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天的な安息

NO. 133

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1857年5月24日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」。――ヘブ4:9


 使徒が、この章の前半と直前の章の後半とで証明してきたのは、聖書の中では、神の安息と呼ばれる安息が約束されている、ということである。彼の証明するところ、イスラエルはその安息に達することがなかった。神は誓って云われたからである。「決して彼らをわたしの安息にはいらせない」、と。使徒は、これが単にカナンの国の安息だけを指しているのではないと証明した。彼によると、彼らがカナンに入った後の何世代も経ってから、ダビデその人が、来たるべきものとしての神の安息について再び語っているからである。また、やはり彼の証明するところ、「前に約束された人々が不信仰のゆえにはいれず、その安息にはいる人々がまだ残っているのですから、したがって」*[ヘブ4:6]、と彼は云う。「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」。

 「わたしの安息」と神は云われる[ヘブ4:5]。神の安息! 他のいかなる種類の安息よりも格段に素晴らしい何かである。本日の聖句において、それは安息日の休みと呼ばれている。――安息日ではない。安息日の休みである。――ユダヤ人を縛っていた、安息日の外的な儀式ではなく、キリスト者の喜びであり楽しみである、安息日の内的な原理である。「したがって」、他の人々がそれを得なかったからには、また、ある人々がそれを得ることになっているからには、――「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」。

 さて、この安息は、私の信ずるところ、部分的には地上で享受されるものである。「信じた私たちは安息にはいるのです」[ヘブ4:3]。というのも、私たちは、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んでいるからである[ヘブ4:10]。しかし、その完全な結実と豊かな享有は、死の川を越えた向こう側にある未来と、至福の永遠の状態との中に、まだ残っている。今朝の私たちの喜ばしい務めは、そのことについて多少とも告げることである。そして、おゝ! もし神が私を助けて、ご自分のか弱い聖徒たちのひとりでも引き上げ、愛の翼に載せ、幕の内側をのぞき込ませ、未来の喜びの数々を見せてくださるとしたら、私は、少なくとも1つの心では祝祭を奉ずる鐘を鳴らせたこと、1つの目だけは喜びで輝かせることができたこと、1つの霊だけは楽しさで軽くできたことに満足するであろう。天国の安息! 私はまずそれを明らかに示し、続いてそれを称賛しようと思う。

 I. 最初に、私は天国の安息を《明らかに示す》ようにしたい。そして、その際に私は、まず対比によって、それから比較によって、それを明らかに示したいと思う。

 1. まず手始めに私は、天国を対比によって明らかに示すであろう。栄光における義人の安息は今、いくつかの他の事がらと対比されるであろう。

 一番目に私たちは、それを世俗的な人や罪人の最上の状態と対比するであろう。世俗的な人は、しばしば良い目を見る。時として彼の大桶はあふれ、彼の倉は満杯になり、彼の心は楽しみと喜びで満ちている。場合によって、彼はおい茂る野性の木[詩37:35]のように繁茂する。畑に畑が加わり、家に家が連なり[イザ5:8]、倉を取りこわして、もっと大きいのを建てなくてはならず[ルカ12:18]、その喜びの川が満たされ、人生の大海がその喜びと幸いで満潮になる。

 しかし、あゝ! 愛する方々。天上にある義人の状態は、一瞬たりとも罪人の喜びとはくらべものにならない。――それは無限にすぐれており、はるかに卓越している。そのため、それを対比させようとすることすら不可能であるように思われる。世俗的な人は、穀物と新しい葡萄酒が増し加わると嬉しさで目を輝かせ、喜びで心を満たす。だが、そのときでさえ、その人には不吉な思いがきざす。自分はじきにその富を手放すことになるかもしれない、と。その人は思い起こす。死が自分を切り倒すかもしれず、そうしたら自分は、その麗しい富のすべてを後に残し、国中で一番卑賤な者と同じく狭い棺桶の中に眠り、六呎の土地だけを相続地としなくてはならないのだ、と。義人はそうではない。その人は「汚れることも、消えて行くこともない」[Iペテ1:4]資産を獲得している。その人は、自分の喜びを失う可能性が皆無であることを知っている。

