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恵みによる義認

NO. 126

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1857年4月5日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」。――ロマ3:24


 慰めの丘は、カルバリの丘である。慰藉の家は、十字架の木材で立てられている。天の泉水の聖堂は、裂かれた岩の上に築かれている。その脇腹を刺し貫いた槍で裂かれた岩の上にである。聖なる歴史の中のいかなる場面にもまして魂を喜ばせるのは、カルバリの場面である。

   「いかなる不思議 ならざるか、
    闇を罪の世 きわむ刻(とき)
    優しき手にて 心に与う
    慰め 天使(あめ)の 歌にまさるは。
    十字架に、嘆く者は目を向け、
    馬屋の星を 顧みざるは」。

この世のいずこにもまして魂が慰藉を見いだすのは、まさに悲惨が支配し、苦悩が勝利し、苦悶が絶頂に達した当の場所にほかならない。そこに恵みは泉を掘り、そこからは水晶のように清純な水が常に湧き出しており、その一滴一滴に、人類の苦悩と苦悶を軽くする力がある。あなたがたにも、苦悩する時があったであろう。キリスト・イエスにある兄弟姉妹たち。そして、あなたがたはこう告白するであろう。自分が慰めを見いだしたのは、オリーブ山においてでも、シナイの丘の上においてでも、タボル山の上においてでもなく、ゲツセマネと、ガバタと、ゴルゴタこそ、自分にとって慰めの手段であった、と。ゲツセマネの苦菜は、しばしば私たちの人生の苦味を取り除いてくれる。ガバタの鞭打ちは、しばしば私たちの心痛を打ち払ってくれる。そしてカルバリの呻きは、他のあらゆる呻きを逃げ出させてくれる。

 さて私たちの今朝の主題は、神の聖徒たちの慰めの手段となると私の信ずるものである。これは、その起こりを十字架に有しており、そこから、四季を通じて流れる豊かな祝福の川に沿って、あらゆる信仰者に向かって流れ出しているからである。見ての通り、本日の聖句には、まず第一に、キリスト・イエスの贖いがある。第二に、そこから流れ出している罪人たちの義認がある。そして第三に、この義認が与えられるしかた、「恵みにより、価なしに」、がある。

 I. まず第一に、ここにあるのは、《キリスト・イエスにある、あるいはキリスト・イエスによる贖い》である。

 贖いというたとえは非常に単純であり、聖書の中で非常にしばしば用いられている。ある人がとりことなり、どこかの蛮族の王によって奴隷にされているとき、通常その人が自由にされるには、身代金の代価が支払われるものであった。さて私たちは、アダムの堕落によって、悪に陥りがちな者、また実際に、実質的に咎のある者となっている。そのため、非難の余地ない神の正義によって、律法の復讐へと引き渡されている。私たちは正義の手に渡されている。正義は、私たちが永遠に彼の奴隷であると主張している。私たちが、自らの魂の贖いとなるような身代金を払わない限りは。実際、私たちは梟の子のように貧しく、全くの一文無しであった。私たちは、私たちの賛美歌が云い表わしているように、自分の家を差し押さえられた「素寒貧の破産者」であった。私たちの持ち物はみな売り払われていた。私たちは裸で、貧しく、みじめな者として取り残され、いかに手を尽くしても身代金など見つからなかった。まさにそのときキリストが登場し、私たちの保証人として立ち、すべての信仰者の代わりにその身代金の代価を払われたのである。そして、その瞬間に私たちを律法の呪いと神の復讐から解放し、何の汚点もなく、自由な者、主の血によって義と認められた者として立ち去ることができるようにしてくださったのである。

 ここで私に、キリスト・イエスにある贖いのいくつかの特性を示させてほしい。あなたは、主に贖われた大勢の群衆を思い出すであろう。それは、私だけとか、あなただけとかではなく、「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」[黙7:9]である。いかなる定命の人間の計算をも越えていることからして、それは、天の星々の数をはるかに越えた数である。キリストはご自分のために、天下のあらゆる王国、国民、国語の中から、何人かの者たちを買い取られた。高きから低きに至るまでのあらゆる身分の中から、また、あらゆる肌の色の中から――それが黒かろうと白かろうと――、社会の最高の者から最低の者に至るまでのあらゆる地位の中から、何人かの者たちを贖われた。ありとあらゆる種類の中の、何人かの者たちのために、イエス・キリストはご自分を身代金としてささげ、彼らがご自分のものとして贖われるようになさった。

