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主の救い

NO. 131

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1857年5月10日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「救いは主のものです」。――ヨナ2:9


 ヨナがこの健全な神学を示す文章を学んだのは、奇妙な学び舎においてであった。彼がこれを学んだのは、鯨の腹の中であり、山々の根元、海草が彼の頭にからみつく所であり、地のかんぬきがいつまでも自分の上にあるだろうと彼が思った時であった[ヨナ2:5-6]。神に関する大きな真理のほとんどは、困難によって学ばれなくてはならない。それらは、患難という熱した鉄で私たちに焼き印が押されなくてはならない。さもなければ、それらを本当に受け入れたことにはならないであろう。だれしも、まず試練を受けた後にならなければ、御国の事がらについて十分によく識別できる人とは云えない。というのも、高みにあるときには決して分からない多くの事がらを、私たちは深みで学びとるものだからである。私たちは多くの秘密を大海原の洞穴の中で発見する。それは、たとい天に舞い上がっても決して知りえなかった事がらである。神の民の幾多の必要を最もよく満足させられる説教者とは、そうした必要を自分自身有したことのある人であろう。神のイスラエルを最もよく慰めるのは、慰めを必要としたことのある人であろう。また救いを最もよく宣べ伝えられるのは、自分自身の救いの必要を感じたことのある人であろう。ヨナは、その大きな危険から解放されたとき、また、神の命令によってあの魚が従順にその深海を離れて、その積荷を乾いた地に送り届けたとき、識別力を働かせることができるようになっていた。そして、これが、彼の苦難の下にあって彼が経験したことの成果であった。――「救いは主のものです」。

 ここにおける救いということで私たちが理解するのは、単にヨナが受けたような特別な、死からの救いだけではない。というのも、ギル博士によると、この救いという言葉の原語には非常に特殊なものがあり、通常の何か現世的な解放しか指していない場合よりも一文字多い言葉で記されているのである。それで私たちは、こう理解するしかない。すなわち、ここでそれが指しているのは、永遠に残る魂の救いという大いなるみわざのことである、と。「救いは主のもの」であることを、私は今朝、自分にできる限り明確に示してみたいと思う。第一に、私はこの教理の説明を行なうであろう。それから私は、いかにして神は、私たちが過ちを犯さないように守り、制限を設けては私たちに福音を信じさせようとしておられるかを、あなたに努めて示すであろう。それから私は、この真理が人々に及ぼす影響について詳しく語り、しめくくりとして、この教理の反面の真理について示すであろう。いかなる真理にもその裏返しがある以上、それは、この真理にもあるのである。

 I. まず第一に、説明によって始めることとし、《この教理の説き明かし》を行なおう。――救いは主のもの、すなわち、エホバのものであるという教理である。私たちがこのことによって理解すべきなのはこうである。人々が彼らの生まれながらの罪と滅びの状態から救われ、神の御国に移され、永遠の幸福の相続人とされるというわざの全体は、神のものであり、神だけのものなのである。「救いは主のものです」。

 さて、まず発端から始めよう。救いのご計画は完全に神のものである。いかなる人間知性も、いかなる被造物の知力も、救いの計画において神を助けはしなかった。救いの道は、神ご自身が実行に移されたのと同じく、神が編み出したものである。救いのご計画は御使いたちが存在するようになる前に考案された。明けの明星がその光箭を放って暗黒を貫く前に、また、熾天使の翼によって未踏の天界がまだ羽ばたかれたことがなかったときに、また、沈黙の厳粛さが御使いの歌でかき乱されることが一度もなかったときに、神は人を救う道を考案された。人がやがて堕落することを予知しておられたのである。神はご自分の相談相手に御使いたちを創造することはなさらなかった。しかり。神は自分ひとりでこれをなさった。私たちはまことにこの質問を発して良い。「主はだれと相談されたのか[イザ40:14]? 主がこのあわれみの大伽藍の構想を練っておられたとき、だれが主に悟りを得させたのか? 主はだれと相談されたのか? 主が愛の深みを掘り下げ、そこから救いの泉を湧き出させたとき、だれが主を助けたのか?」 否。主ご自身がおひとりでそれをなさったのである。事実、たとい御使いたちがそのとき存在していたとしても、彼らが神を援助することはできなかったであろう。というのも、私には想像がつくからである。たとい、こうした霊たちの厳粛な集会が開催され、たとい神が彼らに問題を提起し、「人間たちは反逆するであろう。わたしは罰を与えると宣言する。わたしの厳正にして峻厳な正義によって、わたしはそうせざるをえない。だがしかし、わたしはあわれみをかけようと思う」、と仰せになっていたとしても、たとい神がこの問題――「いかにしてそのようなことがありえようか? いかにして正義がその要求を満足させられると同時に、あわれみが支配することができようか?」――を天界の勇者たちの一団に提示していたとしても、御使いたちは今に至るまで沈黙して座っていたであろう。彼らはその計画を指図することができなかったであろう。義と平和が相会い、公義とあわれみが口づけをかわす方法を思い描くことは、御使いの知性をもはるかに越えていたであろう。神がそれを考案された。なぜなら、神がおられなければ、それが考案されることはありえなかったからである。それはあまりにも素晴らしい計画であって、やがてそれを実行に移すことになる精神を除き、いかなる精神にも生み出せるものではなかった。「救い」は、創造よりも古い。それは「主のもの」である。

