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葉のない木

NO. 121

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1857年3月8日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が葉を落とすときのように、その中には髄がある。聖なるすえこそ、その髄である」。――イザ6:13 <英欽定訳>


 今晩、私たちが最初になすべきことは、この聖句で用いられている比喩を手短に説明することであろう。この預言者には、こう告げられた。彼が伝えるように指図されたあらゆる諌言にもかかわらず、また、祭壇の上の燃えさかる炭で触れられたばかりの[イザ6:6-7]彼のくちびるがいかに雄弁かつ真剣に語ろうとも、なおもイスラエルの民は、その罪に励み続け、それゆえ確実に滅ぼされることになるであろう、と。彼は、「主よ、いつまでですか」、と問うた。民はいつまでそのように悔悟しないでいるのですか? 彼らへの痛烈な審きはいつまでそのように続くのですか? そして彼はこう知らされた。神は町々を荒れ果てさせ、その住民を死滅させ、ついにはその土地が滅んで荒れ果てるまでとなる、と[イザ6:11]。そのとき、彼の慰めとして、こう云い足された。「そこにはなお、十分の一が残る」。そして、これはその通りに起こった。「ネブカデネザルがエルサレムのすべてを捕え移した」*[II列24:14]とき、歴史家は、この但し書きを記しているからである。――「貧しい民衆のほかは残されなかった」。彼らは、「ぶどう作りと農夫とに」されるために、侍従長によって残された[II列25:12]。このようにして、そこには十分の一があった。しかしながら、この小さな残りの民も、ほとんど滅ぼされんばかりとなった。「それもまた、焼き払われる」。この意味は、食い尽くされる、または、焼き尽くされる、ということである。その土地に残されたあわれな者たちは、その多くがイシュマエルの陰謀の時期にエジプトに逃亡した。(このイシュマエルは、ハガルの子のイシュマエルではなく、ユダ王家に連なるできそこないであった)。そして、そのエジプトで、彼らのほとんどは四散させられ、滅びてしまった。「しかし」、と神は云われる。「確かにこの十分の一は残されるが、その後この小部分でさえ多くの危険にさらされるであろう。それでもイスラエルが滅ぼされることはない。というのも、それはテレビンの木や樫の木のように」、彼らの「中には髄がある」からである。それは彼らが「その葉を落とす」とき、その新緑と美しさを失うときも変わらない。それと同じように、肥沃な地が葉という葉をむしりとられ、美しい地の園が砂漠のように不毛になるときにも、この聖なるすえ、選ばれた残りの者は、なおもイスラエル人の精髄であり続けるのである。

 この比喩は、まず第一に、トクノウコウあるいはテレペンチンの木――ここではテレビンの木と訳されている。――から取られている。この木は常緑樹であるが、厳寒期のときだけは、その葉を失うのである。だが、そのときでさえテレビンの木は枯れない。樫の木も同じである。それは毎年もちろん葉を失うが、そのときでさえ枯れているわけではない。「それと同じように」、と神は云われる。「あなたは、冬の間のその木を見てきた。葉のない裸木として立っていたそれは、何の生命の徴候もなく、その根は固く凍りついた地面の中に埋まっていた。むきだしのその枝は寒風という寒風にさらされ、花もなければつぼみもなかった。だが、葉がなくなっているときも、その髄はその木の中にあるのである。それはまだ生きている。そして、それはやがて、しかるべき時期にはつぼみをつけ、花を開かせる。それと同じように」、と神は云われる。「ネブカデネザルは、イスラエルの木からあらゆる葉を刈り取るであろう。――その住民を捕え移し、ほんの十分の一しか残されないであろう。そして彼らはほとんど焼き尽くされたようになるであろう。それでも、神の教会と神のイスラエルはなおも決して滅ぼされないであろう。彼らは、葉を落とすときもその中にその髄があるテレビンの木や樫の木のようであろう。そのように、聖なるすえは、その中にある髄となるであろう」。

 私は、この箇所の意味を、できる限り平易な言葉で明らかにしたと期待したい。さてそこで、その適用だが、――第一に、ユダヤ人たちに対する適用がある。第二に、教会に対する適用がある。第三に、個々の信仰者に対する適用がある。

