HOME | TOP | 目次

ラハブの信仰

NO. 119

----

----

1857年3月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました」。――ヘブ11:31


 欧州のほとんどすべて国の首都には、様々な意匠に富む凱旋門や記念碑があり、その国の将軍たち、皇帝たち、君主たちの偉業が記されている。ある場合には、ナポレオンのごとき者の一千もの戦闘が記録され、別の場合には、ネルソンのごとき者の数々の勝利が描き出されている。それゆえ、勇者中の勇者たる信仰の栄誉をたたえる円柱が建てられ、その上に、その数々の偉業が記録されるということは、どう考えても正しいことと思われる。使徒パウロは、その構造物を建てる工事を請け負い、私たちの前にある章の中に、この上もなく壮麗な円柱を構築した。それは信仰がおさめた数々の勝利を物語っている。信仰の戦果を次々と列挙している。ある箇所には、を打ち負かしている信仰がある。――エノクはハデスの門に入ることなく、普通の人々とは違う路を通って天国に達した。別の箇所には、時間と格闘している信仰がある。――いまだ目に見えない事がらについて神の警告を受けたノアは、その大洪水を百二十年後とした時間と格闘した。だが、信仰の確信によって彼は、あらゆる合理的な予想、あらゆる蓋然性に反したことを信じた。そして彼の信仰は、蓋然性に対しても時間に対しても、易々と勝利をおさめた。ここには、老衰に対して勝利をおさめている信仰がある。――アブラハムが老人になってから息子のイサクを生んだときのことである。そして、それから、生来の愛情に対して勝利をおさめている信仰がある。私たちには、アブラハムが山の頂上に登り、自分の愛するひとり息子を神の命令に従って殺すべくその短刀を振り上げているのが見える。また、私たちは信仰が、老年の衰えや、最後の戦いに伴う苦痛と争っている姿が見える。こう記されているときのことである。――「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました」[ヘブ11:21]。それから、信仰は、富裕な宮廷の魅惑との戦闘を行なっている。「信仰によって、モーセは……キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました」[ヘブ11:24-26]。信仰は、モーセが王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去ったときの不撓不屈の勇気を示している。また、それと等しく、彼が目に見えない方を見るようにして忍び通したとき、その忍耐強さを示している。ここで信仰は海を2つに分け、強固な城壁を倒壊させている。それから、最大の勝利は最後に記録すべきであるとでもいうかのように、信仰は、罪との闘争の場に臨み、不義との馬上槍試合を行なっては、圧倒的な勝利者となっている。「ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました」。先ほどこの章を読み上げていた際に私は、正直な心で聞いていた方々に対して、この女がただの女主人でなく、本物の遊女であったことを余すところなく証明したはずである。私は確信しているが、無代価の恵みを嫌悪しているという以外の理由によっては、いかなる注解者も、彼女の罪を否定するよう導かれはしないであろう。

 罪に対する信仰のこの勝利は、ここに記録されていることの中でも最も小さなものではないと思う。むしろ、もし信仰の手柄に優劣をつけることが許されるとしたら、これは、ある意味で、最大の偉業である。何と! 信仰よ。あなたは見るも厭わしい情欲と戦ったのか? 何と! あなたは人間の胸から炎を噴き出させる、あの燃える情動と死闘を演じたのか? 何と! あなたは、その神聖な指で、汚らわしく獣じみた放蕩に触れようとしたのか? 「しかり」、と信仰は云う。「私は、この不義の憎むべきものと対決した。私はこの女を忌まわしい悪徳の部屋から解放し、狡猾な魅惑の罠から、またそむきの罪の恐ろしい刑罰から解放した。しかり。私は彼女を救われた者、救助された者として連れ出し、彼女にきよい心を与え、彼女のうちに、麗しい聖潔を新しくした。そして、今や彼女の名前は私の勝利の巻物の中に、罪に満ちていながら信仰によって救われた女として記録されるであろう」。

 私は今朝、罪に対する信仰のこの注目すべき勝利について、いくつかのことを告げたいと思う。それによってあなたは、これが実際、信仰の超絶して抜きんでた勝利であったことを見てとるであろう。私は、あなたの記憶を助けるように、頭韻を踏んで区分することにする。この女の信仰は、救いに至る(saving)信仰単独の(singular)信仰堅固な(stable)信仰自分を否定する(self-denying)信仰思いやり深い(sympathising)信仰聖める(sanctifying)信仰であった。私が最初の点を解き明かしたところで逃げ出して、残りを聞き逃すようなことは、決してしてはならない。彼女の信仰の力全体を察知したければ、今から私が言及しようとしている1つ1つの詳細を覚えなくてはならないからである。