 またそれは、ご計画において主のものであったのと同じく、実行においても主のものであった。いかなる者も、救いを供する手助けはしなかった。神はそれをことごとくご自分でなされた。あわれみの祝宴はただひとりの主人によって給仕された。その主人とは、千の丘の家畜ら[詩50:10]を所有しておられるお方である。しかし、何者も、この王家の祝宴に何らかの珍味佳肴を寄贈しはしなかった。このお方がそのすべてをひとりで行なったのである。やがてどす黒い魂が洗われることになる、この王家の浴槽に満たされているあわれみは、イエスの血管から注がれており、他のいかなる存在によっても一滴たりともつけ足されてはいなかった。イエスは十字架の上で死なれた。そして、償いをする者として、ひとりで死なれた。いかなる殉教者たちの血も、御血の流れに混じってはいない。いかに高貴な信仰告白者や十字架の英雄たちの血も贖いの川には入り込んでいない。それはキリストの血管からだけ注がれており、それ以外のどこからも注がれてはいない。キリストはそれを完全になされた。贖いは、誰の手助けも受けないイエスのみわざである。向こうの十字架の上に私は、「ひとりで酒ぶねを踏んだ」[イザ63:3]お方が見える。向こうの園に私はひとりきりの征服者が見える。単独で戦いにやって来ては、その御腕によって救いをもたらし、その全能によって支えられていたお方である。それを供することにおいて、「救いは主のものです」。エホバ――御父、御子、御霊――がすべてを供されたのである。

 ここまでは、私たちはみな意見が一致している。だが今、私たちは少し意見の相違を来たさざるをえない。その適用においても「救いは主のものです」。「否」、とアルミニウス主義者は云うであろう。「そうではありません。救いは、主ができる限りのことすべてを行なわれるという限りにおいて、主のものです。ですが、人がしなくてはならないこともあります。そして、もしそれをしなければ、人は滅びなくてはならないのです」。それがアルミニウス主義者流の救いの道である。さて、先週私は、まさにこの救いの理論について考えていたとき、カリスブルック城[ワイト島]にいて、あの不幸で罪深い記憶のまつわるチャールズ一世が脱走を試みたという、いわくつきの窓の脇に立っていた。旅行案内書で読んだところ、王の脱走のためには準備万端が整っていたという。城壁の下で、彼の従者たちは彼がその土地を突っ切って逃げる手筈を用意していた。海岸には自分たちの小舟を何艘か仕立てておき、他国に彼を落ちのびさせようとしていた。事実、彼の脱走のためには何もかも整っていた。しかし、ここに重大な状況があった。彼の友人たちは自分たちにできることを何もかも行なっていたが、残りは彼が行なわなくてはならなかった。だが、その、残りを行なうことこそ、まさに戦いの帰趨を決める点であった。それは、その窓を抜け出すということであった。だが、彼にはどうしてもそこから抜け出すことができなかった。それで、友人たちが彼のために行なっていたすべては、彼に関する限り何にもならなかったのである。罪人もそれと同じである。たとい神が脱出の手段をことごとく供しておられ、必要なことは彼がその地下牢から出てくることだけだったとしたも、彼は永遠にそこにとどまっていたであろう。何と、罪人は生まれながらに罪の中に死んでいる[エペ2:1]ではないだろうか? そして、もしも神が罪人に、自分で自分を生かせと要求し、その後なら残りのことを行なってやろうと仰せになっておられるとしたら、その場合、愛する方々。実は私たちは、これまで思ってきたほど、大して神に感謝することはないであろう。というのも、もし神がそれほど私たちのなすべきことを必要としており、私たちがそれを行なえるのだとしたら、私たちは残りも神の助けなしに行なえるであろう。ローマカトリック教徒たちは、聖デニスについて、異様な奇蹟をでっちあげている。彼らの告げる嘘っぱちの伝説によると、首を切り落とされた後で彼はそれを両手で拾い上げ、それを持ったまま二千哩も歩いたというのである。これについて、ひとりの才気ある人がこう云った。「その二千哩について云えば、何でもないことだ。何か違いがあるとすれば、その最初の一歩だけである」。私もそう思う。その一歩が踏み出せさえすれば、残りのすべては簡単に成し遂げられるであろう。そして、もし神が本当に罪人に――罪の中に死んでいる罪人に――その第一歩を踏み出すことを要求なさっておられるとしたら、神はその要求によって、かつて律法の下にある救いが不可能であったのと同じくらい、福音の下にある救いを不可能なものとしておられるのである。人は従うことができないのと同じくらい信ずることができず、キリストを抜きにして天国へ行く力を有していないのと同じくらい、キリストのもとへ行く力を有していない以上、そうである。その力は、御霊によって人に与えられなくてはならなかった。人は罪に死んで横たわっている。御霊が人を生かさなくてはならない。人はそむきの罪によって手足を雁字搦めに縛られ、枷をかけられている。御霊がその縛めを断ち切らなくてはならない。そうされたとき人は自由になって飛び起きるであろう。神がやって来て、その鉄格子を根元から粉砕しなくてはならない。そうされたとき人はその窓から脱出し、そうした後で自分の脱出をやり遂げることができるのである。だが、その最初のことが人のためになされない限り、人は律法の下にあった場合と同じく、福音の下にあっても確実に滅びざるをえない。私は、神が救いの件において人に要求しておられることの中に、神ご自身が一切与えようとはしていないことが1つでも含まれていると信じていたとしたら、説教をやめるであろう。というのも、いかに多くの最低最悪の人間たちが、私の口から出る言葉に一心に聞き入っていることか。――ぞっとするほど極悪の人生を送っている人々、廉恥心のある者であれば、決してその人格を公衆の面前で云い表わすことなどできないような人々である。講壇に立つときの私は、彼らが何かを行なわない限り、神の御霊はこうした人々に対してお働きにはならない、と信じなくてはならないのだろうか? そうだとしたら、私は怖じ気づきながら講壇に立つであろう。彼らには、決してその最初の部分を行なうことなどできないと感じつつ、そうするであろう。しかし、いま私は確かな確信とともに自分の講壇に立っている。――聖霊なる神が今朝こうした人々と出会ってくださると信じて立っている。彼らは、これ以上ないほどに最悪な者たちではあるが、神は彼らの心に新しい考えを入れてくださるであろう。彼らに新しい願いを与えてくださるであろう。新しい意志を与えてくださるであろう。そしてキリストを憎んでいた者たちはキリストを愛したいと思うようになるであろう。かつては罪を愛していた者たちは、神の天来の御霊によって、罪を憎むようにさせられるであろう。そして、ここに私の確信がある。肉によって無力になったため[ロマ8:3]彼らにはできなくなっていることを、神はご自分の御霊を彼らの心の中にお遣わしになることによって、彼らに代わって、また彼らのうちにおいて行なってくださり、そのようにして彼らは救われることになるのである。

