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狩人のわな

NO. 124

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1857年3月29日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「確かに主は狩人のわなからあなたを救い出される」。――詩91:3 <英欽定訳>


 もしモーセがこの詩篇を書いたとしたら、彼としては、この狩人は、自分を殺そうとしたエジプトの王であるとか、思いがけず突如イスラエルに襲いかかってきたアマレク人であるとして描き出したかもしれない。もしこれが、ダビデの筆になるものだったとしたら、彼は、サウルを狩人にたとえたかもしれない。彼自ら、自分は山で追われるしゃこのようなものだと云っているからである[Iサム26:20]。しかし、この節がこうした場合のいずれにもあてはまる以上、詩篇作者がこの節に込めた意図は、これが私的解釈を施されることにではなく、あらゆる際にあてはまるものとなることにあったと思う。そして、私たちの信ずるところ、この節が語っているのは、かの魂の大敵、大いなる欺く者、サタン、今しがた私たちがこう歌った者についてである。――

   「サタンぞ狩人、絶えずあざむく、
    油断せる魂(たま) 千もの手口(て)にて」

「世の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」*[エペ2:2]は狩人に似て、常に私たちを滅ぼそうとしている。かつて、ある卓抜な著述家がこう云ったことがある。古い悪魔は死んでおり、今や新しい悪魔がいるのだ、と。これによって彼は、昔の時代の悪魔と、近頃のこの欺く者とは、相当に異なった悪魔だと云おうとしたのである。私たちの信ずるところ、それは同じ悪の霊だが、彼が攻撃するしかたには違いがある。五百年前の悪魔は、暗黒の、けがらわしいしろものであって、この悪の霊の姿として古い絵画で描写されていたようなものによく似ている。彼は、人々を炉に投げ入れ、キリストに仕えているというかどで死に至らしめた迫害者であった。今日の悪魔は、弁舌さわやかな紳士である。彼は迫害などしない。――むしろ説得して騙そうとする。今や彼は、怒り狂うローマカトリック教徒というよりは、私たちのキリスト教信仰の転覆をくわだてている、猫なで声の不信者である。それと同時に彼は、キリスト教をもっと合理的なものにし、もっと勝利を得させたいだけなのだ、とも見せかけている。だが彼は、キリスト教信仰に世俗性を結びつけたいだけなのである。そのようにして、あたかも、自分は福音の偉大な力を発展させたいのだ、私たちの父祖たちが決して発見することのなかった秘密を引き出したいのだ、というかのような隠れ蓑によって、キリスト教信仰を空洞化させたがっているのである。サタンは常に狩人である。彼の戦術がいかなるものであろうと、彼の目的は常に変わらない。――人々を彼の網で捕えることである。ここで人々は、愚かで弱い鳥たち、そうしたわなを避けるすべにも、そこから逃げ出す力にも欠けた鳥たちにたとえられている。サタンは狩人である。これまでもそうであったし、今もそうである。そして彼は、たとい今は、吠えたける獅子のように私たちを迫害で攻撃していなくとも、ひそかに通り道を這う毒蛇のように私たちを攻撃している。その毒牙によって私たちのかかとに咬みつき、私たちのうちにある恵みの力を弱め、敬虔のいのちを損なおうとしている。本日の聖句は、誘惑にまとわりつかれる際のすべての信仰者にとって非常に慰めに満ちたものである。「確かに主は狩人のわなからあなたを救い出される」。

 第一に、この狩人のわなについて少々語りたい。第二に、その救出について、第三に、その確実さについて、「確かに」という言葉を詳しく取り上げて語りたい。というのも、それは、この尊い黄金の約束を装飾している金剛石と思われるからである。「確かに主は狩人のわなからあなたを救い出される」。

 I. まず第一に、《この狩人のわな》である。これは、徹底的に解き明かすには、あまりにも示唆に富むたとえである。このことは、各人が自宅に帰ってから個人的に瞑想してもらう他にない。狩人が鳥を捕えようとする方法を指折り数えてみれば、かの悪い霊が魂を破滅させようとして用いる様々な手段の見当がつくであろう。しかしながら、話のとっかかりとして私に、狩人とこの悪い者とに関連する二、三の点について述べさせてほしい。

