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あわれみ、全能、正義

NO. 137

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1857年6月21日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「主は怒るのにおそく、力強い。主は決して罰せずにおくことはしない方」。――ナホ1:3


 芸術作品は、鑑賞する者の方にある程度の教養があって初めて、その真価が徹底して悟られるものである。何の素養もない人が、さる巨匠の手になる絵画の様々な卓越性をたちまち察知するなど期待できない。《歌の諸王》の和声の比類なき栄光が、粗野な聞き手の耳をうっとりとさせるとは想像できない。その人自身の中に、それなりのものがあって初めて、自然あるいは芸術の驚異を理解することができるのである。確かに、これは人格について真実であるに違いない。私たちの人格における種々の欠けや、私たちの生き方における種々の過ちのゆえに、私たちはキリストの、あるいはキリストの父なる神のご人格のあらゆる美しさの1つ1つを、また、それらが結び合わされている完璧さを理解できないのである。私たち自身が、天にいる御使いたちのようにきよい者であったとしたら、また、エデンの園にいた頃の私たちの種族のように無垢で完璧であったとしたら、私たちも神のご人格について、この堕落した状態にある者として可能な程度をはるかに越えて高貴な観念をいだいていたことは、きわめて確実である。しかし、あなたも気づかざるをえないように、人々はその性質の錯乱により神の完璧さを正しく認識できないがゆえに、絶えず神について不正確なことを伝えているのである。神が、御手を御怒りから引き込められるような時があるだろうか? すると人々は、神は世を審くのをやめたのだ、気のない、冷淡な無関心さで世を眺めているのだと云う。逆に神が、罪ゆえに世を罰されるような時があるだろうか? すると人々は、神が過酷で残酷だと云う。人々は神を誤解しようとする。なぜなら彼らは、自らが不完全であり、神のご性格をあがめることができないからである。

 さて、このことは、神がそのご性質の完璧さの中に、非常に見事に混ぜ合わせておられる、そのご人格上のいくつかの光と影について特に云えることである。それは、確かに一から十まで納得することはできないが、それでも(私たちが少しでも御霊によって光を与えられている限り)その神聖な調和に驚異の念をいだかされるものである。聖書を読んでいると、パウロについては、彼はその熱心さで傑出していたと云える。――ペテロについては、彼はその勇気のために常に記憶されるだろう、――ヨハネについては、その情愛深さで際立っていたと云える。しかし、私たちの《主人》イエス・キリストのご生涯を読むとき、あなたは一度でも注意したことがあるだろうか? 主が何か1つの美徳のゆえに卓越していたお方だったとは決して云えなかった、ということに。なぜだろうか? それは、ペテロの大胆さはあまりにも大きくなりすぎて、他の美徳の影を薄くするほどであったから、あるいは、他の美徳にあまりにも欠けがあり、彼の大胆さを引き立たせるしかなかったからである。ある人が何かのために傑出しているという事実そのものが、その人は他の事がらにおいては注目に値しないという確かなしるしなのである。そして、イエス・キリストの完全な完璧さのゆえにこそ、私たちはキリストがその熱心さのゆえに傑出していたとか、その愛ゆえに、あるいは、その勇気ゆうえに傑出していたなどと云うことがあまりないのである。私たちはキリストについて、主は完璧な人格であられたと云うが、その影と光がどこで混じり合っていたか、キリストの柔和さがその勇気とどこで混じり合っていたか、また、キリストの情愛深さがその罪を弾劾する大胆さとどこで混じり合っていたかを感得することは、なかなか容易ではない。私たちは、それらが相合う点を突きとめることができない。そして、私の信ずるところ、私たちがより聖くされれば聖くされるほど、このことは私たちにとって驚嘆の的となるであろう。これほど異なった美徳同士が、いかにしてこれほど荘厳なしかたで1つの人格に結び合わされているのか、と。

 神についても、それと全く同じである。そして、先ほど私が本日の聖句について行なったような指摘へと導かれたのは、そこにある2つの語句が全く正反対の属性を述べているように見受けられるからである。見ての通り、本日の聖句には2つの事がらが含まれている。神は、「怒るのにおそ」いが、「決して罰せずにおくことはしない」。私たちの人格はあまりにも不完全なため、こうした2つの属性の一致点を見てとることができない。ことによると私たちは、こう云って思い惑っているかもしれない。「いかにして神は、怒るのに遅く、だがしかし決して罰せずにおくことはしないなどということがあるのだろうか?」、と。それは、神のご性格が完璧でありすぎて、私たちにはこの2つが――世界を支配するお方が有する無謬の義および峻厳さと、このお方の恵みや寛容さや豊かなあわれみとが――互いに溶け込んでいる点を見てとれないからである。これらのうち、どの1つが欠けても、神のご性格は不完全なものとなっていたであろう。これらがともに存在していればこそ、それがいかにして一致するか私たちに見てとれないにせよ、神のご性格には、他では決して知られない完璧さの太鼓判が押されているのである。

 さて今朝の私は、神のこうした2つの属性について、また、それらをつなぐものについて述べてみたいと思う。「主は怒るのにおそく」、それから来るのが、つなぎの輪である。「力強い」。私はあなたに、いかにその「力強さ」が、先行する文章と、後に続く文章とにかかっているかを示すはずである。それから私たちは、次の属性を考察したい。――「主は決して罰せずにおくことはしない」。すなわち、正義という属性である。

