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傲慢の罪

NO. 135

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1857年6月7日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください」。――詩19:13


 すべての罪は大罪である。だが、ある罪は他の罪よりも大きい。いかなる罪もその中に謀反の毒液を含んでおり、本質的には反逆的に神を拒絶する思いで骨の髄まで満ち満ちている。しかし、ある種の罪は、反逆というその本質的な害悪をいやまして発育させたものを含んでおり、《いと高き方》に逆らい立つ厚かましい高慢さをべったりと顔に貼りつけている。罪はいずれも私たちを断罪するのだから、どの罪も大差ないのだ、と考えては間違いである。事実を云うと、確かにそむきの罪はみなきわめて重く罪深いものではあるが、それでもある種のそむきの罪は、格段に深い暗黒の影を有しており、他の幾倍も濃い緋色に染め抜かれた極悪の犯罪性を帯びているのである。さて、本日の聖句にある傲慢の罪とは、まさに罪という罪の中でも、そのかしらにほかならない。この種の罪は、不義の一覧表の中でも真っ先にあげられる最上位の部分を占めている。注目すべきことに、ユダヤ律法の下ではいかなる種類の罪に対しても贖いが供されていたが、そこには1つの例外があった。「傲慢に罪を犯す者は、贖われることなく、民の間から断たれなければならない」*[民15:30 <英欽定訳>]。そして、今のキリスト教の経綸の下においても、確かに私たちのほむべき主の犠牲のうちには、もろもろの傲慢の罪のための大いなる尊い贖いがあり、そのような罪を犯した罪人たちもきよめられることができるとはいえ、それでも傲慢な罪人が赦罪を受けることなく死んだ場合には、神の御怒りの二倍の分を受けることを予期しなくてはならないに違いない。そして、かの悪人たちのために掘られた穴の中で、永遠の罰という名状しがたい責め苦の苦悶を驚くほど大きく現わされるものと思わなくてはならない。

 私は今朝まず第一に、努めて傲慢の罪の特徴を述べるようにしたい。それから第二に、できるものなら、なぜ傲慢の罪が他のいかなる罪にもまして悪逆なものなのかを、いくつかの例証によって示すようにしたい。それから第三に、この祈りをあなたに注目させるようにしたい。――よく聞くがいい。この聖なる人の祈り――ダビデの祈りである。「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください」。

 I. では第一に、《傲慢の罪とは何だろうか?》 さて、ある罪が傲慢の罪とされるためには、4つのことのうち、いずれかがなくてはならないと思う。それは、光と知識にそむいて犯された罪であるか、熟慮の上で犯された罪であるか、罪を犯すだけのために意図的に犯された罪であるか、さもなければ、自分の力に軽率により頼む中で厚かましく犯された罪でなくてはならない。こうした点について私たちは1つ1つ注目していくであろう。

 1. 明らかな光と知識にそむいて故意に犯された罪は、傲慢の罪である。無知ゆえの罪は傲慢ではない。ただし、その無知も故意のものである場合、その無知そのものが傲慢の罪となるが。しかし、ある人が分別を欠いているがために罪を犯す場合――律法を知ることがなく、教えや叱責や忠告や戒めを受けることがなかったために罪を犯す場合――、そのようにして犯された罪は、さほど大きく傲慢の罪の性質を帯びてはいないと私たちは云うものである。しかし、ある人に分別があり、光と知識を増し加えられているにもかかわらず、それに面と向かって罪を犯すとき、その場合、その人の罪は、この卑しむべき称号、傲慢の罪の烙印を押されるに価する。この点について、もうしばし詳しく述べさせてほしい。良心はしばしば人々にとって内なる光であり、それによって人々は禁じられている行為が罪深いものだと警告される。ならば、もし私が良心にそむいて罪を犯すとしたら、たとい良心が供してくれる以上の光が何もなかったとしても、私の罪は傲慢の罪である。私が自分の心における神の声、啓発された良心にあえてそむこうとした以上そうである。あなたがた、青年たち。かつてあなたは、ある行為を行なうように誘惑されたことがあった(それは、ほんの昨日のことだったかもしれない)。あなたが誘惑された瞬間に、良心は、「それは悪いことだ、悪いことだ」、と云った。――それはあなたの心の中で大きな叫び声をあげ、あなたが行なおうとしていることは主の御前で忌みきらうべきことだとあなたに告げた。あなたの徒弟仲間は、良心の警告も受けずに同じ罪を犯していた。それは彼にとっても咎であった。――《救い主》の血で洗い流される必要のある咎であった。しかし、彼の咎は、あなたの咎ほど大きくなかった。なぜなら、あなたは、良心によって阻まれたからである。あなたの良心は、その危険についてあなたに告げ、その罰についてあなたに警告したが、あなたはあえて神に逆らって道を踏み外した。それゆえ、あなたは傲慢の罪を犯したのである。あなたは、そうすることによって非常に重い罪を犯した。人が私の地所に侵入した場合、たとい何の警告も受けていなくとも侵入者である。だが、もし彼の真前に警告が立っていて、それを知りながら故意に侵入して来るとしたら、彼には傲慢に侵入したという咎があり、それに従って重い罰を受けるべきである。そのようにあなたも、もし分別が足らず、あなたの良心があまり啓発されていなかったとしたら、その行為を行なったとしても、今あなたに帰されているほど重い犯罪性はなかったかもしれない。なぜなら、あなたは良心にそむいて罪を犯し、それゆえ、傲慢の罪を犯したからである。