 1. 最初に、狩人のわなは、それが表立たないということと密接な関わりがある。「鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ」[箴1:17]。それゆえ、狩人は、自分の罠を注意深く隠蔽するか、たといその罠そのものが発見されても、鳥たちを巧妙な手で騙そうとする。そのようにして、鳥を罠に取り込もうとする意図について全く悟られないようにする。それについばませるために置かれた餌が、実は、それを魅惑し、破滅させるためのものであるとは、ほとんど思わせないようにする。鳥を捕えようとしている狩人は、鳥たちに自分の姿が見られないように細心の注意を払う。例えば、リンカンシアの野鴨猟について聞くところ、人は自分の口の前に芝土を当てておき、自分の口の匂いが油断ない野鴨たちに察知されないようにするという。この世の誘惑は、キリスト者にとっては、このように秘められた種類のものである。悪人たちにとってそうではない。彼らは、目を大きく見開いたまま罪を犯し、網であると知りながら網に向かって突進し、不義を両手で鷲づかみにし、破滅が真っ向からにらみつけていてもそうするからである。その人は、国家の法によって断罪されるとわかりきった罪すら犯す。その咎について何の疑いもありえないような犯罪に向かって突き進む。キリスト者はそうではない。キリスト者はひそんでいるものによって捕えられてしまう。「あゝ!」、とある人は云う。「もし私が、これこれのことが本当に誤っていると知っていたとしたら、――もし私が、その誤りを完全に確信していたとしたら、私はそれをやめようとしたであろうに」。まさにそこに困難はあるのである。同じように鳥も云うであろう。「もし私が、あれが本当に罠だと思ったなら、これこれの場所には飛んで行かなかったものを。そこに近づこうなどと全くしなかったものを。もし、それが私の破滅になると確かにわかっていさえしたら」、と。このように質問する信仰告白者は何人いるだろうか? 「私は、ここに行ってもいいでしょうか? あそこに行ってももいいでしょうか?」 そして、私たちの中のある者らが、「否」、と答えると、そのため私たちは清教徒呼ばわりされるのである。だが、この世の楽しみを追求しながら、自分の敬虔さに傷がつかないように試みてきた人々は、いま立ち上がって嘆かわしい告白をするがいい。心をこめてその双方に仕えることは、決して両立できないのだ、と。私たちは、全面的に神に仕えるか、全面的に悪い者に仕えるか、いずれかでなくてはならない。「もし、神が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え」*[I列18:21]。一方か、さもなければ、もう一方である。多くの人は、それが悪とは知らないうちに、サタンに騙され、罪に陥らされてきた! 例えば、だれかが商売のことでその人に囁いた。――「あなたがこれこれのことをしても、それは全く健全なことですよ。町通りの商店主はみなそれをしているのですからね。これは、実際には不正直ではありません。それは、品物を改善しているのです。本当にそうなのです。そして、これであなたが、ある品物を本来の値段よりも高めに売ることができるとしても、それを世間に告げる必要はありませんよ。もしその品物が、そのためにより良くなるとしたら、あなたがそれにまぜ物をするのは公正で、全く健全なことなのです」。それで、そのようにして、固いことを云わないこの善良な人は、両目を開いておくのではなく、片目を軽く閉じ、自分のかくしを暗闇で一杯にできるのがあまりよく見えないようにしたまま、ほんの少し脇道にそれては、次第次第に自分の行なった行為によって狩人のわなに引き込まれていくのを悟らされていく。というのも、その人は自分の神に対して罪を犯しており、その人の神は、それゆえ、その人を罰して、ひどく鞭で打ちすえるからである。私が思うに、キリスト者がしばしば引き渡される罪は、明白な、既知のものであるというよりは、隠れている罪である。もし悪魔がその角をさらして私の戸口にやって来るとしたら、私は決して彼を中に入れないであろう。だが、もし彼が上品な紳士のように帽子をかぶってやって来るとしたら、たちまち彼は迎え入れられるであろう。この比喩は非常に奇抜なものかもしれないが、きわめて真実である。多くの人が悪い物に取り込まれたのは、そのうわべが取り繕われ、磨き立てられ、見かけは悪く見えなかったからである。そして、その人は内心、そこに大した害はないであろうと思ったのである。それで、その人はその小さなものを招き入れ、それが大水のきっかけとなったのである。――最初の一滴が奔流を引き込んだのである。その始まりは、恐ろしい末路の始まりでしかなかった。キリスト者よ。隠れているものに用心するがいい。世の普通のならわしに用心するがいい。それは、人々にとっては、かなり良いものかもしれない。私たちは彼らに、その楽しみを拒もうとは思わない。というのも、彼らには他に何もないからである。だが、そうした楽しみは、あなたにとっては良くない。というのも、あなたには、格段にすぐれた生き方、――不敬虔な人々が出入りする場所に存在しうるよりも格段にすぐれた風合いの生き方があるからである。思い出すがいい。あなたは他人をさばくべきではない。一部の人々、特に回心していない人々は、罪に至らされることもなく、多くの陽気なことや歓楽にふけることができるが、キリスト者は、密林熱が猖獗をきわめる土地で長生きできない英国人のようなものなのである。原住民はそこで生きられても、彼は生きられない。それと同じく、二度生まれた者であるあなたは、世俗の人にとっては、その人が生来犯すであろう悪以上に極端な悪には決して導かないようなものによっても 、自分の敬神の思いが損なわれることに気づくであろう。あなたは他の人々よりも厳格な規則を自分に課すべきであり、この世があなたにならせたがるよりも、さらにあなたの敬神の念において厳しくあるべきである。というのも、罪は通常は隠されており、わなはめったにあからさまなものではないからである。「確かに主は狩人のわなからあなたを救い出される」。

