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律法の効用

NO. 128

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1857年4月19日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「では、律法とは何でしょうか」。――ガラ3:19


 使徒が、精緻で力強い議論によって、ここまで証明してきたのは、律法が、決して人の義認や救いのために神が意図したものではなかった、ということである。彼の宣言によると、神はシナイ山で律法が与えられるはるか以前に、アブラハムと恵みの契約を結ばれた。アブラハムは、シナイ山にはいなかった。それゆえ、その契約が彼の同意によって変更されたはずがなかった。さらに、その契約の変更について彼の同意が求められたことも全くなかった。そうした同意なしに、契約が正当に変わることはありえなかった。それに加えて、その契約がアブラハム自身のためと同じく、アブラハムの子孫のためにも結ばれたものであることに鑑みると、その契約が揺るぎなく有効なものであり続けていることは確実である。「私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。なぜなら、相続がもし律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです」[ガラ3:17-18]。それゆえ、いかなる相続も、いかなる救いも、決して律法によって得られることはありえない。さて、極端に走るのは、無知の過ちである。一般に人々は、ある真理を信ずるとき、その真理にこだわるあまり、他の真理を否定するようになってしまう。人々は非常にしばしば、1つの肝心な真理を主張することによって、他の個々の事がらも一律に考え、真理から偽りを作り出してしまう。ここで想定されている反論は、次のような言葉で云い表わせよう。「おゝ、パウロよ。あなたは、律法が人を義と認めることはできないと云います。ならば確かに律法は何の役にも立たないに違いありません。『では、律法とは何でしょうか』。もしそれが人を救うのでないとしたら、それが何の役に立つのでしょうか? もしそれが、それ自体では決して人を天国に連れて行かないとしたら、なぜそれが書かれたのですか? それは無用のものではないでしょうか?」 使徒は、こうした反対者に対して、軽蔑をこめて答えたのかもしれない。――彼がその人に対してこう云ったことは確かである。「あゝ、愚かな人たち。心の鈍い人たち。何かが、世界のあらゆる用途に向いていないからといって、完全に役立たずだなどと証明されるだろうか? あなたは、鉄が食べられないからといって、鉄は役に立たないと云うだろうか? また、黄金は人間の食物になりえないからといって、黄金を打ち捨てて、無価値な金滓だなどと云うだろうか? だが、あなたの愚かな仮説によれば、あなたはそうしなくてはならないのだ。というのも、律法は人を救えないと私が云ったからといって、あなたは愚かにも、律法が何の役に立つのかと問うたからだ。また、あなたが愚かにも神の律法を無用のもの、何の価値もありえないものだと考えているからだ」。こうした反論を持ち出してくるのは、普通は二種類の人々である。第一に、福音を好まず、何だかんだとあら探しをしようとする、ただの揚げ足取りたちである。こうした人々は、自分が何を信じないかは告げることができるが、自分が何を信じているかは告げることができない。いかなる人の教理や意見にも難癖をつけることはできるが、じっくりと時間をとって自分自身の意見を書き表わしてみるように云われると途方に暮れてしまうのである。こうした人々は、猿に毛が生えた程度の知性しかないように見受けられる。何でもかんでもびりびりに引き裂くことはできるが、何事も結び合わせることはできない。それから、もう一方には無律法主義者たちがいて、こう云う。「しかり。私は自分が恵みだけによって救われると知っています」。それから律法を破っては、こう云う。それは、生活の規則としてさえ、自分を全く縛るものでもないのです。それから、「では、律法とは何でしょうか」、と問い、それが自分の魂を救うためのものでないことは確かだからと云っては、焼き捨てるしかない古家具のように自分の家からそれを放り出してしまう。何と、たとい何かに、ある特定の効用がないとしても、別の多くの効用があることもありえるではないか。律法が人を救えないことは確かだが、それでも、律法が神の最高の作品の1つであることも同じくらい確かである。律法は、あらゆる敬意に値し、それが意図されている用途に神から当てはめられるときには、ことのほか役に立つものなのである。

