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血の注ぎ出し

NO. 118

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1857年2月22日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」。――ヘブ9:22


 私はあなたに、三人の馬鹿を示そうと思う。ひとりは向こうにいる兵隊である。彼は戦場で負傷した。重傷を負って、死の瀬戸際にいた。隣に軍医がいたので、この兵士は1つ質問をした。――それを聞いて、彼の馬鹿さかげんを判断してほしい。彼は何と尋ねただろうか? 狂おしげに目を上げて、この傷が致命傷かどうか訊いただろうか? その医者の腕前をもってすれば治療のあてがあるかとか、そのための器具や薬が手近にあるかとか、尋ねただろうか? 否。そのような類のことは何1つ訊かなかった。驚くなかれ、彼はこう訊くのである。「教えてくれませんか。ぼくを傷つけたのは、どの剣だったのか。それから、ぼくにこれほどの深手を負わせたのは、どんなロシア人だったのか。それから」、と彼は云い足した。「ぼくは知りたいのです。ぼくが傷を負うことになったわけのすべてを、逐一、細大もらさずに」。この男はうわごとを云っているか、脳が冒されているのである。確かに、このような時にこうした質問をするのは、彼が正気を失っていることを示すに足る証拠である。

 もうひとりの馬鹿がいる。嵐が吹き荒れ、船は猛烈な速さで疾風に押しまくられ、暗いちぎれ雲が頭上を矢のように行き過ぎている。帆柱はキーキー音を立て、帆布はずだぼろに裂けているが、それでもつのりゆく暴風雨は、ますます激しさの度を深めている。船長はどこにいるだろうか? 彼は甲板上で忙しく活動しているだろうか? 男らしく危険に立ち向かい、それを回避する方策を矢継ぎ早に指示しているだろうか? 否。方々。彼は自分の船室に閉じこもり、そこで入念な思索を巡らし、気違いじみた想念をたくましくしながら、この嵐がいかなる地点から発生したかを沈思黙考しているのである。「これは謎だ。この風は」、と彼は云う。「いまだかつてだれひとり、その発生地点を発見できた者はいないのだ」。そして、船のことも、乗客の命のことも、自分自身の命のことも、全く意に介さず、自分の好奇心をそそる疑問を解決することだけに気を遣っているのである。方々。この男は狂人である。彼の手から舵を取り上げるがいい。彼は、気違い以外の何者でもない! もし彼が陸に上がるようなことがあったら、絶望的な精神異常者として監禁するがいい。

