の信ずるところ、こうしたあわれな、恐れつつある人々の中には、この世のいかなる者にもまして大きな信仰を得ている人がいるのである。時として私はこう思うことがある。大いなる涙、大いなる懸念には、大いなる信仰が伴っているからこそ、少しでも魂は生き続けることができるのだ、と。そこで溺れかけている人を見るがいい。――海中には別の人も見える。遠くにいるその人は自分が泳げると思っている。木の板が彼に投げやられるが、彼は自分が沈んでいく危険など全くないと信じている。よろしい。彼はその板を何の気なしに握り、是が非でもしがみつくようには見えない。しかし、こちら側のあわれな人は自分が泳げないことを知っている。たちまち沈んでいくに違いないと感じている。さて、救助の手段を彼の近くに放り投げてみるがいい。彼がいかに必死にそれをつかむことか。彼は、その板に指をめり込ませようとでもいうかのように見える! それを死に物狂いでつかむ。それが彼のすべてである。それによって救われなければ身の破滅でしかないからである。さて、この場合、強く恐れを感じている方の者が強く信じるのである。そして、私が思うに、これはあわれな意気消沈した霊たちについても同じである。彼らは誰よりも地獄を恐れ、誰よりも自分たちのことを恐れ、自分が正しくないのではないかと誰よりもおののいている。おゝ、彼らがキリストに身を全くゆだねることができ、「主は私のものだと思う」、と内心呟くことができたとしたら、いかなる信仰を彼らは有するに違いないことか。――「私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている」。

 しかし、私はこうしたあわれな魂をもう少し慰めたい。私は子羊たちを殺すことによって教役者が成功するとは思わない。というのも、そのようなことをするとしたら、次の年、羊たちはどこにいるだろうか? しかし、それとは逆に、教役者の務めは子羊たちをできる限り育てて羊にすることである。そして、あなたがた、恐れを感じている人たち。私は一言もあなたを傷つける言葉を云おうとは思わない。むしろ、できる限りあなたを慰める言葉を云いたい。私があなたに思い出させたいのは、あなたは自分の状態をまともに判断する状態にないということである。あなたは、今の今まで自分を吟味してきた。そして、自分は実は神の子どもではないのだという結論に達した。さて、腹を立てないでほしいが、私はあなたが自分自身について下した意見など、これっぽっちも信じようとは思わない。何と、私は云うが、あなたには何の判断力もないのである。つい先頃までのあなたは卑しい、増上慢な罪人であり、そのときには自分に何の問題もないと思っていた。私はそのときあなたを信じなかった。よろしい。その後あなたは自分を改善し始めた。あなたは多くの良いわざを実践し、こう思った。確かに自分は今や天国へ向かう歩調を早めつつあるに違いない、と。私はそのときあなたが間違っていると知っていた。今あなたはキリストを信じる真の信仰者になりつつあるが、非常な恐れを感じており、自分は危うい状態にあると云う。確かにそうだと私は承知している。あなたはまともな判断ができる状態にはない。私はあなたが判事に昇進する姿を見たくはない。あなたは、他の人々をいかに扱うべきかほとんど分からないであろう。というのも、自分をいかに扱うべきかも分かっていないからである。そして、自分自身を扱える人とは誰だろうか? 私たちは時々自分を高慢だと思うし、自分が高慢だと感じるときほど謙遜なときは決してない。それ以外のとき、私たちは自分を素晴らしく謙遜だと考えており、そのときほど高慢なときは決してない。私たちは時として内心こう云うことがある。「今こそ私は自分の種々の腐敗に打ち勝ちつつあると思う」。それは、まさにそうした腐敗が私たちを最も熾烈に攻撃しようとしている時にほかならない。別のときに私たちは泣きながら云う。「私は断ち切られるに違いありません」。それは、まさに罪が敗走させられつつある時期にほかならない。なぜなら、私たちは罪を最も憎み、罪に逆らって最も激しく叫び立てているからである。私たちには自分を判断する資格がない。私たちのあわれな秤はあまりにも混乱しているため、決して真実を告げないのである。ならば、自分で自分を判断しようとするのは、次のことを除いて、やめるがいい。あなたは、自分が「哀れな罪人 無の無なれども、イエス・キリスト すべてのすべて」と云えるだろうか? ならば、慰められるがいい。あなたが不安に感ずる権利は何1つない。そうすべき理由は全くない。もしあなたが回心していないとしたら、そのようなことは云えなかったはずである。あなたは恵みによって生かされたに違いない。さもなければ、不安に思うことなど全くなかったであろう。また、あなたには信仰があるに違いない。さもなければ、キリストをつかんで自分自身の無であることと、キリストがすべてを満ち足らすお方であることを知ることなどできなかったであろう。あわれな魂よ! 慰められるがいい。

