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特定の選び

NO. 123

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1857年3月22日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです」。――IIペテ1:10、11


 礼拝の時に、また祈りの家において、ことのほか望ましいのは、私たちの精神が、いかなる世俗的な思いからも、できる限り脱却しているということである。週日の仕事は、何かにつけ私たちとあらがい、安息日に侵蝕しようとするものだが、私たちの務めは、安息日を自分の世俗的な心遣いの侵入から守ることである。それは、砂漠の中の肥沃地を怒濤のごとき砂の殺到から守ろうとするのと変わらない。しかしながら、本日の私たちを取り巻いている情勢は、私たちの精神を霊的な事がらに向けようすることを、格別に困難にするものだという気がする。というのも、聖所で何らかの益を得ることが、精神の抽象作用に基づいているとしたら、いかなる時期にもましてその妨げとなる最悪の時は、選挙期間かもしれないからである。多くの人々の精神において、政治は非常に重要な問題である。このため、ともすると私たちは、慌ただしい週日の日々に加えて、人を熱中させる選挙の営みが続いてきた後で、祈りの家の中にもそれと同じ想念、同じ感情を持ち込んでしまう。ことによると私たちは、礼拝の場所においてさえ、私たちの自治区に返り咲くのは保守党だろうか自由党だろうか、果たしてロンドン市中に返り咲くのはジョン・ラッセル卿だろうか、ロスチャイルド男爵だろうか、カリー氏だろうか、などと想像をたくましくしているかもしれない。そこで今朝、私はこう思ったのである。よろしい。この大いなる列車の進行を食い止めようとしても無駄である。人々は、今しもこうした事がらについて驀進しつつあるのだ。ならば賢くふるまうことにしよう。躍起になって彼らを別の線に乗り換えさせようとするのではなく、転轍器を変えて、彼らがそれまでと同じ速さでその追求を続けながらも、新たな方向へ進んで行かせよう。それは同じ線であろう。彼らはなおも真剣にだれかを選ぶことに向かっているであろう。だがことによると、私がちょっとした手心を加えれば、その転轍器を変えて、彼らが相当に異なった選びのことを考察するようにできるかもしれない。

 あるときホイットフィールド氏は、とある総選挙で、その影響力を役立ててくれないかと要請されたとき、自分にそう頼んできた貴族に対してこう答えた。私は、閣下が普通の意味で選ばれることを確実にできるかどうかは大して保証できませんが、もしも自分の忠告を受け入れてくださるとしたら、閣下ご自身が特別の意味で「召されたことと選ばれたこととを確かなものと」することはいたしましょう、と。これは非常に適切な言葉であった。しかしながら私は、この場にいるいかなる人に対しても、あなたの市民としての特権を軽蔑するように告げたいとは思わない。私はそのようなことを毛頭考えていない。私たちは、キリスト教信仰を告白する者となるとき、公民権によって授けられている種々の権利や特権を持たなくなるわけではない。投票する権利を用いる機会があるときには、《全能の神》の御前であるかのように常にそれを用いるがいい。私たちは自分があらゆることについて弁明することになるのを知っており、この権利が私たちに委ねられている以上、他のことと合わせて、このことについても申し開きをすることになると分かっているからである。また覚えておこう。私たちは、相当な程度まで自分自身の為政者であり、もし次の選挙で間違った為政者を選んでしまったとしたら、そうした者たちが後にいかに誤った行動をしても、自業自得だということである。少なくとも、あらゆる思慮を働かせ、正しい選択ができるように自分の心を導いてくださいと《全能の神》に祈りつつそうするのでない限りそうである。願わくは神が私たちを助けてくださり、その結果が神の栄光を益するものとなるように。たといその結果が、私たちの中のある者らにとっては、いかに予期せぬものとなろうとも!

 さて、こうしたことを語った上で、私に転轍器を変えさせてほしい。そしてあなたを、自分自身の特定の召しと選びの考察へと引き寄せさせてほしい。そのため私は、使徒の言葉によってあなたにこう命じたいと思う。「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです」。ここにあるのは、まず第一に、キリスト教信仰における2つの根本的な点――「召されたことと選ばれたこと」である。第二に、ここにあるのは、いくつかの有益な忠告である。――「あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」。あるいはむしろ、私たちが召された者であることと、選ばれた者であることを確かめよ、ということである。それから、第三のこととして、ここには、なぜ私たちがますます熱心になって、自分の選びについて確信すべきかという、いくつかの理由が与えられている。――なぜなら、1つのこととして、私たちがつまずかないように守られるためであり、別のこととして、私たちが「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられる」ためである。

