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地上から上げられるキリスト

NO. 139

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1857年7月5日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」。――ヨハ12:32


 《救い主》がこの言葉を口にされたのは、異様な状況下においてであった。それは世界の分かれ目であった。私たちは非常にしばしば、「現今の危機的状況」について語るものであって、あらゆる時代の人々の通弊は、自分自身の時代こそ、世界史の分かれ目であり、転回点であると信ずることにあった。人は、未来の非常に大きな部分が、今の自分たちの奮発にかかっていると想像する点においては正しい。だが、そうした考えを拡大解釈し、自分たちの存在している時期こそ世界史の要である、歴史の分かれ目であると想像してしまっては間違いである。そうした考え方も、それなりに加減された意味では正しいと云えるが――いかなる時代も、ある意味では分かれ目であるが――、真に分かれ目と呼ばれることのできた時は、私たちの《救い主》がこのように語られた時期にくらべれば、全くどこにもない。本日の聖句の直前にある31節は、こう訳されいる。「今がこの世のさばきです」。だが、ギリシヤ語では、「今がこの世の分かれ目です」、と書かれている。世界は厳粛な分かれ目に差しかかっていた。今や世界の歴史全体の大いなる転回点であった。キリストは死なれるだろうか、死なれないだろうか? もし主が、あの苦悶の苦き杯を拒むとしたら、世界の命運は尽きることになるであろう。もし主が前進し、死および地獄の諸力と戦うとしたら! そして勝利者となるとしたら、世界は祝福され、その未来は栄光に富むものとなるであろう。主は屈服するだろうか? その場合、世界はかの古き蛇の這いずった跡で粉砕され破滅される。主は打ち勝つだろうか? 捕われた者をとりこにし、人々へのみつぎを受けられる[詩68:18; エペ4:8]だろうか? ならば、この世界は、「正義の住む新しい天と新しい地」[IIペテ3:13]を有する時代を見ることになるであろう。「今がこの世の分かれ目です」! 「その分かれ目には」、と主は云われる。「2つの面がある。サタンの扱いと人々の扱いである。わたしはその結果をあなたに告げよう。『今、この世を支配する者は追い出されるのです』。地獄が勝利するのではないかと恐れてはならない。わたしは彼を追い出す。その一方で、わたしが人々の心の上で勝利することも疑ってはならない。『わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます』」。こうしたことばが口にされた折のことを覚えつつ、私たちは今その吟味に進むことにしたい。

 私たちは3つのことに注意しようと思う。十字架につけられたキリストは、キリストの栄光である。主はそれを地上から上げられることと呼ばれる。十字架につけられたキリストは、教役者の主題である。教役者の務めとはキリストを福音において掲げることである。十字架につけられたキリストは、心を引きつけることである。「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」。主ご自身の栄光――教役者の主題――心を引きつけることである。

 I. まず第一に、《キリストの十字架刑はキリストの栄光である》。主は「地上から上げられる」という言葉で、ご自分の死に方を表現しておられる。「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである」。しかし、主の死を云い表わすために選ばれた言葉に注目するがいい。わたしが十字架につけられるなら? わたしが木に吊されるなら? 否、そうではない。「わたしが地上から上げられるなら」である。そして、そのギリシヤ語には、高く上げられるという意味がある。「わたしが高く上げられるなら――わたしが高みに引き上げられるなら」。主は、十字架を外的に、可笑しみのあるしかたで取り上げられた。それは、主を高く引き上げることなのである。十字架が、まさに主にまとわせるはずの栄光の型であり象徴なのである。「わたしが地上から上げられるなら」。

 さて、キリストの十字架はキリストの栄光である。それがなぜか示すことにしよう。人は、他者を殺すことによって自分の栄光を勝ちとろうとする。――キリストはご自分が殺されることによってそうされる。人々は黄金の冠を獲得しようとする。――主は茨の冠を求められた。人々は、他人の上に高く上げられることに栄光が存すると考える。――キリストは、「虫けらであって人間ではない」者となること[詩22:6参照]、蔑まれること、衆人環視の中で罵られることにご自分の栄光があると思われた。主は身をかがめたときに、打ち勝たれた。そして、勝利と同じくらい屈伏の中にも栄光が存しているとみなされた。

 キリストが十字架上で栄光をお受けになったのは、第一に、愛は常に栄光に富んでいるからである。もし私が何らかの栄光を好んでいるとしたら、私は人々から愛されることを求めるであろう。確かに、人がその同胞たちの間で有しうる最大の栄光は、単に町通りを通り過ぎるときに人々から称賛の眼差しを浴びることでも、自分が凱旋行進するのを人々が見ようと群がることでもない。ある愛国者が受ける最大の名声、最高の名誉は、祖国の愛である。――老若男女が、自分たちのために仕えてくれた彼を欽慕していつでもその足元にひれ伏そうとし、彼に仕えるためなら自分の持てるすべてをも差し出そうとすることである。さて、キリストが十字架によってかちとった愛は、主が他のいかなる場所においてかちとられた愛にもまして大きなものであった。おゝ、主イエスよ。もしあなたが、永遠に天に座しておられたとしたら、決してこれほど愛されることはなかったでしょう。あなたが死に至るまで身をかがめてくださったからこそ、今これほどに愛されているのです。智天使も熾天使も、光をまとった御使いたちも、天上にいるあなたの贖われた民ほど熱い心であなたを愛することはできなかったでしょう。地上にいる贖われた民でさえ、御使いらにまさる愛をいだいていることでしょう。あなたは、あなたの王笏よりも、かの釘によって、はるかに大きな愛をかちとられました。あなたの御脇腹の傷口により、あなたは決して愛に欠けることはありません。あなたの民が一心にあなたを愛しているからです。キリストはその十字架によって栄光をかちとられた。主は投げ捨てられたときほど高く掲げられたことはなかった。そして、キリスト者はこう証言するであろう。自分は、いかなる場所においても自分の《主人》を愛してはいるが、何にもまして自分の心を歓喜させ、熱烈な愛へとかりたてるのは、かの十字架刑とカルバリにおける苦悶との物語である、と。