 しかし、おゝ! 人が良心の光のみならず、友人の勧告をも有しているとき、その罪はいかに重くなることか。賢明で、その人からも尊重されている人々の助言である。たとい私を阻もうとするものが1つしかなく――私の啓発された良心だけが私を阻み――、それにそむいて私が罪を犯すとしても、私は傲慢である。だが、もし母が涙をためた目で私の咎の結果について私に警告し、父がじっと私を見つめて、愛情のこもった断固たる真剣さで、私のそむきの罪が何をもたらすかを私に告げるとしたら――、もし私にとって大切な友人たちが悪人の道を避けるよう私に忠告し、そこにとどまり続けるとき、いかなる結果が生じざるをえないかを私に警告してくれるとしたら――、私は傲慢であり、私の行為は、それに全く比例して格段に咎あるものとなる。私は、生まれながらの光に反して罪を犯しただけでも傲慢であったが、それに加えて愛情のこもった助言や、親切な忠告という光がある場合には、いやまして傲慢である。そして、そうすることにおいて私は、自分の頭に天来の御怒りを倍増しで積み重ねるのである。さらにまた、そむく者が、いわゆるキリスト教教育を授けられてきた場合、このことはいかにいやまさって真実となるであろう。幼少期のその人は、聖所のともしびで寝床を照らされていた。イエスの御名は静かな子守歌と入り混じっていた。聖所の音楽が早朝の賛美歌のようにその人を目覚めさせた。その人は、敬神の膝の上であやされ、敬虔の乳房を吸ってきた。その行く道にふさわしくしつけられ、教育されてきた[箴22:6]。私は云う。そうした人の咎は、このような教育を一度も受けたことがなく、自らの気まぐれな情欲と快楽を追求するがままに放っておかれた人、聖なる教育の抑制と啓発された良心の抑制とを全く有していなかった人よりも、いかにいやまさって恐ろしいものであろうか!

 しかし、愛する方々。これよりも、さらに悪辣なことがありえる。人がそれよりもずっと傲慢な罪を犯すのは、その人が罪について、神の御声からきわめて特別な警告を受けていた場合である。それはどういう意味ですか?、とあなたは云うであろう。何と、こういう意味である。あなたは、ほんの昨日、近所の頑健な男性が突然死んで墓にかつがれていくのを目にしたばかりである。つい一箇月前には、かつてあなたがよく知っていて愛していた人のために弔いの鐘がなるのを聞いたばかりである。その人は、ぐずぐず先延ばしに先延ばしにするうちに、先延ばしの中で滅びてしまった。あなたが通る町通りにおいてさえ、ただならぬ事がらが起こり、神の御声は《死》の口を通して大声であなたに語りかけている。左様。またあなたは、自分のからだにおいても警告されてきた。あなたは熱病にかかったことがある。墓の鼻先まで至ったことがある。そして、底のない破滅の墓穴をのぞき込んだことがある。つい先だっても、あなたは医者に匙を投げられた。誰しも、あなたのための棺を用意した方がいいと云っていた。あなたが虫の息だったからである。そのとき、あなたは壁に顔を向けて祈った。もし神がいのちを助けてくださるなら、まともな生き方をします、自分のもろもろの罪を悔い改めます、と誓った。だが、あなた自身をも困惑させることに、今のあなたは、かつてのあなたと全く変わっていないのである。あゝ! あなたに告げさせてほしい。あなたの咎は他のいかなる人よりも重い。というのもあなたは、自分にできる限りの最高の意味において傲慢な罪を犯したからである。あなたは叱責にそむいて罪を犯したが、それよりさらに悪いことに、あなた自身の厳粛な誓いと誓約にそむいて罪を犯し、あなたが神と交わした約束にそむいて罪を犯した。火とたわむれる者は考えなしだと非難されるに違いない。だが、一度火傷をした後でも、この破壊的な元素とたわむれる者は考えなしよりも悪い。そして、自ら炎で焦がされ、髪の毛をすべてちりちりに焼き焦がされた人が、もう一度火の中に頭から突進していく場合、私は云うが、それは考えなしよりも悪い。傲慢と云っても足りない。狂人である。しかし、この場にはそうした人々が何人かいるであろう。彼らはすさまじい警告を受け取ったので、分別がついていてしかるべきである。彼らは、自分のからだを暗黒に引き入れる数々の情欲にふけってきたし、ことによると、この日この建物に、こっそり入り込んだのかもしれない。自分の隣の人に向かって、今そばに立っているのがいかなる者であるかを告げることも、今いかに厭わしいものを自らの身体から放ちつつあるかを告げることもできないかもしれない。だがしかし、そうした人々は同じ情欲に帰っていくであろう。愚か者は切り株のもとに戻っていく。羊は自分を屠殺する刀を舐める。あなたは、数々の警告にもかかわらず、忠告にもかかわらず、自分の情欲と自分のもろもろの罪の中を進み続け、つにいは自分の咎の中で滅んでいく。いかに成人は子どもよりも悪辣なことか! 氷滑りを楽しむために池に行く子どもは、氷が割れるよと告げられれば、怖くなってたちまち後戻りするであろう。あるいは、思い切ってそっとその上に足を乗せて歩いたとしても、池の水を覆う薄膜がぴしりときしむ音を聞くなり、いかにたちまち立ち去ることであろう! しかし、向こうの人々には良心があり、それがこう告げている。あなたのもろもろの罪はよこしまなものであり、それがあなたの破滅となるのだぞ、と。あなたは罪の快楽の薄膜が足の下でみしみしと砕けるとき、そのきしむ音を聞く。左様。また、あなたがたの中のある人々は、自分の仲間たちが大水に沈んでは、失われるのを見てきた。だがしかし、あなたがたは滑り続けている。このように、傲慢にも自分の永遠の状態をもてあそんでいるあなたは、子どもじみているよりも悪く、狂人よりも悪い。おゝ、私の神よ。ある人々の傲慢さは何と恐るべきことか! いかなる人のうちにあっても、傲慢はいかに恐ろしいものか! おゝ! 私たちがこう叫ぶことができるとしたらどんなに良いことか。「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください」。