 よろしい。ならば、ある人は云うであろう。それでは人々はただ座り込んで、手をこまねくだけになってしまうでしょう、と。いや、そうはならない。しかし、たとい人々がそうするとしても、私にはどうしようもない。私の務めは、以前もしばしばこの場所で云ってきたように、あなたに向かって何らかの真理の妥当性を証明することでも、何らかの真理をその結果から弁護することでもない。私がここで行なっている一切のことは――そして、そこから私は離れるつもりがないが――聖書の中にあるがゆえに真理を主張することである。ならば、それをあなたが好まないとしたら、その文句は私の《主人》に向かって云わなくてはならないし、もしあなたがその筋は通っていないと思うとしたら、聖書に異議を唱えなくてはならない。他の人々は聖書を弁護し、それが真実だと証明するがいい。彼らは私よりもずっと上手にそれを行なえるであろう。私の務めは単に宣言することである。私は使者である。《主人》の使信を告げる者である。あなたがその使信を好まないのなら、私にではなく聖書に異議を唱えるがいい。聖書が私に味方している限り、私はあなたに、私に逆らうことを何でもするがいい、とあえて挑戦するものである。「救いは主のものです」。主がそれを適用しなくてはならない。云うことをきかない者に云うことをきかせ、不敬虔な者を敬虔にし、浅ましい反逆者をイエスの足元に連れ来たらせなくてはならない。さもなければ、救いは決して成し遂げられないであろう。その1つのことがなされないままになっていると、鎖の環が断ち切られることになる。その鎖の完全無欠さを保つためには欠かせない環が。神が良い働きをお始めになる[ピリ1:6]という事実、また古の神学者たちが守りの恵みと呼んでいるものを私たちにお遣わしになるという事実が取り去られれば、――それがなくなってしまえば、救いの全体がだいなしになってしまう。それは迫持の要石が取り去られるのも同然であって、すべてが崩れ落ちてしまう。そこには何も残らない。

 さてここで、次の点においても、私たちには多少の意見の食い違いが生ずる。ある人の心におけるみわざの保持についても「救いは主のものです」。ある人が神の子どもにされるとき、その人は、永遠に歩み続けるための恵みの備蓄を有するわけではない。むしろ、その人は一日分の恵みを有する。そして、次の日のための恵み、その次の日のための恵み、その次の日のための恵みを、最後の日が来るまで持たなくてはならない。さもなければ、その最初に何を受けようと何にもならない。人は、自分で自分を霊的に生きた者とすることがないのと同じく、自分を霊的に生きた者とし続けておくこともできない。人は、霊的な食物によって養われることができ、そのようにして自分の霊的な力を保っていられる。主の戒めのうちを歩き、安息と平安を楽しむことができる。だが、それでも、その内なるいのちは、その最初の始まりについてと同じように、後々の存続についても御霊に依存しているのである。私がまことに信じているところ、たとい私がパラダイスの黄金の敷居を足で踏み、この親指を真珠の掛けがねにかけることになったとしても、天国に入るためのその最後の一歩を踏むための恵みが与えられない限り、私は決してその敷居をまたぎ越えることがないであろう。いかなる人であれ、回心していてさえ、その人が自分のうちに有する一切の力は、日々、不断に、また恒久的に御霊によって注ぎ込まれる力でしかない。しかし、キリスト者たちはしばしば有閑紳士たちを気取っている。彼らは、僅かな恵みの蓄えを手に入れると、「私の山は堅く立つ。それは決してゆるがされない」*[詩30:6-7]、と云う。しかし、あゝ! じきにマナが腐り出す。それは単に一日分のためのマナでしかなかったのであり、それを私たちは翌日のために取っておいたのである。それゆえに、私たちを失望させたのである。私たちは新鮮な恵みを持たなくてはならない。

