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信実な友

NO. 120

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1857年3月8日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「友人には、兄弟よりも親密な者もいる」。――箴18:24 <英欽定訳>


 いみじくもキケロは云っている。「友情は、世でただ1つ、その有用性について全人類が意見の一致を見ているものである」。友情は、この世で快適に過ごすために必要な要素であって、その大切さは火や水、あるいは、空気そのものとくらべてさえ遜色ないように思われる。人は、誇りをもって孤高を保ちながら、みじめな暮らしをのろのろ続けて行けるかもしれないが、その人の人生は、ほとんど人生とは呼べず、ただ存在しているだけにすぎない。希望という葉も、喜びという実もむしりとられた一本の木。現世で幸せになりたいと思う人は友人たちを持たなくてはならない。そして、来世で幸せになりたいと思う人は、何にもまして、来たるべき世にひとりの友人を持たなくてはならない。御民の父、神というお方において。

 しかしながら、友情は、非常に心喜ばせ、この上もなくほむべきものではあるが、人々に極度のみじめさを招く原因となってきた。ふさわしくない友情、また不実な友人のためである。良き友が甘やかであるのと同じくらい、偽りの友は苦々しさで満ちている。「不実な友は毒蛇の牙よりも鋭い」。ある人のうちに安らぐことは甘やかである。だが、おゝ! その支えを折り取られるとき、それはいかに苦いことか。自分の信頼ゆえに受けた転落は、いかに嘆かわしいことか。誠実さは、真の友人には絶対に欠かせない。私たちは、自分に誠実を尽くしてくれる者でない限り、どんな人々のことも喜べない。ソロモンが宣言しているように、「友人には、兄弟よりも親密な者もいる」。彼は、この世の虚飾と空虚さの中にあって、そうした友人をひとりも見いださなかっただろうと思う。彼は、彼ら全員を試してみたが、彼らのうつろさを見いだした。彼らの喜びをみな経験したが、彼らが「空の空」であることを見いだした。あわれなサヴェッジは、次の言葉を発したとき、自らの悲しい体験から語っているのである。――

   「汝知るべし、世の友情(とも)は虚仮(こけ)、
    見かけ倒しぞ! こは売女の情、
    政治家(おかみ)の誓い、にせ志士の勇、
    外見(そとみ)は美(よ)くも、欺きに満つ」。

そして、ほとんどの場合はその通りである。世の友情は、常に、はかない。それを当てにするのは盗人を頼みにするようなもの、それを信頼するのは茨によりかかるようなもの、左様、それよりも悪い。あなたを刺し貫く槍の上によりかかり、魂を苦悶で突き刺すようなものである。それでも、ソロモンは「兄弟よりも親密な友」を見いだしたと云う。彼は、その歯止めなき歓楽の通い先でも、その果てしなき探索のさすらいの中でもなく、《いと高き方》の天蓋の中、神の隠されたる住まいの中、神の御子イエス、罪人たちの《友》なるお方のうちに、そうした友を見いだしたのである。

 とはいえ、「友人には、兄弟よりも親密な者もいる」、と確言するのは大したことを云うことである。というのも、兄弟同士の愛は何にもまして勇敢な行為を生み出してきたからである。兄弟同士に何が行なえるかについては、幾多の物語が書き記されてきた。それは、私たちが思うに、いかなる友情の年代記によっても、まずしのぐことのできないようなものである。ティモレオンは、自らの盾を取り、殺害された兄のからだの上に立ちはだかっては、彼を敵たちの侮辱から守った。彼が自分の兄弟の死体を守って、敵軍の槍ぶすまの前にわが身をさらしたのは、兄弟愛の勇敢な行為とみなされた。そして、そのような兄弟同士の結びつきを示す事例は、古今の戦争において多々見られたのである。スコットランド高地連隊にいた、ふたりの兄弟の話が伝えられている。同連隊は、高地を行進している間に道に迷ってしまった。不用心な旅人を時として襲う、すさまじい嵐に見舞われた彼らは、雪で視界を奪われ、山上で遭難したのである。ほとんど凍死しそうになりながら、彼らは行軍を続けた。兵士たちは、ひとり、またひとりと雪の中に倒れては、見えなくなっていった。しかしながら、そこにフォーサイスという名のふたりの兄弟がいた。そのひとりが雪の中にばったり倒れ、そこに行き倒れになるはずだったところ、その兄弟が、自分の手足を動かすこともままならない白銀の砂漠の中で、彼を自分の背中に背負っては、かついでいったのである。戦友たちが次々に倒れていく中、この勇敢で誠実な兄弟は、愛する者を背中に背負って、とうとう彼自身が疲労困憊して倒れ伏して死んでしまった。しかしながら、彼の兄弟は、彼のからだによって温められていたため、旅路の終わりまで無事に行き着くことができたのである。ここに私たちは、ひとりの人が自分の兄弟のために命を犠牲にした実例を有している。この場にいる何人かの人も、同じような苦境に立ち至ることがあったなら、喜んで同じことをしようとするものと期待したい。「友人には、兄弟よりも親密な者もいる」、と云い切るのは、大したことを云うことである。それは、愛する者たち同士の一覧表の中で、友人同士を真っ先に持ってくることである。というのも、確かに母の愛に次いで、世には、父親を同じくし、同じ膝であやされた兄弟同士の愛よりも高い愛情はないし、あるべきではないからである。「麗しきなか 並び育ち、一つ屋を歓喜(えみ)で満たし」た者たちは、互いに愛し合うべきである。そして、兄弟同士の愛の素晴らしい実例や、強力な証拠が数多くあることを私たちは思う。それでも、「友人には、兄弟よりも親密な者もいる」、とソロモンは云うのである。