 I. 第一のこととして、この女の信仰は、《救いに至る信仰》であった。この箇所で言及されている他のあらゆる人々は、疑いもなく信仰によって救われたに違いない。だが、私の見いだすところ、彼らのうちだれひとりとして、信仰によって滅びることを免れたと特に指摘された者はいないのに、この女についてだけは、特にそう云われているのである。彼女がエリコ全体を襲った滅びから救い出されたのは、純粋に、また唯一、その信仰によってのことなのだ、と。そして、疑いもなく彼女の救いは、単に現世的な性格のものにとどまってはいなかった。それは、彼女のからだが剣から救い出されたことだけでなく、彼女の魂が地獄から贖い出されたことでもあった。おゝ! 信仰は何と強大であることか。それは魂が底知れぬ所へ落ち込んで行くのを救うのである! 滔々と流れてやまない罪の奔流は、あまりにも力強く、《神格》の強い御腕以下のいかなる腕をもってしても、罪人が暗黒の絶望という深淵へ押し流されていくのを決して止めることはできない。また、その深淵に近づくにつれて猛烈に流れ込んでくるのが天来の御怒りという奔流であって、その怒濤の勢いは、神ご自身に等しい天来の贖いのほか、何もその魂を破滅からひったくって救い出せないほどである。それでも信仰は、その働き全体を成し遂げる媒体である。それは罪人を罪の流れから救い出し、それと同じく、御霊の全能をつかんでは、罪人の魂が急行つつある、かの滅びという大渦巻から彼を救出するのである。魂を救うとは何と偉大なことであろう! あなたは、他の人々の救い主という立場に立つまで、それがいかに偉大なことか決して分からないであろう。向こうにいる英雄的な人は、昨日、ある家が火事で燃えているときに、そのきしる階段を駆け上がり、煙でほとんど窒息しそうになりながらも、階上にのぼると、寝台の上の赤子と、窓の所にいた婦人をひっつかみ、ふたりを両腕で抱きかかえ、わが身の生命を賭しても彼らを救ったのである。彼なら、同胞を救うということがいかに偉大なことかを、あなたに告げることができるであろう。向こうにいる高貴な心をした若者は、昨日、命がけで川へと飛び込み、溺れかけていた人を死からあやうく救い出した。彼は岸辺に立ったとき、人命を救うとはいかに偉大なことかを感じた。あゝ! だが、あなたには、魂を救うことがいかに偉大なことであるか告げることはできない。それを告げることができるのは、私たちの主イエス・キリストだけである。というのも、主こそは唯一、罪人たちの《救い主》となったことのあるお方だからである。そして、覚えておくがいい。信仰がいかに偉大なものであるかを知りたければ、魂の救いがいかに無限の価値を有するものかを知る以外にない。さて、「信仰によって、遊女ラハブは……滅びることを免れました」。彼女が、現世的な意味と同じく、福音的な意味でも本当に救われたことは、彼女があの斥候たちを受け入れたことによって証明されていると思われる。この斥候たちは、心の中に入ってきたみことばを象徴しており、彼女が赤い紐を窓から垂らしておいたことは信仰の証拠なのである。これは《贖い主》イエスの血を信ずる信仰を描き出していると云っても不適当ではないであろう。しかし、この言葉――救い――の長さと広さをだれが測り知りえようか? あゝ! 信仰は、彼女をつかみとって安全にしたとき、実に壮大なことを成し遂げたのである。あわれな罪人よ! 元気を出すがいい。ラハブを救ったのと同じ信仰は、あなたをも救うことができる。あなたは文字通り、咎においてラハブの姉妹だろうか? 彼女は救われた。そして、あなたも、神があなたに悔い改めを授けてくださるなら、同じようになれる。婦人よ! あなたは自分で自分に吐き気を催すように感じているだろうか? あなたは、今この瞬間、この集会に立って、こう云っているだろうか? 「私はここにいるのが恥ずかしい。私には分かっている、自分には、純潔で正直な人たちの間に立つ資格など何もないことが!」 それでも私は、ここにとどまるよう、あなたに命ずる。しかり。もう一度やって来て、これをあなたの安息日の祈りの家とするがいい。あなたは決して闖入者ではない! あなたは歓迎されている! あなたには、あわれみの宮廷に来るべき神聖な権利があるからである。あなたに神聖な権利がある。ここには罪人が招かれているからである。そしてあなたは、まさに罪人なのである。キリストを信じるがいい。そうすれば、あなたはラハブのように、不従順な人たちと一緒に滅びることを免れ、あなたでさえも救われるであろう。

