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バルサム樹の林の中の音

NO. 147

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1857年5月31日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえたら、そのとき、あなたは攻め上れ。そのとき、主はすでに、ペリシテ人の陣営を打つために、あなたより先に出ているから」。――IIサム5:24


 ダビデは、まさにこの谷間でペリシテ人と戦い、めざましい勝利をおさめたばかりであった。それで彼は云った。「主は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた」[IIサム5:20]。ペリシテ人は大軍で押し寄せて来た。しかも、彼らの神々を連れて来ていた。それは、陣営に主の箱が持ち来たらされたときのイスラエルのように[Iサム4:5]、自分たちの勝利を確信するためであった。しかしながら、神の助けによってダビデは手もなく彼らを潰走させ、彼らの偶像を火で焼き、彼らに対して赫々たる勝利を獲得した。しかしながら、注目すべきことに、ペリシテ人が二度目にダビデに攻め寄せて来たとき、ダビデは主に伺いを立てるまでは、立ち上がって彼らと戦いに出て行こうとしなかった。一度は勝利をおさめた相手である。彼は、私たちの中の多くの者らが実際に別の場合に云ってきたようなことを云うこともできたであろう。――「さあ、また勝利をおさめてやろう。いったん打ち負かしたのだから、もう一度打ち負かすのは確実と思ってよかろう。なぜいちいち主の指図など求めなくてはならないのか?」 ここでダビデは、そうはしていない。彼は主の力によって1つの勝利を得ていた。同じことを確実にするまでは、別の戦いに乗り出そうとはしなかった。彼は行って、聖なる神託を伺った。「私は彼らを攻めに上るべきでしょうか?」 そして彼は、ただちに彼らに向かって進軍するのではなく、バルサム樹の林の前に布陣し、彼らに不意打ちを食わすべきであると知らされたとき、一瞬も神の指図に異議を唱えなかった。また、バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえるまで待ち、その後で初めて戦いに出よと命ぜられたとき、彼は決してしゃにむに戦闘に突入したりすることなく、バルサム樹の林の上の方で、木の葉の間を吹き抜ける突風がさやさやと音を立てるまでとどまっていた。彼は神のしるしが与えられるまで待とうとした。彼は云った。「私は、神がそうせよと仰せになるまで私の槍も手も上げはすまい。私が自力で戦いに赴き、すでに獲得しているすべてを失うことになるといけないから」、と。

 私の兄弟たち。私たちはダビデに見習い、神を抜きにしては何の行動も起こさないようにしようではないか。あなたは、先だって転居したとき、あるいは転職したとき、あるいは自分の境遇を変えるような何かを行なったとき、神の助けを願い求めた上でそれを行ない、そうすることで祝福を受けた。あなたは現時点まで順境にあった。常に神を求めてきた。だが、何をしようと摂理の流れが途切れなく流れていると思ってはならない。覚えておくがいい。あなたは明日、神の助言を求めることなしに何らかの行動に乗り出し、それが一生悔やんでも悔やみきれない一事となるかもしれないのである。あなたはこれまで賢明であった。それは、あなたが心を尽くして主に拠り頼み、自分の悟りに頼らなかった[箴3:5]ためかもしれない。あなたはダビデのように、「主に伺いを立てよう」、と云ってきた。アハブにこう云ったヨシャパテのようであった。「私は主に伺わなければ上っていきません」[I列22:5参照]。そしてあなたは、バアルの祭司たちに尋ねることなく、こう云ってきた。「ここには、私がみこころを求めることのできる主の預言者がいないのですか」*[I列22:7]、と。では、同じようにし続けるがいい。私は切に願う。雲よりも先走って出て行かないでほしい[民9:16-22参照]。もし《摂理》が暇どるとしたら、《摂理》がやって来るまでとどまっており、決してそれに先んじて出発してはならない。神よりも前に出て行く者は無駄骨を折るが、《摂理》の足跡を見てとる人は祝福された通り道を歩む。その人は聖書という地図を読み、そこに、「これが道だ。私はこれに歩むなのだ」*、ということを見いだす[イザ30:21]。このことをもって、この場にいる誰かに勧告することもできよう。私は、そこから始めようと考えた。というのも、きっとこの場には、無分別にも、現世的には身の破滅となりかねないような行動を取ろうとしている若者がいるだろうからである。私は切に願う。もしあなたが主を愛しているとしたら――いま私は、すでにキリスト者となっている人にだけ語りかけているが――、私は切に願う。思い切って事を始める前に、ぜひとも神の助言を求めてほしい。また、それを行なうのが単に自分の立身のためではなく、自分の神により良く仕える助けとなるためであるとの堅い確信を神から与えられるまでは、事を行なわないでほしい。その行動に神が賛成しておられると確信できるまでは、私は切に願いたい。――多くの人々が犯した過ちにより、また、私の忠告に従わない限りあなたが自分にもたらすであろう害悪により、――事を行なわないでほしい。神に尋ね求め、「彼らのところへ攻め上れ」、との答えをいただくのでない限り、半歩進んでもならない。足を上げることすらしないでほしい。

