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新 生

NO. 130

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1857年5月3日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。――ヨハ3:3


 日常生活における私たちの考えは、自分たちの生存のために最も必要な事がらで最も占められている。食糧難の時期には、パンの価格という主題がしきりに人々の口の端にのぼったものだが、それに文句を云った者はいない。なぜなら、人はその主題が国民の大多数にとってきわめて重要であると感じており、それゆえ、文句を云わなかったのである。この件に関して、大仰な演説をいくら立て続けに聞かされても、いかに新聞記事でのべつまくなしに読まされても関係ない。さて私は、今朝、新生という主題をあなたの前に持ち出すことについて、それと同じ弁解をしなくてはならない。これは絶対的にきわめて重要な主題である。福音の要である。ほとんどのキリスト者が一致している点である。しかり、真摯に、真実にキリスト者であるすべての人々が一致している点である。これは、救いの根幹に横たわっている主題である。天国に対する私たちの希望の基礎であり、建物の基部には非常に注意を払うべきであるのと同じく、私たちは自分が本当に新しく生まれているかどうか、また永遠に対して確実に土台を固めているかどうかについて、細心の注意を払わなくてはならない。多くの人々は自分は新しく生まれていると思い込みながら、実は新しく生まれてはいない。ならば、私たちがしばしば自分を吟味するのはふさわしいことである。そして教役者の義務は、人を自己吟味に導き、人の子らの心を探り、思いを調べるような主題を持ち出すことである。

 単刀直入に本題に進むこととして、第一に私は、新生に関していくつかの指摘をしたいと思う。第二に、新しく生まれなければ神の国を見ることができないとは、いかなることを意味しているかに注意したい。それから、さらに先に進んで、なぜ「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」のか注意したい。その後で、神の使節として人々に忠告することでしめくくろう。

 I. まず第一に、《新生という問題》である。その説明に当たって、私が真っ先にあなたに注目してほしいのは、用いられているたとえである。人は新しく生まれなくてはならないと云われている。このことを何にもまして例証するのは、ある場合を想定してみることに違いない。かりに、英国で1つの法律が可決されたとする。すなわち、宮中に足を踏み入れることも、官職で優遇されることも、また国民に属するいかなる特権も、英国で生まれた者にしか与えられてはならないという法律である。――かりに、この国で生まれたことが1つのsine qua non[必須資格]となり、たとい人がいかなることを行ない、いかなる人物であろうと、生まれながらに英国の臣民でない限り、女王陛下にお目見えすることも、国家の禄や公職にあずかることも、市民としていかなる特権を享受することもできないとはっきり宣言されるとする。もしあなたがそうした場合を想定してみるとしたら、私は、人々が自力で行なう変化や改善と、真に新しく生まれるみわざとの間にある違いを例証できるだろうと思う。さて私たちは、こう考えることができよう。ある人が――例えば、ひとりの北米土人が――この国に来たとして、市民の身分に伴う種々の特権を獲得しようと努力するとする。そうした特権は、生まれながらの臣民でなければ、享受できないという、この規則が絶対的なものであり、変更できないことは重々承知の上である。かりに彼がこう云ったとしよう。「私は自分の名前を変えることにしましょう。私は英国風の名を名乗ることにしましょう。――私はスー族の間では仰々しい肩書きで呼ばれてきました。私は《大いなる西風》の息子とか何とか呼ばれてきました。ですが私は、英国風の名前を名乗ることにします。私はキリスト者と呼ばれ、英国臣民と呼ばれるでしょう」。それで彼は望む特権の取得が認められるだろうか? あなたは彼が王宮の門に近づき、入場許可を求めているのが見える。彼は云う。「私は英国風の名前をしています」。「しかし、その方は生まれも育ちも英国人なのか?」 「そうではありませんが」。「ならば、この門をその方のために開けることはできん。法は絶対だからだ。よしんば、その方が王家に連なる名前をつけていようと、この国の生まれでない以上、その方は閉め出されなくてはならんのだ」。この例話は、この場にいる私たち全員にあてはまるであろう。少なくとも、ここにいるほぼ全員は信仰を告白するキリスト者であると名乗っている。英国で暮らしているあなたは、もしも自分がキリスト者だと呼ばれなかったとしたら屈辱を感じるであろう。あなたは異教徒ではない。不信心者ではない。イスラム教徒でもユダヤ人でもない。あなたは、キリスト者という名前が自分に帰せられて良いものだと考え、そう名乗っている。しかし、確実なことだが、キリスト者という名前は、キリスト者の性質ではなく、あなたがキリスト教国に生まれ、キリスト教信仰を告白しているとみなされているということは、それに加えて何かがない限り――すなわち、イエス・キリストの臣民として新しく生まれることがない限り――全く何の役にも立たない。

