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善良な人の生と死

NO. 146

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1857年8月16日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」。――ピリ1:21


 この聖句の中で、この2つの言葉は何と不気味に連なり合っていることか。――「生きる」、「死ぬ」、と。その間には読点(、)1つしかない。そして、言葉においてのみならず、現実においても確かにこれらは隣り合わせである。生死の隔たりのいかに短いことか! 生は死の控えの間でしかなく、地上における私たちの巡礼路は、墓場への旅でしかない。私たちの存在を支えているこの脈拍は、私たちが死へ行進していく拍子を取っており、私たちのいのちを行き巡らせている血液は、それを死の深みへと漂い流しつつあるのである。私たちは、きょう友人たちの健康な姿を目にしたかと思うと、明日にはその訃報を聞く。つい昨日、頑健そのものといった人の手を握ったばかりだというのに、きょうは彼の目を閉ざすのである。私たちは、ほんの一時間前には慰めの戦車に乗っていたのに、数時間のうちに、最後の黒戦車が私たちをすべての生き物の集まる家[ヨブ30:23]へと運んでいくのである。おゝ、いかに死は生と堅い縁を結んでいることか! 野原で戯れている子羊は、じきに屠殺刀の露とならざるをえない。牧草地でモーと鳴いている牛が肥え太りつつあるのは屠られるためである。木々が生長するのは切り倒されるためでしかない。しかり。そして、こうしたものより大きなものも死に見舞われる。いくつ帝国が興隆しようと、盛者は必衰し、栄枯と盛衰は世の常である。私たちは、いかにしばしば歴史書を手に取っては、数々の帝国の興亡について読んだことか。私たちは国王たちの戴冠や薨去について耳にする。死は生の戦車の後を走る黒い従僕である。生を見るがいい! 死はぴたりとその背後に張りついている。死はこの世に蔓延している。地上の物事すべてに、墓場を指さす太い矢印を刻印している。ことによると、星々も死につつあるのかもしれない。天空のはるか彼方には大火災が見られると云われている。天文学者たちは、数々の世界が消滅していくのを目撃してきたという。永遠に煌めくともしびとして、銀の燭台に永劫に差し込まれているかのように私たちが想像していた巨大な天体がいくつも崩壊しつつあるのだという。しかし、神はほむべきかな。ある所においては、死は生の兄弟でなく、生だけが統治しているのである。そこでは、「生きる」と云った舌の根も乾かぬうちに、「死ぬ」と云われることはない。ある国では、決して弔鐘が鳴らされることなく、決して死衣が巻かれることなく、決して墓が掘られることがない。天空の彼方の幸いな国よ! そこに達するためにこそ、私たちは死ななくてはならない。しかし、もし死後に私たちが輝かしい不死性を得られるとしたら、本日の聖句はまことに真実である。「死ぬこともまた益です」。

 ある人の幸せさを公正に評価したければ、この2つの密接に関連した事がら――その人の生とその人の死――によって、その人を判断しなくてはならない。異教徒ソロンはこう云った。「死に至るまで、誰をも幸福と呼んではならない。人はその人生の中でいかなる変化を経るか分からないのだから」、と。私たちはそれにこう付言しよう。――死に至るまで、誰をも幸福と呼んではならない、もしも来世がみじめなものになったとしたら、それは地上で享受した最高に幸福な人生をもはるかにしのいで重いものとなるからである、と。ある人の状態を評価するには、その人のあらゆる面を考えに入れなくてはならない。私たちは、揺りかごから棺に至る一本の糸だけを測ってはならない。それを越えて進まなくてはならない。棺から復活へと進み、復活から永遠全体へと進まなくてはならない。いずれかの行為が有益なものかどうかを知るには、それが私の生きている間に及ぼす効果ではなく、私が存在することになる永遠において私に及ぼす効果を評価しなくてはならない。私は物事を時間の秤で量ってはならない。時計の時間や分や秒を単位にして計算してはならない。むしろ、事は永遠の代々を単位にして勘定し、値踏みしなくてはならない。

 さてそこで、愛する方々。私たちはひとりの人の肖像を前にしている。この人の存在の2つの面は、どちらとも検分に耐えるものである。ここには彼の生があり、彼の死がある。その生については、「生きることはキリスト」、と云われており、その死については、「死ぬこともまた益」、と云われている。そして、もし同じことが、あなたがたの中の誰かについて云えるとしたら、おゝ! あなたがたは喜んで良い! あなたがたは、主が愛し給う、また、主が誉れを与えることを喜びとされる、あの果報者の数に入っているのである。

 ここで私たちは本日の聖句を、ごく単純に2つの点に区分したいと思う。善良な人の生と、善良な人の死である。

 I. 《彼の生》について、ここには手短にこう述べられている。「私にとっては、生きることはキリスト……です」。この信仰者は、常にキリストのために生きてきたわけではなかった。この世に最初に生まれ出たとき、彼は罪の奴隷であり、他の人たちと同じように御怒りを受け継ぐべき子[エペ2:3]であった。後には最大の聖徒となったかもしれないが、それでも天来の恵みがその心に入るまでの彼は、「苦い胆汁と不義のきずなの中にいる」[使8:23]者であった。彼がキリストのために生き始めたのは、ようやく聖霊なる神が彼に自分の罪を、また、自分の絶望的に邪悪な性質を確信させたとき、また、自分の咎のなだめの供え物となられた、死に給う《救い主》を恵みによって見させられたときである。彼は、カルバリで屠られたいけにえを信仰によって見てとった瞬間から、また、自分の全生涯をこのお方にゆだねて、その贖いと、その恵みの偉大さとによって救われ、贖われ、保たれ、祝福されようとした瞬間から、この人物はキリストのために生き始めたのである。