 I. まず第一に、ここには《キリスト教信仰における2つの重要な問題》がある。――どちらも、この世には隠されていること、――天来の恵みによって生かされた人々によってのみ理解されること、すなわち、《召されたことと選ばれたこと》にである。

 聖書の「召し」という言葉によって、私たちは2つのことを理解する。――1つは、一般的な召命であって、福音宣教において、天の下のすべての造られたもの[コロ1:23]に与えられるものである。二番目の召しは(それが、この箇所で意図されていることだが)、特別の召命である。――これを私たちは有効召命と呼ぶが、これによって神は、ひそかに、手段を用い、聖霊の抗しがたい力によって、人類の中からある特定の人数を呼び出してくださる。それは、神ご自身が以前からお選びになっていた人々であり、神はこの人々をその罪から召し出して義なる者とし、罪と罪過の中にある死[エペ2:1]から召し出して、生きた霊的な人とし、世俗的な目的追求の中から召し出して、イエス・キリストを愛する者としてくださる。この2つの召しは、非常に異なっている。バニヤンが、しごく適切に云い表わしているように、「神は、その一般召命によっては何もお与えにならない。その特別召命によっては、常に何かをお与えになる。また神には、そのみつばさの影にいる者たち向けの、ひなを暖めるような御声がある。そして神には、敵がやって来るのをご覧になるときに警告を発する大音声の御声がある」。私たちの救いにとって絶対必要なものとして私たちが獲得しなくてはならないのは、特別の召しである。それは、私たちの内側でなされる召し、私たちの耳にではなく私たちの心に届く召し、私たちの単なる肉的な理解にではなく内なる人に届く、聖霊の力によってなされる召しである。それから、もう1つの重要なことは選びである。召しがなければ何の救いもないように、選びがなければ何の召しもない。聖書が私たちに教えるところ、神は初めから私たちを、聖潔を得させるために[Iテサ4:7]、イエス・キリストによって選んでおられた。私たちに告げられるところ、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰にはいり[使13:48]、そうした人々が信ずるのは、すべての世に先立って、彼らが永遠のいのちに定められていた効果なのである。このことに対していかに異論が唱えられようとも――また、今もしきりに唱えられているが――、聖書の真正さと完全霊感とをまず否定するのでなければ、このことを正当に、また真実に否定することはできない。また、この場にいる多くの方々は監督派教会の会員に違いないが、そうである以上、その人々には、私が以前もしばしば語ってきたことを云わせてほしい。「もし選びの教理を信じないとしたら、あなたがたは、あらゆる人にまさって、この世で最も首尾一貫しない人々である。というのも、たといそれが聖書で教えられていないとしても、1つのことだけは絶対に確実だからである。すなわち、それは、あなたの《信仰箇条》で教えられているのである」、と。この世の何にもまして強烈に表現されていること、何にもして明確に規定されていること、それは英国国教会の《祈祷書》に記された、予定の教理である。確かにそこでは、私たちがすでに承知している通りのことが告げられている。この教理は高遠な奥義であって、光を受けた人々によって慎重に扱われるべきものにほかならない。しかしながら、疑いもなくこれは聖書の教理であって、救われた人々が救われたのは、神が彼らを救われるように選ばれたからであり、神のその最初の選びの効果として召されているのである。もしあなたがたの中のだれかがこのことに異議を唱えるとしたら、私は聖書の権威の上に立つ。左様。そして、もし伝統に訴えることが必要だとしたら――そのような必要はないと私は確信しており、キリスト者であるいかなる者もそうした訴えをしたいとは思わないであろうが――、それでも私はその点を実証できるであろう。というのも私は、この教理を、数々の聖なる人々のくちびるを通して連綿と辿ることができるからである。いま現在の瞬間から、カルヴァンの時代、そこからアウグスティヌス、そしてそこからパウロ自身、そして主イエス・キリストのくちびるにさえ辿ることができるのである。この教理は、疑いもなく聖書で教えられている。もしも人々がこの教理に対して自分をへりくだらせることができないほど高慢でなかったとしたら、これは明らかな真理以外の何物でもないものとして、あまねく信じられ、受け入れられていたであろう。何と、方々。あなたは神がその子どもたちを愛しているとは信じていないのだろうか? ではあなたは、神が変わることのないお方であることを知らないのだろうか? 人々が救われる場合、神が彼らをお救いになることを信じていないのだろうか? もしそうだとしたら、こう認めることに何か困難が見てとれるだろうか? すなわち、神が彼らをお救いになるからには、彼らをお救いになる意図があったに違いない。――その意図は、いかなる世界が造られる前からも存在していたのだ、と。あなたは、私がそう云うことを認めるだろうか? もしそうしないというなら、私はあなたを聖書そのものにまかせなくてはならない。そして、もし聖書があなたをこの点で確信させないとしたら、私はあなたを確信のないまま放っておかなくてはならない。

 しかしながら、こう問われるであろう。なぜここでは召し選びの前に置かれているのですか。選びは永遠の中にあり、召しは時間の中で起こるというのに、と。答えよう。召しは、私たちにとっては最初に来るからである。あなたや私に最初に分かるのは、自分が召されたことである。私たちは、自分が召されていると感じるまでは、自分が選ばれた者かどうかは分からない。私たちは、まず第一に自分が召されたことを実証しなくてはならない。そのとき私たちの選びは、最も確かに確実なものとなるのである。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」[ロマ8:30]。私たちの理解においては、召しが最初に来る。私たちは神の御霊によって、自分の悪い状態から召され、新しく生まれさせられ、新しく創造された者とされる。それから後ろを振り返ってみて、自分が選ばれている者であることを何にもまして確実に見てとるのである。なぜなら、私たちは召されたからである。