 「しかし」、とこの北米土人は云う。「私は自分の衣裳を捨て去る覚悟があります。服装においても英国人らしくし、事実、流行の最先端を行くことに否やはありません。あなたには私が、今日受け入れられている格好と全く見分けがつかなくなるのをご覧に入れましょう。私は、宮中服に身を包み、礼儀作法にかなうきらびやかな装いをしたならば、女王陛下にお目見えすることができるのではないでしょうか? 見てください。私はこの羽飾りを脱ぎ捨てましょう。この戦斧も振り回さないでしょう。こうした服は捨て去りましょう。鹿革靴は永遠に打ち捨てましょう。私は名前だけでなく服装においても英国人になります」。彼は、わが国の国人のような服装をして王宮の門にやって来るが、その門はやはり彼の面前で閉ざされている。なぜなら、法は人がこの国の生まれであることを要求しており、それなしには、いかなる服装をしていようと王宮には入れないからである。それと同じく、あなたがたの中のいかに多くの人々が、単にキリスト者と名乗るだけでなく、キリスト者的なふるまいを身につけていることだろうか。あなたは自分の教会や自分の会堂に通い、神の家に集い、自分の家庭をそれなりにキリスト教信仰の形式に沿ったものとし、子どもたちがイエスの御名を聞かずに過ごさないようにさせている! そこまでのところは結構である。私は、そうしたことに反対するつもりは毛頭ない! しかし、覚えておくがいい。あなたがそれ以上先に進んでいないがゆえに、それは良くないことなのである。こうしたすべては、1つのことが従われていない限り、あなたが天の御国に入るのを認めさせる役には全く立たない。その1つとは――新しく生まれることである。おゝ! たといあなたが、これ以上ないほどの信心深さの服装を華々しく身につけ、慈善行為の花冠をかぶり、清廉潔白の帯を腰に締め、堅忍不抜の靴を履き、正直で廉直な人間として地を歩くとしても、覚えておくがいい。新しく生まれない限り、「肉によって生まれた者は肉」[ヨハ3:6]なのであり、自分のうちに御霊の働きを有していないあなたの面前では、なおも天国の門扉は閉ざされている。あなたが新しく生まれていないからである。

 「よろしい」、とやはりこの北米土人は云う。「私は服を借用するだけでなく、言葉を学ぶことにしましょう。私は私の訛りを捨て、かつて大草原で、あるいは森林の中で喋っていた言葉を捨て去り、二度とこの口に上せないようにします。私は、シュ・シュー・ガーだの何だのと、私の野鳥や鹿を呼んでいた奇妙な名前について語ることはもうしません。むしろ、あなたが話すように話し、あなたがふるまうようにふるまうでしょう。私は単にあなたのような服を着るだけでなく、あなたの仕草とそっくり同じにしましょう。私は同じようなしかたで話をし、あなたと同じ訛りを身につけ、文法的にも間違いがないよう一所懸命気をつけましょう。それならば、あなたも私を中に入れてくれるではないでしょうか? 私は完全に英国風の話し方をするようになったのですから。これなら私は受け入れてもらえるのではありませんか?」 「いいや」、とその門番は云う。「中に入ることはまかりならん。というのも、人はこの国で生まれない限り、中に入ることはできないからだ」。あなたがたの中のある人々もそれと同じである。あなたは、まるでキリスト者のような話し方をする。ことによると、あなたは少し鼻につくほど宗教がかった喋り方をしているかもしれない。あなたは、自分が敬虔な人だと思う人をそっくりそのまま真似し始めて、少しやりすぎをしている。そして、あまりにも板につきすぎてしまったために、そのにせもの臭さが判別できるほどなのである。それでもあなたは、ほとんどの人々の間では如実にキリスト者である人として立派に通用する。あなたは数々の伝記を研究してきたので、天来の経験について長々と話を聞かせることもできる。それは、あなたが善良な人々の伝記から拝借してきたものである。あなたはキリスト者たちと一緒にいたし、いかにすればキリスト者のような喋り方ができるか分かっている。あなたは、清教徒のように、乙に澄ました話し方を身につけているかもしれない。信仰告白者と同じような生き方を世の中でしている。たといあなたを観察している人がいたとしても、決してあなたの正体は見破られないであろう。あなたは教会員である。バプテスマを受けている。主の晩餐にあずかっている。ことによると、あなたは執事か長老かもしれない。あなたは会衆席に聖餐を回しており、キリスト者に行なえることなら、何でもできる。ただ1つ、あなたがキリスト者の心をしていないことを除けば。あなたは白く塗った墓であり、外側はきれいに装飾されていても、内側にはなおも腐れが一杯である。よろしい。用心するがいい。用心するがいい! 画家がいかに肖像画を生き写しに描くかには驚嘆すべきものがある。だが画布は死んでおり、ぴくりとも動かない。そして、それと同じくらい驚嘆すべきなのは、いかに人がキリスト者に酷似した者となりながら、それでも、新しく生まれていないがために、この絶対的な規則がその人を天国から締め出してしまうかということである。人はいかに立派な告白をしていようと、いかにその告白された敬虔さが派手なものであっても、また、いかにその経験の羽根飾りがきらびやかなものであっても、それでも天国の門から運び去られてしまうのである。

