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御父の仕事に携わるキリスト

NO. 122

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1857年3月15日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「わたしが必ず自分の父の仕事に携わっていることを、ご存じなかったのですか」。――ルカ2:49 <新改訳聖書欄外訳>


 ならば、父なる神が、救いのみわざにいかに大きな関心を持っておられるかを眺めてみるがいい。それは「父の仕事」と呼ばれている。確かにイエス・キリストが来られたのは私たちの贖いを成し遂げ、私たちに完璧な模範を示し、救いの道を確立するためではあったが、主はご自分の仕事をするため来られたのではなく、主の御父の仕事をするために来られたのである。――御父は、主ご自身と全く同じくらい人々の救いに関心を持っておられる。――御父の偉大なお心は、血を流し給う御子の心と同じくらい愛に満ちており、《三位一体》の第一位格のみ思いは、私たちの身代わり、保証人、私たちのすべてであられるキリスト・イエスのみ思いと全く同じくらい選民のことを優しく思いやっておられる。それは主の「父の仕事」である。また、御子のへりくだりをも眺めるがいい。主は御父のしもべとなられた。ご自分の仕事をするためにではなく、御父の仕事をするためである。見るがいい。いかに主が身をかがめて子どもとなり、ご自分の母に服しておられるかを。また、いかに主が身をかがめて人となり、ご自分の父なる神に服しておられるかを。主はご自分の上に人としての性質を取り、力において神と等しい御子であられたにもかかわらず、「神のあり方を捨てることができないとは考えないで」、「仕える者の姿をとり、……死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」[ピリ2:6-8]。ならば、おゝ、信仰者よ。《神聖なる三位一体》のあらゆる位格を同じように愛することを学ぶがいい。救いが等しくその三位のものであることを思い出すがいい。この3つの位格はみな思いを1つにしておられ、創造においてその全員が、「われわれ(は)……人を造ろう」[創1:26]、と云われたのと同じように、救いにおいてもこの方々はみな、「われわれは、人を救おう」、と云われ、おのおのが、そのために分を果たされた。それで、これはまことに、この方々が全員、めいめいに行なわれたみわざなのである。預言者イザヤのあの著しい箇所を思い出すがいい。――「わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる」[イザ53:12]。神は分け与え、キリストはわかちとる。勝利は神のものである。御父は、「多くの人々を彼に分け与え」なさる。それは等しくキリストのものでもある。主は「強者たちを分捕り物としてわかちとる」。一方のお方を、もう一方の前に置いてはならない。畏敬をもって、この方々を同じようにあがめるがいい。というのも、この方々は1つだからである。――その意図において1つ、その性格において1つ、その本質において1つであられる。そして、この方々はまことに3つでありながら、私たちは崇敬をこめてこう叫ぶことができる。「天と地とのひとりの神に、栄光が、初めと同じく、今も永遠の日に至るまでも、とこしえまでありますように。アーメン」。

 しかし、いま私があなたの注意を引きたいのは、第一に、この言葉の中に息づいていた、《救い主》の精神である。「わたしが必ず自分の父の仕事に携わっていることを、ご存じなかったのですか」。そして第二に私は、可能な限りの熱心さを尽くし、しかるべく奮い起こせる限りの激しさをもって、神の子どもたちにこう勧告したい。同じ精神によって労苦せよ、と。自分でも、偽りなくこう云えるようになるようにせよ、と。「私が必ず自分の父の仕事に携わっていることを、ご存じなかったのですか」。

 I. さて第一に、《キリストの精神》に注意するがいい。それは、父なる神のみこころに、二心なくささげられた精神であった。「必ず」という言葉に注意するがいい。「わたしが必ず……ていることを、ご存じなかったのですか」。わたしの内側には、他の仕事をすることを妨げるものがあるのだ。わたしは、いついかなるときも、いかなる所においても、わたしの父の仕事に私を携わらせてやまない、すべてを支配し、圧倒する影響力を感じているのだ。高く、聖く、全く、真摯で、断固たる、神への聖別の精神を心の中で感じているのだ。「わたしが必ず自分の父の仕事に携わっていることを、ご存じなかったのですか」。

 まず最初に、キリストを駆り立て、(いわば)強いてその御父の仕事に携わらせていた力とは何だったのだろうか? それから二番目に、主はその御父の仕事をどのようにして行なっておられたのか、また、それはいかなる仕事だったのだろうか?

 1. キリストを駆り立て、「わたしは必ず自分の父の仕事に携わっている」、と云わせていた力とは何だっただろうか?