   「彼は堅けく 祝福(めぐみ)を受けぬ。
    罪も、煩労(まどい)も、苦悩(なやみ)も断ちて
    イエスとともに 安息(やすみ)を得たり」。

その人は、決して死別に怯えはしない。決して棺桶も屍衣も恐がりはしない。この点において、天国での生活は、罪人の生活とはくらべものにならない。しかし、世俗的な人は、いかなる喜びを得ていても、常にその根っこには虫が巣くっている。あなたがた、快楽の信奉者たち! あなたの血色の良い頬は、しばしば化粧によるごまかしでしかない。あゝ! あなたがた、快活さの息子たち、娘たち! あなたが踊る軽やかな足どりは、あなたのみじめな霊の重苦しい悲哀とはちぐはぐである。あなたは告白しないだろうか? たとい仲間たちと過ごす高揚感によって、しばしの間は自分の心のむなしさを忘れるとしても、沈黙によって、真夜中の時間によって、また、あなたの寝床の目覚まし時計によって、あなたはいやでも、今の自分がふけっているような、ただの陽気な底抜けの騒ぎよりもずっと幸いなことが何かあるに違いない、と考えさせられることがある、と。あなたがたの中のある人々は、この世を試している。ならば、云ってみるがいい! あなたはそれがむなしいことに気づいていないだろうか? この世は、ある古の哲学者が語ったようなものではないだろうか? 彼は、それを両手でかかえこみ、殴りつけては、その響きに耳を澄ませている人を描き出した。いくら触ってみても、いくら触れようとも、私はそれをもう一度鳴らせるであろう。それは空っぽなのである。この世もそれと同じである。あなたもそれを知っているはずである。たといまだそれを知らないとしても、やがて来たるべき日には、あなたは、そこから甘味を引き抜いた後で、そのとげに刺されていることであろう。そして、神に始まり神に終わるもの以外の何物も不満足なものであることに気づくであろう。天国にいるキリスト者はそうではない。その人には何の夜もない。たとい独りきりになり、じっとしている時があるとしても、その人は常に喜悦に満たされている。その人の川は常に至福で満ちており、そこにさざ波をもたらすような悲しみの砂利石は1つもない。何の痛む良心もなく、何の「この世の決して満たしえぬ悲痛な空虚」もない。その人は無上に祝福され、愛顧に満足させられ、主のいつくしみに満たされている。だがしかし、あなたがた、世俗的な人たち。あなたがたは知っている。あなたの最上の状態も、しばしばあなたに非常な懸念をもたらし、それがあなたから離れ去るまで続くということを。あなたは富が永遠に続くと思うほど愚かではない。あなたがた、実業に携わる人々は、しばしば富が羽根を生やして飛び去ってしまうのを見ざるをえなかった。あなたは一財産を蓄える。だが、それを手に入れるよりは保っておく方が困難であることに気づく。あなたは、ちょっとした資産を作ろうと努めているが、自分がつかんでいるのは、ひらひら飛び回る影であることに気づく。――経済状況のとめどない変転と、人々の絶えざる変化によって、あなたには思慮深い警告が与えられている。というのもあなたは、自分の神々を失うことを恐れ、自分のとうごま[ヨナ4:7]が虫に食い散らされ、地に倒れ、自分の日陰が取り去られることを恐れているからである。キリスト者はそうではない。キリスト者は決してもろもろと崩れる家に住んではいない。キリスト者が戴いている冠は、その輝きが決して曇らない。その衣は決して古びない。その祝福がその人から離れていくことは決してありえず、その人が祝福から離れていくことは決してありえない。その人は、今や神の宮の大理石の支柱のように堅く据えられている。この世は揺れ動くであろう。揺りかごのようにゆさぶられるであろう。だが、そこでは、この世を越えたところ、星々の恒久的な回転を越えたところで、キリスト者は安泰で、不動の者として立っている。その安息は、世の安息を無限にしのいでいる。あゝ! 伝説に名高い東洋の王侯たちのありとあらゆる奢侈に目を向け、その優美な寝椅子や、その甘美な葡萄酒を見るがいい。彼らの楽しみの豪勢さを目にするがいい! 彼らの子守歌となっている音楽の何と魅惑的なことか! 彼らをふわりと眠りに誘う扇が何と優しくあおがれることか! しかし、あゝ!

   「我れは捨てまじ、わが身の幸(さち)を
    世の富 ほまれを いかに受くとも。
    わが信仰の 立ちしかぎりは
    我れはねたまじ、罪の黄金(たから)を」。――

私は考える。世俗的な人の最も豊かで、最も高く、最も高貴な状態といえども、聖められた人々の胸中で死後明らかにされる喜びとはくらべものにならない、と。おゝ、あなたがた、湯水のように金銭を費やす定命の者たち。あなたは陽気な踊りと軽薄な生活のために喜びの世界を失うであろう! おゝ、あぶくをつかんでは実質的な物を失う愚か者たち! 何と! 方々。あなたはちょっとした快楽の一巡り、何年かの快活さや陽気さ、世俗の仕事でせかせかと東奔西走するちょっとした時間が、消え薄れることのない至福を代々とこしえに受けることの埋め合わせになると思うのか! おゝ! 来世であなたは何と自分を愚かに思うことであろう。そのとき、聖徒たちが祝福されているのが見える天国から、あなたは叩き出されているであろう! 私は、悲しみに沈んだあなたの独り言が聞こえるような気がする。「おゝ! 私は自分の魂を何と安値で売り渡してしまったことか! 今の私が失っているすべてのものと引き替えに、何という端金を受け取ったことだろう! 私は王宮と冠を失った。喜びと祝福を永遠に失った。そして、地獄に閉じ込められているのだ! それも何のために失ったのか? それを私が失ったのは、好色で、みだらな口づけのためなのだ。それを私が失ったのは、陽気な酔いどれ歌のためなのだ。私がそれを失ったのは、ほんの数年間の快楽のためなのだ。しかも、結局は、うつろな快楽でしかないもののために!」 おゝ! 私には、あなたが失った状態にあって、自分を呪い、髪の毛をかきむしっているのが見える気がする。あなたは、帳場と引き替えに天国を売り飛ばし、たちまち使い果たしてしまう一銭二銭と永遠のいのちを引き替えにしたのである。しかも、その一銭二銭を使うとき、あなたは自分の手に火傷を負ったのである! おゝ! あなたがたが賢くなり、こうした事がらを思いはかり、地上で最も大きな幸福の生活といえども、死後の栄光とはくらべものにならないことを考えるようになればどんなに良いことか。「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」。