 それは無慈悲ですよ、スポルジョン先生。私は、あなたがそれについて何と云おうと一向にかまわない。私はキリスト以上に慈悲深くなりたいとは決して思わない。こう云ったのは私ではなく、キリストなのである。もし何か文句があるなら、そちらで決着をつけるがいい。私はこの真理の作者ではなく、代弁者にすぎない。私はこう書かれているのを見いだしている。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。もしあなたの従僕がある家に行ってあなたの使信を正確に告げるとしたら、その家の主人は激しく彼をののしるかもしれない。だが、その従僕は云うであろう。「旦那様。私をののしらないでください。私にはどうしようもないことなんです。私はただ私の主人が私に告げたことを告げるしかないのです。私がその言葉を考えたのではないのです」。そのように、もしあなたが私を無慈悲だと考えるならば、思い出すがいい。あなたは私を責めているのではなく、キリストを責めているのである。あなたは使いの者に難癖をつけているのではなく、その使信に難癖をつけているのである。キリストはこう云われた。――「人は、新しく生まれなければ」、と。私はあなたと論争することはできないし、しようとも思わない。これは神のことばにほかならない。これを拒絶する人は痛い目に遭うであろう。これを信じ、受け入れるがいい。私は切に願う。なぜなら、これは《いと高き方》の口から出ているからである。

 しかし、ここで、この新生がいかにして獲得されるかに注意するがいい。この点においてピュージー主義者たちほど愚劣をきわめている人々はいないと思う。私を目当てにこの場に引き寄せられてきた方々の中には、おそらく、洗礼新生の教理を信ずるほど脳味噌の切れ端すら残っていないという人は、まずひとりもいないであろう。だが、それについて多少のことは述べておかなくてはならない。ある人々の教えるところ、幼児の額に数滴の水を振りかけることによって、その幼児は新生した者となるのだという。よろしい。そうだとしてみよう。そして今、私はあなたの云う新生した者たちの二十年後の姿を見ている。あの懸賞拳闘試合の王者は新生した者である。おゝ! しかり。彼は新生している。なぜなら、幼児期に彼は洗礼を授けられ、それゆえ、もし洗礼を受けたあらゆる幼児が新生したというなら、あの懸賞拳闘選手は新生した者である。彼を抱きかかえては、主にあるあなたの兄弟として受け入れるがいい。あなたは、あそこで悪態をつき、神を冒涜している人の声が聞こえるだろうか? 彼は新生した者である。嘘ではない。彼は新生しているのである。司祭が何滴かの水滴を彼の額に振りかけたのだから、彼は新生した者なのである。あなたは町通りを千鳥足で歩いているあの酔いどれが見えるだろうか? 近所の鼻つまみで、誰にでも剣つくを食わせ、自分の細君を殴り、獣以下の人間である。よろしい。彼は新生した者である。彼はこうしたピュージー主義者たちの新生者のひとりなのである。――おゝ、大した新生者であることよ! 通りに人だかりがしているのが見えるだろうか? 絞首台が立てられているのである。パーマーが今まさに処刑されようとしている。その極悪さのゆえに、永遠にその名が忌みきらわれてしかるべき男である! ここに、こうしたピュージー主義者たちの新生者のひとりがいる。しかり。彼は新生した者なのである。なぜなら、彼は幼児期に洗礼を授けられたからである。彼は、そのストリキニーネを調合していた間も新生していた。その毒薬を少しずつ投与していた間も新生していた。人々に死と途方もない苦痛とを招きよせることになる所業の一切を行なっている間中そうであった。新生した者、もちろんそうである! もしそれが新生だとしたら、そのような新生には、かすの値打ちもない。もしそれが私たちを天の御国に自由に入らせるとしたら、まことに福音は実際、放縦な福音である。そのようなものについて私たちは一言も云えない。もしそれが福音であり、こうしたすべての者らが新生した者で、救われることになるとしたら、私たちはただこう云うしかない。この世のいかなる人であれ、そのような福音を退けることこそ義務である、と。なぜなら、それは明々白々な道徳原理とあまりにも矛盾しており、神から出たものではありえず、悪魔から出たものに違いないからである。

 しかし、ある人々は、人が洗礼を授かったときには全員新生しているのだと云う。よろしい。もしあなたがそう考えるのだとしたら、あなた自身の考えにしがみつくがいい。私にそれを止めることはできない。魔術師シモンは確かに唯一の例外であった。彼は自分の信仰を告白してバプテスマを受けたが、そのバプテスマによって新生されられたどころか、私たちはパウロがこう云っているのを見いだすのである。「あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています」[使8:23]。だがしかし、彼はこうした新生した者のひとりだったのである。なぜなら彼はバプテスマを受けていたからである。あゝ! この教理は一言口にしただけで道理の分かる人々はたちまちそれを排除するであろう。金銀線細工や、それに似た麗々しい装飾品のキリスト教信仰を愛好する紳士たち、伊達男ブランメル流の気品ある紳士たちは、こうした信仰を非常に好むであろう。なぜなら、彼らは自分の頭脳を犠牲にしても、その趣味の洗練に励んできており、健全な人の判断と相容れないものは、神のことばとも相容れるはずがないことを忘れているからである。第一の点についてはここまでにしておこう。