   「日ごとにマナの 降り来れば
    その教訓(おしえ)をぞ 学ぶべき」。

それゆえ、日ごとに新たな恵みを待ち望むがいい。また、やはりしばしばキリスト者たちは、一箇月分の恵みが一瞬のうちに授けられることを望む。「おゝ!」、とその人は云う。「何という苦難の数々が来ようとしていることか。――いかに私はそれらすべてに当たれば良いだろうか? おゝ! それらすべてを耐え抜ける恵みがあればどんなに良いことか!」 私の愛する方々。あなたは、あなたの数ある苦難にとって十分な恵みを得るであろう。それらは1つずつやって来るからである。「あなたの力が、あなたの生きるかぎり日ごとに続くように」[申33:25 <英欽定訳>]。だが、あなたの力は、決してあなたの生きる月ごとに、あるいは週ごとに続くのではない。あなたは、あなたの力を、あなたの糧のように得るであろう。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」[マタ6:11]。私たちの日ごとの恵みをきょうも与え給え。しかし、なぜあなたは、わざわざ明日の事がらについて自分を悩ませようとするのだろうか? 普通の人は、「橋に来るまでは橋を渡るな」、と云う。これは賢明な助言である。同じようにするがいい。苦難が来たときには、それを攻撃し、打ち倒し、征服するがいい。だが、今からあなたの災厄の数々の機先を制そうとし始めてはならない。「あゝ! ですが私にはとても多くの悩みがあるのです」、とある人は云うであろう。ならばこそ、私は云うが、必要以上に自分の先を見越そうとしてはならない。「労苦はその日その日に、十分あります」[マタ6:34]。あの勇敢なギリシヤ人がしたようにするがいい。彼は、自国をペルシヤ人から防衛したとき、平原まで戦いに出て行くことをせず、テルモピュライの狭い山道に立った。それで無数の敵軍が攻めてきたとき、彼らはひとりずつやって来るしかなく、彼は彼らを打ち伏せたのである。彼があえて平原に打って出ていたとしたら、たちまち彼は呑み込まれ、彼の手兵は、大海に落ちた水滴のように消散してしまっていたであろう。今日という狭い山道に立つがいい。そして、あなたの苦難の1つ1つと戦うがいい。だが、明日という平原に突進して行ってはならない。というのも、そこではあなたは総崩れになり、殺されてしまうからである。労苦がその日その日に十分あるように、「救いは主のものです」。

 しかし最後に、この点がある。救いの究極的な完成は主のものである。じきに、じきに、地上の聖徒たちは光の中にいる聖徒[コロ1:12]となるであろう。彼らの雪白の白髪は永久の喜びと永遠の若さによって冠を戴くであろう。彼らの目は涙で一杯となり、星のように輝かされ、二度と悲しみによって曇ることはないであろう。今は震えている彼らの心は喜ばしく、揺るがないものとされ、永遠に神の神殿の支柱のようになるであろう。彼らの愚行、彼らの重荷、彼らの悲嘆、彼らの災いはすぐに終わる。罪は殺され、腐敗は取り除かれ、しみなききよさと混じりけのない平安との天国が永遠に彼らのものとなる。しかし、それはなおも恵みによらなくてはならない。基礎と同じく、冠石もそうでなくてはならない。最初の始まりに地上に置かれたものは、頂点の石として天に置かれなくてはならない。彼らは、恵みによってその不潔な生き方から贖い出されたのと同じように、やはり恵みによって死と墓場から贖い出されなくてはならない。そして彼らはこう歌いながら天国に入らなくてはならない。

   「救いは主のみ 与え給わん。
    恵みの海に 果てぞなき」

地上にはアルミニウス主義者がいるかもしれない。だが、天上にアルミニウス主義者はいない。彼らは地上では、「救いは肉の意欲にある」、と云っているかもしれない。だが天国で彼らはそうは考えないであろう。地上では、彼らは多少とも何かを被造物に帰しているかもしれない。だが天上では、自分たちの冠を《贖い主》の足元に投げ出し、主がすべてをなされたことを認めるであろう。地上では、時として多少とも自分を見つめて、多少とも自分の力を誇ることがあるかもしれない。だが天上では、「私たちにではなく、私たちにではなく」*[詩115:1]が、下界にいたときに歌われたいかなる場合にもましてずっと深い真摯さと、ずっと深遠な実感をもって歌われるであろう。天国では、恵みがその働きをなし終えたとき、この真理が赤々と燃える黄金の文字で際立つであろう。「救いは主のものです」。