 そして今、私たちはあなたに、できる限り手短に、キリストのために生きるとはいかなることかをあなたに告げたいと思う。

 それは第一に、キリスト者のいのちは、キリストをその親としているということである。「私にとっては、生きることはキリスト」。義人には2つのいのちがある。彼には自分の親から受け継いだいのちがある。彼は、自分という枝の大本である先祖伝来の家系を振り返り、親から親へと血統を辿ることができる。だが彼には第二のいのち、霊的ないのちがある。それは、精神的ないのちが動物あるいは植物のいのちにまさっているのと同じくらい、精神的ないのちにまさるいのちである。そして、彼がこの霊的ないのちの源泉とみなすのは、父親でも母親でもなく、祭司でも、人でも、自分自身でもない。キリストである。彼は云う。「おゝ、主イエスよ。永遠の父、平和の君[イザ9:6]よ。あなたは私の霊的な親であられます。あなたの御霊が私の鼻に、新しい、聖なる、霊的ないのちを吹き込まなかったとしたら、私はきょうのこの日まで、『罪過と罪との中に死んでいた』[エペ2:1]でしょう。私が自分の三番目の本質――私の霊――を得られたのは、あなたの恵みが植えつけられたおかげです。私は、両親によってからだと魂を得ましたが、三番目の本質である霊はあなたから受けました。そして、あなたの中に生き、動き、存在しているのです[使17:28]。私の新しい、私の最上の、私の最高の、私の最も天的ないのちは、全くあなたに由来しています。あなたから発しています。私のいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあります[コロ3:3]。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです[ガラ2:20]」。それでキリスト者は云うのである。「私にとっては、生きることはキリストです」。なぜなら、私にとって生きるとは、人間から発して生まれたいのちを生きるのではなく、天来の、すなわち、キリストご自身から発して生まれたいのちを生きることだからです、と。さらに、彼が云おうとしていたのは、キリストは自分のいのちの支えである、自分の新しく生まれた霊を養うべき糧である、ということである。信仰者には、維持しなくてはならない3つの部分がある。からだには、そのしかるべき栄養を与えなくてはならない。魂には、知識と思想を供さなくてはならない。そして霊は、キリストを糧としなくてはならない。パンがなければ、私は骸骨のように痩せ細り、ついには死んでしまう。思想がなければ、私の知性は発達を妨げられ、次第に矮小なものとなり、どうしようもなく魯鈍なものとなるであろう。その魂は単にいのちがあるというだけで、ほとんどそれ以上のものを有していまい。そしてキリストがおられなければ、私の新しく生まれた霊は、薄ぼんやりとした、空虚なものとならざるをえない。それは、天から下ってきた天来のマナ[ヨハ6:35]を糧としない限り、生きていることができない。さてキリスト者が、「私にとっては、生きることはキリストです」、と云えるのは、キリストが自分の糧としている食物であり、自分の新しく生まれた《霊》の支えだからである。

 また、やはり使徒が意味していたのは、彼のいのちの規範はキリストだったということである。生きているいかなる人も、努めて自分の生き方を合わせようとする模範を持っていると思う。私たちは、人生を始めるとき、通常は誰かを、あるいは何人かの人を選んでは、その美徳の組み合わせを自分にとって完璧さの鑑とするものである。「さて」、とパウロは云う。「もしあなたが私に、私がいかなる規範に沿って私の人生を形成しているのか、また、いかなる模範によって自分の存在を彫り刻んでいるのかと尋ねるとしたら、あなたに云うが、それはキリストである。私が自分の存在を形作るべき手本とすべき唯一の規範、唯一の型、唯一の模範は、主イエス・キリストしかいない」。さて、真のキリスト者は、もし廉直な人であるとしたら、同じことを云えるのである。しかしながら、私が「廉直」という言葉で何を意味しているか理解するがいい。廉直な人とは、「真っ直ぐに立っている人」――ぺこぺこしたり、卑屈になったり、他人の足元にじゃれついたりしない人、他の人々の助けによりかかっていない人、むしろ、頭をただ天国に向けて、全く独立した者の尊厳をもって立ち、《全能者》の御腕以外の何物にもよりかかっていない人のことである。そのような人は、キリストだけを自分の模範とし手本とするであろう。現代はまさに因襲尊重の時代である。今の人々は、他の誰もが同じことをしていない限りあることを行なおうとはしない。「それは正しいことだろうか?」、と尋ねる人はめったにいない。ほとんど場合、「誰それさんは、そのようにしているだろうか?」、と云われるのである。あなたの一族の中には、名士ともいうべき人が誰かいて、あらゆる作法の鑑であると目されている。そして、もしその人がそのことをするなら、あなたは自分も安心してそれを行なえると思う。そして、おゝ! あえて風変わりなことをする人に対しては、いかなる怒号が浴びせかけられることか! 巷の習俗の一部は拘束物であり、束縛の鎖であると信じて、それを全く一蹴し、「私は自由だ」、と云う人に向かって、世間はたちまち一斉攻撃を始め、あらゆる悪意や中傷の猛犬が解き放たれる。その人がこう云うからである。「私はあなたがたの模範に従いません! 私は私の《主人》の誉れを取り戻します。そして、あなたがたの偉大なる主人たちをいつまでも私の手本にはしないことにします」、と。おゝ! 願わくは、あらゆる政治家、あらゆる教役者、あらゆるキリスト者が、自由にこう主張できるように。自分のならうべき唯一の形式、唯一の規範は、キリストのご人格しかない、と。願わくは私たちが、自分の先祖たちによる古い過誤に迷信的にすがりつくことをいさぎよしとしないようになれるように。そして、たとい一部の人々がいつまでも時代と、古臭い習慣を崇敬していようと、私たちは年代ではなく、その正しさに従って事を判断し、あらゆるものをその新奇さでも、古めかしさでもなく、それがキリスト・イエスとその聖なる《福音》に従っているかどうかによって評価できるようになるように。たといいかに長年月にわたって由緒あるものであろうと、主と福音に従っていないものは拒絶すること、また、その日生まれたばかりであろうと、主と福音に従っているものは信じること、そして、真剣にこう云うことである。「私にとって生きるとは、あの人この人を見習うことではなく、むしろ、『私にとっては、生きることはキリスト』なのです」、と。