 第三の馬鹿は、疑いもなくあなたがた自身の間に見いだせるに違いない。あなたは罪によって病んでおり、傷ついている。あなたは《全能者》の復讐という嵐と暴風の中にある。だがしかし、あなたが今朝、私に尋ねたがっている質問は、「先生。悪の起源は何ですか?」、なのである。あなたは狂人である。方々。霊的に狂人である。正気で、健全な精神状態にある人は、そのような質問を問おうとするものではない。あなたが問うであろう質問は、「どうすれば、私は悪を取り除くことができますか?」、であるはずである。「いかにして悪は世に入り込んだのですか?」、ではなく、「いかにして私は悪から逃れることができますか?」、である。「いかにして天から雹がソドムに降り注いだのですか?」、ではなく、「いかにすれば私は、ロトのように、その町から逃れてツォアルに行けるのですか?」、である。「どうして私は病気なのですか?」、ではなく、「私を癒してくれる薬はありますか? 私の魂を健康にすることができる医者は見つかりますか?」、である。あゝ! あなたは、確実なことをないがしろにしながら、重箱の隅を突っついている。悪の起源ほど多くの質問を引き起こす問題は、他に1つもない。人々は、人間が決して知りえないことを理解しようとして頭を悩まし、脳味噌をふりしぼっている。――いかにして悪はこの世にやって来たのか、また、いかにしてそれが入り込んだことは、神のいつくしみ深さと両立できるのか? だが、明白な事実は、悪はある、ということであり、あなたの質問は、こうであるべきである。「いかにすれば私は、その悪によって生じさせられる、必ず来る御怒りから逃れることができるのでしょうか?」 その質問に対する答えの道の真中に――さながら、かつてバラクのもとへ向かっていたバラムを止めた、剣を手にした御使いのように――すっくと立っているのが、この節である。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」。あなたに本当に必要なのは、いかにすれば救われることができるのかを知ることである。もしあなたが、自分の罪は赦されるか罰されるかしかないと悟っているとしたら、あなたの質問は、「どうすれば、それは赦されることができるのでしょうか?」、であろう。そして、あなたの問いかけに対して真っ向から、あからさまに立ち上がっているのは、この事実である。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」。よく聞くがいい。これは単なるユダヤ人の格言ではない。これは、全世界に通用する、永遠の真理である。これはヘブル人だけでなく、異邦人にも同じように関係している。いかなる時にも、いかなる所においても、いかなる人においても、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しは決してない。私は云う。この偉大な事実は天性に刻印されている、と。これは神の道徳的統治の本質的法則であり、揺るがされることも、否定されることもありえない根本的原理の1つである。これの例外となるものは、決してありえない。このことは、いかなる時代においても、いかなる場所においても、決して変わらない。――「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」。これは、ユダヤ人たちにとってそうであった。彼らは、血を注ぎ出すことなしには、いかなる罪の赦しも得なかった。ユダヤ教の律法の下にあったいくつかの事がらは、水か火できよめられることができたが、絶対的な罪が関わるいかなる場合においても、そこには常に血によるきよめがあった。――それはこの教理を教えるためであった。すなわち、血が、血だけが、罪の赦しには適用されなくてはならない、ということである。実際、異教徒でさえ、この事実を薄々感づいていたと思われる。私は、彼らの短刀が、いけにえの血にまみれているのを見ていないだろうか? 私は、人身御供や、人間を全焼のいけにえその他の犠牲とすることについて、身の毛もよだつ話を聞いてこなかっただろうか? そして、こうしたことの意味は、こうでなくて何だろうか。人間の胸の奥底には、人間存在の根底といっていいほどの深みには、この真理が横たわっているのである。――「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」。そして私はもう一度主張するが、いま話をお聞きの方々の心や良心においてさえ、血を注ぎ出すことから離れては、決して罪の赦しを信じさせない何かがあるのである。これこそキリスト教の大真理であり、これこそ私が、今からあなたの記憶に刻みつけようと思う真理である。願わくは神が、ご自分の恵みによって、それをあなたの魂にとって祝福としてくださるように。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」。

 第一に、この聖句について詳しく語り出す前に、その血の注ぎ出しをあなたに示させてほしい。ここには、1つの特別な血の注ぎ出しが意味されているではないだろうか? しかり。そこには、何にもまして高価な血の注ぎ出しがあった。それを私は、今すぐあなたに指摘しなくてはならない。私は今あなたに、山羊や小羊が大量に殺され、ほふられ、血潮をどくどく流したことについて語るつもりはない。かつて、他のあらゆる血の注ぎ出しにはるかにまさる、1つの血が注ぎ出されたのである。それは、あの記憶すべき時期に自らの血を注ぎ出した、ひとりの人――ひとりの神――であった。来て見るがいい。ここに、1つの暗く陰鬱な園がある。その地面は真夜中の冷たい霜によって深々と冷え込んでいる。あの陰鬱な橄欖の木々の間に、ひとりの人が見える。その人が、身も世もなく呻き声を発しているのが聞こえる。聞くがいい。御使いたち。聞くがいい。人たち。そして驚くがいい。それは、《救い主》が魂の底から呻いているのである! 来て見るがいい。見よ、その額を! おゝ、天よ! 血の雫が、その御顔を流れ落ち、そのからだから吹き出している。毛穴という毛穴が開き、それが汗をかいている! だが、パンを得るために労苦する人間たちの汗ではない。天のために労苦するお方の汗である。――主は「血のしずくの汗を流した」*![ルカ22:44] それが、それなしでは罪の赦しがないという血の注ぎ出しである。このお方の跡をさらについて行くがいい。人々はこの方を、その祈りと苦悶の場から罰当たりな手で引きずり出し、ピラトの官邸へと連れていった。彼らは主を椅子に腰かけさせ、嘲弄した。なぶりものにするため紫の衣をその肩に打ちかけた。そして、主の額に注目するがいい。――彼らは、それに茨の冠をかぶらせていた。そして深紅の血糊の滴が主の頬を流れ落ちている! あなたがた、御使いたち! 血の滴が主の頬を流れ落ちている! しかし、一瞬その紫の衣を脇へ置いてみるがいい。主の背中は血を流している。告げよ、これを行なった悪鬼ども。彼らは革紐の鞭を振り上げる。そこからは、今なお、ぬらぬらとした血糊が滴っている。彼らは鞭で打ち、主の肉体を引き裂き、その御肩から血の川を流れ出させる! それが、それなしでは罪の赦しがないという血の注ぎ出しである。まだ終わりではない。彼らは主を追い立てて通りを急がせる。主を地面に突き転ばせる。主の御手と御足を直角に組み合わせた木材に釘付け、それを空中に掲げては、その軸受にぶちこむ。それが固体される。そしてそこに主は、神のキリストは吊り下げられる。その頭からも血、その御手からも血、その御足からも血! 人の知り得ぬ苦悶において、主はご自分のいのちを血によって流し出される。恐ろしい断末魔によって、主はご自分の魂を迸らせる。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」[マコ15:34]。そして、そこに見るがいい! 彼らは主のわき腹を突き刺す。すると血と水が流れ出す。これこそ血の注ぎ出しである。罪人たち、聖徒たち。これこそ、それなしはあなたにとって、また全人類にとって、いかなる赦しもないという、すさまじい血の注ぎ出し、恐ろしい血の流出である。