 I. 神の第一の特徴から始めよう。神は「《怒るのにおそい》」と云われている。この属性をまず宣言し、それから、その源泉を辿ってみたい。

 神は、「怒るのにおそく」あられる。あわれみは、世の中にやって来るとき、翼の生えた軍馬を駆っている。その戦車の車軸は、その速度のあまり赤熱している。だが、御怒りがやって来るとき、それはのろのろとした足どりでやって来る。それは性急に殺すことがない。さっさと罪に定めはしない。神のあわれみの杖は常に御手にあって差し伸ばされている。だが、神の正義の剣はその鞘の中にある。その中で赤錆びてはいないものの――いつでも抜き放つことはできるが――、それを、こう叫びながらその鞘の中に押し戻している御手によって抑えられている。「眠るがいい。おゝ、剣よ。わたしは罪人たちをあわれみ、彼らのそむきの罪を赦そうとしているからだ」。神は天に多くの雄弁家をかかえておられる。その何人かは口早に言葉を語る。ガブリエルは、喜びの訪れを告げに降りて来たとき、口早に語っている。御使いたちの軍勢は、稲妻の翼をもって飛びかけて、栄光から下ってきたとき、口早に語り、こう宣告している。「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」[ルカ2:14]。だが、御怒りの暗黒の御使いは、ゆっくりと語る雄弁家で、言葉を何度も切り、ほろりとさせる憐憫の情が、その遅々とした語り口に加わり、自分の弁論を半ばしか語り終えていないところでしばしば立ち止まると、彼は自分の演壇から退いては、赦罪やあわれみに場を譲る。彼は、人々が悔い改めへと駆り立てられ、神の愛の笏による平安を受けられるようにと語っていたにすぎない。

 兄弟たち。私はいま、できる限りの力を尽くして、神がいかに怒るのに遅いお方であられるかを示そうと思う。

 最初に証明したいこととして、神が「怒るのにおそく」あられるのは、神は決して威嚇することなしに打つことはなさらないからである。血の気が多く、怒るのに早い人々は、一言云っては打ちつける。時には、まず最初に打ってから言葉を口にする。しばしば王たちは、臣下から反逆されると、まず彼らを粉砕しておいてから、後になって彼らと論じ合った。彼らは威嚇する猶予を与えず、改悛する余裕を与えなかった。臣下がその臣従に立ち返る余地を許さず、たちまちその激怒によってすりつぶし、彼らを根絶してしまった。神はそうではない。彼は、土地をふさいでいる木を切り倒そうとはなさらない。必ず回りを掘って、こやしをやってくださる[ルカ13:7-8]。神は、いかに邪悪な性格をしている人をも問答無用に打ち殺すことはなさらない。まず預言者たちによって切り刻んでからでなければ、審きによって切り倒すことはなさらない。神は罪人に警告してから初めて罪にお定めになる。ご自分の預言者たちを「早くからたびたび遅くまで」*[エレ26:5; 29:19; 35:15]遣わし、「規則に規則、戒めに戒め、ここに少し、あそこに少し」*[イザ28:10]と教えてくださる。神は警告なしに町を打つことをなさらない。ソドムが滅びたのは、ロトがそこに滞在した後であった。世界が水没したのは、八人の預言者たちがその中で説教し、八番目のノアが主の到来を預言しにやって来てからである。神は、ヨナを遣わすまでニネベを打とうとはなさらない。バビロンを粉砕するのは、ご自分の預言者たちがその街路で叫んだ後である。神がある人を打ち殺すのは、多くの警告を病によって、講壇によって、摂理によって、種々の結果によって送られた後である。神はすぐさま重い打撃を加えることはなさらない。まず威嚇なさる。恵みにおいても、自然界においてと同じように、神はいきなり雷を落としてから雷鳴を轟かせはしない。むしろ、ご自分の律法という雷鳴を響かせてから、それに続いて処刑の雷を落とされる。天来の正義が召し使う官吏の携えている斧は、何本もの鞭でぐるぐる巻きにされている。というのも、神は人々を切り倒す前に、彼らを叱責し、彼らが悔い改めるようになさるからである。神は、「怒るのにおそく」あられる。

 しかし、また神は、威嚇することにも非常に遅くあられる。神は、罪に定める前に威嚇なさるとはいえ、その威嚇においても遅くあられる。神の口は、約束なさるときには非常に素早く動くが、威嚇なさるときにはゆっくりとしか動かない。鳴り響く雷は長々と轟き、天の太鼓はゆっくりと鳴りわたっては、罪人たちの死の行進を響かせる。甘やかに流れる急調子の音楽は、無代価の恵みと、愛と、あわれみを宣告するものである。神は威嚇することに遅くあられる。神がヨナをニネベに遣わそうとされたのは、ニネベが罪で汚れ果てた後であった。ソドムに対してすら、それが火で焼かれると告げようとされたのは、ソドムが悪臭を放つ地下牢となり、天においても地においても不快なものとなってからであった。神が世界を大洪水で水没させよう、あるいは、そう威嚇しようとされたのは、神の子ら自身が不浄な縁組みを結び、ご自分から離れ去り出した後である。神は罪人をその良心によって威嚇することさえ、その罪人がしばしば罪を犯した後でなければなさらない。神はしばしば罪人にその罪について告げ、しばしば悔い改めを促そうとされるが、神が、すさまじい恐怖を満面にたたえた地獄に彼をねめつけさせるのは、多くの罪が獅子をそのねぐらからかき起こし、人の不義に対して神が憤りを燃やさせられてからでしかない。神は、威嚇することにおいてさえ遅くあられる。