 次のこととして私たちは云いたいが、人は自分自身の奮励努力によって新生するのでもない。

 人は自分を非常に改善することができるし、それは正しく良いことである。すべての人はそうするがいい。人は多くの悪徳を打ち捨て、自分のふけってきた多くの情欲と手を切り、悪習慣を克服できるが、この世のいかなる人も自分を神から生まれさせることはできない。ありとあらゆる苦闘を経ようと、自分の力を越えたことは決して成し遂げられない。そして、よく聞くがいい。たとい人が自分を新しく生まれさせられるとしても、その人は決して天国に入ることはないであろう。なぜなら、もう1つの条件があり、それにこの人は違反しているからである。――「人は、御霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできません」*[ヨハ3:5-6]。それで、肉の最上の奮励努力もこの高い点――神の御霊によって新しく生まれること――に到達することはできない。

 そして今、私たちはこう云わなくてはならない。新生とはこのことから成っている。聖霊なる神が、ある超自然的なしかたによって――よく聞くがいい。超自然的という言葉で私は厳密にそれが意味している通りのことを意味している。自然の理を越えた超自然的なことである。――、人々の心に働きかけ、彼らはこの天来の御霊のお働きによって新生した者らになるが、御霊を離れては決して新生させられることができない。そして、聖霊なる神――「私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる」*[ピリ2:14]お方――が意志と良心に働きかけない限り、新生は絶対に不可能であり、それゆえ、救いも絶対に不可能である。「何と!」、とある人は云うであろう。「まさかあなたは、神があらゆる人の救いにおいて、その人を新生した者とするために絶対的に介入しておられると云うのですか?」 実際私はそう云っている。あらゆる人の救いには、天来の力を現実に発揮することが関わっており、それによって死んでいた罪人がその良心を柔らかくされ、神を拒絶しキリストを蔑んでいた者がイエスの足元に身を投げ出させられるのである。もしかすると、これは狂信的な教理だと云われるかもしれない。それはどうしようもない。これは聖書的教理であって、私たちにはそれで十分である。「人は、御霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」*[ヨハ3:5-6]。もしこれがあなたの気にくわなければ、私にではなく、私の《主人》に文句を云うがいい。私は単に主ご自身の啓示を宣言しているにすぎない。あなたの心には、あなたがそこに作り出せるもの以上の何かがなくてはならない、と。天来の働きがなくてはならない。そう呼びたければ奇蹟的な働きと呼んでもよい。ある意味では、その通りである。天来の介入、天来の働きかけ、天来の影響力がなくてはならない。さもなければ、あなたが何をしようと、このことを抜きにしたあなたは滅びて、一巻の終わりとなる。――「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。その変化は根本的なものである。それは私たちに新しい性質を与え、私たちが憎んでいたものを愛させ、愛していたものを憎ませ、私たちを新しい路に置き、私たちの習慣を異なるものとし、私たちの考えを異なるものとし、私たちを私的に異なるものとし、公的に異なるものとする。それで、キリストのうちにあることによって、このことが実現するのである。――「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」[IIコリ5:17]。

 II. さて今、私は第二の点に移らなくてはならない。新生についての私の説明で、みなそれがいかなることであるかを見てとったことと思う。ここで、《「神の国を見る」という表現は何を意味しているのだろうか?》 それは2つのことを意味している。地上で神の国を見るとは、神秘的な教会の一員となることである。――神の子どもとしての特権と自由を享受することである。天の御国を見るとは、祈りにおいて力を得ること、キリストとの交わりを有すること、聖霊との交わりを有すること、そして、新生の結果である喜ばしく、ほむべき実のすべてを結び、生み出すことである。より高い意味において、「神の国を見る」とは、天国に入るのを許されることを意味する。「人は、新しく生まれなければ」、地上において天的な物事について知ることができず、天的な祝福を永遠に享受することができず、「神の国を見ることはできません」。

 III. この第二の点については何も語らずに次へ進んで、第三のことについて注目して良いと思う。《なぜ「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」のか》。そして私は、来たるべき世における神の国に限定して言及したいと思う。