 I. 第一に、《ユダヤ人たちに対して》である。

 ユダヤ人の歴史は、何という歴史であろう! 彼の額には古代が刻印されている。彼は、この私たちの島のいかなる騎士たちや、国王たちさえよりも、格段に高貴な血統に属している。というのも、彼は自分の系図をアブラハムその人の腰まで辿ることができ、彼を通じてあの箱舟に乗り込んだ族長[ノア]、そしてそこからアダムその人に達するのである。私たちの歴史は、闇と暗黒の中に隠されているが、彼らの歴史は、確実なこととして、最初の瞬間から今に至るまで読むことができる。また、ユダヤ民族の歴史は、いかにまだら模様の歴史であったことか! ネブカデネザルは、巨大な破壊の箒で彼らをことごとく一掃したかに見えた。残された十分の一は、またもや壊滅に引き渡され、私たちはもはや彼らについては何も聞かなくなると考えたであろう。だが、少しすると、彼らは不死鳥のようにその灰の中からよみがえった。第二神殿が建設され、その民族は再び強大になった。そして、その間しばしば荒廃によってなぎ倒されはしたものの、それは存続し続け、シロ[キリスト]が来るときまで、王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはなかった[創49:10]。そして、その時以来、ユダヤ人種の上に殺到してきた波また波の何と巨大であったことか。ローマ皇帝はこの町を倒壊し尽くし、その痕跡1つ立ったままにはしておかなかった。別の皇帝はエルサレムという名をエリアという名に変え、その何哩か以内にユダヤ人が立ち入ることを禁じた。それで彼らは自分の愛する町の姿を見ることさえできなかった。それは鋤でならされ、荒廃したまま残された。しかしユダヤ人は打ち負かされているだろうか? 彼は屈服させられている人だろうか? 否。彼は今なお地の貴人たちのひとりである。――苦悩を忍び、侮辱され、つばを吐きかけられてはいるが、それでもこう書かれている。「ユダヤ人をはじめ、後にはギリシヤ人にも」*[ロマ2:10]。彼は、私たちにまさる高い尊厳を主張し、これまでに存在したことのあるいかなる民族の歴史をもしのぐ偉大で、素晴らしい歴史をやがて迎えることになっているのである。もし私たちが聖書を正しく読んでいるとしたら、ユダヤ人はこの世界の歴史と大いに関係している。彼らはやがて集め入れられる。メシヤが来られる。彼らが待ち望んでいるメシヤ――かつて来られたのと同じメシヤが再び来られる。――最初のとき彼らが期待していたようなしかたで来られる。当時の彼らは、自分たちを統治する君主としてのメシヤが来ると考えていたが、再びやって来るメシヤはそのようなお方となるであろう。メシヤはユダヤ人の王となるために来られ、ご自分の民を最も栄光に富むしかたで統治なさるであろう。というのも、メシヤが来られるとき、ユダヤ人と異邦人は等しい特権を持つようになるとはいえ、その腰からイエスが出た王家にはなおも何らかの栄誉が授けられるであろう。というのも、主はその父ダビデの王位に着き、その主のもとにすべての国々が集められる[ハバ2:5]からである。おゝ!

   「汝れら、選びの イスラエルの種、
    弱く小さき 残りの民よ」

あなたがたは、実際、次のように行なう資格がある。

   「汝れを恵みて 救いしきみを
    御座にむかえよ、万物(すべて)の主(あるじ)と」。

あなたの教会は決して滅びず、あなたの種族は決して絶滅しない。主はこう云われた。「アブラハムの子孫はとこしえまでも続き、その種は代々に至る」、と。

 しかし、なぜユダヤ人種は保たれているのだろうか? 私たちの答えはこの聖句の中にある。「聖なるすえこそ、その髄である」。木の内側には何か神秘的な、隠れた、未知のものがあり、それがその中のいのちを保っている。外部のありとあらゆるものがそれを殺そうとしがちなときも変わらない。そのように、ユダヤ人種の中には、それを生かし続ける秘密の要素がある。私たちはそれが何かを知っている。それは「恵みの選びによって残された者」[ロマ11:5]である。最悪の時代にあっても、神のともしびを掲げ持つヘブル人がひとりもいないほど暗黒だった日は決してなかった。イエスを愛するユダヤ人は常に見いだされた。そして、この種族がいかにこの偉大な《贖い主》を蔑んでいようと、それでもヘブル人種の中には、割礼を受けていない者の《救い主》イエスを愛し、その前にひれ伏す少数の者がいる。こうした少数の者、この聖なるすえこそ、この民族の髄であり、彼らのゆえに、彼らの祈りを通して、彼らに対する神の愛のために、神はなおもイスラエルについてすべての国々に対してこう云っておられるのである。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな[詩105:15]。これは、わたしの友アブラハムの子孫なのだ。わたしは誓い、こころを変えない[詩110:4]。わたしは彼らの先祖のゆえに、また私が選んだ残りの者のゆえに、彼らに真実を尽くそう」。

 私たちは、これまでしてきたよりも、もう少しユダヤ人のことを考えよう。より多く彼らのために祈ろう。「エルサレムの平和のために祈れ。彼女を愛する人々が栄えるように」*[詩122:6]。この世でキリストの御国のためになされるいかなる偉大なこととも同じくらい真実に、ユダヤ人は、私たちのいかなる者が夢想してきたよりもずっと御国と関わりを持つものとなるのである。第一の点についてはここまでにしよう。ユダヤ民族は、「テレビンの木や樫の木が葉を落とすときのよう」なものである。「しかし、その中に髄がある。聖なるすえこそ、その髄である」。