 2. 第二のこととして、狩人のわなは、一般に、えものに合わせて作り変えられるという大きな特徴がある。ある鳥向けのわなを、別の鳥向けにも仕掛けるような狩人はいない。狩人は、自分の狙う鳥をよく知っており、それに合わせて餌を変える。流れに沿って泳ぐ鴨を捕えるのと同じ仕掛けで大空を舞う雲雀を捕えようとするような狩人は愚かである。狩人はそれよりも賢い。自分の捕えようとする鳥の特性に合わせて、自分のわなを手直しする。サタンという狩人も、まさに同じことをする。ここに、ある人がいる。サタンは彼を酩酊に誘惑する。ことによると、それは、心に恵みもなく放っておかれていた場合、その人が生来陥っていた罪かもしれない。サタンはそれが彼の弱点であると知って、暴飲暴食や酩酊によって彼を打ち負かそうとする。別の人は、そうした下品な習慣に至らせるいかなる誘惑をも全く受けつけないが、別のわなには簡単にひっかかってしまう。――情欲のわなである。それゆえ、サタンは生来、罪の生活を送りがちな人の、多情な血潮にその誘惑を合わせる。他の人は、いかなる好色で官能的な習慣をも避けているかもしれない。そこでサタンは彼のもとにやって来て、高慢という形に自分の誘惑を作り変える。その人は生来、憂鬱質で、孤独を好んでいる。サタンは、できるものならその人に、孤高の尊厳をまとわりつかせては、「私は聖い」、と云わせる。「主よ。私はほかの人々のようではないことを、感謝します」*[ルカ18:10]。あるいは、ある人が生来、あまり高慢には陥りにくい気質である場合、サタンは怠惰でその人を捕える。その人は安楽な暮らしを好む。それゆえサタンは、自分の餌をその人向けに作り変え、その人にただ腕組みをするだけで何もさせず、怠惰によって滅ぼうとする。そして、よく聞くがいい。寒帯の原野の奥地に雪が積もっているとき、その極寒の中で座っている人は、心臓に短剣を突き刺すのと同じくらい確実に、その怠惰によって滅びざるをえないのである。サタンはそれを知っており、自分の餌をそれに応じて作り変える。おゝ! いかにしばしばこうしたことが起こることか。愛する方々。あなたや私は、他の人のうちにある、あることを断罪する一方で、自分のうちにある同じことは、もしかすると知らないうちに、大目に見るのである。私たちは、そうした人について、彼は何と高慢なことか!、と云う。よろしい。私たちの高慢は、それと正確に同じ形はしていない。だが、別の形をした高慢を有している。それは同じ品物で、単に名札が違っているだけなのである。中身は変わらないのである。サタンは、その高慢を、それぞれ特定の場合に合わせて作り変える。私たちは富んでいる。彼は私たちを富の高慢に誘惑しはしないかもしれない。だが彼は、上に立つ者としての高慢に誘惑し、私たちを自分のしもべたちにとって苛酷な主人とするかもしれない。あるいは、そうした高慢に私たちを誘惑しないときには、気前良さという高慢で私たちの心を奪うかもしれない。そして私たちは、自分の親切心を自慢したり、自分がどれだけ施し物をしたかを誇るようになる。彼は常に自分の罠を狙う相手に合わせて作り変え、自分の餌を狙う鳥向けのものとする。彼は、私を誘惑しているのと同一の誘惑では、あなたがた全員を誘惑しない。あるいは、彼が生来他の人に襲いかからせているような誘惑で、私を誘うこともない。「狩人のわな」。私たちは狡猾な敵を相手にしている。彼は私たちの弱点を知っている。彼は、過去六千年もの間、人間たちを相手にしてきている。人について知らないことはない。彼は巨大な知性の持ち主である。彼が堕落した霊であろうと関係ない。そして彼は、私たちの泣き所がどこにあるかを簡単に察知し、そこにおいて私たちを直接攻撃する。たとい私たちがアキレスのように、かかと以外のいかなる部分も傷つかないとしても、そのかかとだけに彼はその矢を放つであろう。彼は私たちにまつわりつく罪[ヘブ12:1]を発見し、できるものならそこにおいて私たちの滅びと破滅を画策しようとするであろう。こう書かれていることについて、神はほむべきかな。「確かに主は狩人のわなからあなたを救い出される」。

 3. 次のこととして、狩人のわなはしばしば、快楽、利益、有利さに結びついている。鳥の場合、地面に種が撒き散らされていればこそ、鳥はわなに飛んでくるのである。何か心そそるような餌があればこそ、鳥は自分の死に誘い込まれるのである。そして通常サタンという狩人は、私たちを楽しませるような誘惑を用いる。「おゝ!」、とある人は云うであろう。「私はこれこれのことをやめられません。それは、あまりにも大きな楽しみなのです。先生。あなたはこれこれを追求することに、どれほど大きな魅力があるか全然ご存じないのです。さもなければ、私にそれをやめろなどと助言できたはずがありません」。確かにそうであろう。愛する方々。だがそれは、まさにあなたにとって甘いものであるがゆえに、その分だけ危険なのである。サタンは決してむき出しの毒を売りつけはしない。彼は常にそれを行商する前に飾りをつける。彼は、あらかじめちょっとした飾りをつけさえすれば、人々がそれを買って呑み込むことをよく知っている。快楽には気をつけるがいい。それらを手にしているとき、自分が何をしているか考えるがいい。それらのほとんどは無害で、健康に良いものだが、その多くは破滅に至らせるものである。最も美しい仙人掌が生えているところには、最も猛毒を有する蛇があらゆる植物の根元に見いだされるという。罪についてもそれと同じである。あなたの最も清らかな楽しみは、あなたの最も極悪な罪をかかえているものである。気をつけるがいい。あなたの快楽に気をつけるがいい。クレオパトラの眼鏡蛇は、花々の篭に入れて持ってこられた。そのように、種々の罪はしばしば私たちの快楽という花々の中に入れられて私たちのもとにもたらされるのである。サタンは酔いどれに、酔いを回らせる杯の甘さを差し出し、それはその人を喜ばせるが、その人の頭脳は浮かれ騒ぎに放蕩し、その人の魂はその人の内側で高ぶらされるのである。サタンは好色な人に、肉的な歓喜の眺めや楽しみ、歓楽、喜びを差し出し、そうすることでその人を道を踏み外させる。その餌には、鉤針が隠されており、後になるとその人に苦痛を与えるのである。サタンは、あなたや私ひとりひとりに、私たちが特に喜びとするものを与える。彼は私たちを快楽で喜ばせは、私たちをつかみとり、私たちを牛耳ろうとするのである。私たちはあらゆるキリスト者が、自分の性格上最も大きな喜びとなるものに対して、特に警戒してほしいと思う。自分を喜ばせるあらゆるものを避けよと云うつもりはないが、それに対して警戒せよと云いたいのである。息子たちがそれぞれの家で祝宴を開いた後のヨブとまさに同じように。彼は、彼らがそうすることを禁じはしなかったが、こう云った。「私はいけにえをささげよう。私の息子たちが、あるいは心の中で罪を犯し、愚かにも神をのろったかもしれないから」*[ヨブ1:5]。彼は、他のいかなるときにもまして、彼らが祝宴が開いたときに、彼らについて注意を払った。私たちも同じようにしようではないか。思い起こそうではないか。狩人のわなは普通は、うわべは何かの快楽あるいは利益と結びついているが、サタンの目的は私たちを楽しませることにではなく、私たちを破滅させることにあるのである。