 私たちの主張を繰り返すと、私たちの信ずるところ、この友人とはほむべき《贖い主》イエス・キリストである。今朝、私たちは、まず、主が兄弟よりも親密な者であるという事実を証明するであろう。それから、できる限り手短に、なぜ主が兄弟よりも親密な者であるかを示したい。そして、しめくくりとして、イエス・キリストが信実な友であるという、この教理から引き出せるいくつかの教訓をあなたに示したいと思う。

 I. まず第一に、愛する方々。私たちが主張するところ、《キリストは、「兄弟よりも親密な友」であられる》。そして、このことを諸事実から証明するため、私たちは、あなたがたの中でも、これまで主を友としてきた方々に訴えるものである。あなたは、全員が全員、すぐにも判決を下さないだろうか? それは、掛け値なしの真実でしかない、と。主は、あなたをすべての世に先立って愛しておられた。星が暗黒をついてその光を投げつけた日のはるか以前、未踏の天界を御使いたちの翼が羽ばたいた日のはるか前、被造世界の何物も無の胎内からもがき出てはいなかった日のはるか前に、神は、すなわち私たちの神は、その心をご自分の民ら全員にかけておられた。その時以来、神が一度でも道をそれたことがあっただろうか? 一度でも脇を向いたり、心変わりしたことがあっただろうか? 否。あなたがた、神の愛をこれまで味わってきた人たち、神の恵みを知っている人たち。私の証人となってほしい。神は不確かな状況の中における確かな友であられた、と。

   「汝がそば近く 主、常に立てり、
    主の愛に満つ 恵みの広さよ!」

あなたはアダムにおいて堕落した。神はあなたを愛することをやめただろうか? 否。神はあなたを贖うために第二のアダムとなられた。あなたは現実の行為において罪を犯し、自分の頭上に神の審きをもたらした。あなたは神の御怒りと、その全き憤りを受けて当然である。ならば、神はあなたをお捨てになっただろうか? 否!

   「堕落(おち)て滅びし 汝れ主は見れど、
    すべてを越え 主、汝れを愛せり」。

神は、ご自分に仕える教役者を遣わしてあなたを招かれた。――あなたは彼を蔑んだ。彼は福音をあなたの耳に宣べ伝えた。――あなたは彼を笑い飛ばした。あなたは神の安息日を破った。神のみことばを蔑んだ。ならば神はあなたをお捨てになっただろうか? 否。

   「救いを決意(き)めし主、汝が行路(みち)守りぬ。
    盲目(めしい)し悪奴(ぬひ)とて、汝れ死を弄(もと)めど」。

そして、とうとう神はその恵みによってあなたをとらえ、あなたをへりくだらせ、あなたを悔悟させ、ご自分の足元にあなたを連れて来て、あなたのもろもろの罪を赦してくださった。それ以後、主があなたを離れたことがあっただろうか? あなたはしばしば主を離れたが、主があなたから離れたことがあっただろうか? あなたは多くの試練や困難を経てきたが、主があなたを見捨てたことがあっただろうか? 主はご自分の心をそむけ、あわれみの心を閉ざすようなことがあっただろうか? 否。神の子どもたち。あなたの厳粛な義務は、「否」、と云うことであり、主の信実さを証言することである。あなたは厳しい患難や危険な状況にあったが、あなたの友はそのときあなたを見捨てただろうか? 他の者たちはあなたに対して薄情だった。あなたのパンを食べた者までが、あなたにそむいて、かかとを上げた[詩41:9]。だが、キリストがあなたを捨てたことがあっただろうか? 主のみもとに行ってこう云えるようなときがあっただろうか? 「わが主よ。あなたは私を裏切ったのだ」。あなたは、自分の悲嘆が最も暗黒に沈んだときさえ、主の誠実さを非難などできたことが一度でもあるだろうか? あなたは、恐れ多くも主に云えただろうか? 「主よ。あなたは約束したことを果たされませんでした」、と。あなたは今こう証言するではないだろうか。「神、主が約束したすべての良いことは、一つもたがわなかった。それは、一つもたがわず、みな実現した」*[ヨシ23:14]。また、あなたはこれから主があなたをお捨てになると恐れているだろうか? ならば、御座の前にいる輝かしい者たちに聞くがいい。――「あなたがた、栄化された霊たち! キリストはあなたをお捨てになっただろうか? あなたがたはヨルダンの流れを越えてきた。主は、そこにあなたを置き去りにしただろうか? あなたは、あの黒い死の洪水でバプテスマを受けた。主はそこであなたをお捨てになっただろうか?」 すると彼らは答えるであろう。「否、私たちの人生のあらゆる困難、死のあらゆる苦々しさ、そして神の審きのあらゆる恐怖を通じて、主は『兄弟よりも親密な友』として、私たちとともにおられました」。神に贖われた幾百万もの民すべての中で、主がお捨てになった者はただのひとりもいない。彼らは貧しく、卑しく、困窮していたが、主は決して彼らの祈りを忌み嫌わず、決して彼らに善を施すことを脇にやることがなかった。主は常に彼らとともにおられた。

   「そは主のあわれみ 絶えることなく、
    常に信実(まこと)で つゆ揺るがずば」。

しかし、私はこれ以上ここにとどまるまい。このことは不敬虔な人には証明できず、敬虔な人にはすでに経験済みの知識として証明されているからである。それゆえ、私はこの事実をただ認証する以外に、ほとんど何も必要ないであろう。キリストは信実な友である。――あらゆる欠乏、あらゆる困窮の折の友である、と。