 さらに、キリストがこのとき大きな栄光をかちとられたのは、その剛毅さによってであった。十字架は、キリストの剛毅さと強さとの試練であって、その点において主の栄光は、ある園で種を蒔かれたと云える。主の冠となった月桂樹は、主ご自身の血が染み込んだ土壌に蒔かれた。時として、野心に満ちた兵士は戦いをあえぎ求めることがある。平時には目立った活躍ができないからである。彼は云うであろう。「自分はここに座って、髀肉の嘆をかこっているばかりで、何の栄光もかちとることがない。あゝ、自分を大砲の口めがけて突撃させてほしい。栄誉など、色あせた安ピカ物だという人もいる。その通りかもしれない。だが自分は兵士であって、それを欲しているのだ」。それで彼は、栄光をかちとれるような武力衝突をあえぎ求めるのである。さて、この兵士が手に入れるであろうあわれな栄光よりも無限に高貴な意味において、キリストは十字架をご自分が誉れに至る道とみなされた。「おゝ!」、と主は云われた。「今こそ、わたしが堪え忍ぶ時なのだ。わたしはこれまで多くのことに耐えてきたが、一層大きなことを忍ぶだろう。そしてそのとき、世はわたしがいかに強靱な愛の心を有しているかを見いだすであろう。《小羊》がいかに忍耐深く、いかに耐えるに力ある者かを悟るであろう」。万が一キリストが、その争闘と、戦闘と、苦悶とを避けていたとしたら、決して今かちえているほどの賛美の歓呼と、誉れの歌を得ることはなかったであろう。私たちは、キリストがいかなるお方で、いかなる望みをいだいておられるかということのゆえに、キリストをほめたたえていたかもしれない。そのお心が切望することそのもののゆえにキリストを愛していたかもしれない。だが、もしも主が、かのすさまじい日における十字架刑と数々の苦難という峻烈な試験にかけられる姿を見ていなかったとしたら、私たちは決して、主の強い忍耐ゆえに、主の勇敢な霊のゆえに、主の不屈の愛ゆえに主を賛美することはできなかったであろう。キリストは実に、十字架につけられたことによって栄光をかちとられたのである。

 さらに、キリストはご自分の十字架刑をそのみわざの完成とみなし、それゆえに、それを高く上げられることとみなしておられた。ある事業の完成は、その誉れの刈り入れである。何千もの人々が北極圏で死に至り、その勇敢な行為によって名声を獲得してきたとはいえ、愛する方々。最終的にその水路を発見した人物こそ誰にもまして尊ばれるのである。また、私たちは永久に、こうした真冬が猛り狂う中で進んで行き、大海の危険をものともしなかった大胆な人々のことを覚えているとはいえ、その偉業を成し遂げた人こそ、その分にまさる栄光をかちとる人なのである。確かに、ある事業の達成こそ、栄誉がかかっている点にほかならない。そして、話をお聞きの方々。キリストが十字架を切望されたのは、ご自分のあらゆる奮励の目標点とみなされたからなのである。それこそ、主が、「完了した」、と云うことのできた所であった[ヨハ19:30]。主は、その御座の上に着いていては決して、「完了した」、と仰せになることができなかった。だが、その十字架の上で主はそう叫ばれた。主はカルバリの受苦の方を、ご自分に群がる群衆の栄誉よりも好まれた。というのも、主がいかに説教し、いかに彼らを祝福し、いかに彼らを癒そうとも、それでも主のみわざは未完成だったからである。主は苦しめられた。主には受けるバプテスマがあり、それが成し遂げられるまで、主がいかに苦しんだことか[ルカ12:50]。「しかし」、主は云われた。「今やわたしは、わたしの十字架をあえぎ求めている。それは、それが私の労苦の極致だからである。わたしは苦しみを受けることを切に求める。なぜなら、その苦しみはわたしの偉大な恵みのわざを完成させるからだ」。兄弟たち。誉れをもたらすのは結果である。戦士に栄冠を受けさせるのは戦闘ではなく勝利である。そして、そのようにキリストがこのこと、その死を切望されたのは、主がご自分の労苦の完成を見るためであった。「左様」、と主は云われた。「わたしが十字架につけられるとき、わたしは引き上げられ、高く上げられるのである」。