 しかし、あなたに1つ云わせてほしい。あなたは、神の民の最大の者たちが、しばしば今のあなたと同じような状態に陥ることを知っているであろう。「いいえ、いいえ」、と恐れを感じている魂は云うであろう。「そんなことは信じられません。人は回心したなら、決してどんな恐れも感じないと私は信じています」。そして、彼らは教役者を眺めてこう云うのである。「おゝ、私があの教役者のようになることができさえしたら、おゝ、あのご立派な誰それ執事のようになることができたら、何と有難いことでしょうか。――彼は何と聖なる人でしょう。何と敬虔に祈ることでしょう! おゝ、私の所に訪問し、優しい言葉をかけてくださる誰それさんのように感じることができたとしたら、どんなに良いことでしょう。あの人たちは決して疑いを感じないのですから」。あゝ、それはあなたが物を知らないからである。あなたの目には誰よりも強く思われ、また公の場ではそのような者である人々にも、弱さのきわみを感じるときがあるのである。そうしたときの彼らは、霊的な事がらにおいてまるで痴愚のようになってしまう。もしひとりが残りの者たちを代弁して良ければ、私たちの中で、誰にもまして大きな確信を受け継いでいる者らは、時として、全世界と引き替えにしても自分が恵みを所有しているかどうかを知りたいと思うことがある。自分が私たちの主イエス・キリストの愛にあずかっているという希望の影でさえ持てるとしたら、いのちを犠牲にしてもかまわないと思うことがあるのである。さて、小さい者たち。もし巨人たちもそこへ行くとしたら、小人たちがそこに行かざるをえないとしても何の不思議があるだろうか? 神のお気に入りの、えり抜きの者たちが――神の勇士たちが――キリストの近習たちが――剣を腿に置き、真理のために立ち上がってはそれを擁護する人々が――もしこうした人々時として弱くなるとしたら、あなたが弱くなっても何の不思議があるだろうか? 救いの世継ぎであり、十字架の兵士たちたる者らであっても、時として膝がか弱くなり、手がだらりと垂れ下がり、気がくじけてしまうとしたら、あなたがた、すべての聖徒たちのうちで一番小さな人たちが時として苦しい目に遭うとしても何の不思議があるだろうか? おゝ、勇気を出すがいい。恐れによって殺される者はいない。「疑いと恐れは」、とかつてひとりの老説教者が云った。「歯痛のようなものである。これほど痛いものはないが、決して命取りにはならない」。それらはしばしば私たちを嘆かせるが、決して私たちを殺しはしない。私たちを大いに苦悩させるが、決して魂を焼き尽くしはしない。恐れは善を施すことさえある。しかしながら、それをたたえすぎないようにしよう。私は先日、ある説教者が、恐れは良い女中頭であると話すのを聞いて、こう云った。「そう聞いたことはありますが、私はそれを信じません。恐れは決して食料棚を一杯にしておくことをしません。恐れは良い門番ではあります。乞食や盗人を寄せつけないことはできます。また良い番犬ではあって、夜の間、私たちを守り、番をし、私たちが危い目に遭わないように、危険を知らせてくれます」。ならば、懸念の恐れは良い恐れである。この約束を受けとるがいい。――「しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている」。

