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神の力と知恵なるキリスト

NO. 132

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1857年5月17日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「キリストは神の力、神の知恵なのです」。――Iコリ1:24


 キリストの福音に対する不信仰は、世界中で最も理に適わないものである。なぜなら、不信者が自分の不信仰の理由としてあげるものは、キリストの福音の性格と成り立ちによって見事に解決がつくからである。この節の前にこう書かれていることに注意するがいい。――。「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します」[22節]。もしあなたが、使徒の時代にキリストを信じようとしなかったユダヤ人に出会うとしたら、彼は云うであろう。「私には信じられません。私はしるしを欲しているからです」。また、もしあなたがギリシヤ人に出会うとしたら、彼は云うであろう。「私には信じられません。私には知恵に満ちた、哲学的体系を欲しているからです」。「さて」、と使徒は云う。「こうした反論は、どちらも筋の通らない、理不尽なものである。もしあなたが、ユダヤ人はしるしを要求すると考えるとしたら、そのしるしはユダヤ人に与えられている。キリストこそ神の力である。キリストが地上で行なわれた数々の奇蹟は、十分に余りあるしるしであった。それで、ユダヤ民族は、信ずるつもりさえあれば、キリストとその使徒たちひとりひとりの行為の中に、信ずるに足る十分なしるしと理由を見いだしていたはずである」。また、ギリシヤ人がこう云ったとしよう。「私には信じられません。私は知恵ある体系を要求しているからです。おゝ、ギリシヤ人よ。キリストは神の知恵なのだ。もしあなたがこの主題を調査してみさえすれば、あなたはそこに深遠な知恵を見いだすであろう。――いかに巨大な知性であれ溺れてしまうほど深い知恵である。これは決して底の浅い福音ではない。深みであり、非常な深みであり、理解を超えた深みである。あなたの反論に正当な理由はない。キリストは神の知恵であり、その福音はあらゆる科学の中でも最高のものだからである。人が知恵を見いだしたければ、それは啓示の言葉の中で探さなくてはならない」。

 さて、今朝の私たちは、福音のこうした2つの考えを持ち出してみたい。そして望むらくは、私たちがこれから語ることを神が祝福してくださり、ユダヤ人あるいはギリシヤ人の反論を取り除いてくださるように。すなわち、しるしを要求する人が、キリストのうちに神のを見てとり、知恵を要求する人がキリストのうちに神の知恵を目の当たりにできるようになるように。私たちは、本日の聖句を三重のしかたで理解したいと思う。――キリスト、すなわち、キリストご自身が、「神の力、神の知恵」であられる。また、キリスト、すなわち、キリストの福音は、「神の力、神の知恵」である。そして、キリスト、すなわち、心のうちにおられるキリスト――真のキリスト教信仰は、「神の力、神の知恵」である。

 I. まず第一に、《キリストご自身》から始めよう。神そして人として考えられた際のキリスト、御父と同等の神の御子でありながら人でもあられ、処女マリヤからお生まれになったキリストである。キリストは、その複合的なご人格において、「神の力、神の知恵」であられる。キリストは永遠の昔から神の力であられる。「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて」[詩33:6]。「ことばは神とともにあった。ことばは神であった」[ヨハ1:1]。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」[ヨハ1:3]。地の柱がその永遠の軸受の中に据えられたのは、キリストの全能の右手によってであった。天の帷をその星々の光輝く円形場の上に引かれたのは、永遠にあらゆる栄光に富む神の御子たるお方であった。天界の中に浮かぶ数々の軌道や、あの重々しい数々の惑星や、あの強大な星々を所定の場所に置いたり、宇宙を経巡らせなさったのは、「初めであり、終わり」であるお方[黙22:13]、「地上の王たちの支配者」であるお方[黙1:5]である。キリストが神の力であるのは、キリストが万物の《創造主》であられ、キリストによって万物は存在しているからである[コロ1:16-17]。