 それでも、愛する方々。こう云うのを許してほしいが、これは非常に自然な問いかけでもある。使徒パウロの教理を読むと、彼が律法はあらゆる人を罪に定めていると宣言しているのがわかる。さて、しばしの間、この世における律法の働きを俯瞰してみよう。見よ。私には、律法がシナイ山で与えられているのが見える。その山自体が恐れのために震えている。稲妻と雷鳴が、この恐るべき一言一言に伴っており、イスラエルの心はわななき、シナイは全く煙に包まれて見えた。主はパランから来られ、《聖なる方》はシナイの山から来られた。「主は千万の聖徒を引き連れて来られた」*[ユダ14]。その御口からは、彼らのための燃える律法が発された。それは、与えられたときも恐るべき律法であったし、それ以来、シナイ山からは、すさまじい復讐の溶岩が流れ出しては、全人類を埋没させ、滅ぼし、焼き尽くそうとしてきた。イエス・キリストがそのすさまじい奔流をせき止め、その火焔の波濤に静まるようお命じにならなかったとしたら、そうなっていたはずである。もしも世界にキリストがおらず、律法の下にしかなかったとしたら、そこに見られるのは壊滅した世界であろう。神の暗黒の封印が貼りつけられた世界、断罪の刻印と証印が押された世界であろう。もしも人々が自分たちの状態を知っていたとしたら、彼らは腰に手を当てて[エレ30:6]、日がな呻いていたことであろう。――そこに見られるのは、罪に定められ、失われ、滅びた人間たちだったであろう。そして最果ての領域には、悪人のために掘られた穴があったであろう。律法が全く思い通りにふるまうことを許され、私たちの《贖い主》イエス・キリストの福音から切り離された世界は、その穴の中に落ち込まざるをえなかったであろう。左様。愛する方々。律法は、ノアの洪水の時の大水よりも悪いもので世界を沈めていたはずの大氾濫であり、ソドムに下ったものよりも悪い破滅で地を燃やしていたはずの大火焔であり、剣を手にしては、血に飢えて切り殺そうとしている、翼をつけた厳酷な御使いである。それは、国々に襲いかかる大いなる破壊者である。神の復讐の大いなる使者として世に遣わされた者である。イエス・キリストの福音を抜きにするとき、律法は、人間を罪に定めるために鳴り轟く神の御声でしかない。「では、律法とは何でしょうか」。これはごく自然な問いかけに思われる。律法は人にとって、何かためになりえるだろうか? 死刑宣告を下すべき黒帽子をかぶり、私たち全員を断罪するこの《審き手》、この《首席裁判官》は、救いにおいて助けとなりえるだろうか? しかり。なりえる。そして、私たちの説教を神が助けてくださるとしたら、あなたはいかにしてそうなるかを見てとるであろう。「では、律法とは何でしょうか」。

 I. 律法の第一の効用は、人に自分の咎を明らかにすることである。神が、ある人を救おうと意図されるとき、まず第一にその人に対してなさることは、その人のもとに律法を遣わし、その人がいかに咎あり、いかによこしまで、いかに滅びた者であるか、また、いかに危険な立場にあるかを示すことである。あなたは、向こうの絶壁の崖っぷちに横たわっている人が見える。彼は熟睡しており、断崖から落ちる寸前である。ほんの少しでも動けば、転がり落ちて、下のぎざぎざの岩の上でばらばらになり、ぷっつり消息が絶たれるであろう。いかにすれば彼は救われえるだろうか? 彼のために何をすれば良いだろうか?――何をすれば! それが私たちの立場である。私たちもまた、破滅の瀬戸際に横たわっていながら、それに気づいていない。神は、そうした途方もない危険から私たちを救い出そうとし始めるとき、その律法をお遣わしになる。それは私たちを激しく蹴りつけ、目覚めさせ、私たちに目を開かせる。私たちは自分の恐ろしい危険を見下ろし、自分の悲惨さを悟る。そして、そのときこそ私たちは、救いを叫び求めるのにふさわしい状態になり、救いが私たちのもとにやって来るのである。律法は私たちにとって、盲人の目の混濁を取り除く医者のように働く。自分を義とする人々は盲人である。いかに自分で自分を善良な者、すぐれた者と考えていても関係ない。律法はその混濁を取り除き、彼らに、律法の選択の下にとどまり続ける限り、自分がいかによこしまであるか、いかに完全に滅びた者、罪に定められた者であるかを悟らせる。

 しかしながら私は、このことを教理的に取り扱う代わりに、実際的に取り扱うことにし、あなたがたひとりひとりの良心に深く突き入りたいと思う。話をお聞きの方々。神の律法は今朝、あなたに罪を確信させてはいないだろうか? 神の御霊の御手の下で、それはあなたに感じさせていないだろうか? 自分に咎があること、自分が失われるに値していること、自分が神の燃える怒りを招いてしまっていることを。ここで見るがいい。あなたがたは、この十戒を破ってこなかっただろうか? あなたがたの中のだれが、自分の父と母を常に敬ってきただろうか? 私たちの中のだれが、常に真実を語ってきただろうか? 時として私たちは、自分の隣人に対して偽りの証言をしてきたではないだろうか? この場には、自分のために他の神々を造ったことのない者がひとりでもいるだろうか? 自分自身を、自分の仕事を、自分の友を、全地の神エホバを愛するよりも愛したことのない者がひとりでもいるだろうか? あなたがたの中のだれが、自分の隣人の家や、その男奴隷、その牛、そのろばを欲しがらなかったことがあるだろうか? 私たちはみな、律法のあらゆる文字について咎を有している。私たちはみな、ひとり残らず戒めにそむいてきた。そして、もし私たちがこうした戒めの意味を理解したとしたら、また、それらが私たちを罪に定めていることを感じたとしたら、それらは私たちに自らの危険を示し、そのようにして私たちをキリストのもとに逃れさせるという、有益な影響を及ぼすであろう。話をお聞きの方々。この律法はあなたを罪に定めていないだろうか? なぜなら、もしあなたがその文字を破ったことがないと云うとしても、それでもあなたは、その精神には違反してきたからである。何と、あなたが一度も人殺しをしたことがなくとも、それでも、自分の兄弟に向かって腹を立てる者は人殺しだと告げられているのである[マタ5:22]。ある黒人がかつて云ったように、「先生。おらは人を殺してねえ――そこんとこでは、罪がねえと思ってましただ。けど、自分の兄弟を憎むもんは人殺しだって聞いた以上、おらには咎があると大声で云いますだ。なぜって、おらは、朝飯前に二十人くらいは、ざらにぶち殺してきたからですだ。そんだけ大勢の人間に向かっ腹を立てることがざらにありますだ」。この律法は、単にそれが言葉として云っていることを意味するだけでなく、その腹の底に深いものを秘めている。「姦淫してはならない」、と律法は云う。だが、イエスが云われたように、それはこう意味しているのである。「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」[マタ5:28]。「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」、と律法は云う。だがそれは、私たちが、あらゆる場所で神を崇敬し、自分の目の前に神に対する恐れをいだき、常に主の儀式に敬意を表し、絶えず神を恐れ、神を愛しながら歩むことを意味しているのである。左様。私の兄弟たち。確かに、この場には、「私は無罪です」、と云って自分を義としようとするほど無鉄砲な人はいないに違いない。律法の精神は、私たちを罪に定めている。そして、このことは律法の有益な性質である。それは私たちをへりくだらせ、自分に咎があることを私たちに知らせ、そのようにして、《救い主》を受け入れるように私たちを導くのである。