 さて、これを、ずっと快い対比にしてみよう。私は、天上における信仰者の安息を、この地上で信仰者が時として味わうみじめな状態と対比してみたい。キリスト者たちには、それなりの悲しみがある。太陽にはその黒点があり、天空にはその雲があり、キリスト者たちにもその悲しみがある。しかし、おゝ! 上つ方にいる義人たちの状態は、地上における信仰者の状態とは何と異なっていることか! 地上でキリスト者は悩み苦しまなくてはならない。キリスト者は自分の《主人》に仕えたいと切望する。この人生と時代において最善を尽くしたいと願い、常にこう叫ぶ。――「おゝ、私の神よ。私を助けて、あなたに仕えさせ給え」。そして、その人は日々、外を見渡し、善を施す機会を切望する。あゝ! もしその人が活動的なキリスト者だとしたら、努めて自分の《主人》に仕えるための多くの労働、多くの労苦を見いだすであろう。そして、時としてその人はこう云うことがあるであろう。「私の魂はすぐにも去ろうとしている。私は労働に飽き果てたのではないが、労働に疲れてしまった。このように太陽の下で労苦することは、たとい良い《主人》のためであっても、今の私が願うところではない」、と。あゝ! キリスト者よ。そうした日はじきに過ぎ去り、あなたが労苦することはもはやなくなるであろう。太陽は地平線に近づきつつある。それは、あなたがこれまで見たことのあるいかなる日よりも輝かしい日とともに再び昇るであろう。その、上つ天国では、ルターはもはや怒号するヴァチカンと対決することはない。パウロはもはや町から町へ、大陸から大陸へと走り回らなくともよい。そこではバクスターはもはやその講壇の上で労苦し、かたくなな心をした罪人たちに向かって、砕けた心とともに説教することはない。そこではもはやノックスが、偽りの教会の不道徳に反対して、「声を限りに喝破する」ことはない。そこではもはや、振り絞られた肺も、ひりつく喉も、痛む目もない。もはや日曜学校教師が、自分の安息日を喜ばしいくたびれ仕事だと感じることはない。もはや小冊子の配布者が拒絶に遭うことはない。しかり。そこでは、力の限りを尽くして自分の国と自分の神に仕えてきた人々、人間の福祉のために労苦してきた人々が、永遠の安息に入るのである。剣は鞘におさめられ、軍旗は巻かれ、戦闘は終了し、勝利が獲得され、彼らはその労働から休みに入るのである。

 また地上でキリスト者は常に前に向かって航海しつつある。常に動きつつあり、自分がまだ到達していないのを感じている。パウロのようにその人はこう云える。「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」[ピリ3:13]。しかし、そこでは、その人の倦み疲れた頭は、薄れることのない光の冠を戴く。そこでは、ひたすらに急行していた舟は、その帆を巻き上げ、永遠の至福という港に入る。そこでは、矢のようにまっしぐらに突き進んでいたその人は、永遠にその的に固定される。そこには何の進展も、何の移動もない。彼らは安息に入っており、山の頂上に達しており、彼らの神、また私たちの神のもとへと登り切っている。それ以上の高みに行くことはできない。彼らはUltima Thule[世界の果て]に到達している。その先にはいかなる極楽島もない。これは人生の幸福の最果てであり、彼らはその帆を巻き上げて、自分の労働を休み、永久に楽しく過ごす。地上における進展と、死後の安息という完璧な不変性との間には違いがある。

 また地上では、信仰者はしばしば疑いや恐れにとらわれる。「私は主のものだろうか、主のものではないだろうか?」、という叫びがしばしば聞かれる。信仰者は自分が欺かれているのではないかとおののき、時にはほとんど絶望し、自分の名を神の子らのひとりとして書き記したくないように思う。暗黒のほのめかしがその人の耳に囁かれ、その人は神の恵みが、きれいさっぱり永久に捨て去られてしまったのだ、神はもう自分のことなど心に留めておられないのだと考える。また、その人のもろもろの罪がその人を時として厳しく叱責し、その人は神も自分をあわれんでくださらないのだと思う。あわれな弱り果てた心になる。あの足なえ者のように、その道中を常にしゅもく杖にすがって歩かなくてはならない。あわれで薄弱な精神になり、常に一本のわらしべにも蹴つまづき、いつの日か自分が荷車の轍の中で溺れるのではないかと恐れている。獅子は鎖につながれているのに、まるで野放しにされているかのようにそれらを恐れる。《難儀が丘》はしばしばその人を恐がらせる。屈辱の谷へと下って行くことは、しばしばその人にとって苦悩に満ちた務めである。だが天上には、登るべき丘は全くなく、戦うべき竜は一匹もおらず、打ち巻かすべき敵はひとりもなく、恐るべき危険は何1つない。足なえ者は、死ぬとき、自分のしゅもく杖を埋葬するであろう。また気弱者は自分の気弱さを後に残して行くであろう。恐怖者は二度と恐怖することがなくなり、あわれな疑える心は確信をもって信ずるようになるであろう。おゝ、あらゆる喜びを越えた喜び! 来たるべき日には、私は「私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」[Iコリ13:12]。私が主のものかそうでないかを問いたいと思うことはなくなる。というのも、主の御腕にだきかかえられている以上、疑いの余地は全くなくなるからである。おゝ! キリスト者よ。あなたは、自分の口に喜びの杯を持っていく間にも、幾多のしくじりがあると思っている。だが、あなたの手でその杯の取っ手をつかむとき、また、云い表わせないほどの楽しみを一息に飲むとき、そのときあなたには、いかなる疑いや恐れもなくなるであろう。