 しかしながら、パウロが考えていたことの核心はこのことであろうと思う。彼の人生の目的はキリストである。あなたが、ピリピの岸辺に上陸したパウロの姿を目にしたとしよう。そこには川岸沿いに船舶が集結しており、多くの商人たちが居並んでいた。そこには、台帳を手にして忙しく立ち働いている商人が、自分の積荷を監督する姿が見えたであろう。彼は立ち止まっては自分の手を額に当てて、自分の金袋を握りしめながらこう云うであろう。「手前にとって、生きることは黄金ですよ」。また、そこには下働きの下男が見える。何かを塗装するために雇われている男で、主人に命じられた骨折り仕事をしている。そして汗をかきかき、口の中で呟く。「俺にとっちゃ、生きるってのは、かつかつの食い扶持を稼ぐことさ」。ところがそこには、彼の言葉に耳を傾けていたひとりの人がしばし立っている。学究的な顔つきをした白皙の人物で、手には神秘的な種類の知恵文学がびっしり書き込まれた巻物を持っている。「お若いの」、と彼は云う。「私にとって、生きることは学ぶことですぞ」。「下らん! 下らん!」、と別の者が云う。兜をかぶり鎧を身にまとった兵士である。「お前らの生き方など御免こうむるね。俺にとって、生きるとは栄光をつかむことさ」。しかし、そこにひとりの卑しい天幕作りが歩いて来る。その名をパウロという。彼はユダヤ人らしい顔立ちをしており、その場の全員の真中に歩み入ってはこう云うのである。「私にとっては、生きることはキリストです」。おゝ! いかに彼らが馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべることか! そのような目当てを選んだことで、いかに彼を嘲ることか! 「私にとっては、生きることはキリスト」だと。一体、こいつは何を云っているのか? あの学者が立ち止まって、こう云った。「キリストとな! それは何者かな? それは、私も耳にしたことがある、あの愚かな気違いではないのか? 煽動のかどにより、カルバリの上で処刑されたという?」 柔和な答えが返ってくる。「その死んだ人です。ナザレのイエス、ユダヤ人の《王》です」。「何だと?」、とあのローマの兵士が云う。「そしてお前は、奴隷みてえに死んだ男のために生きてるってのか? そんな奴のために戦って、どんな栄光が得られるっていうんだ?」 あんたが説教することで、何の利益が得られるんです、とあの貿易商人が茶々を入れる。あゝ! その商人の下男でさえパウロを気違いだと思った。彼はこう云ったからである。「こいつは、どうやって家族を養うっていうんだい? キリストなぞに誉れを帰すためだけに生きてるとしたら、どうやって毎日の入り用を手に入れるってんだい?」 左様。だがパウロは自分が何を目指しているか知っていた。彼は、彼らの誰よりも賢かった。どの道が天国へ至る正しい道か、どれが最上の道かを知っていた。しかし、正しかろうと間違っていようと、彼の魂は完全にこの考えにとらわれていた。――「私にとっては、生きることはキリストです」。