 第一のこととして、それは、主の胸中を完全にわがものとしていた服従の精神であった。主は、ご自分の上にしもべの形を取ったとき、従順なしもべの精神を受け、かつて支配者としての能力において完璧であったのと同じくらい、しもべとしての能力において完璧になられた。そのことによって、主は、いのちから出たご自分のものをすべて、完璧に処刑することになったが関係ない。愛する兄弟たち! あなたは自分が最初に神に回心したときのことを覚えているだろうか? あなたの新しく生まれた霊の若いいのちが強く、活発だったときのことを。いかにあなたは神に従うことを強烈に願ったことか。何らかのしかたで神に仕えたいというあなたの熱心はいかに強固であったことか。今でも覚えているが、私は何かをキリストのために行なわないでは五分と我慢していられなかったものである。私は、町通りを歩くとしたら、小冊子を持たないではいられなかった。列車の客車に乗れば、窓から小冊子を投げずにはいられなかった。一瞬でも暇な時間があれば、膝まずいて祈るか、自分の聖書を読むかしないではいられなかった。人と一緒にいるとしたら、会話の主題をキリストに向けて、私の《主人》に仕えずにはいられなかった。あゝ、私は告白せざるをえないが、こうした一途なひたむきさは私から離れ去ってしまった。疑いもなく、あなたがたの中の多くの人々もそうであろう。格段に著しい形で、あなたがたの熱心も、やはり減じてしまったであろう。私たちは、いのちが始まったばかりの頃には、キリストの御国の進展のために仕えようとして、無分別な事がらを行なったかもしれない。だが私は云うが、あの時をもう一度戻してほしいと思う。いかにそれが無分別で、いかにそれが軽率なものであったとしても、あの時と同じ、自分の《主人》に対する愛が得られるとしたら、――神に仕える楽しさのゆえに、私の霊のうちにあって、私を従わせていたのと同じ、あの圧倒的な影響力を得られるとしたらかまわない。さて、キリストも全く同じように感じておられた。主は必ずそうされる。神に仕えなくてはならない。従順でなくてはならない。どうしても、そうせずにはいられない。そうした精神が主のうちにはあり、働こうとしていた。それは不従順の精神が悪人のうちにあって、罪を犯すよう駆り立てているのと同じである。情欲は、時として途方もない力で罪人を罪に引きずって行く。そのあわれな人は、嵐の前の枯れ葉同然に何の抵抗もできない。かつて私たちのうちにある種々の情欲には途方もない全能性があった。それがほんの少しほのめかすだけで、私たちはそれらに嬉々として仕える奴隷となっていた。私たちのうちにある種々の習慣は、強大な専制君主のようなもので、私たちはその鎖を断ち切れなかった。私たちは、つむじ風の中のわらしべのように、あるいは渦巻きの中の木っ端のように、悪へと駆り立てられていた。私たちは自分の情欲が連れていくところなら何へでも急行させられていた。――「引かれ、おびき寄せられて」[ヤコ1:14]いた。さて、新しい心においても、それは全く同じであって、ただその方向性が違う。従順の精神は私たちのうちに働いて、私たちを私たちの神に仕えさせる。それで、その精神が妨げられることなく、自由にしているとき、私たちはまことにこう云えるのである。「私たちは必ず父の仕事に携わっている」。そうせずにはいられない。

 2. しかし、キリストには、ごく一部の人々しか持っていないものもあった。主には、このことに対するもう1つの動機、もう1つの駆り立てる原因があった。主には、ご自分が引き受けたみわざに対する神聖な召しがあった。そして、その神聖な召しが主を働かしてやまなかったのである。ことによると、あなたは、神聖な召しについて語るなど、狂信的だと思うかもしれない。だが私は、それを狂信的と呼ぼうと呼ぶまいと、この1つのことだけは真実であると認めるものである。――ある特別の働きを行なうという特別な召しを信ずることは、ある人にとって全能の腕のようなものである。もしある人をして、ある特定の働きを神が自分に行なわせておられると信じさせるならば、たとえ人がその人を嘲ろうとも、その人がかまいつけるだろうか? その人は、あなたの嘲りにも、あなたの微笑みと同じ程度にしか動かされず、平然としているであろう。その人は、神が自分にその働きを行なわせようとしておられると信じている。あなたは否と云うが、その人は決してこの問題に対してあなたの賛否を問うたりしなかった。その人は、その人の考えるところの、神の使信を受けたのである。それで、進み続けるのである。あなたはその人に抵抗できない。少しでもじっと座ったきりになると、ある霊がその人にとりつく。――それが何かはわからないが、その人は不幸せになる。それは、その人が一生の任務であると感じている務めに携わるまで続く。もしその人が、神が語るよう命じておられるのに口をつぐんでいるとしたら、その言葉はその人の骨の中で火のようになる[エレ20:9]。――それは燃えて進み、ついにその人がエリフのようにこう云うまでとなる。「私は血の出るような思いをしている。私ははけ口を求める器のようである」。私は語るか破裂してしまう。どうにもしようがない。嘘ではない。私たちの聖いキリスト教信仰のために最大の働きをしてきた人々は、そのための特別な召しを得ていた人々であった。私は使徒たちの召しと同じくらいにルターの召しを疑わない。そして彼もまたそれを疑っていなかった。ルターがあることをした1つの理由は、他の人々がそれを好まなかったからである。彼がひとりの修道女と結婚することによって、ローマカトリック教に一撃を加えようとしていたとき、彼の友人たちは、こぞってそれは恐ろしいことだと云った。ルターは彼らの意見を聞いたが、そのことを行なった。ことによると、彼らがそれに不賛成であった分だけ、さっさとそうしたのかもしれない。それは奇妙な理由に思えるであろう。ある人が、何かについて人から思いとどまるよう忠告されたがために、それを行なうというのは。だが彼はすべてを捨てようとしていた。友人たちの友情さえも。彼の務めは、夜も昼も、教皇を祈り倒すことであり、教皇を説教し倒すことであり、教皇を書き倒すことであり、それを彼は行なわなくてはならなかった。しばしば、この上もなく粗野で、粗雑なしかたでではあっても、彼の両手の鉄の篭手によってそうせざるをえなかった。それが彼の務めであった。それを行なうしかなかった。たとい人がルターに好き勝手なことを行なっても、――彼の舌をひっこ抜いたとしても、――彼は自分の洋筆を手に取り、それを火にくべては、燃えさかる言葉によって、ローマカトリック教の破滅を書き記そうとしたであろう。彼はそうしないではいられなかった。天が彼に強いてその働きを行なわせていたのである。彼には特別の任務が高きより与えられており、いかなる人も彼を抑えることはできなかった。風の疾走を引き止め、潮の流きを引き止められないのと、それは同じであった。キリストには特別の務めがあった。「わたしの上に主の御霊がおられる。主は、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだ」*[ルカ4:18]。そして主は、この油注ぎを感じていた。――この押し出す力を感じていた。そして主はじっとしてはいられなかった。そうしていることができなかった。そうできないものを感じていた。主は云われた。「私は必ず父の仕事に携わっていなくてはならない」、と。