 このように私はこの聖句を紹介してきた。だが、いま私は全く異なるしかたでこれに言及したいと思う。ダビデは、多数のバルサム樹の林がさやさやと立てる音を聞くまで、戦いに出るべきではなかった。そこは、しんと静まりかえっていたのかもしれない。そして、ダビデに対する神の命令はこうであった。「あなたは、バルサム樹の林の上を風が音を立てて吹き抜けるまで、戦いを始めてはならない」。あるいは、ラビたちが解釈しているように――それが本当だとしたら、非常に卓抜な奇想だと思うが――バルサム樹の林の上を歩く御使いたちの足音が音を立てる、それこそ彼らが戦いをすべきしるしであった。そのとき神の智天使は彼らとともに出て行き、雲の中を歩くことも空中を飛びかけることもできる者らがやって来るのである。かの偉大な《将》そのひとに率いられて、バルサム樹の林の間を歩く、その天軍の足音がさやさやと音を立てるのである。これがどのくらい的を射ているか私には分からない。私が述べたいのはただこのことである。――私たちには、ある特定の義務を行なうべきであると示す、いくつかのしるしがあるのである。私は、この節をこのように適用したいと思う。第一に、世には、いくつか特別の義務があり、それは万人のなすべき義務ではなく、一部の人々にとってのみ義務である。もし私たちが、果たして自分がそうした義務を行なうべきかどうかを知りたければ、その義務に関するしるしを求めなくてはならず、ダビデがバルサム樹の葉ずれの音を聞いたのと同じように、しるしを得るまでは、自分が召されてもいない義務へと突進して行ってはならない。それから私は二番目のこととして、この聖句をこのように適用したいと思う。世には私たち全員のなすべき義務がいくつかある。だが、神の聖霊が動いておられるという何らかのしるしを見させられ、私たちが常にもまして活発になるべき時期もある。そうしたとき私たちは、自分の《主人》への奉仕において、常にもまして熱心になるべきである。

 I. まず第一に、《いくつかの特別な義務》についてである。私はただ1つのことにだけ限定して語ろうと思う。伝道者の職は特別な義務である。私は、ある人々とは違って、説教することが私たち全員の務めであるとは信じない。私の信ずるところ、いま説教者となっている非常に多くの人々の務めは、口をつぐんで何も云わないことである。もしも彼らが、神が彼らを遣わすまで待っていたとしたら、彼らは今も自宅にとどまっていただろうと私は思う。だのに、ある人々は、門柱の徳を高める資格もないくせに、自分がひとたび講壇に立ったなら大群衆を引き寄せることができるだろうと考える。そうした人々は、説教など世界一簡単なことにすぎないと思い描き、ほんの三言も正確に語る能力がなく、高き所から何の教えも受け取っておらず、講壇に立つには全く不向きであるにもかかわらず、栄誉のためか俸給のためか、伝道者の職へと突進していくのである。いま伝道者の職についている何百人もの人々は、パンにも事欠いて飢えており、全く成功をおさめていない。私の信ずるところ、彼らの中のある人々にできるだろう最上のことは、乾物屋を開くことである。彼らは、もしも何か仕事を始めた上で、学びの時間があるときに時おり説教するか、説教を全くやめてしまう方が、ずっと良く神に仕え、教会に仕えることであろう。また、人々に語るべきことを有している誰かをやって来させて、人々に向かって説教させる方がずっと良いであろう。というのも、悲しいかな、何も云うべきことを有していない説教者は、何の善も施さないだけでなく、多大な害を及ぼすからである。彼の話を聞く人々は、礼拝所という名前を聞いただけで虫酸が走り、それを一種の拷問台のように考える。それは、人が一時間じっと足を固定して座っては、云うべきことを有していないがために何も内容のあることを云わない人間の話に耳を傾けなくてはならない所なのである。私は、あなたがたの中の全員が説教者になるように助言しようとは思わない。

 それは、神があなたがたに望んでおられることではないと私は信ずる。もし御民の全員が説教者となることを神が意図したとしたら、全知の神とはいえ、いかにして彼らにその会衆をあてがうことがおできになるか私には見当もつかない。なぜなら、全員が説教者になるとしたら、どこに聴衆がいるのか! しかり。私の信ずるところ、伝道者の職は、何か特定の神聖さがあるとか、何か特定の権力があるといった点では決して祭司職に似ていないとはいえ、それでも、この点では祭司職に似ている。――いかなる者も、この職務は自分で得るのではなく、「アロンのように」召されてそれを受けるのである[ヘブ5:4]。いかなる者であれ、神が特別な召命を与えてくださったと信ずるのでない限り、また、しかるべき折に、自分の伝道者職が神から召されたものであることを証明する特定のしるしを受けていない限り、霊的な事がらについて会衆に話をする権利はない。正当に叙任された教役者とは、主教だの長老だのの按手によって叙任されているのではなく、神の御霊ご自身によって叙任されているのであり、神の力がみことばの説教において伝わるものである。