 さて今、話を聞いている方々の中には、こう云っている紳士がいるであろう。「それがあなたの福音というわけですな。それは、悪人にとって一種の聖域ではないですか。その中に逃げ込めば、どんな極悪人でも救われるという」。しかり。それは、ケルソスがその議論の中でオリゲネスに対して用いた、古臭い反論である。「しかし」、とオリゲネスは云った。「ケルソスよ。確かにキリストの福音は、盗人や、強盗や、殺人者や、遊女にとっての聖域だ。しかし、このことは知るがいい。これは単に聖域であるばかりでなく、病院でもあるのだ。というのも、これは彼らの罪を癒し、彼らをその病から解放し、後になると彼らは、福音を受け入れる前の彼らとは違った者となるからだ」。私はきょう、いかなる人に対しても、キリストのもとへ来よ、そして、自分のもろもろの罪を犯し続けよ、などと求めてはいない。そんなことをすれば、私はその人に向かって馬鹿げた行動を取るよう求めることになろう。まるでそれは、自分はプロメテウスを解放するが、その鎖は彼にかけたままにし、彼を岩に繋いでおくと云うようなものである。そのようなことはありえない。キリストは、その良心から禿鷹を追い払うが、鎖をも取り去り、その人を自由にするときには完全に自由にしてくださる。だが私たちは、もう一度繰り返そう。罪人のかしらは、最上の聖徒と同じくらいキリストによって歓迎されている。かの血で満たされた泉が開かれたのは、どす黒い者たちのためであった。キリストの衣が織られたのは、裸の者たちのためであった。カルバリの香油が調合されたのは、病む者たちのためであった。いのちが世に来られたのは死者をよみがえらせるためであった。そして、おゝ! あなたがた、滅びつつある、咎ある魂たち。願わくは神があなたにラハブの信仰を与えてくださり、あなたがこの救いをいだき、彼女とともに彼岸に立つことができるように。そこでは、白い衣を着た、しみなき人々の大群が、終わることなきハレルヤを神と《小羊》に歌っているのである。

 II. しかし、聞くがいい。ラハブの信仰は、《単独の信仰》であった。エリコの町は攻撃を受けようとしていた。その城壁の内側には、ありとあらゆる種別と性格の人々が大勢がいて、彼らは、もし自分たちの町が陥落し、襲撃を受けるとしたら、全員が殺されることになると重々承知していた。だがしかし奇妙なことに、彼らのうちひとりとして罪を悔い改めた者はいなかった。あわれみを乞い求めた者すらいなかった。唯一の例外が、この遊女だった女である。彼女は――彼女だけが――救い出された。大群衆の中で、たったひとりである。さて、あなたは、単独の信仰を持つことは非常に困難であると感じたことはないだろうか? この世の何にもまして容易なのは、他の誰もが信じていることを信じることであるが、困難なのは、他のだれも自分と同じようには考えていないときに、あることをひとりで信ずることである。敵がその何千人もの兵士を戦場に召集しているときに、義の大義をただひとりで擁護することである。さて、これがラハブの信仰であった。彼女には、自分と同じように感じている者、自分に共感してくれる者、自分の信仰の価値を悟ってくれる者がだれひとりいなかった。彼女は独りで立っていた。おゝ! 蔑まれている真理の孤独な信奉者となるのは高貴なことである。ある人々は、あなたに、独りで立つということがどういうことか話を聞かせることができるであろう。今は昔、この世は絶えず彼らに汚名を浴びせかけ、罪人呼ばわりすることをやめなかった。だが、彼らはその奔流をせき止めた。途切れることなき恵みによって彼らは、弱さの中で強くされ、決して屈することなく、ついに流れが変わったとき、彼らは勝利に包まれ、以前はあざ笑っていた当の人々からさえほめたたえられ、称賛された。そのとき、世は彼らに「偉人」の名を冠した。しかし、彼らの偉大さはどこにあっただろうか? 何と、このことである。彼らが凪の時と同じく嵐の時にも堅く立っていたこと――五十人で一緒に走るときと同じくひとりきり神に仕えることにも満足していたことである。事を立派に行なうためには、単独でなくてはならない。キリスト者たちは流れに逆らって泳がなくてはならない。死んだ魚は常に川を流れ下るが、生きた魚は流れに抗して無理にでもわが道を行く。さて、この世的な宗教人は、他のだれもが行く通りにしか行かないものである。これは偉くも何ともない。事は独りで立つことにある。こう云ったときのエリヤのように。「ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています」[I列19:10]。自分の内側で、あたかも一千人の証人が自分のかたわらに立っているかのように自分が堅く信じていると感じることである。おゝ、人は、あえて単独になろうとしない限り、自らのうちに何の正義もない。何の果断な正義もない。何と、あなたがたの中のほとんどの人々は、世の習いから外れることをこの上もなく恐れている。そして、ただ敬意を集めたいがために、埒もなく金銭を費やしている。あなたは、自分が活動している集団の中では、自分の兄弟や姉妹たちに逆らって行動することなどとてもできない。そしてそのため困難に巻き込まれてしまう。あなたは流行という色鮮やかな織物で目隠しされており、そのため多くの間違ったことが、慣習だというので許容される。しかし、果断な人とは、好んで偏屈になろうとする人ではないにせよ、単独になることが正しいと分かったときにはあえて単独になる人である。さて、ラハブの信仰は、彼女が罪人であったにもかかわらず、その頭上にこの栄光があり、冠があった。すなわち、彼女は独り立っていたのである。「不信仰な者らの中にあって忠実な者であると見いだされた」のである。