 II. さてここで第二に、《キリストの教会》である。ユダヤの民はこの教会のおぼろな影であり、象徴でしかない。

 教会は、様々な試練を受ける。外部からの試練、内部からの試練がある。教会には、血に赤く染まった迫害の時代、燃えさかる火の試練[Iペテ4:12]の時代があった。悲しい背教の時代があった。人々が悪い不信仰の心になって生ける神から離れ出し[ヘブ3:12]、苦い根が芽を出して多くの人を悩ましたり、これによって彼らが汚されたりすることがあった[ヘブ12:15]。それでも、神はほむべきかな。その冬の時代すべてをくぐり抜けても、教会は生きており、今は、多くの時代の間に教会が振りまいてきたものよりも甘やかな高潮の兆し、より清新な瑞々しさ、より健康的な状態を示している。教会は、あれほど死んだように見えている時、なぜなおも保たれているのだろうか? この理由によってである。教会の真中には――その多くは偽善者であり、騙りではあるが――、その髄たる「選びのすえ」がいるのである。あなたは、百年前のわが国における、信仰を告白するキリスト教会を振り返って見ることができるであろうが、それは何と悲しい光景をさらけだしていたことか! 英国国教会には単なる形式偏重しかなかった。独立派およびバプテスト派には真理はあったものの、それは死んだ、冷たい、生気のない真理であった。教役者たちはその講壇の上で寝ぼけたようなことを云っており、聴衆たちはその会衆席の中でいびきをかいていた。不信心が蔓延していた。神の家はないがしろにされ、冒涜されていた。教会はその葉を失った木のようであった。それは霜枯れの状態にあった。しかし、それは枯れ果てただろうか? 否。その中には聖なるすえがあった。六人の青年が、祈りと、聖書朗読と、貧しい人々にキリストのことを語ったかどでオックスフォードから放校された。そして、この六人の青年たちは――主が人知れず五十人ずつ地の洞穴に秘かにかくまっておられた[I列18:4]他の多くの人々とともに――、栄光に富む信仰復興の指導者たちとして立ち現われた。彼らは嘲られ、メソジストよと笑い者にされながらも、偉大な、栄光に富む信仰復興をもたらした。それは、パウロや使徒たちの下で開始された福音の勝利にほぼ匹敵するほどのもの、ルターやカルヴァンやツヴィングリの偉大な宗教改革にほとんど劣るところのない信仰復興であった。そして今、教会は、その大方が不毛で、活気のない状態にある。しかし、それゆえに教会は死滅するだろうか? あなたは、真の教理は僅かしかなく、熱心はまれであると云い、講壇にはほとんどいのちも精力もなく、会衆席にはほとんど真の敬虔さがないと云い、形式偏重と偽善が私たちの上を徘徊していて、私たちは自分の揺りかごの中で眠り込んでいると云う。しかし、教会は死滅するだろうか? 否。教会はテレビンの木や樫の木のようであって、それが葉を失ったときも、その髄がその中にある。その髄たる聖なるすえが、なおもその中にいる。こうした人々がどこにいるのか私たちは知らない。疑いもなく、その一部はこの場にあるこの教会の中にいるに違いない。――その一部は、信仰を告白するキリスト者たちが集うあらゆる教会の中に見いだされるはずだと希望したい。そして、自分の聖なるすえを失っている教会こそ、その日には悲嘆に暮れるべきである。そうした教会は、落雷に撃たれた木のように、その心臓部から焼け焦げてしまった木として死ななくてはならない――何の髄もないために朽ち果てなくてはならない――からである。

 この場所に結びついている1つの教会として、ここであなたの注意をこの点に向けさせてほしい。――すなわち、この聖なるすえこそ教会の髄だということである。あなたがたの中の相当多数の人々は、木の樹皮にたとえられるであろう。あなたがたの中のある人々は、大枝のようである。別の人々は、幹の一片一片のようである。よろしい。私たちは、あなたがたの中のひとりとして、失うことになったら非常に悲しむであろう。だが、たといそうなったとしても、木のいのちにはいかなる深刻な損害もないであろう。だが、この場にいるある人々は――それがだれかは神がご存じである。――木の髄である。「髄」という言葉は、いのちを――内なる原理を――意味している。木は、それがその葉を失うときも、その中に内なる原理を有している。さて、疑いもなく神は、この教会の中のある人々を見分けておられるに違いない。そうした人々は、私たちにとって樫の木の内なる原理のようなものである。そうした人々は教会の髄である。むろん私は、教会の全会員がその髄に何らかの程度で寄与していてほしいと思う。だが、そうは考えられない。私はそれを疑うと云わざるをえない。なぜなら、誰かが転落したりどうこうしたりするとき、それによって私たちは、教会には、いのちならざる部分が多く含まれていることを思い出させられるからである。葡萄の木には切り落とされるべき枝が何本かついている。なぜなら、それは木の心臓部から流れる樹液を吸い上げず、単に口先だけの告白でしかつながっていないからである。決して台木に根付いていない、見かけだけ接ぎ木されている枝だからである。それは切り落とされ、叩き切られ、火に投げ込まれなくてはならない。しかし教会の中には、その髄であり聖なるすえがいる。

