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霊的復活

NO. 127

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1857年4月12日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「神はあなたがた、自分の罪過と罪との中に死んでいた者を生かしてくださいました」。――エペ2:1 <英欽定訳>


 本日は普通、復活祭日と呼ばれており、当然私は、この日の主題として復活を選ぶはずだと期待されるかもしれない。だが、私はそうはしない。というのも、確かに先に読み上げた箇所は、その栄光に富む主題に言及してはいるが、私が思いに迫りを感じた主題はキリストの復活ではないからである。それは、ある程度はそれとつながりのある主題――すなわち、失われ、滅びた状態にある人が、神の御霊によってこの現世で復活させられることなのである。

 見れば分かるように、ここで使徒はエペソ教会について語っており、実際、キリスト・イエスにあって選ばれ、キリストによって受け入れられ、キリストの血によって贖われたすべての人々について語っている。そして、この人々について彼はこう云っているのである。「神はあなたがた、自分の罪過と罪との中に死んでいた者を生かしてくださいました」。

 死んだからだは、何と厳粛な光景を私たちの前に呈することであろう! 昨晩、このことを眼前に描き出そうとしていた私は、全く心を圧倒されてしまった。圧倒的に思われたのは、じきに私のこのからだが、うじ虫たちの謝肉祭となるのだということ、いま私の眼球が輝きを放っているここや、その外側で、けがらわしいものや、忌まわしいものから生じたものらが這いずり回るのだということ、このからだが死んで動かなくなり、冷たくなり、卑しむべきものとなり、活気のないものとならざるをえないということ、そしてそれが、不快な、吐き気を催すようなものとなり、私を愛してくれていた人々からさえ、打ち捨てられるものとならざるをえず、彼らが、「その死体を私の目につかないところに埋めてくれ」、と云うであろうということである。ことによるとあなたは、私があなたに差し出しているこの瞬間には、そうしたことを、自分に当てはめて考えることがほとんどできないかもしれない。これは奇妙なことに思われるではないだろうか? 今朝この場所まで闊歩してきたあなたが、自分の墓場へと、かつぎ出されていくのである。いま私を見つめているあなたのその目が、永遠の闇の中でどんよりと生気を失うことになるのである。たった今、歌を歌って動いていた舌が、たちまち沈黙せる土くれの塊となるのである。そして、今この場に立っている、あなたの強壮で頑丈なからだが、じきに筋肉をぴくりとも動かせなくなり、忌まわしいしろものとなり、うじ虫の兄弟となり、腐れの姉妹となるのである。あなたには、そんな考えは、到底理解できない。死が私たちに対して行なうに仕業のすさまじさ、それがこの定命の枠組みを破壊する野蛮さ、それが神の築き上げたこの麗しいものを粉砕する物凄さは、人がその破滅的なわざを熟考することに耐えられないほどである。

 それでも可能な限り、人の死骸がいかなるものかを努めて思い描いて見るがいい。そうした上で、それが本日の聖句で用いられている比喩であることを、ぜひ理解してほしい。それは、生まれながらのあなたの魂の状態を云い表わしているのである。そのからだが死んでおり、動くことも何もできず、何も感じず、たちまち腐敗して腐っていくように、私たちも、天来の恵みによって生かされない限り、それと全く同じようなものなのである。罪過と罪との中に死んでおり、自らのうちに死をかかえ、罪と邪悪の度をいや増し加えかねない。この場にいる私たちはだれしも、神の恵みにとらえられない限り、最後には忌まわしいしろものになり果ててしまう。自然の腐敗作用によって屍が忌まわしいものとなるのと全く変わらず、罪と邪悪によって忌まわしいものとなるのである。こう理解するがいい。聖書の教理によると、生まれながらの人は、堕落からこのかた、死んでいるのである。腐った、滅んでいる者なのである。霊的な意味では、完全に、余すところなく死んでいるのである。もし私たちの中のだれかが霊的ないのちに至るとしたら、それは神の御霊の生かす働きによるしかなく、それは、父なる神のみこころによって主権的に授けられることである。私たち自身のいかなる功績によるものでもなく、完全に神の満ちあふれる無限の恵みから出たことである。

 さて今朝の私は、退屈な話をしないと思う。私はこの主題を、可能な限り興味深いものとするように努め、なるべく手短に語りたいとも思う。今朝の一般的な教理を一言で云うと、この世に生まれたあらゆる人は霊的に死んでおり、霊的ないのちは聖霊によって与えられるしかなく、他のいかなる源からも得られない、ということである。その一般的な教理を私は、いささか風変わりなしかたで例証することにしよう。あなたは、私たちの《救い主》が三人の死者をよみがえらせたことを覚えているであろう。最初は、あのヤイロの娘であった少女である。彼女は、死んでその寝床に横になっていたとき、キリストが一言、「タリタ、クミ!」、と仰せになるだけで、息を吹き返した[マコ5:41-42]。二番目は、あのやもめの息子である。彼は、その棺に横たわり、今にも墓場へとかつぎ出されていくところだったが、イエスは、「青年よ。あなたに言う、起きなさい」[ルカ7:14]、と仰せになることによって、彼をよみがえらせた。三番目の、最も記憶に残る場合は、ラザロの復活である。彼はその寝床の上にいたのでも、棺の上にいたのでもなく、墓の中にいた。左様。そして、腐ってもいた。だが、それにもかかわらず、主イエス・キリストは、その全能の御声によって、「ラザロよ。出て来なさい」[ヨハ11:43]、と叫ぶことにより、彼を墓の中から出された。私はこの3つの事実を例証として、みな完全に死んではいても、人々は異なった状態にあることを示してみたいと思う。第二に、そうした事実を例証として、確かに同じ大いなる作用因が用いられはしても、彼らをよみがえらせるために使われる恵みの手段は異なっていることを示すであろう。そして、第三のこととして、そうした事実を例証として、生かされた人々のその後の経験を示すであろう。というのも、それは、あらかた同じ体験ではあっても、いくつかの点で違いがあるからである。