 2. また私は云ったが、傲慢の罪の別な特徴は、熟慮である。ある人は、ことによると、激しやすい精神をしていて、一瞬のうちに頭に血がのぼって怒った言葉を発しては、数分もしないうちに、それを心から悔やむかもしれない。ある人は、あまりにも血の気が多い気質をしているために、少しでも怒らされると、たちまち激怒させられてしまうかもしれない。しかし、その人は、それを埋め合わせるような気性もあり、すぐに人を赦し、たちまち冷静になれるかもしれない。さて、そうした人は、突然怒りにとらわれたとき、傲慢の罪を犯すのではない。確かに、こうした情動を矯正し、抑え込もうと苦闘しているのでない限り、その罪が傲慢なものであることに疑いはないが。また、ある人は、突然に誘惑され、思いがけず罪に陥らされることがある。それがその人の癖ではなく、何か強い誘惑の力を通して犯したものである場合、その人に咎はあるが、それは傲慢の咎ではない。なぜなら、その人は不意に網でとらえられ、罠にかかったからである。しかし、世には熟慮の上で罪を犯す人々がいる。ある情欲について前もって何週間も考えておき、自分の愛好する罪悪を舐めるように可愛がっている人々がいる。彼らは、いわば情欲の幼い苗に水を注ぎ、それが願望として成熟しきるまで育ててから、行ってその罪悪を犯すのである。ある人々にとって、情欲は通行人ではなく、下宿人である。彼らはそれを受け入れ、それを宿し、それをもてなす。そして彼らが罪を犯すときには、熟慮の上で罪を犯し、冷静に自分の情欲のもとに行き、他の人ならば激して怒り狂う状態にあるときに、たまたま行なうであろうような行為を平然と行なう。さて、こうした罪は、きわめて大きな罪深さを含んでいる。それは、大きな傲慢の罪である。一瞬のうちに激情のつむじ風によってさらわれてしまうのは良くない。だが、じっくり腰を据えて、熟慮の上で復讐しようと決意するのは呪うべきこと、悪魔的なことである。腰を据えて熟慮によって悪の計画を練るのは憎むべきことであり、それをぴったり云い表わすべき言葉を私は他に見いだせない。ある犯罪をいかになすべきかを慎重に熟慮すること、ハマンのように絞首台を立てておき、自分の隣人を破滅させる手筈を整え、友人が落ち込んで死んでしまうであろう穴を掘り、ひそかに罠を仕掛け、寝床の上で悪をはかること、――これは傲慢の罪の絶頂である。私たちの中のだれかにそこまでの咎がある場合、願わくは神が赦してくださるように!

 また、ある人が長い間罪を犯し続け、それについて十分考える時間があるという場合、それもまた、それが傲慢な罪である証拠である。ある人が過ちに陥り、ある罪をふと犯してしまい、その後でその罪を忌みきらうとき、その人は、傲慢の罪を犯したのではない。だが、きょうも、明日も、その翌日も、毎週毎週、毎年毎年、そむきの罪を犯し続け、ついには山のようにうず高く罪を積み上げるまでとなるとき、私は云うが、そうした人は傲慢の罪を犯しているのである。なぜなら、引き続く罪の習慣のうちには、罪を犯そうという熟慮があるに違いないからである。少なくともそこには、性急さのためとか、突然の激情によって罪を犯す場合とは全く無縁の、強力な精神の集中があるに違いない。あゝ! 用心するがいい。あなたがた、罪にひたりこんでいる人たち。あなたがた、貪欲な雄牛が水をぐびぐび飲むように罪を飲んでいる人たち。あなたがた、川が海へと流れるように情欲へと向かっている人たち。そしてあなたがた、豚が泥の中で転がるように自分の情欲へと走って行く人たち。用心するがいい! あなたの罪悪は重く、神の御手はすぐにもあなたの頭上に恐ろしいしかたで下ることになる。あなたが悔い改めて、神に立ち返る天来の恵みが与えられるまではそうである。赦罪を受けない限り、あなたには恐ろしい運命が待っている。神は傲慢の罪ゆえにあなたを断罪するであろう。おゝ! 主よ。「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください」。