 では、なぜ神は同じ信仰をあなたに賜らないことがあるだろうか? 話をお聞きの、あわれな、罪を犯しつつある、だが悔い砕けた方々。あなたは裏通りの、安息日を破る人々や、不信心な人々しか住んでいない家で暮らしている。しかし、もしあなたが心に恵みを有しているなら、あなたはあえて正しいことを行なうであろう。あなたは、不信心な倶楽部に所属している。もしあなたが自分自身の良心に沿ったことを語るとしたら、彼らはあなたを野次り倒そうとするであろう。そして、もしあなたが彼らとつきあうのをやめるとしたら、あなたを迫害するであろう。行って彼らを試してみるがいい。彼らに挑んでみるがいい。自分にそうできるかどうか見てみるがいい。というのも、もしあなたが人々を恐れているとしたら、あなたは罠に捕えられているのであり、その罠は、やがてあなたの嘆きとなりかねず、今はあなたの罪となっているからである。よく聞くがいい。罪人のかしらも、最も大胆不敵な聖徒となることができ、悪魔の軍隊の最悪の人間たちも、回心したときにはイエスに仕える最も真実な兵士となるのである。キリスト教界の孤独な希望を導いてきた人々は、一般には、罪の最低の深みから救われたことによって、恵みのすぐれた効力を途方もなく証明してきた人々であった。行くがいい。そして願わくは主があなたに、高貴な、単独の信仰を与えてくださるように!

 III. さらに、この女の信仰は、困難の最中にあっても堅く立つ《堅固な信仰》であった。話に聞いたところ、かつて長い干魃が続いた時期に、ある教会の聖職者が自分の教会の教会委員から呼びとめられて、雨が降るよう祈ってほしいと要請されたという。「よろしい」、と彼は云った。「それでは、その祈りをささげることにしましょう。ですが、東から風が吹いている間は、そんな祈りはこれっぽっちも役に立ちませんぞ。確かにね」。多くの人々が有しているのは、こうした種類の信仰である。彼らは見込みが大いにありそうなときには信ずるが、神の約束と人間的な見込みが道を違えるときには、見込みの方について行き、約束とは別れるのである。こうした人々は、「そのことは起こりそうだ、それゆえ私はそれを信ずる」、と云う。しかし、それは信仰ではなく、見ることである。まことの信仰は、「そのことは起こりそうにもない、だが私はそれを信ずる」、と叫ぶ。これが真の信仰である。信仰とは、「山々は、闇に隠れてあろうとも、日中(ひなか)と変わらず、そこにあり」、と云うことである。信仰は、肉眼では何も見えないときも、あらゆるものを見てとる信仰の目によって、あの雲を貫いて見通し、こう云うことである。「私は、主の跡を辿れないときも、主に信頼します。私は岩の上を踏むのと同じくらい堅く水の上に足を踏み出します。日差しの中と同じくらい安全に嵐の中を歩き、自分の寝床の上で安眠するのと同じくらい満足して、大海のうねる波浪の上でも休みます」、と。ラハブの信仰は、正しい種類の信仰であった。それは堅固で、永続的だったからである。