 しかし、キリストが地上に来られ、ご自身の上に人のかたちをとり、宿屋に仮住まいし、かいばおけの中でお眠りになったときも、なおも主は、ご自分が神の御子である証拠を示しておられた。一手幅ほどの幼子として、不死のお方が定命の者となり、無限のお方が赤子となられたときにもまさり、また、その青年時代にもまさり、後にその公生涯を始めたときこそ、主はその御力と神格の有り余る証拠をお示しになった。風は主が指を一本あげるだけで静寂に返り、波は主の声によって静まり、主が踏みしめる下で大理石のように硬化した。嵐は、御足のもとで縮こまり、知らぬ者なき征服者を前にしているかのように従った。こうした事物は――こうした暴風の諸要素は――この風や、嵐や、湖は――、主の満ちあふれる力を十分に証明していた。踊り上がった足なえ、聞こえるようになった耳しい、歌い出したおし、よみがえった死人、こうした者らもまた、主が「神の力」であられる証拠であった。イエスの御声がハデスの亡霊たちを驚かせ、「ラザロよ。出て来なさい」[ヨハ11:41]、と叫んで死の綱をひきちぎったとき、また、あの墓の中で腐っていた屍が目覚め、いのちに返ったとき、そこには主の天来の御力と神格の証拠があった。他に一千もの証拠を主はお与えになった。だが、それらをあなたにわざわざ指摘する必要はない。あなたの自宅には聖書があり、それを毎日でも読めるのである。最後に主は、ご自分のいのちを引き渡し、墓に葬られた。しかしながら、長く眠ってはおられなかった。というのも主は、その天来の御力と神格の証拠をもう1つお示しになったからである。その眠りから起き上がると主は、その壮麗な威光で番兵たちを恐怖させた。主を死の綱で縛っておくことはできず、それらは、私たちの勝利者サムソンの前では新しい弓の弦に等しかった[士16:8]。そして、その間に主は、ハデスの門を引き抜くと、それを肩にかつぎ、はるか遠くまで行って来られたのである。

 主が、神のであられることを聖書は非常にはっきりと明言している。こう書かれているからである。「キリストは、神の右に座を占めておられます」*[コロ3:1]。主は《摂理》の手綱をことごとく御手の中に納めておられる。時間という駿馬たちを御し、世界という戦車に座し、その車輪に回転するよう命じておられる。また主は、思うがままに指図して、それらを止めることがおできになる。主はあらゆる議論の偉大な審判者であり、教会の偉大な《主権あるかしら》であり、天と死と地獄の主であられる。そして、私たちは知っている。じきに主が来られることを。

   「火と燃ゆ雲と 風の翼(はね)踏み、
    諸人(もろびと)さばく 主と定められ」。

そして、そのときに生かされた死者や、はね起こされた無数の者や、真っ二つにされた天空や、「のろわれた者ども。わたしから離れよ」*や、「さあ、わたしの父に祝福された人たち」[マタ25:34、41]は、主を神の力であられると宣言するであろう。主こそ、みこころのままにあらゆる人間を救うか、罪に定めるかすることのできるお方であられる、と。

 しかし主は、それと等しく「神の知恵」でもあられる。すべての世に先立って主が行なわれた偉大な事がらは、主の知恵を証ししている。主は救いの道を計画された。贖罪と代償の筋道を編み出された。救いの偉大なご計画の土台を据えられた。そこに知恵はあった。しかし、主は知恵によって諸天を築き、光の柱を据え、その上で、巧みなわざと知恵により天空の釣り合いをとられた。この世に注目し、学びとるがいい。神の知恵を証しするその膨大な数の証拠を見るとき、そこにはキリストの知恵があるのだということを。というのも、主はその創造者であられたからである。そして、主が人となられたとき、主は知恵の証拠を優に示された。その少年期においてさえ、主は、その質問によって教師たちを当惑させ、ご自分が定命の者以上のお方であると示された[ルカ2:46-47]。また、パリサイ人やサドカイ人やヘロデ党の者たちが結局はみな打ち負かされ、その網が破られたとき、主はまたしても神の御子たる無比の知恵を証明された。そして、主を捕えようとして来た者たちが、主の雄弁に心奪われ、主の素晴らしいおことばに魅せられてしまったとき[ヨハ7:46]、やはりそれは主が神の知恵であり、それほどまでに人の思いをとりこにできるお方であるとの証明であった。そして今や主は、神の御座の前でとりなしをしておられる。今や主は、御座の前における私たちの《弁護者》であり、祝福された者たちの保証人であり引受人であられる。今や統治の手綱は主の御手の中にあり、常に賢明に統御されている。ならば私たちには、神の力のみならず神の知恵もキリストのうちにあるという、満ちあふれるほどの証拠があるのである。御前にひれ伏すがいい。あなたがた、主を愛する人たち。御前にひれ伏すがいい。あなたがた、主を慕いまつる人たち! 冠ささげよ、冠ささげよ、冠ささげよ! 主はそれに値するお方である。主には永遠の大能があり、主には不動の知恵がある。主の御名をたたえよ。主をほめたたえよ。翼を打ち鳴らせよ、あなたがた、熾天使たち。大声で叫べよ、あなたがた、智天使たち。叫べ、叫べ、叫べよ、主への賛美を。あなたがた、天にある贖われた万民たち。そしてあなたがた、おゝ、主の恵みを知る人たち。あなたの歌によって永遠に主をほめそやすがいい。主はキリストであり、神の力であり、神の知恵であられるからである。