 4. 次のこととして、時として狩人は、非常に賢明にも、模範の力を用いることがある。私たちはみな、鴨をわなに誘い込むための、おとりの鴨の影響力について知っている。いかに頻繁にサタンという狩人は、おとりを用いて、神の民を罪に至らせようとすることか! あなたがある人と近づきになるとする。あなたは彼が真のキリスト者だと思う。彼の人格に何か尊敬すべき点を見いだす。彼は堂々と信仰を告白している。キリスト教信仰について詳細に語ることができ、あなたが尋ねたいと思う神学的問題について、滔々と説明することができる。さてその彼が罪を犯すのを見たとしたら、十中八九あなたも同じようにするであろう。あなたが彼を大いに尊敬しているとしたら、そうである。そのようにして彼はあなたを導き続けるのである。そして、よく聞くがいい。サタンは、自分がおとりにしようと選んだ人々について細心の注意を払う。彼は決して善人に向かって悪人をおとりにすることはない。サタンは、キリスト者をわなにおびき寄せようとするときには、めったに公然たる無頼漢を用いはしない。しかり。彼は一見信心深そうな者、あなたと同じ資質を持っているように見える者を用いる。そのようにして、あなたを釣り込んで、道を踏み外させるのである。町で悪人があなたと出会い、罪を犯すようあなたに求めたらどうなることか! 悪魔は、悪人にそんな働きをさせようとするほど愚かではない。私がさっさと通り過ぎていくだろうことを知っているからである。もし悪魔がその用向きをうまく果たしたければ、彼は私が兄弟と呼んでいる者を私のもとに送るであろう。信仰を告白する兄弟同士の間柄であることから、私はその人を信用し、その人を敬うであろう。そして、そのとき、もしその人が脇道にそれるししたら、その模範の力は非常に強いため、私もたやすくその網に導き入れられてしまうであろう。あなたの親友に気をつけるがいい。あなたの仲間たちに気をつけるがいい。あなたにできる限り最善の人々を選び、彼らがキリストに従っている限りにおいて、彼らに従うがいい。だがあなたの道が、キリスト以外のいかなる者からも完全に独立しているようにするがいい。ヨシュアとともにこう云い、他の者たちには好きなようにさせるがいい。「私と私の家とは、主に仕える」[ヨシ24:15]。

 5. もう1つ注意したいこととして、時として狩人は、目指す鳥を欺きや小細工で捕えることができない場合、それを追って鷹狩りを行なうということである。――自分の鷹を空中に放って、その獲物を取って来させるのである。そうしたことはしばしば起こる。悪魔は、罪を犯させることである人を滅ぼせないと、彼を中傷しようとし、彼を追って鷹を送り、彼の評判を中傷することで彼を地に落とそうとする。私はあなたに1つ忠告しよう。私の知っている、ある善良な教役者は、今は尊ばれるべき老齢に達しているが、かつて、真理のために彼を憎むある人物から、この上もなくひどい誹謗中傷を受けていた。この善良な人は深く悲しみ、中傷する者に対して、謝罪しなければ告訴するぞと脅かした。相手は謝罪した。その中傷は、公の謝罪という形で新聞各紙に掲載され、ご想像の通りの結果となった。その中傷は、彼が何も云わなかった場合にまして人々に信じられたのである。そこで私はこの教訓を学んだ。――中傷という鷹に対して小鳥にできることは、ただ高く舞い上がることだけである。鷹は、小鳥が自分の上空にいる間は何の害も加えられない。――小鳥たちが下に降りてきたときにだけ、彼らを傷つけることができるのである。その鳥たちよりも上に上ったときにだけ、鷹は彼らめがけて襲いかかり、彼らを殺すことができるのである。もしだれかがあなたを中傷するなら、彼らの所に降りていってはならない。ダビデがシムイに向かって云ったように云うがいい。「主が彼にのろえと命じられたのだとしたら、彼にのろわせなさい」*[IIサム16:11]。そして、もしツェルヤの子らが、「この死に犬めの首をはねさせてください」、と云うとしたら[IIサム16:9]、云うがいい。「否。彼にのろわせなさい」。そして、そのようにしてあなたは中傷を越えて生きるであろう。もし私たちの中のある人々が、自分に向かって雀の一羽一羽が囀り出すたびに、それに目を向け、気を散らされるとしたら、それらに反論すること以外に何もできないであろう。もし私が自分の宣べ伝えているあらゆる教理について人々と戦わなくてはならないとしたら、私は悪魔を面白がらせ、三度の飯よりも口論が好きな、一部のえせ信心家たちの戦闘的な生き方にふけることのほか何もできないであろう。神の恵みによって私は、人からいかに好き勝手にけなされようと、決して反論することなく、真っ直ぐに進み続けるであろう。人格がきよく保たれさえすれば、すべての終わりはよくなるであろう。中傷によって汚物が投げつけられれば投げつけられるほど、それは輝き、いやまして輝くであろう。あなたはこれせまで一度も、自分を中傷する人々に対して、指を突きつけたくてたまらなくなったことがないだろうか? 私にはある。時として私は思った。「もう黙ってはいられない。私は、あいつに反論しなくてはならない」。だが、私は、「ののしられても、ののしり返さなかった」*[Iペテ2:23]イエスにならうことのできる恵みを神に乞い求め、主の力によって、彼らをそのまま突き進ませておいた。中傷を取り除く、この世で最も確実な道は、ただそれを放っておき、それについて何も云わないことである。というのも、もしあなたが、それを口にしているごろつきを起訴したり、それなりの行動に出るぞと脅したりして、彼が謝罪するとしても、あなたはそれで全く得をせず、――どこかの愚か者たちはなおもその中傷を信ずるであろうからである。放っておくがいい。――そのままにしておくがいい。そのようにして、神はあなたを助け、あなたの知恵によってご自身の約束を果たされるであろう。「確かに主は狩人のわなからあなたを救い出される」。