 兄弟姉妹。あなたは、信仰を告白するキリスト者として、使徒パウロの考えに沿った生き方をしていると云えるだろうか? 自分にとって生きることはキリストである、と正直に云えるだろうか? あなたがたの中の多くの人々のことを、私がどう考えているか告げさせてほしい。あなたは、どこかの教会に所属している。相当な地位のある人である。真実の、また本物のキリスト者として私たちの間で受け入れられている。だが正直なところ、実は私は、あなたにとって生きることがキリストだとは信じていない。私の見るところ、あなたがたの中の多くの人々は地上の物事ですっかり心を奪われている。単に金銭を得ること、富を蓄積することだけが、あなたの目的であるように見える。あなたの気前が良いことは私も否定しない。あなたが物惜しみをする人だとか、あなたの小切手には、聖なる目的のために寄付された痕跡がめったに残っていない、などと云おうとは思わない。だが私はあえて云いたい。結局において、あなたは、キリストのためだけに生きていると正直に云うことはできないのだ、と。あなたも知っての通り、あなたが自分の店や大商店に行くとき、あなたは商売をしながら、自分はこれをキリストのために行なっているのだとは考えない。あなたは、ぬけぬけとそう云えるような偽善者ではない。それは自分の財産を増やし、自分の家族に利益をもたらすために行なっているのだと云わざるをえないであろう。「よろしい!」、とある人は云うであろう。「では、それは卑しい理由なのですか?」 決してそうではない。少なくとも、あなたがそのような問いかけをするほど卑しい人間であるとしたら、そうではない。だが、キリスト者にとって、それは卑しい理由なのである。キリスト者は、キリストのために生きると告白している。では、一体いかにしてその人は、自分の《主人》のために生きていると告白していながら、そうすることをせず、ただの世俗的な利得のために生きてなどいられるのだろうか? この場にいる多くの婦人方に云わせてほしい。あなたは、私があなたのキリスト教を否定するとしたら衝撃を受けるであろう。あなたは一流の社交界で活動しており、何度となく信仰的な目的のために寛大な寄付を行なってきた。だからもし私が僭越にもあなたの敬神の思いを傷つけるようなことをするとしたら、驚愕するであろう。だが私はあえてそうしよう。あなたは――何をあなたはしているのだろうか? あなたは日が高く昇ってからゆっくり起き出す。馬車に乗って外出しては、友人を訪問するか、代理の訪問札を残してくる。晩には夜会に出かける。愚にもつかない話をしては、帰宅して寝床に入る。そして、それが年頭から年末に至るまでのあなたの生き方である。それは、単に1つの周期的な繰り返しにすぎない。晩餐会や舞踏会がやって来る。そして一日が終わる。それからアーメン。そのようになりますように。永遠に。ということは、あなたはキリストのために生きていないのである。あなたが規則正しく英国教会に通っていること、あるいは、どこかの非国教会の会堂に出席していることは私も承知している。それはみな正しく、良いことである。あなたに敬神の念があることを私は――その言葉のありきたりな使い方においては――否定しない。だが、「私にとっては、生きることはキリスト」、と語ったときにパウロが立っていたような場所に、あなたが少しでも達しているとは私は決して認めない。私の兄弟たち。私は、いかに熱心に求めてきても、自分が主イエスへの全き献身を完全に実現することに失敗してきたことを承知している。いかなる教役者も、時として自分を懲らしめて、こう云わなくてはならない。「私は、自分の話の中で、少しねじ曲がったことをしなかっただろうか? 私は、いずれかの説教で、素朴な真理を述べる代わりに華美な思想を持ち出そうとはしなかっただろうか? 私は人の顔を恐れたがために、自分が口にすべきであった何らかの警告を押し隠さなかっただろうか?」 私たちはみな、自分を懲らしめる必要があるではないだろうか? しかるべきほどにはキリストのために生きてこなかったと云わざるをえないからである。だがしかし、私は信ずる。高貴な少数の人々、神の選民中の選良、ごく僅かな選ばれた人々がいることを。その頭上には献身という栄冠と王冠が載っている。その人は真実にこう云うことができる。「私がこの世で有しているものの中で、キリストのためにささげられないものは何1つない。――私はこう云ってきたし、本気で云ってきた。

   『取らせたまえや、わが魂(たま)、わが身、
    わが手のすべて、わが時もみな、
    わがものことごと、わが身の一切(すべて)を』。

私をお取りください。主よ。私を永遠にお取りください」、と。こうした人々こそ、私たちの宣教師となる人々である。こうした人々こそ、病者を世話する私たちの看護婦となる女性たちである。こうした人々こそ、キリストのためには死をもいとわない人々である。こうした人々こそ、御国の進展のために財産を投げうとうとする人々である。こうした人々こそ、財を費やし、また自分自身をさえ使い尽くそうとし[IIコリ12:15]、自分の《主人》のためになることとあらば、不名誉も、嘲りも、恥辱も忍ぼうとする人々である。今朝この場には、何人くらいそうした人々がいるだろうか? 私が座席をいくつ数えて歩こうと、二十人にも満たないではないだろうか? 多くの人々は、ある程度まではこの原則を実行している。だが、私たちの中の誰が、使徒がしていたように、自分はキリストのためだけに生きているなどと云えるだろうか?(この講壇に立っている者がそうした者でないことは確かである。) だがしかし、今よりもこうしたパウロたちが、またよりキリストに献身した人々が起こされない限り、私たちは決して神の御国が来るのを目にすることはないであろうし、みこころが天でなるごとく地でもなされるのを見ると期待することはできないであろう。

 さて、これがひとりのキリスト者の真の生である。その源泉、その支え、その規範、その目的はみな、キリスト・イエスという一言に尽きている。そして、こうつけ足さなくてはならないが、その幸福と、その栄光とはみなキリストにあるのである。しかし、私はこれ以上あなたを引き留めてはならないであろう。