 ここで注意してほしいのは、ある木のいのちを決定するのは、枝の形や、その生え方ではなく、髄だということである。ある所で私が見る教会は、監督派の形をしている。別の所では、長老派の形をしている。そしてまた、私たちの教会のように、独立派の原則によって形成されているものもある。ここに私が見る教会は、1ポンドにつき掛け値なしに16オンスの教理がある。ある教会には8オンスしかなく、またある教会には明確な教理がほとんど全くない。だがしかし、私はそうした教会のいずれにも、ある程度はいのちを見いだす。――何人かは善良な人々がそのすべての中にいる。これはいかにして説明できるだろうか? 何と、まさにこのようにしてである。――樫の木は、その形がどのようなものであれ、髄があれば生きていられるのである。教会の中に聖なるすえがいれば、その教会は生き続けるであろう。そして、教会が一千もの過誤の下にあっても、生きた原理がその中にありさえすれば、それがいかにして生きていられるのかは実に驚嘆すべきである。あなたは、信仰において健全であると受け入れられないような教派の中に善良な人々を見いだすであろう。あなたは云う。「何と! ナザレから何の良いものが出るだろう[ヨハ1:46]?」 そこで、よく調べてみると、彼らの中にすら、何人かの正しい状態にある真のナジル人がいることを見いだすのである。最悪の諸教会の中に最上の人々がいるのである! 教会は、その典礼法規や、教会法規や、信仰信条のゆえに生きるのではない。教会は、その中にある髄たる聖なるすえのゆえに生きるのである。いかなる教会も、聖なるすえを内側に有している間は死ぬことがありえないし、いかなる教会も、聖なるすえを有していない場合、生きることはできない。というのも、「聖なるすえこそ、その髄」だからである。

 さらに観察してほしいのは、この樫の木の髄は隠されたものだということである。あなたにそれを見ることはできない。樫の木またはテレビンの木が、全く葉もなく立っているときも、そのどこかにはいのちがあるはずである。しかし、あなたにそれが見えるだろうか? そのように、聖なるすえ、教会の髄である人々も、普通は見てとれず、実際見てとられることはないであろう。ことによると、あなたは教会の髄は講壇に存していると想像するかもしれない。否。愛する方々! 私たちは神に祈ろう。私たちの中の、講壇に立つ立場にある者たちが、その髄の一部であるように、と。だが、教会の髄の大方は、あなたが全く何も知らないところに存しているのである。プリマス近郊には1つの鉱山があり、地表から二百五十呎も下の地下で働いている人々は、自分の聖書と自分の賛美歌を入れておくための小さな棚を有しており、造られたすべてのものの上にあわれみを及ぼしておられる神[詩145:9]の前にひれ伏し、神を賛美している。あなたは決してこうした鉱夫たちのことを耳にしたことがなかったし、彼らについて知りもしないかもしれない。だが、ことによると、こうした人々の中の何人かは教会の髄そのものかもしれないのである。そこに、その会衆席に、大物会員の某氏が座っている。おゝ! 彼は教会にとって何という支えであろう。しかり。ことによると、金銭面ではそうかもしれない。だが、あなたは知っているだろうか? そこの通路に、貧しく老いた無名夫人がいるが、彼女はまず間違いなく教会にとっては彼以上に大きな柱なのである。というのも、彼女の方がより聖いキリスト者であり、自分の神により近く生活し、神によりよく仕えており、彼女は「その中にある髄」だからである。あゝ! あの屋根裏にいる老婦人はしばしば祈っている。あの寝たきりの老人は夜も昼も神に願いをささげている。こうした人々こそ教会の髄である。おゝ! あなたがたは、あなたの高位聖職者らや、あなたの雄弁家らや、地上の勇者たちの間に立つ最高にして最も偉大な人々を取り去られても、彼らの抜けた穴は埋めることができよう。だが、私たちのとりなし手たちが取り去られ、夜も昼も祈りを呼吸し、古の祭司たちのように常供のいけにえとして雄羊を朝な夕なにささげている男女が取り去られたとしたら、たちどころに教会は死滅するであろう。教役者たちとは何だろうか? 彼らは教会の腕であり、教会のくちびるにすぎない。人は口がきけず、腕がなくとも生きていくことはできる。しかし、こうした天的なすえ、自分の神に近く生き、神聖で熱烈な敬神の念とともに神に仕えている選ばれた男女――こうした人々こそ教会の心臓である。私たちは、こうした人々なしにやって行くことができない。もしこうした人々を失ったとしたら、私たちは死ぬほかない。「聖なるすえこそ、その髄である」。

 さて、話をお聞きの方々。あなたは教会員である。あなたに尋ねさせてほしい。――あなたは、その聖なるすえのひとりだろうか? あなたは新しく生まれさせられて、生ける望みを持つように[Iペテ1:3]なっているだろうか? 神はあなたを、聖める御霊の影響力により、義と認めるキリストの義により、あなたの良心にイエスの血を注ぎかけることにより、聖なるものとしておられるだろうか? そうだとしたら、あなたは教会の髄である。人々はあなたの脇を通り過ぎても、あなたがちっぽけなものだといって目にも留めないかもしれない。だが、髄は小さい。大麦一粒のいのちが入っている胚芽は、私たちの目につかないほど小さいかもしれない。卵の中のいのちはほとんど極微に近い。――それはほとんど目に見えない。それと同じように、教会のいのちも、私たちがまず見いだせないような、小さな者たちの間にあるのである。喜ぶがいい。もしあなたが祈りを多く積んでいるとしたら。あなたは教会のいのちである。しかし、あなたがた。おゝ、あなたがた、高慢な人よ。あなたが自分についていだいている、もったいぶった考えを引き下ろすがいい。あなたは教会に献金できるであろう。教会を代表して発言できるであろう。教会を代表して行動できるであろう。だが、あなたは、聖なるすえでない限り、教会の髄ではなく、実のところ何にもまして価値があるのはその髄なのである。