 しかし、最善のこととして、神が威嚇なさるとき、神はその犯罪人に判決を下すことにおいて、いかに遅くあられることか! 神が彼らに、悔い改めない限り罰を下すとお告げになるとき、いかに長い余地を彼らに与えて、ご自分のもとに立ち返らせようとなさることか! 「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない」[哀3:33]。神は御手を押さえ、彼らを威嚇するときも、彼らに対する宣告を執行なさるときも、電光石火にそうしようとはされない。あなたは堕落のときのエデンの園の光景に注目したことがあるだろうか? 神はアダムを威嚇しておられた。もし彼が罪を犯すなら、必ず死ぬと云っておられた。アダムは罪を犯した。神は即座に彼に刑を宣告されただろうか? 甘やかにもこう云われている。「そよ風の吹くころ、神は園を歩き回られた」*[創3:8]。ことによると、あの木の実は早朝に摘み取られたのかもしれない。もしかすると、真昼の頃に摘み取られたのかもしれない。だが神は、早急に罪に定めようとはなされなかった。日がほとんど沈もうとし、涼しい夕暮れがやって来るまで待たれた。そして、とある古の講解者が美しく云い表わしたように、いざやって来られたときも神は、御怒りの翼に乗って来るのではなく、「そよ風の吹くころ、園を歩いて来られた」。神は急いで打ち殺そうとはなさらなかった。私には、そのときの神が見えるような気がする。神が人とともに歩いておられた、その栄光に富む時代に、アダムの前にお姿を現わされた神が見えるような気がする。見えないお方が悲哀の顔覆いをかぶっている驚くべきご様子を目にしているような気がする。私はこの方が木々の間をゆっくりと歩いているのが見える。――左様。もしこのようなたとえを用いることが許されるとしたら――その胸を叩きつつ、涙をふりしぼりながら、人を断罪しなくてはならないことを思ってゆっくりと歩いておられる姿である。とうとうこの方の憂いに満ちた声が聞こえる。「アダム。あなたは、どこにいるのか[創3:9]。どこにあなたは身を投げているのか。あわれなアダムよ。あなたは、わたしの恩顧を振り捨てた。あなたは自ら裸の身となり、恐れに陥った。あなたは身を隠しているからだ。アダム。あなたは、どこにいるのか。わたしは、あなたを憐れむ。あなたは神になれると思った。わたしは、あなたを罪に定める前に、一言あわれみの声をかけてやりたい。アダム。あなたは、どこにいるのか?」 しかり。主は怒るのに遅く、判決を認めるのに遅くあられた。かの命令が破られてしまっており、それゆえ、かの威嚇が必然的に効力を発さざるをえないことになっていたとしても関係ない。かの洪水についても同じであった。神は地上を威嚇されたが、その宣告を完全に調印し、天の印章によってそれに捺印しようとしたのは、悔い改めの余地をお与えになってからであった。ノアがやって来て、彼の百二十年を通してみことばを宣べ伝えてなくてはならなかった。彼がやって来て、考えることをしない不敬虔な世代に向かって証ししなくてはならなかった。箱舟が不断の説教として建造されなくてはならなかった。その山頂には、それを浮かび上がらせる洪水を待つ箱舟があって、日ごとに不敬虔な者らに警告を発していなくてはならなかった。お前たち、巨大な大いなる水の源よ。なぜお前たちは一瞬にして張り裂けなかったのか? 神は、「わたしは世を洪水で一掃する」、と云われたではないか。なぜ、なぜお前たちは吹き上がらなかったのか? 「それは」、と彼らがゴボゴボと口を開くのが聞こえる。「それは、神は威嚇なさいましたが、判決を下すことに遅く、内心こう仰せになったからです。『もしや彼らは悔い改めるかもしれない。ひょっとして彼らはその罪から立ち返るかもしれない』、と。それゆえ、神は私たちに休んで静かにしていよと命じられたのです。神は怒るのに遅くあられますから」。

 だがしかし、もうひとたび、ある罪人に対する宣告が署名され、天の国璽によって断罪の調印がなされたときでさえ、そのときでさえ、神はそれを執行なさることに遅くあられる。ソドムの破滅は調印されている。神はそれが火で焼かれると宣言しておられた。しかし、神は急くことがない。立ち止まられる。ご自分でソドムに下って行き、その不義をご覧になろうとする。そして、神がそこにお着きになったとき、不義はその街路で盛んに行なわれている。夜になり、獣にも劣る連中が扉を取り囲む。神はその御手を掲げられただろうか? そのとき、こう云われただろうか? 「大空よ。天から地獄を降らすがいい」。否。神は彼らが一晩中その大騒ぎを続けるにまかせ、最後の瞬間まで彼らの命を取らずにおかれた。そして、日が昇り、燃える雹が降り始めたときでさえ、その執行猶予は可能な限り長く取られていた。神は罪に定めることを急がれない。神はカナン人を根絶やしにすると威嚇しておられた。アモン人の子孫はみな断ち切られると宣言された。アブラハムには、彼の子孫にカナン人の土地を永遠に与え、彼らは完全に根絶されると約束しておられた。だが神はイスラエル人をエジプトで四百年待たせ、こうしたカナン人たちが族長時代を通じて、また、それ以後も生き延びるようにされた。そして、復讐する者たちをエジプトから導き出されたときも、神はあわれなカナンを打つことをいやがられたために、イスラエルを荒野に四十年間とどめおかれた。神は云われた。「まだ、彼らには余裕を与えよう。わたしは、彼らの有罪判決書に捺印しており、彼らの死刑執行令状は王座裁判所から発行されており、執行されなくてはならないが、それでもわたしは、できる限り彼らの刑の執行を猶予しよう」。そして神は、最後のあわれみが十分に尽くされるまで立ち止まられた。エリコが灰燼に帰し、アイの壊滅したことこそ、剣がその鞘から抜きはなされた知らせとなり、神は勇士が覚めたように、また、憤りに満ちた強い人のように目を覚まされた。神は、ご自分が宣告された有罪判決であってさえも、その執行において遅くあられる。

