HOME | TOP | 目次

死人の中から生き返った説教者

NO. 143

----

----

1857年7月26日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」。――ルカ16:31


 人は、自分を悪く考えることを極度に嫌う。人類の大多数は、やたらと罪の云い訳をこねくり回すものである。彼らは云う。「もし時代がもっと良かったなら、われわれも、もっとまともな生き方をしているのだが。もしわれわれが、もっと幸先の良い所に生まれていたとしたら、もっと聖くなれただろうに。また、もっと恵まれた環境に置かれていたなら、もっと正しいことを心がけていただろうに」。多くの人は、自分たちの罪の原因を探ろうとするとき、正しい所ではなく、どこか他の場所に目を向ける。彼らは、自分の性質の非をとがめようとはしない。自分の腐敗した心を非難しようとはせず、何か他のもののせいにしようとする。ある人々は、自分の独特の立場に文句をつける。「私だって、貧乏人でなく金持ちに生まれてたら、律儀に暮らしていたでしょうよ」。別の人は云う。「あるいは、もし私が金持ちでなく中流階級に生まれていたとしたら、今の私がさらされているような誘惑や、情欲や、高慢にさらされてはいなかったでしょうに。ですが私の立場そのものが敬神の心とは相反していて、私は、自分が社会で占めている地位からして、真にあるべき生き方がどうしてもできないのです」。他の人々は、くるりと向きを変えては、社会全体に難癖をつける。社会という組織体すべてが間違っているという。彼らによると、政府のすべて、国家に関わるすべて、人々を社会に溶け込ませているものすべては、ことごとく悪であって、物事が今のようであり続ける限り、善人になることはできない。だから革命を起こさなくてはならない。あらゆるものを転覆しなくてはならない。そうすれば自分たちは聖人になれるのだという! 逆に多くの人々は、自分たちの教育に責任を転嫁する。もしも親からあんな教育を受けなかったとしたら、もしも若い頃から悪にさらされなかったとしたら、今のような自分にはならなかっただろうに。それは自分たちの両親の責任なのだ。父、あるいは母のせいなのだ。あるいは、自分たちの体質のせいなのだ。彼ら本人の言葉を聞くがいい。「もし私がこれこれの気質をしていたとしたら、どれほど善人になっていたことでしょう! ですが、これほど意にまかせない性質をしていては、とても無理です。お話をしてくださるのは非常にありがたく思いますが、人にはそれぞれ気立ての違いというものがあります。そして私の気立てでは、どうしても真剣な性格になれないのです」。それで彼らは責任を自分の体質に転嫁するのである。他の人々は、それよりもさらに過激になり、牧会者の働きに責任を転嫁する。「もしも」、と彼らは云う。「以前に接していた教役者がもっと熱心に説教していたとしたら、私ももっとましな人間になっていたでしょうに。もしも私が、もっと健全な教理を聞ける教会に出席し、もっと忠実に宣べ伝えられたみことばを聞く特権があったとしたら、今よりまともになっていたはずですのに」。さもないと彼らは、キリスト教信仰を告白する人々のせいにして、こう云う。「もしも教会にずっと裏表がないとしたら、もしも偽善者だの形式尊重主義者だのがひとりもいないとしたら、私たちも行ないを改めるのに!」 あゝ! 方々。あなたは真に責めるべき人を責めてはいない。間違った人に責任を負わせている。咎むべきはあなたの心であって、他の何物でもない。もしあなたの心が新しくされたなら、あなたはより良くなるであろう。だが、それがなされるまでは、たとい社会が完璧に改革され、教役者たちが御使いとなり、キリスト教信仰を告白する人々が熾天使となったとしても、あなたはこれっぽっちも良くはならないであろう。むしろ、自分の罪のための云い訳が少なくなった分だけ、倍増しで咎ある者となり、ずっと凄まじい破滅を迎えることであろう。しかしそれでも人は、年がら年中こうしたことを云い立てて、もし物事が違っていさえしたら自分も違った者となるのだが、と云う。だが彼ら自身の中に違いが作り出されない限り、彼らが正道を歩き出すことはありえない。

 人間の思い浮かべる気まぐれには切りがないが、本日の聖句にあるようなものも、時たま立ち起こることがある。「もしも」、と地獄に堕ちたこの金持ちは云った。「もしも誰かが死人の中から生き返るとしたら、もしもラザロが天国から出て来て説教するとしたら、心かたくなな私の兄弟たちも悔い改めることでしょう」。そのように、ある人々はややもすればこう云いがちである。「もしも私の年老いた父が、あるいは、どこかの尊ぶべき古老が死人の中から生き返って説教するとしたら、私たちもみな神に立ち返るはずです」、と。これもまた、見当違いな方向に責任を負わせようとする方法の1つである。私たちは今朝、このような仮定を、可能な限り論破するように努め、力の限りを尽くしてこの聖句の教理を確言したいと思う。すなわち、「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」、と。では、この主題の吟味に入っていこう。