 この場にいるある人々はこう云うかもしれない。「いかにすれば私は、自分が説教者に召されているかどうかが分かるのでしょうか?」 私の兄弟たち。おそらく、あなたはそれを徐々に見いだしていくであろう。そして、もしあなたが、説教しようと努めることにおいて、自分がなすべき義務を果たしつつあるかどうかを知りたいと真摯に願っているとしたら、私はあなたに、ダビデがしたようにせよと命じなくてはならない。彼はバルサム樹の林がさやさやと立てる音に注意していた。そして私はあなたにも特定のしるしに注意させなくてはならない。あなたは自分が説教できるかどうか知りたいだろうか? 自分に向かってこう問いかけてみるがいい。「私は祈ることができるだろうか? 祈祷会で指名されたとき、私は自分の言葉をまとめることができただろうか? また、神はそのことで私を助けてくださっただろうか?」 とりあえずは大丈夫だったとしよう。「よろしい。ならば私は行って試してみよう。例えば、路上で説教してみよう」。そのとき、誰ひとり私の話に耳を傾けなかったとしよう。かりに私が行ってある部屋を取るか、ある会堂に行くかしたときに、誰ひとり話を聞きにやって来なかったとしよう。よろしい。バルサム樹の林には何の葉ずれもしていないのである。やめた方が身のためである。かりに私が妻や子どもたちのもとに行って、ある聖句を取り上げ、彼らに向かって、また隣人たちに向かって、僅かでも説教してみるとしよう。かりに私が彼らに向かって説教した後で、彼らの方が私よりもずっとまともに説教できるだろうと私が感じるようだとしたら、バルサム樹の林には何の葉ずれもしていないのであって、私はあきらめた方が身のためである。また、かりにもし、何回か説教した後で、キリストに導かれたという人がひとりもいなかったとしたら、バルサム樹の林では何の葉ずれもしていないのである。私にできる最善のことは、誰か他の人に試させることだと思う。というのも、かりに私が伝道者として召されていなかったとしたら、見張り人になるよう任命されもせずに見張り人の立場を占めるのは恐ろしいことだからである。任命されもせずに、勝手に警察官になり、他人を逮捕する仕事に携わるような者は、詐称者として、自分自身が捕まる危険にあるに違いない。そして、もし私が伝道者として召されておらず、そのことに何の証印も押されていないとしたら、手出しをしないに越したことはない。神の任命も受けずに出て行くことになってはいけない。また、神から遣わされもせずに始めたとしたら、志とは反する結果となるであろう。というのも、もし神が私を遣わしておられないとしたら、私は任務の途中で挫折し、何の善も施さないであろうからである。私は、あなたの有している教育や学識やそうしたすべてがいかほどのものかを尋ねはしない。あなたに尋ねる必要はない。というのも、私は自分自身そのようなことに頓着しないからである。しかし、私はこう問いたい。あなたは《日曜学校》で話をしようとしたことがあるだろうか? 子どもたちの注意をそらさなかっただろうか? 何人かが集まる集会が持たれたとして、あなたが彼らに話をしようと努めた場合、あなたの説教が終わった後で、彼らはもう一度あなたの話を聞きたがっただろうか? あなたは、あなたの下で魂が祝福されたと信ずるに足るだけの証拠を、また、しるしを何か得ているだろうか? 霊的な思いをしている、神の聖徒たちの誰かがあなたに、自分の魂はあなたの説教によって養われました、と告げただろうか? あなたは、どこかの罪人が罪を確信させられたことを耳にしただろうか? 魂があなたの下で回心させられたと信ずべき理由を何か有しているだろうか? もしそうでないとしたら、また、もしあなたが、良かれと思って差し出される助言を受け取ろうとするのであれば――そして、私の信ずるところ、これは神の聖霊が私を通してあなたに与えようとしている助言であるが――、あなたはあきらめた方が良い。あなたは非常に立派な《日曜学校》教師になるであろう。非常に多くの他のしかたで、非常に良い働きをするであろう。だが、こうした事がらを自覚するのでない限り、また、こうした証拠が見られない限り、いかにあなたが召されただの何だのと云うかもしれなくとも、私は信じない。もしあなたが説教するように召されていたとしたら、何かその証拠が、そのしるしがあったであろう。私は二年前のことを思い出す。ある人が私に手紙を寄こしてこう云ったのである。「私は、心に告げられるものがありました。聖霊なる神から私は啓示を受けました。あなたは今度、この会堂で私に説教させるべきです」、と。よろしい。私は彼に返事を出して、こう告げただけであった。「それは、一方的な啓示ですね。あなたをここで説教させるべきだと神が私に啓示されたとしたら、あなたはそうすべきです。ですが、そうでない限りは、私はその啓示が全くまともなものだとは思いません。なぜそのことはあなたに啓示されて、私には啓示されなかったのでしょうか?」 それ以来、その人との音信は途絶えたし、そう私に啓示されることもなかった。それで、その人がここに姿を現わすとは思っていない。私がこのことを云うのは、むろんあなたがたの中の非常に多くの人々にとって、これは別段どうということはないことであろうが、この場には、説教を行なっている大勢の青年たちがいるからである。私は彼らのために神に感謝している。――説教することのできる、あらゆる人のために感謝している。しかし、説教できない者たちの口をふさいでくださるとしても私は神に感謝するであろう。なぜなら、もし彼らがあちこちへ行って説教したとしても、その能力を有しておらず、神が彼らを遣わしておられなかったとしたら、彼らは馬鹿な真似をして物笑いになるであろうからである。いや、彼らはすでにそれに近い醜態をさらしているので、そのことにさほど驚くべきではない。だが彼らは、《福音》そのものを蔑まれるべきものとするであろう。もし神の御霊からの召しを有していない者らが説教すると公言するとしたら、彼らは、語り始めたとたんに、十字架を闇雲に擁護することによって、それにつまずきをもたらすであろう。それは、彼らが十字架になど指一本触れない場合にやって来るつまずきを、はるかに越えたつまづきであろう。さて、そのことに注意するがいい。私は誰をも落胆させようとは思わない。私は、ひとかけらでも才能がある若者、また、自分が神に召されていると信ずる信仰者、また真に祝福されてきたあらゆる人々に対してこう云いたい。「私に助けられる限り、私はあなたを助けるであろう。私はそれを、きわみまで行なうであろう。もしあなたが私の助けを必要としているとしたら。また、私はあなたが祝福され、あなたをいやまさって用いられる者としてくださるように、《全能の神》に祈るものである。というのも、《教会》には多くの牧師や伝道者が必要だからである」、と。しかし、もしあなたの下で回心する魂がひとりも起こされないとしたら、もしあなたが説教する資格を全く有していないとしたら、やはりあなたは、神があなたを成功させてくださるようにという、同じくらい真剣な祈りを私から受けるであろう。――そして、私はこのようにあなたのために祈るであろう。あなたが自分の口をつぐんで黙っていることによって、神があなたを成功させてくださるように、と。私は、バルサム樹の林から音が聞こえてくるまで待っていた。そうでない限り、私は召されても遣わされてもいなかったのである。ダビデは待っていた。彼は、高き所からの合図を耳にするまでは、戦いに赴こうとはしなかった。その合図こそ、戦いの合図であり、戦闘開始の合図であった。