 しかし、次の点に移る前に、ここで1つのことを云わせてほしい。あなたがたの中のある人々は云うであろう。「そうした善良な人々は、いかにして目に見える教会を保つ手段となるのですか?」 答えよう。その聖なるすえがそうしたことをするのは、それがそのいのちをキリストから引き出しているからである。もしその聖なるすえが、自分自身のきよさや、自分自身の強さによって教会を保たなくてはならなかったとしたら、教会は明日にも落ちぶれてしまうであろう。だが、こうした聖なる者たちが清新ないのちをキリストから絶えず受けていればこそ、彼らは、いわばからだの救いとなることができるのである。そして、その直接的間接的な影響力によって、目に見える教会全体にいのちを注ぐことができるのである。シオンにおける、こうした生きた者たちの祈りは、多くの祝福を私たちの上に引き下ろす。こうした熱心なとりなし手たちの呻きと叫びは、天国を説き伏せて、パラダイスの門から、あわれみの宝庫そのものを引きずり下ろすのである。そればかりか、彼らの聖なる模範には、私たちを抑制し、私たちをきよさの中に保つ傾向がある。彼らは私たちの間を、神ご自身にいつくしまれている者たちとして、白い衣に包まれ、どこへ行こうと、神のかたちを反映させながら歩む。そして、神の下にあって、信仰者たちを聖める働きを行なう。自分の義を大いばりで誇示することによってではなく、信仰者たちにより多くをキリストのために行なわせ、彼らをよりキリストに似た者となるよう奮い立たせることによって。「聖なるすえこそ、その髄である」。

 III. さていま私は第三の点に移る。このことは、《あらゆる個々の信仰者》について真実である。その人は、自分の葉を失ったときも、その髄が内側にあるのである。

 アルミニウス主義者は、キリスト者がその葉を失うとき、彼は死んでいるという。だが、「否」、と神のことばは云う。「死んではいない。彼は、死んでいるように見えるであろう。その葉も、天辺の大枝にちらほらとしか見えない。だが彼は死んではいない。彼らの髄は、彼らがその葉を失うときも、彼らの中にあるのだ」。

 葉を失うということで、2つのことを理解させてほしい。キリスト者である人々がその葉を失うのは、彼らがその慰めを失うとき、自分たちの《造り主》の臨在を感じとれなくなるとき、そして彼らの完全な確信が疑いへと変じられるときのことである。あなたにも、そうした多くの時があったではないだろうか? あゝ! あなたは、ある日には非常な喜びの状態にあり、自分はこうできると云ったものであった。

   「座してみずから 歌いおらん
    永久(とわ)にぞ続く 幸いを」。

しかし、冬のように寒い状態がやって来た。そして、あなたの喜びはみな離れ去り、あなたは冬の時期に風が吹き抜けた後の裸木のように立った。ことによると、残ったのは天辺の大枝にかろうじくっついている、干からびた枯葉が一枚だったかもしれない。しかし、あなたはそのとき死んではいなかった。しかり。あなたの髄は、あなたが自分の葉を失ったときも、あなたの中にあったのである。あなたにその髄は見えなかった。それには歴とした理由がある。あなたのいのちがキリストとともに、神のうちに隠されてあったため[コロ3:3]、あなたに自分の種々のしるしが見てとれなかったからである。だが、あなたの目にはつかなくとも、あなたには髄があった。そこに信仰の高まりは全くなかったが、信仰はあった。希望は何も見えなかった。だが、希望のまぶたが閉ざされていても、その目はそこにあったし、後には開くこととなった。ことによると、そこで熱烈な祈りのために手が掲げられることは全くなかったかもしれないが、その両手両腕はそこにあった。それらは、だらりと両脇に垂れ下がっていたが関係ない。神は後になると云われた。「弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい」*[ヘブ12:12]。あなたの髄は、あなたが葉を失ったときも、あなたの内側にあった。善良なバクスターはこう云っている。――「私たちは、自分の種々の恵みが発揮されているときしか、それらを見ることはできない。だがしかしそれらは、それが発揮されているときも発揮されていないときも、そこにあるのである」。彼は云う。「ある人が森に散歩に行ったとする。木の葉の下で野兎か兎が眠っている。だが、その人にその生き物が見えるのは、それが驚き慌てて駆け出すときである。そのときようやく、それがそこにいたことが見えるのである」。それと同じくあなたは、信仰が発揮されていれば、自分の証拠を感知するであろう。だが、信仰がまどろんで静かにしていると、その存在を疑うようになるであろう。だがしかし、その間ずっと信仰はそこにあるのである。