 さらに、よく聞くがいい。私の兄弟たち。この律法に一度違反しただけでも、私たちを永遠に罪に定めるのに十分である。律法を1つの点で破る者は、すべてを犯した者となったのである[ヤコ2:10]。律法は、私たちがあらゆる戒めに従うよう要求しており、その1つでも破られれば、そのすべてが傷つけられたのである。それは、精妙な細工の花瓶に似ている。それを破壊するには、粉微塵に砕く必要はない。ほんのちょっと割っただけで、その完璧さを破壊したことになるのである。それは、私たちが従うように、しかも完璧に従うように命ぜられている完璧な律法である。それゆえ、その1つにでも違反するなら、自分に願える限り最高に純潔であったとしても、律法から期待できるのは、この声だけである。「あなたがたは罪に定められている。あなたがたは罪に定められている。あなたがたは罪に定められている」。この問題のこうした面に照らせば、律法は、私たちの中の多くの者らから、あらゆる誇りをはぎ取らないだろうか? 一体だれが、自分の場所から立ち上がって、「主よ。私はほかの人々のようではないことを、感謝します」*[ルカ18:11]、などと云うだろうか? 確かにあなたがたの中には、家に帰ってこのように云える者はいないに違いない。「私は、はっか、クミンの十分の一を納めてきました。戒めはみな、小さい時から守っております」*[マタ23:23; マコ10:20]。しかり。もしこの律法が良心と心に突き入ったとしたら、私たちはあの取税人とともに立ち、「主よ。こんな罪人の私をあわれんでください」*[ルカ18:13]、と云うであろう。ある人が自分は義であると考える理由は、その人が律法を知らないということに尽きる。人が律法を一度も破ったことがないと思うのは、それを理解していないからである。あなたがたの中のある人々は、ことのほか上品な人々である。あなたは、自分があまりにも善良なので、自分自身の行ないで天国に行けるものと考えている。それをそのまま口にしはしないであろうが、ひそかにそう考えている。あなたは信心深げに礼典にあずかり、自分の教会あるいは会堂に定期的に出席することによって大きな敬神の念を示しており、貧者には善を施し、気前良く、廉直であり、「私は自分の行ないによって救われるだろう」、と云っている。否。方々。モーセが見た炎を眺めて、縮み上がり、震えて、絶望するがいい。律法は、私たちを罪に定める以外、私たちのために何も行なうことができない。それがせいぜいできるのは、私たちを自分の誇る自己義から叩き出し、キリストのもとに追い立てること止まりである。それは私たちの背中に重荷を負わせ、キリストによってそれが取り除かれるよう私たちに願わせる。それは槍状刀のように傷口を探り調べる。たとえて云えば、どこかの暗い地下室が、何年もの間、開かれることなく、ありとあらゆる忌まわしい生き物で一杯になっている場合、私たちがそこに足を踏み入れても、そうしたものの存在に気づかないようなものである。しかし、律法がやって来て、鎧戸を開け、光を射し込ませるとき、私たちは自分にいかに下劣な心があるかを悟り、自分の生き方がいかに汚れたものであったかを悟るのである。そしてそのとき私たちは、誇る代わりに、地に顔を伏せて、こう叫ばされる。「主よ。お救いください。さもなければ、私は滅びてしまいます。おゝ、あなたのあわれみのゆえに私を救ってください。さもないと、私は打ち捨てられてしまいます」。おゝ、あなたがた、今この場にいる、自分を義とする人たち。自分は善良なので、自分の行ないで天に上れるはずだと考えている人たち。――製粉所で永久にぐるぐる回り続け、一吋も進歩することのない盲目の馬たち。――あなたは、サムソンがガザの門をその肩に負ったように、律法を自分の肩の上に負おうと考えているのだろうか? 神のこの律法を自分が完璧に守れると想像しているのだろうか? 自分がそれを破ったことがないなどと云うつもりだろうか? 否。確かにあなたは、小声ではあっても、「私はそむいてきました」、と告白するであろう。ならば、このことを知るがいい。律法は、赦しという件においては、あなたにとって何の足しにもならない。それに行なえることは、せいぜいここまでである。それは、あなたが全く無であると感じさせることができる。あなたを痛めつけることができる。あなたを殺すことができる。だがそれは、決して生かすことも、着物をまとわせることも、きよめることもできない。――それは、決してそうしたことをするためのものと意図されはしなかった。おゝ、話をお聞きの方々。あなたは今朝、罪ゆえに悲しんでいるだろうか? 自分には咎があると感じているだろうか? 自分のそむきの罪を認めているだろうか? 自分のさまよいを告白するだろうか? ならば、私が神の使節として語る言葉を聞くがいい。神は罪人たちをあわれんでくださる。イエス・キリストは、罪人を救うためにこの世に来られた[Iテモ1:15]。あなたは律法を破ってきたが、キリストはそれを守られた。いまキリストのもとに来るがいい。服を脱がされ、裸にされた者たち。あなたを覆うものとして、キリストの衣を取るがいい。キリストのもとに来るがいい。どす黒く、不潔な者たち。罪と汚れをきよめるために開かれた泉[ゼカ13:1]で自分を洗うがいい。そのときあなたは、「律法とは何か」を知るであろう。これが第一の点である。