 3. また、先に云ったように、傲慢の罪は意図的な問題に違いなく、罪を犯そうとする狙いをもって犯されたものであった。時間があるとき、自宅で『民数記』のある箇所に目を向けてほしいが、そこには、ユダヤ教の経綸の下では、傲慢に犯された罪にはいかなる赦しもなかったことが告げられている。そして、その直後に記されているのが、1つの実例である。ひとりの男が安息日にたきぎを集めに出かけた。彼は安息日を破る行為のただ中でとらえられた。そして、ユダヤ教の経綸の下で律法は非常に厳格であったため、男はたちまち死罪に処するよう命ぜられた[民15:35-36]。さて、彼が死罪に処せられた理由は、単に彼が安息日にたきぎを集めていたからではなかった。そうではなく、そのときには、すでにこの律法が宣告されていたからであった。「七日目は、いっさいの仕事をしてはならない」[レビ23:3]。この男は故意に、狙いすまして、いわば自分が神を蔑んでいることを見せつけるがために――自分が神など何とも思っていないことを見せつけるために――何の必要もなく、何の得をしたいとも思わずに、まっすぐに出て行き、律法と真っ向から逆らって、自宅内に留めていたような行為を行なうのではなく(それならば、ことによると見逃されたかもしれないが)、全会衆に恥辱をもたらすような行為を行なった。なぜなら、不信心者のようにして彼は、神の御前であえて厚顔にも、「俺は神など何とも思っていないぞ」、と云わんばかりのことをしたからである。神が、「いっさいの仕事をしてはならない」、と命じただと? さあ私はここにいる。私はきょう、たきぎなど必要ではない。働きたくもない。たきぎのためではないが、私が神を馬鹿にしていることを見せつけてやるために、きょうは行ってたきぎを集めることにしよう。「ですが」、とある人は云うであろう。「世界中のどこを見ても、このようなことをしたがる人々は、いないに違いいまりせん」。否。そういう人々はいるのである。そして、きょう、サリー《音楽堂》にもそうした者がいるのである。彼らが神に逆らって罪を犯しているのは、単に罪の楽しみばかりのためでなく、自分に神への畏敬などないことを見せつけるためなのである。自分の悪い仲間たちの真中で自分の聖書を燃やしたその青年は――自分の聖書を憎んでいたからではなく(というのも、彼はそうしているときに、身震いしつつあり、その炉床の上のある灰と同じくらい蒼白になっていたからである)――、むしろ純然たる虚勢からそうしたのであり、仲間たちに向かって自分が本当にキリスト教信仰の告白などというものから超絶していることを見せつけてやるためにそうしたのである。他の人は時として、人々が神の家に向かって行くときに道端に立ち、彼らに向かって悪態をつく。悪態をつくことが楽しいからではなく、自分が無宗教であること、不敬虔であることを見せつけたいがためにそうする。いかに多くの不信心者が同じことをしてきたことか。――そのこと自体が楽しいからではなく、自分の心のよこしまさによって、できるものならば神にいやがらせをするためにそうする。その罪そのものは安っぽくとも、自分がこう決意していることを人々に見せつけるためにそうするのである。すなわち、自分は自分の《造り主》の顔につばを吐きかけ、自分を創造した神を蔑むも同然なことをするのだ、と! さて、そうした罪は不義の傑作である。そうした者にも赦しはある。――悔い改めに至らされた者らには完全な赦罪がある。だが、こうした人々の中でそれを受け取る者はほとんどいない。というのも、彼らが、ただそうしたいがために傲慢の罪を犯すほど悪にのめりこんでいるとき――ただ神とその律法に対する軽視を見せつけたいがために罪を犯すとき――、私たちはそうした者について云うが、そうした者らにも赦しはあるものの、彼らが喜んでそれを受け取るような状態に至らされるというのは、驚異的な恵みである。おゝ、神がここでそのしもべたちを傲慢の罪から守ってくださればどんなに良いことか! そして、もしこの場にいる私たちの中の誰かがそうした罪を犯したことがあるとしたら、神が私たちを引き戻し、その恵みの栄光への賛美へと至らせてくださるように!

 4. しかし、もう1つの点がある。それを述べて、この傲慢の罪についての説明を終えるとしよう。傲慢の罪とは、精神の強さを過信しながら厚かましく犯された罪である。ある人は云うであろう。「私は明日、これこれの集まりに行くつもりです。なぜなら、それは他の人々を害するかもしれませんが、私には何の害もないからです」。あなたは周囲を見回して、何人かの青年たちに云う。「私は、カジノをたびたび訪れるよう諸君に忠告することはできない。――それは諸君の破滅となるであろう」。しかし、あなた自身は行くのだろうか? 「行きますよ」。だがしかし、あなたはいかにして自分の行為を正当化するのだろうか? なぜなら私は、非常に堅く節操を守ることができるので、どこまで行くべきか、どこから進んではならないかがわかるのです、と。それは嘘である。あなたは、自分に嘘をついている。そのように行なうことで、あなたは傲慢な嘘をついているのである。あなたは、いつ爆発してあなたを滅ぼすかわからない爆弾をもてあそんでいる。あなたは、自分は火傷を負わないのだと空想しながら、地獄の口の上に腰かけている。あなたは、悪徳の入りびたる場所に出かけていっては汚されて――大いに汚されて――戻ってくるが、その汚点が見てとれないほど盲目なので、自分が安全だと考えているのである。そうではない。自分が罪に耐えられるなどとあえて考えることにおけるあなたの罪は、傲慢の罪である。「いいえ、いいえ」、とある人は云うであろう。「ですが、私は、これこれの罪までは入り込めると私はわかっているのです。そして、そこで私はとどまることができるのです」。傲慢である。方々。傲慢以外の何物でもない。教会の尖塔の天辺に登って、そこで逆立ちするというのは、いかなる人にとっても傲慢である。「よろしい。ですが、そうした人々は無事に降りてくるかもしれません。もしそれに熟練していたとしたら」。しかり。だが、それは傲慢なことである。私は気球に乗って空に昇ろうとする人のために一銭でも出すのは、自分の喉をかき切ろうとする人のためにそうするのと全く変わらないと思う。自分のいのちを危険な状態に置こうとする、いかなる人をも立って見つめるというのは、頭を撃ち抜こうとする人に金を出すのと全く同じように思う。そうしたことは、殺人ではないにせよ、殺人的だと私は考える。そのようなしかたで自分を危険にさらす人々には自殺めいたものがある。そして、もしからだの危険に自殺があるとしたら、誰かが、自分には魂が滅ぼされたり、破滅させられたりするのを防ぐに足る精神力があると考えているというだけで、自分自身の魂を危うくする人の場合、いかにいやまさってそう云えるであろう。方々。あなたの罪は傲慢の罪である。それは非常に大きく、重い罪である。それは不義の傑作の1つである。