 II. さてここで私があなたに告げなくてはならないのは、《なぜ私たちがキリストを信実な友としてより頼めるかという理由》である。

 主ご自身のうちには、ご自分の民に対して主が兄弟よりも親密な友となられることを確実にする、いくつかのことがある。

 1. 真の友情は、真の人間同士の間にのみ結ばれうる。真の人間とは、その心が栄誉を知る魂である人々のことである。悪人同士の間に、永続的な友情はありえない。悪人は互いに愛し合うふりはするかもしれないが、彼らの友情は砂の綱であり、都合次第でいつ切れてもおかしくない。だが、もしある人が真摯な心を宿しており、真実で高貴な心をしていれば、私たちはその人を信頼できよう。スペンサー[1552?-99]は、見事な古英語の詩句でこう歌っている。――

   「否、実(げ)に かの友誼 長くは続かじ、
    その風采(みめ)いかに 華(あで)に良くとも
    その末路(すえ)も悪、あるひは禍(まが)なり、
    《美徳》ぞ、心、緊縛(むす)ぶべければ」。

しかし、イエスの人格に汚点を見いだせる者、主の誉れを引き落とせる者がどこにいるだろうか? 主の紋章入りの盾に傷がついたことが、これまでにあっただろうか? 一度でも主の旗が泥の上で踏みにじられたことがあっただろうか? 主は真実な証人[黙3:14]、忠実で正しいお方として天に立っておられないだろうか? 主については、偽ることのない神[テト1:2]であると宣言されていないだろうか? 私たちは、この瞬間に至るまで、主がそのようなお方であることを見いだしていないだろうか? そして、主が、「聖なる、聖なる、聖なる主」*[黙4:8]であられることを知りつつも、私たちは、兄弟よりも親密な友であられる主に心を打ち明けられるではないだろうか? 主の善良さは主の信実さの保証である。主は私たちを失望させることがあられない。

 2. 私たちが失敗する際にも、私たちに対して信実であることは、友人のうちにある信実さの確かなしるしである。親切な、思いやり深いしかたで、あなたにあなたの欠点を告げてくれるような人は頼りになる。ご機嫌とりの偽善者、陰険なおべっか使いは、友人の名に値しないくずであり、かすである。こうした者らは、この高貴な樹木にとりついた宿り木でしかない。しかし、真の友はあなたに全幅の信頼を置いているので、あなたの欠点をあからさまにあなたに告げる。私が友人にしたいのは、面と向かって私に正直に語ってくれる人である。出会う人に片端から云い触らす人ではなく、まっすぐ私の家にやって来て、こう云ってくれる人である。「ねえ、君には、これこれこういうことがあるように思う。兄弟として、ぼくは君にそう告げなくてはならないのだ」。――そうした人こそ真の友である。その人は自分がそうした者であることを証明したのである。というのも、私たちは人にその欠点を告げることによって何の称賛も得ることがなく、むしろ嫌われる危険を冒すからである。時にはそうすることでお礼を云われることもあるが、それでますます気に入ってくれるという奇特な人はそう多くない。称賛は、私たちがみな愛するものである。先日、私は、自分はへつらいなど受けつけないと云っている人に出会った。そのとき私はその人と一緒に散歩していたが、ぱっと後ろを振り返っては云ったものである。「いずれにせよ、あなたは自分にへつらうという優秀な賜物を持っていますな。現に、いま自分はへつらいを受けつけないと云って、そう行なっているのですから」。「あなたは私にへつらうことはできませんよ」、と彼は云った。「しようと思えばできますとも。もしかすると、この日のうちにでも」、と私は答えた。私は、正面からその人にお世辞を云うことはできないことがわかったので、その人の子どもについて、何て可愛い子でしょう、と云うことから始めた。すると、彼は相好を崩して嬉しがった。また、私が彼の持ち物のあれこれをほめると、彼が手もなくへつらわれてしまうことを見いだした。正面切ってではなくとも、間接的に。私たちはみなへつらいには弱いものである。心をなだめる気付薬を好まない人はいない。ただし、それは「へつらい」という名札が貼られていない場合に限る。私たちは、そう呼ばれていれば、へつらいにはキリスト教的な嫌悪をいだいているからである。それを別の名で呼ぶと、私たちはそれを、雄牛が水を呑むように、ぐびぐびと飲み干す。さて、神の子どもたち。キリストはあなたにへつらったことがあるだろうか? 主はあなたの数々の欠点をはっきり真実に告げてこられたではないだろうか? 主は、あなたが糊塗していると思っていたこと――あなたの小さな隠れている罪――についてさえ、あなたの良心を刺してこられたではないだろうか? 主はあなたの良心をして、あなたの耳に、あなたの悪事のゆえの恐怖の音色を雷鳴のように響かせてこなかっただろうか? よろしい。ならば、あなたは主を信頼してよい。というのも、主は、人を信頼に値するものとするような信実さを示しておられるからである。このようにして私はあなたに、主ご自身のうちに私たちが主に信頼できる理由があることを指摘してきた。

 3. 次のこととして、主の友情には、たとい主に信頼を置いても欺かれることはない、と私たちに確信させるいくつかの事がらがある。真の友情は、そそくさと生長するものではない。奇矯な大家フラーが云うように、「友情は、徐々に上へと這わせていくがいい。もしそれが急に突進していくと、すぐに息切れしてしまうであろう」。まさにその通りである。確かジョアンナ・ベイリーがこう云っている。――

   「友情は 急に育つる 草花ならず。
    尊敬(うやまい)の地に 深く植わるも
    情もて語らい 徐々に栽培(そだ)てて
    全く熟さざるべからずば」。