 II. さて、第二の点として、律法は、生き方を改めることで救われようとする望みを皆殺しにする役に立つ。ほとんどの人は、自分に咎があることを悟ると、生き方を改めますと明言する。彼らは云う。「私には咎があり、神の御怒りに値していますが、今後は、過去のあらゆる罪を埋め合わせるような功徳を積むことにします」。だが、やがて律法は、その手を罪人の口に当てて云う。「黙れ。あなたにそんなことはできない。それは不可能である」、と。律法がいかにしてこのことを行なうかを示してみよう。律法はこのことを、部分的には、人にこう思い起こさせることによって行なう。すなわち、将来の従順は、過去の咎の償いにはなりえない。貧しい人でも私の云うことを完全に理解できるように、素朴な比喩を用いてみよう。かりにあなたが、ある店へのつけを溜め込んでいるとする。よろしい。あなたにそれを支払うことはできない。そこであなたは店主のブラウン夫人のところに行き、彼女に向かって、「あのう、ほんとに申し訳ありません。主人が失業中なもので」、とか何とか云い、「確かに、お宅へのお支払いは全くできません。お宅には、たいへんな借りがあります。ですが、もし奥様さえよろしければ、もしお宅様がこの借金を帳消しにしてくださるなら、これからは二度とつけを不払いにしたりいたしません」。「そりゃ結構」、と店主は云うであろう。「だけど、それじゃ、あたしたちの勘定が精算されたことにゃならないよ。これからきちんとつけを払ってくれることには、何の文句もないさ。だけど、これまでのつけはどうなるのさ? そっちの片はどうやってつけるのさ? これから先いくらきちんと支払うったって、これまでのつけを返したことにゃならないよ」。これこそ、人間が神に対して行なうことにほかならない。彼らは云う。「確かに私は、大きく道を踏み外してきたことは知っています。ですが、そうしたことは、もう行ないません」。あゝ、いいかげんにそうした子どもじみた口のきき方を投げ捨てるべきである。そのように希望するのは、どうしようもない愚かさを露呈することにほかならない。あゝ、否。古い借金は何としても支払われなくてはならない。神の正義は融通がきかず、律法があなたに告げるところ、あなたがいかなる美徳を身につけようと、過去の償いにはならない。あなたは主キリスト・イエスを通して償いをつけるしかない。「しかし」、とその人は云うであろう。「私は努力して、もっと良くなろうとします。そうすれば私にはあわれみが与えられると思います」。そのとき律法は進み出て、こう云う。「お前が努力して私を守ろうとするだと? 何と、人よ。お前にそんなことができるものか」。今後、完璧に従順になることは不可能である。そして、十戒が掲げられる。そして、目を覚まさせられた罪人であればだれしも、それを見るなり顔を背けて云うであろう。「これを守るなど私には不可能です」。「何と、人よ。あなたは今後従順になりますと云うのか。あなたは過去に従順ではなかったし、今後も神の戒めを守る見込みは全くない。あなたは、過去の悪をこれからは避けると云っている。そんなことはできない。『クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるだろう』[エレ13:23]」。しかし、あなたは云うであろう。「私は、自分の生き方にもっと気をつけます」。「そのようなことはない。昨日あなたを打ち負かした誘惑は、明日もあなたを打ち負かすであろう。しかし、よく聞くがいい。たといあなたにそうできたとしたも、それであなたが救いを勝ちとることはできない」。律法はあなたに告げる。あなたが完璧に従うのでない限り、自分の行ないによって救われることはできない、と。律法は、ただ1つの罪でも律法のすべてにひびを入らせると云う。ただ1つそむくだけでもあなたの従順全体を損なうことになる、と。あなたが天で着なくてはならないのは、しみ1つない衣である。全く破られたことのない律法しか、神は受け入れることがおできにならない。それで、律法は人々にこう告げる目的にかなっているのである。彼らがいかなる美徳を身につけ、いかに生き方を改善し、いかなる行為をしようと、それらはみな、救いの件においては何の役にも立たない、と。彼らはキリストのもとに来て、新しい心と正しい霊を得るべきである。悔いる必要のない福音的な悔い改め[IIコリ7:10]を得て、自分たちの信頼をイエスに置き、その血による赦しを受けるべきである。「では、律法とは何でしょうか」。それは、ルターが云うように、大槌としての役に立つ。知っての通りルターは、律法という主題について非常に強烈に語っている。彼は云う。「というのも、もしだれかが人殺しでも、姦通者でも、盗人でもなく、福音書で言及されているパリサイ人がしていたように外見上は悪を避けているとしたら、彼は自分が義であると断言し、そのため、義について自分なりの意見を有し、自分の善行や功績について思い上がるようになるからである。このような者を神が和らげ、へりくだらせ、自分の悲惨と断罪を認めさせることのできる道は、律法によるしかない。というのも、それこそ死の大鎚であり、地獄の雷鳴であり、神の御怒りの稲妻だからである。それが、頑固で無感覚な偽善者どもを粉微塵に粉砕するのである。というのも、人が義について自分なりの意見を有している限り、その人のうちには、果てしない高慢と、増上慢と、安心感と、神への憎悪と、神の恵みやあわれみに対する軽蔑と、約束やキリストとに関する無知とがとどまり続けるからである。キリストによる、無代価の罪の赦しの宣教は、そうした者の心に入って行くことができず、その人はその味わいや風味を感ずることもできない。というのも、その強大な岩および不屈の壁、すなわち、心を取り囲む、義についての自分なりの意見が、それに抵抗するからである。それゆえ、律法は大鎚となり、火となり、激しい大風となり、山々を裂き、岩々を砕く、かの恐ろしい地震となるのである(I列19:11、12、13)。そのようにして、高慢で、かたくなな偽善者たちが砕かれるのである。エリヤは、こうした事がらが象徴している律法の恐怖に耐えられず、外套で顔を覆った。それにもかかわらず、彼が見ていた嵐がやんだとき、そこには柔らかで、恵み深い風がやって来た。その中に主はおられた。だが、火と、風の嵐、そして地震が通り過ぎなくては、主がご自分をそのように恵み深い風の中で啓示することはおできにならなかった」。