 II. 私は第二の点に移らなくてはならない。《キリスト者の死》である。悲しいかな、悲しいかな。善人が死ななくてはならないとは。悲しいかな。義人が倒れなくてはならないとは! 死よ。なぜお前は猛毒のウパス樹を切り倒さないのか? なぜ苦よもぎを刈り取らないのか? なぜ疲れた者の安らぎとなる枝を差し掛けている木に触れるのか? なぜ地を喜ばせる芳香を放つ花に触れるのか? 死よ。なぜお前は、私が喜びとする、地にあって威厳ある人々[詩16:3]を攫っていくのか? もしお前がお前の斧を振るうというなら、ただ土地をふさいでいるだけの木々、養分だけを吸い上げながら何の実も結ばない木々に向かって振るうがいい。そうすれば、お前は感謝されるかもしれない。しかし、なぜお前は杉を切り倒そうとするのか? なぜレバノンの美しい木々を倒そうとするのか? おゝ、死よ。なぜ教会を容赦しないのか? なぜ講壇に喪布をかけなくてはならないのか? なぜ宣教所が歔欷の声で満ちなくてはならないのか? なぜ敬神の念に満ちた家庭がその司祭を失い、その家がその長を失わなくてはならないのか? おゝ、死よ。お前は何を狙っているのか? 地の聖なるものに触れてはならない。お前の手は神のイスラエルを汚すのにふさわしくはない。なぜお前はお前の手を選民の心にかけるのか? おゝ、下がっていよ。下がっていよ。死よ。義人を容赦して、悪人を取るがいい! しかし、否。そのようなことはありえない。死は、やって来ては、私たちの中で最も敬虔な人々を殺す。最も寛大で、最も祈り深く、最も聖く、最も献身的な人々が死ななくてはならない。泣くがいい。泣くがいい。泣くがいい。おゝ、教会よ。お前はお前の殉教者たちを失ったのだから。泣くがいい。おゝ、教会よ。お前はお前の信仰告白者たちを失い、お前の聖なる人々は倒れたのだから。もみの木よ。泣きわめけ。杉の木は倒れたからだ[ゼカ11:2]。敬虔な人がいなくなり、義人は刈り取られる。しかし、しばし待て。私には別の声が聞こえる。あなたがたはユダの娘に向かってこう云うがいい。涙を流すのをやめよ、と。あなたがたは主の群れに向かってこう云うがいい。やめよ、やめよ、悲しむのは。あなたの殉教者たちは死んだが、彼らは栄化されたのだ。あなたの教役者たちはいなくなったが、彼らはあなたの御父のもとに、また彼らの御父のもとに昇っていったのだ。あなたの兄弟たちは墓に葬られたが、御使いのかしらの喇叭が彼らを目覚めさせるのだ。そして、彼らの霊は今しも神とともにあるのだ、と。

 この聖句の言葉を慰めとして聞くがいい。「死ぬこともまた益です」。それは、あなたがた、守銭奴の子らよ。あなたが願うような益ではない。あなたがた、貪欲と自己愛にかられた人たち。あなたが追い求めているような益ではない。より気高く、よりまさる益を、死はキリスト者にもたらすのである。

 私の愛する方々。今しがた、この節の前半について講話したときには、すべては平明であった。いかなる証拠も必要なかった。あなたがたはそれを信じた。あなたにはそれが明瞭に見てとれたからである。「生きることはキリスト」には、何の逆説も含まれていない。しかし、「死ぬこともまた益です」は、キリスト者しか本当には理解できない《福音》の謎の1つである。単に目に見えるところだけを眺めるとしたら、死ぬことは益ではない。死ぬことは損である。得ではない。死人は自分の富を失うではないだろうか? いかに富を山と積み上げていようと、それを持っていくことができるだろうか? こう云われてはいないだろうか? 「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう」[ヨブ1:21]。そして、あなたの持ち物すべての中で、何をあなたは持っていくことができるだろうか? その人は麗しい地所と壮麗な邸宅を有していたが、それを失ってしまった。彼は、あの美しく彩られた広間を踏みしめることも、あの青々とした芝生を歩くこともできない。彼には、名声と名誉がふんだんにあったが、彼自身がそれを感じとることにかけては、それを失ってしまった。今なお立琴の和弦は、彼の名を覚えて嫋々と響いてはいるが関係ない。彼は自分の富を失ってしまった。そして、いかに豪勢な墓に葬られたとしても、彼は町通りで彼をねたましげに眺めていた乞食も同然に貧しくなってしまっている。これは益ではなく、損である。また彼は友人たちを失ってしまった。自分の後に悲しむ妻と、父を喪った子どもたちを、自分では守ることも配慮することもできない境遇に残してきてしまった。彼は自分の腹心の友を失った。若い頃からつき合っていた友を。友人たちはそこにいて彼のために涙を流すが、彼らは彼とともにかの川を渡ることはできない。彼らは彼の墓に一掬の涙を注ぐかもしれないが、彼とともに行くことは許されていないし、できることでもない。また彼は、自分のすべての学識を失ったではないだろうか? 自分の頭脳を知識で満たすためにいかに刻苦勉励してきたとしても関係ない。今の彼は、地上の物事に関するあらゆる知識を獲得していたとしても、召使いの奴隷にまさるところが何かあるだろうか? こう云われてはいないだろうか?