 さて、この身代金に関して、私たちが述べなくてはならないのは、それがみな支払われ、しかも即金で支払われた、ということである。キリストがご自分の民を贖われたとき、主はそれを徹底的になさった。主はその負債を一切未払いにはせず、彼らのための一銭たりとも後払いにはなさらなかった。神はキリストに、その民全員の罪のための支払いをお求めになった。キリストは前に進み出て、ご自分の民が負っていた負債の一円一銭に至るまでお支払いになった。カルバリの犠牲は、賦払いではなかった。部分的な免責ではなかった。それは完全で、完璧な支払いであり、これまで生きてきた、また、今生きている、また、これから生きることになる、時の終わりに至るまでのすべての信仰者がかかえる、あらゆる負債のために、完全にして完璧な免除を獲得した。キリストは、十字架にかかったその日、私たちに代わって神に賠償すべきものを一銭たりとも残されなかった。賠償しなかったものなど、糸一本でも、くつひも一本でも[創14:23]、何1つ残されなかった。律法の全要求はエホバなるイエス――すべての御民の大いなる大祭司――によって、その時、即金で支払われた。しかも、主の御名はほむべきかな。主は、その全額を即座に支払われた。その身代金はあまりにも貴重で、私たちの魂のために求められた代価はあまりにも莫大かつ膨大であったため、人は、たといキリストがそれを分割払いにし、その一部は今、一部は後日に支払われたとしても、素晴らしいことと考えたはずである。捕虜になった国王の身代金は、時としてその一部は即金で、残りは何年にもわたって後払いされた。しかし、私たちの《救い主》はそうではなかった。一度限り主はご自分をいけにえとしてささげられた。一度限り主はその代価を数え上げると、「完了した」、と云い[ヨハ19:30]、ご自分のなすべき何物も残さず、私たちが成し遂げるべき何物もお残しにならなかった。主は決して賦払いを引き延ばしたあげくに、もう一度やって来て死ぬとか、もう一度苦しみを受けるとか、もう一度従うことにするなどと宣言したりなさらなかった。むしろ即金で、一円一銭に至るまで、御民全員の身代金が支払われ、全額の領収書が彼らに与えられ、キリストはその領収書をご自分の十字架に釘づけて、こう仰せになった。「これで終わった。これで終わった。わたしは、いろいろな定めのための債務証書[コロ2:14]を十字架に釘づけにした。わたしの民を罪に定めようとするのはだれか。彼らを訴えるのはだれか[ロマ8:33-34]。というのも、わたしは、彼らのそむきの罪を雲のように、彼らの罪をかすみのようにぬぐい去ったからである![イザ44:22]」

 そしてキリストがこの身代金の全額を支払われたとき、あなたはこのことに注意するだろうか? キリストはそれをみなご自分ひとりでなされた。主はこの点において非常に厳密であられた。クレネ人シモンがその十字架をかつぐことは許された。だが、クレネ人シモンがそれに釘づけられてはならなかった。かのカルバリの真紅の周縁は、キリストだけのためにとっておかれた。そこには、ふたりの強盗が主とともにいたが、彼らは義人ではなかった。それは、ふたりの義人の死が《救い主》を助けたのだなどとは、何者にも云わせないためであった。ふたりの強盗がそこで主とともに吊されたのは、主の悲惨のうちにある威光を人々に見せるためであり、死に行く際においてすら、主が人々を赦し、その主権を示せるようにするためであった。そこでは、いかなる義人も苦しみはしなかった。弟子たちは、だれひとり死にあずからなかった。ペテロがそこに引きずられてきて首を刎ねられることはなかった。ヨハネが主と隣り合って十字架に釘づけられることはなかった。主はそこにただひとり残されていた。主はこう云われる。「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった」[イザ63:3]。この途方もない負債のすべては主の双肩にかけられた。すべての御民の罪の全重量は主の上に置かれた。一度だけ主はその重みの下でよろめいて見えたことがあった。「わが父よ。できますならば」[マタ26:39]。しかし、主は再び真っ直ぐに立たれた。「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」[ルカ22:42]。主の民の刑罰すべてが1つの杯に蒸留された。いかなる定命の人間のくちびるも、一口たりともそれをすすることは許されなかった。主は、それをご自分のくちびるに当てられたとき、苦さのあまり、ほとんどそれをはねつけそうになった。――「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」[マタ26:39]。しかし、ご自分の民に対する主の愛はあまりにも強く、主はその杯を両手で取ると、すべての御民のため、

   「愛のきわみの 一飲みにて
    主は断罪を 飲み干せり」。

主はそのすべてを飲まれた。すべてを耐えられた。すべてを苦しまれた。それは、今や永遠に彼らのためにはいかなる地獄の火焔もなく、いかなる苦悶の拷問台もなく、彼らがいかなる永遠の災厄も受けないようになるためであった。キリストは彼らが苦しむはずであったすべてを苦しまれた。そして彼らは自由になって出て行かざるをえなかった。自由になって出て行くことになった。そのみわざは、主ご自身によって、いかなる助け手もなく完全に成し遂げられた。