 III. さて、もう一歩先に進もう。神の恵みを知っている人々は、この一歩においても、私について来ることができると思う。律法は、罪ゆえに人に降りかかる悲惨さを示すためのものである。私は、若輩者ではあるが、経験から語っており、私の話を聞いているあなたがたの中の多くの人々も、このことに注意深く耳を傾けるであろう。自分でも同じように感じたことがあるからである。かつて今よりも若かった頃の私には、罪の邪悪さを感じて非常に悲しんでいた時期があった。私は一日中呻いて、私の骨々は、疲れ果ててしまった。御手が昼も夜も私の上に重くのしかかっていた[詩32:3-4]。あるとき神は、数々の幻で私を焼き焦がし、数々の夢で私を恐怖させなさった。私は、昼は解放に飢え渇いた。私の魂が私の内側で絶食していたからである。私は、天空そのものが自分の上に落ちてきて、私の咎ある魂を押し潰すのではないかと恐れた。神の律法が私をつかんでおり、私の悲惨を私の上に撒き散らしていたからである。夜眠れば、底知れぬ所の夢を見たし、目覚めれば自分が夢に見た悲惨を感じるように思われた。私は神の家に行ったが、私の歌は呻きでしかなかった。私は自分の部屋に戻り、そこで涙と呻きとともに祈りをささげた。私には何の希望も、隠れ家もなかった。そのとき私はダビデとともにこう云うことができた。「ふくろうが私の仲間であり、針ねずみが私の道連れであった」。というのも、神の律法は、十叉の鞭で私を鞭打ち、それから私に塩水をすりこんでいたからである。それで私は苦痛と苦悶によって震えおののき、私の魂はいのちよりも、絞め殺される方を選んだ。悲しみのあまり死ぬほどだったからである。あなたがたの中のある人々は、同じ経験をしたことがあるであろう。律法は、そうしたことを行なうために送り込まれたのである。しかし、あなたは尋ねるであろう。「なぜそのように悲惨なのですか?」 答えよう。その悲惨さが送られた理由は、私がそれによってイエスを叫び求めるようにさせられるためであった。通常、私たちの天の御父が私たちにイエスを求めさせる場合、まず最初になさるのは、私たちを自分のあらゆる信頼から鞭で追い払うことである。神は、私たちに真剣に天国を求めさせる場合、まず私たちに、痛む良心の耐えがたい苦悶をある程度感じさせなさる。それは地獄の前味である。話をお聞きの方々。あなたは思い出さないだろうか? あなたが朝目覚めたとき、最初に手に取るものは、アリーンの『警告』か、バクスターの『未回心の者に対する召し』であった頃のことを。おゝ、こうした書物、こうした書物を、子どもながらに私は、咎の自覚の下で読んでは、むさぼり読んだ。だが、それはシナイ山の麓に座っているようであった。私は、バクスターに目を向けたとき、彼がこうしたことを語っていることに気づいた。――「罪人よ。考えてみよ。一時間もせずに、あなたは地獄にいるかもしれない。考えてみよ。あなたは、すぐに死ぬことになるかもしれない。――死は、今しもあなたの頬にかじりついている。《救い主》もなしに神の法廷に立つことになるとき、あなたは何をしようというのか? あなたは神に告げるのだろうか? 自分にはキリスト教信仰のために費やす時間などありませんでした、と。そのような空虚な云い訳は空中に溶けてしまうではないだろうか? おゝ、罪人よ。ならばあなたは、自分の《造り主》をあえて侮辱しようするのか? ならばあなたは、あえて神を鼻であしらおうとするのか? 考えてみよ。地獄の炎は熱く、神の御怒りは重い。あなたの骨が鉄だったとしても、あなたのあばらが青銅だったとしても、あなたは恐怖に震えるであろう。おゝ、あなたに巨人の力があったとしても、あなたに《いと高き方》と取っ組み合う強さはない。神があなたを引き裂き、あなたを救い出す者がだれもいないとき[詩50:22]、あなたはどうしようと云うのか? 神がその十門の大砲をあなためがけて発射するとき、あなたは何をしようというのか? 最初の戒めは云うであろう。『奴を粉砕しろ。奴は私を破った!』 第二戒は云うであろう。『奴を地獄に落とせ。奴は私を破った!』 第三戒は云うであろう。『奴は呪われよ。奴は私を破った!』 そのようにして、それらはみな、あなた目がけて一斉射撃するであろう。そしてあなたには、何の掩蔽物もなく、何の逃れ場もなく、何の希望もないであろう」。あゝ! あなたは、次のように始まる賛美歌ほど自分にあてはまるものがなかった日々のことを忘れてはいないであろう。