おゝ、ヨナよ。自分の頭上を覆うようなとうごま[ヨナ4:6]を信頼しても無駄である。それは大してあなたの役に立たない。それは一夜で生えたが、一夜にして枯れるであろう。長い歳月をかけて育ってきた強くて堅い樫の木こそ、嵐に耐え抜き、あなたの日よけとなる枝も張り伸ばし、灰色の老年に達し、突風の中でその枝がぶるぶる震えるときも、必要とあらば、その胴体の洞にあなたを入れてくれるものである。友情は、その始まりからして真実なものである。だが、私たちはある人との友情を長年保ってきて初めて、その人のことを兄弟よりも親密な友と呼べるのである。では、キリストはどのくらい長くあなたを愛してこられただろうか? あなたにはわからない。時代がまだ生まれていないとき、主はあなたを愛しておられた。この世界が生まれたばかりで、霧のうぶ着にくるまっていたとき、主はあなたを愛しておられた。古の金字塔の建設が始まってもいないとき、主の心はあなたにかけられていた。そして、あなたが生まれてからこのかた、主はあなたに強い愛情をいだいておられる。主は揺りかごの中のあなたをご覧になり、そのときあなたを愛された。主は一手幅ほどの幼子であるあなたと婚約し、それ以来あなたを愛してこられた。私に見えるあなたがたの中のある人々は老齢によって頭が白髪になり、ある人々は丸禿げになっているが、主は今の今まであなたを愛してこられた。では、これから主はあなたをお捨てになるだろうか? おゝ! 否。主の友情は、損なわれようのないほど古い。それは、実に多くの嵐によって生長してきた。実に多くの困難という風によって根を張ってきた。そのため、それは長続きし、立ち続けるしかないのである。山頂の花崗岩が溶け去らないのと全く同じである。それは、新雪とは違い、幾多の突風をものともせずに耐え抜き、焼きつく日差しの熱をしのいできた。それは、あくまで立ち続けてきた。自然界の拳から受けるあらゆる打撃を真っ向から受けても、動かされることなく、傷つけられることがなかった。それは持ちこたえる。これまで持ちこたえてきたからである。しかし、万物の根源をなす諸元素が溶け崩れ、火焔流の中で融解し、雲散霧消してしまうとき、そのときもキリストの友情はなおも存続する。というのも、それはそれらよりも古くから生え出ていたものだからである。主は「兄弟よりも親密な友」に違いない。というのも、主の友情は、年老いて白くなっている友情だからである。――それは、次のように云われた、ご自分の頭のように年老いて白くなっている。「その頭と髪の毛は雪のように白く、羊の毛のように白かった」*[ダニ7:9]。

 4. しかし、さらに注意したいのは、持ちこたえるこの友情は浮かれ騒ぎの部屋の中で生ずるのでも、そこで養われも、太らされもしない、ということである。若い婦人よ。あなたは、昨晩、舞踏会場で獲得した親愛な友人について語っている。だが私は切に願う。どうかその名前を濫用しないでほしい。そのような場所で得られたのでしかないとしたら、彼は友人ではない。友人同士とは、快楽の温床で育つものよりも良いものである。友情は、そうしたものよりも長続きする植物である。あなたには友人がいるというのだろうか。しかり。そして彼は二頭の馬を持っており、立派な邸宅を構えている。あゝ、だがあなたの友人を試す最上の方法は、あなたが粗末なあばら屋すら持っていなくとも、また、あなたが家なしになり、着るものもなく、パンを乞いに出なくてはならなくなったときも、彼があなたの友人であろうとするかを知ることである。そのようにして、あなたはある友人を真に試すであろう。私が持ちたい友人は、冬の時期に生まれ出た友であり、その揺りかごを嵐に揺さぶれた友である。彼は長続きするであろう。順境の時だけの友人たちは、私たちから飛び去るであろう。私は、燕よりは駒鳥を友人としたい。友燕は夏の間しか私たちの間にとどまらないが、駒鳥は冬になると私たちのもとにやって来るからである。私たちが最大の悩みのうちにあるとき、私たちの最も近くに来てくれる人々こそ誠実な友人である。だが逆境が訪れるなり尻に帆かけて逃げ出すのは友人ではない。信仰者よ。あなたはキリストが今あなたから離れ去ると恐れる理由があるだろうか? 主は喪中の家にあるときのあなたとともにおられなかっただろうか? あなたは、人々が真珠を見いだすところ、「暗闇の住む深淵の洞窟」であなたの友を見いだした。あなたは、あなたの困難の時にイエスを見いだした。あなたが最初に主の御名の価値を学んだのは、病の床にあるときであった。精神的苦悩の時においてこそ、あなたは最初に主の衣のふさをつかんだ。そしてそれ以来、あなたが最も近しく、最も甘やかなやりとりを主と持ったのは、暗闇の時においてであった。よろしい。ならば、悲しみの家で試されたこのような友、――自分の心血をあなたに注いでくれた友、そして血糊の大河の中で自分の魂を流れ出させた友――このような友は決してあなたを捨てることができないし、決して捨てようとはしない。彼は兄弟よりも親密な友である。