 さらに注意されたいのは、それが受け入れられたということである。まことにそれは、莫大な身代金であった。何がそれと肩を並べられただろうか? 「悲しみのあまり死ぬほど」の魂[マタ26:38]、責め苦によって引き裂かれたからだ、最も非人間的な種類の死、そして言語を絶する性格の、また人の思いによってはその恐怖が想像もつかなほどの苦悶である。それは莫大な代価であった。しかし、それは受け入れられただろうか? 時として、いかに代価が払われても、あるいはむしろ差し出されても、差し出された側が決して受け取らず、その奴隷が自由にならないということもある。しかし、この代価は受け入れられた。その証拠を示そう。キリストが、ご自身のすべての民のために負債を支払うと宣言されたとき、神はそのためキリストを逮捕させに役人を遣わされた。役人はキリストをゲツセマネの園で逮捕し、彼を捕えてピラトの法廷に、またヘロデの法廷に、またカヤパの裁きの場に引きずっていった。その支払いはすべてなされ、キリストは墓に入れられた。主は、天でその受領が批准されるまでそこにおられた。卑しい監禁の場に閉じ込められていた。ご自分の墓の中で三日の間眠っておられた。その批准とは、こうであると宣言された。その保証人は、彼の債務保証責任が履行されるや否や、自由に出ていってよいことになっていた。さて、あなたの脳裡の中で、埋葬されたイエスを思い描くがいい。主は墓所の中におられる。主があらゆる負債を払ったことは真実だが、その領収書はまだ与えられていない。主はその狭い墓の中で眠っておられる。巨石の上には封印が貼り付けられている。主は墓の中でこんこんと眠りについておられる。神からの受理はまだ与えられない。御使いたちはまだ天国からやって来て、「事はなされました。神はあなたのいけにえを受け入れられました」、とは云っていない。今や、この世界の命運が決まるときである。それは、天秤の上でふらふらと揺れている。神はあの身代金をお受け取りになるだろうか、ならないだろうか? 見ていれば分かる。ひとりの御使いが、目もくらむほどの輝きとともに天からやって来る。彼はあの石を転がしてどけると、とらわれ人が出てくる。その手にはいかなる手枷もつけておらず、死装束は後に残してある。自由になり、二度と苦しむことも、死ぬこともない。今や、

   「イェス、負債(おいめ)をば 払わざりせば、
    などて自由の 身とされたるや」。

もし神が主のいけにえを受け入れてくださらなかったとしたら、主は今この瞬間もその墓におられたであろう。しかし主の復活は神が主を受け入れられた保証である。神は云われたのである。「わたしには、今この時に至るまで、お前に請求すべきものがあった。今やその請求は支払われた。自由になるがいい」。そこで死は、彼の高貴な虜囚を解き放ち、かの石は園へと転がって行き、勝利者が多くの捕虜を引き連れて出てこられた[エペ4:8]。

 そして、それに加えて神は、その受領の第二の証拠もお与えになった。というのも、神はご自分のひとり子を天に引き上げ、ご自分の右の座の上に着かせ、すべての支配と権威を越えたお方とし、そこにおいて、あたかもこう仰せになったからである。「御座に着いていよ。お前は大いなるわざを行なったのだから。お前のすべてのわざと、お前のすべての悲惨とは、人々の身代金として受け入れられた」。おゝ、愛する方々。キリストが栄光のうちに上られたとき、それがいかに壮大な光景であったに違いないか考えてみるがいい。それは、御父が主を受け入れてくださったことの、いかに高貴な証明書に違いなかったことか! その光景が地上で見えるように思えないだろうか? それはごく素朴な光景である。数人の弟子たちが、とある丘の上に立っている。キリストは、ゆっくりと、重々しく空中の中へ上って行かれる。あたかも、ひとりの御使いが、湖からの霧かもやのように、ゆったりと主を急がせているかのようである。あなたは、彼方の上空で何が起こっているか想像できるだろうか? この強大な勝利者が天の門に入ったとき、いかに御使いたちが出迎えたか、一瞬でも思い描けるだろうか?

   「天使ら高みより あるじの戦車を
    持ち来てその主を 御座へと運びぬ。
    輝く翼 打ち鳴らしつ云えり。
    『栄え満ちたる みわざはなれり』」。

あなたは、主が天国の門に入られたとき、いかに大きな喝采が起こったか考えられるだろうか? 彼らが互いにいかに押し寄せ、主がいかに朱に染まった勝利者としてやって来られるかを見ようとしたか、思い描けるだろうか? あなたには、アブラハムが、イサクが、ヤコブが、そして贖われた聖徒たち全員が、《救い主》なる主にお目にかかりに出て来ているのが見えるだろうか? 彼らは主を目にすることを切望していた。そして今や彼らの目は、血肉を有する主を、死と地獄に勝利せられた主を見ているのである! あなたは主が見えるように思えるだろうか? その戦車の車輪に地獄をつなぎ、死を捕虜として引きずって、天国の王の街路を行進していく主の姿が。おゝ、その日には何という壮観があるであろう! 全宇宙の華麗さ、全被造世界の荘厳さ、智天使と熾天使と作られたあらゆる権力とが、この盛観を膨れ上がらせていた。そして、それに加えて神ご自身が――かの《永遠のお方》が――ご自分の御子をその胸にかきいだき、こう仰せになった。「よくやった、よくやった。お前は、わたしが行なうようにあなたに与えた働きを完了したのだ。ここで永遠に休むがいい。私に受け入れられた者よ」。あゝ、だが、もし主がすべての負債を支払わなかったとしたら、主は決してこのような勝利を得なかったであろう。御父がこの身代金の代価を受け入れなかったとしたら、その身代金の払い手がこれほどの誉れを与えられることはなかったであろう。だが、それが売れ入れられたがために、それゆえ、主はこれほどの凱旋式を挙げられたのである。身代金については、ここまでにしておこう。