 私は今朝、ラハブと少々語り合ってみようと思う。思うにきっと、あの古馴染みの《不信仰》は、彼女とこんな会話を交わしたであろう。さあ、私の善良な婦人よ。あんたはこの事がらの馬鹿さかげんがわからんかな。何と、イスラエルの民はヨルダンの向こう岸にいるのだよ。そして、そこには何の橋もないのだよ。どうして奴らが渡って来れるんだね? もちろん奴らはずっと上流の浅瀬の方まで行くに違いないし、そのときエリコは長いこと安全になるであろう。奴らはエリコに来るまで、他の町々を攻略することになるのだ。それに、カナン人は強大で、イスラエル人は奴隷の一群にすぎん。奴らは、たちまちばらばらに切り刻まれ、一巻の終わりとなるであろう。だから、そんな斥候をかくまってはならん。なぜ、そんな起こりそうもないことのために、自分の命を危うくするんだね? 「あゝ」、と彼女は云う。「私はヨルダンのことなど何とも思いません。私の信仰はヨルダンを越えて信じることができます。さもなければ、それは、何の危険も冒さない信仰でしかないでしょう」。じきに彼らは、靴を濡らすこともなくヨルダンを行進してくる。そのとき信仰は、より堅固な確信を得る。「あゝ」、と彼女は内心ひそかにこう云う。それを彼女は自分の隣人たちに喜んで云っていたであろう。「もう今はあなたも信じませんか? 今は、あわれみを乞い願いませんか?」 「いいや」、と彼らは云う。「エリコの城壁は強い。あんなへなちょこ軍隊など、われわれに歯が立つものか」。そして見よ。翌日、その軍勢が出てくるが、彼らは何をするだろうか? 単に何本かの雄羊の角笛を吹き鳴らすだけである。彼女の隣人たちは云う。「何と、ラハブよ。まさかあんたは、今も信じているなどと云うつもりはないだろうね? 奴らは気違いだよ」。民は単に町の回りを回り、雄羊の角笛を吹き鳴らす数人の祭司たちのほかは全員が口をつぐんでいる。「何と、馬鹿げたことではないか。戦争をするというのに、雄羊の角笛を吹いて町を攻め落とそうとする者のことなど、まるで聞いたことがないわい」。それは最初の日であった。おそらく翌日、ラハブは彼らが攻城ばしごを持ってきて、城壁を乗り越えるだろうと考えたであろう。だが、否。雄羊の角笛が再び登場し、七日目まで続いた。それでもこの女は、その間ずっと赤い紐を窓につけておいた。自分の両親と兄弟姉妹たちを家の中にとどめておき、外へ出させなかった。そして、七日目に、民は大声で鬨の声をあげた。町の城壁は崩れ落ちた。だが彼女の信仰は彼女の女らしい臆病さに打ち勝った。彼女は家内にとどまった。城壁は崩落したが、ラハブの家だけは城壁の上に立っていた。それが辺り一面の瓦礫の中で唯一残存した部分であった。そして彼女とその家族はみな救われた。さて、これほど豊かな植物が、これほど乏しい土壌に育つとあなたは考えただろうか?――これほど強い信仰が、ラハブの心のように罪深い心に生え出ると思っただろうか? あゝ! だが、ここで神はその偉大な農業術を発揮しておられる。「わたしの父は農夫です」、とキリストは云われた[ヨハ15:1]。どんな農夫でも、良い地からなら良い作物を収穫できる。だが神は、岩の上に杉の木を生えさせ、壁にヒソプを這わせるだけでなく、そこに樫の木を立たせることのできる農夫なのである。神は、最も見込みのない立場に最も大きな信仰が生ずるようにすることがおできになる。すべての栄光を神の恵みに帰せよ! 最大の罪人も信仰において大きな者となることができる。ならば、元気を出すがいい。罪人よ! もしキリストがあなたを悔い改めさせてくださるなら、あなたは自分がその家族の中の最小の者となると考える必要は全くない。おゝ! 否。あなたの名前はこれから勇者中の勇者に伍して書き記されることになるかもしれない。そしてあなたは、信仰の力の、記憶すべき、壮麗な実例として立つことになるかもしれない。

 IV. この女の信仰は、《自分を否定する信仰》であった。彼女は、あの斥候たちのために自分の命を賭けた。彼女は、もし彼らが自分の家で発見されたら、自分が殺されることになるのを知っていた。だが彼女は、罪深い行為を行なわなくては彼らを守りきれなかったほど弱くはあったが、それでもこのふたりを救うためなら殺される危険を冒すほど強い者であった。自分を否定できるというのは大したことである。ある米国人がかつてこう云った。「私には立派なキリスト教信仰があります。それは正しい種類のキリスト教信仰です。それは一年に一銭程度もかからないとは思いますが、私は、だれにも負けずにキリスト教信仰を真実信じている者だと思います」。それを聞いた人が云った。「あゝ! 主があなたの、みじめな、しみったれた魂をあわれんでくださるように。もしあなたが救われているとしたら、一年に一銭で満足していはしないでしょうから」。――年間を通じて半ペニー! 語弊を恐れずに云うが、自己否定を行なっていない人の信仰など無価値である。もし私たちが決してキリストの御国の進展のためにも、キリストの働きのためにも献金せず、キリストのために自分を否定しないというのなら、それは私たちのうちに根付いていないのである。私はあなたがたの中のある人々を偽善者と呼ぶことができる。あなたはこう歌っている。――

   「わがすべてをば 主にささげずば
    こはわが義務(つとめ) ならざるや、
    われの、わが神 熱心(あつ)く愛して
    残りなくみな 神に献(ささ)ぐは」。