 そして今、この点をしめくくる前に、もう1つのことを述べさせてほしい。狩人は、狙う鳥を手に入れようと決意しているとき、こうした手立てを一度に使い、その鳥にあらゆる面から押し寄せる。あなたも思い起こすであろう。愛する方々。自分もそれと同じであると。サタンは、あなたの魂を永遠に滅ぼすためとあらば、ありとあらゆる手段を試さずにはおかないであろう。

   「千ものわなの 最中(さなか)にわれ立つ
    支えと守りを 御手より受けて」

古の大家クォールズは云う。

   「狡猾(さと)き追手は たゆまず植えん、
    汝が富のわな、汝が欠乏(かけ)のわな、
    汝が声望(よきな)のわな、汝が不名誉(そしり)のわな、
    汝が高位のわな、汝が卑賤のわな、

   「床の中のわな、食卓囲むわな、
    思い見張るわな、言葉につくわな、
    静寂中のわな、動揺中のわな、
    飲食のわな、静思のわな、

   「汝が決意にひそむわな、疑念にひそむわな、
    汝が心中のわな、汝が外にあるわな、
    汝が頭上のわな、汝が下にあるわな、
    汝が病にあるわな、汝が死にあるわなを」。

信仰者が歩む場所の中で、わなから免れているものはない。あらゆる木陰には、極彩色の矢を構えた土人がおり、あらゆる藪の背後には、むさぼり食おうとしている獅子がおり、あらゆる草むらには毒蛇が横たわっている。彼らは至る所にいる。注意するがいい。神の全能の力をまとうがいい。そのとき神の聖霊が私たちを守ってくださり、私たちは獅子や毒蛇を踏みつけるであろう。若い獅子や竜を私たちは足で踏みにじり、私たちは「狩人のわなから救い出される」であろう。

 II. さて私たちは第二の点に移る。――《救出》である。神はその民を狩人のわなから救い出してくださる。ここでは2つのことが考えられている。からと、中からである。最初に、神はわなから彼らを救ってくださる。――彼らがわなにかからないようにしてくださる。二番目に、彼らがわなにかかってしまったとき、その中から彼らを救い出してくださる。最初の約束は私たちの中のある者らにとって最も尊いものであり、二番目の約束は他の者らにとって最上のものである。

 神はあなたをわなから救われる。いかにしてそうなさるだろうか? 非常にしばしば苦難によってである。苦難は、しばしば神が私たちをわなから救う手段となる。あなたがたもみな、聖ポール大寺院の壁画を描いていた高名な画家の古い話を聞いたことはあるであろう。彼は自分の作品を見ながら、その素晴らしい均整美を眺めようとして一寸ずつ後ずさりし、ついに彼の足が、自分の乗っていた足場の端に達するまでとなり、もう一歩で、下に転落し、敷石の上でぐしゃぐしゃになるところだった。だが、まさにそのとき、そこに立っていたひとりの職人が、彼のいのちを救おうとして、他にどうして良いかわからず、ある非常手段を思いついた。主人に向かって、「先生、危ない!」、と叫ぶ代わりに――そんなことをすれば、確実に彼は背後に落ちてしまったであろう。――絵筆を取ると、塗料の壺に浸し、その壁画に投げつけたのである。画家は怒りに燃えて彼をどやしつけてやろうと突進してきた。だが、その説明を聞くと、自分のしもべが賢く行動したことが、まざまざと悟られた。