 そして、あゝ! 愛する方々。たった今、私の脳裡を1つの悲しい思いがよぎった。何人かの人々は、まだ生きてはいるが、今や有罪宣告を受けているのである。これには聖書の裏づけがあると信ずるが、いま私は、1つのすさまじい思想を暗示だけはしておきたい。ある人々は、最終的な断罪を受ける前から罪に定められているのである。ある人々は、自分たちに先駆けて自分の罪を審きへと送り込んでいるのである。彼らは無感覚になった良心に引き渡されており、彼らについては、悔い改めも救いも不可能だと云える。この世には、ごく僅かながらも、ジョン・バニヤンの云う、鉄の檻に入って出て来ることのできない人のような者らがいる。こうした人々はエサウのようである。――彼らには心を変えてもらう余地がない[ヘブ12:17]。エサウのようにそれを求めることがなかった点は違うが。もし求めていたとしたら、それを見いだしていたであろうからである。多くの人々は、私たちが「願うようにとは」云われていない、「死に至る罪」[Iヨハ5:16]を犯している。しかし、なぜ、なぜ、なぜ彼らはまだ炎の中にいないのだろうか? もし彼らが罪に定められているとしたら、もしあわれみが彼らについては永遠に目をつぶっているとしたら、もし彼らに赦罪を与えるためにはその手を決して差し伸ばすことがないとしたら、なぜ、なぜ、なぜ彼らは切り倒されて、一掃されていないのだろうか? それは、神がこう云っておられるからである。「わたしは彼らをあわれむまい。だが、彼らをもう少し生かしておいてやろう。すでに彼らを罪に定めてはいるが、わたしはその判決を執行するのがいやなのだ。それで、あの男がしかるべく生きていられる間は、いのちを取らないでおこう。わたしは彼らが地上で長生きできるようにしておこう。彼らは未来永劫にすさまじい永遠の怒りを受けることになるからだ」。しかり。彼らにはほんの少し目くるめくような快楽を持たせてやろう。彼らの終わりは、この上もなく恐ろしいものとなるであろう。そうした者らは用心するがいい。神は怒るに遅くはあられるが、それを確実に行なれるからである。

 もし神が怒るに遅くなかったとしたら、神は私たちのこの巨大な町、この馬鹿でかい町を打っていたのではないだろうか?――それを一千もの破片に打ち砕き、その記憶を地上から拭い去っていたではないだろうか? この町の不義はあまりにも大きいため、たとい神がこの町の土台そのものを掘り出し、この町を海に投げ込んだとしても、この町は十分それに値するであろう。夜になったときの私たちの街路は、無類の悪徳にいろどられた光景を現出させる。確かに、もしも私たちの真夜中の街路が私たちの不道徳さのしるしだとしたら、この大都市ロンドンほど堕落しきった町を示せるような国や地方はどこにもありえないであろう。あなたがたは、自分がよく行く公共の場では――あなたがた、というのは貴顕ならびに貴婦人の方々のことだが――、あなたの慎ましさからすれば恥じてしかるべきことを平然と耳に入れている。あなたがたは、劇場に座り、そこでは、あなたがたの敬虔さからとは云わず、慎ましさからしても赤面すべきことが口にされるのを平然と耳にしている。男女のうち、より無作法な側の者が『椿姫』の猥褻な言葉を耳にしていることだけでも確かに十分良くないに違いない。だが、最高に洗練された、またこの上もなく歴とした趣味の持ち主である淑女の方々が、このような悪徳をひいきにすることによって自らに不名誉を招くというのは、実際耐えがたいことである。ならばあなたは、下層の劇場のもろもろの罪を見逃すがいい。それをとがめてはならない。あなたがた英国紳士たち。芝居小屋に見られる地獄の底のような最低の獣性は、あなたがたの歌劇場を自分たちの口実にできるからである。思うにこの町は、敬神さを気取ってはおり、確かにそれほどひどい状態になりたがってはいないと思う。それに、新聞そのものからあれほどの警告を受け取った後では――新聞があまりキリスト教的でないことは確実だが――、人は自分たちの悪の情動にそれほどのめりこもうとはしないであろう。しかし、その丸薬が金箔をかぶせられているがために、あなたがたは毒を呑み込んでいる。それが人気を博しているがために、あなたがたはそれを大目に見ている。それは好色で、忌まわしく、人を欺くものである! あなたがたは、子どもたちを連れて行っては、あなたがた自身でも決して聞くべきでないようなものを聞かせている。あなたがた自身が放埒ではなやかな人々の間に座り、耳にしているような事がらは、本来あなたの慎ましさをむかつかせてしかるべきことである。また、私はそうなることを希望している。今の風潮がしばしあなたを欺いているとしてもそうである。あゝ! 神だけが、この大きな町のひそかな邪悪さをご存じである。この町には、大きな割れ鐘のような声が求められている。この町は、大声でこう叫ぶ預言者を必要としている。「ときの声をあげよ。ときの声をあげよ。ときの声をあげよ」。というのも、まことに、この町に取りついた敵は次第に力を増しており、悪い者の力は強大で、私たちは急速に破滅へ向かいつつあるからである。神がその御手を差し伸ばし、私たちの街路を流れる、この不義の黒い奔流を押し戻してくださらない限りそうである。しかし、神は怒るのに遅く、なおもその剣を押さえておられる。《御怒り》は昨日、「剣よ。お前を抜き放て」、と云い、その剣も自由になろうともがいた。あわれみはその手を柄に置き、「静まりなさい!」と云った。「剣よ。お前を抜き放て!」 またもや、それはその鞘から自由になろうとしてもがいた。あわれみはその手を柄に置き、「お戻り!」と云った。――だが、それは再びカタカタ鳴り始めた。《御怒り》はその足を踏みならして云った。「目覚めよ。剣よ。目覚めよ!」 それは再びもがき、その刀身の半分が抜かれた。「お戻り、お戻り!」――と《あわれみ》が云い、決然とそのカタカタ鳴る剣を鞘に押し込んだ。そして、それはそこで静かに眠っている。というのも、主は「怒るのにおそく、恵み豊かである」[詩103:8]からである。

 さて私は、神のこの属性をその根源まで辿ることにする。なぜ神は怒るのに遅くあられるのだろうか?