 II. しかしここで、キリスト、すなわち、キリストの《福音》は、神の力であり知恵である。

 1. キリストの福音は天来の力から出たものである。あなたは、その証拠を欲しているだろうか? お安いご用である。キリストの福音は、それ自体に力が本来備わっていなかったとしたら、いかにしてこの世の中に確立できただろうか? 何者によってそれは伝播されたのだろうか? 司教冠をかぶった高位聖職者や、博学な学者や、猛々しい戦士や、カリフや、預言者たちによってだろうか? 否。無教養で、無学な漁師たちによってである。御霊によって語らされなければ、いかにして説教するかも、話すすべも知らない者たちによってである。いかにして彼らが福音を伝播したのだろうか? 銃剣や、剣や、刀身の鋭利な金属によってだろうか? 彼らは自分たちの福音を、その槍や偃月刀を突きつけて人々にねじ込んできたのだろうか? 云うがいい。何万もの者らが、あのマホメットの新月旗に従った軍勢のように戦闘に突入し、武力や、法律や、権力によって、人々を回心させたのだろうか? あゝ! 否。ただ単に彼らの単純な言葉によってである。彼らの率直な雄弁と、彼らの荒削りの宣言と、彼らの粗野な弁舌によってである。こうしたものこそ、神の御霊の祝福によって、その創始者の死後一世紀の間に、福音を世界中に広めたものなのである。

 しかし、これほどのことを成し遂げたこの福音とは、いかなるものなのだろうか? それは人間性にとって心地よいものだっただろうか? それは、現世の幸福という楽園を提供しただろうか? 肉や官能の楽しみを提供しただろうか? 魅力的な富の見込みを与えただろうか? 人々に放縦な考え方を許しただろうか? 否。それは、この上もなく厳格な道徳の福音であった。霊的な楽しみだけを中心とするの福音であった。――ジョー・スミス[モルモン教の創始者]の下卑た迷妄とは違い、情欲の喜びにふける見込みを全く人々から切り離すという、肉を慎ませる福音であった。それは聖く、しみなく、天国の息吹のように清浄な福音であった。御使いの翼のように純粋な福音であった。古のマホメットの時代に広まった、情欲と悪徳と邪悪さの福音[回教]とは違い、純粋で、それゆえ人間性にとっては心地よくない福音であった。だがしかし、それは伝播した。なぜか? 愛する方々。私があなたに与えられる答えは、これしかないと思う。それは、その中に神の力を有していたのである。

 しかし、あなたは別の証拠を欲するだろうか? いかにして教会が、それ以来保たれてきただろうか? 福音の通ってきた道は決して平坦ではなかった。《教会》という幸いな帆船がかき分けて進んでこざるをえなかったのは血の海であったし、それに乗り組んだ者たちは、血しぶきを浴びてきた。しかり。彼らは、いのちを死に渡すことによって、乗組員を配置し、動かしてこざるをえなかった。キリストの《教会》の受けたむごたらしい迫害に注目するがいい。ネロの頃からメアリーの時代に至るまでの、また、さらに進んでチャールズ二世の頃から、「寛容」という言葉の意味を学んだこともない、あの不幸な王たちの記憶に至るまでの迫害の数々を。クレイヴァーハウスの竜騎兵たちから真っ直ぐにつながるローマの剣闘士的な見世物に至るまで、いかに長い迫害の数々を福音は受けてきたことか。しかし、古の聖徒たちがしばしば云ったように、「殉教者たちの血」は、「《教会》の種」であった。それは、昔の本草家たちが云っていたように、カミルレの薬草にも似て、踏みつけられれば踏みつけられるほど、よく育つのである。《教会》はむごい仕打ちをされればされるほど、生き生きと成長してきた。あのアルビ派が、その白い衣を着て歩いた山々を眺めてみるがいい。いまだ忘れられてない、スミスフィールドの火刑柱を見るがいい。勇敢な人々の群れが、専制的な暴政とはきっぱり関係を断って生きていた、あの山なす丘々の間を眺めるがいい。迫害する政府から追い出され、大洋を越えていった巡礼始祖たちに注目するがいい。福音にいかなる活力があるか見てとるがいい。福音は、波の底に沈めようとも浮かび上がってくる。洗われたことにより、一段ときよくなって上ってくる。それは、火の中に突き入れられても、焼かれたことで一段と輝かしく立ち現われてくる。福音を真っ二つに切り裂けば、それぞれの部分が別の教会となる。その首を刎ねれば、古のヒュドラのように、切り落とした1つの頭ごとに百もの頭が生えてくる。福音は死ねない。不死身である。というのも、それは、神の力を内側に有しているからである。