 II. しかし今、私の兄弟たち。私は、あなたがたの中の多くの人々にとって、ずっと実際的な事がらに話を進めよう。あなたは説教するように召されてはいない。だが、《ある種の義務は、あらゆるキリスト者が果たすべきものでありながら、格別な時期には、特に明確に実践すべき義務である》。最初に、キリスト教会全体に関してである。キリスト教会の全体は、非常に祈り深くあるべきである。常に《聖なる方》の油注ぎが自分たちの頭上にとどまるように求めているべきである。キリストの御国が来るように、また、みこころの天になるごとく地にもなされるように求めるべきである。だが、ある時には、神はシオンをいつくしんでいるように思われ、大きな動きが教会の中でなされ、信仰復興が開始され、神の祝福する人々が起こされるのである。それは、あなたにとって、「バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえ」るようなものである。そのとき私たちは、倍増しで祈り深くなり、倍増しで熱心になり、それまで常にしてきた度合にまして御座の前で格闘するべきである。思うに、現在はまさにあなたの格段に特別な祈りが必要とされている時である。私は、英国国教会におけるあの大きな運動、すなわち、安息日の晩にエクセター公会堂で毎週なされている説教集会を、葉ずれのしるしであるとみなすものである。「バルサム樹の林の上から聞こえる行進の音」の一種とみなすものである。私の兄弟たち。かりにこうした一千もの場所が立錐の余地もなく人で埋まる場合、それを一瞬でもねたましく思う人はあわれむべきだと思う。私は声をあげて神に叫ぶことができるであろう。こうしたことが大きな実を結ばないように願うほど、人間性に対して、また人々の魂に対して大罪人となれるような人をあわれんでくださるように、と。私は、ありったけの心をこめて、神がこの運動を祝福してくださるように祈るものであり、まさに今あなたにも勧告したい。正しい方向への動きが見受けられる今こそ、また、教役者たちの一部が、それまでよりもずっと徹底的に奮起させられている今こそ、また、説教という定めがより誉れを帰されている今こそ、また、人々のただ中にみことばを聞く霊がある今こそ、私は切に願う。あなたの祈りを倍増しで熱心なものとしてほしい。ダビデが命じられたようにするがいい。――立ち上がって、攻め上るがいい。ねたみ心に駆られてでも、対抗心によってでもなく。英国国教会が非国教会を敗北させるように攻め上るのではない。しかり。兄弟たち。私たちが悪魔を敗北させるようにと攻め上ろうではないか。私たちは、ひとりひとりが熱心になり、ひとりひとりが、教会のいかなる葉においても何か動きを見るときには、信実な者らの手をあげて、神に祈ろうではないか。もし彼らが信実な人々でないとしたら、彼らが正しい者となるように。だが、彼らが正しい者である限りにおいて、彼らが祝福を得るように、と。キリストの教会は、栄光に富む時期に差しかかっていると思う。私は本当に思う。私たちがいま生きている日は、神の民の多くの目を喜ばせるべき日である、と。今の私は、ほんの少し前の自分とは違い、教会の礼拝者たちについて陰鬱な心持ちになるどころか、幸いな時代に生きていると考えてように思う。聖なるホイットフィールドそのひとでさえ、決して、神がいま与えてくださっているような信仰復興に攻め上ったことはなかった。彼がいかに説教しようと、一団の主教たちや聖職者たちに出て行かせ、貧民に対して説教させるほど攻め上ったことはなかった。神は最近、遠くにある教会、近くにある教会を覚醒させておられる。私にはバルサム樹の林の中の音が聞こえる。至る所で私は、恵みの教理がより顕著にされていることを聞いている。福音の説教がより熱心なもの、より精力的なもの、より御霊に満ちたものにされていることを聞いている。私たちは、自分たちのただ中で、ある人々が私たちの教会から召し出されるのを見てきた。その人を神は、みことばの説教において祝福してくださっている。多くの場所において、また、私はまさに今、英国国教会を指して云うものだが、「バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえ」ている。私の兄弟たち。今は私たちが攻め上るべき時である。おゝ、より熱心に神に叫ぼうではないか。私たちの祈祷会が、熱烈な嘆願に満ちてやって来る人々で一杯になるようにしようではないか。私たちの私室における祭壇を、いやまさって常に燃え続けるようにし、祈りの煙を立ち上らせようではないか。そして、私たちの密室が常に熱心なとりなしで占められるようにしようではないか。攻め上るがいい。「バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえ」ているのである。