 神が怒るの遅くあられるのは、神が無限にいつくしみ深いお方であるからである。いつくしみは神の御名である。「いつくしみ深き」神。いつくしみは神のご性質である。神は怒るのに遅くあられるからである。

 また、神が怒るのに遅くあられるのは、神が偉大なお方であるからである。小物は常に怒るのに早いが、大物はそうではない。馬鹿な駄犬はあらゆる通行人に向かって吠え立て、いかなる侮辱も我慢できない。獅子はその千倍も多くのことに耐えられる。また、雄牛はその牧草地で眠り、自分の力を奮い起こす前に多くのことにに耐える。海にいるレビヤタンは、怒れば深い淵を白髪のようにするが、簡単には挑発されることがない。一方、小魚や雑魚は常にたちまち怒りに駆られる。神の大きさは、その御怒りの遅さの1つの理由である。

 II. しかし、このつなぎの輪へと急いで話を移そう。神が怒るのに遅い1つの大いなる理由は、神が《力強い》お方だからである。これこそ、この主題のこの部分と最後の部分との間にあるつなぎの輪であり、それゆえ、あなたに注目してほしいことである。私は云うが、この力強いという言葉は、第一の文章と最後の文章を結び合わせている。主は怒るのに遅い。そして、主が怒るのに遅いのは、主が力強いお方だからである。「なぜそう云えるのです?」――ある人はそう云うであろう。答えよう。力強い者は自分を制する力を有している。自分の短気を抑え、自分を従わせることのできる者は、町を治める者、国々を征服することのできる者よりもすぐれている。私たちはつい昨日、あるいは一昨日に私たちを驚かせた雷鳴の轟きのうちに、神の強大な力が現わされるのを聞いたばかりである。そして、私たちが稲妻のきらめきのうちに御力の光輝を見てとったとき、また、神が天の門を引き上げては、その輝きを見たとき、また、神が一瞬のうちにそれを再び閉ざしては、埃っぽい地上に戻されたとき、――そのときでさえ私たちは、神がご自分に及ぼしておられる御力とくらべれば、御力の隠れた姿しか見ていなかったのである。神の御力がご自分を抑制するとき、それは実際に力であり、力を押さえる力、全能を束縛する力は、よりすぐれた全能である。神は御力において力強く、それゆえ、神はご自分の怒りを押さえることがおできになる。強い精神をした人は、侮辱に耐えることができる。無礼に耐えることができる。力強いからである。弱い精神は、ほんのちょっとしたことをも口汚く罵る。強い精神は巌のようにそれに耐える。一千もの破砕機が打ちつけようと動くことなく、そうしたあわれむべき悪意をその頂上にあがる粉塵の中に舞い散らす。神はその敵どもに注意を払われるが、動くことはない。静かに立って、彼らがご自分を呪うままにさせるが、激怒に駆られはしない。もし神が、本当よりも神らしくなかったとしたら、もし神が私たちの知るほど力強いお方でなかったとしたら、神はとうの昔にご自分の雷のすべてを送り出し、天の弾薬庫を空っぽにしていたことであろう。とうの昔に、地中深く用意しておいた驚くべき地雷で地上を吹き飛ばしていたことであろう。そこで燃えている火焔が私たちを焼き尽くし、私たちは完全に滅ぼされていたことであろう。私たちは神をほめたたえる。その御力の大きさこそ、まさに私たちの守りであり、神が怒るのに遅いのは神が力強いお方だからである。

 さて今、このつなぎがいかに、自らとこの節の次の部分を結び合わせているかは何の困難もなく示すことができる。「主は……力強い。主は決して罰せずにおくことはしない」。ここでは、言葉による証明は全く必要ない。私がごく僅か語るだけで、あなたにもそれは見てとれるであろう。神の御力の大きさは、神が悪人を罰せずにおくことをしない確証であり、保証である。あなたがたの中の誰が、金曜の夜の嵐を見ながら、自分自身の罪深さに関する思いを胸中にかき立てられずにすませられただろうか? 人々は、太陽が輝き、天候が穏やかなときは、罰を下す神、復讐するエホバには思いを致さない。だが大嵐のときに蒼白にならない者がいるだろうか? キリスト者はしばしばこのことを喜びとする。そうした人々はこう云える。「私の魂は、この地上の乱痴気騒ぎの最中でも全く安らかである。私はそれを喜んでいる。きょうは、私の御父の大広間で宴会が開かれている日なのだ。天で大宴会と謝肉祭が開かれている日なのだ。そして私は嬉しいのだ。

   「神は 高みで統べ治め
    御旨のままに 雷(いかづち)発し
    荒ぶる空に 乗り行きて
    大わたつみも つかさどらん。
    こは我らが 気高き神、
    我らが父、我らが愛なり。
    天(あま)つ力を 降らせ給いて
    われらを上へ 連れ行かん」。