 そして、もう一言云えば、キリストがご自分の十字架刑を堅い信仰の目でご覧になったのは、勝利の時としてであった。主の弟子たちは、十字架は下落になるだろうと考えた。キリストは、外的なもの、目に見えるものを越えて、霊的なものを見つめておられた。「十字架は」、と主は云われた。「私の破滅のさらし台は、恥辱によって呪われているように見えるかもしれない。またこの世は十字架につけられた者を取り巻き、罵倒するであろう。わたしの名は永遠に木にかけられて死んだ者として辱められるであろう。揚げ足取りや、あざける者らは、わたしが悪人とともに死んだことを、永久にわたしの友たちに向かって投げつけるかもしれない。だが、わたしは、あなたのように十字架を眺めてはいない。わたしはその恥辱を知っているが、その辱めを軽蔑する。――わたしは喜んでそのすべてを忍ぼう。わたしは十字架を勝利の門とみなす。勝利の表玄関とみなす。おゝ、わたしが十字架の彼方に何を見ているか、あなたに告げようか。――まさにわたしの目に最期の涙があふれるとき、また、わたしの心臓が最期の苦痛で脈打つとき、わたしのからだがその最期の苦悶の身震いで引き裂かれるとき、そのときこそ、わたしの目はかの竜の頭が砕かれるのを目にするであろう。地獄の塔という塔が瓦解し、その城郭が崩れ落ちるのを見るであろう。わたしの目は、わたしの子孫が永遠に救われるのを見、わたしは贖われた者たちが、その獄屋から出てくるのを見るであろう。そうした、わたしの破滅の最期の瞬間、また、わたしの口が、『完了した』、というその叫びを発そうとするまさにそのとき、わたしは、わたしの贖いの年が来た[イザ63:4]のを見るであろう。わたしの愛するすべての者たちの解放のうちに、わたしの勝利を叫ぶであろう! 左様。そして、わたしは、そのとき見るであろう。この世が、わたし自身の地上が征服され、簒奪者どもがみな王座を追われるのを。そして、わたしは幻の中で、終わりの日の栄光を見るであろう。わたしが、わたしの父ダビデの王座に着き、壮麗な御使いたちとわたしの愛する者たちの歓呼にかしづかれる、そのときのことを!」 しかり。キリストはその十字架のうちに、その勝利を見てとっていた。それゆえ、主はそれを勝利の場、制覇の手段として切に願い求めていた。「もしわたしが地上から上げられるなら、もしわたしが高く上げられるなら」、とイエスは云われた。主はご自分の十字架刑をご自分の栄光として云い表わしておられる。これが本日の聖句の第一の点である。

 II. しかし、ここで第二に、《キリストには別の意味で地上から上げられることがあった》。それは、恥辱に満ちたものではなく、真に栄誉あることである。それは、みことばの説教において、福音という旗ざおの上に主を掲げることである。キリスト・イエスは日々、地上から上げられるべきである。そのためにこそ主は世に来られた。「モーセが荒野で蛇を上げたように」[ヨハ3:14]、主もまた真理の説教において地上から上げられるであろう。「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」[ヨハ3:16]。キリストは、《教役者の大主題》である。ほとんどの人が選ぶ他の一千もの主題を向こうに回してそうである。私が自分の伝道活動の最も目立った特徴であってほしいと思うのは、キリスト・イエスを宣べ伝えるということである。キリストこそ最も目立つべきである。地獄や断罪ではない。――むろん神に仕える教役者たちは、神の数々のあわれみと同じく神を恐れることをも宣べ伝えなくてはならない。私たちは神の律法の雷を説教すべきである。もし人々が罪を犯すとしたら、私たちは彼らに、そのため彼らが罰を受けなくてはならないと告げるべきである。もし人々がそむくとしたら、「怒りを下す主が来られる」、と云うのを恥とする見張り人にわざわいあれ。私たちが、よこしまにも神のことばの脅かしすべてを抑えつけてしまうとしたら、神から与えられている厳粛な責任に不忠実な者となるであろう。神は、「悪者どもは地獄に投げ込まれる。神を忘れたあらゆる国々も」*[詩9:17]、と云っておられるだろうか? そう告げることは私たちの務めである。あの愛に満ちた《救い主》は、燃える穴、尽きることのないうじ、消えることのない火[マコ9:48]について話されただろうか? 主が語った通りに語り、奥歯に物のはさまったような口のききかたをしないことは私たちの義務である。人々に向かって、彼らの破滅を隠し立てするのは決してあわれみではない。しかし、私の兄弟たち。恐怖が教役者の説教の最も目立った特徴となるべきではない。かつて多くの神の人は、恐怖を説教することによって大きな善を施すだろうと考えていた。私はそうは思わない。そうした説教によって目覚めさせられ、恐れさせられる魂もある。しかしながら、そうした者らは僅かである。時には、全く厳粛に、永遠の御怒りという神聖な神秘を説教しなくてはならない。だが、それよりもはるかに頻繁に、神の驚くべき愛を宣べ伝えよう。威嚇するよりも懇願することによって、はるかに多くの魂が獲得されるものである。地獄ではなくキリストをこそ、私たちは説教したいと願う。おゝ、罪人よ。私たちはあなたの末路についてあからさまに告げるのを恐れてはいない。だが、この陰惨な主題にいつまでもとどまることを選ばないのである。私たちはむしろ、キリストのことを教えたいと切に願う。私たちは自分の説教が、シナイ山の煙や火や恐怖よりも、キリストの功績という乳香で満ちていてほしいと思う。私たちはシナイの山にではなく、シオンの山に来ているのである。――ここでは、より穏やかな言葉が神のみこころを宣言しており、救いの川はふんだんに流れているのである。