 神も全くそれと同じである。あなたや私は、しばしば見事な絵を描いていて、それを嘆賞して後ずさりしていった。神は私たちの後退が、たちまち私たちの破滅に終わることをご存じである。それで神は、悲しい摂理によって私たちの見込みをしなびさせ、私たちの子どもを取り去り、私たちの妻を埋葬し、私たちの楽しみとする何か最愛の対象を取り除く。すると私たちは突進していって、「主よ。なぜこんなことが?」、と云う。――苦難がなければ、私たちが粉微塵になり、私たちの人生が破滅のうちに終わることにまるで気づいていないのである。疑いもなく、あなたがたの中の多くの人々が滅びから救われてきたのは、あなたの悲しみ、あなたの嘆き、あなたの苦難、あなたの災い、あなたの損失、そしてあなたの十字架によってであった。これらはみな、狩人のわなからあなたを自由にするために、網を破ることだったのである。

 別の時に神は、ご自分の民を狩人のわなから守るために、彼らに大きな霊的力、大きな勇気の霊をお与えになる。そうされることで彼らは、悪を行なうように誘惑されても、断固として云うのである。「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」[創39:9]。おゝ、それこそ、ヨセフが女主人から衣をつかまれたときに行なった気高い脱出であった。彼がそのように気高く脱出できたのは、その魂が狩人のわなの中から逃げ出したからである。そして疑いもなく、この場には、ヨセフと同じくらい気高い行為を行なってきた人々が数多くいるであろう。彼らは自分の心のうちに恵みを有していたために、愚かなことを見ないよう自分の目をそらし、悪を行なうよう誘惑されるときも、梃子でも動かずにこう云った。「私にはできない。私にはできない。私は神の子どもである。私にはできないし、してはならないのだ」。そして、たといそのことが自分にとって楽しいことではあっても、それを慎んだ。あなたは、バニヤンの『天路歴程』の中の固守者のことを覚えているであろう。《泡ぶく夫人》は、その申し出によってこのあわれな固守者を優しく誘惑していたが、彼はこう云った。「年はとっていますが服装はひどく好ましい女の人が現われて私に三つのものを呉れるようにと申し出ました。すなわち、彼女の肉体と、財布と、寝台です。ところで実は私も疲れてはいるし眠くもありました。それに私はまるでふくろうのように貧乏ですが、多分その魔女はそのことを知っていたのでしょう。私は一二度はねつけたのですが、彼女は私の拒絶を受け流して笑っているのです。そこで私も腹を立てるようになったのですが、そんな事は少しも気にかけないのでした。それからまたもや申し出でをして言いました、もしあなたが私の言うとおりになるならば、あなたを幸福な偉い人にしてあげましょう。というのも、と彼女は言うのです。私はこの世の女主人であって、人々は私によって幸福にされるのですから。そこで私は彼女に名を聞きますと、泡ぶく夫人だと言いました。このため私は一層彼女から離れました。しかし彼女はなおも誘惑をもって私を追いかけるのです。そこでご覧になったように私はひざまずいて手をあげて呼ばわり、助けようと仰せられたお方に祈りました。ちょうどあなた方が近づいて来られたとき、その夫人は立ち去りました。それで私はこの大きな救いに対してなおも感謝をささげていました。彼女は善いことは少しも図らず、むしろ私の旅行を止めさせようとしていたと私は実際信じています」*1。これこそ、神がその民を狩人のわなからお救いになるしかたである。神は彼らの祈りの霊と、勇気の霊を与えて、苦難の日に神を呼び求めさせ[詩50:15]、彼らをお救いになるのである。

 そして私はもう1つ、非常に異様なことに注目してきた。時として私は、私自身、狩人のわなから救われたことがある(具体的にどのようにしてか告げることはできないが)。それはこのようなしかたによってである。私はこう感じたのである。もし誘惑がもう一週間早くやって来ていたとしたら、その特定の状況における自分の精神は、ほとんど必然的にそれによって道をそらされていたであろう。だが、それがやって来たとき、私の精神は、何らかの過程を経たことによって、その誘惑が全く何の誘惑でもないような状態に至らされていたのである。私たちは、ある状態にさせられることによって、以前は自分を滅ぼしていたはずのものに目もくれないようにさせられた。私たちは云った。「否。もしお前がこれを少し前に私に差し出していたとしたら、私は受け入れたかもしれない。だが今や神は、その御霊の不思議な影響力によって、私の心を別の方向に転じられたのだ。そして、これは、私にとって全く誘惑ですらないのだ。――ほんの一瞬考えるにも値しないものなのだ」。そのようにして神は、ご自分の民を狩人のわなからお救いになる。

 しかし、第二に考えられることは、神はその民を、彼らがわなにかかったときでさえ、救い出される、ということである。悲しいかな! 話をお聞きの方々。あなたや私は、その網についていくらかは知っている。私たちは実際その中に入ったことがある。私たちはそれが広げられるのを見ただけではなく、それに包み込まれたことがある。私たちはその檻についていくらかは知っている。というのも、不幸にして私たちは、自らその檻の中に、主を知った後でさえ、入ったことがあるからである。狩人はその手を私たちの首にかけた。神の主権の恵みによってのみ、私たちはその狩人から完全に滅ぼされずにすんだのである。これはなんとほむべきことであろう。たとい信仰者が、ある邪悪な時に、網に飛び込むとしても、それでも神は彼をそこから連れ出してくださるのである! あわれな基督者と有望者は、あの巨人絶望者の城に入ったとき、狩人の網につかまったのである。だが、「約束」という鍵が錠を開き、彼らは脱出した。また彼らは、巧言者が彼らの上に網を投げ、彼らを小道に置き去りにしたときも、狩人のわなにかかった*2。だが、そこにひとりの人がやって来て、彼らをひどく打ち懲らした後で、その網をはずし、彼らは網にかかる前よりも賢くなって道を進み続けた。私は、今その網の中にいる人を知っている。神ご自身の者のひとりである、どこかの鳥が、わなにかかっている。そして今、呻き叫んでいる。なぜなら、あゝ! あゝ! 彼は罪を犯したからである。この場にいるひとりの人は、善人であり、キリスト教信仰を告白しており、まことに立派な人である! だが、あゝ! 彼は罪を犯している。そして、今この時も、目に涙を浮かべて、こう云っている。