 I. まず第一のこととして注意したいのは、《人々の生まれながらの状態》である。人々は生まれながらにみな死んでいる。そこにヤイロの娘がいる。彼女は死んでその寝床に横たわっている。彼女は、まるで生きているかのように見える。彼女の母親は、ほぼ絶え間なく彼女の額に口づけしている。彼女の手は、なおも父親の愛のこもった両手で握られている。そして彼は、娘が死んでいるとはとても思えない。だが彼女は、これ以上ないほどに死んでいる。次に来るのは、自分の墓へと運び出された青年の場合である。彼は単に死んでいるだけではない。腐り始めている。腐敗の徴候がその顔に浮き出ており、人々は彼をその墓へとかつぎ出しているところである。だが、彼の回りで死の現われがその度合を増しているとはいえ、彼は他の人々以上に死んでいるわけではない。彼は、全く同じように死んでいる。彼らはみな死んでおり、死には、実は何の程度の差もない。三番目の場合は、さらに死の現われの度を深めている。というのも、それはマルタが、あの強烈な言葉でこう云った場合だからである。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」[ヨハ11:39]。だがしかし、よく聞くがいい。ヤイロの娘は、ラザロと同じくらい死んでいたのである。死の現われは、彼女の場合それほど完全なものではなかったが関係ない。全員が同じように死んでいた。この場の会衆の中には、非常に恵まれた、見るからに麗しい人々がいる。麗しいというのは、その外見のみならず彼らの性格についても云っている。彼らは、すぐれて美しい、あらゆるものをただよわせている。だが、よく聞くがいい。もし彼らが未回心であるとしたら、彼らはやはり死んでいるのである。あの、部屋の中の、寝床の上で死んでいた少女は、その死を示すようなものを何もただよわせていなかった。愛する者の指は、まだ彼女のまぶたを閉じさせていなかった。摘み取られたばかりの百合の花のように、彼女の目には、まだ輝きが消えずに残っているように見えた。彼女は、生そのものと同じくらい麗しかった。うじ虫はまだ彼女の頬にかじりついておらず、その顔からはまだ赤みが薄れていなかった。彼女はほとんど生きていると云えた。この場にいる一部の人々もそれと同じである。あなたがたには、心が願える限りのものがある。どうしても必要な1つのことだけを除いては。あなたがたには何でもあるが、ただ《救い主》に対する愛だけは欠けている。あなたがたはまだ生きた信仰によって《救い主》に結びついていない。あゝ! ならば、こう云うのは嘆かわしいことながら、あなたがたは死んでいる! あなたがたは死んでいるのだ! 最悪の人間たちと同じくら死んでいるのだ。あなたの死がそれほどあからさまでなくとも関係ない。また、私が前にしている人々の中には、子どもの頃に死んだあの娘よりも上の年代に達した青年たちがいる。あなたは、多くの麗しいものをただよわせてはいるが、まさに悪習慣にふけり始めたところである。あなたは、まだ絶望的な罪人ではない。まだ他の人々の目にとって、完全に不快な者となってはいない。あなたは罪を犯し始めたばかりであり、自分の棺に載せられてかつぎ出されたあの青年のようである。あなたはまだ常習的な酔いどれではない。まだ神を呪ったり冒涜したりし始めてはいない。あなたは、まだ上品な社会で受け入れられている。まだ追い払われてはいない。だがあなたは死んでいる。徹底的に死んでいる。あの第三の、最悪の場合と全く同じくらい死んでいる。しかし、この場にいるある人々は、その場合の実例でもあるとあえて云いたい。墓の中には、腐って、悪臭を放つラザロがいる。そのように、一部の人々は、他の人にまさって死んでいるわけではないが、よりあからさまな死の様相を呈している。こうした人々の人格は、忌まわしいものとなっており、その行為は彼らに反対して叫んでいる。彼らは、たしなみのよい社会から追い出されている。石は彼らの墓の口に転がされている。人々は、彼らと近づきになることに耐えられないものを感じる。というのも、彼らは、あらゆる善の感覚を捨て去っており、私たちは、「そいつらを私たちの目の届かないところにやってくれ。私たちには、そいつらが我慢できない!」、と云うからである。だがしかし、こうした悪臭を放つ者たちも生きることができる。こうした最後の者たちは、あの寝床の上の娘にまさって死んでいるわけではない。確かに死は、その腐敗をより完全に露わにしているとはいえ、イエス・キリストは他の者たちと同様、こうした者たちをも生かして、彼らにご自分の御名を知らせ、愛させてくださるに違いない。