 ここまでは、すべての教会に関してである。だが同じ真理は、ある特定の会衆についても同じようにあてはまる。ある安息日に、教役者が大いなる油注ぎとともに説教した。神は彼に力をまとわせ、彼は荒野でこう叫ぶバプテスマのヨハネのように思われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」[マタ3:2]。彼は、死に瀕している人と全く同じような熱意をこめて語った。その言葉は、人々が震えおののき、聴衆に戦慄が走るのが目に見えるほどであった。あらゆる目が釘付けになり、あらゆる頬が涙で濡れているように思われた。男も女もその説教の後で立ち上がり、「確かに神はこの場所におられたに違いない。私たちはその御臨在を感じた」、と云っていた。キリスト者である人は、その神の家から帰ってきたとき、何と云うべきだろうか? こう云うべきである。「私はきょう、バルサム樹の林の葉の音を聞いた」、と。私は人々が熱心になるのを見てきた。教役者が力強く語っているのに目をとめた。神は彼の唇に、祭壇から取られた燃えさかる炭[イザ6:6]で触れておられた。あらゆる目に涙が浮かんでいるのが見えた。無頓着だった多くの人々が、とりすました見せかけのかげで真剣な注意を払っているのが見えた。そこには、感銘を受けたかのように見える何人かの青年たちがいた。その顔つきは、ある働きが行なわれつつあることをうかがわせた。さて、私は何をすべきだろうか? 最初に私が行なうことは、自ら攻め上ることである。しかし、いかにしてそうすれば良いだろうか? 何と、私はきょう家に帰って、これまでしてきたより格段に熱心に、祈りにおいて格闘するであろう。神が教役者を祝福し、教会を増加させてくださるように、と。よろしい。次に何だろうか? どこに私は座っているだろうか? 私の会衆席には、感銘を受けたように見える若い婦人がいるだろうか? では私は、今晩出かけるときには、彼女に注意しているであろう。私は「バルサム樹の林の葉の音」をすでに聞いたのである。それで私は自ら攻め上るであろう。そして、もしそこに彼女を見かけたとしたら、彼女に一言声をかけるであろう。あるいは、それだけでなく、もし私が同じような説教をもう1つ聞き、感銘を受けたかのように思える誰かを見かけるなら、私はそうした人々を見つけ出そうと努めるであろう。というのも私は、普通の人からかけられた二言は、しばしば、教役者からの五十語よりもすぐれていると知っているからである。それで、もし私が感銘を受けている青年を見かけたとしたら、私は彼の肘に触れて、こう云うであろう。「きょうは熱心に説教を聞いていましたね」。「ええ。とても良いと思いました」。「では、あなたは霊的なことに興味があるのですか?」 誰に分かろう? 私は、回心の手段となるかもしれないのである。いずれにせよ、私はこの甘やかな慰めとともに寝床につくであろう。私は、「バルサム樹の林の葉の音」を聞き、それを聞くなり、自ら攻め上っては、私の神に仕えようとした、と。私たちが蒔く種の多くは、水をやられないために失われてしまうように思われる。多くの印象深い説教がその力の多くを失うように見えるのは、その後でしかるべき攻撃が続けられないためである。私も知る通り、神の目的は果たされる。神のことばは空しくみもとに帰っていくことはない[イザ55:11]。それでも、私たちは時としてこう自問して良いと思う。私たちはあまりにも愚図愚図していなかっただろうか? 御霊が私たちのただ中におられたときに、また、私たちが自分の《主人》に対する奉仕に、はるかに奮闘して克己勉励する合図であるとみなすべき好機や良い時期に、自らを用立てることをあまりにもしばしば、ないがしろにしてこなかっただろうか?