 さてここで私は、この聖句を説明し終えたと思う。あなたや私が自分に対して確実であると実証すべきことが2つある。――私たちが召された者であるかどうかと、私たちが選ばれた者であるかどうかである。そして、おゝ、愛する方々。これは、あなたや私が非常に気を遣うべき件である。というのも、選ばれているとは、いかに栄誉あることか考えてみるがいい。この世では、国会議員として選ばれることが非常に素晴らしいことと考えられている。だが、永遠のいのちに選ばれることは、いかにいやまさって栄誉あることか。「天にその名が登録されている長子たちの教会」*[ヘブ12:23]に選ばれ、御使いたちの同輩となり、生ける神のお気に入りとなり、《いと高き方》とともに、光の子らの麗しき中、永遠の御座に近く住むべく選ばれるということは! この世における選びは短期間のものでしかないが、神の選びは永遠である。ある人が国会の議席に選ばれたとする。その選びを保持していられるのは最大で七年間である。だが、もしあなたや私が《天来の》目的によって選ばれたとしたら、私たちは自分の座席を、明けの明星が燃えるのをやめ、太陽が年老いて薄暗くなり、永遠の丘の背中が老衰のため曲がったときも、保持しているであろう。もし私たちが、神の目には、選ばれた、尊い者[Iペテ2:4]であるとしたら、私たちは永遠に選ばれているであろう。神はご自身の選びの対象において変わることがないからである。神は、あらかじめ定めた者らを、永遠のいのちに定められたのであり、「彼らは決して滅びることがなく、また、だれも主の手から彼らを奪い去るようなことはありません」*[ヨハ10:28]。自分が選ばれた者であると知ることは価値あることである。というのも、この世のいかなるものにもまして、ある人を幸福にするもの、あるいは、勇敢にするものは、自分の選びを知ることにほかならないからである。キリストはその使徒たちに云われた。「だがしかし、そのことで喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」*[ルカ10:20]。――最も甘やかな慰め、何にもまして最も尊い蜂蜜のしたたり、それは、私たちが神から選ばれていると知ることだからである。そして、愛する方々。このことは、人を勇敢にすることでもある。ある人が、ますます熱心に、自分の選びの確信に達したとき、人はその人を臆病にすることができない。いかなる激戦の最中にあってさえ、その人に参ったと云わせることは決してできない。その人は軍旗を堅くしっかりと握り、真理という偃月刀で自分の敵どもを叩き斬る。「私はこの真理の旗手となるべく神から定められたではないだろうか? 私は、何者を前にしようと、堅くこれに立たなくてはならないし、これに立つであろう」。その人はいかなる敵にもこう云う。「私は王に選ばれているではないだろうか? 大水の流れが、ある王の輝かしい額から神聖な油注ぎを洗い落とせるだろうか? 否、決して否! そしてもし神が私を王として、またご自身に仕える祭司として永遠に選んでおられるとしたら、何がやって来るかもしれず、また実際に何がやって来ようと――獅子の牙、燃えさかる炉、槍、拷問台、火刑柱、こうしたすべては何ほどのことでもない。私が神から救いに選ばれていることを思えば」。宿命論は人を弱くすると云われる。それは嘘である。理論的にはそう思えるかもしれないが、実際上は、それは常にその逆であることが見いだされてきた。運命を信じている人々、またそれに堅く固執する人々は、常に最も勇敢な行為を行なってきた。これはマホメットの信仰にさえ通ずる1つの点である。彼によってなされた種々の行為は、主として、神が彼をそのわざに定めたという堅い確信からなされた。クロムウェルがその敵を敗走させたのも、ひとえに、それが、このほとんど全能の真理の厳格な力の中にあったからである。偉大で勇敢な行為を行なう強い人々として数えられるほとんどの人は、《摂理》の神を確信し、人生の種々の偶発事を神によって支配されているものとみなし、自分を神の堅固な予定に明け渡し、この世のいかなる意志やいかなる願いにも逆らって、神のみこころの流れに運ばれるままにする人であろう。「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」。

 II. さあ、それでは、第二の点、《有益な忠告》である。「あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」。神に対してではない。それらは、神には確かなものだからである。あなた自身に対して、それらを確かなものとするがいい。それらを全く確信のもてるものとするがいい。それらについて完全に納得するがいい。わが国の非国教徒の礼拝所の多くでは、疑うことが非常に奨励されている。ある人が牧師の前に来て云う。「おゝ! 先生。私は自分が回心していないのではないかと思って心配でなりません。自分が神の子どもではないのではないかとおののいています。おゝ! 私は、自分が主に選ばれた民のひとりではないのではないかと恐れています」。その牧師は、両手を差し出しては云うであろう。「愛する兄弟。あなたは、疑うことができる限り何の問題もありませんよ」。さて、私はこれは全く間違いであると主張するものである。聖書は決して、「疑う者は救われる」、とは云っていない。「信じる者は救われる」のである。その人が良い状態にあるというのは真実かもしれない。その人が多少は慰めを必要としているのは真実かもしれない。だが、その人の疑いは良いことではないし、私たちもその人の疑いを助長すべきではない。私たちの務めは、その人がその疑いから脱するように励まし、神の恵みによってその人が、「ますます熱心に、その召されたことと選ばれたこととを確かなものとする」ように促すことである。それを疑わせるのではなく、確かなものとさせることである。あゝ! 私は、どこかの偽善的な疑う人々がこう云うのを聞いたことがある。「おゝ! 私は、自分が主のものであるかどうかを、これほども疑っています」。そこで私は内心こう思った。「そして私も、あんたがたについては山ほど疑ってるよ」。私はある人々がこう云うのを聞いたことがある。こうした人々は、自分が主の民ではないのではないかと恐れておののいてるという。そして、この怠け者の連中は、日曜日に自分の会衆席に座り、ただ説教を聞くが、決して熱心になることなど考えない。決して善を施すことはしない。ことによると、裏表のある生活をしているかもしれない。そして、それから疑いについて語るのである。そうした人々が疑いをいだくのはまことにもっともである。疑って当然である。そして、もし彼らが疑わないとしたら、私たちが彼らについて疑い出すであろう。怠惰な者らには、確信を持つ何の権利もない。聖書は云う。「ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」。