 こういうわけで、私は本日の聖句の意味をそれなりに明らかにした。血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのである。さて私は、この聖句について、もう少し具体的に詳しく語っていこう。

 なぜこの話によって人々は涙しないのだろうか? 話し方が悪いのだ、とあなたは云うであろう。左様。確かにそうである。その責めは全く受けよう。しかし、方々。たといその話が人間に語りうる限り最悪の話し方でなされたとしても、私たちは、心がしかるべき状態にあったとしたら、自分のいのちを悲しみのうちに流し出しているはずである。おゝ! それは戦慄すべき殺人であった! それは国王殺しの行為ではなかった。兄弟殺しの行ないでも、親殺しの行ないでもなかった。それは――何と云うべきだろうか?――私は言葉を1つ作らなくてはならない。――神殺しであった。神を殺すことであった。私たちの罪のために受肉されたお方を打ち殺すことであった。おゝ! もし私たちの心が鉄ほどにも柔らかかったとしたら、私たちは泣くに違いない。山から切り出された大理石ほどにもやんわりしていたとしたら、嘆きの大粒の涙を流していたはずである。だが、私たちの心は臼の下石ほどに硬い。私たちは、この屈辱的な死を忍ばれたお方の嘆きを忘れ、このお方の悲しみをあわれまず、私たちがこの方においてあずかっている恩恵を、この方がみな私たちのために苦しみ、成し遂げてくださったものとは考えない。それにもかかわらず、ここにその原理は立っている。――「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」。

 さて、私が見るに、ここには2つのことが含まれていると思う。第一に、1つの否定的真理が表明されている。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」。それからそこには、1つの肯定的真理が暗示されている。確かに、血を注ぎ出すことがあれば、罪の赦しはあるのである。

 I. 第一に私が云いたいのは、ここには《1つの否定的表現》がある、ということである。――血を注ぎ出すことがなければ――イエス・キリストの血がなければ――罪の赦しはない。これは天来の権威から出たことである。私が、この言葉を口から発するとき、私は神の威徳によってそう主張しているのである。これは、あなたが疑っても信じてもかまわないことではない。これは、信じられなくてはならない。受け入れられなくてはならない。さもなければ、あなたは聖書を否定し、神から背き去っているのである。ことによると、私が述べるいくつかの真理の中には、私自身の理論付けや推論のほか、ほとんど何の健全な根拠も有していないものがあるかもしれない。それは、大した価値がないものである。だが、このことを私が発するとき、私は、その主張の裏付けとして、神のことばをあれこれ引用するつもりはない。これは、神ご自分の口から出たこととして述べているのである。ここに、それは大きな文字で直立している。「罪の赦しはない」。この権威は、それほど天来のものである。ことによると、あなたはそれに反抗するかもしれない。だが覚えておくがいい。あなたの反抗は私に対するものではなく、神に対するものである。もしあなたがたの中のだれかがこの真理を拒絶するとしたら、私は論争しない。私が、人々と議論するために神の福音を宣言することから脇にそれるようなことは決してあってはならない。私には、いま申し立てるべき、変えることのできない神の法令がある。ここにそれは立っている。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」。あなたは説教者が口にする多くのことを信じても、信じなくてもよい。だが、これを信じなければあなたの魂を賭けることになる。これは神の発言である。あなたは神に面と向かって、自分はそれを信じない、と告げようというのだろうか? それは不敬である。この否定的真理は、その権威において天来のものである。これに屈服するがいい。そして、その厳粛な警告を受け入れるがいい。