   「そこにて汝れは 御顔を拝し
    とわ永久(とこしえ)に 罪おかすまじ。
    恵みの川の 流れより
    尽きざる喜悦(さち)を 飲み干さん」。

 また、地上でキリスト者は苦しみを受けなくてはならない。地上では、ずきずきする頭と痛むからだをかかえている。その手足は傷ついたり折れたりするし、病は苦悶でその人を痛めつける。その人は、生まれたときから患難に遭っているかもしれない。片目がない、片耳がない、あるいは、身体の多くの能力に欠けているかもしれない。さもなければ、生まれながらに虚弱で、人生の大半を倦み疲れた寝床に横たえていなくてはならないかもしれない。あるいは、からだは健常でも、その精神においていかなる苦しみに遭うことか! わが身の堕落や悪い者からの誘惑との争闘、地獄の襲撃、世と肉と悪魔とから発した幾多の種類の不断の攻撃。しかし、天上には決してずきずきする頭も、倦み疲れた心もない。決して麻痺した腕も、老年によって皺を刻まれた額もない。そこでは、失われた四肢が取り戻され、老齢には永遠の若さが授けられ、肉体の弱さは置き去りにされ、虫けらのえじき、腐敗の食い物にされてしまう。そこでは彼らは、御使いの翼に乗っているかのように、北極から南極へと、またある場所から別の場所へと、全く倦み疲れることも苦悶することもなくすいすい飛び回る。そこでは彼らは決して寝床に横たわって休息したり、苦しんだりする必要がない。というのも、夜もない昼の間、衰えることなき喜びをもって、彼らは神の御座の周囲を喜びながら回り、こう仰せになったお方を常に賛美しているからである。「そこに住む者は、だれも病気にならない」*[イザ33:24]。

 また、そこで彼らは迫害から自由になる。地上では、シチリアの晩鐘や、聖バーソロミューや、スミスフィールドといった言葉はよく知られている。だが天上では、彼らを残酷な言葉でなじったり、残酷な手で触れたりする者はひとりもいない。そこでは、皇帝たちも王たちも知られておらず、彼らを苦しめる権力者たちはいなくなる。彼らは聖徒たちの集いの中にいる。悪人たちのいかなるむなしい生き方からも自由にされ、彼らのいかなる冷酷な嘲りからも永遠に自由にされる。迫害からの自由! あなたがた、殉教者たちの一団よ。あなたがたは切り殺された。八つ裂きにされた。野獣の前に投げ込まれた。羊や山羊の皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられた[ヘブ11:37]。私は今あなたを見ている。おびただしい数の一団である。あなたがたが着ている衣服は茨で引き裂かれている。あなたがたの顔は苦しみで傷ついている。私には、火刑柱につき、十字架につけられたあなたがたが見える。拷問台の上のあなたがたの服従の言葉が聞こえる。獄中にあるあなたがたが見える。さらし台でさらされているあなたがたが見てとれる。――だが、

   「今や汝ら 白衣(しろき)をまとい
    真昼の太陽(ひ)よりも 輝きて
    光の子らの 麗しき中
    永遠(とわ)の御座にぞ 近く住むなり」

こうした人々こそ、「《主人》のために死に、十字架と冠を愛する」人々である。彼らは血の海を押し渡っても、相続財産を獲得しようとする。そして、そこに彼らはいる。血に赤く染まった殉教者の冠をかぶっている。その紅玉の輝きは、他のいかなる冠をもしのいでいる。しかり。天上にはいかなる迫害もない。「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」。

 悲しいかな! この定命の状態にあって、神の子どもはの下にもある。神の子どもであってさえ、自分の義務において失敗し、自分の神からさまよい出ることがある。神の子どもでさえ、自らの願いに反して、自分の神の律法のすべてにおいて非難されることなく歩むことはない。罪は今もその人を絶えず悩ませる。だが、天上では罪は死んでいる。そこでは、罪を犯させようとするいかなる誘惑も、外からも内からもやって来ず、彼らは完璧に自由にされて、自分たちの《主人》に仕えることができる。地上では、神の子どもは時として自分の信仰後退について泣きながら悔い改めなくてはならない。だが天上では、決して悔悟の涙を流すことはない。というのも、彼らは決してそうする理由を持たないからである。

 そして最後の最後に、地上で神の子どもは、自分の親族の冷たい灰をで濡らさなくてはならない。地上では、定命の種族の麗しい者、美しい者らのすべてに永別を告げなくてはならない。ここでは、「土は土へ、ちりはちりへ、灰は灰へと還る」、との言葉を聞かなくてはならない。地上では、母が葬られ、子どもが引ったくられ、夫が愛する妻の胸から引き裂かれ、兄は妹と引き離される。棺の上の銘板は――現世における最後の家紋は――地上での最後の紋章は、常に私たちの目の前にある。しかし、天上では一度たりとも弔鐘の音が聞かれることはなく、羽飾りをつけた葬送馬車は一台たりとも黄金の街路を暗くすることはない。いかなる悲しみの象徴も不滅の者たちの家々に侵入することはなく、彼らは死の意味を全く知らない。彼らは死ぬことがない。――彼らは永遠に生きる。朽ち果てることはありえず、腐敗する可能性はない。おゝ! 義人の安息。お前は何と幸いなことか。そこで家族は再び1つの束にくくられ、別れ別れになった友たちは再会して二度と別れることがなく、キリストの教会全体が結び合わされて1つの大きな環となり、ともに代々とこしえに神と《小羊》を賛美するであろう。