 1. さて今、私はこうした3つの場合の差異の詳細に立ち入ろうと思う。まず、あの少女の場合を取り上げよう。きょうのこの場には、彼女がいる。私が前にしている人々の中には、彼女の実例が大勢いる。少なくとも、いるはずだと思う。さて、そうした相違点のすべてを指摘させてもらえるだろうか。ここに、その少女がいる。彼女を眺めてみるがいい。あなたは、その光景に耐えられる。彼女は死んではいるが、おゝ! 美しさがそこにはとどまっている。彼女は麗しく、愛らしい。いのちが彼女から去っていても関係ない。あの青年の場合、そこには何の美しさもない。うじ虫は彼を食らい始めていた。彼の誉れは去っていた。第三の場合、そこには完全な腐れがあった。しかし、ここには、彼女の頬にはまだ美しさがある。彼女は愛すべきではないだろうか? 愛らしくはないだろうか? だれもが彼女を愛したがるではないだろうか? 称賛されるべき者、見習われるべき者でさえあるではないだろうか? 彼女は、だれにもまして麗しい者ではないだろうか? 左様。その通りである。だが、御霊なる神は、まだ彼女に目をかけてはおられない。彼女はまだイエスに膝をかがめてはいないし、あわれみを叫び求めてもいない。彼女にはあらゆるものがあるが、真のキリスト教信仰だけは欠けている。あゝ! 彼女は。あゝ! これほど麗しい者が死人であるとは。あゝ! わが姉妹よ。あゝ! あなたのように慈悲深く、親切な人が、それでも結局は、自分の罪過と罪との中で死んでいるとは。イエスがあの、戒めを全部守っていながら、ただ1つのことには欠けていた青年のために泣いたように、私も今朝あなたのために泣いている。あゝ! あなたがた、麗しい人たち。愛らしい性格をした人たち。立派なふるまいをしている人たち。なぜあなたは、死んで横たわっているのか? それは、キリストを信ずる信仰を持っていない限り、あなたは死んでいるからである。あなたの気高さ、あなたの美徳、そしてあなたの善良さは、あなたにとって何にもならない。あなたは死んでいる。死んでいるしかない。主があなたを生きた者としてくださらない限りは。

 また、この少女の場合、このことにも注意するがいい。私たちがあなたがたの前に提示したヤイロの娘は、今なお可愛がられていた。彼女は、ほんの一瞬か二瞬前に死んだばかりであって、母親はまだその頬に口づけしてやまない。おゝ! 彼女が死んだなどということがありえるだろうか? 涙が彼女の上に降り注いではいないだろうか? 死んだ大地に再びいのちの種を蒔こうとでもいうかのように。――それは、生きた涙の一滴でいのちを萌え出させんばかりに豊穣に思われる土地である。左様。だが、こうした塩辛い涙は、不毛の涙である。彼女は生きてはいないが、なおも可愛がられている。あの青年はそうではない。彼は棺に載せられている。もはやだれも彼に触れようとはしない。さもないと、触れた者は完全に汚れてしまう。そして、ラザロについて云えば、彼は石で閉じ込められている。しかし、この少女はなおも可愛がられている。あなたがたの中の多くの方々もそれと同じである。あなたは、シオンの生きた者たちによってさえ愛されている。神ご自身の民があなたを愛している。教役者はしばしばあなたのために祈っている。あなたは聖徒たちの集会に入ることが許されている。あなたは神の民として彼らとともに座っている。あなたは彼らが聞くように聞き、彼らが歌うように歌う。あゝ! あなたは。あゝ! あなたは。あなたがそれでも死んでいるとは! おゝ! 私は心から嘆いている。あなたがたの中のある人々は、心で願うことのできるすべてでありながら、ただ1つのことに欠けている。あなたを救い出せる唯一のことに欠けている。あなたは私たちによって可愛がられており、シオンの生きている者たちによって彼らの集いと交わりに迎え入れられ、認められ、受け入れられている。あゝ! あなたがなおもいのちを有していないとは! おゝ! あなたが救われたとしたら、最悪の者らとさえ声をそろえてこう云わなくてはならないであろう。「私は天来の恵みによって生かされました。さもなければ、私は決して生きることがありませんでした」、と。

 さて今、もう一度この少女を眺めてもらいたい。注意すべきことに、彼女はまだ死装束をまとってはいない。彼女は、ちょっと具合が悪くなって寝床についたときのままの服を着ていて、そのままそこに横たわっている。まだ顔おおいや屍衣で包まれてはいない。彼女はまだ寝間着を着ている。まだ死に明け渡されてはいない。向こうの青年はそうではない。――彼はその死装束をまとっている。ラザロはそうではない。――彼は手も足も巻かれている。しかし、この少女は、何の死装束もまとっていない。私たちが今朝語りかけたいと願っている年少の人々もそれと同じである。彼女はまだ悪習慣を有していない。まだその点まで達していない。向こうの青年は悪習慣に手を染め始めている。また向こう側の白髪の罪人は、そうした習慣で手も足も雁字搦めになっている。だが、なおも彼女は、まるで生きているかのように見える。彼女はまるでキリスト者のように行動している。彼女の習慣は麗しく、見目良く、整っている。彼女には不健全な部分がほとんどないように見える。悲しいかな! あなたが、その麗しい衣を着ていてさえ死んでいるとは。あゝ! 慈悲深さの花冠を額にかぶったあなたは――外見上のきよさという白い衣をまとったあなたは――、新しく生まれていない限り、なおも死んでいるのである。あなたの美しさは、しみに食われるようになくなってしまう[詩39:11]。そして、神があなたを生かしてくださらない限り、最後の審判の日にあなたは義人から切り離されるであろう。おゝ! 私には泣ける。人の道を踏み外させかねない、いかなる習慣も、今はまだ身につけることから免れているように見えるが、だがしかし、まだ生かされても救われてもいない年少の人々を思って泣ける。おゝ! うら若い青年たち、娘たち。願わくは、あなたがたが年若い時代に御霊によって生かされるように。