 何と、その人が神の国を見ることができないのは、天国はその人にとって場違いな所となるからである。新しく生まれていない人は天国を楽しむことができない。その人の性質の中には、現実にそれを不可能とするものがあり、パラダイスの至福を何も楽しめないようにするのである。もしかすると、あなたは天国は宝石の城壁と、真珠の門と、黄金の門からできていると考えているかもしれない。そうではない。それは天国の住居である。天国はそこに住んでいる。だが、それが天国ではない。天国は、地上で作られている状態である。心の中に作られ、神の御霊によって私たちの内側に作られている状態である。そして、御霊なる神が私たちを新しくし、私たちを新しく生まれさせてくださらない限り、私たちは天国の物事を楽しめないのである。何と! 豚が天文学に関する講義を行なうなどということには物理に不可能である。蛇が町を建造することなど不可能に違いないことは、誰でもはっきり分かるであろう。――そして、改められていない罪人が天国を楽しむことは、それと同じくらい不可能なのである。何と! そこには彼が楽しめるものが何もないであろう。もし彼が天国のどこかに押し込まれたとしたら、彼はみじめになるであろう。泣き叫ぶであろう。「ここを出してくれ。出してくれ。このみじめな場所から出してくれ!」 私はあなたに訴えたい。説教は、あなたにとってしばしば長すぎる。神への賛美は鈍重で、無味乾燥な務めである。神の家へ行くことは非常に大儀に感じられる。では、あなたは、人々が昼も夜も神を賛美している場所で何をしようというのだろうか? もし地上における、ほんの短い講話1つに飽き飽きさせられるとしたら、贖われた者たちが贖いの愛の不思議について、代々とこしえに語り合っていることをあなたは何と思うだろうか? もし義人の集いがあなたにとってうんざりするようなものだとしたら、永遠に彼らと一緒にいることはいかなることであろう? 私はあなたがたの中の多くの人々が、詩篇詠唱はこれっぽっちも自分の好みに合わない、霊的な事がらなど全くつまらない、と告白してくれてかまわないと思う。葡萄酒を一瓶かかえて、のんびりと腰を下ろすことさえできれば、それがあなたにとって天国なのである! よろしい。そのような天国は、いまだ作られたことがない。それゆえ、あなたのための天国はないのである。存在している唯一の天国は霊的な人々のための天国、賛美の天国、神を楽しみとする天国、愛する方において受け入れられる天国、キリストとの交わりを有する天国である。さて、あなたはこうした事がらについて何1つ理解していない。それを有することになっても、それを楽しめないであろう。そうするための能力があなたにはない。あなたが新しく生まれていないという事実からして、あなたにとっては、あなた自身が天国に入るための障壁なのである。、たとい神がその門を大きく開き、「入って来よ」、と云ったとしても、たといあなたが中に入ることを許されたとしても、あなたは天国を楽しめないであろう。人は新しく生まれない限り、神の国を見る可能性が――道徳的な可能性が――ないからである。かりに、この場にいる誰かがかなつんぼだったとしよう。一度も音を聞いたことがないとしよう。よろしい。私は云うが、そうした人々は歌が聞こえない。そう云うからといって、私は残酷なことを云っているだろうか? 彼らを妨げているのは、彼ら自身の無能力なのである。そのように、あなたは天の御国を見ることができないと神が仰せになるとき、神が意味しておられるのは、天国を楽しめないあなた自身の無能力によって、あなたはそこに入ることが妨げられるだろう、ということである。

 しかし、それ以外にも他の理由がある。なぜ次のようになるかという理由がある。

   「かの聖き門 永久(とわ)に防げり
    汚れと罪と 辱めとを」。

あなた自身の中にある理由以外にも、あなたが新しく生まれない限り神の国を見られない理由がある。御座の前にいる、かの霊たちに問うてみるがいい。「御使いたち、主権たち、力たちよ。あなたがたは、神を愛していない人々、キリストを信じてない人々、新しく生まれていない人々がここに住むことを望むか?」 私は、彼らが私たちを見下ろしている姿が見える。彼らがこう答えているのが聞こえる。「否! 私たちはかつてあの竜と戦い、彼を追い出した[黙12:7-9]。なぜなら彼は私たちに罪を犯すよう誘惑したからである。私たちは、ここに邪悪なものを置いておくわけにはいかないし、置いておこうとも思わない。あの雪花石膏の城壁は、どす黒い情欲を好む指で汚されてはならない。天の純白の舗道は、不敬虔な者どもの聖からざる足でよごされたり、汚されたりすることがあってはならない。否!」 私は、一千もの槍が林立し、無数の熾天使の激した顔がパラダイスの城壁の上から突き出されるのが見える。「否。この武器を振るう力がある限り、また、この翼を羽ばたかせる力がある限り、いかなる罪もここに入らせるものか」。さらに私は、天国にいる、主権の恵みによって贖われた聖徒たちに語りかける。「神の子らよ。あなたがたは、悪人が新しく生まれることもなしに、ありのままでそこに入るのを許されることを望むか? あなたがたは人々を愛している。ならば、ならば、ならば、あなたがたは彼らが、ありのままで入るのを許されることを望むか?」 ロトが立ち上がって叫ぶのが見える。「彼らを天国へ入れるのを認めるだと! 否! 何と! かつてのように、ソドム人の生活によって、またぞろ悩まされてたまるものか!」 私にはアブラハムが前に進み出て云うのが見える。「否。彼らがここにいることはあってはならない。地上にいた頃の私は彼らと一緒にいたが、あんなことはもうたくさんだ。――彼らの嘲りやあざ笑い、彼らの愚かな話や、むなしい生き方は私たちを悩ませ、悲しませたものだった。私たちは彼らにはここにいてほしくない」。そして、彼らは天的であり、彼らの霊は愛に満ちてはいるが、それでも天国にいる聖徒らのひとりとして、究極の憤怒とともに、あなたがたの中のひとりたりともパラダイスの門に近づいてくるのを憤らない者はいないであろう。もしもあなたが不敬虔なままで、新しく生まれていないとしたら、そうである。