 II. さて次に、神の御霊の御助けにより、《この身代金の効果について》語らせてほしい。義と認められること――「神の恵みにより……贖いのゆえに、価なしに義と認められる」ことである。

 さて、義と認められるとは、いかなる意味だろうか? 神学者たちに尋ねるならば、あなたは目を白黒させられるであろう。私は、自分の最善を尽くして、義と認められるということを、子どもでも理解できるほど平易で単純に解き明かすよう努めなくてはならない。定命の人間が地上で義と認められる道は、ただ1つしかない。義認とは、知っての通り、法廷用語である。それは常に法律的な意味で用いられている。ある囚人が、裁判を受けるために法廷に引き出される。その囚人が義と認められる道はただ1つしかない。すなわち、彼が無罪であると判明することである。そして、もし彼が無罪であると分かれば、そのとき彼は義と認められる。――すなわち、彼は義しい人であることが証明される。もしその人が有罪であると分かれば、彼を義と認めることはできない。女王は彼に赦免を与えることはできるが、義と認めることはできない。その行為を義と認めることはできず、もし彼がその行為について有罪であったとしたら、彼をそのかどで義と認めることはできない。彼は赦免を受けることはできる。だが王権そのものでさえ、その男の人格を洗いきよめることはできない。彼は赦免を受けても、以前と変わらず真の犯罪者のままである。人の世にあるありとあらゆる手段の中でも、ある人が受けた告発についてその人を義と認めさせるものはただ1つ、彼が無罪であると証明することしかない。さて、驚異中の驚異は、私たちは有罪であると証明されているにもかかわらず、義と認められるということである。判決は私たちに不利なもの、「有罪」であったが、それにもかかわらず、私たちは義と認められるのである。地上の裁判所の中でそうできるものがあるだろうか? 否。それをもたらせるのは昔も今もキリストの身代金だけであり、地上のいかなる裁判所にもそれは不可能である。私たちはみな有罪である。この聖句の直前にある23節を読むがいい。――「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」。そこでは有罪判決が下されているが、しかし私たちは、その直後で、神の恵みにより、値なしに義と認められると云われているのである。

 さて、神が罪人を義とお認めになる道を説明させてほしい。私は、1つの不可能な事例を想定してみよう。ある囚人が裁判を受け、死刑判決を受けた。彼は有罪の男である。有罪である以上、義と認められることはできない。しかし今、かりにこのようなことが起こりえたと考えてみるがいい。――ある第二者が連れて来られ、その男の咎をすべて自分の上に引き受けることができたとするのである。その人は、この男と立場を交換することができ、ある神秘的な過程――もちろん人間には不可能なしかた――によって、その男自身になることができる。あるいは、その男の人格を自分の身に負うことができる。彼――この義人――は、その反逆者を自分の立場に置き、その反逆者を義人とする。そんなことをわが国の法廷で行なうことはできない。かりに私が、裁判官の前に出て、一年間の禁錮刑判決を前日に受けた、どこかのあわれな男の代わりに、一年間投獄されることに肩入れするよう承認するとしても、私は彼の咎を引き受けることはできないであろう。私は彼の刑罰を引き受けることはできても、彼の咎を引き受けることはできない。さて、血肉にできないことを、イエス・キリストはその贖いによって行なわれた。ここに私は罪人として立っている。私は、あなたがた全員の代表者であると自称する。私は死罪の判決を受ける。だが神は仰せになる。「わたしはその男を罰するであろう。わたしはそうせざるをえないし、そうするつもりだ。わたしは彼に罰を与える」。そこにキリストが登場し、私を押しのけ、私の代わりにお立ちになる。被告の最初の抗弁が求められるとき、キリストは、「有罪です」、と云い、私の咎をご自分の咎としてお引き受けになる。刑罰が執行されるべきとき、キリストは前に進み出て、「わたしを罰してください」、と仰せになる。「わたしは、自分の義をあの男に着せました。そして、わたしはあの男の罪を自分の身に引き受けました。父よ。わたしを罰して、あの男をわたしだと思ってください。彼をして天で統治させてください。わたしに悲惨を苦しませてください。わたしに彼の呪いを忍ばせ、彼にわたしの祝福を受けさせてください」。この、キリストとあわれな罪人たちの立場を交換するという驚嘆すべき教理は、啓示の教理である。これは決して天性によって思いつかれたはずがないからである。何か間違ったことを云っているといけないので、もう一度説明させてほしい。神が罪人をお救いになる道は、決して一部の人が云うように、罰金を帳消しにすることによるのではない。しかり。その罰金はすべて支払われる。救いの道は、反逆者の立場に別人を置くことによるのである。その反逆者は死ななくてはならない。神は、彼が死ななくてはならないと仰せになる。キリストは云われる。「わたしは、その反逆者の身代わりになります。その反逆者をわたしの立場につけてください。わたしが彼の立場につきます」。神はそれに同意なさる。地上のいかなる君主も、そのような交換に同意する力を持つことはできなかったであろう。しかし、天の神には、ご自分のみこころのままに行なう権威を持っておられる。その無限のあわれみによって神は、その取り決めに同意なさる。「わが愛する御子よ」、と神は云われた。「お前はその罪人の立場に立たなくてはならない。お前は、彼が苦しむはずだったものを苦しまなくてはならず、お前は彼が有罪とみなされたのと全く同じように有罪とみなされなくてはならない。そうするとき、わたしはその罪人を別の見方で眺めるであろう。わたしは彼がキリストであるかのように彼を眺めるであろう。わたしは彼が、恵みとまことに満ちた、わたしのひとり子であるかのように彼を受け入れるであろう。わたしは天で彼に冠を授け、彼を永遠にわたしの心にとどめておくであろう」。これこそ私たちが救われる道である。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」。