 III. そして今、私の兄弟たち。次のこととして、《注意深さを生み出す恐れ》がある。キリスト者生活において多少先へ進んだとき、私たちの現在の状態は、懸念という問題よりは、、私たちの将来の状態の問題である。私たちの信ずるところ、私たちは決して完全に恵みから転落することはない。これを私たちは、私たちのキリスト教信仰の枢要な教理として主張するものである。決して神はご自分の民を離れることも、滅びるままにすることもなさらない。しかし、私たちはしばしば内心でこう思う。残念だが私はキリストの御国に泥を塗るのではないだろうか。何か誘惑を受けたときに、道を踏み外すままにされるのではないだろうか。私があずかる特権を受けたほむべき平安と嬉しい喜びを私は失い、この世に舞い戻ってしまうのではないだろうか。あゝ、私が結局は偽善者になるなどということがありませんように! さて、この場には、このように感じている人々が何百人もいるはずである。そして私はあなたに、こうした恐れの悪影響を1つ告げたいと思う。こうした人々は、「私は教会に加わるなんてできません。いつ転落するか不安ですから」、と云う。ひとりの友人が彼らにこう云ったことがある。人は、いったん信じたならば、その信仰をバプテスマによって告白することを自分の義務と考えるべきだ、と。だが彼らは云うのである。「ええ、私も私たちの《救い主》の2つの規定にあずかることは自分の義務だと信じます。私は、主の死にあずかるバプテスマによって主とともに葬られるべきです。また、主の晩餐において主との交わりにあずかるべきであることも知っています。ですが私には教会に加わるなんてことはできません。だって考えてもみてください。もしも私が御国に泥を塗るようなことがあったり、私が教会に恥辱を招いたりしたら、何とひどいことになるでしょう!」 そうした恐れは、それ自体としては良いものである。しかしあなたは、今のままのあなたも、キリストの御国に泥を塗っていないと思うのだろうか? あなたは常に礼拝の場に来ている。絶対に欠席することがない。あなたは誰からもこの教会の一員であるとみなされている。信仰告白をしていないとしても関係ない。さて、もしあなたが罪を犯すとしたら、それは今でさえ教会に恥辱を招くことではないだろうか? あなたは、自分の親戚や友人たちが自分をキリスト者とみなしていることを知っている。たといあなたが実際に教会に加わったとしても、あなたが今以上に教会に恥辱を招くことはほとんどない。というのも、あなたは実のところ、もう教会に結び合わされているからである。もしあなたが首尾一貫しようとするなら、あなたはもう二度と会堂に来てはならない。金輪際、出席をやめるがいい。座席の予約もやめるがいい。徹底的に無宗教になるがいい。そうすれば、あなたが教会に恥辱をもたらすことはありえないであろう。どちらか一方を行なうがいい。だが、しかし、決して今のあなたがしているように神に不名誉をもたらすことでキリストの教会を救うことになるなどと考えてはならない。では私は、あなたにこう尋ねよう。人はどちらの方が安全だろうか?――従順の道を歩んでいるときか、不従順の道を歩んでいるときか。さて、あなたは自分が不従順であると分かっている。そのことは確信している。あなたは、自分のひねくれた意志が導いている所の方が安全だと思うのだろうか? それとも、神の御霊が道を指し示している所の方が安全だろうか? また、このことを覚えておくがいい。もしあなたが、神は自分を立たせておくことがおできになる、と信頼できないとしたら、あなたの信仰は実にあわれなものであるに違いない。あなたがその危険を冒すことができず、教会と一体になることも、キリストが自分を守ってくださると希望することもできないとしたら、残念ながら私は、あなたがいずれ恐ろしい転落をするのではないかと思う。もしあなたが教会に加わらないとしたら、あなたは、教会の外にいることによって、教会と一体となって守られているときにまさる、はるかに大きな恥辱を教会にもたらすであろう。あゝ、愛する方々。私の信ずるところ、キリスト教会と一体となることはしばしば神のもとにあって人々を罪から守る手段となるのである。というのも、そのとき彼らは、自分が何かに結束されていること、1つの神聖な要求のもとにあることを考え、たいていの場合、自分のすることにずっと注意深くなるからである。そして私は、あなたの上にも同じ抑制が働くだろうと思う。

 しかし今、こうしたことを口にしているあわれな人は、おそらく私から罪に定められるだろうと考えているであろう。そして、そのように語っているあわれな人を、私が切り捨て、そんな者は決して神の子どもではないと云うだろうと考えているであろう。決してそうではない! 本日の聖句は、その人に当てはまっている。あなたは自分が罪に陥るのではないかと不安になっている。――「私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている」。もしあなたが私に、自分は転落することなど怖くありません、と云うとしたら、私は全世界をやると云われても、あなたを教会に受け入れはしないであろう。あなたは全くキリスト者ではないであろう。あらゆるキリスト者は、正しい状態にあるときには、罪に陥ることを怖がるものである。聖なる恐れは神の子どもの適正な状態である。いかに信頼に満ちた人であっても、増上慢になろうとはしないものである。自分が《救い主》を愛しており、自分の《救い主》が自分を愛していることを知っている人でも、自分が主に恥辱を招くのではないかと恐れるのである。もしも、恐れなど問題外であり、罪に陥ることが全く怖くないというような種類の確信を有している人がいるとしたら、私はその人に云うが、それは悪魔の確信である。神からではなくサタンから出た確信である。というのも、私たちは、自分自身の確信について堅く信ずれば信ずるほど、神を怒らせないようにずっと注意深くなり、言葉や眼差しや行為によって神の聖霊を悲しませることがないようにずっと気遣うようになるからである。私はあなたの恐れを非常に好ましく思うし、そうした恐れを感じているあなたのことも非常に好ましく思う。もしもあなたが、私は罪を犯すのではないかと恐れています、と心から云えるとしたら、あなたはイエスにある私の兄弟姉妹である。ならば、愛する方々。この注意深さの恐れにおいて成長することを求めるがいい。この恐れをいよいよ獲得するように求めるがいい。そして、《救い主》を疑いはしない一方で、日ごとにますますあなた自身については不信の念を深めるようにするがいい。