 完全な確信は、きわめてすぐれた境地である。ある人がこの生において確信を持ち、自分が召されていることと選ばれていることを絶対に確かなものとするのは、その人にとって有益なことである。しかし、いかにしてその人は確かになれるだろうか? さて、いま話を聞いている中でも、ものをよく知らない方の人々の多くは、自分の選びを確信させられる唯一の道は、何らかの啓示か、何らかの夢か、何らかの神秘によるしかないと想像している。私は、自分の幻を頼りにしているある人々のおかげで、大いに笑わせてもらったことがある。実際、もしあなたが私ほど多くの種類の、信仰を告白する無知なキリスト者たちの間を通り抜けてきたとしたら、また、これほど多くの疑いや恐れの決着をつけて来ざるをえなかったとしたら、あなたは夢だの幻だのには、いやというほどうんざりし、だれかがそれについて話し出すや否や、「さあ、もう黙っていてくれよ」、と云い出すであろう。ある婦人は云った。「先生。私は玄関脇の居間で祈っていましたら、青い光が見えました。そして、隅に《救い主》を見たような気がしました。それで私は、私は大丈夫なのだ、と自分に云いました」。(ここでスポルジョン氏は、異様な迷妄にとりつかけた、ある貧しい婦人の尋常ならざる話を物語った)。だがしかし、この国の至る所、また、あらゆるキリスト教団体の会員の中には、自分が召され、選ばれていると信ずる自分たちの信念の根拠として、これと同じくらい滑稽な何らかの幻を見たとか、これと同じくらい馬鹿げた声を聞いたとかいう以上のものを全く有していない人々がごまんといるのである。ある若い婦人が、しばらく前に私の所にやって来て、教会に加わりたいと云った。そこで私が、あなたはどうして自分が回心しているとわかるのですかと聞くと、彼女は、自分が庭の隅にいたとき、ある声を聞き、雲の中に何かを見て、これこれのことを告げられたような気がすると云うのである。「よろしい」、と私は彼女に云った。「そのことは、あなたに善を施すための手段だったかもしれませんが、もしあなたがそれを頼りにするとしたら、あなたは一巻の終わりですよ」。左様。夢、そして幻は、しばしば人々をキリスト教のもとに導くかもしれない。私の知っている多くの人々は、私には摩訶不思議に思われるが、疑問の余地なく、そうしたものによってキリストのもとに導かれた。だが、人々がこうしたことを、自分の回心の証拠として持ち出すとき、そこには間違いがある。なぜなら、あなたはそうしたすべてのために愚か者となることがありえるし、それらを見たために、いやが上にも大きな罪人となってしまうことがありえるからである。こうしたすべてのことを持つよりも、ずっとすぐれた証拠があるのである。「ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」。