 兄弟たち。私はこのようにして対比という形をとって義人の安息を示そうとしてきた。うまく行かなかったように感じる。不滅の事がらを告げるために私が口にできる言葉は貧弱なものである。聖なるバクスターその人でさえ、「聖徒たちの安息」について書いたときには、筆を止めてたこう云ったものである。「しかし、これらは天で鳴り渡る雷鳴のすべてにくらべれば、風鈴のようなものである」。愛する方々。私には、あるいは、いかなる定命の者にも、神がご自分を愛する者のために備えておられるものについて告げることはできない[Iコリ2:9]。

 2. さて今、私はごく手短に比較という形でこの対比を明らかに示してみたいと思う。キリスト者には地上でいくらかは安息があるが、その何物も来たるべき安息とはくらべものにならない。

 そこには教会の安息がある。信仰者が神の教会に加わり、彼らに結び合わされるとき、その人は安息を期待するであろう。かの古き『天路歴程の』の善良な著者は云う。倦み疲れた巡礼たちが、美麗宮という家に入ることを許されたとき、彼らは「平安の間」すなわち「安息」という名の部屋で眠るように案内された。主の晩餐の席につく教会員は、聖徒たちとの交わりにおいて、甘やかな安息の楽しみを得る。だが、あゝ! 天上においては、教会の交わりという安息をはるかに越えた、地上では知られないものがあるのである。というのも、そこには何の分派も、分裂も、教会集会における怒りの言葉も、互いに対する辛辣な思いも、教理に関する口論も、実践に関するいさかいもないからである。そこではバプテスト派も、長老派も、独立派も、ウェスレー派も、監督派も、同じ主に仕え、同じ血で洗われており、同じ歌を歌い、全員が1つに結ばれている。そこでは牧師と執事たちが決して白眼視し合うことはない。むしろ、あらゆる者が柔和でへりくだった者となり、あらゆる者が兄弟として結び合わされている。彼らには、地上におけるいかなる教会の安息をも越えた安息がある。

 また、そこには、信仰の安息がある。キリスト者が享受する甘やかな安息である。私たちの中の多くの者らは、それを知っている。私たちは、苦難の波浪が荒れるときにキリストの御胸に隠れること、安全に感ずることがいかなるものかを知っている。私たちは神の約束の岩間に自分の錨を深く下ろし、自分の部屋に眠りに行き、嵐を恐れることはない。患難を眺めても、それに微笑みかけ、死そのものを眺めても、それをあざ笑う。私たちは、キリスト教信仰によって、何物にもたじろがず、ひるまず、動かされることがありえない大きな信頼を有してきた。しかり。罪人呼ばわりされ、中傷され、そしられ、軽蔑されるただ中にあっても、私たちはこう云ってきた。「私は動かされることはない。神が私の味方なのだから」。しかし、天上の安息は、信仰の安息さえも越えて、はるかに平静で、甘やかで、完璧に静謐で、ずっと永続的で、恒久的なものである。

 また、やはりキリスト者は時として、交わりというほむべき安息を有することがある。その人には、自分の頭を《救い主》の胸にもたせかける幸いな時がある。――ヨハネのように、自分が《救い主》の心の近くにあるのだと感じ、そこで眠りにつけることがある。「主はその愛する者には、眠りを備えてくださる」[詩127:2 <英欽定訳>]。無意識の眠りではなく、喜びの眠りである。幸いなる、幸いなる、幸いなる夢を、私たちは交わりという寝椅子の上で得てきた。あのソロモンの雅歌の花嫁のように、私たちはキリストについてこう云えた。「あの方の左の腕は私の頭の下にあり、右の手は私を抱いてくださった」*[雅2:6]。

   「されど、なおも甘きは 清水のもとなり、
    流れもいかに 甘くあるとも」。

私たちは、その喜びの浴槽そのものに飛び込むとき、地上における交わりの喜びでさえ、杯に指をひたしたようなものでしかないこと、皿にパンをひたしたようものでしかないことに気づくであろう。天国そのものは、その喜びの控室ではなく、全体にあずかることであろう。地上では、私たちは時として吹き抜けの柱廊に入ることがある。天上では、《王》の謁見の間に入る。地上では、私たちは天国の園の生け垣や花々を見るが、天上では、至福の花壇の間を歩き、一歩ごとに清新な花々を摘み取るであろう。地上では、私たちは天国の陽光をはるか彼方に眺め見ているだけである。それは、一千もの門を有する町の燭台が遠くに輝いているかのようにしか見えない。だが、天上では、私たちはそれらを、その完全な燃え輝きにおいて見てとるであろう。地上では、私たちは遠方から風で運ばれてくる天国の旋律の囁きを聞くが、天上では、祝福された者たちの奏でる壮大な聖譚曲のただ中で魂を奪われたようになり、大いなるメシヤ、神、《ありてある者》に向かってささげられる永遠のハレルヤに声を揃えるであろう。おゝ! もう一度私は云う。私たちは、高く登って、舞い上がり、神の民のためにまだ残っている安息に入りたいとは思わないだろうか?