 さて今、次に進んで、この義認の特徴のいくつかを説明することにしたい。覚えておくがいい。悔い改めている罪人が義と認められるや否や、彼は、その一切の罪について義と認められる。ここに、あらゆる罪について有罪である人が立っている。彼がキリストを信ずる瞬間に、彼はたちまち自分の赦罪を受け、彼のもろもろの罪はもはや彼のものではなくなる。それは海の深みに投げ込まれる。それらはキリストの肩の上に置かれ、なくなってしまう。その人は神の御前では咎のない人、愛する者にあって受け入れられている人として立つ。「何と!」、とあなたは云うであろう。「あなたは、本気で文字通りにそう云っているのですか?」 しかり、私は本気である。それが、信仰による義認の教理である。人は、天来の正義から咎ある存在であるとみなされることがなくなる。彼がキリストを信ずる瞬間に、彼の咎はみな取り去られる。しかし、私はもう一歩先に進むであろう。その人がキリストを信ずる瞬間に、彼は神の評価において有罪であることがなくなるが、それだけでなく、彼は義しい者となる。功績のある者となる。というのも、キリストが彼の罪をお引き受けになる瞬間に、彼はキリストの義を自分のものとし、神がその罪人をご覧になるとき、一時間前には罪の中に死んでいたこの者を、神はご自分の御子を常に眺められるときと同じだけの愛と情愛をもって眺められるからである。御子ご自身がそう云っておられる。――「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました」[ヨハ15:9]。主は御父が主を愛されたのと同じくらい私たちを愛しておられる。このような教理を信じられるだろうか? これは、あらゆる考えを超越していないだろうか? よろしい。これが聖霊の教理であり、これによって救われることを私たちが希望しなくてはならない教理である。私は、心に光を受けていないだれかに、この思想をより良く例証できるだろうか? 私はその人に、預言書の中で示されている1つのたとえを示すであろう。――大祭司ヨシュアのたとえである。ヨシュアはよごれた服を着て登場する。そのよごれた服は彼のもろもろの罪を象徴している。彼のよごれた服を脱がせよ[ゼカ3:4]。これは赦しである。彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に王家の礼服を着せよ。これは義認である。しかし、これらの服はどこから来るのだろうか? また、あの襤褸服はどこへ行くのだろうか? 何と、ヨシュアが着ていた襤褸服はキリストのもとに行き、ヨシュアに着せられた服はキリストが着ていた服なのである。罪人とキリストは、まさにヨナタンとダビデがしたことを行なうのである。ヨナタンは、自分の上着をダビデに着せ、ダビデはヨナタンに自分の着物を与えた[Iサム18:4]。そのようにキリストは私たちのもろもろの罪をお取りになり、私たちはキリストの義を自分のものとする。そして、この栄光に富む身代わりと立場の交換によってこそ、罪人たちは自由の身とされ、神の恵みによって義と認められるのである。

 「しかし」、とある人は云うであろう。「だれも死ぬまでは、そのように義と認めることはありません」。嘘ではない。彼は義と認められるのである。

   「罪人は 十字架につける 御神をば
    信じて頼る その瞬間(とき)に
    たちまち受くなり その赦し
    全き救い 御血(ち)によりて」

もしそこにいる青年が、私が叙述しようとしてきた霊的体験を現実のものとし、本当に今朝キリストを信じているとしたら、今の彼が神の御前で義と認められているしかたは、彼が御座の前に立つときにおさおさ劣っていないのである。天上で栄化されている霊たちが神に受け入れられているしかたは、下界でいったん恵みによって義と認められたあわれな人に決してまさるものではない。これは完璧な洗いである。完璧な赦しである。完璧な転嫁である。私たちは、私たちの主キリストによって完全に、十全に、余すところなく受け入れられている。ここでもう一言だけ語らせてほしい。その後で、この義認という件から次に進むことにしよう。いったん義と認められた人は、二度と取り消されえないようなしかたで義と認められているのである。ある罪人がキリストの立場を自分のものとし、キリストがその罪人の立場をお取りになるや否や、二度目の交換がなされる恐れは何もなくなる。もしキリストがいったん負債を支払われたならば、その負債は支払い済みとなり、決して二度と請求されることはない。もしあなたが赦されているとしたら、あなたは一度限り決定的に赦されているのである。神は、ご自分の親署による恩赦を人に与えておきながら、後でそれを撤回して、人を罰するようなことはなさらない。神がそのようなことをすることは決してない。神は仰せになっている。「わたしはキリストを罰した。あなたは自由になってよい」、と。そして、その後では、「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持って」いるため、「神の栄光を望んで大いに喜んで」いられるのである[ロマ5:1-2]。さて私は、ある人がこう云っているような気がする。「それは、無茶苦茶な教理だ」。よろしい。ある人々はそう考えるであろう。だが、あなたに云わせてほしいが、これは、あらゆるプロテスタント教会が――説教してはいないかもしれないが――告白している教理なのである。これは英国国教会の教理である。ルーテル派教会の教理である。長老派教会の教理である。これは、その信仰告白による限りは、あらゆるキリスト教会の教理である。そして、もしそれがあなたの耳に奇妙に聞こえるとしたら、それはあなたにとって耳慣れないからであって、この教理が奇妙であるためではない。これは聖書の教理である。神が義と認めてくださる者をだれも罪に定めることはできない。キリストが死んでくださった者たちをだれも非難することはできない[ロマ8:33-34]。彼らは完全に罪から自由にされているからである。それで、預言者たちのひとりが云っているように、神はヤコブの中に罪を見ず、イスラエルの中に不法を見ない[民23:21]。彼らが自らの罪はキリストに転嫁されていると信じた瞬間に、そうしたもろもろの罪は彼らのものではなくなり、キリストの義が彼らに転嫁され、彼らのものとみなされる。それで彼らは受け入れられるのである。