 同じことを私は、世間に病が流行するいかなる折についても、あるいは、疫病や、虎列剌や、突然死が起こるいかなる折についても云うことができる。私たちの町通りを虎列剌が猖獗をきわめ、人々がみな震えている時期がある。彼らは死ぬのを恐れている。注意するがいい。それは、「バルサム樹の林の上から聞こえる行進の音」である。人々がいかなる手段によってであれ、真剣な心持ちに至らされているとき、また、神が国中を歩いておられるとき、また、次々に人々を打ち倒しておられるとき、そして、人々の思いが行く末についてびくびくしているとき、あなたや私の務めは自ら攻め上ることである。何か容易ならぬ大火が起こったとき、町通りで、王宮で、あるいは家の中で誰かが急死したとき、その機会をとらえて、自分の《主人》のために活用するのはキリスト者の務めである。「今は」、と清教徒たちは、あのロンドン大疫病の間に云った。単なる雇い人にすぎない教区司祭たちは自分たちの教会から逃げ出していたが、――「今は、私たちが説教すべき時期である」。そして、その恐ろしい期間――雑草が生え放題の町通りを、死人を満載した荷車が行き交っていた時期――の全体を通じて、この強い心をした清教徒たちは講壇を占め続け、大胆に神のことばを説教した。兄弟たち。それこそ、必ず来る御怒りについて罪人たちに告げるのに、常にもまさる好都合な時期が見てとれるとき、私たちが行なうべきことである。それをとらえようではないか。商人が、市況のいかなる変化にも目を配り、相場のいかなる高低をも見落とすまいとしているように。農夫が種蒔きと植えつけと草刈にとって良い時期に目を配っているように。善を施そうと努めるため、最善の時期を常に見張っていようではないか。不精者が眠っている間に、深く耕そうではないか。そして、最上の時期に、できる限りの労働を行ない、日が照っている間に干し草を作り、「バルサム樹の林の上から聞こえる行進の音」が聞こえるときに私たちの神に仕えようではないか。

 そして今、すでにあなたに示した1つの思想に立ち戻ることを許してほしい。あなたの出会うあらゆる個々人について、同じ考えを心にとめておくがいい。もしあなたに酔いどれの隣人がいるとしたら、その人に一言でも声をかけることができるのはごくまれであろう。ところが、その人の細君が病んでいるとする。病んでいて、死にかけているとする。あわれな男よ。その人は今度は素面である。その人は多少とも感ずるところがあるように見える。自分の細君のことを気に病み、自分のことを気に病んでいる。今こそ絶好の機会である。今こそ良い言葉をかけるときである。適切な言葉を云い表わすがいい。今こそあなたの機会である。そこには、とんでもない悪態つきがいる。だがその人が、何らかの恐ろしい摂理によって、多少なりとも当惑しているとする。そして、普段ほどは不敬ではないとする。ならばあなたは、古代の投石戦士がするようにするべきである。彼らは、ひとりの戦士がその兜を持ち上げるのを見ると、再びまぶかにかぶり直す前に、そこに石を投げつけるのであった。そのように、もしある人が少しでも感銘を受け、罪の確信に心開いているのを見るならば、神があなたに機会を与えてくださっているのである。自分にできることを行なうがいい。そして、もしあなたの知人の誰かが神の家に来ているとしたら、もしあなたが彼らにそこに来るよう誘ったとしたら、また、僅かでも善を施すことができると思っていても、その首尾が分からないとしたら、その僅かなことに気を遣うがいい。神は私たちを、ご自分の子どもを育てる乳母としてお用いになるかもしれない。そして、その小さな者が信仰において育てられ、この生まれたばかりの回心した魂が強められ、徳を建て上げられるようになさるのかもしれない。しかし、私はあなたに云うが、あなたがたキリスト者たちの多くは、家に帰ったときに口にすることによって、多くの害を及ぼしている。ひとりの人があるとき云ったところ、彼はまだ若かった頃に、とある教役者からある説教を聞き、それによって非常に深い感銘を受けたという。涙が彼の頬を伝い落ち、彼は自らの内側でこう思った。「私は家に帰って祈ることにしよう」。帰宅する途上で彼は、その教会のふたりの会員と道連れになった。そのひとりがこう云い始めた。「よろしい。きょうの説教はどうだったね?」 もうひとりが云った。「彼は、これこれの点であまり健全ではなかったと思うね」。「そうだな」、ともう一方が、「彼はいささか不用意な発言をしていたね」、とかそういった類のことを云った。そして、ひとりはその教役者の説教のある部分をめった斬りにし、もうひとりは別の部分をそうしたあげくに、この青年の云うところ、この人々と一緒に何米も歩かないうちに、彼は何もかも忘れ果ててしまった。そして、彼が受けたと思ったあらゆる善は、このふたりの人物によって一掃されたように思われた。彼らは、彼が何か少しでも希望を持つようなことがあっては、とんでもないと考えていたかのように思えた。というのも、彼らはその説教をめちゃくちゃに切り刻んでばかりいたからである。彼を膝まずかせ、祈らせていたはずの説教を。私たちはいかにしばしば同じことをしてきたことか! 人々は云うものである。「あの説教についてどう思ったね?」 そうしたとき私は身を慎み、彼らには何も答えないことにしている。たとい何か欠陥があったとしても――まず間違いなくあるであろうが――、それについては言及しないのが良い。というのも、誰かがその説教から益を得ているかもしれないからである。私の強く信ずるところ、最初から最後まで完璧なたわごととしか思われない多くの説教が、救いの手段となることもありえるのである。あなたや私は、ずっと聖書知識に富んでいるかもしれない。私たちはずっと教えと光を受けているかもしれない。私たちはこう云うかもしれない。「何てこった。なぜ人はあんなものを聞いていられるのだろう?」 あなたは人がそれを聞いていられないと思うかもしれない。だが、彼らは救われるのである。気に病むべきは、そのことだけである。ある《幼稚な》教役者は、時として全くあなたを当惑させてきた。あなたは云ってきた。「おそらく、あの善良な人は、自分では自分の云っていることを理解しているのだろうが、私には何のことやらさっぱりだ」、と。だがしかし、彼はこの人々全員の注意を一身に集めているのである。そしてあなたは、魂がその説教の下で神に導かれるのを見てきたのである。それゆえ、あなたはそれについて一言も云ってはならない。あなたはこう云わざるをえない。「よろしい。それは私のための説教ではなかった」、と。気にしてはならない。それは誰か他の人のための説教だったのである。あなたにとって最善の道は、その人の話を二度と聞かないことである。だが、その人は放っておくがいい。おそらく、その人によって善を施される人々もいるであろう。