 おゝ! いかに多くの人々がきょう傲慢の罪を犯していることか! あなたはきょう、今のようなあり方をしていることにおいて傲慢の罪を犯している。あなたは云っている。自分も、もう少ししたら厳粛に、また真剣にキリスト教信仰のことを考えることにしよう。後何年かして、もう少し人生で落ちついたら、心機一転して《敬虔》の問題について考えることにしよう、と。方々。あなたは傲慢である。あなたは自分が長生きするものと当て込んでいる。砕け波の上の泡ぶくほどにもろいものに山を張っている。自分の永遠の魂を、自分がもう何年か生きられるはずだという致命的な確率に立って賭けている。だが、あなたが今晩の日没前に切り倒されることもありえるのである。また、あなたの頭上をもう一年が過ぎる前に、あなたは何の悔い改めも不可能な国、それらが可能だったとしても何の役にも立たない国に行ってしまっているかもしれない。おゝ! 愛する方々。ぐずぐずと先延ばしにすることは傲慢の罪である。きょうすべきことを、明日も生きているだろうと期待しているからといって、先送りにするのは傲慢である。あなたにそうする権利はない。――あなたはそうすることにおいて神に対して罪を犯しており、あなたの頭に傲慢の罪という咎をもたらしている。私が思い出すのは、とある大きな信仰復興の手段となった、ジョナサン・エドワーズの素晴らしい説教の一節である。彼はこう云っている。「罪人よ。あなたはいま現在、板一枚に立って地獄の口の上にあり、その板は腐っているのである。あなたは、ほんの綱一本で破滅の顎の上に吊り下げられており、その綱のより糸が今きしみ音を立てているのである」。そのような立場にあるのとは、恐ろしいことである。だがしかし、あなたは、「あすにしよう」、と云って、ぐずぐず先延ばしにする。私は、あなたがたの中のある人々を見ていると、かの僭主ディオニュシオスの話を思い出させられる。彼は、自分を怒らせた男に罰を与えようとして、彼を立派な宴会に招いた。食卓に並べられたご馳走は豊かで、彼が飲むように勧められた葡萄酒は豊醇だった。その食卓の上座に1つの席が置かれ、この招待客はそこに座らされた。恐怖の恐怖! その宴会は豊かだったが、この招待客はみじめで、想像もつかないほど恐ろしかった。召使いたちのお仕着せがいかに素晴らしくとも、その珍味佳肴がいかに豪華であっても、それではそこに招待された男は苦悶しながら席についていた。何が理由だったろうか? 彼の頭の真上には、一本の剣が、みがきたてられた鋭利な剣が、髪の毛一本で吊り下げられていたのである。彼は、この剣の下にずっと座っていなくてはならなかった。彼と死との間を隔てていたのは、髪の毛一本であった。あなたは、このあわれな男のみじめさが思い描けるであろう。彼は逃れることができなかった。自分のいる場所に座っていなくてはならなかった。どうしてご馳走を満喫することなどできただろうか? いかにして楽しめただろうか! しかし、おゝ、話を聞いている未回心の方々。あなたは今朝そこにいるのである。あなたのあらゆる富と、あなたの財産はあなたの前にある。家を持つ嬉しさ、一家を構える喜びを有しつつ、あなたは今朝そこにいる。それは、あなたが逃れられない場所である。死の剣があなたの上にあって、いまにも落ちて来ようとしている。そして、あゝ、それがあなたの魂をあなたのからだから断ち切ったとしたら! それでもあなたは笑いさざめき、ぐすぐずと先延ばしにしていられるだろうか? できるとしたら、まことにあなたの罪は、この上もなく傲慢な罪である。「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください」。