 あなたは、さらに証拠を欲するだろうか? いま述べたばかりのものより、格段にすぐれた証拠を示そう。《教会》が迫害を生き延びたことにもまして不思議なことは、それが、信仰を告白する教師たちの不忠実さにもかかわらず生き延びたことである。その全歴史を通じて、キリストの《教会》ほど過ちや惑わしを受けてきた教会はない。かしらになりたがっていたデオテレペス[IIIヨハ9]の時代からこの終わりの日に至るまで、高慢で傲慢な高位聖職者たち、神の相続財産をあごで動かす横柄で傲然たる大物たちの記録に事欠くことはない。ボナーのごとき者たちや、ダンスタンのごとき者たち、そして、ありとあらゆる種類の者たちが、教会の地位に就いては、八方手を尽くしては教会を殺そうとしてきた。その偉ぶった聖職者政略によって、彼らは教会に道を踏み外させようとしてきた。そして、私たちはあのローマの巨大な背教に対して何と云えば良いだろうか? 教会があれをも生き延びたとは、一千もの奇蹟である! 教会のかしらのふりをしている者が背教者となっていたとき、また、そのあらゆる司教たちが地獄の弟子となっていたとき、また、教会がはるか遠くにさまよい出てしまっていたとき、不思議や不思議、かの栄光に富む宗教改革の時代に、教会は立ち現われ、今なお生きているのである。そして、今でさえ、教職についている私の兄弟たちの多くの怠惰さに注目するとき、――神に何事かの奉仕を行なうことにおける彼らの全くの完全な無能さに注目するとき、――また、街道や垣根のところに出かけて行っては[ルカ14:23]貧しい人々に福音を宣べ伝える代わりに、日曜日に時たましか説教しないという彼らの時間の浪費ぶりを見てとるとき、――また、教会そのものにおける油注ぎの欠け、祈り深さの欠けを見てとるとき、――また、いさかいや、争いや、分派や、分裂を見るとき、――また、聖徒たちの集会においてさえ、短気や高慢を見るとき、――私は云う。神の《教会》が、その教会員たち、その教役者たち、その司教たちの不忠実さにもかかわらず、そもそも生きていること自体、何百万もの奇蹟である、と。教会には神の力が内側にある。さもなければ、立ち滅ぼされていたであろう。教会には、その腰の中に自らの滅びを行なうに足るだけのものを有していたのである。

 「しかし」、とある人は云うであろう。「あなたは、まだそれが神の力であることを私に納得がいくまで証明してはいませんよ」。方々。私はあなたにもう1つの証拠を示すであろう。今この場にいる少なからぬ数の人々は、必要とあらば、その座席から立ち上がり、私が語っていることが真実であると、いつなりとも証言する覚悟があるであろう。私はそれを知っている。そこには、ほんの数箇月前までは、酔いどれだった人々がいる。放蕩者だった人々がいる。人間を真実と、善と、貞節と、正直と、誠実とに保っておくあらゆる誓いに不忠実だった人々がいる。しかり。もう一度云うが、この場にいるある人々は、憎むべき罪の生活を振り返っている。あなたは――あなたがたの中のある人々は――三十年もの間(そのような人がひとり、ここに出席しているが)、一度も福音の宣教に耳を傾けたことがなく、神の家の敷居をまたいだことすらなかった。あなたは安息日を蔑み、それをありとあらゆる種類の悪しき楽しみのために費やし、罪と悪徳にどっぷり浸かって生きていた。そして、あなたの唯一の不可思議は、神があなたを、土地ふさぎ[ルカ13:7]として、とうの昔に切り倒さなかったことである。だのに今あなたはここにいる。光と闇ほどにも異なる者としてここにいる。私はあなたの性格を知っており、父親の愛をもってあなたを見守ってきた。というのも、私は子どもではあるが、この場にいる何人かの人々――私の年齢の四倍にもなる人々――にとっては霊の父親だからである。そして私は、盗人だったあなたが正直者となり、酔いどれだったあなたが素面になっているのを見ている。私は、幸福で目をきらめかせている妻たちを見てきた。また多くの婦人たちが私の手をつかんでは、涙をはらはらと流しながら云ってくれた。「神様は何と素晴らしいお方でしょう。私は今では幸いな女です。夫は真人間になりました。私の家は祝福されています。私たちの子どもたちは、主への恐れの中で育てられているのです」。ひとりやふたりではなく、何十人ものそうした人々がこの場にはいる。そして、愛する方々。もしこうした事がらでも福音が神の力である証拠にならないとしたら、私は云う。この世ではいかなることの証拠も全くなく、すべては当てずっぽでしかないに違いない、と。しかり。そして、きょう、あなたとともに礼拝しているひとりの人がいるが(また、もしこの場にひとりでも世俗主義者がいるとしたら、私の友人はしばし自分のことが話の種とされるのを許してくれるであろうが)、きょうのこの日、この神の家にいるひとりの人は、あなたの隊伍の指導者であった。神を蔑み、正道から非常に遠く離れてしまっていた人であった。だのに、ここに彼はいるのである! 今日では、彼が自分をキリスト者であると認めることは彼の誉れなのである。そして私は、この説教が終わっ後で、彼の手を握りたいと希望している。というのも、彼は1つの雄々しい行為を行なったからである。彼は勇敢にも衆人環視の前で自分の著書を焼き捨てて、心底から神に立ち返ったのである。もし証拠が足りないとしたら、私は福音が人々にとって神の力であり神の知恵であったことを示す証拠をいくらでも示すことができる。より多くの証拠を私は示すことができる。しかり。次々と、一千でも。