 かりにある説教者が、死後の世界からやって来て私たちに説教するとしたら、私たちは素直に、彼は天国からやって来たのだ、と思うに違いない。この金持ちでさえ、自分や、苦悶を受けている自分の仲間の誰かれが地獄から出て行って説教することを願いはしなかった。失われて、言葉につくせぬ悲惨へと引き渡されている霊たちが、この地上を訪れることなどありえなかった。たとい訪れたとしても、真理を宣べ伝えるはずがなかった。また、彼ら自身が辿りもしなかった天国への道に私たちを導くことなどありえなかった。地獄に墜ちた霊が地上に出現するとしたら、それは呪いとなり、葉枯れ病となり、しなびさせる瘴気となるであろう。私たちは、そうしたことが起こったことがあるとか、起こりえるだろうと想定する必要はない。もしも、死後の世界から説教者がやって来ることがありえるとしたら、天国からやって来るしかない。彼は、アブラハムのふところにいたラザロでなくてはならない。きよく、完璧で、聖なる存在でなくてはならない。さて、そのような者が地上に降ってきたとしばし想像してみるがいい。かりに私たちが明日、突如としてこう知らされたとする。――すでに埋葬されて久しい、ひとりの尊ぶべき聖者が突然その屍衣を引きちぎり、その棺桶の蓋を持ち上げて、今やいのちのことばを宣べ伝えているのだ、と。おゝ! いかに人々は殺到して、彼が説教するのを聞こうとするであろう! この広大な世界のどこに、彼の膨大な会衆を詰め込めるだけの広さの場所があるだろう! あなたも、いかに息せき切って彼の話を聞きに駆けつけることか! いかに何万枚もの彼の肖像写真が――死体を包むぞっとするような布でぐるぐる巻きにされた姿か、天国からすっくと降り立った御使いの姿で――公表されることか。おゝ! いかにこの町が、またこの町のみならず、いかに国中が騒然とすることか! 遠い世界の国々もすぐにこの知らせを耳にするであろう。あらゆる船が乗客を満載し、この驚くべき説教者――かの未知の国へと旅立ちて戻り来たる者――の話を聞きに来る人々を連れ来たるであろう。また、いかにあなたはその話を聞くだろうか? いかにあなたは、この世のものとも思えないその光景を厳粛に凝視することだろう! また、いかにあなたの耳は彼の語るすべての言葉を傾聴することだろう! 彼の言葉の端々さえも聞き逃されず、世界中の至る所で公表されるであろう。――死んだ後に生き返った男の言葉として。そして私たちは、もしそのようなことが起こるとしたら、無数の回心が起こるであろう、と簡単に考えてしまう。というのも、確かにこのように惹きつけられた会衆は途方もなく祝福されるであろうからである。多くのかたくなな罪人たちが悔い改めへと導かれるであろう。ためらいを感じている多くの人々が決心させられ、大きな善が施されるであろう。あゝ! だが待て。たといこの夢物語の前半部分が起こるとしても、後半部分は生じないであろう。たとい誰かが死人の中から生き返ったとしても、罪人たちは彼の説教によって、他の人の説教による以上には悔い改めないであろう。神は、みこころであれば、そうした説教をも救いのために祝福してくださることがありえるが、それ自体としては、死装束を着た死人の説教にも、栄化された霊の説教にも、今日のか弱い人の説教以上の力はないであろう。「たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは悔い改めない」*。

 だがしかし、多くの人々は、ある聖徒が復活するなら、そして自分の見聞きしたことを証しするなら、数々の利点が生じるものと考えるであろう。さて、そうした利点とは、私が思うに、たった3つしかありえない。ある人は云うであろう。そこにはそうした人が聖書の真理に添えることのできる証拠の力があるはずだ、と。というのも、あなたはこう云うであろうからである。「もしある人が、本当に真珠の門を構えたエルサレムの都――祝福された者たちの家――からやって来たとしたら、そのときには、啓示の真実性についてのいかなる議論ももはやなくなるであろう。それは決着がつくであろう」。ある人はこう考えるであろう。その人は私たちに、モーセや預言者たちが告げたよりも多くのことを私たちに告げることができ、その人が授けることのできる教えという利点があるであろう。そして第三に、こう考える人もいるであろう。そのような人の語る語り口から得られる利点があるであろう。「というのも、確かに」、と彼らは云うであろう。「その人は大いなる雄弁をもって語り、死後の世界の荘厳さを一度も見たことのない、いかなる並みの説教者よりもはるかに力強く、はるかに深い感慨をこめて語るであろうからだ」。さて、こうした3つの点の1つ1つについて考察してみれば、それらに決着がつくと思う。

 I. 第一に、もしある人が死人の中から生き返って説教するとしたら、そこには《福音の真理の確証》があるであろう、と考えられている。そうした証言がなされれば、あざけり笑う不信心も、肝を潰して二の句が継げなくなるであろう、と。だが待て。本当にそうかどうか、よく考えてみよう。私たちはそうは思わない。私たちの信ずるところ、ひとりの死人がきょう復活して、この音楽堂に入ってきて説教するとしても、それは、この場にいるいかなる人にとっても、すでに福音を信じているのでない限り、何の確証にもならないであろう。