 3. しかし、さらにまた、キリストは、私たちの中でも、完全に知っている者がほとんどいないことを有しておられた。主は、ご自分で誓いを立てておられた。――永遠の昔から、その務めを行なうと誓っておられた。主は契約の保証人となっておられた。主は、ご自分の御父の仕事を実行すると誓っておられた。主は、厳粛な誓約を立てて、人となること、ご自分の愛するすべての者の贖いの代価を支払うこと、地上にやって来ては、ご自分の御父の仕事を何であれ行なうことを約束しておられた。主は云われた。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします」[詩40:7-8]。それゆえ、信実でまことであるその契約、その誓約、その代理人職、その誓われた約束と誓言によって、主はこう云うことを余儀なくされたのである。「わたしは必ず自分の父の仕事に携わっている」。愛する方々。あなたが誓いを立てるときにはいつでも――そして、それはできるだけまれなこととするべきだが――それを守るように用心するがいい。人はめったに誓いを立てるべきではない。だが、立てた誓いは常に真摯に守るべきである。神は私たちに何の誓いも要求しておられないが、その御霊が私たちを動かして何らかの誓いを立てさせるときには――そして私たちは、もし主の力によって誓いを立てるとしたら、正直にそう行なってよいが――、私たちにはそれを守る義務がある。そして、自分が誓いを立てたと感じている人は、そのとき自分が行なうと誓った働きを強いて行なわされるのを感じるに違いない。いかに大きな困難があろうとも、もしあなたがそれを克服すると誓ったとしたら、それを行なうがいい。山がいかに高いものであっても、その山頂に登ると神に誓いを立てたとしたら、登って行き、決してあきらめてはならない。もしその誓いが正しいものだとしたら、神はあなたがそれを成し遂げるのを助けてくださるであろう。おゝ、あなたがた、主の誓いの下にある人たち!(そして、あなたがたの中のある人々は、キリスト教信仰を告白することによって厳粛な誓いの下にある)、私はあなたに切に願う。あなたが自分を自分の主にささげた礼典によって、また、あなたがイエスとの交わりを見いだしたもう1つの礼典によって、今あなたの誓いを果たすがいい。それを日ごとに、夜ごとに、時々刻々、絶えず、不断に果たすがいい。そして、こうしたことに強いられてこう云うがいい。「わたしは必ず自分の父の仕事に携わっている」。これらが、キリストを強いて、その天的な労苦に携わらせていた動機であったと思う。

 しかし、ここで第二に、その父の仕事とは何だっただろうか? 私はそれは3つのことに存していると思う。――模範と、確立と、罪の償いである。

 1. 主の御父の仕事の1つは、完璧な、私たちがならうべき模範を世に送り込むことであった。神は、聖徒たちの生涯において、様々な模範の書を書いてこられた。ある人は1つの美徳において秀でており、別の人は別の美徳においてそうであった。最後に神は、ご自分の著作を一巻にまとめ、あらゆる美徳を私たちの主イエス・キリストというお方のうちに凝縮しようと決意された。さて、神は、あらゆる部分を1つに結び合わせ、あらゆる真珠を1つの首飾りになるよう数珠つなぎにし、それらをみな、ただひとりの人物の首に巻いて明らかに示そうと決意なさった。その彫刻家は、ここではどこかの卓越した巨匠の手になる脚を見いだしている。そこでは別の偉大な彫刻家による手を見いだしている。ここに彼は一個の目を見いだすし、そこには威厳に満ちた頭部を見いだしている。彼は内心云う。「私はこうした栄光あるものを混ぜ合わせ、みな1つに集めよう。そうすれば、それは模範的な人間となるであろう。私はその像を par excelence[最優秀]のものとし、美において初めとなるもの、人性の鑑として、いついつまでも傑出したものとしよう」。それで神は仰せになった。「そこにヨブがいる。――彼には忍耐がある。そこにモーセがいる。――彼には謙遜さがある。そこには、強大な者たちがいる。みな卓越した美徳を有する者たちである。私はこれらを取り上げ、彼らをひとりの人にしよう。そして、人間キリスト・イエスを、後の人々が見習うべき完璧な模範としよう」。さて、私は云うが、キリストはその生涯のすべてにおいて、この件において、御父の仕事を行なおうと努めておられた。あなたは、決してキリストが、あなたにならうことのできないようなことを行なっているのを見いだすことがない。あなたは、主がバプテスマを受ける必要があるなどとはほとんど考えもしないであろう。だが、見よ。主はヨルダンの流れに赴き、その波の下に沈んでくださった。バプテスマにおいて死のうちに葬られ、再び――主にその必要などなかったにもかかわらず――新しいいのちによみがえるためである。あなたは主が病人をいやし、私たちに慈愛を教えておられるのを見る。偽善を叱責して、私たちに大胆さを教えておられるのを見る。誘惑に耐え抜き、私たちに、キリストの立派な兵士として苦しみを忍び[IIテモ2:3]、最後まで勇敢に戦い抜く[Iテモ1:18]すべを教えておられるのを見る。ご自分の敵たちを赦して、柔和と忍耐という恵みを私たちに教えておられるのを見る。ご自分のいのちそのものをも引き渡して、いかに自分を神に明け渡し、他の人々の益のため自分自身をささげるべきかを私たちに教えておられるのを眺める。キリストを婚礼の場に置いてみても、あなたは主にならうことができる。左様。方々。そして、あなたは、もしできるものなら、罪を犯すことなく、水を葡萄酒に変えることにおいて、主にならうことができる。キリストを葬式の場に置いてみても、あなたは主にならうことができる。――「イエスは涙を流された」[ヨハ11:35]。主を山頂に置いてみれば、そこで主はひとり祈っておられ、あなたは主にならうことができる。主を群衆の中に置いてみれば、主の話し方は、人に善を施す模範的なものである。主を敵たちとともに置いてみれば、主は彼らをまごつかせ、あなたが見習うべき模範となってくださる。主を友人たちとともに置いてみれば、主は、あなたが範とすべき、「兄弟よりも親密な友」*[箴18:24]である。主をあがめ、ホサナと叫んでみても、あなたは主が「荷物を運ぶろばの子」[マタ21:5]に乗り、柔和で、へりくだっておられる姿を見る。主を蔑み、つばを吐きかけてみれば、主がその侮辱や軽蔑を、世の称賛を受けていたときの主を特徴づけていたのと同じ平静な心持ちで忍んでおられるのを見る。左様。方々。そしてあなたは、「人の子が来て食べたり飲んだりしている」[マタ11:19]ことにおいても、主にならい、そのことにおいて、主が行なおうと決意していたことを行なうことができる。――すなわち、人間のむなしい形式主義を引き倒すことができる。そうした形式主義は、食物と飲み物とに関するもの[ヘブ9:10]ではあるが、実は「口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します」[マタ15:11]。そして、それこそ私たちが自分自身、用心すべきことなのである。内なる人が汚されるといけないからである。主は一度たりとも、輝かしい、真の完璧な鑑からそれることをなさらなかった。主はあらゆることにおいて手本であり、常に御父の仕事に携わっておられた。