 しかし、ある人々は云うであろう。血の注ぎ出しによって人々を救うという神の方法は残酷な道、不正な道、非人情な道である、と。そして彼らはそれについて、ありとあらゆる文句を並べ立てるであろう。方々。私はこの件について、あなたの意見など全く相手にしない。そうである。もしあなたが自分の《造り主》に難癖をつけたければ、最後に徹底的に戦うがいい。しかし、手袋を叩きつけて挑戦する前に、用心するがいい。虫けらが自分の《造り主》と戦うとき、それは彼にとって不利なことになるであろうし、あなたが神と争うとき、それはあなたに不利であろう。贖罪の教理は正しく理解され、正確に受け入れられるとき、非常に喜ばしいものである。それは無窮の愛と、測り知れないいつくしみと、無限のまことを明らかに示すからである。だが、不信者にとって、それは常に憎むべき教理であろう。そのようにならざるをえない。方々。あなたは自分のあわれみを憎んでいる。あなた自身の救いを蔑んでいる。私はわざわざあなたと議論しはすまい。私はそれを神の御名によって確言する。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」。

 そして、いかにこれが断固たる性格をしているかに注意するがいい。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」。「しかし、先生。私は自分の悔い改めによって自分の罪を赦されることはできないのですか? もし私が泣けば、嘆願すれば、祈れば、神は私の涙のゆえに私を赦してくださるではないでしょうか?」 「罪の赦しはない」、とこの聖句は云う。「血を注ぎ出すことがなければ」。「しかし、先生。もし私が二度と罪を犯さず、もし私が他の人々よりも熱心に神にお仕えするなら、神は私の従順のゆえに私を赦してくださるではないでしょうか?」 「罪の赦しはない」、とこの聖句は云う。「血を注ぎ出すことがなければ」。「しかし、先生。私は神があわれみ深いお方であると信頼できないでしょうか? そして、血を注ぎ出すことがなくとも、私を赦してくださるではないでしょうか?」 「否」、とこの聖句は云う。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」。いかなる罪の赦しも決してない。これは他のあらゆる希望を断ち切る。あなたの希望をここに持ち出すがいい。だが、もしそれが血に基づいたものでも、血の刻印を押されたものでもないとしたら、それは砂上の楼閣、宵の夢のように全く何の役にも立たない。「罪の赦しはない」、とこの聖句は、きっぱりと平易な言葉で云う。だがしかし、人々は他の五十もの方法で罪の赦しを得ようと試み続け、いかに特別に嘆願しても何にもならず、ただ私たちをうんざりさせるしかないであろう。方々。したいことをするがいい。好きなことを云うがいい。だが、あなたは最善を尽くしたときも、始めたときと全く変わらず、罪の赦しからは遠く離れたままであろう。唯一の望みは、あなたが私たちの《救い主》の血に、また血の注ぎ出しだけに信頼を置くことにしかない。それなしに、罪の赦しはないからである。