 愛する方々。もしも死人の中から生き返らされたひとりの人の証言が、福音を確証する価値を何か有しているとしたら、今よりも前に神はそれを用いようとなさったのではないだろうか? これが私の第一の論拠である。ある人々が死人の中から生き返ったことは疑いもなく真実である。聖書の中には、ある人々がキリスト・イエスの力によって、あるいは預言者たちという媒介を通して、死人の中から生き返らされたことが何度か記されている。だが、あなたがたはこの顕著な事実に注目するであろう。彼らの中には、その語った言葉を記録された者がひとりもいないのである。自分たちが死んでいた間に見たことについて、一言も私たちに告げていないのである。私は、彼らが死んでいた間に、彼らの魂が眠っていたのか天国にいたのかという議論に入り込むつもりはない。それは無益な議論となり、ただ云い争いを生じさせるだけで、何の実りもないであろう。私が云いたいことは、ただ1つである。顕著なことに、彼らのうちの誰ひとりとして、自分が死んでいた間に見たことを叙述したとは記されていないのである。おゝ、墓の中に四日もおさめられていた人が、いかなる秘密を証しできたことか! あなたがたは、彼の姉妹たちが彼に質問したとは思わないだろうか? 彼女たちが彼に何を見たのか聞いたとは考えられないだろうか?――彼が神の燃える御座の前に立っていたのか、また、その肉体にあってした行為のゆえに審かれたのか、また、彼が安息に入ったのかどうかを。しかし、彼女たちが質問したかどうかに関わりなく、確かに彼は何も答えなかったに違いない。というのも、彼が答えていたとしたら、今の私たちはそれを知っていたはずである。伝承がその記録を大切に伝えたであろう。また、覚えているだろうか? パウロがかつて長い説教をし、それが真夜中にまで及んだとき、その三階にユテコというひとりの青年がいた。彼は眠り込んで転落し、抱き起こしてみると、もう死んでいた[使20:9]。パウロが降りて来て祈ると、ユテコはいのちを取り戻した。しかし、死人の中から生き返った後のユテコは起き上がって説教しただろうか? 否。そのようなことは、その集会の誰の頭にも思い浮かばなかったように思われる。パウロは自分の説教を続け、彼らは座って彼の話を聞き、ユテコが見たことなどには鼻もひっかけなかった。というのもユテコには、パウロが彼らに告げること以上に、何も告げられるものがなかったからである。もう一度主張するが、天来の力によって、いかなる人が死の影の下から引き戻されようとも、何の秘密も告げられはしなかった。いかなる人であれ、ただの1つの神秘をも解明しなかった。もし神が、復活した人々は沈黙するようにお決めになったとしたら、それが最善のことだったのである。彼らの証言は私たちにとってほとんど何の価値もなく、ほとんど助けにならなかったのであろう。さもなければ、その証言はなされていたであろう。

 しかしまた、このことも私たちの頭にたちまち浮かぶであろうと思う。たといこの現代に、ある人がその墓から生き返って、この場に来て福音の真理を証しするとしても、不信心な世が今以上に信仰に近づくことはないであろう。ここに、不信心な批判屋がやって来る。彼は聖書の種々の証拠を否定している。それは、その真正さを明確に証明している証拠であって、私たちはそれを否定するという人を冒涜者であるか、良識がない人であると信じざるをえない。そのどちらを選ぶかは、その人におまかせしよう。しかし、彼は聖書の真理をあえて否定し、立証されているあらゆる奇跡が虚偽でありいかさまであると云おうとするのである。あなたは、死人の中から生き返った人が、このような人を納得させ、信じさせると思うだろうか? 何と? 神の被造世界全体が科学の手によってくまなく探し回られても、啓示の真実性を証言するばかりだというのに、――発掘された都市や過去の国々の歴史全体が、聖書は真実であったとの真理を宣布しているというとき、――はるか遠い東方の国々の土地一片一片が、聖書の数々の預言の講解となり確証となっているというとき、それでも人々がまだ納得させられていないとしたら、あなたがたは、ひとりの人が墓からよみがえったくらいで彼らを納得させると思うだろうか? 否。私は、批判的な冒涜者がすでに自分のえじきのために武装を固めている姿が目に見える。彼に聞くがいい。「私はあなたが死んでいたかどうか、あやふやだと思います。あなたは自分が死人の中から生き返ったと告白しますが、私はあなたを信じません。あなたは死んで天国に行ったと云います。残念ですが、あなたは恍惚状態にあったのです。あなたは教区記録からあなたが死んでいたという証拠書類を持ってこなくてはなりません」。その、彼が死んでいたという証拠書類が持って来られる。「よろしい。今度はあなたが埋葬されたことを証明しなくてはなりません」。彼が埋葬されたことが証明され、そして昔の時代の寺男が彼の干からびた骨をかかえて、彼の遺灰を宙に投げたことが証明される。「それはたいへん結構。さていま私が求めたいのは、あなたが埋葬されたのと同一人物であるという証明です」。「よろしい。私がそうです。私は私がそうだと知っています。私は正直な人間としてあなたに云います。私は天国に行って、もう一度戻って来たのです」。「よろしい。ならば」、とこの不信心者は云う。「これは理性と合致していません。死んで埋葬された人が生き返ることがありえるなどと考えるのは馬鹿げています。だから私はあなたを信じません。私はあなたに面と向かってはっきりそう云います」。そうしたしかたで人々は彼に答えるであろう。そして人々は、多くの奇跡を否定する罪を有するだけでなく、もう1つの奇跡を否定する咎をもそれに加えざるをえないであろう。だが彼らは、十分の一吋も納得に近づきはしないであろう。そして確かに、もしその驚異が行なわれたのが、どこかのはるか遠い国のことで、世界の他の国々に報じられただけだったとしたら、私は不信心の全世界がこう叫ぶのを想像できる。「そうした魯鈍で幼稚な話や、云い伝えの類は、どこにでもあるものだ。だが、私たちには分別がある。私たちは信じはしない」。ある教会墓地に葬られている人々全員がいきなりいのちを吹き返し、キリスト教の真実性を否定する不信心者の前に勢揃いしたとしても、私は宣言するが、その人を納得させるだけの証拠は、世界のどの教会墓地にもあるとは思えない。不信心はなおも、より多くのものを求めるであろう。それは蛭にも似て、「くれろ、くれろ!」、と叫ぶ[箴30:15]。ある点を不信心者に証明すると、彼はそれがもう一度証明されることを求める。それを多くの証人によって真昼のように明確にしても、それでも彼は信じない。事実、彼はそれを信じているが、信じていないふりをしているのである。自分を偽って不信心者となっているのである。しかし、確かに死人がよみがえることは、そうした人々を納得させるためにはほとんど価値がないであろう。