   「その記憶(よすが)も 愛も失われ
    知り合い、知人を 失うに似ぬ」。

確かに死は損である。その人は聖所の歌と、義人の祈りを失ってはいないだろうか? きよめの集会と、大いなる民の集いを失ってはいないだろうか? もはや約束が彼の耳を陶然とさせることはなく、もはや福音の喜ばしい訪れが彼の魂を旋律へと呼び覚ますことはない。彼はちりの中で眠っており、安息日の鐘は彼のためには鳴らされず、礼典の象徴が聖餐卓の上に広げられても、彼のためにではない。彼は自分の墓に下ってしまった。自分の死後、何が起こるかを知りはしない。墓の中には何の仕事も用具もない。そこに、私たちはみな急行しつつあるのである。確かに死は損である。お前たち、土くれのように冷たい死骸よ。私がお前を見るとき、また、お前が今まさに腐敗の王宮となり、うじ虫たちの謝肉祭となる備えをしているのを目にするとき、私はお前が得をしたと考えることはできない。私は、お前の目が光を失い、お前の唇が言葉を失い、お前の耳が音を失い、お前の足が動きを失い、お前の心臓がその喜びを失うのを見るとき、また、窓から眺めている女の目が暗くなり、粉ひき女たちがいなくなり[伝12:3]、タンバリンや立琴の音が決してお前の喜びを呼び起こさないとき、おゝ、土くれのように冷たい死骸よ。お前は損をしたのだ。測り知れようもないほどのものを失ったのだ。だがしかし、本日の聖句は私にそうではないと告げる。「死ぬこともまた益です」、と云っている。これは本当ではないように思われるし、私に見てとれる限り、本当ではありえない。しかし、あなたの目に信仰という望遠鏡を当ててみるがいい。私たちと目に見えないものとを隔てている垂れ幕を刺し貫くことのできる、魔法の遠眼鏡を手に取ってみるがいい。あなたの目に目薬を注し、それが天界を貫いて、未知の世界を見てとれるほど輝かせるがいい。さあ、光の海に身を浸し、聖なる啓示と信仰の中に生きて、それから物事を眺めてみるがいい。すると、おゝ、その光景は何と一変することか! ここにはその死骸があるが、彼方にはその霊がいるのである。ここには土くれがあるが、彼方には魂がいるのである。ここには屍体があるが、彼方には熾天使がいるのである。彼はこの上もなく祝福されている。彼の死は益なのである。さて今、彼は何を失ったのだろうか? 私は、彼が失ったあらゆるものについて、彼がはるかにまさるものを得たことを証明しよう。彼は友人たちを失ったではないだろうか。後に残された彼の妻、また、彼の子どもたち、教会の交わりにある彼の兄弟たちは、彼を失ってみな泣いている。しかり。彼は彼らを失った。だが、私の兄弟たち。彼は何を得ただろうか? 彼は自分が失ったよりも多くの友人たちを得た。彼は生前に多くの友を失ったことがあったが、その全員と再び出会うのである。若くして、あるいは年老いて死に、彼よりも前に流れを渡った両親や、兄弟姉妹たちがみな、向こう岸で彼を出迎えては挨拶するのである。そこで母親はその幼子に出会い、そこで父親は自分の子どもたちに出会い、そこで老族長は自分の三代四代の子孫に出会い、そこで兄弟は兄弟をかきいだき、夫は妻と出会い、もはや娶ることも嫁ぐこともないながら、神の御使いのようにして永遠にともに住むのである。私たちの中のある者らは、地上よりも天国の方により多くの友人たちを有している。地上よりも栄光の方に、より多くの愛する親族がいる。私たちの中のすべての者がそうだというのではないが、ある者らはそうである。後に残された者らよりも多くの友がかの流れを渡って行ってしまったのである。しかし、たといそうでないとしても、そこではいかなる友人たちが私たちを迎えてくれることか! おゝ、私は、いま御座の前にいる輝く霊たちを見るという希望のためだけだとしても、死の日を当てにしている。アブラハム、またイサク、またヤコブの手を握り、使徒パウロの顔をのぞき込み、ペテロの手を握ること、モーセやダビデとともに花咲く野原に座り、ヨハネやマグダラのマリヤとともに至福の陽光に浴すること。おゝ、何という祝福であろう! 地上であわれな不完全な聖徒とともにいるのは、ありがたいことである。だが、贖われた人々の交わりは、いかにいやまさって素晴らしいことであろう。死は、友人たちということについては私たちにとって損ではない。私たちは少数の、僅かな人々を下界に残して行き、彼らに向かって、「小さな群れよ。恐れることはありません」[ルカ12:32]、と云っては、昇って行き、生ける神の軍勢と出会う。神に贖われた者たちの大群である。「死ぬこともまた益です」。あわれな死骸よ! お前は地上におけるお前の友人たちを失った。否。輝く霊よ。あなたは天で百倍ものものを受け取っている。

 私たちは彼が他に何を失ったと云っただろうか? 彼の地所すべてと、その財産と、その富のすべてを失ったと云った。左様。だが、彼は無限に多くのものを得たのである。たとい彼がクロイソスのような巨富の持ち主だったとしても、その富のすべてを、自分が達したものと引き替えにして良いであろう。彼は、指という指に真珠が光っていたのに、その輝きを失っているだろうか? 天国の真珠の門は、それよりもはるかに強く輝いている。彼はその倉庫に黄金を有していただろうか? よく聞くがいい。天国の大通りには黄金が敷き詰められており、彼ははるかに裕福になっているのである。贖われた人々の邸宅は、この下界で最も富裕な人々の邸宅よりもはるかに輝かしい住まいなのである。しかし、あなたがたの中の多くの人々にとってはそうではない。あなたは金持ちではなく、貧しい。ここではあなたは骨折り仕事に苦しんでいるが、彼方では永遠に安息を得るのである。ここでは額に汗して糧を稼がなくてはならないが、彼方には何の骨折り仕事もない。ここであなたは週末にくたくたになったからだを寝床に横たえ、安息日を恋い慕うが、彼方では安息日に終わりがないのである。ここであなたは神の家に行っても世の心遣いや苦しみの思いに気を散らされるが、彼方では不死の舌にて歌わる賛歌にいかなる呻きも入り混じることはない。死は、富と財産という点でもあなたにとって益となるであろう。