 5. また、愚かさによって獲得される友人は決して長続きする友ではない。愚かなことをして、ある人をあなたの友とするがいい。それは悪徳において徒党を組むことである。そして、すぐにあなたは彼の友情が無価値であることに気づくであろう。不正を行なうことによって得た友情など、なしで済ます方がましである。おゝ! いかに多くの愚かしい友情が、単なる感傷癖の成果として生じつつあることか。いかなる根もなく、私たちの《救い主》が告げられた、「土が深くなかったので、すぐに芽を出した」[マコ4:5]植物のようである。イエス・キリストの友情はそのようなものではない。そこには、何の愚かさの成分もない。主は思慮深くあなたを愛しており、私たちの愚かさを見て見ぬ振りをしたり、黙認したりせず、ご自分の知恵を私たちに徐々に教え込んでくださる。主の愛は賢い。主はご自分の知恵のご計画に従って私たちをお選びになった。盲目的にでも性急にでもなく、あらゆる識別力と思慮をもってそうなさった。

 この項目の下で、やはり述べておきたいのは、無知な友情はあまり望ましいものではない、ということである。私は、私のことを知らない人には決して私の友人であると名乗ってほしくない。人には、私をどれだけ知っているかに従って私を愛してほしい。もしその人がほんの少ししか私のことを知らないのに私を愛しているとしたら、私のことをもっと知るようになるとき、私を打ち捨てるかもしれない。「あの人は、非常に愛すべき人のように見える」、とある人は云うであろう。「きっと私は彼を愛せるに違いない」、と別の人は彼の目鼻立ちを入念に調べながら云うであろう。左様。だが、まだ「友人」と書いてはならない。もう少し彼についてよく知るまで、しばし待つがいい。ただ彼を目にし、彼を吟味し、彼を試し、彼を試験するがいい。そうするまでは、彼を神聖な友人一覧につけ足してはならない。だれに対しても友好的であるがいい。だが、彼らがあなたを知り、あなたが彼らを知るまでは、だれをもあなたの友人としてはならない。無知という暗闇の中で生まれた多くの友情は、互いにより良く知り合う光の中で急死してきた。あなたは人々を、ありのままの彼らとは違う者たちだと考えたが、彼らの本性を発見したとき、彼らへの関心がなくなった。私は、ある人が私にこう云ったのを覚えている。「私はあなたに対して非常な愛情をいだいています」。そして、彼はある特定の理由に言及した。私は答えた。「あなたの理由は絶対に偽りです。あなたが私を愛しているという当の事がらは、私ではありませんし、私が決してなろうとしたくないものです」。それから私はこう云った。「私は実際、あなたの友情を受け入れることができません。もしそれが、私が云ったかもしれないことの誤解に基づいているとしたら」。しかし、私たちの主イエスは、一度お愛しになった者たちを決して捨てることができない。なぜなら、主はご自分がすでに知っておられるよりも悪いものを何1つ私たちのうちに見いだすことがありえないからである。主は私たちについて、前もってすべてを知っておられる。主は私たちのらい病をご覧になり、それでも私たちを愛された。私たちの欺瞞ぶりと不信仰を知っておられた、それでも私たちをご自分の胸に抱きしめられた。主は私たちがいかにあわれな愚か者であるかを知っておられたが、それでも決して私たちを離れず、私たちを捨てないと云われた[ヘブ13:5]。主は私たちが何度となく主に反抗し、主のご忠告を蔑むであろうことを知っておられた。私たちが主を愛するようになったときでさえ、私たちの愛が冷たく不活発なものになるだろうと知っておられた。だが主はご自分のゆえに愛された。ならば確かに主は兄弟よりも親密な友であろう。

 6. だがさらに、友情と愛が本物であるためには、口先だけではなく、行ないに存していなくてはならない。単なるお愛想だけの友情は今の時代の流行りである。なぜなら、この時代は欺瞞の時代だからである。この世は、巨大なにせもの置き場である。ロンドンのどこに行こうと、にせものがあなたをにらみつけている。本物はごく僅かしか見つからない。私がほのめかしているのは、商売上のごまかしや、まぜ物をした食品などといったものについてばかりではない。欺きは小売商人の店先だけに限られてはいない。社会全体にはびこっている。聖所も例外ではない。説教者はにせものの声色を使う。居間で喋るのと同じようなしかたで、講壇で語る人を聞くことはほとんどない。何と、時として私が話を聞く兄弟たちは、お茶や夕食をとっているときは、非常に気持ちの良い、上品な種類の声で喋るのに、その講壇に立つと、何やら信心深げな声色を使い、その口を大げさな調子で満たすか、この上もなくあわれっぽく鼻を鳴らして訴えかける。こうした人々は、講壇に誉れを与えようとして、その品位を落としている。いかなる定命の人間が用いるようにも神が決して意図されなかったような声で語っているからである。これは、とてつもないにせもの置き場である。そして、こうした小さなことによって、世間の風向きがわかるのである。あなたは、友人の家々を訪問しては自分の名刺を挨拶代わりに置いてくる。それが友情の行為なのである。――名刺が! だがもしその人が金銭に困っているとしたら、果たしてあなたは、自分の小切手帳を置いてくるだろうか! あなたは、手紙に「いとも親愛なる貴兄」だの、「心より敬意をこめて」だのと書く。それはにせものである。本気でそうは思っていないのである。「親愛な」! それは神聖な言葉である。真に愛情をいだいている人にしか用いられるべきではない。だが、私たちは今では、それが本当ででもあるかのように、偽りを大目に見ている。そして、それを礼儀であると呼ぶ。そうかもしれない。だが、多くの場合、それは不真実である。さて、キリストの愛は言葉にではなく、行ないに存している。主は、「わたしの親愛なる民よ」、とは仰せにならないが、その真情を吐露してくださり、私たちにはそれがいかなるものであるかが見てとれる。主は決して私たちのところに来て、単に、「愛する者たちよ」、と仰せになるだけではない。木に吊り下げられてくださった。そして、そこに私たちは、真紅の文字で「愛する者たちよ」と記されているのを見るのである。主は決して私たちのもとに、まずその口づけをもってやって来はしない。――主は、もろ手で祝福を私たちに与え、ご自身を私たちのためにささげ、それからご自身を私たちに与えてくださる。お世辞ばかり云う友を信用してはならない。本当に持つ価値のある贈り物を与えてくれる人を信頼するがいい。あなたを思う心の真実さを証しするような行ないをする人を信頼するがいい。そうした友人が――そして、そうした友人こそイエスであるが――「兄弟よりも親密な者」なのである。