 また、もうひとたび注意したいのは、この少女の死が彼女の部屋の中に閉ざされた死だったということである。あの青年はそうではなかった。彼は町の門までかつぎ出されたところで、大勢の人々が彼を見ていた。ラザロもそうではなかった。ユダヤ人たちは、彼の墓に泣きにやって来た。しかし、この若い婦人の死は、彼女の部屋の中にあった。左様。私がいま描写しようとしている青年子女たちもそれと同じである。その人の罪はまだ隠れており、本人の中に保たれている。不義はまだ外に破れ出てはおらず、むしろ、心の中にその発端があるだけである。情欲の胚芽があるだけで、まだ行為となって吹き出してはいない。その若者は、まだ酔いの回る杯を飲み干したことはない。その甘さについて話に聞いたことはあるが。彼はまだ邪悪の道に陥ってはいない。そこへ押しやろうとする誘惑を受けてはいるが、まだ自分の罪を自分の部屋の中に保っており、そのほとんどは人目についていない。あゝ、私の兄弟よ。あゝ、私の姉妹よ。外見のふるまいは、これほど立派なあなたが、あなたの心の奥の間にはもろもろの罪を有し、あなたの存在の内奥には死があるとは。その死は、まだ徹底的な現われを見せてはいないものの、だれの目にも如実な罪人の死と同じくらい真実の死である。あなたが、こう云えるとしたらどんなに良いことか。「神は私を生かしてくださいました。私のいかなる麗しさ、私のいかなる気高さにもかかわらず、私は生まれながらに罪過と罪との中に死んでいたからです」。さあ、このことを心の奥底まで突き入れさせてほしい。この会衆の中のある人々のことを、私は非常な恐れとともに眺めている。おゝ! 愛する方々。私の大いに愛する方々。もう一度云うが、あなたがたの中には、心の願える限りのものを有していながら、ただ1つのことには欠けている人々が何人いることであろう。――あなたは私の《主人》を愛していない。おゝ! あなたがた、神の家にやって来ている、そして外見上は立派に見える若い青年たち。あゝ! あなたは。あなたが事の根幹を欠いているとは。おゝ! あなたがた、シオンの娘たち。いつも祈りの家に集っている人たち。おゝ! あなたが、自分の心にまだ恵みを有していないとは! 用心するがいい。私は切に願う。あなたがた、この上もなく麗しく、うら若く、高潔で、正直きわまりない人たち。あなたがたは死人とともに去って行かなくてはならない。いかにあなたがたが麗しく、美しくとも、生きていない限りは、打ち捨てられてしまう。

 2. このようにして、私は第一の場合について話し終えた。さて、第二の場合である、あの青年に移りたい。彼は他の人々にまして死んでいるわけではないが、さらに先へと進んでいる。さあ今、その棺を止めるがいい。あなたには彼を見つめることができない! 何と、その頬は落ちくぼんでいる。――そこには、うつろなものがある。まだふっくらと、赤みのさした頬をしていた、あの少女の場合とは違う。そして、その目は――おゝ! 何という闇がそこにはあることか! 彼を眺めてみるがいい。見れば、そこにかじりついたうじ虫がすぐに姿を現わし出すであろう。腐敗は、すでにその働きを始めている。この場にいる一部の青年たちもそれと同じである。彼らは、子ども時代の彼らではない。その頃の彼らの趣味は、正当で、ふさわしいものであった。だが、もしかすると彼らは、すでに見知らぬ女の家へと誘い込まれたことがあるかもしれない。彼らは、廉直さの通り道からそれるように誘惑されたばかりかもしれない。彼らの腐敗は、まさに吹き出したばかりであり、彼らは今や母親の云いなりになるのをいさぎよしとはしない。彼らの考えによると、道徳を縛る規則を守ることなど、お笑い草である! 俺たちは! 俺たちは自由だ、と彼らは云う。そして自由になる。陽気で、幸福な生活を送る。そのようにして、騒々しいが、邪悪な歓楽に走り、死の徴候を表にただよわせるようになる。彼らは、あの少女よりもさらに先へと突き進んでしまっている。彼女は、まだ麗しく美しかった。しかし、ここには死の爪痕がある。あの少女は可愛がられていたが、この青年はだれからも触られていない。彼は棺の上に横たわっている。人々は彼をかつぎ上げているが、彼に触れるのをひどくいやがっている。彼は死んでいる。彼が死んでいることはだれもが知っている。青年よ。あなたはそこまで達している。あなたは、善良な人々があなたに接するのをひどくいやがっていることが分かっている。ほんの昨日も、あなたの母上は、はらはらと涙を流しながら、あなたの弟に向かって、あなたのような罪を避けるように警告していた。あなたの妹は、今朝あなたに口づけしたとき、あなたがこの祈りの家で真人間になれるよう神に祈った。だが、あなたは最近、彼女があなたのことを恥ずかしく思っていることに気づいている。あなたの生き方があまりにも俗悪でよこしまなものになってきたため、彼女でさえそれにほとんど耐えられなくなっているのである。かつてはあなたを歓迎してくれた家々がある。かつて、あなたはそこで彼らとともに膝をかがめて家庭礼拝を行ない、あなたの名前も口にされていたものである。だが今あなたはそこに行こうとはしない。というのも、そこに行っても、よそよそしくあしらわれるからである。その家の善良な主人は、自分の息子をあなたとつき合わせることができないと感じている。というのも、あなたが彼を汚染してしまうからである。今や彼は、かつてのようにはあなたの隣に座ったり、高尚な事がらについて語り合ったりしない。彼は、あなたを礼儀上座らせておくだけである。彼は、いわばあなたから遠く離れている。彼は、あなたとは意気投合できないものを感じている。あなたは、少々疎遠にされている。完全に避けられているわけではない。まだ神の民の間で受け入れられてはいる。だが、そこには冷ややかさがある。それによって彼らが、あなたを生きた者と思っていないことは明らかである。