 III. さて今、しめくくりとして私は第三の点に移り、手短に、だが非常に真剣に語りたいと思う。《この義認を与えるしかた》についてである。ジョン・バニヤン流に云えば、この場には、この義認という大いなる賜物をほしがって、よだれを流している者が何人かいるであろう。ここには、こう云っている人々がいるだろうか? 「おゝ! もし私が義と認められることができさえしたら! ですが、先生。私が義と認められることなどできるでしょうか? 私は酔いどれでした。神を冒涜してきました。悪の限りを尽くしてきました。私が義と認められるでしょうか? キリストが私の真っ黒な罪をお取りになり、私がキリストの白い衣を自分のものにするというのでしょうか?」 しかり。あわれな魂よ。もしあなたがそう望みさえすれば、そうなる。もし神があなたをそう望ませてくださるとしたら、もしあなたが自分のもろもろの罪を告白するとしたら、キリストは喜んであなたの襤褸服をお取りになり、あなたにご自分の義を与え、永遠にあなたのものとしてくださる。「わかりました。ですが、どうしたらそれが手にはいるのですか?」、とある人は云うであろう。「私は何年も何年も聖い生活をしなければ、それが得られないのでしょうか?」 聞くがいい! 「神の恵みによって……価なしに」である。「値なしに」。なぜなら、そのために支払われるべき代価がないからである。「恵みによって」。なぜなら、それは私たちが当然のように受けられるものではないからである。「ですが、おゝ、先生。私はずっと祈っているのに、神が私を赦してくださるなど考えられません。私が何か功徳になるようなことをしない限りは」。私はあなたに云うが、もしあなたが、あなたの功徳を何か持ち込んでくるとしたら、決してあなたが赦しを得ることはないであろう。神はその義認を値なしに、ただでお与えになる。もしあなたが、そのための代金を何か持っていくとしたら、神はそれをあなたの顔に叩きつけ、ご自分の義認をあなたに与えることはなさらない。神はそれをただで、値なしに与えてくださる。老ロウランド・ヒルは、かつてある市場で説教していた。彼は、呼び売り商人たちが自分たちの品物を競り売りしていることに気づいて、こう云った。「私も、競り売りをしよう。葡萄酒と牛乳を、金も代金もなしに売ろうというのだ。そこにいる方々は」、と彼は云った。「あなたがたの払う代金を自分の売値まで引き上げることにひどく苦労している。私の苦労は、あなたがたの代金を私の売値まで引き下げることにあるのだ」。人々もそれと同じである。もし私があなたがたに向かって、義認は一個一ソヴリンで買えると説教するようなことをしたとしたら、この場所を義と認められないで出て行く者がだれかいるだろうか? もし私があなたがたに向かって、百哩歩くことによる義認を説教できたとしたら、明日の朝には、この場にいる全員が巡礼となっていないだろうか? もし私が、鞭打ちや苦行からなる義認を説教するとしたら、この場にいるほとんどの人々は自分を鞭で打ち、それも、激しくそうしようとするであろう。しかし、それが値なしで、値なしで、値なしであるとき、人々は背を向けて去っていくのである。「何と! 私は何もすることなしに、それをただで得なくてはならないというのか?」 しかり。方々。あなたはそれをただで手に入れるか、全く手に入れないかである。それは「値なしに」である。「ですが、私はキリストのもとに云って、キリストのあわれみを要求して、こう云うことはできないのでしょうか? 『主よ。私は他の人々ほど悪人ではないので義と認めてください』、と」。それでは役に立たない。方々。なぜなら、それは、「神の恵みにより」、だからである。「しかし、私は、これから善人になるつもりです、という訴えを差し出すことすらできないのでしょうか?」 しかり。方々。それは「神の恵みのより」である。あなたは、神の財宝の代金として、あなたの贋金を持っていくことによって、神を侮辱するのである。おゝ! 人々はキリストの福音の価値について何と貧しい考えをいだいていることか。それを自力で買えるなどと考えるとは! 神は天国の代金として、あなたの錆びた一銭銅貨などお受け取りにならない。昔、ひとりの金持ちが、死にかけていたとき、私設救貧院を何棟も立てれば、天国での場所を買えるだろうという考えを起こした。彼の枕頭に立っていた牧師は云った。「それ以外に、いくらあなたは残しておくつもりですか」。「二万ポンドだ」。彼は云った。「それでも、あなたの足が天国に立つだけのものも買えませんよ。その街路は黄金造りなのですからね。ですから、あなたの金がどんな値打ちのものであるとしても、通りそのものが金で舗装されているときに、それは無とみなされることでしょうよ」。しかり。愛する方々。私たちは天国を黄金や善行や、祈りや、この世にある何物でも買うことはできない。しかし、いかにすれば、それを得られるだろうか? 何と、それは単に求めるだけで得られるのである。私たちの中の、自分が罪人であると分かっている者は、キリストを求めるだけでキリストを得られるであろう。あなたは、自分がキリストを欲していると分かっているだろうか? あなたはキリストを得られる!