 II. このように私は福音を説き明かそうとしてきた。さて、次に示したいのは、《いかにして神はこの教理に制限を設けなさったか》、ということである。

 一部の人々は、ある場合、救いは生来の気質の結果だと云ってきた。結構、結構。神はあなたの議論に首尾よく答えておられる。あなたは、ある人々が救われるのは彼らが生来宗教的で善良な気立てをしているからだと云う。不幸にして私は、今までに一度もそうした種別の人々に出会ったことがない。だが、百歩譲ってそうした人々がいると考えてみよう。神は争う余地のないしかたであなたの反論に答えておられる。というのも、云うも奇妙なことながら、救われている人々の大多数は、この世で最も救われそうもない人々であったからである。その一方で、滅んでしまった人々の大多数は――生来の性向に何か関係があるとしたら――、かつてはまさに天国にいると私たちが期待してしかるべき人々であったからである。何と、この場にいるひとりの人は、若い頃には多くの愚行にふけった子であった。しばしば彼の母親は彼のことで涙に暮れ、息子の無軌道について泣いたり、呻いたりしていた。1つには、いかなる掣肘にも我慢できない高慢な精神のゆえに、また1つには絶えざる反逆と激怒の迸りのゆえに、彼女はこう云ってきた。「坊や。坊や。大人になったらどうしようというのだい? きっとお前は法と秩序をずたずたに破り、お父さんの名に泥を塗るでしょうよ」。その子は成長し、青年時代には、自堕落な放蕩にふけった。だが、不思議や不思議、突如として彼は新しい人となって一変した。完全に変えられた。もはや以前の彼とは、御使いと悪霊が違うくらい異なる者となった。彼は母親の足元に座り、彼女の心を喜ばせた。そして、失われていた、激しやすい者は、優しく、穏やかで、子どものようにへりくだった者となった。あなたは、不思議や不思議と云う! しかし、ここにもうひとりの人がいる。彼は麗しい若者である。子どもの頃からイエスについて口にしていた。しばしば彼は、母親の膝の上に乗っているとき、天国について質問をした。彼は早熟の天才であり、若くして敬神の念をいだく驚くべき子であった。成長していくにつれて、彼はどんな説教を聞いても頬を涙で濡らすのだった。死について聞くと、決まって吐息をもらさずにはいられなかった。時として彼の母親は、彼がひとりで祈っているところに出くわしたように思った。では、今の彼はどうなっているだろうか? 彼は、まさにきょうのこの朝、罪の中からやって来たばかりである。彼は放蕩な、すさまじい悪漢になってしまっている。ありとあらゆる種類の邪悪さや情欲にのめり込んでおり、他の人々によってどうさせられるよりも、はるかにひどく腐り果てた者となってしまっている。ただ彼自身の邪悪な精神が、――かつては閉じ込められていたものが――今やあからさまに現われており、若年の頃は狐のように小ずるく立ち回っていたのと同じように、成人に達した今は、獅子のように荒れ狂っているのである。私は、あなたがそうした場合に出会ったことがあるかどうか分からないが、非常にしばしばそうしたことがあるのである。この場にいる会衆の中には、破廉恥で、邪悪な者が傷心をいだき、涙させられているはずだと思う。彼はあわれみを求めて神に叫んできた。自分の浅ましい罪との縁を切ってきた。その一方で、彼のそばにいる麗しい少女は、同じ説教を聞いてきたが、たとい涙が浮かんだとしても、それを振り払ってきた。依然として彼女は、「この世にあって望みもなく、神もない」[エペ2:14]者であり続けている。神はこの世の取るに足りない者を取り上げ、まことに誰よりも粗野な人々の中からご自分の民を拾い上げてこられた。それは、それが生来の性向ではなく、「救いは主のもの」でしかないことを証明するためであった。

 よろしい。だが、ある人は云うであろう。人々を回心させるのは、彼らが話を聞いている教役者なのです。あゝ! 確かにそれは途方もない考えに全く違いない。馬鹿でもなければ、誰もそのような考えをいだくまい。私が少し前に出会ったひとりの人は、自分の知っているある教役者には人々を回心させる非常に大きな力が宿っていると私に請け合った。米国にいるひとりの大《伝道者》について語りながら彼は云った。「先生。あの人は、人間が持てると私が知っている中でも最も大量の回心力を持っていますよ。そして、隣町の誰それ氏は、それに次ぐ二番手の人だと思います」。その頃、この回心力は披瀝されつつあった。この二番手の人の回心力によって、二百人の人が回心させられ、数箇月のうちにみな教会に加わったのである。私は、その後しばらくしてからその場所を訪れ、――それは英国だったのである。――こう云った。「あなたの回心者たちはどうしていますか?」 「ええと」、と彼は云った。「あまり大したことはお話できまませんな」。「一年前にあなたが受け入れたあの二百人のうち何人が持ちこたえていますか?」 「ええと」、と彼は云った。「残念ですが、あまり多くはないと思います。そのうちの七十人は、酩酊を理由に除籍しました」。「やはり」、と私は云った。「そうだと思っていました。それが、この大いなる回心力の実験の行く末になるのです」。もし私があなたがた全員を回心させることができるとしたら、他の誰でもあなたがたの回心をなかったことにできるであろう。人間が行なうことは、人間によって無効にできる。神が行なわれることだけが永続するのである。