 IV. 私はもう何十分もあなたを引き留めはしない。私が次のこととして注目したい恐れは、《ねたみによる恐れ》とでも云えるものである。強い愛は、通常ねたみを助長する。――これは、私たちの愛の対象に向かってかき立てるねたみではない。というのも、「全き愛は恐れを締め出」すからである[Iヨハ4:18]。――だが、私たち自身に対するねたみである。「おゝ、何という熱心!」、と使徒はコリント人に向かって語っている。最初にあなたが回心したとき、恵みは「どれほどの処罰を」あなたの中で断行させたことか[IIコリ7:11参照]。真の信仰者は、その《救い主》を完全にわがものとし、また、その主と至福の交わりのうちにあるとき、自分の心にいかなる競敵も闖入してこないよう極度に用心深くなる。その人は、自分自身の心の中において、自分の最愛の友が《救い主》よりも多くを占めるようなことがないかと案ずる。自分の富が怖くなる。自分の健康、自分の名声、自分にとって愛しいあらゆるものが、自分の心を独占するのではないかとおののく。おゝ、いかにしばしばその人はこう祈ることか。「主よ。私が二心にならないようにしてください。片端から偶像を叩き落としてください。――我意も、自分を義とする思いも」。そして、私は云うが、その人は愛すれば愛するほど、自分の心に競敵を持ち込んだり、自分の霊に反キリストを打ち立てたりすることによって、自分の《救い主》を憤らせはしないかと恐れるようになるものである。それで恐れはまさに愛に正比例するのである。また、輝かしい愛はこの上もなく深いねたみや、この上もなく深甚な恐れと気性が合い、並んで歩くものなのである。私の兄弟たち。交わりの意味を知ろうと求めるがいい。そうすれば、あなたはそのとき恐れの意味を知るに違いない。というのも、恐れと交わりは相当の程度まで相伴うからである。

 V. そして今、私がしめくくりにほんの一言語りたいのは、《私たちが天来の現われを有するとき》に感ずる恐れである。あなたは今まで一度も、夜のしじまの中で空を見上げて、星々が羊の群れのように碧空の牧草をはんでいる姿を眺めたことがないだろうか? あなたは一度も、こうした、ほとんど無限距離の空間によって私たちと隔てられた、はるか彼方の偉大な諸世界について思いを馳せたことがないだろうか? あなたは一度も、星をちりばめた諸天について物思いにふける中で、神に関する思いに没入したことはないだろうか? また、そうしたとき、あなたは一度もヤコブとともにこう云えるように感じたことがなかっただろうか? 「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない」[創28:17]。あなたは一度も、ごつごつした山々が空に向かってそびえている姿を見たことがないだろうか? あなたは一度も、そうした山々の上を嵐が航行する光景を目にしたことがないだろうか? 雷雲がその山の上で炸裂するのを見たり、諸天が《いと高き方》の闊歩の下で揺さぶられる音を聞いたり、神がその稲妻を送り出されるとき、空の全面が炎に赤く染まるのを目にしたことはないだろうか? また、神がそこにおられることに震えたことはないだろうか? それとは別の、より幸いな折に、あなたの私室において静思の時に没頭するあまりに、神の臨在がまざまざと分かり、身震いに満たされたことはなかっただろうか? 恐れがあなたをとらえ、あなたの骨という骨をがたがた震わせたのは、あなたが神を恐怖したためではなく、神の偉大さの一部をそのとき見てとったからであった。モーセが燃える柴を目にしたとき、彼は神を仰ぎ見ることを恐れたと書かれている[出3:6]。神はそれほどまでに偉大な《存在》であられるので、正しい成り立ちをした精神は、神の臨在の中に近づくときには常に恐れを感じざるをえないのである。東洋の国々の臣民は、国王の前に出るとき、王を自分よりも無限に優越した存在とみなしているため、控えの間の中においてさえ震え出し、玉座に近づくときには、よろめき倒れんばかりになり、その頬は恐れのあまり蒼白になたものである。エステルのように彼は、王の前に出るときには気を失わんばかりであった。国王の威厳はそれほどまでに栄光に富んでいたのである。では、地上の王侯についてそうだとしたら、《王の王》の謁見室に入り、自分がこのお方の身近にいると感じることはいかに恐ろしいことであろう! 何と、私の信ずるところ、天国においてすら、私たちはこうした種類の恐れを感じるであろう。確かに御使いたちはそれを感じていた。彼らはあえて神を見ようとはしていない。彼らは自分たちの顔をその翼で覆っており、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」、と大声で叫ぶときも、あえて神を仰ぎ見ようとはしていない[イザ6:2-3]。神を一目見るだけで、彼らは破滅してしまうのかもしれない。それで彼らは神の御前で震えおののいているのである。さて、こうした種類の恐れは、もしあなたが一度でも感じたことがあるとしたら、もし神を黙想することによってあなたの心の中に生み出されたことがあったとしたら、気高く、ほむべきものであり、この約束はあなたに語りかけられているのである。――「私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている」。