 そして、私たちが後に残していく恵みの手段について云うと、それらは私たちが死後に得るものとくらべたら何であろうか? おゝ、もし私が今このとき死ぬとしたら、こうしたことを云うだろうと思う。「さらばだ、安息日よ。――私は贖われた者の永遠の安息日へと行くのだ。さらばだ、教役者よ。私は何の蝋燭も、何の日光も必要とはすまい。主なる神が私に光を与え、永遠に私のいのちとなられるのだ。さらばだ、祝福された者たちの歌や十四行詩たち。さらばだ。私はお前たちの旋律的なほとばしりを必要とはすまい。私は至福の者たちがあげる永遠の、また、途切れることなきハレルヤを聞くことになるのだ。さらばだ、神の民の祈りよ。私の霊は永遠に私の主のとりなしを聞くことになり、かの気高い殉教者たちの叫びに声を合わせて云うことになるのだ。『主よ。いつまでですか』*[黙6:10]、と。さらばだ、おゝ、シオンよ! さらばだ。私の愛する建物、私のいのちの家よ! さらばだ、神の民が歌い、祈っている宮たち。さらばだ、ヤコブの天幕たち。民が日ごとにそのいけにえを焼いている場所よ!――私はお前よりもすぐれたシオン、より輝かしいエルサレム、堅い基礎の上に建てられた宮へと行くのだ。その宮を設計し建設されたのは神[ヘブ11:10]なのだ」。おゝ、私の愛する方々。こうした事がらを思うとき、私たちは、私たちの中のある者らは、死んでも良いと感じないだろうか!

   「今しもわれら 信仰によりて
    先立つ者と 手をば合わせて、
    かつまた迎えん 血注がる民を
    とわ永久(とこしえ)の 岸辺にて。

    生き給う神の ひとつの軍たる
    われらは服せり、ただその命令(げち)に、
    民の半ばは 大水(みず)渡りたり、
    半ば今しも 渡りつつあり」。

私たちはその縁にはまだ至っていないが、すぐにそこに至るであろう。じきに私たちは死の間際に行くであろう。

 さらにまた、もう1つの思想がある。私たちは、人々が死んだとき、その知識を失ったと云ったが、それを訂正する。おゝ、否。義人が死ぬとき、彼らは、地上で知ることができたものより無限に多くのことを知るのである。

   「その時われら 見て、聞き、知らん
    下界(した)でわれらの 願うすべてを
    すべての力は 甘く仕えん
    永遠(とわ)の喜び 満つるかの世で」。

「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります」[Iコリ13:12]。彼方では、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの」[Iコリ2:9]が完全に私たちに現わされるのである。彼方では、謎は解きほぐされ、神秘は平明にされ、曖昧な聖句には光が照らされ、難解な摂理は賢明なものであることが明かされるであろう。天国で最も卑しい魂も、地上の最大の聖徒にまさって神のことを知っている。地上最大の聖徒についても、こう云われて良いであろう。「それにもかかわらず、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です」*[マタ11:11]。私たちの最も優秀な神学者がいかに神学を理解していようと、それは栄光の群れの子羊たちにも劣っている。地上最大の知性の持ち主といえども、土くれから解放された魂によって発見される途方もない意味の百万分の一も理解してはいない。しかり。兄弟たち。「死ぬこともまた益」である。取り去るがいい。取り去るがいい。その棺架を。取り除くがいい。その屍衣を。さあ、その馬の頭に白い羽飾りをつけ、金箔の飾り馬具を脇に垂らすがいい。そして、葬送行進曲を甲高く奏でる、あの横笛を取り去るがいい。私に喇叭と太鼓を持たせるがいい。おゝ、ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ。なぜ私たちは泣いて聖徒を天へと送るのか? なぜ哀悼する必要があるのか? 彼らは死んではいない。先立ったのである。やめよ。やめよ。その嘆きを。あなたの涙を控えるがいい。手を打ち鳴らすがいい。打ち鳴らすがいい。

   「彼ら上なき 祝福(めぐみ)を受けぬ。
    罪も、煩労(まどい)も、苦悩(なやみ)も断ちて
    その救世主(きみ)とともに 安息(やすみ)を得たり」。

何と! 泣くだと! 泣くだと! 天国の宝冠を戴いた頭のために? 泣くだと、泣くだと、黄金の立琴を握っている手のために? 何と、泣くだと、《贖い主》を見てとっている目のために? 何と、泣くだと、罪から洗われ、永遠の至福に高鳴っている心のために? 何と、泣くだと、《救い主》のふところにいる人々のために?――否。あなた自身のために泣くがいい。自分が下界にいるがゆえに泣くがいい。あなたが死ぬように命ずる命令が来ていないことを泣くがいい。あなたがまだ留まっていなくてはならないことを泣くがいい。しかし、彼らのために泣いてはならない。私は彼らが、愛のこもった驚きをもってあなたを振り向いているのが目に見える。彼らは叫んでいる。「なぜあなたは泣いているのですか?」 何と、貧しさが富をまとったことのために泣くだと? 何と、病が永遠の健やかさを相続したために泣くだと? 何と、恥辱が栄光を着せられたために泣くだと? そして、罪深い定命の者が無垢の者となったために泣くだと? おゝ、泣いてはならない。むしろ、喜ぶがいい。「あなたがたは、わたしがあなたがたに言ったことを知っているとしたら、また、どこにわたしが行ったかを知っているとしたら、喜びに満たされるはずです。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません」*[ヨハ16:22]。「死ぬこともまた益です」。あゝ、このことによってキリスト者は死ぬことを切望させられる。――こう云わされる。