 2. また、それは私が先に確立と呼んだ件においても同じであった。それは、新しい経綸の確立という、父の仕事であり、そこにおいてキリストは常にその仕事に携わっておられた。主は悪魔の誘惑を受けるために荒野に出て行かれた。そのとき主はこのことをなしておられただろうか? あゝ、方々。主はそうしておられた。というのも、主が「神のことについて……忠実な大祭司となる」ことは必要だったからである。それは、「ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになる」ためであった[ヘブ2:17-18]。主がお語りになるとき、あなたは主がそのみことばを確立しておられるのを見てとることができ、主が沈黙の指をご自分のくちびるに当てておられるとき、主はやはり同じようにこのことをなしておられた。というのも、そのときこの預言が成就していたからである。「ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」[イザ53:7]。主は奇蹟を行なわれるだろうか? 従順な風は、主の御声の前にその騒音を静まりかえらせるだろうか? それは、ご自分が神であられることを私たちに教えることによって、福音を確立することである。主は涙を流されるだろうか? それは、ご自分が人であられることを私たちに教えることによって、福音を確立することである。主は使徒たちをお集めになるだろうか? それは、彼らがあらゆる国を巡り歩いて、神のことばを宣べ伝えるようにさせるためである。主は井戸のかわらに腰を下ろされるだろうか? それは、ひとりの女を教えて、彼女がサマリヤの町全体に救いの道を教えるようにさせるためである。主は常にこの模範の働き、そして、この確立の働きに携わっておられた。

 3. そして、あゝ、愛する方々。主がその労苦の絶頂に至ったとき、――主がすべての中でも最大の困苦、一千人の者も決して行なうことができなかった仕事に至ったとき、――主がかの罪を償う偉大なみわざを行なおうとされたとき、いかに徹底的に主はそれをなさったことか。

   「園に打ち伏す 主をば見よ。
    汝が《造り主》 地に伏せり、
    血染めの木の上(え)に 主をば見よ。
    その死の前の 叫びをば聞け――
    『完了せり』! と」

そして、そこであなたは主が御父の仕事に携わっておられるのを見いだす。御父の仕事こそ、主をして大きな血の汗を滴らせたものであった。御父の仕事こそ、主の背中に多くの血まみれの畦溝を作ったものであった。御父の仕事こそ、主のこめかみを茨の冠で刺したものであった。御父の仕事こそ、主をして嘲らされ、つばを吐きかけさせられたものであった。御父の仕事こそ、主をしてその十字架を担って通りを歩かせたものであった。御父の仕事こそ、裸にされて木に吊るされるという恥辱を、ものともさせなかったものであった。御父の仕事こそ、主をしてご自分を死に引き渡させたものであった。主のお心にまかされたならば、主が死ぬ必要はなかったが関係ない。御父の仕事こそ、主にゲヘナの陰惨な影を踏み歩かせ、死の住まいへ下らせたものであった。御父の仕事こそ、主をして捕われの霊たち[Iペテ3:19]にみことばを宣べさせたものであった。そして御父の仕事こそ、主を天国に連れ上り、そこで神の右の座に着かせ、御父の仕事をなおも行なわせているものである! 御父の仕事こそ、主を昼も夜もシオンのために訴えさせているものである。同じ仕事こそ、主を生きている者と死んだ者との《審き主》[使10:42]として来させ、羊と山羊とを分けさせる[マタ25:32]ものである。同じ仕事こそ、主をして地の表に住むあらゆる民を1つに集めさせる[ヨハ11:52]ものである! おゝ、イエスよ。あなたに栄光があるように。あなたは、それを成し遂げられました! あなたはあなたの御父の仕事をよく果たされました。