 「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」[黙22:17]。しかし、もしあなたが自分の考えにしがみつき、「いいえ、先生。私はあらん限りの善行を積むつもりです。そうしてからキリストを信じます」、と云うとしたら、――方々。もしそのような迷妄に固執するとしたら、あなたは地獄に墜ちるであろう。私は真剣にあなたに警告する。あなたはそのようにして救われることはできない。「よろしい。ですが、私たちは善行をすべきではないのですか?」 もちろんすべきである。だが、それを頼りにすべきではない。あなたは全くキリストだけを頼りにしなくてはならない。それから、その後で良いわざを行なうがいい。「ですが」、とある人は云うであろう。「もし私がちょっと善行を行なうなら、それは、みもとに出たときの私に、ちょっと好意を得させるのではないかと思うのですが」。そうではない。方々。そうしたことで、あなたには全く好意は得られない。かりに、ある乞食が白い山羊皮の手袋をはめてあなたの家に来て、私は非常に困っておりやす、どうか何かお恵みを、と求めたとき、その白い山羊皮の手袋によって彼は少しでもあなたの施し物を受ける値打ちがある者に見えるだろうか? 「いいや」、とあなたは云うであろう。「このごろつきの詐欺師めが。お前は何も困ってなどいないのだ。お前になどびた一文やるものか! さっさと出て行け!」

 乞食にとって最上の装いは襤褸服であり、キリストのもとに行こうとする罪人にとって最上の装いは、ありのままの自分で、罪のほか何も持たずに行くことである。「でも、いいえ」、とあなたは云うであろう。「私はもう少し良くなってから行かなくてはなりません。そうすれば、キリストは私を救ってくれると思います!」 あなたは全然良くなることはできない。いくら長いこと試してもできない。それに――逆説的に云えば――もしあなたが良くなければ、ますます悪くなるであろう。というのも、悪い者であればあるほど、キリストのもとに行くのがふさわしいからである。もしあなたが全く汚れ果てているとしたら、キリストのもとに行くがいい。もしあなたが自分の罪を感じており、それと縁を切るのであれば、キリストのもとに行くがいい。たといあなたが地上で最も下卑た、破廉恥な魂であっても、キリストのもとに行くがいい。もしあなたが自分には、自分に好意を得させるものなど何もないと感じているとしたら、キリストのもとに行くがいい。

   「神に賭(まか)せよ またく汝が身を
    他(た)のもの頼る 心よとく去れ」

私がこういうことを云うのは、いかなる者にも罪を犯し続けさせるためではない。決してそうではない! もしあなたが罪の中にとどまり続けるとしたら、あなたはキリストのもとに行ってはならない。そのようなことはありえない。あなたのもろもろの罪があなたを妨げるであろう。あなたは、あなたの長船の櫂に――あなたの罪という櫂に――鎖で繋がれていながら、キリストのもとに来て、自由人となることはできない。しかり。方々。悔い改めることである。即座に罪を離れることである。しかし、よく聞くがいい。悔い改めによっても、自分の罪を離れることによっても、あなたを救うことはできない。それはキリスト、キリスト、キリスト、――キリストだけである。