 ある人は云うであろう。「ならば、いかにして私は、自分が召されたことと選ばれたこととを確かなものとにできるのでしょうか?」 何と、このようにしてである。――もしあなたが疑わしい状態から脱したければ、怠惰な状態から脱するがいい。もしあなたが震えおののく状態から脱したければ、無関心でなまぬるい状態から脱するがいい。というのも、なまぬるさと疑い、また怠惰さとおののきは、事の性質上、非常に密接な関係があるからである。もしあなたがほむべき御霊の影響と助けの下で、完全な信仰の確信という卓越した恵みを楽しみたければ、聖書があなたに命じていることを行なうがいい。――「ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」。何において、熱心になればよいだろうか? 聖書があなたに1つの一覧表を示していることに注意するがいい。あなたの信仰において熱心になるがいい。あなたの信仰が、正しい種類のものであるように気をつけるがいい。――それが信条ではなく、信用であるようにするがいい。――それをただの教理に対する信念とするのではなく、自分の心に教理を受け入れ、その教理の実際的な光を自分の魂に受け入れることである。あなたの信仰が必要から生じたものであるように気をつけるがいい。――あなたがキリストを信じるのは、他の何も信じるものがないからであるようにするがいい。それが、キリストだけにすがりつく単純な信仰であるように気をつけるがいい。イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方[Iコリ2:2]にしかより頼まない信仰とするがいい。そして、このことについて、あなたが熱心になったなら、次には、あなたの勇気について熱心になるがいい。を手に入れるよう労苦するがいい。神があなたに獅子の顔を与えてくださるよう、神に訴えるがいい。あなたが決していかなる敵をも恐れないように。彼がいかにあなたを嘲り、脅かそうとも、むしろあなたが正しい者の良心をもって、神に信頼しながら大胆に進んで行けるように、と。そして、聖霊の助けによって、それを獲得したならば、聖書をよく学び、知識を得るがいい。というのも、教理の知識はあなたの信仰を非常に確かな者とする傾向があるからである。神のことばを理解しようと努めるがいい。筋の通った、霊的な聖書観をいだくがいい。できるものなら、神の聖書から1つの神学体系を得るがいい。その諸教理を1つにまとめるがいい。無謬のみことばに基づいた、本物の神学的知識を得るがいい。この科学の知識を得るがいい。それは最も蔑まれているが、何にもまして必要な科学、十字架につけられたキリストの科学、また恵みの偉大な諸教理の科学である。そして、それをなし終えたら、「知識には自制を加えなさい」。あなたのからだに気をつけるがいい。そこで自制するがいい。あなたの魂に気をつけるがいい。そこで自制するがいい。高慢に酔ってはならない。自己信頼で高揚させられてはならない。自制するがいい。あなたの友人たちに辛辣であってはならない。あなたの敵たちに無情であってはならない。くちびるの自制、生活の自制、心の自制、思想の自制を得るがいい。激情に駆られてはならない。教えのあらゆる風に吹き回されてはならない。自制を得るがいい。そして、それからそれに、神の聖霊によって、忍耐を加えるがいい。患難を忍ぶ忍耐、精錬されると黄金のように出てくる忍耐を与えてくださるよう、御霊に願うがいい。忍耐で身を飾るがいい。そして、病のときもつぶやかないようになるがいい。損失をこうむるときも神を呪わず、苦しめられるときも意気阻喪しないようになるがいい。聖霊が、最後まで耐え抜く忍耐によってあなたを力づけてくださるまで、絶えず祈るがいい。そして、それを得たなら、敬虔を得るがいい。敬虔は単なる信心深さ以上のものである。いかに信心深い人であっても、途方もなく不敬虔な人になることがありえる。そして、時として敬虔な人は不信心に見えることもある。この逆説のように思えることを少し説明させてほしい。本当に信心深い人とは、礼典を受けるときにはため息をつき、教会や会堂に出席し、外的には善良でありながら、それ以上のことがない人である。敬虔な人とは、見かけよりも中身に気をつける人である。その人は外的な形式に気をつけるのではなく、内なる霊的な恵みに気をつける。その人は敬虔な人であり、信心深さもおろそかにはしない。しかしながら、人々の中には、敬虔ではありながらも、相当に激しく形式を蔑んでいる人がいる。そうした人々は、信心深さはあまりなくとも敬虔でありえる。だが、人はこうしたそれぞれの言葉の真の意味において――普通一般のありきたりな意味においてではなく――敬虔でなければ、完全に義ではありえない。あなたの忍耐に、神に目を注ぐことを加えるがいい。神の御前で生き、神のそば近く生きるがいい。神との交わりを求めるがいい。そうすれば、あなたは敬虔を得ているのである。そして、それからそれに、兄弟愛を加えるがいい。キリスト教会のあらゆる一員に対する愛に満たされるがいい。あらゆる教派の、あらゆる聖徒たちに愛をいだくがいい。それから、それに愛を加えるがいい。それは、すべての人にその両腕を開き、彼らを愛するものである。そして、あなたがこれらすべてを得たとき、そのときあなたは、自分が召されたことと選ばれたこととを知るであろう。そして、あなたがこうした天的な生活規則を、こうした天的なしかたで実践する度合に応じて、あなたは自分が召されていること、選ばれていることを知るようになるであろう。しかし、他のいかなる手段によっても、あなたがそれを知るに至ることはありえない。唯一の例外は、御霊の証しである。御霊は、あなたの霊とともに、あなたが神から生まれたことを証しし、それからあなたの良心の中で、あなたがかつてのあなたではなく、キリスト・イエスにある新しい人であること、それゆえ、あなたが召されており、それゆえ、選ばれていることを証ししてくださる。