 しかし、私たちは別の点にも注意しなくてはならない。キリストの福音は神の知恵である。福音そのものを眺めてみれば、あなたはそれが知恵であることを見てとるであろう。福音を馬鹿にし、嘲る人がそのようにする唯一の理由は、それを理解していないからである。私は、現存する神学書の中でも、最も内容豊かな本を二冊有している。それは不信心者であると公言する人々によって書かれたものである。――すなわち、一度は不信心者であった人々が、後になって書いた、という意味である。あなたもリットルトン卿とウェストの話を聞いたことがあるかもしれない。私の信ずるところ、彼らはキリスト教を論駁しようと決意していた。彼らの一方はパウロの回心という主題を取り上げ、もう一方は復活という主題を取り上げた。彼らはふたりとも腰を据えて、この2つの出来事をあざ笑うための書物を書き出した。そして、その結果はというと、その主題を研究するうちに彼らは、ふたりともキリスト者となってしまい、今や、彼らが著した書物は、彼らが転覆させたがっていた当の教会の大きな支えとなっているのである。福音を真正面から見据えて、しかるべく研究する人はだれでも、それが決して偽りの福音ではなく、知恵に満ち満ちた福音であること、キリストを知る知識で一杯の福音であることを悟るものである。もしだれかが聖書に難癖をつけたがるならば、難癖をつけるに違いない。ある人々はいかなる場所にも知恵を見いだすことができず、自分自身の頭の中にしか見いだせない。しかしながら、そうした人々は決して知恵の判定者ではない。私たちは鼠に天文学の諸現象を説明させるべきではないし、難癖をつけることしかしないほど愚かな者に福音の知恵を理解させようとすべきでもない。人は結局は正直になり、少しは分別のあるところを示さなくてはならない。さもなければ、その人と論ずることなど全くできない。キリストの福音は、それを信ずるいかなる人にとっても、神の知恵なのである。

 ほんの示唆をするにとどめさせてほしいが、福音を信ずることは、人の知性にとって何の不名誉でもない。福音は、いかに貧しく、いかに無学な者によっても理解でき、子羊でも歩いて渡れるだけの浅瀬がある一方で、レビヤタンが泳げるほどの深みもあるのである。ロックの知性は福音の中に広大な余地を見いだした。ニュートンの精神は幼子のように霊感の真理を受け取ることに服し、その威厳ある存在の中に、自らよりも高いもの、到底達することのできないものを見いだした。神の真理の聖書を学ぶことによって、いかに粗野で、無教養な者も御国に入ることができるようにされてきた。また、最も博学な人も福音について、それは人知を越えていると語ってきた。私は先日、こう考えていた。もし福音が真実でないとしたら、いかに膨大な量の文学が失われるに違いないことかと。聖書ほど示唆に富む本はいまだかつてなかった。私の書斎には何冊もの大きな書物が並んでおり、いずれも渾身の力を込めてようやく持ち上がるようなものであるが、それがみな聖書に関する書物なのである。また、それより小さな無数の書籍、何万何十万もの、ありとあらゆる形と大きさの本があり、やはりその内容は聖書に関することなのである。そして私はこう考えた。聖書が示唆に富んでいること、超自然的なまでに豊かな示唆を与えること自体、それそのものが、その天来の知恵を証明している、と。いまだかつてこのような本を書くことのできた者はひとりもいない。聖書ほど多くの注解者たちを有し、その聖句が受けている百万分の一ほども注釈されているような本はないからである。