   「山々は、闇に隠れてあろうとも、
    日中(ひなか)と変わらず、そこにあり」、

と人は云うが、まことにキリスト者の信仰は、疑いや恐れに覆い隠されているときも、それが現わされていて敬虔に喜んでいるときと全く同じようにそこにあるのである。

 若い回心者にありがちな過ちは、自分の経験によって生きようとし、自分たちのいのちをその尊い源泉まで辿ろうとしないことである。私の知っているある人々は、ある日は、この上もなく完全な確信を喜んでいたかと思うと、翌日には、この上もなく深い意気阻喪に沈み込んでいる。主は時としてあなたから証拠という葉をはがしとり、信仰によって生きることを教えなさるであろう。ジョン・ケントが云うように――、

   「もし今日、神の われらを祝し、
    罪赦さるを 感じさせ、
    もし明日、神の われら悩ませ、
    内なる疾病(やまい) 感じさすとも
    すべてはわれらに
    おのれ憎ませ、主を愛さすがため」。

 しかし、あゝ! この主題には、それよりも悪い面がある。あるキリスト者たちがその葉を失うのは、疑いによってではなく、罪によってである。これは微妙な話題である。――そっと扱われることが必要な話題である。おゝ! わが国の諸教会の中にいるある人々は、情欲と罪によって自分たちの葉を失っている。かつては彼らも天晴れな信仰者たちであった。彼らは、まるでパラダイスの木の葉そのものであるかのように、教会の間で瑞々しく立っていた。だが、ある邪悪な時に彼らは堕落した。誘惑の奴隷となった。彼らは、多くの絶対確実な目印やしるしによって、神ご自身の民であった。そして、もし彼らがそうだったとしたら、確かに彼らがその葉を失ったのは嘆かわしいことではあるが、なおもそこには甘やかな慰めがある。彼らの髄はまだ彼らの中にあるのである。彼らはなおも主のものであり、なおも主の生きた子どもたちなのである。彼らが罪の昏睡に陥っており、今は失神状態にあり、主のもとから道に迷い、仮死状態に陥っているとしても、いのちは、まだそこにある。一部の人々は、あるキリスト者がその信仰告白と少しでも矛盾したことをするのを見ると、すぐにこう云う。「あの人は神の子どもではありません。絶対にそうではありません。そんなことは不可能です」、と。左様、だが、方々。かつてこう云った人が何を思っていたかを思い出すがいい。――「もし兄弟が間違いを犯したなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」*[ガラ6:1]。これは、だれが何と否定しようと、――そうしたければ、いかによこしまな目論みのためにそしろうと、――事実である。どうしようもないことである。――事実、神の生きた子どもたちのある者らは、途方もない暗黒の罪に陥ることを許されることがある。――これは、すさまじい許しである。あなたは、ダビデが罪を犯したときでさえ、神の子どもであったとは思わないのだろうか? これは、触れるのが困難な主題であるが、否定されるべきではない。彼の内側には以前は神のいのちがあった。そして、確かに彼は罪を犯した――おゝ! その犯罪は身の毛もよだつ、すさまじいものであった!――が、彼の髄は、彼がその葉を失ったときも、彼の中にあった。そして多くの神の子らは、その《主人》からはるか遠くに離れてしまっているが、その髄は彼らの中にあるのである。では、いかにして私たちにそれがわかるのだろうか? 死んだ木は決して息を吹き返さない、ということによってである。もし、その髄が本当に消え失せているとしたら、それは決して生き返らない。そして神の聖なることばが私たちに確証するところ、もし恵みの真のいのちがだれかの中で死に絶えるようなことがあるとしたら、それが再びやって来ることは決してない。というのも、使徒はこう云っているからである。「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となっ……たうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」[ヘブ6:4-6]。彼らの木は、「枯れて、根こそぎにされ」[ユダ12]ているのである。また、使徒ペテロはこう云っている。――「情欲による世の腐敗からのがれ、その後再びそれに立ち返るなら、そのような人たちの後の状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります」*[IIペテ2:20]。しかし、いまダビデか、ペテロの好きな方を取り上げてみるがいい。ペテロとすることにしよう。おゝ! いかに口汚く彼は自分の《主人》を呪ったことか! 彼は多くの呪いをかけて主を否定した[マタ26:74]。しかし、そのときペテロの中には、神のいのちがなかっただろうか? あった。では、いかにしてそれが私たちに分かるだろうか? 彼の《主人》が彼を見つめたとき、彼が「出て行って、激しく泣いた」[マタ26:75]ことによってである。あゝ! もし彼が死んだ者、かたくなにされた者、自らの中に髄を有さない者であったとしたら、たとい彼の《主人》が永遠に彼を見つめていようと、彼が激しく泣くことはなかったであろう。いかにして私は、ダビデがまだ生きていたと分かるのだろうか? 何と、このことによってである。――確かにそこには、長い長い冬があり、多くの良心の疼きは、木の内側の樹液のようにしか働かず、そこここで早熟な若枝を伸ばそうという試みが失敗に終わってはいたが、それでも、時至ってナタンが彼のもとを訪れ、「あなたがその男です」[IIサム12:7]、と云ったとき、もしもダビデが死んだ者、神のいのちのない者となっていたとしたら、彼はナタンをはねつけ、マナセがイザヤに対して行なったように、怒りにまかせて彼を八つ裂きにしたことであろう。だが、そうする代わりに彼は頭を垂れ、神の前で泣いた。そして、なおもこう記されている。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」[IIサム12:13]。彼の髄は、彼がその葉を失ったときも彼の中にあった。おゝ! あわれな堕落した兄弟たちをあわれむがいい。おゝ! 彼らを焼いてはならない。彼らは枯れた薪ではない。彼らの葉はなくなっていても、彼らの髄は彼らの中にある。あなたには見えないときも、神は彼らの心の中に恵みを見ることがおできになる。神は決して息絶えることのありえないいのちをそこに置いておられる。というのも、神はこう云われたからである。「わたしは、わたしの羊に永遠のいのちを与えます」*[ヨハ10:28]。そして、それはいつまでも生き続けるいのちを意味する。――「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」[ヨハ4:14]。あなたは、その泉を大きな石でふさぐかもしれないが、それでもその水はどこかからしみ出し、何をもってしても吹き出すのである。それと同じように天の世継ぎは、きわめて嘆かわしいそむきの罪を犯しては教会を嘆かせ、自らを傷つけることがある。――そして、泣けよ、わが目よ。そのようにした者のために、おゝ、泣けよ。また、おゝ、血を流せよ、わが心よ。そしてお前は血を流している。そのように罪を犯した者のために。だがしかし、彼らが「葉を落とすときにも、その中には髄がある。聖なるすえこそ、その髄である」*。――すなわち、彼らの中におられるキリスト、彼らの中におられる聖霊、彼らの中の新しい創造である。――「聖なるすえこそ、その髄である」。あわれな信仰後退者よ! ここには、あなたの慰めとなる言葉がある。私は、自分の罪の中にぬくぬくとおさまっている人を慰めようとは思わない。決してそのようなことはない! しかし、もしあなたが自分の罪を知り、それを憎んでいるとしたら、あなたを慰めさせてほしい。あなは死んではいない! イエスがあの少女について、「死んだのではない。眠っているのです」[ルカ8:52]、と云われたように、あなたについて私にこう云わせてほしい。「あなたは死んだのではない。また生きるようになる」、と。あなたは悔い改めているだろうか? 自分の罪について嘆いているだろうか? それは、内側にいのちがあることを示すつぼみである。普通の罪人が罪を犯すとき、その人は悔い改めない。あるいは、悔い改めたとしても、それは律法的な後悔である。その人の良心はその人を疼かせるが、その人はそれを黙らせてしまう。その人は自分の罪を離れもせず、それに背を向けもしない。