 また、いかにこれが普遍的な性格をしているかに注意するがいい。「何と! 血を注ぎ出すことがなければ、余は罪の赦しを得られないというのか?」、と国王が云う。そして、彼は頭上に王冠を戴いたまま、やって来る。「余は、一分の隙もなく王服に身を固め、この豊かな身代金をかかえている余は、血を注ぎ出すことがなくとも、赦罪を受けられるのではないか?」 「否」、が答えである。「否」。すぐさま、賢者がやって来る。自分の名前の後にいくつもの肩書きをつけた学者である。「私は、私の学識を示す、こうした赫々たる学位のゆえに、罪の赦しを得られないのだろうか?」 「否。絶対に否」。そこへ慈悲深い人がやって来る。――「私は、自分の富を貧者に惜しみなく分け与え、彼らを養うために寛大を尽くしてきました。私は罪の赦しを得られるでしょうか?」 「否」、とこの聖句は云う。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」。これがいかに万人を同一水準に置くことか! 閣下、あなたは、ご自分の御者よりも全然偉くはない。地主殿、あなたは畑を耕しているジョンよりも全然恵まれてはいない。教役者よ、あなたの職務はあなたに何の免除特権も与えてくれない。――あなたの話を聞いている最低の貧民も、全く同じ立場に立っている。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」。血を注ぎ出すことがなければ、最善の人間にとってのいかなる希望も、最悪の人間にとっての希望よりも、これっぽっちもましではない。おゝ! 私は福音を愛する。その理由は数あるが、中でも、これがこのように平等化する福音だからである。一部の人々は平等化する福音を好まない。私も、ある意味においてはその言葉を好まない。人は、そうしたければ、身分や、肩書きや、富を自分のものとしておくがいい。だが、私が好むのは、また、あらゆる善良な人が好むと私が思うのは、富者も貧者もともに会い、自分たちが同一の水準に立っていると感じることであろう。福音が両者をそうしているのである。それはこう云う。「あなたの金袋は片づけるがいい。それであなたの罪の赦しを手に入れることはできない。あなたの学位免状を丸めるがいい。それではあなたの罪の赦しは得られない。あなたの農園や庭園など忘れるがいい。それらはあなたに罪の赦しを得させない。その紋章入りの盾も覆ってしまうがいい。その家紋はあなたに罪の赦しを得させない。さあ、あなたがた、ぼろぼろの乞食たち。この世の不潔なかすたち。一文無したち。ここへ来るがいい。ここには、あなたのための罪の赦しもふんだんにある。あなたがたは育ちも悪く、作法もなってはいないが、高貴な出の、栄誉ある人々、立派な称号のある、富んだ人々に劣りなく罪の赦しを受けることができる。万人が、ここでは同じ水準に立っている。この聖句は普遍的である。『血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです』」。

 さらに注目したいのは、いかに本日の聖句が永続的なものかということである。パウロは、「罪の赦しはない」、と云った。私も、同じ証言を繰り返さなくてはならない。今から何千年もの歳月が過ぎ去った後でさえ、どこかの教役者がこの場所に立って、同じことを云えるであろう。このことは決して全く変更されないであろう。これは常に変わらずそうあるであろう。現世においてのみならず、来世においてもそうであろう。血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない。「おゝ! そうではありません、あります」、とだれかが云うであろう。「司祭が1シリング受け取れば、魂を煉獄から外に出してやるのです」。それは単なる虚偽にすぎない。魂は決して煉獄にいるのではない。血を注ぎ出すことがなければ、真の罪の赦しはない。なだめの供え物の血がなければ、物語や空想はあるであろうが、真の罪の赦しは決してない。たといあなたが体を壊すほど祈りを積んでも決してない。涙におぼれるほど泣いても決してない。心の琴線が振り絞られて断ち切れるほど呻こうが叫ぼうが、決してない。キリストの血による贖い以外のいかなる根拠に立とうと、罪の赦しを手に入れることは、現世においてであれ来世においてであれ、決してありえないし、そのいけにえを信じる信仰によらずに良心がきよめられることは決してない。愛する方々。事実はこうである。父なる神を満足させたもの以下の何かであなたの心を満足させても何の役にも立たない。血を注ぎ出すことがなければ、何物も神の正義をなだめることはない。そして、それと同じ血を適用することがなければ、何物もあなたの良心をきよめることはありえない。

 II. しかし、血を注ぎ出すことがなければ罪の赦しがないという以上、《それがあるなら罪の赦しはあることが暗示されている》。よく聞くがいい。この罪の赦しは現在の事実なのである。血はすでに流されており、罪の赦しはすでに獲得されている。私はあなたをゲツセマネの園とカルバリ山に連れて行き、その血の注ぎ出しを見せた。いま私はあなたを別の園、別の山に案内し、この罪の赦しの壮大な証拠を示せるであろう。別の園? しかり。それは、多くの心喜ばせる、否、勝利に満ちたとさえ云える回想に満ちた園である。この忙しい世の出入りする場所とは別に、その園の中には1つの新しい墓所がある。アリマタヤのヨセフが、自分のあわれなからだがじきに横たえられることになると思っていた、岩を掘って造った墓[マコ15:46]である。しかし、そこに人々は十字架刑の後でイエスを横たえた。

 主はご自分の民のための代理人として立たれた。そして律法は主の血を要求した。死は主をがっちりとつかみ、その墓は、主が良い牧者として羊のためにいのちを捨てた後で[ヨハ10:11]、いわば主を監禁した地下牢であった。何と、そのとき、私がその園の中に見ているのは、ぽっかりと開いた、無人の墓ではないか。負債は支払われた。もろもろの罪は棒引きにされた。罪の赦しは獲得されている。いかにして、とあなたは思うだろうか? かの偉大な、羊の《牧者》は、永遠の契約の血によって、死者の中からよみがえらされた。そしてこのお方において、私たちも、このお方の血による贖いを獲得しているのである。愛する方々。そこに第一の証拠がある。