しかし、安らかな良心を持っていない人は、家の材木がきしみ、堅い大地の基盤が呻くように思えるとき、不安になるであろう。あゝ! ならば、誰が震えずにいられようか? 向こうの高い木は真っ二つに引き裂かれている。あの稲妻がその幹を打ったのである。そして、そこにそれは、神に何がおできになるかの記念碑として、枯れたまま永久に横たわっている。そこに立って、それを見ていたのは誰か? 悪態をつく者だっただろうか? 彼はそのとき悪態をついただろうか? 安息日を破る者だっただろうか? そのとき彼は自分が安息日を破っていることを嬉しく思っただろうか? 高ぶった者だっただろうか? そのとき彼は神を蔑んだだろうか? あゝ! そのときいかに彼が身震いしたことか。彼の髪の毛が逆立っているのが見えなかっただろうか? 彼の頬は一瞬にして真っ青にならなかっただろうか? この物凄い光景を見たとき、また、神が自分をも打とうとしているのだと考えたとき、彼は目をつぶって、恐怖のあまり後ずさりしなかっただろうか? しかり。神の力は、大嵐の中に見られたとき、それが海上であれ陸上であれ、地震においてであれ暴風においてであれ、本能的に、神が悪人を罰せずにおくことはしないという証拠である。私はこの感覚をどう説明すべきか知らないが、これは、それにもかかわらず真実であり、全能の威厳ある現われは、かたくなな者さえこう確信させるような効果を精神に及ぼすのである。すなわち、これほどに力強い神は「決して罰せずにおくことはしない」、と。このようにして、ここまで私はこの鎖をつなぐ輪を説明し、明らかにしようとしてきた。

 III. 最後の、そして最も恐ろしい属性は、こうである。「《主は決して罰せずにおくことはしない》」。まず最初に、このことの説明をさせてほしい。それから、その後で、このことを、最初の属性のときにしたように、やはりその源泉へと辿ってみさせてほしい。

 神は「決して罰せずにおくことはしない」。いかに私はこのことを証明するだろうか? 私はこう証明する。これまで神は一度として、罰されなかった罪をお赦しになったことがない。《いと高き方》のすべての歳月において、その右の御手のすべての日々において、一度たりとも神は罰を与えずに罪を拭い去ったことはない。何と!、とあなたは云うであろう。天国にいる者たちは赦されていなかっただろうか? 多くのそむく者たちが赦されており、彼らは罰を免れているのではないだろうか? 神はこう云われたではないだろうか? 「わたしは、かすみのようにあなたのそむきの罪を、あなたの不義を雲のようにぬぐい去った」*[イザ44:22]。しかり。それは真実である。最も真実である。だがしかし、私の主張もまた真実である。――このように赦されたあらゆる罪のうち、その1つたりとも、罰なしに赦されたものはない。あなたは私に、そのようなことがなぜ、いかにして真実でありえようかと問うだろうか? 私があなたに指し示したいのは、あの恐ろしいカルバリの光景である。赦された罪人の上に下らなかった罰は、そこに下ったのである。正義の雲は燃える雹を満々にはらんでいた。罪人はそれに値していた。それは彼の上に降ってきた。だが、結局のところは、それは降り下って、その憤激を注ぎ出し尽くしてしまった。それは、そこに、かの大いなる悲惨の貯水池に下って、それは《救い主》の心に注ぎ込まれた。そうした、私たちの忘恩の上に降る必要があった天罰は私たちの上に降ることなく、別の所に降った。では、誰がその災いを受けただろうか? 私に告げるがいい。ゲツセマネよ。告げるがいい。カルバリの頂よ。誰が災いを受けたのか? あの陰鬱な答えがやって来る。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]。イエスこそ罪の天罰すべてを忍んでおられる。罪人は解放されるが、罪はなおも罰されているのである。

 しかし、あなたは云うであろう。それは、神が悪人を決して罰せずにおくことはしない証明にはほとんどなっていない、と。私は、これはそれを証明した、それも明確に証明したと主張するものである。だが、あなたがたは、神が悪人を決して罰せずにおくことはしないという証明をこれ以上欲するだろうか? 私は、神がもたらした数々の恐ろしい驚異――神の復讐の驚異――という長大な一覧表を通じてあなたを導く必要があるだろうか? 私は、荒廃したエデンをあなたに見せるべきだろうか? 全世界が水没した姿を見せるべきだろうか?――海の巨獣らが、王たちの宮殿を子を産むねぐらとしていた姿を。私は、あなたに聞かせるべきだろうか? 溺れていく最後の人が、大水の中に沈み込み、死んで行き、山頂からの巨大な波に洗われる際にあげた最後の悲鳴を。私はあなたに見せるべきだろうか? 波頭を立てた波浪にまたがった死が、おのれのわざをなし終えたがために、果てしない大海原を勝ち誇っては闊歩する姿を。彼の矢筒は空っぽである。というのも、人という人は皆殺しになっており、いのちは、死のただ中に浮かぶ彼方の箱船の中にしかないからである。私はあなたにソドムとその恐怖に駆られた住民を見せる必要があるだろうか? 全能者の御怒りという火山が、その上に燃える雹を噴出させた光景を。私は、地がその口を開き、コラや、ダタンや、アビラムを呑み込んでしまった場面を見せるべきだろうか? 私はあなたをエジプトの数々の災厄のもとへ連れて行く必要があるだろうか? 私はもう一度パロの死の悲鳴を、また、彼の軍勢の水没を繰り返し語るべきだろうか? 確かに私たちは、廃墟と化した町々のことや、一日のうちに断ち切られた国々のことを語られる必要はないに違いない。あなたがたには、いかに神が憤られたときに地の果てから果て果てまで打たれたかを告げてもらう必要はない。熱い不興を感じられたとき、いかに神が山々を溶かされたことか。否。歴史の中にある十分な証拠、聖書の中に十分の証拠は、「主は決して罰せずにおくことはしない」ことを示している。しかしながら、もしあなたがたが最上の証拠を欲しているとしたら、あなたがたは1つのみじめな想像力の黒い翼を借り、世界を越えて飛ぶべきである。混沌の暗黒の領域を通じ、さらに先へ行き、あの火焔の狭間胸壁がおぞましい光で微光を発している所へ行くべきである。――もしそれらを越えて、霊の安全さを頼りにあなたがたが飛んで行くとしたら、そして、あの尽きることのないうじを見、底知れぬ穴を見るとしたら、また、そこに消えることのない火を見、永遠に神から追放されている者らの悲鳴と呻きを聞くことができたとしたら、――もしも、方々。もしもあなたがたに、陰鬱(くら)き呻き、虚ろな嘆き、責苦(くる)しめらるる幽鬼の悲鳴を聞くことが可能であったとしたら、そのときにはあなたも、驚愕し、呆然としてこの世に戻って来ては、こう云うであろう。「実際、神は悪人を決して罰せずにおくことはしない」、と。あなたも知る通り、地獄はこの聖句の議論であり、願わくは、決してあなたがこの議論が全く達成されるのを自ら感じることによって、この聖句を証明することがないように。「主は決して罰せずにおくことはしない」。