   「今うなだれよ、高ぶりし魂(たま)
    しばし語らえ、死をば相手に
    思えや、いかに あえぐ者らの
    息も苦しく 伏せたるかをば」

あるいは、

   「かの恐怖(まが)つ日は 確実(かた)く来らん
    定めの時刻(とき)ぞ 歩を速めたり。
    われは審きの 場にぞ立ちては
    過ぐすほかなし、すさまじ試練(とき)を」。

左様。それこそ律法が送り込まれた理由であった。――私たちに罪を確信させ、私たちを神の前で身震いさせ、おののかせることである。おゝ! 自分を義とする人たち。今朝、私に一言か二言、恐るべき燃える真剣さによって語りかけさせてほしい。思い出すがいい。方々。来たるべきその日には、これよりも莫大な数の群衆が地の平原に立つことになる。そのとき、大きな白い御座[黙20:11]に、かの《救い主》、人々の《審き主》がお座りになる。さて、その方がやって来られ、書物が開かれ、天の栄光が現わされる。それは、勝利せる愛に満ち、消えることのない復讐に燃えている。一万もの御使いたちが両方に居流れている。そしてあなたは、審問を受けるために立っている。さて、自分を義とする人よ。いま私に告げてみるがいい。自分は日に三度も教会に行っていました、と! さあ、人よ。いま私に告げるがいい。自分は戒めをみな守ってきました、と! いま私に告げるがいい。自分に咎はありません、と! あなたのはっか、あなたのいのんど、あなたのクミンの領収書を持って、主の前に出て行くがいい! さあ、来るがいい! あなたはどこにいるのか? おゝ、あなたは逃げて行く。あなたは叫んでいる。「岩々よ。私たちをかくまってくれ。山々よ。私たちの上に倒れかかってくれ」*[黙6:16]。人よ。あなたは何を求めているのか? 何と、あなたは地上では、誰ひとりあなたに語りかけようともしないほど麗しかったではないか。あなたは、あれほど衆にすぐれて美しい者だった。なぜあなたは逃げ出しているのか? さあ、人よ。勇気を奮い起こすがいい。あなたの《造り主》の前に出るがいい。この方に告げるがいい。自分は正直で、酒に酔わず、高潔だったので、救いに値しています、と。なぜあなたは、もう一度あの大口を叩くのを遅らせているのか? さあ、思い切るがいい。――さっさと云うがいい! 否。あなたは云おうとしない。私は今なおあなたが悲鳴をあげながら、自分の《造り主》の御前から逃げ出している姿が見える。ならば、このお方の前に、自分自身の義をまとって立てる者はだれひとり見つからないであろう。しかし、見よ! 見よ! 見よ! 私はひとりの人が、そのごたまぜの群衆の中から前に進み出てくるのが見える。その人は、しっかりとた足どりで前にやって来る。その目は微笑んでいる。何と! 神のあの恐ろしい裁判所に近づこうなどとする者がいるというのか? 何と! 自分の《造り主》の前に立とうなどとする者がいるのか? しかり。ひとりの人がいる。この人は前にやって来ては、こう叫ぶ。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」[ロマ8:33]。あなたはぞっとしないだろうか? 御怒りの山々が彼を呑み込んでしまうではないだろうか? 神は、かの恐ろしい雷撃を彼めがけて投げつけないだろうか? 否。彼が自信をもって語り続けることに耳を傾けるがいい。「罪に定めようとするのはだれですか。キリスト・イエスが死んでくださった、いや、よみがえられたのです」*[ロマ8:34]。そして私は、神の右の御手が差し伸ばされているのが見える。――「さあ、祝福された人たち。あなたがたのために備えられた御国に入りなさい」*[マタ25:34]。今こそ、かつてあなたが甘やかに歌ったあの詩句が成就するときである。――

   「かの日も大胆(つよ)く われは立たん!
    そは誰(た)ぞわれを 非難(せ)めうべき。
    汝が血のまたく われ解(と)きたるに、
    罪のすさまじ 呪い、恥辱(はじ)より」。