 あなたは、さらなる証拠を求めるだろうか? 私はあなたをオリーブ山に連れて行こう。あなたは、そこでイエスが、古の大祭司のように両手を上げてご自分の民を祝福している姿を目にするであろう。そして、彼らを祝福しながら、主は天に昇って行かれ、雲に包まれて、見えなくなられた[ルカ24:51; 使1:9]。しかし、なぜ、とあなたは問うであろう。おゝ、なぜ彼はこのように昇天したのか、そして、どこへ行ったのか? 見よ、主は、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られた。そこで私たちのために神の御前に現われてくださるためである[ヘブ9:24]。それゆえ、私たちは今、キリストの血によって大胆に近づくことができるのである。おゝ、信仰者よ。ここにはあなたのために、何という慰めの源泉があることか。

 そして今、まだ信じていない人々に対して、この血の注ぎ出しによる罪の赦しを勧めさせてほしい。偉大なスコットランド人教役者であるイニス氏は、あるとき死にかかっているひとりの不信心者を訪問した。最初に彼のもとにやって来たとき、彼は云った。「イニス先生。私は神のあわれみにより頼んでいます。神はあわれみ深いお方です。決して人を永遠に罪に定めたりしません」。彼の病状が悪化し、死に近づいたとき、イニス氏が再び彼のもとへ行くと、彼は云った。「おゝ! イニス先生、私の希望はなくなってしまいました。私は、神があわれみ深い方だとしても、正しいお方でもあると考えたからです。そして、もし神が、私に対してあわれみ深くある代わりに、私に対して正しくあられるとしたらどうなるでしょう? そのとき私はどうなるでしょう? 私は、単なる神のあわれみに希望をかけることはやめなくてはなりません。救われるにはどうすればいいのでしょうか?」 イニス氏は、キリストが信ずるすべての者の代わりに死なれたことを彼に告げた。――神が義でありながら、イエスの死によって義と認めることがおできになったことを告げた。「あゝ!」、と彼は云った。「イニス先生。そこには、しっかりしたものがあります。私は、それにならより頼むことができます。それ以外の何にもより頼めません」。そして、尋常ならざる事実であるが、私たちが出会ったことのある人々の中のだれひとりとして、キリストの血によって罪を赦されていない限り、自分のもろもろの罪が赦されたとは考えていなかったのである。イスラム教徒と会ってみるがいい。彼は決して自分の罪を赦されてはいない。彼はそう云うことがない。不信心者と会ってみるがいい。彼は決して、自分の罪が赦されていることを知らない。律法主義者と会ってみるがいい。彼は云う。「私は自分の罪が赦されるだろうと希望します」。だが彼はそれが赦されているというふりはしない。このことを離れて、いかなる人も、希望の幻想すら得ることはないのである。すなわち、キリストが、キリストだけが、ご自分の血の注ぎ出しによって救わなくてはならないのである。

 いかにキリストが魂をお救いになるのかを示す話を1つさせてほしい。ホイットフィールド氏には、彼によく似たひとりの兄弟がいた。彼は熱心なキリスト者であったが、信仰後退者となってしまった。そして敬虔の道からはるかに遠ざかっていた。ある日の午後、その信仰後退から回復していた彼は、とある会堂として用いられていた家の一室に座っていた。彼は自分の兄弟が前日に行なった説教を聞き、そのあわれな良心を骨の髄まで切り裂かれていた。ホイットフィールドの兄弟は、お茶のときに、「私は失われた人間だ」、と云い、呻き声をあげて泣き出した。そして飲み食いができなくなった。向かい側に座っていたハンティングドン夫人は、「ホイットフィールドさん、いま何と仰いました?」、と云った。「奥様」、と彼は云った。「私は失われた人間だ、と云ったのです」。「それは結構なことですわ」、と彼女は云った。「たいへんに結構なこと」。「あなた様は、どうしてそんなことが云えるんです? 私が失われた人間だというのを喜ぶなんて残酷じゃありませんか」。「もう一度云いますわ」、と彼女は云った。「私は心から結構なことだと思いますわ」。彼は彼女を見つめた。彼女の残酷さにますます驚かされたのである。「それが結構なことだと申しますのは」、と彼女は云った。「こう書いてあるからですわ。『人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです』[ルカ19:10]」。流れ落ちる涙で頬をぬらしながら、彼は云った。「何とありがたい聖句でしょう。そして、どうしてそれがこれほど力強く私のもとにやって来るのでしょう? おゝ! 奥様」、と彼は云った。「奥様。私はそれがゆえに神をほめたたえます。ならば、神は私を救ってくださるでしょう。私は私の魂が神の御手のうちにあると信頼します。神は私を赦してくださったのです」。彼はその家を出たところで気分が悪くなり、地面に倒れると、息絶えてしまった。今朝、この場には失われた人間がいるかもしれない。善良な人々よ。私に多くのことは云えないので、あなたのことは放っておこう。あなたには何も必要あるまい。