 しかし、思い出すがいい。愛する方々。不信者の中で最も数多い種別は、決して考えることを全くしない一団の人々なのである。この国のおびただしい数の人々は、食べたり飲んだり、あらゆることをしながらも、考えることだけはしない。せいぜい、自分の店の鎧戸を朝には下げて、夜には上げること程度しか考えない。彼らは、資金や金利の増減、あるいは品物の売れ行き、あるいはパンの価格などといったことくらいは多少考えることをする。だが彼らに頭脳が与えられているのは、パンや乾酪について思い巡らすこと以外のためでは全くないように見受けられる。彼らにとってキリスト教信仰は非常に小さな関心事である。彼らは聖書がまぎれもなく真実であるとさえ云う。キリスト教信仰はことごとく正しいとまで云う。だが、それは彼らをあまり真剣に悩ませるものではない。彼らは自分がキリスト者だと思っている。彼らは赤子だった時に洗礼を施されたではないだろうか? 彼らはキリスト者であるに違いない。――少なくとも彼らはそう考えている。だが、彼らは決してキリスト教信仰がいかなるものか真剣に探求することをしない。彼らも時々は教会や会堂やその他の場所に行くが、それは彼らにとって大したことを意味しない。ある教役者は別の教役者と矛盾しているかもしれないが、彼らには区別がつかない。ふたりとも正しいのだ、などとさえ云う。ある教役者は別の教役者と、ほとんどあらゆる教理において衝突しているかもしれない。だがそれは大したことではなく、彼らは次のような奇天烈な考えによってキリスト教信仰を無視する。――「《全能の神》は、われわれがどこに行ったかなど、問い質しはしないと私は云うね」。彼らは自分の判断力を全く働かせない。考えることは彼らにとって困難すぎる務めであるため、彼らは決してわざわざそれに頓着しようとはしない。さて、もし人が明日死人の中から生き返ったとしても、こうした人々は決して仰天したりしないであろう。しかり。しかり。彼らは一度は出かけて彼を見に行くであろう。それは彼らが、生きた骸骨だの、《親指トム》だのといった他の珍奇なものを見に行くのと全く変わらない。彼らは彼について大いに語りぐさにし、「死人の中から生き返った人がいるんだとさ」、と云うであろう。そして、ことによると、ある冬の夜には、彼の説教の1つを読むこともあるかもしれない。だが彼らは決して彼の証言に何か価値があるかないかを考えるために力を尽くしはしないであろう。しかり。彼らは鈍物すぎて、決して心動かされることがありえないであろう。そして、たといその亡霊が彼らの家のいずれかに来たとしても、彼らはせいぜい、もの凄い恐れを感じる程度であろう。だが、彼が何を口にしようと、それについて彼らは決してその鈍い脳味噌を働かせず、決してその石のような感覚を動かさないであろう。確かにある人が死人の中から生き返るとしても、こうした人々の大多数は決して何の影響も受けないであろう。

 また、それだけでなく、愛する方々。もし人が神の証言を信じようとしないとしたら、人の証言を信ずることなど不可能である。もしシナイの山頂から響いた神の御声が、また律法の書の中のモーセによる御声が、もし旧約聖書における種々の預言者による御声が、そして、特に福音によって不滅を明らかに示された[IIテモ1:10]神ご自身の御子によるみことばが、人々を納得させられないとしたら、それ自体でそのことを成し遂げられるものは、世界に何1つないであろう。しかり。もし神がいったん語られても人が神を認めないとしたら、私たちが何度説教しようと顧みられなくて当然である。また私たちは、誰かが死人の中から生き返ったとしたら、神のことばにまさって大きな説得力を有するだろうなどという考えをいだくべきではない。この聖書でさえ、御霊を抜きにして単独ではあなたを回心させるのに十分でないとしたら(そして確かにそれは十分ではないが)、御霊の影響力を抜きにして、それを成し遂げられるものは世界に何1つない。また、もし神がこのほむべき書においてご自分の御子イエス・キリストによって与えておられる啓示が――もし聖書が――、神の御手の中にない場合、キリストを信ずる信仰へとあなたを導くのに十分でないとしたら、たとい天の御使いが、また、栄光の聖徒たちが、また、神ご自身が地上に降ってきてあなたに説教しようと、あなたは平然と、祝福されないまま進み続けるであろう。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」。これが第一の点である。