 IV. さて今、愛する方々。私はあなたをうんざりさせているのではないかと心配している。それゆえ、もう1つの考えたいことは手短に示唆しよう。「では、律法とは何でしょうか」。それが世に送り込まれたのは、ひとりの《救い主》の価値を示すためである。宝石の下に敷かれた金属の箔が、その宝石を引き立たせるように、また、暗い点々があることによって、色調の明るさが増して見えるように、律法はキリストをより麗しく、より天的に見せる。私に聞こえる神の律法の呪い声は、何と耳障りなことであろう。だが、「わたしのところに来なさい」*[マタ11:28]、と云われるイエスの御声は、おゝ、何という調べであろう! 律法の不協和音の後では、ひときわ妙なる響きに聞こえる。私には律法が人を罪に定めるのが見える。だが、キリストが律法に従っている姿も見える。おゝ! 罪に定められている者らの途方もない重量を考えるとき――いかにその代価が重く思われることか。私は、かの戒めを読むとき、それがいかに厳格で、すさまじく峻厳であるかに気づく。――おゝ! 私のため、これらすべてに従わなくてはならかったとは、いかにキリストは聖なるお方であったに違いないことか! この世の何にもまして、私に私の《救い主》を尊ばせるのは、律法が私を罪に定めている有り様である。この律法が私の道の前に立ちはだかり、燃える智天使のように私をパラダイスに入れさせまいとしていることを悟るとき、私には分かるのである。天国への旅客券であり、そこに入る恵みを私に与えてくれる、イエス・キリストの義がいかに甘やかで尊いものであるかを。

 V. そして最後に、「では、律法とは何でしょうか」。それがこの世に送り込まれたのは、自分を義とする思いからキリスト者を守るためである。キリスト者たる人たち。――彼らが自分を義とするようなことがあるだろうか? しかり。それはある。この世で最上のキリスト者たる人でさえ、自分を誇らせないようにしておくこと、自分を義としないようにしておくことは困難であることに気づくであろう。ジョン・ノックスも、臨終の床において、自分を義とする思いの攻撃を受けた。その地上における最後の夜、何時間か眠りについた彼は、その間、何度となく深く、重苦しい呻き声をあげた。なぜあれほど重い呻きをあげたのかと問われて彼は答えた。「私は今までの人生で、数多くのサタンの襲撃を経験してきたが、現在、サタンはこれまでにない猛攻をしかけてきているのだ。その全力を傾けて私を一気に押しつぶそうとしているのだ。あの狡賢い《蛇》は、私を説得して、私が自分の伝道活動の忠実に果たしたからこそ、天国と永遠の祝福に入る功徳を積んだのだと説得しようと努めている。しかし、神はほむべきかな。神はこのような箇所を私に示して、この火の矢を私が消せるようにしてくださった。『あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか』[Iコリ4:7]。また、『神の恵みによって、私は今の私になりました』[Iコリ15:10]」。しかり。そして私たちもみな同じように感じてきた。私はしばしば一部の兄弟たちによって面白がらされることがある。彼らは私の所にやって来ると、「きっと主は、あなたが高ぶらせないようにしてくだいますよ」、と云う。それでいながら彼ら自身は、自分の身長と同じくらい、否、それより数吋増しで高ぶっているのである。彼らは真剣この上もなく、私が高ぶらないようにと祈っている。だが、当の本人は、知らず知らずのうちに、自分は世間でへりくだった人と思われているはずだと考え、心に高ぶりをいだいているのである。私は、人に向かってへりくだるように懇願することはとうの昔にやめている。なぜなら、それは自然と彼らを高ぶらせがちだからである。人はこう云うものである。「オヤオヤ。この人たちは私が高ぶるのではないかと心配している。ならば私には、何か誇れることがあるに違いない」。それで私たちは内心こう云うのである。「彼らには、これを知らせないでおこう」。そのようにして私たちは、私たちの高慢を引き下げておこうとするが、結局、内側では明けの明星[イザ14:12]と同じくらい高慢なのである。私の見いだすところ、最も高慢で、最も自分を義としている人とは、自分自身が善良であると考えていることなど、おくびにも出さず、毛ほどもそのような素振りをしていない人にほかならない。ヨブ記にある古い真理は今も真実である。知っての通り、ヨブ記の冒頭ではこう語られている。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていました」[ヨブ1:14]。これがこの世の習いである。牛は教会の中で耕している。――私たちの中には、キリストのために激しく働いている人々が何人かいる。――また、ろばはそのそばで草を食べている。国中で、最も洗練された生き方をし、最も裕福な暮らしをしている。これらは、自分の義について、得々と語れる人々である。彼らは何をしているだろうか? 彼らは自分の生計を立てることもしていないのに、天国を稼ぎとれるつもりなのである。彼らは、どっかり座って腕組みをしているが、非常に敬虔な義人なのである。なぜなら、確かに彼らは、少々は施しをするときもあるからである。彼らは何もしていないくせに、自分の義について誇っている。キリスト者たる人々も、それと同じである。もし神があなたをよく働く者とし、常にご自分への奉仕に携わらせてくださるとしたら、あなたは、何もしていない場合にくらべれば、自分自身の義についてさほど高慢にならないものである。しかし、いついかなる時も、人は自然とそちらに傾くものである。それゆえ、神は律法をお書きになり、それを読むとき私たちが自分の過ちを見てとるようにしてくださった。私たちがそれを眺めるとき、鏡を見るかのように自分の肉の汚れを見てとり、荒布を着、灰をかぶって自分を忌みきらい、それでもイエスに向かってあわれみを叫び求めるようになるためである。このようなしかたで律法を用い、それ以外のためには用いないようにするがいい。