 この場には、失われた人がいるだろうか? 失われた男よ! 失われた女よ! あなたはどこにいるのか? あなたは自分が失われていると感じているだろうか? それは結構なことだと思う。血の注ぎ出しによる罪の赦しがあるからである。おゝ、罪人よ。あなたの目には涙が浮かんでいるだろうか? それ越しに見るがいい。あなたは、かの園にいるお方が見えるだろうか? そのお方はあなたのために血の汗を流しておられるのである。あなたは、十字架上のその方が見えるだろうか? そのお方は、あなたのためにそこに釘づけられたのである。おゝ! もし私が今朝あなたがた全員のために十字架上に釘づけられるようなことがあるとしたら、あなたが何をするかはわかる。あなたは地にひれ伏して、私の足に口づけし、私があなたに代わって死ななくてはならないことに涙するであろう。しかし、罪人よ。失われた罪人よ。イエスはあなたのために死なれたのである。――あなたのために。そして、主があなたのために死なれたからには、あなたが失われることはありえない。キリストは、いかなる者のためにも無駄死にはなさらなかった。ならば、あなたは罪人だろうか? あなたは、自分がキリストを信じていないがゆえに、罪を確信しているだろうか? 私には、あなたに対して説教する権威がある。主の御名を信じるがいい。そうすれば、あなたが失われることはありえない。あなたは自分が罪人ではないと云うだろうか? ならば私は、キリストがあなたのために死んだかどうかわからない。あなたは、自分には悔い改めるような何の罪もないと云うだろうか? ならば私は、あなたに宣べ伝えるべき何のキリストも有していない。主は正しい人を救うために来たのではない。主は悪人を救うために来られた。あなたは悪人だろうか? そう感じているだろうか? あなたは失われているだろうか? それがわかっているだろうか? あなたは罪深い者だろうか? それを告白するだろうか? 罪人よ! もしイエスが今朝この場におられたとしたら、主はその血を流す御手を差し延べて、こう仰せになるであろう。「罪人よ。わたしはあなたのために死んだのです。あなたは、わたしを信じますか?」 主は現身をもってはこの場におられない。だが主はそのしもべを遣わして、あなたに告げさせておられる。どうか主を信じてほしい。「おゝ!」 だが、あなたは云うであろう。「私はひどい罪人なのです」。「あゝ!」、と主は云われる。「まさにそれこそ、わたしがあなたのために死んだ理由です。あなたが罪人なればこそ」。「ですが」、とあなたは云う。「私にそんな値打ちはありません」。「あゝ!」、と主は云われる。「だからこそ、わたしは死んだのです」。あなたは云うであろう。「私は主を憎んでいました」。「しかし」、と主は云われる。「わたしは常にあなたを愛していました」。「ですが、主よ。私はあなたにお仕えする教役者たちにつばを吐きかけました。あなたのおことばをあざ笑いました」。「それはみな赦されています」、と主は云われる。「みな、わたしのわき腹から流れ出た血によって洗い流されています。ただ、わたしを信じなさい。わたしは、それしか求めません。そして、それも、わたしがあなたに授けましょう。わたしがあなたを助けて信じさせましょう」。「あゝ!」、とある人は云うであろう。「ですが私には《救い主》など必要ありません」。方々。私があなたに云えることは1つしかない。――「必ず来る御怒り! 必ず来る御怒り!」 しかし、こう云う人もいるであろう。「先生。まさか本気でそう云っているのではないでしょう! あなたは、この場所にいる極悪人の男や女に向かって本気でそう告げているのですか?」 私は本気である。そこに彼女がいる! 彼女は遊女である。多くの人を罪に引き込んできたし、多くの人を地獄に至らせてきた。そこに彼女がいる。彼女自身の友人たちも、彼女を部屋から追い出してきた。彼女の父親は彼女をろくでなしのあばずれ女と呼び、二度とこの家の敷居をまたぐなと云った。婦人よ! あなたは悔い改めるだろうか? 自分に咎があると感じているだろうか? キリストはあなたを救うために死なれた。そして、あなたは救われるであろう。