 II. しかしながら、こうも想像されている。すなわち、もしもかの「全うされた義人たちの霊」[ヘブ12:23]のひとりが地上にやって来るとしたら、たとい懐疑家たちの精神に向かって最高に満足の行く証言を行なわなくとも、その人は天国に関する情報をふんだんに示せるであろう、と。「確かに」、とある人々は云う。「もしラザロがアブラハムのふところからやって来ていたとしたら、彼は私たちの髪の毛が逆立つような話を明かすことができたであろう。あの金持ちの責め苦について語るであろう。確かに彼は、もし彼が至福の門から眺めたことがあったとしたら、尽きることのないうじと、決して消えない火[マコ9:48]のことを私たちに告げていたであろう。何らかのぞっとするような詳細、何らかの戦慄すべき恐怖と恐れの言葉を彼は口にしていたであろう。それによって、私たちには、失われた人々の将来の状態について、今よりもずっと多くのことが説明されていたであろう」、と。「そして」、とこの信仰者は目を輝かせて云うであろう。「もし彼が地上にやって来ていたとしたら、彼は私たちに聖徒の永遠の安息について告げていたであろう。彼は私たちに、主なる神がその永遠のあかりであり、街路は純金、門は真珠造りの、かの栄光に富む都を描き出していたであろう。おゝ! いかに甘やかに彼はキリストの御胸について、また、ほむべき者らの至福について歌っていたことか。彼がいたのは、

   『永久(とわ)の時代(とき)経る、上つかた、
    堅き歓喜(よろこ)び つゆ絶えず
    不死の実の宴 霊をもてなす』」

場所である。確かに彼は、そのエシュコルの葡萄を一房かかえて降ってきたであろう。私たちの心を勇気づけ、天国への競走を走る力づけとなり、元気づけとなるような、天の秘密を何か告げることができたであろう」。だが待て。それもまた夢である。天から降ってくる義人の霊は、私たちがすでに知ってること以上に私たちに役立つようなことを告げられないであろう。天から来たその霊は、私たちがすでに知っている以上に、いかなることを地獄の苦痛について告げられただろうか? 聖書は十分はっきりしていないだろうか? キリストの口は凄まじく火の池について描写しなかっただろうか? 主は――人々の上に立つ主でさえも――恐るべき言葉遣いで私たちにこう告げなかっただろうか? 最後には神は、「のろわれた者ども。悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」*[マタ25:41]、と仰せになる、と。あなたは、これ以上に戦慄させられる言葉が必要なのだろうか? 「尽きることのないうじ、消えない火」*[マコ9:48]。あなたには、こうしたものよりも恐ろしい警告が必要なのだろうか?――「悪者どもは地獄に投げ込まれる。神を忘れたあらゆる国々も」*[詩9:17]。あなたには、こうしたものよりも恐るべきものが必要なのだろうか?――「私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう」[イザ33:14]。何と! あなたは、この神のことばよりも完全な宣言を欲するのだろうか? 「すでにトフェテも整えられ、特に王のために備えられているからだ。それは深く、広くされてあり、そこには火とたきぎとが多く積んである。主の息は硫黄の流れのように、それを燃やす」[イザ30:33]。聖書が示している以上のことが必要となることはありえない。それは、あなたがそこから逃げだそう、逃れようとするほどである。あなたはこの本が、あまりにもぞっとさせられるものだ、あまりにも断罪と地獄のことを告げるものだと云う。方々。もしあなたが、聖書にはそうしたことが多すぎる、それゆえ、それを退けると考えるのであれば、それ以上のことを告げる人の話を一瞬でも我慢できるだろうか? 否。あなたがたはそれよりも多くを知りたいと願ってはいないし、願ったとしても、それは何の役にも立たないであろう。あなたは、私たちひとりひとりが近づきつつある審判について、かの怒りの日について、もっと詳細を必要としているのだろうか? あなたはこう告げられていないだろうか? 王は「その栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け……ます」[マタ25:31-32]、と。かりに、この場に、その大いなる裁判が厳粛に開廷する模様を見たことのある人がいたとしよう。――その御座が据えられる所に立ち、私たちよりも透徹した目で未来を観じてきた者がいたとしよう。だが、それが私たちにとって何になるだろうか? その人は私たちに聖書がいま私たちに告げていること以上の何かを告げられるだろうか?――少なくとも、聖書よりも有益なことを告げられるだろうか? ことによると、その人は私たち程度のことしか知っていないかもしれない。だが私は、1つのことだけは確実に知っている。それはその人が、いま私たちが知っていること以上に、その審きの支配について告げることはない、ということである。あの世から戻って来た《霊》よ。私に告げてほしい。人々はいかにして審かれるのか? なぜ彼らは罪に定められるのか? なぜ彼らは救われるのか? 私はその人がこう云うのを聞く。「人々は罪ゆえに断罪されます。モーセの十戒を読んでください。そうすれば、人々が永遠に断ち切られるもととなる、十の大いなる宣告理由を見いだすでしょう」。輝かしい霊よ、それは先から私が知っていたことだ。あなたは私に何も告げていない! 「しかり」、とその人は云うであろう。「そして、私には何も告げることができません」。「おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが病気のときや牢にいたときに訪ねてもくれなかった。それゆえ、のろわれた者ども。離れ去れ!」[マタ25:41-43参照] 「何と、《霊》よ。それが《王》の言葉だったというのか?」 「そうです」、とその人は云う。「私はそれも聖書で読んでいた。あなたは私にそれ以上何も告げていない」。もしあなたが聖書を読むことで善悪の区別がつかないというなら、ある霊があなたに告げてもその区別をつけられないであろう。もしあなたが聖書そのものから地獄への路、天国への路が分からないとしたら、何をしても決してそれが分からないであろう。いかなる本もこれほど明瞭ではなく、いなかる啓示もこれほど明確ではなく、いかなる証言もこれほど平易ではない。そして、御霊の活動がない限りこうした証言が救いには不十分である以上、これ以上のいかなる申し立ても役には立たないことになる。ある霊が、この2つの偉大な真理の明確な宣言以上の何を私たちに告げられるだろうか?――「イスラエルよ。あなたは自らを滅ぼした。だが、わたしのうちには、あなたの助けが見いだされる!」[ホセ13:9 <英欽定訳>]
 愛する方々。私たちは再び厳粛に云うが、聖書はあまりにも完璧、あまりにも完全であるため、未来の状態に関するいかなる申し立ての補完も必要とすることがありえない。あなたが未来に関して知るべきすべては、聖書から知ることができる。ヤングとともにこう云うことは正しくない。――