 II. そして今、さらに手短にもう一言だけ語って、終わることにする。私はこの安息を《明らかに示す》ようにしたのと同じく、これを努めて《称賛する》ことにしたい。私がこの安息を称賛したい理由はいくつかある。そして、おゝ! それをしかるべく称賛できるだけの雄弁さがあれば、どんなに良いことか! おゝ! 聖められた者たちの至福と、神の民の安息について、いま語ることのできる御使いの唇が、智天使のような燃える舌があればどんなに良いことか!

 まず最初に、それは完璧な安息である。彼らは天国では完全に休んでいる。地上における安息は不完全なものでしかない。私も、ほんのしばらくは毎日の労働をやめたいと思う。だが、そうすると、頭が考え出し、精神が今後の労働を期待し始め、肉体はじっとしていても、頭脳が動き出すのである。地上での安息日にはあなたがた、おびただしい数の群衆が神の家に座っているが、あなたがたの中の多くの人々は立ち上がらなくてはならなず、あなたの精神の中以外にはほとんど安息がなく、精神が休んでいるときでさえ、からだは立っている労苦によって倦み疲れている。あなたは安息日には何哩も、ことによると十何哩もの倦み疲れる家路を辿らなくてはならないかもしれない。また、安息日厳守主義者が何と云おうと、あなたが神のために働いているとしたら、あなたは安息日にも働いているであろう。そして、この安息日に神の家まで来るという働きは、神のための働きであり、神はそれを受け入れてくださる。あなた自身のためには、働いてはならない。神はあなたに休むように命じておられる。だが、もしあなたが、あなたがたの中の多くの人々が労苦してきたような、こうした三哩、こうした四哩、こうした五哩、こうした六哩を労苦しなくてはならないとしたら、私はあなたを非難しないし、してはならないであろう。「宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならない」[マタ12:5]。それが労苦であり労働であることは確かであるが、それは良い目的のため――あなたの《主人》のためなのである。しかし、天上では、愛する方々。その安息は完璧である。そこでは、からだは恒久的に休むし、精神もまた常に休んでいる。その住民たちは常に忙しく、常に神に仕えてはいるが、彼らは決して倦み疲れも、決して労苦にへとへとになりも、くたくたになりもしない。彼らは決して一日の終わりに自分の寝椅子に身を投げ出して、「おゝ! いつになったら私はこの労苦の国から逃れられるのか?」、と叫ぶことはない。彼らは決して燃える陽光の下に立って、額から熱い汗を拭うことはないであろう。決して朝に起き出して、なかば寝ぼけたまま猛勉強に向かうことはないであろう。しかり。彼らは完璧に休んでおり、永遠の喜びという寝椅子の上でのびのびとくつろいでいる。彼らは涙に似たものも知らない。彼らは罪も、煩労(まどい)も、苦悩(なやみ)も断って、自分の《救い主》の安息を得ている。

 また、これは時宜にかなった安息である。あなたがたの中のある人々にとって、それはいかに時宜にかなった安息であろう! あなたがた、富の子どもたち。あなたがたは貧民の労苦を知らない。ことによると、手にたこのできた労務者をあなたは見たこともないかもしれない。そして、いかに彼が必死に労苦しているかを知らないかもしれない。私の会衆の間には、私が常にあわれみをもって眺める種別の人々が大勢いる。明日は日の出とともに起き出して、永遠に続く「ひと縫い、ひと縫い」を始めなくてはならない貧しい婦人たちである。その働きは骨の髄までその指に染みついている。そして、月曜の朝から土曜の夜まで、私の教会員の多くは、また、私の話を聞いている中のおびただしい数の人々は、自分の針と糸をわきに置くことができない。それができるのは、くたくたに疲れ切って自分の椅子にもたれかかり、うつらうつらと夢の中でも労働し続けるときしかない! おゝ! 天国の安息は何とあなたにとって時宜にかなったものとなるであろう。おゝ! そこに着いたとき、いかにあなたは喜ぶことであろう。そこには月曜の朝は全くなく、あなたがこれ以上なすべき労苦は全くなく、ただ安息が、永遠の安息があるのである! あなたがたの中の別の人々は、きつい肉体労働を行なわなくてはならない。あなたには、そうできるだけ頑健であることを神に感謝すべき理由があるし、自分の仕事を恥じてはいない。というのも、労働は人にとって誉れだからである。しかし、それでも時にはあなたもこう云うことがある。「ロンドン暮らしのお勤めで、死ぬほど引きずり回されることがなきゃいいのになあ」。私たちは、この巨大な町の中ではほとんど休むことがない。私たちは、田舎にいる友人たちよりも、ずっと長い間起きていて、ずっと重労働をしている。時としてあなたは清新な空気を吸いに緑の野に出ていくことが恋しくなることがある。子どもだった頃に毎朝起こしてくれた、甘美な鳥の歌声を聞きたくてたまらなくなることがある。あなたは、明るい青空や、うっとりするほど美しい花々や、田園生活に伴う一千もの魅力的な物事が見られないのを残念に思う。ことによると、あなたは二度とこのすすけた町を出て行けないかもしれない。だが、思い出すがいい。あなたが天上に着くときには、「緑の沃野に飾られし野」と「喜ばしげに流れる川」こそ、あなたが安息を得る場所となり、あなたはその幸福の家において、考えうる限りのあらゆる喜びを得ることになるのである。そして、あなたは、たとい疲れ切り、ぼろぼろになり、杖にすがりながら墓場に辿り着いたとしても、たとい倦み疲れたらくだのように人生の荒野を旅してきて、安息日ごとに立ち止まっては井戸の水をほんの少し飲んだり、肥沃地でかいばを得たりするだけでしかなかったとしても、天上では旅路の果てに達するのである。黄金と香辛料を満載しながら、天国という大隊商宿に入っては、あなたが地上で倦み疲れながら運んでいる荷物を永遠に享受するのである。