 II. このようにして、私はあなたに模範を示した。さて、ここで私に、《それにならう》よう、あなたに勧告させてほしい。

 できるものなら教えてほしいが、なぜキリストを信ずる信仰は、これほど伝播するのが非常に遅いのだろうか? あの詐欺師のマホメットは町通りに立って説教した。彼は野次り倒され、彼に向かって石が投げつけられた。一箇月後、彼には弟子たちがいた。数年後、彼の背後には一軍団がいた。一世紀も経たないうちに、一千もの偃月刀が、カリフたちの命令一下その鞘から抜き放たれるようになった。彼の宗教は、国々を燎原の火のように覆滅させ、数々の王国を呑み尽くした。しかしなぜか? この預言者に従う者たちが、全く彼の大義に献身していたからである。かの古のイスラム教徒が、海を目指して自分の馬に拍車を入れ、ジブラルタル海峡を渡ろうとして、その手綱を引いて、「神が望まれるならば、私は渡る!」、と云ったとき、そこには、なぜ彼の宗教があれほど強かったのかを私たちに告げるものがある。あゝ! 当時のあの戦士たちは自分たちの宗教のためなら死ぬ覚悟があった。それゆえ、それは伝播したのである。あなたは、なぜキリスト教が、その原始時代にあれほど伝播したのか分かるだろうか? それは、聖なる人々が、「自分のいのちを少しも惜しいとは思わず」*[使20:24]、キリストのために「すべてのものを捨て」[ピリ3:8]て顧みなかったからであった。パウロは多くの国々を移動した。ペテロは多くの国土を巡り歩いた。ピリポや他の伝道者たちは、様々な国々を行き巡り、神のことばの証しをした。方々。私はなぜ私たちの信仰が近頃はこれほど僅かしか伝播しないのかを教えよう。申し訳ないが、――それは、その信仰を告白する人々がそれを信じていないからである! 信じていない! しかり。そうした人々は頭ではそれを信じているが、心では信じていない。私たちは心から御国の進展に十分に専心してはいない。さもなければ、神ははるかにいやまさる祝福をシオンの上に増し加えてくださるであろうと私は確信している。信仰のため完全に自分をささげている人の、何と僅かしかいないことか! そうした人々は、そちらにいる私の友人が自分の小さな農園を経営しているように、自分のキリスト教信仰を取り上げている。そうした人々には一千エーカーの農園があるが、少し先に行った所にある、百エーカーかそこらの小さな農地を取り上げることで、財産を増やせるかもしれないと考える。それで彼はそれを農場管理人に渡し、自分では大した労苦をしようとしない。彼がそこで非常に見事な農作をする見込みはあまり多くないであろう。それを他人にまかせているからである。キリスト教信仰もそれと同じである。あなたの大農園はあなたの店であり、あなたの大目的はあなたの世俗的な仕事である。あなたはキリスト教信仰を安全投資のように保持しておきたいと思っている。利子は微々たるもので、死期が近づいたときに引き出すつもりではあるが、今はそれに頼って生きたくはない。あなたには、自分自身の日々の仕事から十分な利益が上がっており、日々の暮らしに自分のキリスト教信仰は必要ない。方々。あなたのキリスト教信仰が伝播しない理由は、それがあなたの心の中に十分根づいていないからである。あなたがたの中のいかに僅かな人々しか、キリストの福音の進展のために、肉体的にも霊的にも、完全に専心する覚悟がないことか! そして、もしあなたがそうしようとするなら、いかに多くの反対者たちに出会うことか! 教会の集会に参加し、ほんの少し熱を入れてみるがいい。彼らは何と云うだろうか? 何と! 彼らはダビデがゴリヤテと戦うことについて語ったときに、彼の兄がしたようなことをあなたに対してするのである。「おまえのうぬぼれと悪い心が……戦いを見にやって来たのだろう」[Iサム17:28]。「さあ、脇へどいていろ。お前に何かできるなどと考えるな。さっさと行ってしまえ!」 そして、たといあなたが真剣であり、特に伝道活動において真剣であっても、全く同じことである。あなたの兄弟たちは、安息日ごとにこう祈っている。――「主よ。葡萄畑により多くの働き人を遣わしてください!」 だが、もし神がその人々を遣わすと、いずれにせよ彼らは、そうした人々が無事に自分たちの領域から出て行ってくれるように願うのである。そうした人々は他のどこに行ってもよいが、彼らの近くに来てはならない。というのも、そうすると彼らの会衆が感化を受けて、奮い立たされ、自分たちは全く十分には真剣に働いていないのではないかと考えるようになりかねないからである。「あっちへ行っていろ!」、と彼らは云う。しかし、兄弟たち。そうしたことを気にしてはならない。もしあなたが怒鳴りつけられたり、鼻であしらわれたりすることに我慢できないというなら、あなたの内側に大して良いものはない。もしあなたが鼻であしらわれることに耐えられないのであれば、嘘ではないが、あなたは決してまだ明るく灯されていないのである。人間たちのあらゆる思慮に逆らって大胆に進んで行くとき、あなたはそれらが次第にあなたを称賛するようになり、あなたを「親愛な兄弟」と呼ぶようになることに気づくであろう。どんな人も、自分に可能な限り高くなるときには、起き上がることを助けられるものである。もしあなたが沈むなら、「沈ませとけ」、と叫ばれるのが落ちである。だが、もしあなたが起き上がるなら、あなたは決してそれを自分で行なうまでは助けを受けることがないであろう。そして、そのとき人々は、あなたに必要がなくなってから、自分たちの助けをあなたに与えるであろう。しかしながら、あなたの標語はこうでなくてはならない。「私が必ず自分の父の仕事に携わっていることを、ご存じなかったのですか」。