   「望みと恐れ われに起こりて
    人生(かなた)の縁(へり)越え 見下ろせり。
    何があらん? 底なき深淵(ふち)と
    凄まじ永遠(はて)なり」。

それが私たちの知るすべてであるかのように云っては正しくない。神はほむべきかな。聖徒は底なき深淵を見下ろしているのではない。天にある、「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んで」いるのである。「その都を設計し建設されたのは神です」[ヘブ11:10]。悪人でさえ、未知の深淵を見下ろしているのではない。というのも、彼らにそれは明白に啓示されているからである。確かに失われた者らの受ける苦悶は、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの」[Iコリ2:9]ではあるが、聖書はそれらについて、地図に明記された道路のように十分私たちに告げており、彼らが死と地獄と恐怖に出会うとき、それは決して新奇なことではないのである。彼らはそれについて以前に聞いたことがあり、彼らにはっきり啓示されていたからである。何かの役に立つようなことを、私たちは今以上に何1つ知ることはできないであろう。金棒引きだの、野次馬だのといった人々は、そうした人によって大いに楽しまされるであろう。あゝ! もしそうした人をはるか天国からやって来させて、そのすべての秘密を告げさせることができたとしたら、それは彼らにとっていかに大切な説教者となることであろう! おゝ! いかに彼らは彼を愛することであろう!――いかに彼を好むことであろう! 「だって」、と彼らは云うであろう。「あいつは、他のだれよりもたくさんのことを知っているんだぜ。聖書に書いてあることよりもずっと多くのことをさ。細々としたことを、いくらでも知ってるんだ。それを説明してもらえるなんて素晴らしいじゃないか!」 しかし、事はそこで終わってしまう。それは単に好奇心を満足させることにしかならない。祝福が授けられることは全くない。というのも、もし未来の状態について多くを知ることが私たちにとって祝福となるとしたら、神はそれを差し止めようとはなさらないであろうからである。これ以上は何1つ私たちに告げられることはありえない。――もしあなたが知っていることがあなたを納得させないとしたら、「たといだれかが死人の中から生き返っても、あなたは聞き入れはしない」。

 III. だが、ある人は云うであろう。《確かに、内容という点では何の益もなくとも、容態という点では益があるであろう》。おゝ、もしそのような霊が天空から降ってきたとしたら、いかにその人は説教することか! いかに玄妙な雄弁が彼の口から流れて来ることか! いかに荘厳な言葉を彼は語ることか! いかに力強く自分の聞き手を感動させることか! 何と驚異的な言葉を彼は発することか! いかなる言葉によって彼は人を飛び上がらせ、その戦慄させる影響力によって私たちを身震いさせることか。そのような説教者には何の鈍重さもなく、その話を聞くのに疲れることは決してないであろう。その人にはいかなる情愛の欠落もなく、真剣さの欠落もないに違いない。私たちは彼の話を毎日でも喜んで聞き、彼の信じられないような話には決して飽きが来ないであろう。そのような説教者の話を、この地上は決して聞いたことがない。おゝ! もし彼が来てくれさえしたら! いかにわれわれは聞くことか!」――だが待て! それもまた夢なのである。