 しかし、あなたはこれまでに、むかつくような罪の中から洗われた後の、神の子どもを見たことがあるだろうか? その人は一変した人である。私の知っているそうしたある人は、かつては陽気な顔つきをしており、人と一緒にいるときには冗談が口をついて出てきたものであった。だが、あるすさまじい罪を犯した後のその人に出会ったとき、彼の顔つきには常ならぬ重苦しさがただよっていた。彼は、云って見れば、あの少年からこう云われた詩人ダンテのように見えた。「あそこに地獄に行ってきた人がいるよ」。なぜなら、彼は地獄について本を書き、まさに、そうした人のように見えたからである。――彼は、それほどひどい様子に見えた。そして、私たちが罪について語ったとき、彼には非常に沈鬱な様子が漂っていた。そして、私たちが道を踏み外すことについて語ったとき、彼の頬を涙が滴り落ち、「私も道を踏み外しました」、と云わんばかりであった。彼は、巨人絶望者の城に入れられた後の、善良な基督者のように見えた[『天路歴程』]。愛する方々。あなたは覚えていないだろうか? あの案内人は、巡礼者たちを明(あきら)が丘という名の山の上に連れて行き、その山上から彼らに、目をくり抜かれ、墓場の間を手探りしている多くの者たちを見せた。そこで基督者はこれが何を意味しているのかと尋ねた。案内人は云った。「この人たちは、巨人絶望者の城に捕えられた巡礼たちです。その巨人が彼らの目をくり抜き、彼らが死ぬまで墓場の間をうろつくままにしてあるのです。そして、彼らの骨が中庭に放置されているのです」。ここでジョン・バニヤンは、非常に素朴にこう云っている。「私が見ていると、彼らの目には涙があふれてきた。自分たちも、そこにいたかもしれないことが思い出されたからである」。私がかつて知っていた人も、それと全く同じように語っていた。その人は、なぜ神は自分を、ユダやデマスのように永遠に背教者のままにしておかなかったのか不思議がっているように見えた。彼は、多くの人々が完全に神の道から脇にそれてしまったのに、自分は、自分の葉を失ったときもなおも内側に髄を有しており、なおも神が自分を愛しておられることを驚くべきことだと考えてるように見えた。ことによると、愛する方々。こうした人々の何人かが神によって生かされてから、罪を犯し、その後、悔い改めることを許されるのは、この理由のためかもしれない。知っての通り、音楽の中には、非常にまれな声がいくつか必要とされるものがある。そして、時たま、そうした声が聞こえると、だれもが行ってそれを聞きたくなる。私が思ったところ、ことによると、天国にいるこうした人々の何人かは、御座の前で最高音部を歌うことになるのかもしれない。――えり抜きの、驚くべき恵みの調べを。なぜなら、彼らは信仰を告白した後で、罪の深みにまで陥ったのに、神は、彼らの足が破滅へと急いでいたときも、彼らを愛し、彼らを取り戻された。「彼らを大いに愛された」からである。そうした者らはごく僅かしかいない。ほとんどの人々は、ひどく汚らしいしかたで罪に陥る。彼らは私たちの中から出ていったが、それは、もともと私たちの仲間ではなかったからである。もし私たちの仲間であったなら、私たちと一緒にとどまっていたであろう[Iヨハ2:19]。しかし、ごく少数の人々がいる。――大いなる聖徒でありながら、後に大いに信仰から後退した罪人となり、それから再び大いなる聖徒となった人々がいる。彼らの髄は、彼らがその葉を失ったときも、彼らの中にあった。おゝ! あなたがた、遠く道を踏み外した人たち。座り込んで泣くがいい。いくら泣いても十分ではない。たとい、あなたがハーバートとともにこう泣いても。――