 そして私は云わなくてはならない。自分の手で労苦したことのない、私たちの中の他の者らにとっても、天国は時宜にかなった安息となるであろう。私たちの中にいる、来る日も来る日も頭脳を疲れ果てさせなくてはならない人々にとって、天上で永遠の安息を得ることは、決して小さくない恩恵であることに気づくであろう。私は自分が行なっているかもしれないことを誇りはすまい。ずっと多くのことを行なっている人々が大勢いるかもしれない。たゆむことなく、日ごとに神に仕えるため苦闘し、自分の精神の最上の精力をそのために用いている多くの人々がいるかもしれない。しかし私にもこれだけは云える。私は、毎週ほぼ十二回説教する喜びがあり、しばしば眠っている間も、次に何を語ろうかと考えている。七シリング六ペンス払って出来合いの説教草稿を買うという利点を有していない私は、一言でも語るべき何かを見いだそうとして、激しく勤勉に労働させられるのである。そして時として私は、製粉機の漏斗を一杯にしておくことに困難を覚える。時折休みを取らないとしたら、神の子どもたちのために何の麦もなくなるように感じる。それでも、私たちは前進し、前進し、前進し続けなくてはならない。私たちは、自分の後ろに神の戦車の車輪が聞こえるし、あえて止まろうとはしない。永遠が近づきつつあると考えて、先へ進まなくてはならない。今の私たちにとって安息は労働以上のものであり、私たちは仕事についていたい。だが、おゝ! 教役者に対してこう云われるとき、それはいかに時宜にかなったもとなるであろう。――

   「神のしもべよ、よく為(な)せり!
    汝が愛す者 安息(やすみ)を賜う。
    戦いやみて 勝利(かち)ぞ得られぬ、
    入れよ、主人(あるじ)の 喜びに」。

それは時宜にかなった安息となるであろう。あなたがた、国事に関する煩労で倦み疲れ、人々の忘恩を学ばなくてはならない人たち。あなたがた、栄誉を求め、大きな代償を払ってそれを得た人たち。あなたは自分の最善を尽くそうとしている。だが、あなたの自主独立の精神そのものが奴隷根性と呼ばれ、あなたが奴隷根性を発揮すれば、それが称賛されるのである! あなたがた、神に誉れを帰すことを求め、人々に誉れを与えようとせず、自分を種々の党派に結びつけず、むしろ自分自身の独立した、誠実な識別力によって、あなたの国とあなたの神に仕えようとしている人たち。私は云うが、神があなたをご自分のもとにお召しになるのがふさわしいとお思いになるとき、あなたは、議会と手を切ること、諸国家や諸王国と縁を切ること、自分の栄誉を打ち捨てて、永遠に《いと高き方》の御座の前に住まう人々の間で、はるかに永続する誉れを受けることが決して小さくない喜びであることに気づくであろう。

 もう一二のことを語って、暇乞いをしたい。この安息が称賛されるべきなのは、私の兄弟たち。それが永遠のものだからである。地上では、私の最上の喜びもその額に「必滅」と記されている。地上では、私の麗しい花々もしおれる。地上では、私の甘やかな杯は澱が入っていて、すぐ空になる。地上では、私のいかに甘美な鳥たちも死ななくてはならず、彼らの歌曲もすぐに黙らされなくてはならない。地上では、私のいかに快い日々にもその夜はある。地上では、私の至福の流れには引き潮がなくてはならず、すべては過ぎ去る。だが、天上では、すべてが不滅である。その立琴が錆びることはなく、その冠がしぼむことはなく、その目がかすむことはなく、その声が口ごもることはなく、その心が動揺することはなく、そこにあるものは全く永遠と1つに合わせられている。幸いな日よ、幸いな日よ。死すべきものがいのちに呑まれてしまい[IIコリ5:4]、死ぬものが不死を着る[Iコリ15:53]そのときは!