 向こう側にいるひとりの人は、自分は選ばれていると云っている。だが彼は酒を飲んでは酔っ払う。左様。あなたは悪魔に選ばれているのである。それが、あなたの唯一の選びである。別の人は云うであろう。「神はほむべきかな。私は証拠などこれっぽっちも気にしてはいませんよ。私はあなたのように律法的ではないのでね!」 しかり。あなたが律法的であるとは、私も云おうとは思わない。だが、そのことであなたが神をほめたたえるべき大した理由はない。というのも、愛する方よ。こうした、新しく生まれているという証拠を持っていない限り、用心するがいい。「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」[ガラ6:7]。「よろしい」、と別の人は云うであろう。「ですが、私は選びの教理は非常に放縦な教理だと思いますよ」。好きなだけそう思っているがいい。だが、こう証言することを許してほしい。私がきょう説教してきたことの中には、何も放縦な部分はない。ごくありがちなことは、あなたが放縦なために、あなたがこの教理を信じたとしたら、これを放縦なものとしてしまうということである。だが、「きよい人々には、すべてのものがきよいのです」[テト1:15]。神の真理を自分の心で受け入れる人は、めったにそれを歪曲したり、そこからそれて悪の道に走ったりしはしない。もう一度云わせてほしいが、いかなる人も、神によって新しくされていない限り、自分が神によって選ばれていると信ずべきいかなる権利もない。いかなる人も、自分の生き方が大方において自分の口の告白と一貫したものであり、その告白にふさわしく自分の召された方向へ歩んで行っていない限り、自分が召されていると信ずる権利は全くない。あなたを罪の中で生かさせておく選びなど、消え失せるがいい! そんなものは追い払え! 追い払え! それは決して神のことばの意図するところではなかったし、決してカルヴァン主義者たちの教理でもなかった。たとい私たちが偽りの中傷を受け、私たちの教えがねじ曲げられても、私たちは常にこう主張し続けてきた。――良いわざは、救いを獲得することはなく、いかなる程度においてであれ救いの功徳となることもないが、救いの証拠としては必要である、と。そして、それが人々のうちにない限り、魂はなおも死んだ、召されていない、新しくされていないままなのだ、と。あなたがキリストの近くで生きていればいるほど、あなたはキリストにならい、あなたの生き方はキリストに従ったものとなり、より単純に信仰によってキリストにすがりつくようになり、キリストにある自分の選びと、聖霊による自分の召しとについてより確かになるものである。願わくは、イスラエルの《聖なる方》が、あなたに甘やかな恵みの確信を与えるために、あなたが自分で明らかにできるような数々の恵みにおいて、「良きしるし」を供してくださるように。

 III. そしていま私はしめくくりとしてあなたに、《なぜあなたが自分の召しと選びを確かなものとすべきであるかという、使徒の理由》を示そうと思う。

 手始めに、私自身の理由の1つを差し入れよう。それは、すでに述べたように、それが、あなたを非常に幸福にするからである。自分の召されたことと選ばれたこととを疑う人々は、喜びに満たされることができないが、最も幸福な聖徒とは、それを知り、それを信じている人々である。知っての通り、私たちの友人たちは、この世は獣のほえる荒地[申32:10]だと云っている。そして、あなたは、それに対する私の答えを知っている。彼らは、その吠え声をすべて自分で発しているのである。もし彼らがもう少し上を見上げて、もう少し下を見ないようにするとしたら、それほど吠え声はないであろう。というのも、信仰によって彼らはその荒野を、サフランのように花咲かせ、カルメルやシャロンの威光と栄光[イザ35:2]で飾るだろうからである。しかし、なぜ彼らがそれほど吠え猛っているかというと、彼らが信じていないからである。私たちの幸福と私たちの信仰は、相当密接に比例している。それらはキリスト者にとってシャムの双生児であって、生きるも死ぬも一緒なのである。

   「主をわがものと 呼びうべきとき、
    われ、捨てえたり、すべての嘆きを。
    われ世を足で よく踏みえたり、
    いかな地の富 ほまれをも」

しかし、あゝ、

   「陰惨(くら)き疑い われ覆うとき、
    主をわがものと 恐れて呼べず。
    慰めの川 涸れ果てて見え、
    わが望みはみな 衰えて見ゆ」。

ただ信仰だけが、キリスト者に幸いな生活を送らせることができるのである。

 しかし、これからペテロのあげた理由を見ていこう。第一に、「これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してない」*からである。ある人は云うであろう。「もしかすると、選びにばかり気を遣っていると、私たちは日常の歩みを忘れてしまい、星を眺めていたあの昔の哲学者と同じく、歩いているうちに、どぶに転げ落ちるかもしれない!」 「否、否」、とペテロは云う。「もしあなたが自分の召しと選びに気をつけているなら、あなたはつまずくことはないのだ。むしろ、あなたの目を上げて、自分の召しと選びを見上げているとき、神はあなたの足に気を遣ってくださり、あなたは決して倒れることはないのだ」。多くの教会や会堂で、著しく目立っていることが1つあるではないだろうか? そこでは、きょうについての説教をめったに聞かないのである。それは常に、永遠の昔についてか、千年期についてかである。人々が造られる前に神がなさったことか、すべてが死んで葬られた後になさることかである。情けないことに、彼らは私たちに、私たちがきょう、今、自分の日常の歩みと生活においてなすべきことを告げてくれないのである! ペテロはこの困難を取り除いている。彼は云う。「この点は実際的な点である。というのも、あなたが選ばれていることを自分で答えられるためには、あなたの実践に気を遣うことによるほかないからである。そして、あなたがそのように自分の実践に気を遣い、自分の選びを自分に対して確かなものとしている限り、あなたは自分が倒れないように、可能な限り最上のしかたで気をつけているのである」。そして、真のキリスト者が倒れることから守られるのは、望ましいことではないだろうか? 「倒れる」ことと「転落する」こととの違いに注意するがいい。真の信仰者は決して転落して、滅びることはありえない。だが信仰者は転んで怪我をすることがある。転んで首の骨を折ることはないが、首を折らなくとも、足を折ることだけで十分によくない。「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない」[詩37:24]。だが、だからといって、その人が石にぶつかっていいということにはならない。その人の願いは、日々自分がより聖く成長していくこと、時々刻々自分がより徹底して新しくされ、キリストのかたちに似た者とされること、そして永遠の至福に入ることである。ならば、もしあなたが自分の召しと選びに気を遣うとしたら、あなたは自分がつまずかないようにするために、この世で最善のことを行なっているのである。そのようにする場合、あなたは決してつまずかないからである。