   「おゝ、誰(た)ぞわれに涙与うや? 来よ、すべての泉よ。
    とどまれよ。わが首(こうべ)と目とに。来よ、雲よ、雨よ!
    われの嘆きは すべてを要せり
    自然の生める 湿れるものを」。

あなたは、こう云えるであろう。――

   「すべての水脈(みず)よ
    川吸い上げて わが目を満たせ。
    泣き疲れし目 乾き切り
    さらに水路(ながれ)と 給水(おぎない)なくば
    わが身にかない よく支ええじ」。

しかし、それでも思い出すがいい。「神は御民を捨てず、彼らを断ち切らない」。というのも、なおも神はこう仰せになるからである。――

   「さまよう者よ、とく立ち返り、
    見よや、傷つく 父の心を」。

立ち返れ! 立ち返れ! 立ち返れ! あなたの父のいつくしみは、今もあなたに向けられている。神は、この瞬間にも、書かれたお告げを通してこう語っておられる。「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは彼らの背信をいやし、優しく彼らを受け入れ、喜んでこれを愛する。彼らは、今もわたしのものだからだ」*[ホセ11:8; 14:4、2]。テレビンの木や樫の木が葉を落とすときも、その中に髄ががあるように、内側にある聖なるすえ――選ばれ、召された、あわれみの器[ロマ9:23]――は、なおもその髄なのである。

 さて今、私はあなたがたの中のある人々に対して何と云わなくてはならないだろうか? そうした人々は、暗黒の罪の中に生きていながら、神の民も堕落したことが記されているからといって、自己弁護している。方々。しかとわきまえるがいい! あなたは、そうしたことをしている限り、聖書を曲解し、自分自身に滅びを招いているのである[IIペテ3:16]。たといある人が毒を飲み、腕のいい医者がそばにいて、天的な解毒剤を処方したために命を取り留めたとしても、何の医者も解毒剤も有していないあなたが、その毒は自分の命取りにはならないと考えていてよいだろうか? 何と、キリスト者を罪に定めない罪も――それはキリストがご自分の血でキリスト者を洗ってくださるからだが――、あなたは罪に定めるであろう。ブルックスは云う。――そして私は、彼の言葉を繰り返すことで、しめくくることにしよう。――「信じてバプテスマを受ける者は、その罪がいかに多くとも救われる、と使徒は云った。しかし、信じない者は、その罪がいかに少なくとも罪に定められる」。まことにあなたの罪は少ないかもしれないが、キリストから離れているあなたは、それらのために失われている。あなたの罪は大きなものかもしれないが、もしキリストがそれらを赦してくださるなら、あなたは救われるであろう。ならば、私があなたに問わなくてはならない1つの質問はこうである。――あなたはキリストを有しているだろうか? 有していないとしたら、あなたに聖なるすえはなく、あなたは死んだ木であり、そのうち地獄の火口となるであろう。あなたは、内側の腐った木である。全くの朽ち木でしかなく、今にもばらばらになりかかっており、情欲のうじ虫によってむしばまれている。そして、あゝ! かの火があなたをつかむとき、何とすさまじい炎が燃え上がることか! おゝ! あなたにいのちがあれば、どんなに良いことか! おゝ! 神がそれをあなたに与えてくださるなら、どんなに良いことか! おゝ! あなたがいま悔い改めるなら、どんなに良いことか! おゝ! あなたがイエスに身をゆだねるなら、どんなに良いことか! おゝ! あなたが心底からイエスに立ち返るなら、どんなに良いことか! というのも、覚えておくがいい。そのときにはあなたも救われるのである。――いま救われ、永遠に救われるのである。というのも、「聖なるすえ」が「その髄」となるからである。

  

 

葉のない木[了]

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