 さて、ここである人は云うであろう。「先生。先生が特に説教を語りかけたいと思う者はいないのですか?」 しかり。私は人々に説教を語りかけるのを好んでいる。説教を人々に云いっ放しにすることは何の役にも立たないと思う。人々の心に説教を突き入れ、人々に説教を突きつけることである。見れば、いかなる種別の集団の中にも、歯に衣着せずにこう云っている人々がいる。「ええ。私はこの教区の中の誰にも負けないくらい善良な父親であり、善良な商売人ですとも。私は掛け値なしの正直者です。私はジョン・ディーン・ポール卿[英国中央銀行総裁]のような輩とは違います。私は教会に、あるいは会堂に通っています。これは、そんじょそこらの人間にはできないことです。私は寄付もしています。――施薬所のために寄付をしています。祈りも唱えてます。ですから、私はこの世の誰にも負けずに天国に立てる見込みが大きいと信じています」。私は、ロンドンの中の、四人のうち三人は、こうした種類の考え方を何かしらしていると思う。さて、もしそれがあなたの信頼の基盤だとしたら、あなたの希望は腐っている。あなたが足場にしている板材は、神の精算の日には、あなたの重みに耐えきれないであろう。私の仕えている、主なる私の神に誓って云うが、「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません」[マタ5:20]。そして、もしあなたがたが、自分の手の最高のわざによって自分は救われると考えているとしたら、このことを知っておくがいい。すなわち、「イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした」[ロマ9:31]。そして、それを追い求めなかった者たちが、それに到達した。なぜだろうか? 一方の者は信仰によって追い求め、もう一方の者は、義認を決して見いだせない、律法の行ないによって追い求めたからである。さあ、方々。福音を聞くがいい。あなたの義の誇りを追い払うがいい。それから生じたあなたのあらゆる信頼ととともに、あなたの希望など捨て去るがいい。――

   「燃ゆる熱心(おもい)も
    たぎつ涙も
    罪あがなえじ
    主のみ救わん」。

 もしあなたがたが、いかにして救われるべきかを知りたければ、このことを聞くがいい。――あなたがたは、自分自身のものを何も持たずにキリストのもとに行かなくてはならない。キリストは律法を守られた。あなたは、キリストの義を自分の義として持たなくてはならない。キリストは、悔い改めるすべての者に代わって苦しみを受けた。キリストが罰を受けたのは、あなたが罰を受ける代理として立つためである。そして、キリストの聖めと贖罪を信ずる信仰によって、あなたは救われるのである。ならば来るがいい。あなたがた、疲れた者、重荷を負っている者、堕落によって痛めつけられ、切り苛まれている者。ならば来るがいい。あなたがた、罪人たち。ならば来るがいい。あなたがた、道徳家たち。ならば来るがいい。あなたがた、神の律法を破り、それを痛感しているすべての人たち。自分自身の信頼をみな置き去りにし、イエスのもとに来るがいい。主はあなたを迎え入れ、あなたにしみ1つない義の衣を与え、あなたを永遠にご自分のものとしてくださる。「ですが、どうやって行けばいいのです?」、とある人は云うであろう。「私は家に帰って祈らなくてはなりませんか?」 否。そうではない。否。あなたがいま立っているその場で、あなたは十字架のもとに来ることができる。おゝ、もしあなたが自分は罪人であると分かっているとしたら、今――私は切に願う。あなたが立っている床の上からあなたの足が離れる前に――今、こう云うがいい。――

   「われは御腕に わが身を投げん。
    有罪(あ)しきわが魂(たま) 主よ。救いませ」。

さあ、あなたを打ち倒すがいい。あなた自身の義を追放するがいい。私を見るがいい。――いま、見るがいい。「私は天に上って、キリストを引き降ろさなくてはならないのではないだろうか?」*、と云ってはならない[ロマ10:6]。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で信じるなら、あなたは救われる」*[ロマ10:8-9]。しかり。あなたが――あなたが――あなたが。おゝ! 私は神をほめたたえる。私たちはこの場所でキリストを信じた何百人もの人々の話を聞いてきた。人間という種族の中でも、最もどす黒い人々の何人かが、ごく最近私のもとにやって来ては、神が自分たちのために何をしてくださったかを告げてくれた。おゝ、あなたも今、イエスのもとに来るとしたらどんなに良いことか。覚えておくがいい。信じる者は、その罪がいかに多くとも救われ、信じない者は、その罪がいかに少なくとも滅びなくてはならないのである。おゝ、聖霊があなたを導いて信じさせてくださるとしたらどんなに良いことか。そのようにして、あなたが必ず来る御怒りからのがれることができ、贖われた者たちとともにパラダイスにいられるようになるとしたら!

  

 

律法の効用[了]

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