 またさらに、教役者の主題は、単なる教理を向こうに回して、キリスト・イエスであるべきである。わが国の一部の善良な教役者たちは、常に教理を説教している。よろしい。彼らがそうすることは正しい。だが私は、教理だけが自分の説教の特徴となってほしいとは思わない。むしろ、こう云われてほしい。「あの人はキリストの人格について力説しました。そして、その贖罪といけにえを言及し始めるときには最も嬉しそうに見えました。あの人は、教理のことを恥じてはいなかったし、威嚇のことを恐れてもいませんでした。むしろ目に涙をためているかのように威嚇について説教し、神ご自身のことばとして厳粛に教理を説教しました。ですが、イエスについて説教するときには、彼の舌は解きほぐされ、彼の心は伸びやかにされるように思われました」、と。兄弟たち。ある人々は教理しか説教せず、神の教会に恩恵ではなく害を及ぼしていると思う。私の知っている一部の人々は、あらゆる霊の審判人として自ら任じている。自分たちこそ人なのだ。自分たちが死ぬと、知恵も共に死ぬのだ[ヨブ12:2]。いったん自分たちが取り去られれば、真理の大黒柱も取り去られてしまうであろう、と。彼らが教皇を憎むのも無理はない。商売敵同士は折り合いが悪いものである。というのも、彼らは教皇よりも教皇的であり、自分を無謬としているからである。残念ながら、この時代の健全さは、口先ばかりであって実質を伴っていないのではないかと思う。心の目に入っておらず、生き方そのものに影響していないと思う。兄弟たち。私たちは選びよりもむしろキリストを宣べ伝えたい。私たちは選びを愛している。予定を愛している。神のことばの偉大な諸教理を愛している。だが、こうした事がらよりもキリストを説教したいと思う。私たちは教理の頭上にキリストを置きたい。私たちは教理をキリストが着座すべき御座とする。だが、キリストをその根底に置き、ぎゅうぎゅう踏みにじり、主の上に主ご自身のみことばの諸教理を山ほど積み上げるつもりは全くない。

 さらにまた教役者は、単なる道徳を向こうに回して、キリストを宣べ伝えるべきである。ロンドンのごく多くの教役者は、聖書からとでなくとも、それと同じくらいシェイクスピアから説教できるであろう。というのも、彼らが欲しているのは道徳的格言でしかないからである。この善良な人は決して新生について語ろうとは思わない。時には、道徳的刷新について語ることもある。だが、恵みによる堅忍について語ろうとは思わない。しかり。うむことなく善行をし続けることを、彼は年がら年中叫んでいる。彼は、「信じて救われよ」、と説教することは考えない。しかり。彼は不断にこう勧告している。「善良なるキリスト者の人たち。祈りを唱えなさい。立派にふるまいなさい。そうすれば、こうした手段によって、神の国に入るでしょう」。要するに彼の福音は、こうなのである。私たちはキリスト抜きでも申し分なくやって行けるのだ。確かに私たちには多少良くない点はあるが、それでも、ほんの少々生き方を改めさえすれば、あの古い聖句、「人は、新しく生まれなければ」[ヨハ3:3]にくよくよ悩む必要はないのだ。もしあなたが酔いどれになりたければ、もし不正直になりたければ、もしこの世の悪徳すべてを教えられたければ、行って道徳的な説教者の話を聞くがいい。こうした紳士たちは、人々を道徳的に改善し、道徳的にしようと試みることによって、人々を道徳から遠く引き離しているのである。聖なるラビントン主教の証言を聞くがいい。「私たちは多年にわたり道徳的な説教で国民を改善しようと試みてきた。その効果たるや! 無である。逆に、私たちは説教によって国民をまぎれもない不信心へと巧みに追い込んでしまった。私たちは、語る言葉を変えなくてはならない。十字架につけられたキリストを宣べ伝えなくてはならない。福音以外の何物も救いに至らせる神の力ではないのである」。