 そして、また注意するがいい。この青年は、自分の墓へとかつぎ出されてはいたが、あの少女のようではなかった。彼女は生きているときの衣服を着ていたが、彼は死装束をまとっていた。そのようにあなたがたの中の多くの人々も、邪悪な数々の習慣を身につけ出している。あなたは、すでに悪魔のねじ釘があなたの指をしめつけていることを知っている。かつて、それはあなたが抜き差しできるようにしか締めつけられていなかった。あなたは云った。自分は自分の快楽の主人なのだ。――だが今やあなたの快楽があなたの主人である。あなたの習慣は今や感心できるものではなくなっている。あなたはそれを知っている。私が今朝あなたに語っている間、あなたは罪ありとされている。あなたは自分の道が悪であると知っている。あゝ! 青年よ。あなたは確かに、公然たる放蕩者や絶望的に俗悪な者ほど遠くに達してはいないが、用心するがいい。あなたは死んでいる。死んでいるのだ! そして、御霊があなたを生かしてくださらない限り、あなたはゲヘナの谷に投げ込まれ、かの尽きることのないうじのえじきとなり、永遠に魂をむさぼり食われるのである。そして、あゝ! 青年よ。私は泣いている。あなたのために泣いている。あなたは、まだそれほど遠くには行っていない。人々から石を転がされて閉じ込められるほどではない。あなたはまだ不快な者にはなっていない。まだ、千鳥足で歩く酔いどれにも、冒涜を吐く不信心者にもなっていない。あなたは、《現実に》悪をただよわせてはいるが、行く所まで行ってはいない。用心するがいい。あなたは、なおも先に進んでいくであろう。罪はとどまるところを知らない。うじ虫がいるとき、あなたはそれに指を突きつけて、「止まれ。ここから先は食べてはならない」、と云うことはできない。しかり。それは食べ続け、あなたを完全に滅ぼすであろう。願わくは神が、今あなたを救ってくださるように。地獄が恋い慕い、天国だけが防ぐことのできる、かの末路へとあなたが至る前に。

 この青年について、もう1つ言及したいと思う。あの娘の死は、彼女の室内にあった。この青年の死は町の門にあった。最初の場合、その罪は隠れていたと私は語った。しかし、青年よ。あなたの罪はそうではない。あなたは、あなたの習慣が公然と邪悪なものとなるまでに進んでしまっている。あなたは、神の陽光の真前であえて罪を犯すようになっている。あなたは、他の一部の人々のようではない。――見たところ善良ではある。だが、あなたは外に出て行き、こう公言している。「私は偽善者ではないさ。悪を行なっても平気なのさ。自分が義人だなんて告白もしない。自分がごくつぶしの、ならず者だとは分かっている。むろん道を踏み外しているさ。町通りで罪を犯したって恥ずかしくもないね」。あゝ! 青年よ、青年よ! ことによると、あなたの父上は今こう云っているかもしれない。「あいつのために、私は死んでいたらよかったのに。――あいつも、これほど悪にのめりこむ前に、墓に埋められてしまっていればよかったのに! 私があいつを最初に見て、息子を得た喜びで目を輝かした次の瞬間に、あいつが病に打たれて死んでしまえばよかったのに! おゝ、あいつの幼い霊は天国に召されていればよかったのに。あいつが長生きをしたあげくに、私の白髪頭をこんな悲しみのうちに墓に下らせるくらいなら!」 町の門におけるあなたの気慰みは、あなたの父上の家にとって悲惨であり、世の前におけるあなたの歓楽は、母上の心に苦悶をもたらすであろう。おゝ、私は切に願う。止まるがいい。おゝ、主イエスよ! 今朝、その棺に手を触れ給え! その悪習慣に染まった何人かの青年を止めて、「起きなさい!」、と語り給え。そうすれば、彼は私たちと異口同音にこう告白するであろう。生きている者たちとは、罪過と罪との中に生きていたにもかかわらず、イエスにより、御霊を通して生かされた者たちです、と。