 7. もう一言だけ、後はあなたを煩わせまい、と思う。金で買った友人は決して長続きしない。ある人に十九回も物をやり、二十回目にそれを断れば、その人はあなたを憎むであろう。その人の愛は、単にあなたの贈り物からのみ生じていたからである。黄金で買えるような愛を私は、金滓と引き替えに売り渡すであろう。真珠で買えるような友情など、玉砂利と引き替えにしてもかまわない。そんなものに価値はなく、それゆえ、早めになくなればなくなるほど良い。しかし、おゝ! 信仰者よ。キリストの愛は金で買った愛ではない。あなたは主に何の贈り物も持って行かなかった。ヤコブは息子たちがエジプトに行くときに云った。「贈り物として、あの方のところへ持って行きなさい。油と乳香、くるみとアーモンド」*[創43:11]。だがあなたは、キリストに何の贈り物も持って行かなかった。あなたが主のもとに行ったとき、あなたはこう云った。――

   「わが手にもてる もの何もなし
    ただ汝が十字架に われはすがらん」。

あなたは、主を愛しますという約束すらしなかった。というのも、あなたには非常に不信実な心しかなく、そんなことを云える勇気がなかったからである。あなたは主に、どうかあなたを愛させてください、と願った。それが、あなたにできる精一杯のことであった。主は、全く一方的にあなたを愛してくださった。――ただ単に、あなたを愛したかったから愛してくださった。よろしい。そうした、自らの源泉以外の何物をも糧とせずに生きていた愛は、あなたのお返しの僅かさゆえに飢えることはないであろう。これほど岩地のような心に育った愛は、土の薄さのゆえに枯れはしないであろう。あなたの潅漑されていない魂という不毛の砂漠に生え出た愛は、決して、決して湿気のなさゆえに死に絶えはしないであろう。それは生きるに違いない。息を引き取ることはありえない。イエスは、「兄弟よりも親密な友」でないはずがない。

 8. もう少し理由を主張してよいだろうか? 私は、あと1つだけ言及するであろう。すなわちこのことである。――万が一にも私たちへのキリストの愛を減らす原因となるようなことは、何1つありえない。どうしてそのようなことがあるのか、とあなたは云うだろうか? ある人はその友を愛するが、その人は突如として金持ちになり、今やこう云う。私は、以前の私よりも大物になった。古馴染みのことは忘れることにしよう、と。しかし、キリストが今以上に豊かになることはありえない。主は、可能な限り最も豊かなお方であり、無限にそうあられる。主は今あなたを愛しておられる。ならば、主がご自分の個人的な栄光を増し加えたがためにあなたを捨てるようなことはありえない。永遠の栄光がいま主のみかしらを飾っているからである。主は決して、今以上に栄光に富むことも、今以上に偉大になることもありえない。それゆえ、常に変わらずあなたを愛されるであろう。逆に、時として、友人同士の一方が貧しくなり、もう一方から捨てられることもある。だが、あなたは決して今のあなた以下に貧しくなることはない。というのも、あなたは、いま「罪人、無の無」だからである。あなたに、自分自身のものは何1つない。あなたの持っているものはみな借り物であり、ことごとく主から与えられたものである。ならば主は、あなたが今以上に貧しくなったからといって、あなたへの愛を減らすことはないに違いない。無一物の貧者は、少なくとも、それよりも貧しくなる可能性はなく、秤に乗っても今より低く沈むことはありえないからである。それゆえ、キリストはあなたを、あなたのあらゆる裸とあらゆる貧しさにもかかわらず愛してくださるに違いない。

 「ですが、私は罪深い者となってしまうかもしれません」、とあなたは云う。しかり。だが、あなたがどこまで罪深い者となるかを、主は全く予知しておられた。だが、それでも主はあなたを、あなたのあらゆる罪を予知しているにもかかわらず、愛されたのである。ならば確かに、それが起こっても、主は全く驚かないであろう。主は、あらかじめすべてを知っておられた。そして、主がその愛からそれることはありえない。いかなる状況が起ころうとも、《救い主》をその御民に対するご愛から引き裂くようなこと、また聖徒をその《救い主》に対する愛から引き裂くようなことは決してありえない。主は、「兄弟よりも親密な友」であられる。