 だがしかし、もう一言指摘しよう。教役者は、学識を説教すべきだと考える一部の人々を向こうに回して、キリストを宣べ伝えるべきである。私たちは決して学識に反対して説教したりしない。人は、学識を手に入れることができればできるほど、その人にとっては良いことであり、また、それを賢く用いるだけの恵みを有している人の場合、その人の話を聞く人々にっても良いことである。だが、一部の人々は、学識がありすぎるため、読書中に非常に難解な言葉に出くわすと、たちまち筆箱が登場し、それを書き留めておいては、次の日曜説教の中で称揚しようとするのである。彼らが何か異国風のドイツ語の表現を見いだしたとする。それは、むしり散らしてしまえば、全く何も意味していないが、見かけは何か素晴らしいもののように思える。それについては、是が非でも語らなくてはならず、福音が全くそっちのけになってもかまわないのである。あなたは、彼らが平日の間決して聖書のほか何も読むことを許されないよう、神に祈るべきである。そうすれば、あなたにも分かることが聞けるかもしれないからである。だが、それは彼の趣味には合わない。分かりやすい説教をすれば彼は偉大な説教者ではなくなってしまう。というのも、一部の人々の意見によると、偉大な説教者とは知的であると呼ばれる人――すなわち、聖書が聖書について知っているよりもずっと多くのことを聖書について知っている人、あらゆる奥義を知性だけで説明できる人、油注ぎだの、香り高さだの、神の御霊の影響だのは、単なる狂信だとして微笑む人である。彼にとって知性はすべてである。人は座って彼の話を聞き、会堂の外へ出て来る。「何てこった。あん人は何てすんばらしい人なんじゃろ。あん人はあの聖句から何かを見分けておられたようじゃが、わしには、それが何か見当もつかんかった。あん人は、ご自分でも霧に包まれとるみたいじゃった。それが、きわめて明るく輝く霞であったことは確かじゃがな」。そこで彼らは再び行き、その教会の会衆席を占める。世間では、彼ほど才気に富む説教者はいないと持ちきりだからである。だがその理由は、彼の話が理解できないということしかない。先日、教役者たち向けの指南書を読んでいた私は、ある神学校の善良な指導教官の何人かが、古い本の中で、真剣な口調でこう書いていることに気づいた。「あなたの説教の一部分は、粗野な者たちに理解できないようなものとしておきなさい。そうすることで、あなたは学識者との評判を得るようになり、あなたが口にした、彼らに理解できる部分は、より大きな感銘を与えることでしょう。というのも、1つか2つ不可解な文章を差し挟むことによって、あなたはたちまち彼らの精神に、優秀な人だという印象を与え、彼らはあなたの学識の重みと権威を信ずるようになり、自分たちの理解できる残りの部分を信用するからです」。さて私は、こうしたことすべてが間違いだと主張する。キリストが私たちに求めておられるのは、学識を説教することではなく、できる限り最も単純なしかたで、いのちのことばを宣べ伝えることである。何と、もし私が、貴顕ならびに貴婦人だけしか理解できないようしかたで説教する場合、そうした人々しか集まらず、そうした人々にしか話をできないとしたら、おゝ! そうした人々は、ご退場いただいてかまわない。そして私は、そうした人々について鼻もひっかけまい。私は女中でも御者でも分かるようなしかたで説教したい。貧民でも、目に一丁字もない人でも、快く聞くことができ、喜んでみことばを受け入れることができるような説教をしたい。そして、よく聞くがいい。伝道活動にとって大きな善が施されるのは、唯一それが単純なものとされるとき、また、私たちの兄弟同労者たちが、とんと知っていないように思われる1つの言語を学ぶときでしかない。ラテン語、ギリシヤ語、フランス語、ヘブル語、そして他に二十もの言語を彼らは知っている。だが私は、彼らが1つの言語を非常に真剣に研究するように私は勧めたい。――それをアングロサクソン語[外来語を入れない生粋の英語]という。もし彼らがそれを学ぼうとするならば、彼らが、いかにそこに、人々の心を感動させるいかに強大な言葉を見いだすかは驚くばかりであろう。世界のいかなる言語にもましてサクソン語である。他のあらゆる言語が死に絶えたときも、サクソン語は生き残り、その鉄の舌と、鋼鉄の声によって勝利するであろう。私たちは、人々に語りかけるには、誰でも知っている平易な言語を有さなくてはならない。そして、よく聞くがいい。私たちは、地上から上げられたキリスト、十字架につけられたキリストを語らなくてはならない。けばけばしい学識の飾りや、雄弁や大言壮語の装いなしにそうしなくてはならない。もしキリスト・イエスが真剣に宣べ伝えられるとしたら、主はすべての人をご自分のもとに引き寄せるであろう。

 III. 《さていま私たちが学びたい第三の点は、実際この聖句の真髄であるが、キリストの十字架には人を引きつける力がある》。もしキリストがこのように宣べ伝えられるとしたら――このように十分に差し出され――このように人々に向かって単純に宣言されるとしたら――、その効果として、主がすべての人をご自分のところに引き寄せることになるであろう。さて私は、人を引き寄せるキリストの力を3つか4つのしかたで示すであろう。キリストは喇叭のように人々を引き寄せて、この宣告を聞かせてくださる。キリストは網のように人々を罪の海から引き上げてくださる。キリストはまた、愛の綱によって引き寄せてくださる。次のこととして、キリストは軍旗のようにすべての兵士をご自分の回りに寄せ集めてくださる。最後のこととして、キリストは戦車のように引き寄せてくださる。「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」。さて私は、こうした点を示せるかどうか試してみよう。