 3. さて私たちは第三の、そして最後の場合に移ろう。――《死んで葬られたラザロ》である。あゝ! 愛する方々。私は、墓の中のラザロを見せにあなたを連れて行くことはできない。近寄るな。おゝ、近寄るな! 一体どこへ逃げて行けば、あの鼻をなぐりつけるような亡骸の悪臭を避けられるだろうか? あゝ、どこへ逃れれば良いだろうか? そこには何の美しさもない。それは正視に耐えない。いのちの見かけさえ残されていない。おゝ、何と厭わしい光景! 私は、その描写を試みてはならない。それは言語を絶しており、あなたには衝撃的すぎるものとなろう。また私は、この場にいる何人かの人々の性格を語ることもあえてすまい。私は、あなたがたの中のある人々がしてきたことを告げるのを恥じるであろう。この世の不敬虔な者たちの何人かが常習的に行なっている、暗闇のわざを告げれば、この頬は血で紅潮するであろう。あゝ、死の行き着く果て、腐敗の行き着く果ては、おゝ、何と厭わしいことか。だが、罪の行き着く果ては、はるかにいやまして厭わしい! 一部の作家には、この泥をこねくりまわし、この穢い粘土を掘り出してくる才能があるように見受けられる。告白するが、私にはそうした才はない。私には、熟し切きった罪人の情欲や悪徳をあなたに向かって描写することはできない。告げることはできない。霊的な死がそのわざを完成させたとき、また、罪がその恐ろしい邪悪さのすべてをことごとく露わにしたとき、一体いかなる乱痴気騒ぎや、下劣な情欲や、悪魔的で、獣めいた罪に、悪人たちが突き進んでいくかを。この場には、そうした人々が何人かいるであろう。彼らはキリスト者ではない。あの少女のように、今なお頬ずりされてもいない。また、あの青年のように、葬儀の列の中にありもしない。しかり。彼らは、上品な人々から避けられるまでになっている。彼らの細君すら、彼らが家に入ってくると、彼らと出くわさないように階上に駆け上がっていく。彼らは軽蔑されている。遊女はそうした者である。往来で会う者は顔を背ける。公然たる放蕩者はそうした者である。彼から私たちは非常に遠ざかり、決して彼に触れないようにする。彼ははるか遠くに行ってしまった者である。その石は彼の前に転がされている。だれも彼を上品だとは云わない。彼は、ことによると、薄汚い路路裏の貧民窟のどこかに住んでいる。彼はどこに行くべきかを知らない。この場に立っていてさえ、彼は、自分の隣の人が自分の咎を知ったとしたら、自分に近寄ろうともせず、遠巻きにするだろうと思う。というのも、彼は行き着く所まで達してしまっているからである。彼には、いのちの徴候が何もない。腐り果てている。そして、見るがいい。あの少女の場合、罪は部屋の中に隠れていた。また、次の場合、罪は表通りで公然とあった。だが、この場合、罪は再び隠れている。それは墓の中にある。というのも、注意すると分かるように、人々は、悪の道を中途まで行くときには、それを公然と行なうが、行き着く所まで行くと、彼らの情欲があまりにも下劣なものとなるため、それらは秘め隠されざるをえないのである。それらは墓の中に入れられ、すべてが隠匿される。彼らの情欲は、真夜中にしか犯せないもの、暗闇の驚愕する帳で覆い隠されたとき以外には行なえないものである。この場に、そうした人がいるだろうか? そうした人々が数多くいるかどうかは分からない。だが、それでも何人かはいるであろう。あゝ! 悔悟した人々の訪問をひっきりなしに受けている私は、時としてこのロンドンという町のために赤面することがある。一部の商人たちの名前は大いに尊敬され、世評も高い。だが、このことを告げて良いだろうか? それは、非常に信頼できる、また、この上もなく真実な筋から聞いたことである。広壮な住宅を構え、取引所では令名も高く、名誉ある人物で通っている一部の人々、だれもが認め、だれもが自分たちの社交の場に受け入れている一部の人々、だが、あゝ! そうしたロンドンの商人たちのある人々は、忌まわしい情欲のわざを行なっているのである。私の教会の中、私の話を聞く会衆の中には、――そして私は、人々が思い切って行なっていることを、思い切って云うが、――私の会衆の中にいる一部の婦人たちが身を持ち崩し、破滅した元凶は、こうした最も立派な社交界の最も立派な人々の中の何人かだったのである。これほど大胆なことを云おうとする者など、まずいないであろう。だが、もしあなたが大胆にもそうしたことを行なうというのなら、私も大胆にそのことについて語らなくてはならない。神の使節が口を拭っているのはふさわしくない。人々が大胆に罪を犯すように、神の使節は大胆に叱責するがいい。あゝ! ある人々は《全能者》の鼻腔にとって悪臭を放つ者である。ある人々の人格は、ありとあらゆる厭わしいものを越えて厭わしいものである。彼らは秘密の墓の中に押し隠されなくてはならない。というのも、人々がすべてを知ったとしたら、そうした人々を社会の爪弾きにし、怒りの声を上げて引っ込ませるだろうからである。だがしかし――そして、ここにこそ、ほむべき介入がやって来るが――、それでも、この最後の場合も、最初の場合のように、また、最初の場合と同じくらい容易に救われることができるのである。腐ったラザロは、眠っているあの娘が寝床から降りたのと同じようにその墓から出て来るであろう。最後の――この最も腐りきった、最も絶望的に忌まわしい――者も、やはり生かされ、この叫びに声を合わせることができる。「しかし私は生かされました。罪過と罪との中に死んでいたというのに」。私が伝えたいと思っていることを、あなたは理解してくれるものと思う。――死は、いかなる種別の人においても同じであるが、その現われは異なっている。そして、いのちは神から、神だけから、やって来るしかない。

 II. そして今、私たちはもう1つの点に移るであろう。――《生かすこと》である。この三人はみな生かされた。全員、同じお方によって生かされた。――イエスによってである。しかし、彼らはみな異なるしかたで生き返らされた。まず、あの寝床の上の少女に注目するがいい。彼女が生き返らされたときには、こう云われている。「イエスは、娘の手を取って、言われた。『少女よ。起きなさい』」*[マコ5:41; ルカ8:54]。それは、かすかな細い声であった。彼女の心臓はその鼓動を取り戻し、彼女は生き返った。それは、手で優しく触れることであった。――何の大っぴらな誇示もない。――また、柔らかな御声が聞こえた。――「起きなさい」。さて、通常、神は、罪の最初の段階にある、まだ悪習慣を身につけていない年少の人々を回心させるとき、それを優しいしかたでなさる。律法や、嵐や、火や、煙といった恐怖によってではなく、彼らをルデヤのようにされる。「主は彼女の心を開いて」[使16:14]、みことばを受け入れるようにされた。そうした者たちの上には、「優しき露が天から下界に降る」。かたくなな罪人たちの場合、恵みは彼らに打ちつける土砂降りのように下るが、年少の回心者たちの場合、それはしばしば優しくやって来る。そこには、霊の甘やかな息吹しかない。ことによると、彼らはそれが本物の回心であるとさえ思わないかもしれない。だが、それは、彼らが生き返らされるとしたら、本物なのである。