 さてここで、別の理由である。そうすれば、ほとんど終わりである。「このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです」。「御国にはいる恵みを豊かに加えられる」ことは、時として、このように例証されてきた。向こうに一艘の船が見える。長い航海の後で停泊地に近づきつつあるが、ひどく傷ついている。帆布はずたずたに裂け、あまりにもみじめな状態であるため港に入ることができない。蒸気曳航船がそれを、非常に難儀しながら引っ張っている。それは、「かろうじて救われる」[Iペテ4:18]義人のようである。しかし、あなたには別の船が見えるだろうか? それは順調な航海をしてきて、今や水際まで貨物を満載し、帆という帆を張り出しては、その白い帆布に一杯に風をはらみ、喜ばしく優雅に入港して来る。「それが豊かに入る」ということである。そして、もしあなたや私が神の御霊に助けられ、自分の信仰に徳その他を加えるとしたら、私たちは最後には、「御国にはいる恵みを豊かに加えられる」のである。そこにいる人は、キリスト者ではあるが、悲しいかな! その生き方には自分でも嘆かわしい多くの裏表がある。その人はそこに横たわり、寝床の上で死を待っている。自分の過去の人生が走馬灯のように脳裡をよぎる。その人は叫ぶ。「おゝ、主よ。こんな罪人の私をあわれんでください」。そして、その祈りはかなえられる。その人の信仰は、キリストを信じる信仰であり、その人は救われることになる。しかし、おゝ! その人は何という悲嘆を床の上でいだくことか。「おゝ、もし私が私の神により良く仕えてきたなら! また、この私たちの子どもたち。――もし私がもっとよく『主の教育と訓戒によって』[エペ6:4]しつけてきたならば! 私は救われる」、とその人は云う。「だが、あゝ、あゝ! それは大いなる救いではあるが、私はまだそれを楽しむことができない。私は暗い影と黒雲と闇の中で死につつある。私は自分の父祖たちのもとに集められることになると信頼している。希望している。だが、私には何のわざもついて来ない。――さもなければ、ほんのなけなしのものしかついて来ない。私は救われるが、ただ救われるだけでしかないからだ。――『火の中をくぐるようにして』[Iコリ3:15]救われるだけなのだ」。だが、ここに別の人がいる。この人も死にかけている。この人に、あなたが頼りにしているものは何ですかと問うてみるがいい。その人は云うであろう。「私がお頼りしているのはイエスだけです」。しかし、過去の人生を振り返って見るときのその人に注意してみるがいい。その人は云うであろう。「これこれの所で、私は福音を説教し、神は私を助けてくださった」。そして、その人には何の高慢もまとわりついていないが、――その人は自分が行なってきたことについて自慢しようとはしないが、――それでもその人は自分の両手を天に上げて神をほめたたえる。長い人生を通じて自分の衣を白く保つことができたことについて、自分の《主人》に仕えてきたことについて。そして今、完全に熟した麦束のように、その人は自分の《主人》の倉に納められようとしている。その人に聞けよ! それは、震えおののきながらの舌もつれの言葉ではない。むしろ、「勝利、勝利、勝利!」、という死の叫びとともに、その人は目を閉じて、栄光に包まれた戦士のようにして死ぬ。それが「豊かに御国に入る」ことである。さて、「ますます熱心に、自分の召されたことと選ばれたこととを確かなものとする」人は、自分自身に対して、「私たちの主イエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられる」*ことを確証するであろう。

 使徒のこの言葉に、は何とすさまじい光景がほのめかされていることか。――「火の中をくぐるようにして助かる」! それがいかなる様子であるかを示させてほしい。その人はヨルダンの岸辺にやって来る。彼が死ぬ時がやって来た。彼は信仰者である。――ただの信仰者である。だが、彼の人生は、彼が願うことのできる最善のものではなかった。今の彼に望めたはずのものばかりではない。そして今、厳格な死が彼の前にあり、彼はその最初の一歩をヨルダンに踏み入れなくてはならない。彼の足を炎が包んだときの、彼の恐怖を判断するがいい。彼がその流れの熱い砂の上を踏みしめて、次の一歩を進めるとき、彼の髪の毛はほとんど逆立ち、その目は向こう岸の天国に据えられ、その顔はまだ恐怖を貼り付かせている。もう一歩進むと、彼は完全に火の中に浸り込む。もう一歩進むと、腰まで火だるまになる。――「火の中をくぐるようにして助かる」。一本の力強い腕が彼をつかみ、その流れを通して彼をたぐり寄せる。しかし、その人が、「火の中をくぐるようにして助かる」とき、その死はいかに恐ろしいものに違いないことか! その川の岸の上で、呆然として彼は後ろを振り返り、自分が歩き渡るように命ぜられた、液状の火焔を目にする。それは、この現世で彼が無関心な生き方をしてきた結果である。彼は救われている。――神に感謝すべきかな。そして、彼の天国は大いなるものであり、彼の冠は黄金、彼の立琴は甘やか、彼の賛美歌は永遠、彼の至福は色褪せない。――だが彼の死の瞬間、死の最後の一刹那は、罪に黒ずんでいたし、彼は「火の中をくぐるようにして助か」った! だが、もうひとりの人に注目するがいい。彼も死ななくてはならない。彼はしばしば死を恐れてきた。彼はヨルダンに最初の一足を浸した。そして、彼のからだは震えた。彼の脈拍はかすかになった。そして、彼の目さえ、ほとんど閉ざされ、彼の口はほとんど何も云えない。だが、それでも彼は云う。「イエスよ。あなたは私とともにおられます。あなたは私とともにおられます。この流れを通り過ぎるときも!」 彼がもう一歩進むと、水は今や彼を清新にし始める。彼は自分の手を浸して、その流れを味わってみると、涙を目に浮かべながら自分を見守っている人々に向かって、死ぬのは幸いなことだ、と告げる。「この流れは甘い」、と彼は云う。「苦くはない。死ぬのは幸いだ」。それから彼はもう一歩を進めて、ほとんどその流れの中に没してしまい、姿が見えなくなろうとするとき、彼は云う。――