   「乱れ騒げる わが思い
    増し加えたり わが災厄(まが)を。
    わが霊(たま)うなだれ、わが心
    打ち捨てられて 沈みたり。

   「返りませ、主よ。わが魂(たま)に。
    近寄せ給え、汝が救い、
    御手により、いつわが足は
    死の縄目より 解かれんや?」

おゝ、信仰後退者よ。打ちしおれるがいい。だが絶望してはならない。神はまだあなたを回復してくださる。あなたはさまよう者ではあったが、神の仰せを聞くがいい! 「背信の子らよ。帰れ。わたしはあなたをあわれもう」*[エレ3:14]。しかし、あなたは、自分には帰れないと云う。ならば、ここにはさらに約束がある。――「確かに主は狩人のわなからあなたを救い出される」。あなたは、なおもあなたが陥ったあらゆる悪から連れ出されるであろう。そして、たといあなたが、決して立ち止まることなく、自分の生き方を死の当日まで悔い改めなくとも、あなたを愛してこられた神は、あなたを捨てることなく、あなたを受け入れ、あなたがご自分の住まいに入ることを許し、その期に及んでもご自分の民の一員へとあなたを回復させ、あなたに喜びと楽しみを与え、ご自分がお砕きになった骨が喜ぶようにされるであろう[詩51:8]。「確かに主は狩人のわなからあなたを救い出される」。

 神が狩人のわなから御民を救い出された、非常に尋常ならざる実例がある。例えば、次のような場合にそれは示されている。

 「ニューヨーク市のとある教会に属するひとりの若い婦人が、キリスト者ではない青年と結婚した。彼は巨利を博する商売に携わる商人で、黄金の流れが絶えず注ぎ込まれた結果、ついには巨万の富を築くまでとなった。それに伴って彼は商売から引退し、田園地方に移り住んだ。彼は豪奢な住宅を購入した。見事な木々がその葉の茂った枝々を周囲でそよがせ、こちらには魚の大群が住む湖があり、そちらには珍重される低木や花々が一杯の庭園があった。彼らの家は、当世風の高価な家具が備え付けられ、定命の人間が望みうるすべてを有しているかに見えた。このように富み栄え、その陽気で流行の最先端を行く隣人たちとの慇懃な交際によって攻撃されたあげくに、この婦人の敬神の念は衰え、彼女の心はこの世にしっかりと結びついてしまった。彼女の三人の子どもたちが、成長するにつれて、彼女の精神を吸収し、彼女の模範にならうようになったのも不思議ではなかった。『厳しい病は厳しい治療法を要す』、と云われるが、すぐに神はそれをお与えになった。ある朝、彼女の小さな男の子が、魚のいる湖に落ちて溺れたという知らせが届いた。母親の心はその苦しみに刺し貫かれ、涙をさめざめと流しながら、神の摂理に向かってつぶやいた。それから間もなくして、彼女のただひとりの娘が、十六歳という妙齢で熱病にかかり、死んでしまった。その時には、母の心は張り裂けてしまったかのように思われた。しかし、懲らしめ給う御父から受けたこの新たな鞭の一打ちは、みこころに対する彼女の不満を増しただけのように思われた。ただひとり残された子ども、彼女の長男は、妹の葬儀に出席するため大学から戻っていたが、その後すぐに猟をする目的で野に出ていった。ある柵を乗り越えようとして彼は、自分の銃をまず地面に放り出し、身軽になってから着地しようとした途端に、銃が暴発して彼を撃ち殺してしまった! そのとき、その母親はどう感じただろうか? とめどない悲嘆に打ちのめされた彼女は、地に突っ伏して、髪の毛をかきむしり、狂人のように神の摂理に向かって毒づいた。すでに耐えがたいほどの悲嘆をかかえていた父親は、この衝撃的な光景を眺め、彼女の凶暴な毒舌を耳にしたとき、もはや自分のみじめさに我慢ができなくなった。まるで魂がえぐられたかのように、積み重なった患難の犠牲者となった彼は、ばたりと倒れて即死してしまった。この妻であり母親ある彼女から、その夫と子どもたち全員が今や取り去られたのである。正気を取り戻した彼女は、自らを省みさせられた。彼女は、自分の恐ろしい後退と、高慢と、反逆を見てとった。そして彼女は深い悔い改めの涙を流した。彼女の魂に平安が戻ってきた。そのとき彼女は両手を天に掲げて叫んだ。「御父よ。感謝します!――主は与え、主は取られます。主の御名はほむべきかな」。このようにして彼女の数々の患難は、平安な義の実[ヘブ12:11]を結ばせた。彼女の天にいます御父が彼女を懲らしめたのは、「自分が良いと思うままにではなく、彼女の益のため、彼女をご自分の聖さにあずからせようとして」[ヘブ12:10]そうなさったのである。