そこに彼がいる。私には見える。彼は酔っ払っている。これまでも、何度となく酔っ払ってきた。ほんの先だっての夜も、彼の声が町通りから聞こえてきた。土曜日の深夜に自宅に帰るときの彼は、近所中に耳障りな声をあげている。それから彼は自分の細君を殴りもする。彼は安息日を破ってきた。御名を汚す悪態について云うと、もし悪罵が煤だったとしたら、彼ののどには徹底的な掃除が必要に違いない。彼はしばしば神を呪ってきたからである。話をお聞きの方々。あなたは自分に咎があると感じているだろうか? 自分のもろもろの罪を憎んでいるだろうか? それらを捨てたいと望んでいるだろうか? ならば私は、あなたのことで神をほめたたえる。キリストはあなたのために死なれたのだ。信ぜよ! 私は数日前に、ひとりの青年から手紙を一通受け取った。先週、私がある町に行くと聞き込んだ彼は、こう云っていた。「先生。こちらにおいでになるときには、私にあてはまるような説教をしていただけないでしょうか。というのも、ご存じでしょうか、先生。私が聞かされてきたところ、私たちは自分が世界一邪悪な人間だと考えなくてはならない、さもないと決して救われないというのです。私はそう考えたいと思うのですが、それができません。私は救われたいと思うのですが、どうすれば十分なだけ悔い改められるのかわからないのです」。さて、もし私が彼の前に出る栄に浴したとしたら、私は彼にこう告げるであろう。神は決して、人が自分のことを世界一邪悪な人間であると思うことを要求してはいない、と。なぜなら、それは時として嘘を考えることになるからである。世の中には他の人ほどは邪悪でない人たちがいる。神が要求しておられるのは、人がこう云うことである。「私は、他の人々についてよりも、自分についてよく知っています。私は彼らについてはほとんど何も知りませんが、私が自分自身について見てとっているところ、――自分の行動ではなく、自分の心について見てとっているところ、――私は、自分ほど悪い人間はほとんどありえないのではないかと思います。彼らは表立ってはずっと咎があるかもしれませんが、その一方で私はより多くの光、より多くの特権、より多くの機会、より多くの警告を有してきたのです。ですから、私はずっと咎が重いのです」。私はあなたが自分の兄弟を自分とともに連れてきて、「私は兄よりもずっと悪人です」、と云ってほしいとは思わない。私はあなたがひとりで出てきて、「父よ。私は罪を犯しました」、と云ってほしいと思う。あなたは、あなたの兄ウィリアムとは何の関係もない。彼の罪があなたよりも多いか少ないかなどどうでもよい。あなたは、「父よ。私は罪を犯しました」、と叫ぶべきである。あなたは、あなたの従姉妹のジェーンとは何の関係もない。彼女の反逆の罪があなたよりも大きいか小さいかなどどうでもよい。あなたのなすべきことは、「主よ。こんな罪人の私をあわれんでください!」、と叫ぶことである。それだけである。あなたは自分が失われていると感じているだろうか? もう一度、私は云う。――

   「来て、迎(い)れられよ。罪人よ、来よ!」

 しめくくりに云うが、この場にいて、自分が失われていること、滅びていることを知っている罪人のうち、自分のあらゆる罪が赦され、「神の栄光を望んで大いに喜ぶ」*[ロマ5:2]ことができない者は、ただのひとりもいない。あなたは、たとい地獄のようにどす黒くとも、今この瞬間に、天国のように白くなることができる。私も、死に物狂いの葛藤によらなくては、信仰が約束をつかめないことは知っている。だが、罪人が信ずるその瞬間に、その争闘は過ぎ去るのである。これが、その人の最初の勝利であり、ほむべき勝利である。この聖句をあなたの心の言葉とするがいい。それを受け入れ、自分のものとするがいい。

   「咎あり、弱く、甲斐なき虫けら、
    われは優しき 御手に身を投ぐ。
    主こそわが身の 力にして義、
    わがイエスにて わがすべて」。

  

 

血の注ぎ出し[了]

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