 しかり。私の兄弟たち。神は、回心が人のものであるとは決して云われないように細心の注意を払っておられる。というのも、神が通常祝福なさる者たちは、用いられることなど最もありそうもないように見える人々だからである。私は、この場所では一年前ほど多くの回心を見ることは期待していない。その頃は、私の話を聞く人々ははるかに少なかったのだが。それがなぜか知りたいだろうか? 何と、一年前の私は、あらゆる人から罵倒されていた。私の名前に言及することは、いまだかつて存在していた中でも最も忌みきらうべき道化の名前に言及することであった。それを口にしただけで罵りと呪いが引き出された。多くの人々にとって、それは蹴球のように町通りを蹴り回すべき、軽蔑の名であった。だが、そのとき神は私に数百人単位で魂を与えられた。彼らは私の教会に加えられ、幸いなことに私は、一年の間に、一千人を下らない回心者を個人的に面接してきた。今の私はそれを期待していない。私の名前は、今ではやや尊重されるようになっており、地上の有力者たちは私の足元に座ることを全く不名誉とは考えていない。だが、このことによって私が恐れるのは、私の神が、今や世の尊重を得ている私をお捨てにならないかということである。あなたが非常に壮麗で見事であると考える集会と、私は躊躇せずに手を切るであろう。もしもそうした損失によって私がより大きな祝福を得られるとしたらそうである。「神は、この世の取るに足りない者を選ばれた」*[Iコリ1:27-28]。それゆえ、私は、自分が尊重されればされるほど、立場が悪くなるものとみなし、神が私を祝福なさる期待を少なくするのである。神は、その「宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、人から出たものでないことが明らかにされるためです」*[IIコリ4:7]。ある貧しい教役者がかつて説教を始めたところ、世界中が彼のことを悪く云ったが、神は彼を祝福された。次第に彼らは意見を変えて、彼を愛好するようになった。彼こそその人だ、と。――異なことに! 神は彼からお離れになった! これはしばしば同じであった。私たちは、人気を博するときには、いついかなる時も思い出すべきである。「十字架だ。十字架につけろ」[ルカ23:21]の直前には、「ホサナ」[マタ21:9]の叫びがあったことを。また、今日の大群衆は、もしも忠実に扱われるとしたら、明日は一握りの者となりかなねないことを。人々は歯に衣着せない言葉を好まないからである。私たちは軽蔑されること、蔑まれること、中傷されることを学ぶべきである。そのとき、私たちは神に用いられるとはいかなることかを学ぶであろう。私は、何か新たな中傷を浴びせかけられると、しばしば膝まづき、熱い汗を額から垂らして祈ってきた。嘆きの苦悶の中で、私の心はほとんど張り裂けそうであったが、最後には私は、すべてを耐え忍び、何も気にしないでいるすべを学ぶようになった。そして今や私の嘆きは別の方向に沿っている。それは、まさに反対である。私が恐れているのは神が、ご自分を救いの創始者であると証明するために、私をお捨てになるのではないかということである。――救いは説教者にではなく、群衆にではなく、私が引きつけることのできる注目にではなく、神にあり、神にだけあることを証明するために。そしてこのことを私は心から云えると希望している。もし私が再び町通りの泥のようにされ、もし私が再び愚か者の笑い種にされたり、酔いどれの歌となることによって、私がより私の《主人》にとって有用な者となり、その御国の進展のためにより役に立つ者となれるのだとしたら、私はその方が、この大群衆よりも、あるいは、人が与えることのできるいかなる喝采よりも好ましく思うであろう。私のために祈ってほしい。愛する方々。私のために祈ってほしい。神がなおも私を魂の救いのための手段としてくださるように。私は神がこう仰せになることを恐れているからである。「わたしは、あれを助けないことにしよう。あれが行なってきたのだとこの世が思うといけない」、と。「救いは主のもの」だからであり、それはこの世の最後までそうあり続けるであろう。

 III. さてここで、《この教理が人々に及ぼす影響はいかなるものか? いかなるものであるべきか?》

 何と、まず最初に、罪人たちにとってこの教理は、彼らの高慢に対する大いなる破城槌である。私は、1つのたとえをあなたに示そう。生まれながらの状態にある罪人は、ある人のことを私に思い出させる。彼は、強固でほとんど難攻不落の城を持っていて、そこに逃げ込んだ。そこには外堀があった。第二の堀もあった。高い城壁があり、それから天守閣があり、本丸があり、そこに罪人は引きこもれるのである。さて、罪人が頼みとしている場所の外堀は、彼の良いわざである。「あゝ!」、と彼は云う。「私は私の隣人と同じくらい善良だ。掛け値なしの正直者で、いつだって、つけは期日内に払ってきた。私は罪人ではない。『はっか、クミンの十分の一を納めている』*[マタ23:23]。実際、私は善良で品行方正な紳士なのだ」。よろしい。神がやって来て、その人を救おうとして働きかけなさるとき、神はその軍隊にその外堀を渡らせる。そして、彼らはそこを通過するとき、「救いは主のものです」、と叫ぶ。するとその堀は干上がってしまう。というのも、もし救いが主のものだとしたら、どうしてそれが良いわざのものでありえようか? しかし、それがなされたとき、彼には第二の塹壕がある。――儀式である。「よろしい」、と彼は云う。「私は自分の良いわざに頼るまい。だが、私は洗礼を受けているののだ。堅信礼を施されているのだ。私は聖餐式にあずかっているではないだろうか。それを私の頼りとしよう」。「あの堀を渡れ! あの堀を渡れ!」 そして兵士たちは再び堀を押し渡りながら、「救いは主のものです」、と叫ぶ。第二の堀も干上がり、すっかり片づいてしまう。さて彼らは、第一の堅固な城壁に至る。罪人はそれを検分して云う。「私は、いつでも好きなときに悔い改めることができる。信ずることができる。私は悔い改めて、信ずることによって自分を救うだろう」。そこへ神の兵士たちが押し寄せてくる。罪の確信という、神の大いなる軍隊である。そして彼らは、この城壁を完膚無きまでに叩き壊しながら、こう叫ぶ。「『救いは主のものです』。あなたの信仰も、あなたの悔い改めもみなあなたに与えられなくてはなりません。さもなければ、あなたは信ずることも、罪を悔い改めることもないでしょう」。そして今や、その城は占拠される。その人の希望はことごとく断ち切られてしまう。彼は救いが自我のものではないと感じる。自我の城は征服されており、「救いは主のもの」と染め抜かれた大旗が狭間胸壁の上に掲げられている。しかし、戦闘は終わっただろうか? おゝ、否。この罪人は城の中央にある天守閣に引きこもっている。そして今や自分の戦術を変える。「私は自分を救うことができない」、と彼は云う。「だから、私は絶望しよう。私には何の救いもないのだ」。さて、この第二の城を落とすのは第一の城と同じくらい困難である。この罪人は座り込んで、「私など救われない。滅びるしかないのだ」、と云っているからである。しかし、神は兵士たちに向かって、この城をも奪うように命じ、「救いは主のものです」、と叫ばせなさる。それは人のものではなくとも、神のものです。「彼は完全に救うことがおできになります」*[ヘブ7:25]、と。見ての通り、この剣は二方向に切り裂く。それは高慢を切り倒すや、絶望の脳天をも唐竹割にする。もしだれかが、自分は自分を救うことができると云うと、それはその高慢をたちまち真二つにする。そして、別の人が自分は救われることができないと云うと、それはその絶望を粉々に打ち砕く。というのも、それは、「救いは主のもの」であることを見てとって、その人は救われることできると確言するからである。それこそ、この教理が罪人に及ぼす効果である。願わくは、それがあなたにもそうした効果を及ぼすように!