 II. そしていま私はこの主題の第二の部分に移ることにする。ごく手短に扱うが、私があなたに示したいのは、《傲慢の罪には非常に極悪なものがある》ということである。

 もろもろの罪の中から何かを取り上げてみよう。例えば、光と知識にそむく罪である。このように傲慢な罪の中には、他の罪にまして極悪なものがある。この幸いなわが国では、ある人が反逆罪を犯すこともただの可能性としてはある。それを行なうことは、どちらかというと困難に違いないと思うが。というのも、私たちはこの国では、海峡を越えた向こうの国なら人を断頭台送りにするような言葉を口にすることが赦されているからである。また、他のどの国で行なわれたとしても、人が長い年月の間投獄されるだろうようなことが、この国では行なうのが許されている。私たちは、米国にいる私たちの友人たちが何と云おうと、言論や思想の自由を世界一享受している国民である。私たちには、自分の奴隷を死ぬまで鞭打つ自由はないが、また、反抗的な奴隷を撃ち殺す自由はないが――人間狩りをする自由も、自らを富ませるために他の人間の生き血をすする自由もないが――奴隷捕獲人や奴隷所有者たちが確かにそうであるように、悪鬼にも劣る者となる自由はないが――、私たちにはそれよりも大きな自由がある。圧制をふるう国王に逆らう自由のみならず、圧制をふるう群衆に逆らう自由がある。しかし、この国でも可能性としては反逆罪を犯せると思う。さて、ふたりの人が反逆罪を犯すとする。――もしも、そのひとりが理不尽にも、またよこしまにも、明日、叛旗を翻し、この国の正当な君主をこの上もなく強烈かつ忌むべき言葉で糾弾し、この国の忠臣たちをその忠誠から引き離し、その何人かを迷い出させては、公衆の福祉に危害と害悪を加えさせようとしたとする。ところが彼の集めた反逆軍の中には、軽率にそこに加わった男がひとりいた。これがいかなる事態につながるかも考えずに反乱軍の真中に加わった男、自分たちの不法な集団の意図も理解せず、彼らが徒党を組むのを禁じている法律があることさえ知らない男である。かりに、このふたりが大逆罪のかどで起訴されたとしよう。彼らはふたりとも法的には有罪である。だが私は、無知のまま罪を犯した者は放免されると考えることができよう。なぜなら、そこには、悪意ある意図が全くなかったからである。また私は、もうひとりの、故意に、何もかも知っての上で、悪意と邪悪さとから叛旗を翻した男は、法の要求しうる限り最高の刑罰を受けるだろうと考えることができる。なぜか? なぜなら、一方の場合、それは傲慢の罪だったが、もう一方の場合、そうではなかったからである。一方の男はあえて意図的に、純然たる傲慢さから主権者に反抗し、国法に反抗した。もう一方の男はそうではなかった。さて、だれでも刑罰に違いを設けることは正しいと見てとるはずである。なぜなら、その咎には――良心そのものが私たちに告げるように――違いがあったからである。

 また、先に述べたようにある人々は熟慮の上で罪を犯すが、他の人々はそうではない。さて、ここに違いがあることを示すために、ある場合を取り上げさせてほしい。明日は、下級審が開廷される日である。ふたりの男が起訴されている。彼らはそれぞれ一塊のパンを盗んだかどで告発されている。明らかに証明されているのは、一方の男は飢えていて、自分の欲求を満たすために一塊のパンをひったくったということである。彼は自分の行為を悔いており、そうしたことを悲しんでいる。だが、何にもまして明白に、彼はそうするように強い誘惑を受けたのである。もう一方の男は富んでいて、意図的にその店に入った。それは単に法律を破り、自分が法律違反者であることを見せつけるためであった。彼は表の警官に云った。「さあ、私はお前も法律も何とも思ってはいないぞ。私は、わざとここに入り込んだのだ。お前が私に何をできるか知ろうとしてな」。私は判事が一方の男にはこう云うだろうと想像がつく。「その方は放免する。二度と似たようなことはせぬように気をつけるがいい。その方の現在の窮乏にも、助けになるものがあろう。正直な暮らしで身を立てるがいい」。しかし、もう一方の男にはこう云うだろうと思われる。「その方は、恥ずべき卑劣漢だ。その方は、いまひとりと同様の行為を犯したが、その動機は非常に異なっておる。本官は、法の許す限り最長の年限の禁固刑にその方を処することとする。残念なのは、本官が下すよりも重い刑罰をその方に課すことができないことだけだ」。罪の傲慢さが違いを生じさせたのである。そのように、あなたが熟慮の上、何もかもわきまえた上で罪を犯すとき、《全能の神》に対するあなたの罪は、無知のまま、あるいは性急に罪を犯した場合よりも、重く、かつ暗黒なものなのである。

 さて、もう1つの場合を考えてみよう。何かちょっとした口論に激して、誰かがある人を侮辱することもある。怒りっぽい気質をした人からあなたが侮辱されるとする。あなたは彼を挑発したわけではなく、彼を怒らせるようなことは何もしなかった。だが、それと同時に彼は、激しやすく、怒りっぽい性向をしており、云いこめられそうになって、あなたを侮辱したのである。あなたの人格を汚すような、最悪の呼び名であなたをののしったのである。だが、翌日になって、それが性急に発せられた軽率な言葉であったことが分かり、彼もそれを悔いているとしたら、あなたは決して何の損害賠償も彼に求めはしないと思う。しかし、かりに別の人が町通りであなたを待ち伏せし、毎週毎週、市場であなたを待ち受け、さんざんに労苦し困難を忍んだあげくに、とうとうあなたと出会っては、公衆の面前で、何も挑発されてはおらず、ただ完全に熟慮の上による悪意から、面と向かってあなたを嘘つき呼ばわりするとしたら、たといあなたがキリスト者ではあっても、このような暴慢を懲らしめることが必要だと思うであろう。鉄拳による懲らしめではなく、私たち全員を侮辱という暴力から保護している公正な法律という腕によって。先の場合には、あなたが赦すことは何の困難でもないと思われる。あなたは云うであろう。「君。ぼくは、人がみな時には軽率なことを口走ることがあるのを知っている。――さあ、ぼくはちっとも気にしてはいないよ。君は本気で云ったんじゃないからね」。しかし、この場合、人があえてあなたに、何の挑発も受けないのに反抗した以上、あなたは彼に云うであろう。「もし。あなたは私を尊敬されるべき人々の中でおとしめようと努力してきましたね。私はキリスト者としてはあなたを赦せますが、人として、また市民としては、あなたの暴慢から保護されることを要求します」。

 それゆえ、見ての通り、人と人との間の場合でも、傲慢の罪には、いかに多大な咎が加えられることであろう。おゝ! あなたがた、傲慢に罪を犯してきた人たち。――そして、私たちの間の誰がそうしないで来ただろうか?――沈黙のうちに頭を垂れて、自分の咎を告白し、それから口を開いては、こう叫ぶがいい。「主よ。こんな傲慢な罪人の私をあわれんでください」、と。