 そして最後に、この栄光に富む安息がほめたたえられるべきなのは、何にもまして最善のこととして、その確実さのためである。「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」。疑う者よ。あなたはしばしば、「私など天国に決して入れないのではないでしょうか」、と云っていた。恐れてはならない。神の民は全員そこに入るのである。そこには何の恐れもない。私は、臨終の時を迎えていた、ある人の奇抜な云い回しを好んでいる。その人は田舎訛りではっきりこう云ったのである。「おらは家に帰るのは怖くねえ。おらの前に、みなをやって来たしな。神様の指がおらの玄関の掛け金にかかったなら、いつでも中に入ってもらうだよ」。「ですが」、とある人が云った。「あなたは自分の資産をもらいそこねるかもしれないと少しも怖くはないのですか?」 「ああ」、と彼は云った。「ああ、怖くねえ。天国にある1つの冠だけは、御使いガブリエルだってかぶることはできねえはずだ。それは、おらの頭にだけぴったりはまることになるのよ。天国にある1つの座席は、使徒パウロだっておさまることができねえはずだ。それは、おらのために作られたんで、おらのものになるのよ。その宴会には、おらのための料理が一皿あって、おらでなければ、誰も食べられねえだ。神様がそれをおられのために取り分けてくださったんだもんでな」。おゝ、キリスト者よ。これは何と喜ばしい考えであろう! あなたの相続分は安泰なのである! 「休みはまだ残っているのです」。「ですが、私はそれをその相続権を失うことがあるのでは?」 否。それは血を分けた子孫なら必ず受けられるはずの財産なのである。もし私が神の子どもなら、それを失うことはありえない。それは、私がいま天上にいるのと同じくらい確実に私のものである。

   「来たれ、御民よ、ピスガの山頂(うえ)へ
    見よや、彼方の景色をば」

あなたには、死というあの、陽光にきらめいている小川が見えるだろうか? そして、その彼方にある永遠の都の尖塔が見えるだろうか? それを取り巻く沃野と、喜ばしげな住民たちが見えるだろうか? その場所に目を向けるがいい。光の線が今きらめいている所が見えるだろうか? そこには、1つの小さな場所がある。それが見えるだろうか? それがあなたの受け継ぐ土地である。それがあなたのものなのである。おゝ、もしあなたに飛んで渡ることができるとしたら、その上にこう書かれているのが見えるであろう。「これは、これこれの者のために残されており、その者だけのために保たれている。その者はやがて連れて来られて、永遠に神とともに住むこととなる」。あわれな疑える者よ。あなたの相続財産を見るがいい。それはあなたのものである。もしあなたが主イエス・キリストを信じているとしたら、あなたは主の民のひとりである。もしあなたが罪を悔い改めているとしたら、あなたは主の民のひとりである。もしあなたが心を新しくされているとしたら、あなたは主の民のひとりであり、あなたのために1つの場所があり、あなたのために1つの冠があり、あなたのために1つの立琴がある。あなた以外の誰もそれを持つことはなく、まもなくあなたはそれを持つことになる。もう少しだけ語ることを許してほしい。自分がいま天国にいるものと思い描いてみてほしい。そう考えるのは奇妙なことではないだろうか?――天国にいる、あわれな道化役者である。考えてみるがいい。あなたの頭の上にあなたの冠があるとしたら、あなたはどのように感じるだろうか? 倦み疲れた老婦人よ。あなたの上を長い年月が巡り来た。その光景は、あなたが若返るとき、何と異なったものとなることであろう。あゝ、労苦にやつれた労務者たち。あなたが永久に休むことになるときのことだけを考えてみるがいい。それが思い描けるだろうか? ほんの一瞬でも、自分がいま天国にいると考えられるだろうか? 何と奇妙な驚きがあなたをとらえることであろう。あなたはこのように云うことすらないであろう。「何と! これは黄金の街路なのだろうか? 何と、これは碧玉の城壁なのだろうか?」 「何と! 私がここにいるのか? 白い衣を着て? 私はここにいるのか? 自分の頭に冠をかぶって? 私はここにいて歌っているのか? 今までずっと呻いてきたというのに? 何と! かつては神を呪っていた私が神を賛美しているのか? 何と! 私が声を張り上げて神の誉れをたたえているのか? おゝ、私を洗ってくれた尊い血よ! おゝ、私を自由にしてくれた尊い信仰よ! おゝ、私を悔い改めさせてくださった尊い御霊よ! さもなければ、私は捨てられて、地獄にいたことであろう! しかし、おゝ! 何たる不思議! 御使いたち! 私は驚いている。有頂天になっている! 不思議や不思議! おゝ! 真珠の門よ。私はずっと以前にお前の噂を聞いていた! おゝ! 薄れることの決してない喜び。私はずっと前にお前について語られるのを聞いていた! しかし、私はシェバの女王のようで、真実の半分も告げられてはいなかったのだ。何と有り余る、おゝ、有り余る至福よ!――不思議や不思議!――奇蹟の奇蹟! 何という世界に私はいることか! そして、おゝ! 私がここにいるとは。これはあらゆることの中でも最高の奇蹟だ!」 だがしかし、これは本当なのだ、本当なのだ。そしてそれこそ、その最も素晴らしいことなのだ。これは本当のことである。来るがいい、虫けらよ。それを証明するがいい。来るがいい、棺よ。来るがいい、屍衣よ。来るがいい。そして、それを証明するがいい。それから、来るがいい、信仰の翼よ。来て、熾天使のように飛び上がるがいい。来るがいい、永遠の代々よ。来るがいい。そして、証明するがいい。目が見たことのない喜び、耳が聞いたことのない喜び、神だけがその霊によって私たちに啓示することがおできになる喜びがあることを。おゝ! 私が切に祈るのは、あなたがたの中の誰もこの安息からもれることがなく、そこに入り、それを永遠に喜ぶようになることである。願わくは神があなたにその大いなる祝福を与えてくださるように。イエスのゆえに! アーメン。

  
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天的な安息[了]

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