   「わが目の永久(とわ)に 閉ざさるるとき、
    その瞬時(ひととき)は いかに甘きか!――

    死せる蒼白(あおさ)は 頬にあれども
    栄光(さかえ)ぞ満てり わが魂(たま)に!」

それが、自分の神に男らしく仕えてきた人が「豊かに御国に入る」ということである。――その人は、天来の恵みによって、澄明で穏やかな通り道を得ていた。――熱心に「自分の召されたことと選ばれたこととを確かなものとして」きた。それゆえ、当然支払うべき報酬としてではなく、恵みの報いとして、高い誉れとともに、易々と天国に入っていったのである。それは、同じように救われはしたが、それほど素晴らしいしかたでは救われなかった人々に、いやまさる誉れと、容易さである。

 もう1つのことだけ考えてほしい。そのように御国に入ることが「加えられる」と云われている。それによって私には、ドッドリジが詳しく記しているのがわかることが、甘やかに示唆される。キリストは天国の門をお開きになるが、天的な美徳の数々――私たちの後に続く種々のわざ――は、私たちとともに上ってきて、私たちが御国に入ることにより豊かさを加えるのである。時として私が考えるところ、もし神が私に、この会衆のために生き、そして死ぬことができるようにしてくださり、彼らの多くの者が救われるようになるとしたら、天国に入ることはいかに甘やかなこととなるであろう。そして、私がそこに行くとき、キリストによってばかりでなく、私が牧師として仕えてきた、あなたがたの中のある人々によっても、そこに入る豊かさを加えられるとしたらどうであろうか。ある人はその門の所で私に出会い、云うであろう。「先生。あなたのおかげで私は救われました!」 そして別の人、また別の人、そしてまた別の人が、みな同じことを叫ぶのである。ホイットフィールドが――かのいや高く栄誉ある主のしもべが――天国に入ったとき、私には、彼を出迎えに門まで殺到する大群衆が見える。彼によって神のもとに導かれた人々が何千人もいる。おゝ、いかに彼らはその門を大きく開くことか。いかに彼らは、彼が自分たちを天国に至らせる手段であったことについて、神をたたえることか。そして、いかに彼らは、彼が御国に入る豊かさを増し加えることだろうか? ことによると、あなたがたの中のある人々は、天国で何の星もついていない冠を戴くことになるかもしれない。というのも、あなたは、自分の同胞に何の善も施したことがなく、魂を救う手段には一度もなったことがなく、星なしの冠をつけることになるからである。しかし、「多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる」[ダニ12:3]。そして、そうした人には御国に豊かに入ることが加えられるのである。私は天国で重い冠を受けたいとまことに望んでいる。――それをかぶるためではなく、いやが上にも高価な贈り物ををキリストにささげるためである。そして、あなたも同じことを願うべきである。あなたが、いやが上にも誉れを受け、そのようにして主の足下により多くのものを、こう云って投げ出せるようになることを。――「私たちにではなく、キリストよ、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」*[詩115:1]。「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」。

 そして今、しめくくることにしよう。あなたがたの中のある人々にとって、この聖句は全く何の関わりも持っていない。あなたは、「あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものと」することができない。というのも、あなたは召されたことがなく、召されたことがなければ、自分が選ばれているなどと信ずる何の権利もないからである。あなたがたの中のそうした人々に対して、こう云わせてほしい。自分が選ばれているかどうかを最初に問うてはならない。むしろ、自分が召されているかどうかを問うがいい。そして、神の家に行き、自分の膝をかがめて祈るがいい。そして、願わくは神が、その無限のあわれみによって、あなたを召してくださるように! そして、このことをよく聞くがいい。――もしあなたがたの中のだれかがこう云えるとしたら、――

   「わが手にもてる もの何もなし
    ただ汝が十字架に われはすがらん」、

もしあなたがたの中のだれかが、自分を義とする思いをきれいに捨て去って、いまキリストのもとに来て、キリストを自分のすべてのすべてとして受け取ることができるとしたら、――あなたは召されており、あなたは選ばれている。「あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」。そして、喜びながら道を進むがいい! 願わくは神があなたを祝福してくださるように。そして、御父と、御子と、聖霊に、栄光が永遠にあるように! アーメン。

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特定の選び[了]

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