 III. 《人のうちにあるキリスト、魂のうちにある福音》は、神の力、神の知恵である。私たちは、キリスト者をその始めから最後まで描写してみよう。彼の生涯の概略図を示してみよう。彼が初めにいるのは、そこ、牢獄の中である。そこにはめこまれた巨大な鉄棒をやすりで切ることはできない。その暗く、じめじめした独房には、疫病と死がかもしだされている。そこで、貧しく裸の彼には、渇いた唇をつける水差しも、飢えを満たすひとかけらの堅いパンの皮すらない。それが、彼の始まったところである。――罪の確信という獄屋で、無力な、失われた、滅びた者として。だが、その鉄格子の間から、私は彼に手を差し延べ、神の御名において、彼が申し立てるべきキリストの御名を彼に与える。彼を見るがいい。彼は何日も何日もその鉄棒をやすりで切ろうとしていたが、それは一吋も屈しはしなかった。だが今や彼がキリストの御名を唇に上せつつ自分の手をその鉄棒の上に置くと、その一本が抜け落ち、もう一本、さらに一本が抜け落ちる。そして、彼は嬉々として脱出し、こう叫ぶ。「私は自由だ、自由だ、自由なのだ! キリストは私にとって神の力となられた。私を、私の困難から連れ出してくださったのだから」。しかしながら、彼が自由になるや否や、一千もの疑いが彼と出会う。この1つは叫ぶ。「お前は選民ではないのだ」。別のものは叫ぶ。「お前は贖われていないのだ」。別のものは云う。「お前は召されていないのだ」。別のものは云う。「お前は回心していないのだ」。だが、「立ち去れ」、と彼は云う。「立ち去れ! キリストは死なれたのだ」。そして彼がキリストの御名を神の力として申し立てるだけで、こうした疑いはたちまち逃げ散り、彼は真っ直ぐに歩き続ける。また彼は、じきに苦難の炉に行き着く。彼は最も深い所にある牢に突き入れられ、彼の足は足枷でしっかりと固定される。だが神は、御手を彼の上に置かれる。彼は深い苦難の中にあるが、真夜中にキリストについて歌い始める。すると、見よ! 壁という壁がぐらつき出し、その牢獄の土台が揺れ始める。そして、その人の鎖は外れ、彼は自由になって出て来る。というのも、キリストが彼を苦難から解放されたからである。また、ここに登るべき丘がある。天国に至る路の途上にある。疲れた様子で彼はその丘の中腹をあえぎながら昇り、頂上に達する前に自分が死ぬに違いないと思う。だがイエスの御名が彼の耳に囁かれる。彼は躍り上がって立つと、清新な勇気とともに、自分の道を辿り続け、ついに頂上をきわめるや、彼は叫ぶ。「イエス・キリストは私の歌の力。また、私のために救いとなられた」*[イザ12:2]。さらに彼を見るがいい。彼は突然多くの敵に取り囲まれる。いかにして彼が彼らに抵抗すれば良いだろうか? この名刀によってである。十字架につけられたキリストという、この鋭利なエルサレム刀によってである。これによって彼は悪魔を寄せつけず、これによって彼は誘惑と、情欲と、天にいるもろもろの悪霊[エペ6:12]と戦い、これによって抵抗する。さて、彼はその最後の戦いに至る。《死》という川が彼の前を黒く陰鬱に流れている。その大水の中から暗い姿がいくつも浮かび上がっては吠え、彼を恐れさせる。いかにしてその流れを越えれば良いだろうか? いかにして向こう岸に上陸場を見いだせば良いだろうか? ひどい恐れの思いが一瞬彼を困惑させる。彼は動揺させられる。だが、彼は思い出す。イエスは死なれたのだ。そして、その合言葉を握って彼は思いきって大水に向かう。彼の足の前で、そのヨルダンは滔々と流れている。だが古のイスラエルのように彼は、足を濡らすこともなく歩き渡り、歌いながら天国へ行く。「キリストは私とともにおられる。キリストは私とともにおられる。流れを越えて! 勝利、勝利、勝利が、私を愛されるお方にあるように!」

 キリスト者にとって、自分自身の経験におけるキリストは、常に神の力であられる。誘惑については、彼はキリストとともに立ち向かうことができる。苦難については、彼はそれを彼を強くしてくださるキリストを通して忍ぶことができる。しかり。彼はパウロとともにこう云える。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」[ピリ4:13]。あなたは苦難の中にいるキリスト者を――真のキリスト者を――全く見たことがないだろうか? 私が話で読んだことのある、ひとりの人が神に回心したのは、苦難の時における妻のふるまいを見たことによってであった。彼らには可愛い子どもがいた。たったひとりの子宝であった。父親は、その子を目の中に入れても痛くないほど可愛がり、母親はその小さな子を手塩にかけて育てていた。ところが、その子が病気にかかり、床に伏し、両親は夜も昼も寝ずの看病をした。とうとう、その子は死んだ。父親は全く神を信じていなかった。彼は髪の毛をかきむしり、狂乱しては床を転げ回り、のたうちながら、自分の存在を呪い、その苦悶の完全な失意落胆の中で神をののしった。だが、彼の妻はじっと座っていた。彼と全く同じくらいその子のことを可愛がっていた妻は、涙を流してはいたものの、優しくこう云った。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」[ヨブ1:21]。「何と」、と彼は立ち上がりながら云った。「お前はあの子を愛しているのか? 私はあの子が死んだとき、お前の心が張り裂けてしまうだろうと思ったのに。ここに私はいる。強い男だ。私は腹を立てている。だが、ここにお前はいる。弱い女だ。だのに、お前は強く大胆だ。教えてくれ、何がお前を支えているのだ?」 彼女は云った。「キリストが私の主です。私は主に信頼しています。確かに私はこの子を主にささげることができます。主はご自分を私たちにささげてくださったお方なのですから」。その瞬間から、この男は信仰者となった。彼は云った。「《福音》には何らかの真理が、何らかの力があるに違いない。このような試練の下にあっても、お前をそのようなしかたで信じさせることのできる何かが」。キリスト者たち! いずこにおいても、こうした思いを披瀝するように心がけるがいい。そして、この世の子らに対して、あなたの経験の中においては、少なくとも、「キリストが神の力、神の知恵」であることを証明するようにするがいい!