 III. さて今、私はほとんど終わりに近づいている。――あなたをあまりに長く飽き飽きさせないために、私たちはこのことに注意したい。《この祈りの適切さ》である。――「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください」。

 あなたは、この祈りが聖徒の祈り、神の聖なる人の祈りであることに気がついているだろうか? ダビデには、このように祈る必要があっただろうか? 「神の心にかなった者」*[使13:22]が、「あなたのしもべを守ってください」、と祈る必要があったのだろうか? しかり。あった。また、この祈りの美しさに注意するがいい。もし私がこれをもっと隠喩的な様式で翻訳するとしたら、このようになるであろう。「あなたのしもべに轡をつけて、傲慢の罪から離してください」。「彼を引き戻してください。さもないと、彼は罪の断崖の端っこへとさまよって行くでしょう。彼を押さえてください。主よ。彼は逃げ出しがちなのです。轡で引っ張ってください。彼に馬勒をかけてください。彼にそうさせないでください。あなたの圧倒的な恵みで彼を聖く保ってください。彼が悪を行ないたがるときには、彼を善へと引き寄せ、彼の悪しき傾向が彼を迷い出させるときには、彼を阻んでください」。「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください」。

 では、どういうことになるだろうか? 最上の人々も傲慢の罪を犯すことがありえるというのは真実だろうか? あゝ! 真実である。厳粛なことに、使徒パウロはこの最も厭うべき罪について聖徒たちに警告している。彼は云う。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、偶像礼拝、情欲、悪い欲……を殺してしまいなさい」*[コロ3:5]。何と! 聖徒たちがこのような罪に対して警告される必要があるのだろうか? しかり。あるのである。最高の聖徒たちも、天来の恵みに守られていない限り、最低の罪を犯すことはありえる。あなたがた、年期を積んだ老練なキリスト者たち。あなたの経験を誇ってはならない。あなたはこれからつまずき倒れて、こう叫ぶことになるかもしれない。「私をささえてください。そうすれば私は救われるでしょう」*[詩119:117]。あなたがた、熱烈な愛を有し、堅実な信仰を有し、輝かしい希望を有する人たち。「私は決して罪を犯さない」、と云ってはならない。むしろ、こう叫ぶがいい。「主よ。私を誘惑に遭わせないでください。そして、誘惑があるところに私を放置しないでください。というのも、あなたが私を堅く保ってくださらなければ、私は自分が堕落し、結局は背教者となってしまうに違いないと感じるからです」。この世にある最上の人々の心にも有り余るほどの火口があり、その上に火花が落ちれば、神が消してくださらない限り、地獄の底まで燃え続けることになる。いま生きている、いかに聖い人の心にも、無代価で主権の恵みの防ぎがない限り、その人の魂を永遠に地獄に落とすに足るだけの腐敗と堕落と邪悪さがある。おゝ、キリスト者よ。あなたにはこの祈りを祈る必要がある。しかし、私にはあなたがこう叫んでいるのが聞こえるような気がする。「しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんなことができましょう?」*[II列8:13] そのようにハザエルは云った。預言者が彼に、彼が主人を殺すと告げたときである。だが彼は国へ帰ると、濡れた布を取り、それを主人の顔にかぶせて窒息させ、先には忌みきらった罪を翌日に行なったのである[II列8:15]。罪を忌みきらうだけで十分と思ってはならない。それでもあなたはそれに陥ることがありえる。こう云ってはならない。「私が酔っぱらうことなど決してありえない。私は酩酊をこれほど忌みきらっているのだから」、と。あなたは安全きわまりないときに、堕落することがありえる。こう云ってはならない。「私が神を冒涜することなど決してありえない。私は生まれてこのかた一度もそのようなことをしたことはないのだから」、と。気をつけるがいい。あなたは、この上もなく不敬なしかたで悪態をつくことがありえる。ヨブはこう云ったかもしれない。「私が自分の生まれた日を呪うことなどありえない」。だが、やがて彼はそうすることになった[ヨブ3:1]。彼は忍耐強い人物であった。彼はこう云ったかもしれない。「私は決して呟くことはない。神が私を殺しても、私は神を待ち望もう[ヨブ13:15]」。だがしかし、やがて彼は自分の生み出された日が闇となることを願った[ヨブ3:4]。ならば、誇ってはならない。おゝ、キリスト者よ。信仰によってあなたは立っている。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」[Iコリ10:12]。

 しかし、もしこれが最上の者たちの祈りだとしたら、いかにこれがあなたや私の祈りたるべきだろうか? もし最高の聖徒もこう祈らなくてはならないとしたら、おゝ、ただの道徳家よ。あなたがこれを口にする必要は大いにある。またあなたがた、罪を犯すことを始め、敬神の念をいだくふりなど全くしていない人たち。いかにあなたは、神に向かって傲慢に反逆することから守られるよう祈るべき大きな必要があることか。