 しかし、そうしたことすべては何ほどのことでもない。私たちは、ことによると、御使いたちが守備しているだけだったとしたら、天国の堡塁をよじ登れるかもしれない。聖徒たちだけが防護を固めているとしたら、パラダイスの門を爆破して開けるかもしれない。しかし、そこにはそれらとは別の理由がある。――神ご自身がこう云われたのである。――「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。何と、罪人よ! あなたはパラダイスの狭間胸壁をよじ登ろうというのだろうか? 神があなたを地獄に突き落とそうと待ちかまえているというときに? あなたは図々しい鉄面皮で神と対決しようというのだろうか? 神は云われた。雷鳴のような御声をもって云われた。「お前たちが神の国を見ることがあってはならない」、と。あなたは《全能者》と格闘できるだろうか? 《全能の神》を投げ倒せるだろうか? 《いと高き方》とがっぷり四つに組めるだろうか? ちりから出た虫けらよ! あなたは自分の《造り主》に打ち勝てるだろうか? 一時間も生きていない震えおののく昆虫よ。あなたは、はるか向かいの空の高みで稲妻が閃くことにも揺るがされるのに、神の御手に逆らおうというのだろうか? あなたは面と向かって神に反抗しようとするのだろうか? あゝ! 神はあなたを笑うであろう。太陽の前で雪が溶け、火の炉の前で蝋燭が融けるように、もし神の怒りが一度でもあなたをつかめば、あなたもそれと同じことになる。神に打ち勝てるなどと考えてはならない。神はあなたに対抗してパラダイスの門を封印しておられ、そこから入るすべはない。正義の神がこう云っておられる。「わたしは、義人と同じ報いを悪人に与えはしない。わたしの立派で敬虔なパラダイスを邪悪で不敬虔な者どもによって汚させはしない。もし彼らが立ち返るなら、わたしは彼らをあわれもう。だがもし彼らが立ち返らないなら、誓って云うが、わたしは彼らを引き裂き、彼らを救う者はいないであろう」。さて、罪人よ。あなたは神と平然と対決しようというのだろうか? あなたはエホバの円盾の分厚い突起部に突進するのだろうか? あなたは神の天国によじ登ろうとするのだろうか? 神の矢があなたの心臓をぶち抜くべく弓につがえられているというのに? 何と! 光輝く剣があなたの首筋に当てられ、いつでもあなたを殺そうとしているというのに? あなたは自分の《造り主》に抗おうとするのだろうか? 否、陶器よ。否。あなたと同輩の陶器と争うがいい。行け。のろのろ歩くいなごよ。行って、お前の兄弟たちと戦うがいい。彼らと抗うがいい。だが、《全能者》に立ち向かってはならない。このお方がそう云われたのだ。あなたは新しく生まれない限り決して、決して天国に入ることは許されない、と。また、もう一度云うが、私に文句を云ってはならない。私は私の《主人》の使信を伝えたにすぎない。これを受け取り、そうしたければ信じないですますがいい。だが、もしそれを信ずるとしたら、私に毒づいてはならない。というのも、これは神の使信であり、私はそれをあなたの魂に対する愛によって語っているからである。それがないために、あなたが暗闇の中で滅び、目隠しをされたまま永遠の破滅へと歩み入ってしまうといけないからである。

 IV. さて、愛する方々。《あなたに対する少々の忠言》を述べて、暇を乞おう。私にはある人がこう云っているのが聞こえる。「あゝ、あゝ、わかりましたよ。私は、死んだ後で新しく生まれるのを期待しますよ」。おゝ、方々。信じてほしい。あなたは、みじめな愚か者となって、ほぞを噛むであろう。人々が死ぬとき、彼らの状態は定まってしまう。

   「永遠(とこしえ)にその 状態(さま)定まりて、
    悔やまんとせど はや遅かりし」。

私たちの人生は、炎の中で溶けていく蝋のようなものである。死がそれにその刻印を押すと、それは冷えて行き、その押印は決して変えることができない。あなたは今日、大釜の中から鋳型に流し込まれている灼熱の金属のようなものである。死はあなたを、あなたの鋳型の中で冷却し、あなたは永遠にその形に鋳込まれてしまう。破滅の声は使者の上で叫ぶ。「聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい」*[黙22:11]。地獄に堕ちた者は永遠に失われる。彼らが新しく生まれることはできない。永遠に呪われた者として呪いを発し続け、永遠に神に逆らい続け、永遠に神の足の下で踏みにじられ続けていく。彼らは永遠に嘲り続け、永遠にその嘲りゆえに物笑いにされ続けていく。永遠に反逆を続け、良心の鞭により永遠に苛まれ続けていく。なぜなら、彼らは永遠に罪を犯し続けるからである。彼らは死んでいるので新生されることができない。