 さて、次の場合に注目するがいい。キリストは、ヤイロの娘に行なったのと同じことを、あの青年に対しては行なわれなかった。しかり。最初に主がなさったのは、その手を、彼にかけことではなかった。注目するがいい。主は、棺に手をかけられた[ルカ7:14]。すると、「かついでいた人たちが立ち止まった」。その後で、青年には触れることなく、主は少し大きな声で、「青年よ。あなたに言う、起きなさい」、と云われた。この違いに注意するがいい。あの少女の新しいいのちは、ひそかに彼女に与えられた。この青年のそれは、もっと公に与えられた。それは町の往来でなされた。あの娘のいのちは、優しく触れることによって与えられた。だが、この青年の場合、それは、彼に触れることによってではなく、棺に触れることによってなされなくてはならなかった。キリストは、この青年から彼の快楽の手段を取り去られる。主は、この青年に同伴する者たち――その悪い模範によって、彼を棺に載せて、その墓場までかついで行こうとしていた者たち――に止まるようにお命じになる。すると、そこには、しばし部分的な改革がある。そして、その後でやって来るのが、力強く、はっきり発された御声である。――「青年よ。あなたに言う、起きなさい!」

 しかし、そこに最悪の場合がやって来る。もしよければ時間のあるときに、自分の家で注意してみてほしい。この最後のラザロの場合に、キリストは、いかなる下準備をなさっただろうか? あの娘をよみがえらせたとき、主はその部屋に歩み入り、微笑みながら云われた。「死んだのではない。眠っているのです」[ルカ8:52]。主があの青年をよみがえらせたとき、主はその母親に、「泣かなくてもよい」[ルカ7:13]、と云われた。主が第三の場合に至ったときはそうではなかった。その回りには、格段に恐ろしいものがあった。それは、ある人が、その墓の中に入り、腐りつつある、ということであった。こうした折においてこそ、「イエスは涙を流された」[ヨハ11:35]、と書かれているのであり、主は、涙を流された後で、「心のうちに憤りを覚え」たと云われている。それから主は、「その石を取りのけなさい」、と云われた。そして、それに祈りが続いた。「わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っております」。その後で、注意してほしい。他の二例ではこれほど完全には云い表わされなかったものがやって来た。こう書かれている。「そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい!』」 他の場合には、主が大声で叫ばれたとは書かれていない。主は彼らに語りかけた。主のことばこそ彼ら全員を救ったものであった。だが、ラザロの場合、主は彼に大声で叫ばれた。さて、この場には、もしかすると、この最後の性格の者たちが何人かいるかもしれない。――最悪最低の者たちである。あゝ! 罪人よ。願わくは主が、あなたを生かしてくださるように! しかし、それは《救い主》を泣かせるみわざである。主が、咎のきわみまで行き着いてしまっているあなたがたの中のある人々を、罪というあなたの死の中から呼び出すために来られるときには、あなたのために涙を流し、ため息をつきながらやって来られるのである。そこには取りのけなくてはならない石がある。――あなたの悪しき邪悪な習慣の数々がある。そして、その石が取りのけられるとき、かすかな細い声では、あなたにとって役に立たない。それは、恐るべき大音声でなくてはならない。レバノンの杉の木を打ち砕くような主の御声[詩29:5]でなくてはならない。――「ラザロよ。出て来なさい!」 ジョン・バニヤンは、そうした腐った者らのひとりであった。彼の場合、いかに力強い手段が用いられたことか! 数々の恐ろしい夢、すさまじい痙攣、おこりのような身震い――こうしたすべてが彼を生かすためには用いられなくてはならなかった。だがしかし、あなたがたの中のある人々は、神がシナイの雷であなたを恐れさせるとき、神はあなたを愛していないのだと考えるであろう。そうではない。あなたが死に切っているので、あなたの耳を捕えるには大音声が必要とされたのである。

 III. これは興味深い主題である。私はこのことについて敷衍できたらと思うが、私の声は嗄れつつある。それゆえ、手短に第三の点に移らせてほしい。《この三人のその後の経験は異なっていた》。――少なくとも、キリストの命令からそう推察される。あの少女が生き返るや否や、キリストは、「娘に食事をさせるように」云いつけられた[ルカ8:55]。あの青年が生き返るや否や、「イエスは彼を母親に返された」[ルカ7:15]。ラザロが生き返るや否や、主は、「ほどいてやって、帰らせなさい」、と云われた[ヨハ11:44]。ここには何かがあると思う。まだ悪習慣になじんでいない年少の人々が回心させられたとき、――彼らが世の目にとって不快な者となる前に救われたとき、――その命令は、「彼らに食事をさせるように」、である。年少の者らには教えが必要である。彼らは、信仰に建て上げられることが求められる。彼らは一般に知識に欠けている。彼らは、年長の人々の深い経験を有していない。彼らは罪についてあまりよく知っていない。咎ある罪人だった年長者のようには、救いについてもあまり多く分かっていない。それで、幼い子羊が連れて来られたとき、教役者としての私たちの務めは、「わたしの小羊を飼いなさい」[ヨハ21:15]、との指示を思い起こすことである。彼らの世話をし、彼らにたくさんの食事を与えるがいい。若い人々よ。よく教えをしてくれる教役者を探し求めるがいい。よい教えに満ちた書物を探し求めるがいい。聖書を調べ、一心に教えられようとするがいい。それが、あなたの主たる務めである。「娘に食事をさせるように」。