 しかしながら、この点について詳しく述べていく代わりに、私は今朝の私の僅かな言及のしめくくりとして、あなたがたの中で、傲慢の罪ゆえの咎を意識している人々に向かって、切なる愛情を込めて語りかけようと思う。神の御霊は、あなたがたの中のある人々を見いだしている。私は、今しがた傲慢の罪について描写していたとき、そこここで涙をあふれさせている目を見たような気がした。そこここで、「それは私の咎だ」と云わんばかりに伏せられた顔を見たような気がした。私は、傲慢の咎を描写していたとき、罪の告白によって早鐘のように動悸させられている心臓がいくつかあると思った。私はそう希望している。そうだとしたら嬉しく思う。私があなたの良心を打ったとしたら、私の狙いは当たったのである。私は、あなたの耳に語っているのではなく、あなたの心に語っているのである。私がこのように指をならすのは、ただの雄弁な言葉や、ただの懸河の弁であなたを満足させるためではない。しかり。神が私の証人である。私は一度として、あなたの良心を打つという効果以外の《効果》を求めたことはない。私は、あなたの心に届くために何よりも役立つとあらば、わが国語の中でも最も粗雑で野卑な言葉をも使うであろう。というのも、教役者にとって第一の事がらは良心に触れることだと思っているからである。ならば、もしあなたがたの中の誰かが自分は神に対して傲慢の罪を犯してきたと感じているとしたら、私に命じさせてほしい。自分の罪を見つめて、そのどす黒さのゆえに泣くがいい、と。私に勧告させてほしい。家に帰り、悲しみとともに頭を垂れて、自分の咎を告白し、多くの涙と吐息をもってそのことについて嘆くがいい。あなたは大きな罪を犯してきたし、もし神があなたをいま破滅の中へと吹き飛ばされるとしても、神は正しくあられ、もし神の燃える復讐の雷電があなたを刺し貫き、もし《全能者》の弦につがえられている矢があなたの心を打ち抜くとしても、正しくあられるであろう。家に帰り、それを告白するがいい。泣き声と吐息をもって告白するがいい。それから、あなたは何をするだろうか? 何と、私はあなたに命ずる。ある人がいたことを思い出すがいい。彼は神であった。その人は傲慢の罪ゆえに苦しんだ。罪人よ。私はあなたに命ずる。もしあなたが自分には《救い主》が必要であると分かっているとしたら、あなたの私室にこもり、床に身を投げ出して、罪ゆえに泣くがいい。そして、そうした後で、聖書に目を向けて、罪ゆえに苦しみ、死んだ、その《人》の物語を読むがいい。その言語を絶する苦悶と悲嘆と苦悩のうちにある彼を見ているように思うがいい。そして云うがいい。――

   「わが魂(たま)は見ゆ、振り返りみて
    呪いの木の上(え)に かかりつつ
    汝れの負いたる 重き荷を。
    わが咎そこに あると望みて」。

あなたの手をあげ、血を流す主のみかしらの上に置き、こう云うがいい。――

   「わが信仰は 手を置かん
    汝れが尊き みかしらに。
    悔いる思いを もちて立ち
    われはわが罪 告白(あらわ)さん」。

主の十字架の根元に腰を下ろし、主を眺めるがいい。あなたの心が動かされ、涙が再び流れ出し、あなたの心が内側で張り裂けるまで。そのときあなたは立ち上がってこう云うであろう。――

   「あわれみに 溶かされ我れは 地に伏しぬ
    受けし憐憫(めぐみ)を 泣きつ賛美(たたえ)つ」。

おゝ、罪人よ。十字架の根元に身を投げ出すとしたら、あなたが滅びることはありえない。もしあなたが自分で自分を救おうとするなら、あなたは死ぬ。だが、もしあなたが全くどす黒いままに来るとしたら、もしあなたが全く不潔で、全く地獄に値し、全く災いに値するままやって来るとしたら、私は私の《主人》のための人質となろう。もし主があなたを救わなかった場合、私はこの件において最後の審判の日に責任を負うであろう。この件について私はいま宣べ伝えることができる。というのも、私自身、私の《主人》を試したことがあると思うからである。少年時代に私は罪を犯した。幼少期に反逆した。若僧になったとき情欲と虚栄へとさまよい込んだ。私の《主人》は、私がいかに大罪人であるかを私に感じさせてくださり、私は自己改善しようと努めた。事を改めようとした。だが、悪くなるばかりだった。とうとう私はこう云われるのを聞いた。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]。そして私はイエスを仰ぎ見た。そして、おゝ! 私の《救い主》よ。あなたは私の痛む良心を和らげ、私に平安を与え、こう云えるようにしてくださいました。――

   「罪より放たれ 安けく歩まん
    主の血ぞ われの自由の証し
    御足のもとに わが魂(たま)を置き
    かつての咎びと 永久に仕えん」。

そして、おゝ! 私の心はあなたを慕いあえいでいる。おゝ、主をいまだ知ったことのないあなたが、いま主の愛を味わい知るとしたらどんなに良いことか。おゝ、これまで一度も悔い改めたことのないあなたが、心を溶かすことのできる聖霊をいま受け入れるとしたらどんなに良いことか! そして、おゝ、悔悟する者となったあなたが、いま主を見つめるとしたらどんなに良いことか! そして、私はこの厳粛な主張を繰り返すものである。――私は今朝、神のための人質となる。あなたがたは、私の生涯の終わりまで私をパンと水で養ってくれて良い。左様。そして私は、あなたがたの中の誰かがキリストを求めて、キリストからはねつけられた場合、永遠にその責めを負うであろう。だが、そのようなことはないに違いない。ありえない。主は云っておられる。「誰であれわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」*[ヨハ6:37]。「キリストは……ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります」[ヘブ7:25]。願わくは、《全能の神》があなたを祝福し、私たちが彼方のパラダイスで再会できるように。そして、そこで私たちは、さらに甘やかに歌うであろう。贖いの愛と、死に給う血と、イエスの救う力について。――

   「かくあわれなる 吃(ども)れる舌の
    押し黙り 墓に横たうそのときに」。

  

 

傲慢の罪[了]

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