 私の確かに信ずるところ、アブラハムのふところから来たラザロは、たとい死んだことが一度もなくとも祭壇の上からの燃えさかる炭で唇を触れてもらった人[イザ6:6-7]ほどすぐれた説教者には決してならないであろう。すぐれた説教者となるどころか、そこそこに優秀な説教者になるとさえ思えない。死後の世界からやって来た霊は、モーセや預言者たちが語ったよりも厳粛に話をすることができるだろうか? あるいは、すでにあなたが何度も聞いたことがある言葉よりも厳粛に語ることができるだろうか? おゝ、方々。あなたがたの中のある人々は、死のように厳粛で、墓のように真剣な説教を聞いたことがある。私はあなたがたの中のある人々に思い起こさせることができはずである。あなたがみことばの響きの下で、驚異の念に打たれつつ、ずっと身震いしつつ座っていたときのことを。それはあたかも、教役者が自ら弓矢を取り、あなたの良心を的として、次々とその矢軸を浴びせているかのようであった。あなたは自分がどこにいるかも分からなくなった。あなたは膝をがくがく鳴らし、目から涙を流しながら、極度の恐れに震え上がり、怯えに打たれていた。それ以上に何をあなたは欲するのだろうか? もし、いずれかの強大な説教者が、ある時点において神に鼓舞されて語った厳粛な説教が、――もしそれがあなたを救わなかったとしたら、御霊の影響を離れて何があなたを救えるだろうか? そして、おゝ! あなたはそれよりもずっと厳粛な説教を聞いたことがある。あなたにはかつて小さな娘がいた。その子は《日曜学校》に通っていた。ある日、帰ってくると、瀕死の重病になった。あなたは夜も昼も看病したが、熱が高まるばかりだった。そしてあなたは、その子が死にかけていることを悟った。あなたはまだ忘れてはいないはずである。あなたの小さな娘のメアリーが、いかに厳粛きわまりない説教をあなたに語ったかを。世を去る前に彼女はその小さな手であなたの手を取り、こう云ったのである。「父さん。あたしは天国に行くわ。父さんも後から来る?」 それは、あなたにとって厳粛な説教であった。屍衣を着せられた死人が、それ以上にいかなることを語れただろうか? あなたがたはまだ忘れてはいないはずである。臨終を迎えたあなたの父上が――(聖い神の人として生きてきた、また、自分の《主人》によく仕えてきた父上が)――あなたとあなたの兄弟姉妹に枕頭を囲まれながら、あなたがたひとりひとりに語りかけたときのことを。婦人よ! あなたはまだ忘れてはいないはずである。それ以後のあなたがいかなる罪と邪悪さに落ち込んでいるとしても、いかに父上があなたを正面から見据えて、こう云ったかを。「娘よ。お前は生まれなかった方が良かったのだ。キリストを蔑み、その御救いを無視するくらいならば」。また、あなたは忘れていないはずである。いかに父上が、その目に厳粛な涙をためたまま、あなたを見てこう云ったかを。「子どもたち。わしは、お前たちに命ずる。死にかけて、永遠にかけて、命ずる。もし自分の魂を大切に思うとしたら、キリストの福音をあなどってはならん。馬鹿な考えは捨てて、神に立ち返り、生きてくれ」。それよりもすぐれた、いかなる説教者をあなたは欲するというのか? 幽明境を異にする間際の、あなた自身の親御の声より厳粛な言葉があるだろうか? また、あなたはまだ、もう1つの厳粛な光景の影響から、すっぱりと逃れてはいないはずである。あなたには友人がいた。友人と呼んでいた者がいた。彼は反逆する者であった。罪の中に生き、臆することなく、傲然と神に逆らっていた。あなたは彼の臨終の床を覚えているであろう。彼らが死のそばに横たわっていたとき、恐怖が彼をつかんだときのことを。地獄の火焔が、完全に世を去る前から彼を捕え始めたのである。あなたはまだ彼の悲鳴と金切り声を忘れてはいない。あなたの夢の中に出て来るその光景を完全に消し去ってはいない。苦悶のあまり、ほとんどぞろりとはがれてしまったあの指の爪を、また陰惨に引き歪み、愕然とした面持ちでひくついているあの顔を。あなたはまだ、完全には逃れきっていないはずである。その霊が暗黒の領域に入り、生者の国を捨て去ったときにあげた、身の毛もよだつ叫び声を。それ以上にいかなる説教者をあなたは欲するのか? あなたはこうした説教を聞いたというのに、なおも悔い改めなかったのだろうか? ならば、まことに、もしもこうしたことすべての後でもあなたがかたくなになっているとしたら、誰かが死人の中から生き返っても、あなたが納得することはないであろう。

 あゝ! だがあなたは云うであろう。あなたは、もっと情感を込めてあなたに説教してくれる誰かを欲しているのだ、と。ならば、方々。あなたは、自分が願っている説教者のうちに、そのような者を得ることはできない。天国から来た霊は、情感のこもった説教者ではありえないであろう。――アブラハムのふところにいたラザロにとって、情緒をもってあなたに説教することは不可能であろう。完璧な者として彼は、もちろんこの上もなく幸福である。今朝、一個の至高に幸福な存在が、悔い改めと神の御怒りについてあなたに説教していると想像してみるがいい。あなたには彼が見えないだろうか? 彼の眉宇には穏やかな微笑みがただよっている。天国の光が彼の顔を輝かせている。彼は地獄の苦悶について語っている。それは吐息と呻きの場所である。だが彼は吐息をつくことができず、彼の顔はそれまでと変わらず平穏である。彼は悪人の苦悶について語っている。それは涙すべきときであった。彼には泣くことができない。それは至福の状態とは両立しえないのである。その人は、おぞましい事がらを、微笑みながら語っている。彼の額には夏が照っており、彼の唇には冬が凍てついている。――天国が彼の目にはあり、地獄が彼の口にはある。あなたはそのような説教者に我慢ができないであろう。馬鹿にされているように思われるであろう。左様。あなたがたのような人間に説教するには、感情を有する人間が必要である。求められる人は、キリストを説教するときには愛とともに聴衆に微笑みかけるが、――恐怖について告げるときには、自分自身の霊においておじけを感じつつ、神の御怒りについて口にする人である。説教の大いなる力は、神の御霊の力に次ぐものとして、説教者がそれを感ずることに存している。私たちは、自分の説教において大きな善を施したければ、自分の口にすることを感ずるしかない。「私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです」[IIコリ5:11]。さて、天から来た栄化された霊は、こうした事がらを感じることができない。彼はほとんど情緒を示すことができない。確かに彼は、天国の栄光について語ることはできるであろう。また、その上つ世界の驚異について語る際の彼の顔が、いかにいやまして輝かしく、輝かしく、輝かしくなることであろう! しかし、彼が、「必ず来る御怒りをのがれよ」*[マタ3:7]、と語る段になるとき、その声は同じくらい甘やかであろう。死と審きについて語るときにも、栄光について語ったときと同じくらい甘やかであろう。そして、それは悲しい不協和となるであろう。響きが意味にかなっていないのである。――彼の声の抑揚が、精神にある観念を表わすにはふさわしくないのである。このような説教者は、たとい死人の中からよみがえったとしても、力強い説教者にはなれないであろう。