 次の場合は、これとは違う。主はあの青年を母親に返された。あゝ! まさにそれこそ、青年よ。主があなたを生かされるときに、あなたに対してなさることにほかならない。あなたが確かに回心させられるとき、主はあなたを再びあなたの母親に返されるであろう。あなたは、あなたが幼子として最初に母上の膝の上にいたとき、母上とともにいた。そして、そここそ、あなたがもう一度行かなくてはならない場所である。おゝ、しかり。恵みは罪がほどいてしまった結び目をもう一度結びつける。かりに、ある青年が放蕩無頼の者となるとする。彼は妹の優しい影響力も、母親の慈愛に満ちた想い出も打ち捨ててしまう。だが回心させられたなら、彼が真っ先にすることの1つは、母親を探し出し、妹を探し出し、以前は決して分からなかったような、彼女たちとともにいることの魅力を見いだすことであろう。罪に陥っていた人たち。もし神があなたを救ってくださったとしたら、これをあなたの務めとするがいい。良い交友関係を求めるがいい。キリストがあの青年を母親に引き渡されたように、あなたの母なる教会を探し求めるがいい。可能な限りの努力を払い、義人の仲間に入るようにするがいい。というのも、あなたは、かつて悪い友人たちによって自分の墓へとかつぎ出されて行きつつあったように、良い友人たちによって天国に導かれていく必要があるからである。

 そしてそれから、ラザロの場合が来る。「ほどいてやって、帰らせなさい」。私は、なぜあの青年が全くほどかれることがなかったのか分からない。東方の習俗について書かれた、手持ちのあらゆる本を調べてみたが、この青年とラザロの違いについて何の手掛かりもつかめなかった。青年はキリストが語りかけられるや否や、「起き上がって、ものを言い始めた」。だがラザロは、その死装束をまとい、墓の壁龕に横たわっていたのであり、岩をくり抜いた穴から、ぎこちなく、すり足で出て来て、そこによりかかるしかなかった。彼はものを云うことができなかった。彼は顔を包む布で巻かれていた。なぜ、あの青年はそうなっていなかったのか? 私は、その違いが彼らの富力の差にあったのではないかという気がしている。あの青年はやもめの息子であった。まず間違いなく彼は、単にありきたりのもので包まれていただけで、ラザロのようにきつく巻き付かれてはいなかったのであろう。ラザロは富裕な家庭の一員であった。まず間違いなく人々は彼を格段に注意深く布で巻いたことであろう。これが正しいか正しくないか、私には分からない。私が示唆したいことはこうである。人が深々と罪の中に埋没してしまうとき、キリストは彼に対してこのことをなさる。――主は彼の数々の悪習慣を打ち破られる。まず間違いなく、この老いた罪人が経験することになるのは、食事をするような経験ではないであろう。聖徒たちとともに歩んでいくような経験でもないであろう。彼にできるのは、せいぜい、自分の死装束を脱ぎ、自分の数々の古い習慣を取り除くことであろう。ことによると彼は、死ぬまで自分が包まれていた死衣裳を少しずつ破り捨てていかなくてはならないかもしれない。そこに彼の酩酊がある。おゝ、いかなる戦いを彼はそれと演じることであろう。そこに彼の情欲がある。いかなる戦闘を彼はそれと繰り広げなくてはならないことか。何箇月もの間! そこに彼の悪態をつく癖がある。いかにしばしば、汚れた誓いが彼の口をついて出て来ることか。そして彼はそれを押さえつけておくのに、いかに苦労をすることか! そこに彼の快楽への傾きがある。彼はそれを捨てたが、いかにしばしば彼の仲間たちは彼を追いかけて来ては、自分たちとともに行かせようとすることか。この後の彼の人生は、絶えずほどくこと、捨て去ることとなるであろう。というのも、彼は、永遠に神とともにいるようになるまで、それを必要とするからである。

 さて今、愛する方々。私はしめくくりに、あなたがたにこの質問をしなくてはならない。――あなたは生かされているだろうか? そして、私はあなたに、こう警告しなくてはならない。善人であれ、悪人であれ、無関心な人であれ、もしあなたが一度も生かされたことがなかったとしたら、あなたは罪の中に死んでおり、最後には捨てられなくてはならない、と。しかしながら、私はあなたに命じなくてはならない。罪の深間に陥ってしまっている人たち。決して絶望してはならない。キリストはあなたをも、最上の人間たちと同じく生かすことがおできになる。おゝ、主があなたを生かし、あなたを信じさせてくださるとしたら、どんなに良いことか! おゝ、主が今、ある人たちに向かって、「ラザロよ。出て来なさい!」、と叫び、何人かの遊女たちを貞淑にし、何人かの酔いどれを素面にしてくださるとしたら、どんなに良いことか! おゝ! 主がこの言葉を祝福し、特に若く、愛すべき、愛らしい人々にとってそうしてくださり、いま彼らを神の世継ぎとし、キリストの子どもとしてくださるとしたら、どんなに良いことか!

 さて今、もう1つだけ、私は生かされた人々に対して云わなくてはならない。そうした上で、今朝は暇を乞おう。神の祝福があらんことを! 私の愛する方々。あなたがた、生かされている人たち。忠告させてほしい。悪魔に気をつけるがいい。彼は確実にあなたをつけ狙っている。いかなるときも油断せず、彼から逃れるようにするがいい。おゝ、悪魔の策略を警戒するがいい。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」[箴4:23]。主があなたを祝福してくださるように。イエスのゆえに。

  

 

霊的復活[了]

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