 そして今、最後の点である。キリスト者の経験において、キリストは力であるのと同じく知恵であられる。もしあなたが徹底的に博識な人になりたければ、手始めとして最善なのは、聖書から進み始めること、キリストにおいて始めることである。子どもたちでさえ、聖書を用いる方が他のどの本を用いるよりも、早く字を読めるようになると云われている。そして、このことを私は確信している。すなわち、大きくなった子どもにすぎない私たちは、他の何によって始めるよりも、キリストによって始める方が、より良く学び、より早く学べるであろう、と。私はこういうことを一度語ったのを覚えているが、これよりもすぐれた云い方を知らないために、繰り返すことにしよう。私は、《福音》を知る前は、そこら中から、ありとあらゆる種類の雑多な知識の塊を寄せ集めていた。化学をちょっぴり、植物学をちょっぴり、天文学をちょっぴり、あれやこれやを集めては、1つの大いなる滅茶苦茶な混沌にしていた。だが、《福音》を知ったとき、私は自分の頭に1つの棚を得た。あらゆるものを、しかるべき場所に片づけておける棚である。十字架につけられたキリストを見いだしたとき、それはあたかも自分に太陽系の中心が手に入ったようであった。そのように私は、他のあらゆる科学がこの中心の回りを回転しているのを見てとるようになった。知っての通り、地球からは、惑星たちは非常に不規則なしかたで動いているように見える。――それには、進んでいるものもあれば、後戻りしているものもあり、静止しているものもある。だが、もしあなたが太陽の上に立つことができるとしたら、あなたはそれらがその堅実な、不変の円形運動をしていることを見てとるであろう。知識についても、それと同じである。あなたの好きな他のどの科学によって始めても、真理はねじくれて見えるであろう。だが十字架につけられたキリストという科学によって始めるならば、あなたは太陽を踏まえて始めることになり、他のあらゆる科学がその回りを完全に調和して動いているのを見てとるであろう。世界最大の精神は、正しい端から始めることによって発達させられていくであろう。最善のことは、自然の神から自然へと降りていくことである。古のことわざに云う。「自然から、自然の神へ行け」、と。だが、丘を登るのはつらい務めである。最上のことは、自然の神から自然へと降りて行くことである。そして、もしあなたがいったん自然の神に達し、神を信じ、神を愛するようになるとしたら、驚くべきことに、いかにも容易に波の中には音楽が聞こえ、風の荒々しい囁きの中には歌が聞こえ、あらゆる場所に神が見えるのである。石の中に、岩々の中に、小川のせせらぎの中に。また、あらゆる場所で神が聞こえるのである。家畜のいななきの中に、雷の轟きの中に、嵐の猛威の中に。キリストを第一に得て、キリストを正しい場所に置けば、あなたはキリストが神の知恵であることを、あなた自信の経験において見いだすであろう。

 しかし、知恵は知識ではない。この2つを混同してはならない。知恵は知識を正しく用いることである。そしてキリストの福音が私たちを助けるのは、私たちに知識の正しい用い方を教えることによってである。それは私たちに道を教える。向こうのキリスト者は暗い森の中で迷子になってしまった。だが、神のことばは彼にとって羅針盤であり、角灯でもある。彼はキリストによって森を抜け出す。彼は路の曲がり目に達する。どちらが正しく、どちらが間違っているだろうか? 彼には分からない。だがキリストは偉大な道標であって、彼に行くべき道を教える。彼は、日々新たな苦境を目にすることに気づく。彼には、どちらへ舵をとるべきか分からない。だがキリストは偉大な水先案内人であり、彼の手を舵柄に置き、誘惑の浅瀬と罪の岩礁をくぐり抜けて舵をとらせてくださる。福音を得れば、あなたは賢い者となる。「主を恐れることは、知恵の初め。主の戒めを守る人はみな、正しい明察を得る」*[詩111:10]。あゝ! キリスト者よ。あなたには数多くの疑いがあるが、キリストの十字架のもとに行くとき、それらはみな解明される。あなたには多くの困難がある。だが、それらはみなカルバリの光のもとで説明がつく。あなたは数々の謎を見ている。それらをキリストの御顔のもとに持っていくとき、明白で明らかなものとされる。それは、かつてのあなたには決して分からなかったものである。ここで指摘させてほしいが、一部の人々は、キリストの福音を用いて自分の心に光を与える代わりに、自分の頭に光を与えている。彼らは、かつてロウランド・ヒルが叙述した農場主に似ている。その農場主は自分の子どもたちとともに暖炉のそばに座っている。猫も炉辺でのどを鳴らしており、彼らはみな非常にくつろいでいる。そこへ農夫が走り込んできて叫ぶ。「泥棒です! 泥棒です! 泥棒です!」 農場主はすぐさま立ち上がると、燭台をひっつかみ、頭上にかざしては、泥棒を追いかけて駆け出す。そして、とロウランド・ヒルは云う。「彼は手押し車に蹴つまづく。なぜなら彼は、あかりを頭上にかざすことだけして、足元に差し出していなかったからである」。そのように、多くの人々は、単に自分の知性に光を与えるためだけのためにキリスト教信仰をいだき、自分の実践に光を与えることをしない。そして、それで彼らは悲しい転倒をし、ぬかるみの中に落ち込み、決して取り返しのつかないような危害を、一時間のうちに、自分たちのキリスト教信仰の告白に加えるのである。神の知恵を、神の聖霊によって、真の知恵とするように気をつけるがいい。あなたの足を神のおきてに向け、あなたを神の道に保ってくれる知恵へと。