 そして1つのことを私たちは云えるであろう。その人は、すでにあなたの心に迫る真理が説教されていた場合、それよりも迫真の説教をすることはできないであろう。あなたが、まざまざと心に迫る説教を講壇から受けてきた、とは私も云わない。時として私は、非常に個人的な説教をしようと苦闘することがある。私は、会衆の中のある特定の人々を指摘するのを避けたことはないし、あなたがたに取り違えようのない叱責の言葉を語ってきた。また、もしあなたがたの中の誰かが罪にふけっていると知っていたとしたら、あなたを容赦するつもりもない。神をほむべきことに私は、個人的な説教者となることを恐れてはいない。個々の人に必要があるときには、それぞれに矢を射ることを恐れはしない。しかし、それにもかかわらず、私は自分の願うほど深くあなたに説教を突き入れることができない。あなたがたがみな、これは隣人のことだと考えているとき、それはあなたのことなのである。しかし、あなたはかつてひとりの個人的な説教者を有していた。ある日、ひとりの偉大な説教者があなたの家を尋ねてきた。その名は《虎列剌と死》という。恐るべき説教者である! 厳格な言葉と、厳しい口調で彼はやって来ては、あなたの妻に手をかけた。それから別の手をあなたにかけた。そして、あなたは冷たくなり、ほとんど硬直してしまった。あなたは思い出すであろう。いかに彼がそのときあなたに説教したかを。彼はあなたの良心を何度も何度も打ち鳴らした。あなたをじっと横たわらせてはおかなかった。あなたの罪と、あなたの不義とについて、大声で叫び立てた。あなたの過去の生活をことごとく明るみに引き出し、あなたの悪いふるまいのすべてを吟味した。あなたの子ども時代からその時に至るまでの、あなたのすべてのさまよいを、彼はあなたにくぐり抜けさせた。それから彼は律法の鞭を取り上げては、あなたの背中に何条もの畝をえぐり始めた。彼はあなたを「必ず来る御怒り」で震え上がらせた。あなたは教役者に来てもらった。どうか祈ってください、と嘆願した。あなたも自分が祈ったものと考えた。そして、そうしたすべての後で、この説教者は去っていった。だが彼がやって来たのは無駄足であった。あなたには何の善も施されなかった。あなたは多少はっとさせられ、多少心を動かされはしたが、あなたはきょう、かつてと全く同じ状態のまま、救われてもおらず、回心されてもいない。ならば、方々。あなたは誰かが死人の中から生き返っても回心しないであろう。あなたは海で難破していた。熱病によって墓の顎へと投げ込まれていた。事故に遭って、ほとんど打ち殺されんばかりだった。だがしかし、こうしたあらゆる個人的な説教にもかかわらず、また、《良心氏》があなたの耳の中で獅子吼したにもかかわらず、あなたはきょう未回心のままでいる。ならば、この真理を学ぶがいい。もしモーセと預言者たちがそうできなかったとしたら、この世のいかなる外的な手段も、決してあなたを天来の恵みの足台へと連れて行き、あなたをキリスト者にすることはできない。今できることは、ただ1つしかない。御霊なる神が、みことばをあなたのために祝福してくださらなくてはならない。さもなければ、良心はあなたを覚醒させず、理性はあなたを覚醒させず、力強い訴えもあなたを覚醒させず、説得もあなたをキリストのもとに連れて行くことはできない。それをするのは、聖霊なる神だけである。おゝ! あなたは自分が今朝引き寄せられていると感じているだろうか? ある甘やかな手があなたをキリストに引き寄せているだろうか、あるほむべき声がこう云っているだろうか? 「イエスのもとに来るがいい。罪人よ。あなたにも望みはあるのだ」。ならば、《それこそ》神の御霊である。それがゆえに御霊をほめたたえるがいい。御霊は愛のきずな、人間の綱であなたを引いておられる[ホセ11:4]。しかし、おゝ、もしあなたが引き寄せられておらず、放置されているとしたら、あなたは確かに死なくてはならない。信仰にある兄弟姉妹。罪人たちのための祈りを神にささげよう。彼らがキリストに引き寄せられるように、――彼らがみもとに来る思いへと導かれるように。咎ある者、重荷を負っている者がみなやって来て、イエスを見上げては光で照らされるように。そして、彼らが御霊の来たるべき力によって説得させられ、キリストを自分の「すべてのすべて」として受けとりつつ、自分自身は「無の無」であることをわきまえるように。おゝ、聖霊なる神よ。こうした言葉を祝福し給え。イエス・キリストのゆえに。アーメン。アーメン。

  

 

死人の中から生き返った説教者[了]

HOME | TOP | 目次