 最初に、私はキリストが喇叭のように引き寄せると云った。人は何らかの布告を読み上げるとき、聴衆を集めるために喇叭を吹き鳴らすのが常であった。民衆は、馴染みの音を聞きつけると家々から出て、自分たちの知りたがっていることを聞きにやって来るのである。さて、私の兄弟たち。福音が人を引きつける力の一部は、それが人々を引き寄せて耳を傾けさせることに存している。人々が福音を聞かないとしたら、それが宣べ伝えられても祝福を受けることは期待できない。この戦いの1つの局面は、その音に人々の耳を傾けさせることである。さて、近頃はこういう質問が発されている。「いかにすれば私たちは、労働者階級にみことばを聞かせることができるだろうか?」 その答えは、キリストこそ人を自らに引きつける力であり、キリストこそ、あなたがキリストを布告する際に求められる唯一の喇叭だということである。福音を宣べ伝えれば、会衆はひとりでにやって来る。良い会衆を集める唯一、無謬の道は、これを行なうことである。「おゝ!」、とあるソッツィーニ主義者が、ひとりの善良なキリスト教の教役者に云った。「私にはどうしても分かりません。私の会堂はいつもがらがらなのに、あなたの会堂は人でぎっしり詰まっています。だがしかし、私は私の方がずっと合理的な教理であると確信しています。また、どう考えても、あなたは私よりも説教者としての天分に恵まれていません」。――「そうですね」、ともうひとりが云った。「あなたの会堂が空っぽで、私の会堂が満員である理由を教えましょう。人には良心があります。そして、その良心が彼らに教えているのです。私が説教しているものは真実であり、あなたが説教しているものは偽りである、と。それで彼らはあなたの話を聞こうとしないのですよ」。プロテスタント信仰発祥以来のこの領土の歴史を通観してみると良い。私は、いかなる反駁の恐れもなしに、あえてこう云えると思う。ほとんどあらゆる場合において、最も大人数の民衆を引き寄せて話を聞かせていたのは、最も福音的な人々であった。――最も十字架につけられたキリストについて宣べ伝えていた人々であった。ホイットフィールドの中にある何が聴衆を引きつけていたかといえば、あらゆるものを押し流す激烈な雄弁をもって宣べ伝えられた、単純な福音にほかならなかった。おゝ、人々を引き寄せていたのは、彼の雄弁ではなく、福音であった。真理には、自らの人気を博させるものが常にある。人が真理を説教すれば、その会堂は空っぽになると? 方々。私はあなたにそれを証明するよう挑戦する。キリストがご自分の真理を説教なさったとき、大ぜいの群衆はイエスの云われることを喜んで聞いていた[マコ12:37]。また、おびただしい数の人々が主の話を聞こうと群がった。私の善良な兄弟教役者たち。あなたの会堂はがらんどうだろうか? それを人で一杯にしたいだろうか? 私がその処方箋を教えよう。それを守りさえすれば、まず間違いなくあなたの会堂には立錐の余地もなく人が詰めかけるであろう。あなたの説教原稿をみな焼き捨てること。それが第一点である。あなたの説教手帳を捨てること。それが第二点である。自分の聖書を読んで、その言葉の素朴な形の中で見いだしたものについて説教すること。ラテン語風な英語のすべてを捨て去ること。あなたが、自分自身の心の中で感じたことを、人々に告げることを始めること。また、あなたの心を、熱心のための炉のように熱くしてくださるように聖霊に懇願すること。それから、行って、人々に語りかけること。彼らに、彼らの兄弟であるかのように話をすること。人々の間にいる人となること。彼らに自分が何と感じたか、何が分かったかを告げ、善良で、大胆な顔つきで心からそれを告げること。そうするとき、私の愛する方々。私はあなたがいかなる人であるかに関心はないが、あなたは会衆を集めるであろう。しかし、もしあなたが、「さて、会衆を集めるためには、風琴を買わなくてはならない」、と云っているとしたら、それは、これっぽっちもあなたのためになるまい。「しかし、私たちには質の良い聖歌隊が必要であるに違いない」。私は、質の良い聖歌隊を通してやって来るような会衆を持ちたいとはこれっぽっちも思わない。「そうです」、と別の人は云うであろう。「ですが、実は私は、私の説教の様式を少し改めなくてはなりません」。愛する友よ。問題は説教の様式ではない。感じ方の様式である。人は時々、別の説教者たちが成功しているからといって、彼らの物真似をし始めることがある。何と、最悪の説教者とは、自分が基準とみなしているような他の人々の物真似をする人々である。自然に説教するがいい。自分の心の内側から、自分が真実であると感じていることを説教するがいい。そうすれば、かの古き、魂を奮い立たせる福音の言葉がすぐに会衆を引き寄せるであろう。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります」[ルカ17:37]。

 しかし、もしそれがそこで終わったとしたら、その何が善となるだろうか? もし会衆がやって来て、ただの音に耳を傾け、それから救われないまま参会するとしたら、それが何の役に立つだろうか? しかし、次のこととして、キリストは網として人々を引き寄せるために働いてくださる。福音を伝える務めは、神のことばでは、魚とりにたとえられている。神に仕える教役者たちは漁師である。彼らは、漁師が魚とりに行くように、魂を捕えに出かけていく。魂はいかにして捕えれば良いだろうか? 魂を捕えるにはキリストを宣べ伝えることである。キリストで満ち満ちた説教を語り、それを、海に網を投げるかのように、あなたの会衆の上に投げかけるだけで良い。――彼らがどこにいるかなど見る必要はない。あなたの説教を異なる人々に合わせようとすることもない。むしろ、それを投げるがいい。そうすれば、神のことばが神のことばであるのと同じくらい確実に、それはむなしく神のところに帰っては来ない。必ず、神の望むことを成し遂げ、神の云い送ったことを成功させる[イザ55:11]。福音は、御霊と御力の現われ[Iコリ2:4]を伴って説教されたとき、決して成功しなかった試しがない。魂を救うのは、国王たちの逝去や政治の動きについての見事な雄弁ではない。もし私たちが、罪人たちが救われ、私たちの教会が増し加わるのを望むとしたら、また、もし神の御国の進展を願うとしたら、その目的を成し遂げるものと望める唯一のことは、キリストが地上から上げられることである。というのも、「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せ」るからである。

 次のこととして、キリスト・イエスは愛の綱として人を引き寄せてくださる。人々は、救われた後でも、なおもさまよいやすいものである。罪人から天国へと至るあらゆる道には、一本の綱が張られている必要がある。またそれには、その間ずっと、その罪人を引っ張る御手がなくてはならない。さて、キリスト・イエスは聖徒を天国まで引き寄せる、愛の数珠である。おゝ、神の子どもよ。あなたは、もしイエスがあなたを堅くつかんでおられなかったとしたら、再びさまよおうとしたであろう。もし主があなたをご自分のもとへ引き寄せておられなかったとしたら、あなたは、なおもなおも、道を踏み迷おうとしたであろう。キリスト者である人々は、この地球のようである。私たちの世界には2つの力がある。それは、1つの接線をその軌道から脱線させようとする傾向がある。だが、太陽はそれを、1つの求心的な力によって引き寄せ、自らへとそれを引きつけ、そのようにしてこの2つの力の間で、それは永続的な円周のうちに保たれているのである。おゝ! キリスト者よ。もしキリストの影響力が永続的にあなたを中心に引きつけていないとしたら、あなたは決して真っ直ぐに歩くことも、真理の軌道上に保たれることもないであろう。あなたはそれを感じている。たとい常に感じているわけでなくとも、それでも、それはそこにある。――あなたは、あなたの心とキリストとの間に、自分を引きつける力があるのを感じる。そしてキリストは、永続的にあなたをご自分のもとへと引き寄せておられる。ご自分と似たかたち、ご自分のご性格、ご自分の愛、ご自分の御胸へと引き寄せておられる。そして、そのようにしてあなたは、遠くへ飛び去り罪という広大な原野で迷子になるという生来の傾向から守られる。神はほむべきかな。地上から上げられたキリストは、そのようなしかたで御民全員をご自分のもとと引き寄せてくださるからである。