 そして今、私たちは、このすさまじい属性をその源泉まで辿ることにする。それは何だろうか?

 答えよう。神が悪人を決して罰せずにおくことはしない方であるのは、神がいつくしみ深い方だからである。何と! いつくしみ深さが、罪人たちの罰されるのを要求しているのですと? その通り。裁判官が殺人者を断罪しなくてはならないのは、彼が自分の国を愛しているからである。「私は、お前を無罪放免することはできない。それは私にできないし、してはならないことだ。お前がこの公正な民主国に属している他の人々を殺したとした場合、もし私がお前を無罪放免するとしたら――否。私は、私の性質の高潔さそのもののゆえに、お前を断罪しなくてはならない」。ある国王の慈愛は、咎ある者の罰を要求する。立法府が大罪人に対して厳しい法律を制定するのは、それが憤激にかられているからではない。その他の者らに対する愛があればこそ、罪は抑制されなくてはならないのである。向こうにある巨大な水門は、罪の奔流をせきとめているが、真っ黒に塗られていて、まことに恐ろしい見かけをしている。ぞっとするような地下牢の門のように見える。それらは私の霊を怯えさせる。だが、それらは神がいつくしみ深くない証拠だろうか? 否。方々。もしあなたがたが、あの門をみな開け放ち、罪の洪水を私たちの上にのしかからせるとしたら、あなたは叫ぶであろう。「おゝ、神よ、おゝ、神よ! あの罰の門を再び閉じてください。律法をもう一度確立し、かの柱を立て、かの門をぴったり閉ざしてください。そして、獣にも劣る者となり果てた者どもによって、この世が全く滅ぼされることが二度とないようにしてください」。まさにいつくしみ深さのゆえにこそ、罪が罰されることは必要なのである。《あわれみ》は、その涙する目をもって(というのも、彼女は罪人たちのために泣いているからである)、彼らが悔い改めないの見いだすとき、《正義》がそのあらゆる威厳を固めた場合にもまして、その高潔さにおいて恐ろしいほど峻厳な面持ちになる。彼女はその手から白旗を落とし、こう云う。――「いいえ。私は招きましたが、彼らは拒みました。私は手を差し伸べましたが、誰も顧みませんでした。彼らを死なせなさい。死なせなさい」。――そして、《あわれみ》自身の口から出たその恐ろしい言葉は、《正義》の断罪そのものよりも厳酷な雷鳴である。おゝ、しかり。神のいつくしみ深さは、人々が罪を犯そうとするとき、彼らが滅びることを要求するのである。

 またやはり、神の正義がそれを要求する。神は無限に正しく、神の正義は、人々が心の底から神に立ち返らない限り、罰を要求する。私は神の属性すべてを列挙して、このことを証明する必要があるだろうか? ないと思う。私たちはみな信じているに違いない。怒るのに遅くあられる神、力強くあられる神は、また、悪人を決して罰せずにおくことはしない方であられる、と。そして、今、あなたの心に1つか2つのことを深く突き入れさせてほしい。今朝のあなたの状態はどうだろうか? 愛する方々。あなたがたひとりひとりは、どのような状態にあるだろうか? あなたは天を見上げて、こう云えるだろうか? 「私は大いに罪を犯してきましたが、キリストが私の代わりに罰されたと信じます。

   『わが信仰は見ゆ、振り返りみて
    呪いの木の上(え)に かかりつつ
    主の負いたりし 重き荷を。
    わが咎そこに あるのを知りて』」。

あなたは、謙遜な信仰によってイエスを仰ぎ見て、こう云えるだろうか? 「私の身代わりよ、私の隠れ家よ、私の盾よ。あなたは私の岩です。私の頼みの的です。あなたに私は信頼します」、と。ならば、愛する方よ。あなたに私は、ただこのことしか云わない。――神の御力を見るときも、決して恐れてはならない。というのも、今やあなたは赦され、受け入れられているからである。信仰によって、あなたが隠れ家を求めてイエスのもとに逃れ来ているからにはそうである。神の御力はあなたを恐怖させることはない。ある戦士の盾や剣が、彼の妻子を恐怖させることがないのと同じである。「そうです」、とその女は云うであろう。「彼が強いですって? 彼は私のために強いのです。彼の腕が筋肉隆々で、彼の筋骨がみな逞しく、強靱ですって? ならば、それが逞しくて強靱なのは、私のためなのです。彼が生きていて盾を握っている限り、彼はそれを私の頭の上にかざしてくれるでしょう。彼の鋭い剣が敵どもを真っ二つにする限り、それは私の敵どもをも真っ二つにし、私を解放してくれることでしょう」。元気を出すがいい。神の御力を恐れてはならない。