 「よろしい」、と別の人は云うであろう。「私はよく気をつけておいて、死ぬ直前に新生されることにしよう」。方々。私はもう一度云うが、そのように語るあなたは愚か者である。あなたは、自分が生きられるかどうかいかにして分かるだろうか? あなたは、自分の家屋と同じように、自分の人生の賃借権を有しているわけではない。あなたは、自分の鼻の穴の息を確実に保っておけるだろうか? あなたは再び日光が自分の目に射すはずだと確かに云えるだろうか? あなたは、自分の心臓が墓場への葬送行進の拍子を取っているというときに、それが最後の一拍を打って、今のあなたが立っている所、あるいは座っている所で死なないと確信できるだろうか? おゝ、人よ! もしあなたの骨が鉄で、あなたの腱が真鍮で、あなたの肺が鋼鉄であったとしたら、あなたも、「私は生きる」、と云って良いかもしれない。しかし、あなたはちりからできている。あなたは野の花のようで、いま死んでもおかしくはない。見よ! 私は向こうに死が佇んでいるのが見える。あちらへ、こちらへとうろつきながら、時という砥石をその大鎌に当てては、それを研いでいる。今日、今日、彼はあなたがたの中の誰かのために、その大鎌をひっつかむ。――そして、ザクリ、ザクリと彼は畑を刈り払い、あなたがたはひとり、またひとりと倒れていく。あなたがいつまでも生きることはできないし、ありえない。神は私たちを大水のように連れ去っていく。私たちは渦巻きの中の舟のようなもの、急流の中の丸太のようなもので、大瀑布へと突き進みつつある。私たちの誰ひとり止まることはできない。私たちはみないま死につつある! だがしかし、あなたは、自分は死ぬ前に新生されようと云うのである! 左様。方々。だが、あなたはいま新生されているだろうか? というのも、もしそうでないとしたら、明日について希望するのは遅すぎるかもしれないからである。明日あなたは地獄にいるかもしれない。そして、その磐石の運命によって永遠に封印されているかもしれない。その封印は決して取り除かれることはない。

 「よろしい」、と別の人が叫ぶであろう。「私は、そんなことでくよくよしないことにします。私はパラダイスから閉め出されようと、別に痛くもかゆくもないからです」。あゝ、方々。それは、あなたが全く理解していないからである。あなたは今は微笑んでいる。だが、来たるべき日、あなたの良心は柔らかくされ、あなたの記憶は強くなり、あなたの識別力は光を与えられて、あなたは今とは非常に異なる考え方をするようになるであろう。地獄にいる罪人たちは、地上にいたときのような愚か者ではない。地獄では、彼らは永遠に燃えることを笑いはしない。かの穴の中で彼らは、「永遠の火」という言葉を馬鹿にしはしない。尽きることのないうじは、それがかじりつくときには、あらゆる冗談やあざ笑いをかじり切ってしまう。あなたは今は神を蔑み、今は私を私が語っていることのゆえに蔑んでいる。だが、死はあなたの口調を変えるであろう。おゝ! 話をお聞きの方々。もしそれがすべてだったとしたら、私も同意しよう。あなたは私を蔑んで良い。しかり。そうしてくれて良い。だが、おゝ! 私は切に願う。自分自身を蔑んではならない。口笛を吹きながら地獄に向かって行き、かの穴のことを笑い飛ばすほど無鉄砲であってはならない。というのも、あなたがいざそこにいるときには、方々。あなたはそれが、いま夢想しているものとは大違いであることに気づくからである。あなたは、パラダイスの門があなたに対して閉ざされているのを見るとき、それがいま判断しているよりも由々しいことであると気づくであろう。あなたが今日、私の説教を聞きにやって来たのは、歌劇や劇場に出かけるような気分だった。あなたは、私があなたを面白がらせるだろうと思って来た。あゝ! それは私の目当てではない。神が私の証人だが、私がここに来たのは、厳粛に、真剣に、私の手をあなたの血で洗うためである。もしあなたが、あなたがたの中の誰であれ、地獄に堕ちるとしたら、それは私があなたに警告しなかったためではない。あなたがたに云う。もしあなたがたが滅びるとしたら、私の手は無罪で洗われる。私はあなたに、あなたの破滅について告げていた。私はもう一度叫ぶ。悔い改めよ。悔い改めよ。悔い改めよ。というのも、「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びる」*[ルカ13:3]からである。私は今朝、1つの決心をしてここへやって来た。もし荒々しい言葉を使わなくてはならないとしたら、それを使おう、と。人々の気に入ることも、気に入らないことも、はばかることなく口にしよう、と。というのも、私たちが今あなたに反対して語っている事がらは、実はあなたのためになることだからである。私たちは、あなたが滅びないようにと、あなたに警告せざるをえない。しかし、あゝ! 私にはあなたがたの中のひとりがこう云っているのが聞こえる。「私にはこの奥義が理解できません。どうか、それを私に説明してください」。馬鹿者が。馬鹿である、あなたは。あなたは、あの火が見えるだろうか? 私たちは寝床から叩き起こされた。窓の外が光っている。私たちは階段を駆け降りる。人々があちこちから飛んでくる。通りは人だかりで一杯になる。彼らはその家へと押し寄せている。それは、火を吹き上げている。消防士たちが立ち働いている。その家に水流が注がれている。だが、聞けよ! 聞けよ! ある人が階上にいる。最上階の部屋にひとりの人がいるのである。その人が脱出するには、かろうじて一瞬の間しかない。叫び声が上がる。――「おおい! 火事だぞ! 火事だぞ! 火事なんだぞ! おおい!」――だが、その人は窓に姿を現さない。見よ。梯子が壁にかけられる。その窓の下枠にさしかけられる。――ひとりの屈強の隊員がその開き窓に飛び込んでいく! その間、中の男は何をしているのだろうか? 何と! 彼は寝たきりの人だったのだろうか? 足がきかない人だっただろうか? どこかの悪鬼が彼をとらえて、床に釘づけにしていたのだろうか? 否、否、否。――彼は床板が自分の足の下で熱くなっていることに気づいている。煙で息苦しくなっており、そこら中で炎が燃えている。彼は脱出路が1つしかないことを知っている。その梯子によってである! 彼は何をしているだろうか? 座り込んでいる。――あゝ、あろうことか――彼は座り込んで、こう云っているのである。「この火事の起こりは非常に謎めいている。いかにしたら、それを突きとめられるだろうか。いかにそれを理解すべきだろうか?」 何と、あなたは彼をあざ笑うであろう! あなたは自分自身をあざ笑っているのである。あなたは、この疑問あの疑問が答えられることを求めている。その間あなたの魂は永遠の火に落ち込む危険にさらされているのである! おゝ! あなたが救われてからでも、質問を発する時間はあるであろう。だが、あなたがいま燃え上がる家の中にいて、破滅の危険の中にいる間は、自由意志だの、定めの運命だの、絶対的予定だのについて頭をひねっているべき時ではない。こうしたすべての問題は、救われた者たちにとっては、後から正しいもの良いものとなる。岸辺に立った人は、嵐の原因を突きとめようとするがいい。だが、あなたのなすべき唯一の務めは、こう問うことである。「救われるためには、何をしなければなりませんか?」[使16:30] そして、いかにして私は、自分を待ち受けているあの大いなる断罪からのがれることができるでしょうか?、と。