 また、あなたの最上の友人たちでさえ、もしあなたが真に神のために熱心であるとしたら、あなたの所に来て云うであろう。――そして、非常に親切にも云うであろう。――「さて、あなたはもう少し自分の体に気を遣わなくてはなりませんよ。さあ、それほど働きすぎてはいけません。お願いですから、そうはしないでください!」 あるいは、もしあなたが色々な所に献金していると、――「さあ、あなたはもう少し分別を働かさなくてはいけません。あなたの家庭のことにもう少し気を遣いなさい。実際、あなたがそんなことをしてはいけませんよ」。あるいは、もしあなたが熱心に祈りに励んでいると、彼らはこう云うであろう。――「こんなに熱を込める必要はありませんよ。それほどのめり込まなくとも、信心深くあることはできるのですからね。ほどほどにしておいていいのですよ」。そして、そのようにしてあなたは、友人たちと敵たちの双方が、キリストに対するあなたの聖別を妨げようと努めることに気づくのである。さて私は、ある人が老ロウランド・ヒルに、自分は「ほどほどに信心深い」者だと告げたとき、彼が語ったことを好んでいる。「よろしい。ならばあんたは不信心なのだ。ほどほどに正直だという人間は、確かにごろつきであるに違いない。そして、ほどほどに信心深いという人間は、無信心なのだ」。もしキリスト教信仰が何らかの価値を有しているとしたら、それはあらゆる価値を有している。もしそれが何かであるとしたら、それはすべてである。キリスト教信仰は何物とも半々では行かない。それはすべてでなくてはならない。私たちは、もし徹底的にキリストの御霊に染まっているとしたら、このことにおいてキリストにならうのでなくてはならない。――すべてを神に明け渡すこと。そのようにして、真摯にこう云えるようになることである。

   「わがすべてをば 主にささげずば
    こはわが義務(つとめ)ならざるや、
    われの、わが神 熱心(あつ)く愛して
    残りなくみな 神に献(ささ)ぐは」。

私は決して、かつてある出来事が起こったときのことを忘れないであろう。私がキリストに完全に聖別したものと考えた後で、私の人格を中傷するような噂が私の耳に入り、私の心は苦悶のために千々に引き裂かれたのである。私は、キリストの福音を宣べ伝えることにおいて、自分の評判を失わなくてはならなかった。私は膝まずいてこう云った。「《主人》よ。私はあなたのためなら、私の人格でさえ手元に留めてはおきません。もし私がそれをも失わなくてはならないのだとしたら、それを去らせてください。それは私が持っているものの中でも最も大切なものですが、それがなくなってもかまいません。私の《主人》のように、人が私を悪霊につかれており、気が狂っていると云ってもかまいません。あるいは、主のように、大酒飲みだと云われてもかまいません。それはなくてよいのです。もしこう云えるとしたら。――『私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらを金滓と思っています。それは、私には、キリストを得るという望みがあるからです』*[ピリ3:8]!」 そして、キリスト者よ。あなたは、神にすべてをささげない限り、決して神に仕えることにおいてうまくやって行けないであろう。あなたが手元に留めておくものは、腐食していくであろう。もしあなたがあなたの時間、あなたの財産、あなたの才質をほんの少しでも取っておき、キリストにすべてをささげようとしないとしたら、あなたは、そこにただれがあること、それが壊疽になっていることに気づくであろう。というのも、キリストは、あなたがすべてをご自分にささげるとき、あなたを祝福されるが、あなたが主から取っておくものを呪い、しなびさせ、滅ぼすからである。主は私たちのすべて、私たちの全体、私たちの所有する一切をお持ちになる。さもなければ、主は決して満足なさらないであろう。