 さて次のこととして、キリスト・イエスが人々を引きつける中心であるのは、まさに軍旗が人々を寄せ集める中心であるのと全く同じである。この節、私たちは一致を欲している。いま私たちは、「分派主義を排せ」、と叫んでいる。おゝ、一致があればどんなに良いことか。私たちの中のある者らは、真に一致をあえぎ求めている。私たちは、福音派の同盟について語っているのではない。同盟は、異なる国々の人々同士が結ぶものである。私たちの信ずるところ、「福音主義同盟」という言葉は間違っている。――それは「福音主義連合」であるべきである。――1つの《一致》へと連なり合わされるべきものである。何と! 私は英国国教会の兄弟と同盟してはいない。いかに善良な人であるとしても、彼と同盟しようとは思わない。私は彼と一致したいと思う。心のありったけで彼を愛したいと思う。だが、彼と単なる同盟を結びたいとは思わない。彼は決して私の敵ではない。決して敵にはならない。だが、それゆえにこそ、私が彼との間に欲するのは同盟ではない。――それは一致である。そして、神の民はみな、それと同じである。神の民は、同盟などどうでもよいと感じる。真の一致と、互いに交わることを愛するからである。さて、あらゆる教会を一致に至らせる正しい道は何だろうか? 「私たちは祈祷書を改訂しなくてはならない」、とある人は云うであろう。それを改訂することはかまわない。好きなだけ改訂するがいい。だが、決して私たちの中のある者らをそれに同意させることはできまい。というのも、私たちは《祈祷書》そのものを憎んでいるからである。それがいかに完璧に近いものであっても関係ない。「よろしい。ならば、私たちは諸教理を改訂して、それらがあらゆる種別の人に対応するものとしなくてはならない」。そのようなことはできない。不可能である。「よろしい。ならば、戒規を改訂しなくてはならない」。しかり。アウゲイアース王の牛舎を掃除するがいい。だが、そうしたすべての後でも、私たちの大多数は、それまでと変わらず冷淡なままであろう。「しかり。だが、私たちは互いに譲歩しなくてはならない」。だが私は、いったい誰が譲歩などするだろうかと思う。そのようなことをするのは、何の主義主張も持っていないブレーの教区牧師たちだけであろう。というのも、もし私たちが互いに譲歩し合わなくてはならないとしたら、私が真理であると信ずる部分を譲歩しなくてはならない羽目に陥らないと誰が保証してくれるだろうか? そして、真理と信ずるものについて譲歩するなど私には行なえないし、私と反対の立場にある私の兄弟も行なえないはずである。英国において地上から上げられることのできる、唯一の一致の軍旗は、キリストの十字架である。私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝え始めるや否や、みな1つとなる。私たちは、他のどこで戦うことがありえようとも、十字架の足下ではそうできない。――そこでは、「剣を鞘におさめよ」との命令が行き渡る。そして、以前は激しく相克していた者たちがやって来ては、そこにひれ伏して、こう云うであろう。「愛する《贖い主》よ。あなたは私たちを1つに溶かされました」。おゝ! 私の兄弟たち。私たちはみな福音を力強く宣べ伝えようではないか。そして、そこにこそ一致があるであろう。英国国教会は、以前よりも格段に非国教徒たちと一致しつつある。エクセター公会堂で私たちの善良な友たちは、世界に祝福をもたらす非常に大きな働きをしており、彼ら自身の体系の排他性を根こぎにしている。彼らは、生きているのと同じくらい確かに、彼ら自身の兄弟たちの馬鹿げた主張を引きずりおろし、「唯一の《教会》」などという排他的な主張を引き倒す、大きな一歩を踏み出している。私はそのことに歓喜している! その運動ゆえに神をほめたたえており、あらゆる主教が同じようにする日が来るように祈っている。そして、私がこのことを喜んでいるのは、単にそれを一致の始まりとみなしているからではなく、福音が宣べ伝えられているがゆえである。しかし、それと同時に、私はこのことを知っている。彼らの模範にならうとしたら、非国教徒たちと英国国教会との間の種々の障壁は維持できなくなる。《監督制》に対するひいき目でさえ、やがて崩れ落ちざるをえない。たとい何某主教閣下がエクセター公会堂で何千もの人々に向かって一年間説教することになるとしても、私は彼と同じくらい国家の下賜金を受ける権利がある。私は彼と同じくらい多くの英国人に奉仕しているからである。この世のどこを探しても、国家の財産を一銭でも私以上に受ける権利のある教会はない。そして、もしこの場に一万人が集まっているとしたら、私たちが国家から何の補助金も受けないというのは不正なことである。ロンドン市中にある十三と半の取るに足らない会衆が、国家の資金で支援されているのである。キリストの《教会》は、いつの日か国家の保護を拒絶するであろう。私たちはみな、福音を宣べ伝えるようにしよう。そうすれば、私たちはすぐに福音が自らを支えることを見てとるであろう。また福音が、頑迷や狭量という塹壕なしでも、自立できることに気づくであろう。しかり。私たちはこう云うであろう。「兄弟。ここにあなたのために私の講壇があります。あなたは監督派ですが、私の講壇で説教してください。あなたを心から歓迎します」。