 しかし、あなたは一度も隠れ家を求めてキリストのもとに逃れて行ったことがないだろうか? あなたは《贖い主》を信じてはいないのだろうか? 一度もあなたの魂を主の御手にゆだねたことがないのだろうか? ならば、愛する方々。よく聞いてほしい。神の御名によって、ほんのしばし私に耳を傾けるがいい。愛する方々。私は、一時たりとも、星の数の二倍ほどの黄金をもらえるとしても、決してあなたの立場には立ちたくないと思う。というのも、あなたはいかなる立場にあるだろうか? あなたは罪を犯した。そして神はあなたを決して罰せずにおくことはしない。神はあなたを生かしておられ、あなたは刑の執行を猶予されている。だが赦罪を受けることなく執行猶予されている者の人生の何とあわれなことか! あなたの執行猶予はすぐに尽きてしまうであろう。あなたの砂時計は、日々なくなりつつある。私の見てとるところ、あなたがたの中のある人々の上には、死がその冷たい手を置き、あなたの頭髪を白く凍らせている。あなたがたには杖が必要である。今やそれだけが、あなたと墓場を隔てる唯一の障壁である。そしてあなたは、あなたがた全員は、老いも若きも、2つの広漠たる海にはさまれた狭い地峡に立っているのである。その狭まった土地、いのちという地峡は、一瞬ごとに狭くなりつつあり、あなたも、あなたも、あなたも、まだ赦されないままなのである。今まさに略奪されようとしている町がある。そして、あなたはその中にいるのである。――兵士たちは門の前にいる。中にいる者はみな、合言葉を云える人々をのぞいて虐殺するようにとの命令が下されている。「眠ってろ、眠ってろ。攻撃はきょうは行われないさ。眠ってろ、眠ってろ」。「しかし、明日には行われるのでしょう」。「そうだよ。眠ってろ、眠ってろ。まだ明日にはなっていないのだ。眠ってろ。ぐずぐずのらくらしていろよ」。「聞いてください! 門の方でガラガラいう音が聞こえました。破城槌が門に突き当てられているのです。門がぐらついているのです」。「眠ってろ、眠ってろ。あの兵士どもはまだ、あんたの戸口の前まで来てるわけじゃなし。眠ってろ、眠ってろ。まだ命乞いなんかすることはないさ。眠ってろ、眠ってろ!」 「ええ。ですが、私には甲高い喇叭の響きが聞こえます。奴らはもう町通りに来ていますよ。聞いてください。男や女の悲鳴が聞こえます! 奴らはみんなを皆殺しにしてるんです。みんな、ばたばたと倒れています。ばたばたと、ばたばたと!」 「眠ってろよ。奴らはまだ、あんたの戸口の所にはいないだろ」。「ですが、聞いてください。奴らは玄関の所にいます。ドシンドシンと兵士たちが階段を昇ってくるのが聞こえます!」 「いいや、眠ってろ、眠ってろ。奴らはまだ、あんたの部屋にはいないだろ」。「何と、奴らはいますよ。奴らは私と彼らを隔てていた戸口を押し破りました。そして、そこに立ってますよ!」 「いや、眠ってろ、眠ってろ。剣はまだあんたの喉笛に当てられてはいないだろ。眠ってろ、眠ってろ!」 それが、あなたの喉笛に当てられる。あなたは恐怖におののく。眠ってろ、眠ってろ! しかし、あなたは御陀仏である! 「悪魔めが、なぜお前は私に眠るように云ったのだ! 最初に門が揺るがされたときに、あの町から脱出していれば賢かったものを。なぜ私はあの軍隊がやって来る前に合言葉を尋ね求めなかったのだろうか? 何と、この世の賢いものすべてにかけて、なぜ私は町通りに飛び出して行って、あの兵士たちがいる所で、その合言葉を叫ばなかったのだろうか? なぜ私は、合口が喉笛に押し当てられるまで突っ立っていたのだろうか? そうだ。お前は悪魔だ。呪われるがいい。だが、私はお前とともに永遠に呪われるのだ!」 あなたは、この適用が分かるであろう。これは、あなたがたがみな解き明かせるたとえである。あなたがたには、私がどうこう云う必要はなかろう。死はあなたの後を追いかけている。正義があなたをむさぼり食らうに違いない。十字架につけられたキリストだけが、あなたを救うことのできる唯一の合言葉である。そして、あなたはまだそれを覚えていない。――あなたがたの中のある人々に向かって、死は近づいて、近づいて、近づいて来つつある。そして、あなたがたの全員に向かって、迫りつつある! 私が何と説明するまでもなく、サタンは悪魔であり、いかに地獄においてあなたは彼を呪い、ぐずぐずと遅疑逡巡していたことで自らを呪うことか。――いかにあなたは、神が怒るのに遅くあられるかを見て、悔い改めるのに遅かったことか。――いかにあなたは、神が力強くあられ、その怒りを引き留めておられたがゆえに、神を求める自分の足取りを引き留めてきたことか。そのあげくの果てが、今のざまなのである!

 神の御霊よ。こうした言葉を、ある魂たちにとって祝福とし、彼らが救われるようにしてください! 願わくは、幾人かの罪人たちが《救い主》の御足元に導かれ、あわれみを叫び求めますように。私たちはそれを願います。イエスのゆえに。アーメン。

  

 

あわれみ、全能、正義[了]

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