 しかし私には分かっている。あなたがたは――あなたがたの中の多くの人々は――、この場を離れれば、自分のバベルの塔を築き、それで天国に達そうとするであろう。あなたがたの中のある人々は、一方の道で働き、別の人々は別の道で働くであろう。あなたは、儀式の道に行くであろう。あなたは幼児洗礼という構造物の土台を据え、その上に堅信礼を築き、主の晩餐を建てるであろう。「私は天国に行くだろう」、とあなたは云う。「私は受難日や降誕日を守っていないだろうか? 私は、ああした非国教徒たちよりもまともな人間だ。私はだれよりも抜きんでた人間だ。私は、人よりも多く祈りを唱えていないだろうか?」 だが、あなたがいくら長い間その踏み車をこぎ続けても、一吋も上には上らないであろう。それは、星々に達する道ではない。ある人は云うであろう。「私は行って聖書を学ぶことにしよう。そして正しい教理を信じよう。そうすれば私は、正しい教理を信じたことによって救われるに違いない」。実は、それでは救われないのである! あなたは正しい行動を取ることによってと同様、正しい教理を信じることによっても、全く救われることができない。「ならば」、と別の人は云うであろう。「それは気に入った。私は行ってキリストを信じ、それから私の好きな生き方をすることにしよう」。実は、それでも救われないのである! というのも、もしあなたがキリストを信じるとしたら、キリストはあなたに、あなたの肉が好むような生き方をさせないからである。その御霊によってキリストは、肉の情愛や情欲をあなたが抑制するように仕向けなさる。もしキリストがあなたに、信ずる恵みを与えるとしたら、キリストはあなたに、後で聖い生き方を送る恵みをもお与えになる。もしキリストがあなたに信仰を与えるとしたら、後に良いわざをもお与えになる。あなたがキリストを信じているとしたら、あらゆる過ちと縁を切らずにいたり、心底からキリストに仕えようと決意しないでいたりすることはありえない。とうとう私は、ある罪人がこう云うのが聞こえるような気がする。「これが、ただ1つの扉なのですか? そして、私などがそこに入ろうとしていいのですか? ならば私はそうしましょう。ですが、私は先生の云うことがよくわかりません。私は、あの『ドレッド物語』という異様な本に出てくる、あわれなティフのようなものです。人は、ある扉のことについてあれこれ喋っているのに、私にはその扉が見えないのです。人はその道についてあれこれ喋っているのに、私にはその道が見えないのです。というのも、もしあわれなティフにその道が見えたとしたら、彼はこの子どもたちをその道を通って連れて行くでしょう。人は戦いについて語りますが、私には戦っている人がだれも見えません。さもなければ、私も戦うでしょう」。ならば、それを説明させてほしい。聖書の中にはこう書かれている。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」[Iテモ1:15]。あなたがしなくてはならないのは、このことを信じて、キリストに信頼することではないだろうか? あなたは決して、そのような信仰によって失望させられることはない。あなたには1つのたとえをもう一度示させてほしい。これは、私が百回は語ってきたものだが、これにまさる良いたとえを見いだせないので、もう一度語らなくてはならない。信仰とは、このようなものである。あるところに、一隻の軍艦の艦長がいたという。彼の息子は――まだ少年だったが――その船の索具によじ登ることが大好きだった。あるとき、猿を追いかけて彼が檣をよじ登ったとき、とうとう彼は大檣冠に達した。さて、大檣冠というのは、知っての通り、檣に取り付けられた大きな円卓のようなもので、大檣冠の上では少年が動き回る余地が大いにあった。だが問題は――できる限りわかりやすい云い方をすると――その卓子の下にある檣に手が届かないということであった。彼はその大檣冠の下にからだを伸ばし、檣をつかんでから下に降りられるほど背が高くなかった。それで彼は大檣冠の上にいた。彼はそこまで何とか登ってくることができたが、降りることは決してできなかった。彼の父はそれを見てとって、恐怖にかられて上を見上げた。彼は何をすべきだろうか? ほんの数瞬で、息子は転落し、ぐしゃぐしゃに潰れるかもしれない! 彼は力の限り大檣冠につかまっていたが、もうしばくすれば甲板に転落し、無惨な死体になるであろう。艦長は拡声器を持ってこさせ、それを口に当てて叫んだ。「坊主、次に艦が傾いたら、海に飛び込め」。それは実際、彼が助かる唯一の方法であった。彼は、海中から救助されることはできたが、甲板に落ちたら助からなかった。このあわれな少年は海を見下ろした。それははるか下に見えた。自分の下で吠えたけっている海流に身を投げるなどという考えに耐えられなかった。それで彼は必死に大檣冠にしがみついた。じきに手を離して一巻の終わりとなることに間違いはなかったが。父親は銃を持って来させると、それで彼に狙いをつけて云った。「坊主。次に艦が傾いたときに海に飛び込め。さもないと、俺がお前を撃つ!」 彼は父親が自分の言葉通りにする男であることを知っていた。艦が一方に傾いた。少年は海に飛び込み、しぶきをあげた。筋骨逞しい男たちが後を追って飛び込んだ。水兵たちは、少年を救助すると、甲板に引き上げた。さて生まれながらの私たちは、この少年のように、途方もなく危険な立場にある。それは、あなたや私が自力では決して脱出できないような窮地である。不幸にして、私たちには、自分自身の良いわざが少しはある。そして、あの大檣冠のように私たちはそれにしがみつくことを好み、決してそれを手放そうとしない。キリストは、私たちがそれを手放さない限り、最後には私たちがぐしゃぐしゃに叩き潰されることを知っておられる。そうした腐った信頼は私たちを滅ぼさずにはおかないからである。それゆえ、主は仰せになる。「罪人よ。あなたの信頼を手放し、私の愛という海に飛び込むがいい」。私たちは下を見下ろして云う。「私は、神に信頼することによって救われることができるのだろうか? 彼は、まるで私に向かって怒っているように見える。私は神を信頼できない」。あゝ、あわれみの優しい叫びはあなたを説得しないだろうか?――「信じる者は、救われます」*[マコ16:16]。破滅という武器がひたとあなたに向けられなくてはならないだろうか? このすさまじい脅かしをあなたは聞かなくてはならないだろうか?――「信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。あなたも、あの少年と同じである。――あなたの立場は、それ自体が差し迫った危険なのである。そして、御父の助言をあなたが軽んずるということは、はるかに恐るべき恐怖であり、危険を一層危険なこととするのである。もしそうしなければ、あなたは滅びるのである! あなたの手を離すがいい! 罪人がその手を放し、飛び込むこと、それが信仰である。そして、そのようにして彼は救われるのである。そして、自分を破滅させるかのように見えていた当のものは、彼が救われる手段となるのである。おゝ! キリストを信じるがいい。あわれな罪人たち。キリストを信じるがいい。あなたがた、自分の咎とみじめさを知っている人たち。来るがいい。主に身をゆだねるがいい。来て、私の《主人》に信頼するがいい。そして、私がその御前に立っているお方にかけて誓うが、このお方に対するあなたの信頼は決して無駄にはならない。むしろあなたは、自分が赦されていることに気づき、キリスト・イエスにあって喜びながら道を進んでいくであろう。

  

 

恵みによる義認[了]

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