 そして、いま私は、再び話を元に戻して良ければ、――個人的には、この嗄れた声ではそうすることができないが――、罪に圧倒されている、あわれな震えつつある魂に云いたい。あわれな人よ。あなたはどこにいるだろうか? 悪魔はあなたをつかんでおり、あなたのもろもろの罪は、あなたを覆い尽くしているだろうか? それであなたは太陽の面も見ることも、あわれみの光を目にすることもできなくなっているだろうか? 聞くがいい。希望を持ちたければ、金輪際、自分自身に希望をいだくことをやめなくてはならない。信ずる資格を有したければ、金輪際、自分を信ずることがなくならなくてはならない。すべてを失うのでない限り、あなたには何も受けとる権利はない。しかし、今、もしあなたがあなた自身の良いわざと義のすべてを失っているとしたら、もしあなたが自分には救われる理由が全くないと感じているとしたら、それこそあなたが救われるべき理由である。私の《主人》は、裸の者に向かってこう告げるよう私に命じておられる。天にある主の衣装箪笥のもとに来て、その王服をあなたの着物として受けとるがいい、と。飢えている者には、こう告げよと命じておられる。急いで、天にある主の穀物倉のもとに来て、由緒ある御国の小麦をはちきれるほど食べるがいい、と。渇いた者にはこう告げるよう命じておられる。いのちの川は広くて深く、それを求めて渇くあらゆる者のために流れているのだ、と。さて、罪人よ。もしあなたが罪に嫌気がさしているとしたら、また、自分の今ある立場を心から嘆いているとしたら、私の後について、こうした言葉を霊の中で云ってほしい。「おゝ、主よ。私は自分の咎を知っています。そして、私のみじめさを告白します。もしあなたが私を永遠に罪に定めるとしたら、あなたは正しくあられるでしょう。ですが、おゝ、主よ。あなたの約束に従って、私をあわれんでください。あなたは、自分の過ちを告白する者に向かって、キリスト・イエスにおいて約束してくださいました」。もしこれがあなたの心から出て来たなら、その扉から出て行き、ずっと歌いながら家路を辿るがいい。というのも、あなたは赦された罪人となっているからである。あなたは決して死を見ることはない。――第二の死、魂の死を見ることはない。家に帰って私室に入るがいい! あなたの心を、感謝の涙とともに迸らせるがいい。行って、そこではいつくばり、神がしてくださったことで神をほめたたえるがいい。神はあなたに、イエスだけが無力な罪人に善を施すことがおできになることを見てとれるようにしてくださったのである。そうしたならば、「さあ、喜んであなたのパンを食べ、愉快にあなたのぶどう酒を飲め[伝9:7]。頭には油を、顔には香油を絶やしてはならない。神はすでにあなたを受け入れてくださったからである。そしてあなたは幸せになれる権利がある。あなたの一生の間、また、死んでの後も、そして代々限りなく、朗らかに、また、喜ばしく暮らすがいい」。

  

 

五つの恐れ[了]

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