 しかし、これは聖徒にはいかなる影響を及ぼすだろうか? 何と、それはあらゆる尊厳の要石である。もしあなたがこの真理を信じているとしたら、私はあなたに向かって、なれるものなら異端になってみよ、と云うであろう。あなたは、この一文――「救いは主のものです」――を綴ることを学んでいるとしたら、完結された信仰を持たざるをえない。また、もしあなたが魂の中でそう感じているとしたら、あなたは高慢にはならない。なれるはずがない。あなたは、すべてを主の足元に投げ出し、自分が、神の助けによって行なったこと以外、何事もなしてこなかったことを告白するであろう。それゆえ、栄光は救いがあるところになくてはならない。もしあなたがこれを信じているとしたら、あなたは疑いにとらわれはしないであろう。あなたは云うであろう。「私の救いは私の信仰にではなく、主にかかっています。私が守られることは私自身にではなく、私を守る神にかかっています。私が天国に至らされることは、今の私の手にあるのではなく、神の御手の中にあります」。あなたは疑いや恐れが力を増すときも、腕組みをし、上を見上げて、こう云うであろう。

   「わが信仰の 目は今かすむも
    われはイエスに 捨て身ですがらん」。

もしあなたが自分の思いの中でこのことを保てるとしたら、あなたは常に喜ばしくしていられるであろう。自分の救いが神のものであることを知り、感じている人は、思い悩みの種を持つことがありえない。来るがいい。地獄の軍団よ。来るがいい。かの穴の悪鬼たちよ!

   「われを助けし 主われを耐えさせ
    勝ち得てあまる 者としたもう」。

救いはこのあわれな腕にかかっているのではない。さもなければ、私は絶望であろう。だが、それはかの《全能の》御腕にかかっている。――諸天の支柱がよりかかっているあの御腕にかかっている。「だれを私は恐れよう。主は、私のとりで、私のいのち。だれを私はこわがろう?」*[詩27:1]

 そして、このことは、恵みによって、神のため働く力をあなたにつけることができる。もしあなたがあなたの隣人を救わなくてはならないとしたら、あなたは座り込んで何もしないでいても良いであろう。だが、「救いは主のもの」である以上、行って、大きな働きをなすがいい。行って福音を宣べ伝えるがいい。行って、至る所で福音を告げるがいい。あなたの家でそれを告げるがいい。町通りでそれを告げるがいい。あらゆる土地、あらゆる国でそれを告げるがいい。というのも、救いはあなたのものではなく、「主のもの」だからである。なぜ私たちの友人たちはアイルランドに行って福音を宣べ伝えないのだろうか? アイルランドはプロテスタント教会にとって不面目である。なぜ彼らはそこへ行って宣べ伝えないのだろうか? 一年かそこら前に、私たちの勇敢な教役者たちが何人かそこへ行って宣教した。彼らは全く勇敢に行なった。彼らはそこへ行き、戻ってきた。そして、それがローマカトリック教に対するこの栄光に富む遠征のほぼ総計なのである。しかし、なぜ戻ってきたのだろうか? 石を投げつけられたからである。善良なる、のんきな人たち! 彼らは、福音が多少の石を投げられることもなく伝播すると考えてはいなかったのだろうか? しかし、彼らは殺されたかもしれないのですよ! 勇敢な殉教者たちではないか! かの赤い年代記に記載されるがいい。古の殉教者たちは――使徒たちは――、殺されるからといって、どこかの国に行くことから尻込みしただろうか? 否。彼らは死ぬ覚悟があった。そして、もし教役者たちが五、六人もアイルランドで殺されていたとしたら、それはこの世の中で、未来の自由にとって最善のことであったろう。というのも、その後では人々は私たちにあえて手出しをしなくなっただろうからである。法の力強い腕が群衆を押さえつけていたであろうし、私たちは以後、アイルランドのどの村をも通り抜けて平穏にしていられたことであろう。保安隊がたちまちこうした恥ずべき殺害を終わらせていたであろう。それは英国のプロテスタント陣営を覚醒させ、自分たちの権利である自由――他のいずこにおいてもわが国が与えている自由――を同地でも求めさせていたであろう。もしも何か大きな変化を見たければ、私たちの隊伍の何人かの人々が喜んで殉教者となる覚悟を固めなくてはならない。かの深い堀割を渡りたければ、必ずや私たちの中の何人かのからだがそれを埋めなくてはならない。そして、その後なら、そこで福音を宣べ伝えるのは容易な働きとなるであろう。私たちの兄弟たちはもう一度同地に行くべきである。彼らはその白首巻きも、白い羽根[臆病者の証拠]をも自国に残して、勇敢な心と雄々しい精神とをもって出て行くことができる。そして、もし人々が馬鹿にしたり、嘲ったりするとしたら、馬鹿にしたり、嘲ったりするがままにさせておくがいい。ホイットフィールドは、ケニングトン広場で説教したとき、猫の死体や腐った卵を投げつけられたが、こう云った。「これはメソジスト運動の肥やしにすぎない。世界一それを育たせるものである。好きなだけどんどん投げつけるがいい」。そして、一個の石が彼の額を切り裂いたとき、彼は多少の流血のために、その説教に一段と磨きがかかったように見えた。おゝ、そのように群衆をものともしない人がいればどんなに良いことか。そうすれば、群衆に強く立ち向かう必要などなくなるであろう。「救いは主のもの」であることを覚えて、同地に行こうではないか。そして、あらゆる場所、あらゆる折に神のことばを宣べ伝えようではないか。神のことばは人の罪などくらべものにならないほど強く、神は全地の支配者となられることを信じて。