 次のことを、ほんの一言を差し挟むだけにしておくことにする。もしあなたが人々の耳をとらえたとしたら、あるいは、彼らの耳の一部でもとらえたとしたら、もしあなたが彼らに、「私はもう一度来ようと思います」、と云わせたとしたら、彼らを遠ざけるような言葉を一言も投げ込んではならない。むしろ、自ら攻め上るがいい。あなたが、こうした高き所からの合図を耳にするときには、自分が媒介となるようなしかたで、魂を救う手段となるがいい。

 そして私の兄弟たち。思うに私は、あなた自身の子どもたちということについて、はっきりあなたに訴えなくてはならない。私自身の愛する子どもたちが生まれて以来見てきたところ、彼らは、ある特定のときには他の時期よりもずっと感銘を受けやすいように思われる。私は切に願う。決してそうした機会を逃してはならない。救いは、最初から最後まで神のものである。だがしかし、あなたの務めは、あなたが彼らを救うことができるかのように、あらゆる手段を用いることである。さて、時として、普通は非常に陽気で奔放なあなたの息子が、会堂から帰宅すると、めったに目にすることがないような一種の厳粛な様子をしていることがある。それを目にするときには、彼と言葉を交わすがいい。時として、あなたの小さな娘が家に帰って来たとき、彼女は自分に理解できること、その思いを打ったように思われることを聞いてきたことがある。誰に分かろう? それは、「バルサム樹の林の上の音」かもしれない。あなたの息子である十四、五歳になる少年は、しばしば明らかに深い感銘を受けたような顔つきで帰宅する。そして、時としてあなたはこう考えることがある。「よろしい。私には分からないが、この坊主は、他の人々より多くのことを聞いたように見えるな。どうやら、何か良い働きが内側でなされているらしい」。では、その繊細な植物に、がさつで荒々しい手をかけてはならない。例えば、彼がちょっとした間違いを犯したとして、こう云ってはならない。「最近のお前には、少し良いところがあると思っていたが、結局、神を敬う思いなどないのだな。さもなければ、こんなことはしなかっただろうが」。こうしたことを云ってはならない。それは、たちまち水を注してしまう。覚えておくがいい。たとい彼が神の子どもだとしても、彼には他の男の子と同じようにそれなりの欠点があるものである。それゆえ、彼に対して、あまりにもがさつであったり、あまりにも苛酷であってはならない。むしろ、あなたがごく少しでも良い点を見つけたときには、こう云うがいい。そこには、「バルサム樹の林の上の音」がある、と。そうしたかすかな葉ずれは、いつもあるかもしれない。気にすることはない。それは私の機会なのだ。いま私は、私の子どもの救いについてもっと熱心になろう。そしていま、できるものなら、より完全な神の道を教えるように努めよう。私は彼とふたりきりになって、話をしよう。その繊細な植物は、神のものであるとしたら、確かに育つに違いない。だが私は、それを育成する手段となるように気をつけよう。そして、この坊主をわきへ読んで、こう云うことにしよう。「よろしい。坊主。お前は罪の悪について何か学んだのかい?」 そして、もし彼がうんと云うなら、彼には多少の希望と信仰があると分かるであろう。たといそれが、どちらかといえばうわべだけの働きかもしれないとしても、私はそれを馬鹿にしようとは思わない。むしろ覚えておこう。私も以前は苗の中にある恵みだっのであり、恵みによって今は穂の中にあるのだ[マコ4:28]。私は、苗の中にある恵みでなかったとしたら、決して穂の中にある恵みにはならなかっただろう。私は、苗が穂でないからといって、苗を蔑んではならない。子羊が、羊でないからといって殺してはならない。というのも、子羊を全部殺してしまったとしたら、私の羊はどこから来るだろうか? 私は聖徒たちの最も弱い者たちを蔑んではならない。というのも、もし私が弱い者らを契約からはじきだし、お前たちなど神の子らではないと告げるとしたら、どこから私は年季を積んだ聖徒たちを得られるだろうか? しかり。私はごく小さな兆しをも見守っていよう。イスラエルの主なる神へと向かう良いものの、ごく小さなしるしをも見守っていよう。そして、そうしたしるしが人を欺くものではないように神に祈ろう。追い払われる煙や、あけぼのの雲や、早朝の露のようなものではなく、永続的な恵み、後に完成される恵みのしるしが始まっていることを祈ろう。