 そして今、1つの実際的な訴えをして、しめくくりとしよう。私はここまで自分の矢をつるに番えてきた。そして、もし私が何らかの軽い比喩を用いてきたとしたら、それは単に射手が自分の矢に羽根をつけるようなものであって、それをより良く飛ばすためである。私は、他の何が忘れ去られても、粗雑で奇抜な云い回しはしばしば人の記憶に残ることを知っている。さて、私たちに弓を引かせ、その矢をあなたの心に深々と突き立てさせてほしい。兄弟たち。父たちよ。あなたがたの中に、キリストが神の力、神の知恵であると感じている人が何人いるだろうか? 内的証拠は、この世の何にもまして福音が真実であることを立証するものである。いかなるペイリやバトラーよりも福音が真実であることを立派に証明できるのは、向こうにいる下女のメアリーである。彼女は福音をその心の中に有しており、その力は彼女の生活の中で明らかである。さあ、キリストはあなたの綱を断ち切り、あなたを自由にしてくださっただろうか? 主は、あなたの悪の生活から、あなたの罪からあなたを解放してくださっただろうか? 「恵みによるすばらしい望み」*[IIテサ2:16]をあなたに与えてくださっただろうか? だとしたら、この場を出て行き、喜ぶがいい。あなたは聖徒である。というのも、使徒はこう云っているからである。「救われた私たちにとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」*。しかし、もしあなたがそのように云えないとしたら、愛情を込めてあなたにこう警告させてほしい。たといあなたがこのキリストの力、このキリストの知恵をいま欲していないとしても、もうほんのしばらくすれば、それらを欲するようになるであろう。神が、生きている人々をも死んだ人々をも審くためにやって来られるとき[IIテモ4:1; Iペテ4:5]、――あなたが神の法廷に立つとき、――そして、寄り集められた全世界の前であなたが行なったあらゆる行為が読み上げられるときに、――そのときには、あなたはキリスト教信仰を欲するであろう。おゝ、あなたが今おののく恵みを得られるとしたらどんなに良いことか。「御子に口づけ」する恵みを得られるとしたらどんなに良いことか。「主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている」[詩2:12]。いかにすれば救われるかを聞いてもらって、しめくくることにしよう。あなたは自分が罪人であると感じているだろうか? 神に反逆してきたことを自覚しているだろうか? 自分のそむきの罪を進んで認めようとしているだろうか? それを憎み、忌みきらうと同時に、自分が何をしようと、それらを贖うことができないことを感じているだろうか? ならば聞くがいい。キリストはあなたのために死なれたのである。そして、もしキリストがあなたのために死なれたのだとしたら、あなたが失われることはありえない。キリストが、ある者を救おうとして死なれた場合、その死が無駄死となることは決してありえない。もしあなたが悔悟する者であり、信仰者であるとしたら、キリストはあなたのために死なれたのであり、あなたは安全である。行くがいい。ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びを喜ぶがいい[Iペテ1:8]。というのも、あなたに、あなたが《救い主》を必要としていることを教えてくださったお方は、その《救い主》の血があなたの良心に注がれるようにもしてくださるであろうからである。そして、まもなくあなたも、血で洗われた彼方の大群衆とともに、神と《小羊》をほめたたえて云うであろう。「ハレルヤ。とこしえに、アーメン!」 ただ、あなたは罪人であると感じているだろうか? そうでないとしたら、私にはあなたに宣べ伝えるべきいかなる福音も有していない。私はただあなたに警告するしかない。しかし、もしあなたが自分の失われた状態を感じているとしたら、またキリストのもとに来ているとしたら、来て、迎(い)れられるがいい。キリストは決してあなたを捨てないからである。

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神の力と知恵なるキリスト[了]

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