 またも私の声は嗄れてきたし、私の思いも枯れてきた。私は今朝、この講壇に立ったとき倦み疲れていたし、今も倦み疲れている。時として私は喜ばしく、嬉しく思い、講壇の中で永遠に説教していられるように感じることがある。そうでないとき私は、説教をしめくくるのを嬉しく思う。だがしかし、このような聖句から語っているとき、私は定命の口が奮い起こすことのできるあらゆる力をもって語り終えることができればと思う。おゝ! このことを人々に知らせることができればどんなに良いことか。彼らの救いは神のものなのである! 悪態をつく者よ。あなたの息をその手に握っておられるお方[ダニ5:23]に向かって悪態をついてはならない。蔑む者よ。あなたを救うも滅ぼすも自由のお方を蔑んではならない。そして、あなたがた、偽善者たち。神を欺こうとしてはならない。神は救いの源であられ、それゆえ、あなたの救いがご自分から出たものかどうかを、完全にご存じなのである。

 IV. そして今、しめくくりにあたり、《この真理の反面がいかなるものか》を一言告げさせてほしい。救いは主のものである。ならば、罪に定められることは人のものである。もしあなたがたの中のだれかが地獄に墜ちるとしたら、責めるべき相手はあなた自身しかいない。もしあなたがたの中のだれかが滅びるとしたら、その責めは神に帰されはしない。もしあなたが失われ、打ち捨てられるとしたら、あなたはその責めをすべて負い、その良心の苦悶をすべて負わなくてはならない。あなたは破滅の中に永遠に横たわり、つくづく思い返すであろう。「私は自分を滅ぼしたのだ。自分の魂を自殺させたのだ。私は自分自身の破壊者だったのだ。私は神に何の責めも負わせることができない」。覚えておくがいい。もし救われるとしたら、あなたは神だけによって救われなくてはならない。だが、もし失われるとしたら、あなたは自分で自分を失わせたのである。「悔い改めよ。立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」*[エゼ33:11]。最後に私は、もつれた舌によって、この最後の言葉を命じる。立ち止まって考えるがいい。あゝ! 話をお聞きの方々。お聞きの方々! これほどの大群衆に向かって説教するというのは、恐るべきことである。しかし、先だっての日曜日、講壇から降りてくるとき私は、そこに立っていた人が口にした、1つの記憶すべき言葉に心を打たれた。「今朝ここにいる八千人の人たちは、最後の審判の日に、何の弁解もできませんね」。私は、このことが常に云えるようなしかたで説教したいと思う。そして、もしそうできないとしたら、おゝ、神が御名のゆえに私をあわれんでくださるように! しかし、いま覚えておくがいい! あなたがたには魂がある。その魂は地獄に落ちるか、救われるかである。どちらになるだろうか? 神があなたを救ってくださらない限り、それは地獄に落ちざるをえない。キリストがあなたを憐れんでくださらない限り、あなたには何の希望もない。膝をかがめて祈るがいい! あわれみを神に叫び求めるがいい。今あなたの心を祈りによって神に掲げ上げるがいい。願わくは今があなたの救われる時となるように。あるいは、次の血の一滴があなたの血管の中を一巡りするまでに、あなたが平安を見いだすように! 覚えておくがいい。その平安はいま有すべきである。今あなたがその必要を感じているとしたら、それはいま有さなくてはならない。では、いかにして? それを単に求めることである。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります」[マタ7:7]。

   「されど、汝が耳、御恵みの
    主の御声をば 拒むとき
    汝れはユダヤの 民似て強情(こわ)し、
    かの信ぜざる 民のごと。

   「主は復讐(むくい)着て
    御手を掲げて 誓い給う
    約束(みこと)の安息(やすき) 蔑まば
    そこにいかなる割り当てもなし、と」。

おゝ、あなたがたが蔑む者とならないように! あなたがたが「さまよい滅す」ことがあってはならない! 願わくはあなたがたが今キリストのもとに逃れ行き、愛する方において受け入れられるように。それが私の最後の最善の祈りである。願わくは主がそれをお聞きになるように! アーメン。

  

 

主の救い[了]

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