 III. さてそれでは、《このことから引き出すことのできる推論》である。ラーヴァーターは云う。「あなたの友人たちの特徴は、あなたの敵たちの特徴となるであろう。友人が冷淡な人は、敵も冷淡、友人が中途半端であれば、敵も中途半端、敵が激越であれば、友人たちも心暖かであろう」。これが真実であると知っている私はしばしば、敵たちが私を悪しざまに罵るとき、自分を祝福してきた。よろしい、と私は思った。「私の友人たちは私を、固く強い友情で愛してくれるであろう。敵たちは、いくらでも口をきわめて悪口を云うがいい。それは単に、友人たちがそれに比例して堅い愛情をいだいてくれることを示しているのだ」。それで私たちはこのような推論を引き出す。キリストが親密なお方であり、私たちの友であられる以上、私たちの敵たちは私たちにぴったりと貼り付き、死ぬまで私たちから決して離れないであろう。おゝ、キリスト者よ。キリストが親密なお方であられるからには、悪魔もついて離れないであろう。彼はあなたにへばりつき、行をともにするであろう。地獄の犬は、あなたがヨルダンの向こう岸に行き着くまで、決して吠えるのをやめないであろう。この世のいかなる場所も、かの不倶戴天の敵の射程距離外にはない。あなたがかの流れを越えるまで、彼の矢はあなたに達しうるし、達するであろう。もしキリストがあなたに対して寛容を尽くしてくださるとしたら、サタンは執拗にねばり続けるであろう。キリストがあなたを忘れるのではないかと期待して、あなたをわがものにしようと努力し、あなたが無事に天国に上陸する姿を見るまで力を尽くすであろう。しかし失望してはならない。サタンの咆哮が大きければ大きいほど、より大きなキリストの愛の証拠をあなたは受けるであろう。「われに与えよ」、と老ラザフォードは云った。「眠っている悪魔よりは、吠えたける悪魔を。というのも、眠っている悪魔たちは私をまどろませるが、吠えたける悪魔たちは、私を大急ぎで私の《主人》のもとに逃れさせるからだ」。おゝ! ならば、この世があなたを怒鳴りつけるとしたら、――あなたの仇敵たちが熾烈にあなたを攻撃するとしたら、喜ぶがいい。キリストは、彼らが憎悪に満ちているのと同じくらい、あなたに対する愛に満ちておられる。それゆえ、

   「堅くあれ、強くあれ
    恵みを盾とし、主を賛歌(うた)とせよ」

そして今、私には問うべき質問が1つある。その質問を私はこの場にいる老若男女全員に問うものである。――イエス・キリストはあなたの友だろうか? あなたには宮中に――天の宮中に――ひとりの友がいるだろうか? 生きている者と死んだ者との《審き主》[使10:42]は、あなたの友だろうか? あなたは自分が彼を愛していると云えるだろうか? 彼は愛というしかたでご自身を自分に啓示してくださったことがある、と云えるだろうか? 話をお聞きの愛する方々。この質問には、あなたの隣人のことを答えてはならない。あなたのことを答えるがいい。貴人にも農民にも、富者にも貧者にも、学者にも文盲にも、この質問は発されている。それゆえ、問うがいい。キリストはあなたの友だろうか? あなたは、この質問を考えたことがあるだろうか? 一度でもそう問うたことがあるだろうか? おゝ! 「キリストは私の友です」、と云えることは、この世で最も甘やかなことの1つである。ある日、それまで途方もなく大きな罪の中に生きてきたひとりの人が、何の気なしに、とある礼拝所に入った。説教の前に、この賛美歌が歌われた。――

   「わが魂を 愛するイエスよ」。

翌日、彼は知り合いと出会い、あの説教はどうだったかと問われた。彼は云った。「わからんな。だが、ぼくを強烈にとらえた二言三言があったよ。自分をどうしていいかわからないほどにね。あの教役者は、この賛美歌を読み上げたのだ。『わが魂を 愛するイエスよ』、とね」。「あゝ!」、と彼は――決して宗教がかった人間ではなかったが――云った。「そんなふうに云えるとしたら、何を捨てても惜しくはない! しかし、どう思う?」、と彼は尋ねた。「イエスが、ぼくのような人間を愛してくれるだろうか? 『わが魂を 愛するイエスよ』! おゝ! そう云えさえしたら」。そして、そのとき彼は、自分の頭を両手でかかえて泣き出した。残念ながら、十中八九、この人は自分の罪に舞い戻り、後には以前と同じようになったのではないかと思う。しかし、見ての通り、彼は、そのなけなしの良心をもってしてさえ、キリストから愛され、友となっていただくことがいかに価値あることであるかわかったのである。あゝ! 富める人よ。あなたには数多くの友人がいる。ここには、友人たちの不実さを身にしみて知っている方々が何人かいる。必ずそれを知ることになる人々がいる。ここには、自国の益のために身を粉にして働き、国から栄誉の報酬を当然受けてしかるべきでありながら、ちょっとした手違いのために――あるいは、どんな手違いであったにせよ――、かつては誰よりも当てにできる自分の信奉者と思われた人々の、あまりにも大勢から無視されている人々がいる。おゝ! あなたがた、偉大な人たち、富める人たち。あなたの友人たちがいかに忠実そうに見えても、決して信用してはならない。ダビデはあわてて云った。「すべての人は偽りを言う者だ」[詩116:11]、と。あなたも、いつの日か、ゆっくりとそう云わなくてはならなくなるかもしれない。そして、おゝ! あなたがた、親切で愛情細やかな心をした人たち。豊かな富には恵まれていないが、豊かな愛をいだいている人たち――そして、それこそこの世の最上の富である。――この黄金の貨幣を、あなたの銀の貨幣の間に置くがいい。そうすれば、それがすべてを聖めるであろう。――あなたの心に注がれるキリストの愛を得るがいい。そうすれば、あなたの母の愛、娘の愛、夫の愛、妻の愛は、それまで以上に甘やかなものとなるであろう。キリストの愛は、決して身内の者の愛を打ち捨てるのではなく、私たちの種々の愛を聖め、それをさらに甘やかなものとするのである。覚えておくがいい。話をお聞きの愛する方々。人間たちの愛は非常に甘やかであるが、すべて過ぎ去らなくてはならない。では、あなたがたはどうするのだろうか? もしあなたがたが、死の訪れとともに消えゆく富以外に何の富も有しておらず、死に絶える愛以外に何の愛も有していないとしたら。おゝ! キリストの愛を有することの何と素晴らしいことか! あなたはそれを死という川を越えて持って行くことができる。あなたはそれを、あなたの腕輪として天国でつけていることができる。あなたの手の上にある封印としてつけることができる。というのも、主の愛は「死のように強く、よみよりも力強い」*[雅8:6]からである。確か、善良な老主教ベヴァリッジだったと思うが、彼が死ぬ際には、自分の最も親しい友たちの見覚えすらなくなっていた。ある人が云った。「ベヴァリッジ主教、あなたは私を覚えていますか?」 「そなたは誰じゃな?」 それで、その名前が口にされると、彼は、「いいや」、と云った。「ですが、主教。あなたはあなたの妻さえ知らないというのですか?」 「そなたの名は?」、と彼は云った。「私はあなたの妻ですよ」、と彼女は云った。「わしには妻がいたかどうかもわからん」、と彼は云った。あわれな老人! 彼の精神機能はみな、彼を見捨てて行ったのである。とうとう、ひとりの人がかがみ込んで、こう囁いた。「あなたは、主イエス・キリストをご存じですか?」 「しかり」、と彼は云った。語ろうという努力をしながら、「わしは主をこの四十年間知っておる。そして、彼を忘れることは決してできん」。記憶が、他の誰のための場所も取っておかなくとも、いかにイエスのための場所は確保しようとするかは、驚異である。それと等しく驚異的なことに、