しかり。だが、あなたは、そうしようとはしない。そんなことをするほど愚かではない。現にあなたは、すべてをささげてはいないからである。しかり。半分もささげてはいない。いや、千分の一もささげていない。思うにあなたは、自分のことを貧しいと考えているのだろう。一年に数千余ポンドの収入があろうが関係ない。それであなたは、「貧しい者に施しをするのは、主に貸すことだ」*[箴19:17]とばかりに、それを自分ひとりのものにとどめているのである。私はそれ以外に、いかにしてあなたが自分のキリスト教信仰を首尾一貫したもの、矛盾ないものとしていられるのか見当もつかない。この女は云った。「もし私が、この人たちのために死ななければならないのなら、死にます。私に良い評判はないけれど、それ以下の悪名も着る覚悟があります。必要とあらば、自分の国を裏切って、この斥候の人たちを迎え入れたことで、国への反逆者という不名誉に渡されてもかまいません。というのも、そうなることは神のみこころであると私は知っているからです。それで私はどんな危険を冒してもそうするのです」。おゝ、兄弟たち。自己否定が伴っていない限り、あなたの信仰を信頼してはならない。信仰と自己否定は、シャムの双生児のように、同時に生まれ、ともに生き、一方を養う食物が両方を養うのでなくてはならない。しかし、この女は、あわれな罪人ではあったが、自分を否定しようとした。彼女は、やはり罪人であった別の女が高価な香油の入った石膏のつぼを割り、キリストの頭に注いだのと全く同じように[マタ26:7]、自分のいのちを差し出したのである。

 V. あなたをあまりに長く引き留めないために、もう1つの点はごく手短に語ろう。この女の信仰は、《思いやり深い信仰》であった。彼女は自分ひとりのために信じたのではなかった。自分の親族にもあわれみを願った。彼女はこう云った。「私は救われたいと思います。ですが、そう願うがゆえにこそ、私の父が救われてほしいと思います。母が、兄弟が、妹が救われてほしいと思います」。私の知っているある人は、安息日ごとに七哩歩いて、ある場所で福音が宣べ伝えられるのを聞きに行っている。――人々が福音を宣べ伝えている場所である。あなたも知っているであろう。そうした、非常に綿密で、微に入り細を穿つ種類の「福音」を。その中身は、短気と、肉的な安逸と、傲慢と、無感覚な良心から成り立っている。だが、この男はある日、ひとりの友人と出会い、彼からこう云われた。「奥さんはどこにいるのです?」 「家内ですと?」、と彼は云った。「何と! 奥さんはあなたと一緒に来ていないのですか?」 「おゝ、いいえ」、とこの男は云った。「あれは、絶対にどこにも出て来ないのです」。「よろしい。ですが」、と彼は云った。「奥さんや、子どもさんたちをも、来させるよう努力してはみませんか?」 「いいえ。実のことを云いますと、私は自分のことだけ面倒を見ていれば、それで十分と考えているのですよ」。「よろしい」、ともうひとりの人が云った。「そして、あなたは自分が神の選民だと信じているのですね」。「ええ」。「よろしい。ならば」、と相手は云った。「私はあなたが選民だとは思いません。なぜなら、あなたは異教徒や取税人以下だからです。あなたは自分の家族をかえりみていません。ならば、あなたは神の選民である証拠を大して示していないと思います。選民は自分の同胞たちを愛するものだからです」。それで、あなたの信仰が本物であることが確かであれば、それは他の人々をも連れて来たいと願うであろう。あなたは云うであろう。「つまり改宗者を作れと云うのですか」。しかり。すると、あなたは答えるであろう。キリストはパリサイ人たちにこう云ったではありませんか、お前たちは「改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回る」*、と[マタ23:15]。しかり。だがキリストは、彼らがそうしていたことを非難していたのではない。彼らについて主が非難されたのは、このことであった。――「改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです」。