 監督派の人は云うであろう。「あなたはバプテスト派ですが、私の兄弟です。ここにあなたのための教区教会があります」。そして、私はまさに予告しておくが、もしもある教区教会で説教する最初の機会を差し出されるとしたら、私は即座にそう行なうであろう。そして、その結果がいかなるものとなろうとも、それをあえて身に受けよう。教区教会はわが国の社会基盤であり、全英国に属している。私たちは、それらに私たちの望む人々を与えることができる。そして、もし明日、主権者たる国民の意志がこの組織を別の教派に移すとしたら、それを妨げることのできるものはこの世に何1つない。しかし、もしそうならないとしたら、キリスト者の愛のいかなる法によって、ある教派がその講壇の扉を他のどの教派に対しても閉ざすのだろうか? 監督教会[英国国教会]にいる私の愛する兄弟たちの多くは、自分たちの組織を喜んで貸そうとするであろう。だが彼らはそうしようとしない。しかし、聞こえるだろうか? 福音が完全に宣べ伝えられるとき、こうしたすべての事がらは、崩れ落ちるであろう。というのも、ある兄弟はこう云うだろうからである。「私の愛する友よ。あなたはキリストを宣べ伝えており、私もそうしています。私はあなたを私の講壇から閉め出すことができません」。別の人はこう叫ぶであろう。「私は魂の救いを切望していますし、あなたもそうです。私の家に来てください。私の心にはいってください。私はあなたを愛します」。一致のために、私たちの手に入る唯一の手段は、私たちがみな十字架につけられたキリストを説教することであろう。それがなされるとき、また、あらゆる教役者の心が正しい状態になり、魂を獲得することをひたすら希求するようになるとき、――あらゆる教役者がそう感じるとき、そうした人々が主教と呼ばれようが、長老と呼ばれようが、説教者と呼ばれようが、――そうした人々が行ないたいと欲するのは、神の栄光を現わし、魂をイエスのものとして獲得することだけとなる。そのときには、私の愛する方々。私たちの教派的な差違は保たれつつも、頑迷偏狭や分裂という馬鹿でかい化け物はいなくなり、分派はもはや知られなくなるであろう。その日が来るように私は熱心に祈るものである。願わくは、神がみこころの時に、その日を送ってくださるように。私に関する限り、この被造世界において神に仕えるあらゆる教役者に対して私は手を差し伸ばしている。心からそうしている。私は主イエス・キリストを愛する教役者すべてを愛している。そして私は確信するものだが、キリストを第一とし、キリストを最後とし、キリストを真中とし、どこまでもキリストだけで貫くという点に近づけば近づくほど、――私たちはみな、キリストの1つの《教会》が有する、聖なる永続的な絆という一致に近づくのである。

 そして今、しめくくりとして最後に、1つの甘やかな思想に注意したい。――「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」。そのときキリスト・イエスは、ご自分の民全員を天国へと引き上げるであろう。主は、ご自分が彼らをご自分のところに引き寄せると云われる。そのとき、キリストは戦車となられる。魂を天国に引いて行く戦車である。主の民は天国へ向かう途上にある。彼らは永遠の腕でかかえられている。そして、その腕はキリストの御腕なのである。キリストは彼らをご自分の家、ご自分の御座へと連れて行きつつある。やがて主の祈り――「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」[ヨハ17:24]――は、完全に成就するであろう。そして、それはいま成就しつつある。というのも、主は屈強の駿馬のように、ご自分の子どもたちを恵みの契約という戦車に乗せて、ご自分のところに引き寄せつつあるからである。おゝ! 神はほむべきかな。十字架は、天国へと泳いでいく私たちを乗せている厚板である。十字架は、偉大な契約の輸送船であり、暴風雨を乗り切っては、その願望する天国へと達するであろう。これは戦車であり、銀を台座とする黄金の柱であり、私たちの主イエス・キリストの贖罪という紫の縁取りがなされている。

 さて今、あわれな罪人よ。私が神に願うのは、キリストがあなたを赦してくださることである。カルバリにおける主の死を思い出すがいい。主の苦悶と血の汗を思い出すがいい。――こうしたすべてを、主はあなたのために行なわれたのである。もしあなたが自分は罪人であると感じているとしたら、そうである。これは、あなたを主のもとに引き寄せないだろうか?

   「汝れ咎あるも 神はめぐみて、
    汝が魂(たま)洗わん イェスの血をもて」。

あなたは神に反逆し、反抗してきた。だが神は云っておられる。「背信の子らよ。帰れ」[エレ3:22]。神の愛はあなたを引き寄せないだろうか? 私の願うのは、この両者がその力と影響力を及ぼし、あなたが今キリストへと引き寄せられ、最後には天国へと引き寄せられることである。願わくは、神が祝福を与えてくださるように。イエスのゆえに。アーメン。

  

 

地上から上げられるキリスト[了]

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