 そして最後に、これ以上あなたを長く引き留めないように、キリスト者よ。あなた自身についても、ここには大きな真理がある。あなたも知っての通り、時としてあなたには、「バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえ」ることがある。あなたは、祈りにおいて尋常ならざる力を有している。神の御霊があなたに喜びと楽しみを与えている。聖書があなたに開かれている。種々の約束があてはまる。あなたは神の御顔の光の中を歩んでおり[詩89:15]、神のともしびがあなたの頭を照らしている[ヨブ29:3]。静思の時には、常ならぬのびやかさと自由がある。ことによると、あなたは、常日頃よりもずっとこの世に気をそらされることなく、キリストとのより親密な交わりを得ているかもしれない。今こそ時である。今は、あなたが、「バルサム樹の林の上から行進の音」を聞いているときである。今は、あなたが攻め上るべきときである。今は、なおも残っている悪習慣を取り除くべきときである。今は、御霊なる神があなたとともにおられる時期である。しかし、あなたの帆を張るがいい。あなたが時として何と歌っているかを思い出すがいい。――

   「われはただ帆を 張り伸ばすのみ、
    主のよく幸風(かぜ)を 吹かせずばなし」。

帆を上げておくよう気をつけるがいい。備えを怠っていたために、順風をとらえそこなってはならない。神の助けを求めるがいい。あなたが信仰においてより強くされたとき、義務においてより熱心になれるように。また、あなたがより多くの自由を御座の前で得ているとき、より祈りにおいてたゆむことがないように。また、あなたがより親密にキリストとともに生きている間に、生活においてより聖くなるように。

 そして、おゝ、この場にいる人々の中で、今晩、あるいは今朝、あるいは他のいついかなる時であれ、「おゝ、私も救われることができたらどんなに良いことか!」、と考えるに至らされた人たち。もしあなたがそのことについて何らかの考えを、何か真剣な感銘をいだいているとしたら、私は祈るものである。聖霊なる神が、あなたに与えられたその印象を、「バルサム樹の林の上から聞こえる行進の音」とあなたにみなさせてくださるように。あなたが自ら攻め上り、より熱心に神を求めさせてくださるように。もし御霊なる神が少しでもあなたに罪を確信させているとしたら、もし御霊があなたに感銘を与えているとしたら、もし御霊があなたを震えおののかせているとしたら、もし御霊があなたを家に帰して祈らせるとしたら、いま私は切に願う。あなた自身の魂について熱心になるがいい。そして、もし神があなたをそこまで覚醒させておられるとしたら、それを神の恵みの証拠とみなして、こう云うがいい。「今でなければ、もう次はない」、と。この大波に助けられてあなたは、あの港口の前にある大きな遮断棒を乗り越えられるかもしれない。これこそ、上げ潮の時にとらえれば、天国に至らせてくれる潮流かもしれない。おゝ、神があなたを助けて、この上げ潮の時をとらえさせてくださるように。あなたが、あなたの罪の確信と苦難とを無事に越えて、かのほむべき信仰の停泊所へと無事に上陸できるように。――その停泊所は、キリストの贖罪により、また、永遠の愛という関所により防備されている。あなたに神の祝福があるように。キリストのゆえに! アーメン。

  

 

バルサム樹の林の中の音[了]

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