 改宗者を作ろうとする精神は、キリスト教の精神であり、私たちはそれを身につけたいと願うべきである。もしも誰かが、「私は、これこれのことが真理であると信じますが、他のだれにもそれを信じてほしいとは思いません」、などと云うとしたら、私はあなたに、それは嘘だと云うであろう。その人はそれを信じていないのである。あることを真に心から信じていながら、他の人々にも同じことを信じさせたいと願わないことなどありえない。そしてさらに私が確信するところ、救いの価値を知っていながら、他の人々が連れて来られることを願わないこともありえない。かの名高い説教者ホイットフィールドはこう云った。「私は、回心するや否や、それまで自分の知り合いだったすべての人の回心の手段になりたいと思った。私がかつて骨牌遊びをともにし、ともに罪を犯し、ともにそむいてきた何人かの青年たちがいた。私がまず最初に行なったのは、彼らの家に行き、彼らの救いのために自分に何ができるか見てみようとすることであった。そして私は、彼らの多くが《救い主》へと導かれるのを見る幸いを得るまで、休むことができなかった」。これは御霊の最初の実である。若きキリスト者の一種の本能である。その人は他の人に、自分が感じているのと同じことを感じさせなくてはならない。先週私に手紙を寄こしたひとりの青年は、こう云っている。「私は勤め先の同僚事務員のために祈っています。彼が《救い主》に導かれることを願っています。現在のところ、その祈りにはまだ答えがありませんが」。他に伝播しようと願わないような敬神の念には一文の価値もない。私たちは、自分の受けている恩恵を他の人々にも味わってほしい、と願うのでない限り、非人間的な怪物であるか、法外な偽善者であるかのどちらかである。後者の方がずっとありがちであると思う。しかし、この女の強い信仰のために、彼女の全家族は破滅から救われたのである。若い婦人よ! あなたには父があり、彼は《救い主》を憎んでいる。おゝ! 彼のために祈るがいい。母親よ! あなたには息子がある。彼はキリストを嘲っている。彼のため神に叫び求めるがいい。左様、私の愛する方々。――私と同じような青年諸君。――私たちは、両親の祈りに自分がどれほど多くを負っているかほとんど分かっていない。私は、祈り深い母親について、自分がどれほど神をほめたたえても決して十分ではないように感じている。かつては、母の祈りにつきあって自分まで祈らされるのは、非常に面倒なことだと考えていた。特に叫ばされるのは厄介であった。母はいつも私に叫ばせていたからである。私は、母以外の誰かからこうした事がらを云われたとしたら、そんな考えを笑い飛ばしたであろう。だが、彼女が祈ったとき、また、「主よ。私の息子チャールズをお救いください」、と口にしたとき、また、そのときの母が胸もふさがれる思いのあまり泣き出してしまい、それ以上何も云えなくなったときなど、自分もまた泣かずにはいられなかった。自分も心に痛切に感じざるをえなかった。それに抵抗することなど無理であった。あゝ! だが青年よ! あなたはそこにいる。あなたの母親は死にかかっている。そして、彼女の臨終の床を苦いものにしていることの1つは、あなたが神を嘲り、キリストを憎んでいるということなのである。おゝ! 人が母親の感情を平然と踏みにじれるようになるとき、それは不信心の最終段階である。この場には、そのような人がひとりもいないでほしいと思う。だが、敬神の念に満ちた夫婦から生まれ、育てられるという祝福を受けていた、あなたがたの中のある人々は、このことを考慮するがいい。――母の祈りとともに滅びることは、恐ろしい滅びに陥ることである。というのも、もし母親の祈りが私たちをキリストに導かないとしたら、そうした祈りの1つ1つは地獄の炎の上に滴り落ちて、魂が永遠に焼かれる火焔を一層苛烈に燃やす油となるからである。母上の祈りを乗り越えて破滅へ突進しないように用心するがいい!

 そこで、ひとりの老婦人が泣いている。――あなたがたは、それがなぜか知っているだろうか? 彼女にも息子たちがおり、その子たちを愛しているのだと私は信ずる。先日、説教の後で私は、ある人々の間にいたとき、ちょっとした事件に出会った。そこには食卓の端に小さな男の子がおり、父親は彼に尋ねた。「ジョン。どうして父さんはお前のことを愛してるか分かるかい?」 この小さな愛らしい坊やは、非常に可愛く答えた。「ぼくがとてもいい子だから」。「そうだね」、と父親は云った。「いい子でなかったら、父さんはお前を愛さないだろうよ」。私はその善良な父親の方を向いて、その最後の一言はいかがなものかと云った。というのも私は、子どもがどんなに悪い子でも父親はその子を愛すべきだと思うからである。「ああ」、と彼は云った。「私もそうすべきだと思います」。そこで食卓に着いていた、ひとりの教役者がこう云った。「私は、その実例を昨日目にしました。私はある婦人の家に立ち寄ったのですが、彼女の息子は終身刑を受けて流罪になっているのです。だのに彼女は、その息子のリチャードが、まるで首相ででもあったかのように、あるいは彼女にとってこれほど親孝行で優しい子はいないかのように、その子のことばかり話していたのですよ」。よろしい。青年よ。あなたは、このような愛に反抗しようというのか。――あなたの反抗を忍び、あなたに背を向けず、むしろ一途にあなたを愛し続ける愛に。しかし、ことによると、あそこの婦人には――私は今しも彼女が泣いているのが見える――遠い昔に世を去った母親がいるのかもしれない。あるいは、粗暴な夫と結婚し、とうとう貧しいやもめになったのかもしれない。彼女は自分の子ども時代のことを思い起こしている。大きな聖書が持ち出され、炉辺の回りでそれが読まれ、「天にましますわれらの父よ」、が一家の夜の祈りだったあの頃。さて、ことによると、神は彼女の心の中で何か善を行ない始めているのかもしれない。おゝ! いま神が彼女を導いて《救い主》を愛するようにしてくださったなら、どんなに良いことか! 七十歳になっていようが、関係ない。そうするなら、彼女は、その最後の日々に人生をやり直し始めるであろう。それは彼女にとって最高の日々となるであろう。