 しかし、あゝ! 愛する方々。私は自分の願うようには語ることができない。私は今朝、その『地獄編』を書いたときのダンテのような気分をしていると思う。人々は彼について、あの人は地獄に行ってきたのだと云った。彼の風貌はまさにそのように見えたのである。彼はそれについてあまりにも長い間考えすぎたので、彼らは、「彼は地獄に行ってきたのだ」、と云った。それほど彼は、すさまじい真剣さで語ったのである。あゝ! もし私ができることなら、私もそのように語りたいと思う。もうほんの数日もすれば、私はあなたと顔と顔を合わせて会うことになるであろう。私はもう数年も経ったときのことを見越すことができる。そのときあなたと私は、神の法廷で顔と顔を合わせて立つことになるであろう。「見張り人よ、見張り人よ」、と1つの声がする。「あなたは彼らに警告したか? あなたは彼らに警告したか?」 そのとき、あなたがたの中の誰か、私が警告しなかったと云おうとするだろうか? 否。あなたがたの中の最も恥知らずな者でさえ、その日には云うであろう。「私たちは笑いました。物笑いにしました。てんで相手にしませんでした。ですが、おゝ、主よ。私たちは真実を語らなくてはなりません。この人は真剣でした。彼は私たちに私たちの破滅について語りました。彼に非はありません」。あなたはそう云うだろうか? そう云うはずである。

 しかし、まだもう1つ指摘することがある。――天国から叩き出されるのはすさまじいことである。あなたがたの中のある人々は、天国に両親がいる。親しい友人たちがいる。彼らは死ぬ間際にあなたの手を握って、「さようなら。また会いましょう」、と云った。しかし、もしあなたが決して神の国を見ることがないとしたら、あなたは決して彼らと再会できないのである。「私の母は」、とある人は云うであろう。「墓地で眠っています。私はその墓をよく訪れ、私を育ててくれた人を思い出しては花を供えてきます。ですが、私はもう二度と母に会えないのでしょうか?」 しかり。二度と会えない。あなたが新しく生まれない限りそうである。母親たち。あなたには天国に行ってしまった幼子たちがいる。あなたは、あなたの家族全員と御座の回りで会いたいと思うであろう。だが、あなたは新しく生まれない限り、二度とあなたの子どもたちには会えない。あなたは、きょうのこの日、不死の者たちと永別しようというのだろうか? いまのこの時、あなたは、パラダイスにいる栄化された友人たちに別れを告げようというのだろうか? そうだというのでなければ、あなたは回心しなくてはならない。あなたはキリストのもとに逃れ行き、キリストに信頼しなくてはならない。そうすればキリストの御霊があなたを新しくしてくださるに違いない。さもなければ、あなたは天国を見上げて、こう云うしかない。「ほむべき者らの合唱隊よ! 私は決してあなたが歌うのを聞くことはないだろう。私が若かった頃の両親。私が幼かった頃に守り育ててくれた人たち。私はあなたがたを愛している。だが、あなたがたと私の間には大きな淵がある。私は打ち捨てられており、あなたがたは救われているのだ」。おゝ、私は切に願う。こうした事がらを考えてほしい。そして家に帰るときには、私が云ったことを忘れないようにするがいい。もしあなたが今朝少しでも感銘を受けたとしたら、その感銘を捨ててはならない。それがあなたの受ける最後の警告かもしれない。福音の声音がまだ耳に残っているうちに失われてしまい、真理が伝道されている中で滅びていくのは悲しむべきことであろう。

  

 

新生[了]

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