   「おゝ、かのことば 与えらるれば!
    おゝ、万軍の主は 波間を割りて
    われらすべてを 天へと至らす!」

 さて今、愛する方々。このことは、あなたがた全員に当てはまるだろうか? あなたは、このことにあずかっていると主張できるだろうか? あなたはキリストのために生きているだろうか? キリストは、あなたの中で生きておられるだろうか? というのも、もしそうでないとしたら、あなたの死は益にならないからである。あなたは《救い主》を信じているだろうか? あなたの心は新しくされ、あなたの良心はイエスの血で洗われているだろうか? そうでないとしたら、話をお聞きの方々。私はあなたのために泣くものである。私は、失われている愛する方々のために自分の涙を取っておこう。さあ私は、死んでいくはずの、自分の最も愛する方々のために、それであなたを救えるとあらば、この手巾で永遠に涙を拭っていよう。おゝ、あなたが死ぬときには、何という日であろう! たとい世界が荒布をかぶろうとも、それはあなたが感じることになる悲嘆を表わすことはできないであろう。あなたは死ぬのである。おゝ、死よ! おゝ、死よ! キリストの中にいない人々にとって、お前は何と厭わしい者であることか! だがしかし、話をお聞きの方々。あなたはじきに死ぬことになる。あなたの悲鳴の寝床や、あなたがのぞき込む胆汁や、あなたの苦々しい言葉は省かせてほしい! おゝ、あなたがそのすさまじい死後から救われることができるとしたらどんなに良いことか! おゝ、必ず来る御怒り! 必ず来る御怒り! 必ず来る御怒り! 誰がそのことを説教などできるだろうか? 恐怖という恐怖よ、咎ある魂を打つがいい! それは死の瀬戸際でふるふると震えている。否、地獄の瀬戸際でである。それは下をのぞき込み、生にしがみついている。そして、そこに聞くのは、陰鬱(くら)き呻き、虚ろな嘆き、責苦(くる)しめらるる幽鬼の悲鳴であり、それが底知れぬ穴から立ち上ってくるのである。その魂は生にしがみつき、医者にすがりつき、自分をつかんでいてくれと命ずる。その穴に転がり落ちて焼かれることになるといけないからである。そしてその霊は、下を眺めては、永遠の刑罰の悪鬼ども全員を見てとり、後ずさりする。しかし、それは死ななくてはならない。それは、一時間でも先に延ばせるなら、自分の全財産と交換しても良いと思う。だが、否。この霊は、悪鬼につかんまれており、ずぶりと沈み込まざるをえない。そして、失われた魂のぞっとするような悲鳴を誰が告げられるだろうか? それは天国に達することはできない。だが、もしそうできたとしたら、それは御使いたちの旋律を中断させると夢想しても良いであろう。神に贖われた者たちすら、断罪された魂のうめき声を聞くことができたとしたら、泣かされるであろう。あゝ! 方々。あなたは泣いてきた。だが、もしあなたが新生しないまま死ぬとしたら、そのような涙はどこにもなく、そのような悲鳴はどこにもなく、そのような呻き声はどこにもないであろう。願わくは神が私たちを、それを聞くことから、あるいはそれを自ら発することから救い出してくださるように! おゝ、失われた魂がその穴に落ちて行く間に発する呻き声が、立ち上る火焔の中から聞こえてくるとき、いかにハデスの陰惨な洞窟はぎょっと飛び上がることであろう。いかに夜の闇は恐慌をきたすことであろう。「悔い改めよ。立ち返れ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。イスラエルの家よ」*[エゼ33:11]。キリストはあなたに説教しておられる。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」[Iテモ1:15]。キリストを信じて生きるがいい。あなたがた、咎あり、よこしまで、滅びつつある人たち。信じて生きるがいい。しかし、このことは知っておくがいい。――もしあなたがたが私の使信を拒絶し、私の《主人》を蔑むとしたら、神が、お立てになったひとりの人、すなわち、イエス・キリストにより義をもってこの世界を審く日には[使17:31]、私は真っ先にあなたを非難する証人とならなくてはならない。私はあなたに告げておいた。――それを拒絶するなら、あなたの魂に危険が及ぶことを覚悟するがいい。私の使信を受け入れるならば、あなたは救われる。拒絶するなら、――その責任はあなた自身の頭で負うがいい。見よ。私のすそにあなたの血の責任はついていない。もしあなたがたが罪に定められるとしたら、それは警告されなかったためではない。おゝ、願わくは神が、あなたがたが滅びないようにしてくださるように。

  

 

善良な人の生と死[了]

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