 さて、ここで1つか2つの反論に答えさせてほしい。そして、なおもキリスト教信仰を告白しているあなたを奮い立たせて、あなたの持っているすべてをキリストに明け渡させてほしい。あなたは云う。「先生。私にはそんなことできません。私はまともな務めについていないのです」。よろしい。方々。そう云うあなたは真実を語っている。というのも、もし私たちがキリストにすべてをささげさせることを許さないような務めがあるとしたら、それは正しい務めではなく、そのような務めを私たちは続けるべきではないからである。「しかし、私がいかにすればそうできるのですか?」 とあなたは云う。よろしい。あなたは何者だろうか? 私はあなたが何者であれかまわない。私は、あなたにはあらゆることを神の御名において行ない、そのようにしてキリストに栄光をささげることが可能であると主張する。キリストに献身するには教役者でなくてはならないと考えてはならない。これまで多くの人々が講壇に恥辱を加えてきたが、多くの人々が鉄床を聖なるものとしてきた。多くの人々は自分が説教する際に下に敷く座布団の栄誉を汚してきたが、やはり多くの人々が土を掘り起こすために用いる鍬を聖別してきた。私たちは自分のいかなる仕事においても、自分の聖なる行為と同じように、すべてをキリストのために行なうべきである。このことを例証させてほしい。米国にいるひとりの商人が、自分の金銭の大きな部分を、キリストの御国の進展を支えるために献金していた。そこで、ある人が彼に云った。「あなたは毎年、何という犠牲を払っていることでしょう」。彼は云った。「そうではありません。私には事務員がいます。かりに私があの事務員に、ある校長に支払うように五十ポンドを渡したところ、彼がその校長の所に行って、こう云ったとします。『ここのあなたの給料がああります。私がこれをあなたに与えるとは何という犠牲でしょう!』 『何と』、とその校長は云うでしょう。『ちょっと、これはあなたのものではありませんよ。これはあなたにとって何の犠牲でもないではないですか』」。そのように、この善良な人は云った。「私は、神のもとに行ったとき、自分のすべてをおささげしました。私は神の財産管理人となりました。もはや会社の社長ではありません。私は神を会社の社長としました。私はその財産管理人なのです。そして今、私が私の富を分配するとき、私は単に神の施し物の分配人として行動しているのです。そして、これは全然何の犠牲でもないのです」。犠牲などと語るとき、私たちは間違いを犯しているのである。それが、私たちのキリスト教信仰の精神たるべきではないだろうか? それは最初は犠牲としてなされるべきであろうが、後には自発的にすべてをささげることとなるべきである。ある人は云うであろう。「私は自分の店を開いて、神のための金銭を稼ぎます。余ったお金で私と私の家族は暮らします。――神は私たちがそうすることを許してくださいます。というのも、教役者が福音によって生計を立てているように、神は私が自分の仕事によって生きることを許してくださるのです。また神は、私が老後のためにちょっとした資産を貯えることも許してくださいます。ですが、それが私の目的ではありません」。別の人は云うであろう。「私はこうした品物を売っていますが、それで私が得た利益は神のものです。私たち自身の食べ物や着る物や家族のために必要なものは、神が私に返してくださいます。神は、私のパンが与えられ、その水は確保されると云われたからです[イザ33:16]。ですが、その残りは神のものであって、私のものではありません。私はすべてを神のためにしています」。さて、あなたにこの理屈は理解できないであろう。これは商売ではない。しかり。方々。だが、もしあなたの心が正しければ、これが理解できるであろう。これが神の福音だからである。――すべてをキリストにささげること。一切をその御国の進展のために与えること。そのようにするとき、私たちはこの箇所が理解できるであろう。――「わたしが必ず自分の父の仕事に携わっていることを、ご存じなかったのですか」。というのも、あなたの仕事は、あなたの名前でなされている一方で、人々には知られていなくとも、神の御名によってもなされているからである。しかしながら、1つ頼みたいことがある。もしあなたがそれをしているとしたら、それを誰にも告げてはならない。私の知っている人々は、その店先に福音をぶらさげている。時として、飾り紐よりもきらびやかな形でそうしている。私は、そうした人のもったいぶった信心深さが大嫌いである。飾り紐を買いに行くか、勘定を払いに行くと、小冊子を受け取ってくださいと云ったり、裏座敷に来て祈り合いましょうと云ったりするような人々のことである。そうした人々が何を求めているかは見え透いている。その人は自分の帳場を聖めて、人々が蜂蜜で蝿をつかまえようとするように、キリスト教信仰で客をつかまえようとするのである。あなたのキリスト教信仰は、自然と現われるにまかせてよいが、それをもったいぶって云いふらしてはならない。もしも他人があなたを尋ねて来るなり、「祈り合いましょう」、と叫ぶようなことをするとしたら、あなたの最上の方策は、その人を町通りにつまみ出し、こう云うことであろう。「それはどうも。ほとんどの場合、私は自分の祈りはひとりで行ないますよ。私はそれがどういうことか知っています。もし私があなたに祈りの霊があると知っており、それが時宜にかなっていると思ったならば、私はあなたと心を込めて一緒に祈りますとも」。しかし、あなたの家にずかずかと入ってきて、自分がいかに人並みすぐれて敬神の念に富んで者であるかを見てとらせようとするような人のキリスト教信仰は、非常に病的なものか、さもなければ、その中に何のいのちも有していない、鍍金塗装のものである。私は祈りを非常に神聖なものとみなしている。「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」[マタ6:6、3]。というのも、まことに云うが、もしあなたがそれを人に見せるために行なっているとしたら、あなたはすでに自分の報いを受け取っているのである。そして、その報いはあわれなものである。ほんの短時間の小さな称賛で、みな失せてしまう。しかし、それにもかかわらず、1つの極端から別の極端に走ってはならない。あなたの仕事を、あなたのキリスト教信仰によって聖別するがいい。あなたのキリスト教信仰をあなたの表看板にごてごてと塗り立ててはならない。むしろ、望むときにはいつでも出せるようにしておくがいい。あなたがそれを常時必要とするようなことはないに違いない。

 ある人は云うであろう。「私はいかにすれば神の仕事を行なえるのでしょうか? 私には何の才能もありません。何の金銭もありません。私が毎週稼ぐ全金額は使い道が決まっています。しそて、私には自分の部屋代を支払うお金にも事欠いています。私には何の才能もありません。日曜学校で教えることができません」。兄弟。あなたにお子さんはいるだろうか? よろしい。そこには、あなたが用いられる扉が1つあるのである。姉妹。あなたは非常に貧しい。誰もあなたのことは知らない。だが、あなたには夫がいる。そして、いかに彼が飲んだくれであっても、そこにはあなたが用いられる扉が1つある。彼からいかに侮辱されてもくじけることなく、いかになじられても、嘲られても忍耐するがいい。そうすれば、あなたは、そのようにして神に仕え、神の仕事を行なうことができるのである。「ですが、先生。私は病気です。外に出られるのはきょうだけです。私はいつも寝たきりなのです」。あなたは、苦しみの寝床に横たわっているとしても、もしそれを忍耐強く行なうならば、そうすることによって、あなたの《主人》の仕事を《主人》のために行なうことができる。塹壕の中に伏せているように命令された兵士は、要塞の突破口を強襲するように命令された者と同じくらい従順なのである。いかなることにおいても、自分にできる限りのことをしてあなたの神に仕えるがいい。おゝ、心の波長がこの件に正しく合わせられているとき、私たちは決して弁解を並べ立てて、「私は自分の父の仕事に携わることはできません」、などと云いはしなであろう。私たちは常に、なすべき父の仕事を何かしら見いだすであろう。かの英雄的なスイス独立戦争において、母親たちは父親たちが敵に向かって発射する砲弾を持って行き、子どもたちは、弾薬が少なくなったとき、そこら中を走り回ってはこぼれ弾を拾い集めたと記されている。そのようにして、全員が何かをしていたのである。私たちは戦争を憎むものだが、その比喩をキリストの戦争において用いるであろう。あなたがたには、全員、行なうべき何かがある。おゝ! 自らの《主人》を愛する私たち、感謝という絆によって主に仕える義務を負っている私たちは、こう云おうではないか。「私が必ず自分の父の仕事に携わっていることを、ご存じなかったのですか」。

 そして私は今、しめくくりにあたり、この場にいる主の民全員に語りかけることにしよう。彼らが心を尽くして主に仕えるように促し、非常に手短な、また非常に真剣な理由を2つか3つ示すことにしよう。