 それで神は彼女の魂を狩人のわなから救い出された。彼女は新たに義の道を歩みだし、勤勉に、また熱心に神に仕え、神を恐れることにおいて成長していった。苦難と試練により、何らかの手段により、神は確かに御民を狩人のわなから救い出されるであろう。彼らが、それにかかってしまったときでさえ、そうである。

 III. さて今、しめくくりとして私は、ほんのしばし、この「確かに」という言葉を詳しく考えたい。聖書のあらゆる真理の確実さは、まさしくその美しさのかなめにほかならない。もしそれが確かでないとしたら、それは尊くない。だが、それが確かなればこそ、それは尊いのである。

 さて、これは、「確かに主はあなたを救い出される」、と云っている。なぜか? なぜなら、まず神はそうすると約束しておられ、神の約束は、いまだかつて決して不渡りになったことのない債券だからである。もし神がそうなさると云われたとしたら、神はそうなさる。次に、キリスト・イエスがそうなさると誓っておられるからである。はるか昔の時代に、キリスト・イエスは羊たちの羊飼いとなられ、彼らの《保証人》ともなられた。主は云われた。「もし彼らのだれかが滅びるとしたら、私の手からそれをつかみとるがいい」。それゆえ、キリストが責任を持ち、キリストが神の民すべての天における保証人であられるので、彼らは守られるに違いない。さもなければキリストの債券が没収され、キリストの誓いが無になり失効してしまったことになるからである。また、彼らが守られるに違いないのは、さもなければ、彼ら全員とキリストとの間にある結びつきが現実のものではなくなってしまうからである。キリストと、その《教会》は一体である。――1つのからだである。だが、もし私のからだの一部が切り落とされたとしたら、私は片輪になってしまうであろう。そして、もしキリストがご自分の子どもたちのひとりでも失うことがありえたとしたら、キリストは片輪のキリストになるであろう。「私たちはキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」*[エペ1:23]。ならば、もし《教会》全体が集め入れられないとしたら、キリストは不完全なキリストとなるであろう。いっさいのものによっては満たされないキリストとなるからである。彼らはみな救われなくてはならない。というのも、父なる神は、彼らが救われることを心に決めておられるからである。しかり。御子は彼らが救われると誓っておられ、聖霊なる神は彼らが救われると請け合っておられる。神の民のひとりとして捨てられることはない。さもなければ、聖書は真実ではない。契約の安泰さのすべては、彼らの最終的堅忍にかかっている。恵みの契約全体は、ここにかかっているのである。――

   「主はわが魂(たま)を
    しみなく 全き者として
    栄光(はえ)ある御顔の 前に現わし、
    輝く喜び 大いに賜わん」。

そして、それゆえ、彼は狩人のわなから無事に保護されなくてはならないのである。さもなければ、この契約が無効になり、失効するからである。もしひとりでも滅びたなら、この誓いは破られる。もしひとりでも捨てられるとしたら、この契約は無効になる。それゆえ、彼らは安全に守られなくてはならない。

   「わが主の栄誉(ほまれ) かかりたり、
    いかな小羊(ひつじ)の 救いにも。
    天父(ちち)の給いし ものみなを
    主の御手かたく 守り抜かん」。

私には、この主題を展開する時間がないが、これは大きく栄光に満ちたものであり、何回分もの講話の題材となりうるものである。いま私は、しめくくりにこう云うことにする。兄弟たち。この約束はあなたのものだろうか? 「確かに主はあなたを救い出される」。あなたはその人だろうか? 「どうすれば、私に分かるのですか?」、とあなたは云うであろう。あなたは主イエス・キリストを信じているだろうか? 咎ある罪人として、この清浄無垢な《贖い主》の血と義とに完全に身をゆだねているだろうか? 私は決してあなたがウェスレー派か、国教徒か、バプテスト派か、独立派か、長老派かなどと尋ねはしない。私の唯一の質問はこうである。あなたは新しく生まれているだろうか? あなたは死からいのちに移っているだろうか? あなたは、「キリスト・イエスのうちにある新しく造られた者」*[IIコリ5:17]だろうか? あなたの全信頼は主イエス・キリストに置かれているだろうか? 主の生涯はあなたの模範となっているだろうか? 主の霊はあなたの定命のからだに宿っているだろうか? そうだとしたら、あなたに平安があるように。この約束はあなたのものである。あなたは最低の人間だったかもしれないが、キリストを信ずる信仰を有しているとしたら、そうした罪はみな赦されており、この約束を永遠に自分のものとしていられるであろう。しかし、もしあなたが自分を義とし、自己満足し、不敬虔で、無頓着で、世的な者だとしたら、そのような約束は何1つあなたのものではない。あなたはわなにかかっており、そこにとどまり続け、悔い改めない限り、滅びることになるであろう。こう書かれているからである。「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」[ルカ13:3]。願わくは神が、あなたを滅びから救ってくださるように。キリストの血の恩恵にあずからせてくださるように。そして、御父と、御子と、聖霊とに、栄光が永遠にあるように。

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*1 ジョン・バニヤン、『天路歴程 続編』p.233(池谷俊雄訳)、新教出版社、1985。ただし「for, said
she, I am the mistress of the world, and men are made happy by me.」の一文がなかったために補訳。[本文に戻る]

*2 ジョン・バニヤン、『天路歴程』p.235-237(池谷俊雄訳)、新教出版社、1976。[本文に戻る]

 

狩人のわな[了]

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