   「被造(つくられ)し川 みな干(かわ)くとき
    主の豊かさぞ つゆ変わらざる」

なのである。話をお聞きの愛する方々。ぜひこの事がらを考えるがいい。おゝ、あなたがキリストをあなたの友として得られるとしたら、どんなに良いことか。あなたが自分を義としている限り、主があなたの友となることはない。あなたが罪の中に生きている限り、主は決してあなたの友とはなられない。しかし、あなたは自分に咎があると信じるだろうか? あなたは、罪をやめたいと願っているだろうか? 救われたいと欲しているだろうか? 新しくされたいと願っているだろうか? ならば、あなたに云わせてほしい。私の《主人》はあなたを愛しておられる! あわれな、弱く、甲斐なき虫けらよ。私の《主人》の心はあなたへの愛に満ちている。その御目はこの瞬間もあれれみをもってあなたを見下ろしている。「おゝ! エルサレム、エルサレム、エルサレム!」*[マタ23:37] 主はいま私に命じておられる。主が、自らを罪人と告白し、そう感じている、あなたがたの中のすべての人々のために死なれたことを告げるようにと。主はあなたにこう告げるよう私に命じておられる。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」*[使16:31]。主は私に、完全にして無代価の救いを告げ知らせるよう仰せになっている。――完全な、あなたの介添えなど何1つ必要のない救いを。無代価の、あなたが購う必要など何1つない救いを。

   「来よ、渇く者。来て、迎(い)れられよ。
    神の代価(かた)なき 豊かさ誇れ。
    まことの信仰 真の悔悟
    われらを近づく あらゆる恵み――
    金銭(あたい)なくして
    イェス・キリストに来て 購(え)よ」。

この世の何にもまして私が自分の足りなさを感じるのは、罪人たちに語りかける際である。おゝ! 私は、あなたに向かって、自分の心を叫び出させ、自分の心を宣べ伝え出すことができたらと願う。

   「救主(きみ)よ、いやがる 心をば召し、
    みもとに罪人 逃がれ来させて、
    汝が愛による 至福(さち)をば取らせ、
    飲ませて、永久(とわ)に、生かさせ給え」。

このことだけ考えてもらって、暇乞いをしよう。――私たちはこの下界では、決して再び全員が相会うことはないであろう。これは非常に厳粛な思いではあるが、自然の成り行きと、死亡者数からして、たといあなたがた全員が、来週の安息日の朝もここに来たいと願っていようと、あなたがた全員がそのとき生きているということは全くありそうもない。この会衆の中のひとりは確実に、あらゆる肉の辿る道へと下ってしまっているであろう。それでは、さらばだ。死に定められている人よ。私はあなたがどこにいるか知らない。――向こうにいる屈強な男性かもしれないし、病のために上気した頬をした、そちらの華奢な娘さんかもしれない。私は、だれが死に定められているかを知らない。だが、いま私はその人に、この上もなく厳粛な別れを告げよう。さらばだ。あわれな魂よ。そして、これは永遠の告別だろうか? 私たちは死後の国、祝福された者たちの故郷で、会うことになるだろうか? それとも、私は今あなたに永遠の別れを告げているのだろうか? もしあなたがキリストから離れて生き、死ぬとしたら、私は厳粛に永遠の別れを告げるものである。しかし、私はそのように陰惨な思いには耐えられない。それゆえ、私は云う。あわれな罪人よ! 立ち止まって考えよ。――立ち止まって、あなたの道を考えよ。そして、今、「悔い改めよ。立ち返れ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか? 」*[エゼ33:11]。「なぜ、あなたがたは死のうとするのか?」 「なぜ、あなたがたは死のうとするのか?」 あゝ! あなたがたは、その問いに答えられまい。願わくは神が、あなたを助けてくださり、その答えにより良いしかたで答えさせてくださるように。すなわち、このように。――

   「今ここに、主よ!
    ありのままの我にて 誇れるもの何もなきまま
    ただわがため 汝が血の流されしゆえ
    おゝ、神の御子よ われは行かん」。
    わが魂(たま)ゆだね 汝が愛の手に」。

主があなたがた全員を祝福してくださるように。キリストのゆえに。アーメン。

  

 

信実な友[了]

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