 全き真剣さをもってあなたの父の仕事に携わるがいい。なぜなら、それは用いられるための道だからである。あなたはあなた自身の仕事を行ない、神の仕事も行なうということはできない。あなたは神と富に仕えることができない[マタ6:24]のと同じくらい、神と自我に仕えることはできない。もしあなたがあなた自身の仕事を神の神の仕事とするならは、あなたはあなたの仕事をよく行なえるであろう。そして、あなたの生きている時代と世代において、用いられる者となるであろう。私たちが教会に何らかの偉大な信仰復興が起こるのを見たければ、あるいはキリスト教信仰の何らかの偉大な勝利を見たければ、キリスト教界が格段に、キリストへの全き聖別の精神によって触れられるしかない。私たちが真剣になっているのを世が見るとき、初めて神は、人々を繰り入れてくださるであろう。私たちは私たちの講壇に中途半端な心で赴く。私たちの礼拝所に心ここにあらずといった体でやって来る。外的な儀式は与えるが、心は取り去っている。それでは決して神の御国が勝利とともに進展するのを見ることはないであろう。あなたは用いられたいだろうか? あなたの《主人》の帝国を拡張したいだろうか? ならば、あなたの父の仕事に携わるがいい。

 また、あなたは幸福になりたいだろうか? あなたの父の仕事に携わるがいい。おゝ! あなたの父に仕えるのは甘やかな務めである。あなたは、必ずしも仕事の道から脇へそれなくともそうすることができる。もしあなたの心が正しければ、あなたは、説教を語るのと同じくらい、紅茶を1ポンド量ることによっても神に仕えることができる。賛美歌を歌うのと同じくらい、荷馬車を走らせることによって――帳場に立つことによって、神に仕えることができる。自分の会衆席に座るのと同じくらい、正しい時、正しい時期にはそうすることができる。そしておゝ、こう考えることは何と甘やかであろう。「私はこのことを神のために行なっているのだ。私の店は神のために開かれているのだ。私は神のために利益を獲得しようとしているのだ。神の御国の進展のために仕事を手に入れようとしているのだ。それは私が、よりそのために献身できるようになるためであり、私が自発的に神に聖別できることによって、それをより繁栄させるためなのだ」。あなたは、こう考えることができるとしたら、これまで一度も知らなかったようなしかたで、起床するときに幸福を感じるであろう。「私はきょう神に仕えようとしているのだ」。そして、夜になって一日を終えるときには、「私はあんなにも損をしてしまった」、と云う代わりに、あなたはこう云うことができるであろう。「私ではなく、私の神が失ったのだ。しかし、金も銀も神のものであり、もし神がそのどちらも特に持ちたがらないというのであれば、――よろしい。それはなくなってしまうがいい。神はそれをいかようにもお持ちになることができる。私はそれをほしくない。もし神がそれを私から悪い借金によって取り上げることをお選びになるとしたら、それならそれでよい。神には別のしかたで献金することにしよう。それは同じことであろう。私は絶えず主をあがめよう。私の日々の職業においてさえ」。

 そして、愛する方々。これが道であろう。――そして私はあなたがこれによって感動することができるものと信頼している。――これが、最後には永遠の栄光を受けるべき道であろう。それは、あなたが行なう何かに対する報酬としてではなく、あなたが行なったことに対する、恵み深い神の報いとしてそうであろう。「多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる」[ダニ12:3]。あなたはひとりきりで天国に行きたいだろうか? そうではないと思う。私の最も幸福な思いはこうである。私が死ぬとき、もしもキリストの御胸における休息に入る特権が与えられるとしたら、私はひとりきりで天国に入るのではないことを知っている、ということである。そこには、私の伝道活動の労苦の下で心刺され、キリストに引き寄せられた何千人もの人々がいるであろう。おゝ! 大群衆を背後に引き連れながら、自分の翼をはばたかせて天国に行くことは、また天国に入るときにこう云うのは、何と喜ばしいことであろう。「さあ、私と、あなたが私に賜わった子たちです!」 ことによると、あなたは説教することができないかもしれない。だが、それとは別のしかたで神のために、霊的な意味で産みの苦しみをすることができる。というのも、もしあなたが御国の進展を助けるとしたら、その栄誉にもあずかるだろうからである。ことによると、あなたは、人々の間では知られていなくとも、あなたが器となっていることを行なうかもしれない。神は、「世々限りなく、星のようになる」人々の間で、あなたの頭に栄光の冠を授けてくださるであろう。愛するキリスト者の方々。私は、次のことを思い出すように云う以上には、何も云う必要がないと思う。すなわち、あなたは、あなたを地獄から救い出してくださったことで、キリストにかくも大きなものを負っており、あなたを贖った血にかくも多くを負っておるために、あなたはこう云わざるをえない義務がある、ということである。――

   「主よ、いま我れは、われをささげん、
    我れのなしうる、こはすべてなり」。

さあ、行くがいい。そして、もし世に誘惑されるとしたら、願わくは御霊があなたにこう答えさせてくださるように。「私は必ず自分の父の仕事に携わっている」。出て行くがいい。そして、もし人があなたを狂信者だと呼ぶときには、好きなだけあなたを笑わせておき、自分は御父の仕事を行なわなくてはならないのだ、と彼らに告げるがいい。出て行って、勝利するがいい。神があなたとともにおられるように。そして今、この最後の言葉とともに暇乞いをしよう。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。キリストを信じる信仰こそ、救いの唯一の道である。あなたがた、自分の咎を知っている人たち。キリストに身をゆだね、自分をキリストにささげきるがいい。そのようにしてあなたはこの現世では喜びを得て、かの混じりけのない至福と、尽きざる喜びのある所では、ほむべき種類の永遠の栄光を得ることであろう。

  

 

御父の仕事に携わるキリスト[了]
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