 VI. もう1つの項目だけ語って、しめくくることとしよう。ラハブの信仰は、《聖める信仰》であった。ラハブは、信仰を持った後も遊女であり続けただろうか? 否。そうではなかった。人々が彼女の家にやって来た時も、彼女が遊女をしていたなどと私は信じない。ある種の悪名がそうであるように、その名前はまだ彼女にくっついていたが、確かに彼女は、後には遊女ではなかったに違いない。というのも、ユダの君主サルモンが彼女と結婚し、彼女の名前は私たちの主イエス・キリストの先祖たちの間に書き記されたからである[マタ1:5]。その後の彼女は、抜きんでた敬神の念を有する婦人となり、神を恐れて歩んでいった。さて、あなたには死んだ信仰しかなく、それがあなたの魂を滅ぼすことになるかもしれない。あなたを救う信仰は、聖める信仰である。「あゝ!」、とあの酔いどれは云うであろう。「おれあ福音が気に入りやしたよ、先生。おれあキリストを信じまさあ」。だが彼は、今晩になると、また《青獅子》亭に行き、呑んだくれるのである。方々。そんなふうにキリストを信じても何にもならない。別の人は云うであろう。「はい。私はキリストを信じます」。だが、一歩外へ出ると彼は軽佻浮薄な言葉を口にし始める。もしかすると、みだらな言葉かもしれない。そして、以前と同じように罪を犯すのである。方々。あなたの言葉は偽りである。あなたはキリストを信じてはいない。魂を救う信仰は、本物の信仰であり、本物の信仰は人々を聖めるものである。それは、人々にこう云わせる。「主よ。あなたは私のもろもろの罪を赦してくださいました。私はもう罪を犯しません。あなたが私にこれほどあわれみ深くしてくださったからには、私は私の咎を打ち捨てます。これほどあなたが私を優しく扱ってくださったからには、これほど愛に満ちた抱擁をしてくださったからには、主よ。私は死ぬまであなたにお仕えします。そして、もしあなたが私に恵みを与え、そうすることを助けてくださるなら、私はあなたと同じくらい聖い者になります」。信仰を持っていながら、罪のうちに生きることはできない。信じるということは、聖くなるということである。この2つは一緒に起こらなくてはならない。死んだ信仰、腐敗した信仰、腐り果てた信仰というのは、恵みが満ちあふれるのだからといって、罪の中に生きている信仰である。ラハブは聖められた婦人であった。おゝ、神がこの場にいる、一部の人々を聖めてくださったなら、どんなに良いことか! この世は、人間を改善しようとして、ありとあらゆる手立てを試みてきた。だが人を改善できるものはただ1つしかない。それは宣べ伝えられた福音を信ずる信仰である。しかし、この時代に説教は非常に蔑まれている。人は新聞を読む。本を読む。講演を聞く。腰を下ろして、小才のきく随筆家の話を聞く。だが、説教者はどこにいるのか? 説教とは、決して単に説教原稿を取り上げ、自分の心を導いてくださるよう神に祈り、それから、あらかじめ用意した頁を読んでいくことではない。それは朗読である。――説教ではない。ひとりの老人の面白い話がある。彼の教役者は、原稿を読み上げるのを常としていた。その教役者は彼の家を訪問し、こう云った。「最近ではどうしてるね、ジョン?」 「へえ、あっしは最近は預言をしとります、先生」。「預言をとな。そりゃ、どういうことだね? 預言書を読んでるということかね?」 「いいえ、そうじゃありやせん。あっしは預言をしとるんで。だって先生は説教を読みながら、それを説教と云ってなさるでしょう。だから、あっしも預言書を読んでますが、同じ規則で考えりゃあ、それは預言をしてるってことすよ」。そして、この男の答えは、当たらずとも遠からずであった。私たちには、もっと歯に衣着せない、率直な、真理の発言と、良心への訴えがあってほしいと思う。そして、そうしたものを得るまで、私たちは決して、いかなる大きな、また永続的な改善も見ることはないであろう。しかし、神のことばの説教は、たとい一部の人々に愚かしく見えようと、それによって遊女たちは真っ当になり、酔いどれたちは改善させられ、盗人たちは正直者になり、最低の人間たちは《救い主》に導かれているのである。もう一度心をこめて、最悪の人間に対するこの招きをさせてほしい。もしその人たちが、自分のことをそう感じているとしたら、

   「来よ、欠乏(かく)る者。来て、迎(い)れられよ。
    神の代価(かた)なき 豊かさ誇れ。
    まことの信仰 真の悔悟
    われらを近づく あらゆる恵み――
    金銭(あたい)なくして
    イェス・キリストに来て 購(え)よ」。

あなたのもろもろの罪は赦されるであろう。あなたのそむきの罪は投げ捨てられるであろう。そしてあなたは今後、行って二度と罪を犯さないであろう。神があなたを新しい者とされたのだから、また、神があなたを最後までお守りになるのだから。願わくは神がその祝福を与えてくださるように。イエスのゆえに! アーメン。

  

 

ラハブの信仰[了]

----

HOME | TOP | 目次